--- 04_asa.txt 2008-01-27 21:36:26.000000000 +0900 +++ 04_asa.txt.new 2008-09-08 12:43:49.000000000 +0900 @@ -481,5 +481,5 @@  彼女と別れてから、彼は家に帰らなかった。帰っても眠れなかったろう。彼は町の外に出て、野を横切って歩いた。夜中を当《あて》もなく歩き回った。空気はさわやかで、野は暗く寂しかった。梟《ふくろう》が寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄《ぶどう》畑の中にある丘に上った。町の小さな灯《ひ》が平野の中に震えていて、星が暗い空に震えていた。彼は路傍の土壁に腰掛けた。にわかに涙がほとばしった。なぜだかみずからわからなかった。彼はあまりにも幸福だった。その過度の喜びは、悲しみと嬉《うれ》しさとでできていた。その中に彼は、自分の幸福にたいする感謝を、仕合わせでない人々にたいする憐れみを、事物の無常さから来るもの悲しい甘い感情を、生きることの酣酔《かんすい》を、交えていた。彼は楽しく涙を流した。涙のうちに眠っていった。眼を覚《さま》すと、ほのかな曙《あけぼの》になっていた。白い霧が河の上にたなびき、町を包んでいた。そこにはミンナが、幸福の笑みに心を輝かしながら、疲れに負けて眠っていた。 - 朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。破女は鷹揚《おうよう》なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《むとんじゃく》だと自分で考えていた。そして実際無頓着だった。金に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《みなり》に心を配りだした。滑稽《こっけい》だった。口のきき方にも注意しだした。気障《きざ》だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。 + 朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。彼女は鷹揚《おうよう》なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《むとんじゃく》だと自分で考えていた。そして実際無頓着だった。金に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《みなり》に心を配りだした。滑稽《こっけい》だった。口のきき方にも注意しだした。気障《きざ》だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。  しかし二人には、えもいえぬ詩的な瞬間があった。やや蒼《あお》ざめた日々のさなかに、霧を通して日の光がさすように、その瞬間が突然輝き出すのであった。それはある眼付や身振りや言葉の瞬間で、なんの意味もないものではあるが、二人を幸福のうちに包み込むのだった。晩に薄暗い階段のところでかわす「さよなら」、薄暗がりでたがいに求め合いたがいに察し合う眼付、触れ合う手の戦《おのの》き、声の震え、すべてつまらないことばかりだった。しかし夜になって、時計の鳴る音にも眼を覚ますような軽い眠りに入っている時、小川のささやきのように「私は愛されてる」と心が歌っている時、二人にはそれらの思い出が浮かんでくるのであった。  二人は事物の魅力を見出した。春は無上の楽しさをもって微笑《ほほえ》んでいた。彼らが今まで知らなかったほどの、輝きが空にはあり、やさしみが空気にはこもっていた。町じゅうが、赤い屋根も、白い壁も、凸凹《でこぼこ》の舗石も、親しい魅力を帯びて、クリストフはそれに心を動かされた。夜、人の寝静まっている時、ミンナは寝床から起き上がり、半ば眠り心地で心を躍《おど》らせながら、長く窓にもたれていた。午後、彼がいない時には、彼女はブランコに腰をかけ、書物を膝に置き、眼を半ば閉じ、快い懶《ものう》さにうっとりとし、身も心も春の空気中に漂うような心地がして、夢想に耽っていた。今や彼女はいく時間もピアノについていて、他人の目にはたまらないほどの気長さで和音や楽節をくり返してひき、それに感動して顔色を失い冷たくなっていた。シューマンの音楽を聞くと涙を流した。万人にたいする憐れみと親切とで心がいっぱいになってる気がしていた。そして彼もまた彼女と同じ心地であった。二人は貧しい者に出会うと、ひそかに施与をして、同情にたえない眼付をたがいにかわした。親切にしてやるのが嬉しかった。