拓本の話
拓本の話 たくほんのはなし
著者:会津八一 あいづ やいち,1881-1956(明治14.8.1-昭和31.11.21)
出身:新潟県新潟市 Wikipedia
底本:『日本の名随筆27 墨』篠田桃紅(編)1985.1. 作品社 /258p ; 19cm
初出:
NDC分類:728,914 青空文庫版
aozora blog つくも版 by シン弐くん
2007.1.11
しだひろし/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
拓本の話
会津八一
わたしは拓本のお話をしよう。
支那では昔からすべて文字で書いたものを大切にするが、だれが書いたところで相当に年月がたてばみんな消えてしまう。紙でも、絹でも、木でも、——名人が書けば木の中へ何寸も深く字が食い込むなどと昔からいうことであるけれども、その木からが千年もたてば磨滅もする風化もする。なくなってみればもちろん紀念にもならないし、習字の手本にもならない。そこで金属や石というような堅いものに刻りつけて、いつまでも保存するようにすることが、もうずいぶん古くからおこなわれている。殷や周の銅器の刻文、秦の玉版や石刻の文字、漢魏の碑碣などがそれだ。みな千年万年の後へのこすつもりで作られたものだ。その文字のあるところへ紙をのせて、そのうえから油墨で刷ったものが俗にいう石刷すなわち拓本で、もとより古をとうとび、文字を大切にする支那のことであるから、この石刷をも、原本の実物のように大切にする。こうして拓本を作って珍重することも支那ではずいぶん古くからやっていることで、今日にのこっているのではまず古いところでは唐時代のものであろう。それ以後五代拓、宋拓、元拓、明拓というようなわけで、もちろん古いほど尊ばれる。というのは、いかに石でも金でも、年月がたてばやはりいたむ。あるいは風雨にさらされたり、あるいは野火や山火事にこがされたり、あるいは落雷でくだかれたり、あるいはまたそんなことがなくとも、あまりしばしば拓本をとったために石が磨滅してしまうということはめずらしくないからである。つまり古いほど完全に近い。したがって古いほど貴いということになる。同じ碑の拓本でも、一枚は人が愛馬を売っても宝剣を質にいれても手にいれなければならぬと騒ぐのに、他の一枚はただでもらってもほしくないというような話も出てくる。漢の時代にたてられた西岳崋山廟の碑は、実物はいまはなくなってしまっているのであるが、明時代に取った拓本が一、二枚今日までのこっている。これなどはただ拓本による存在である。この西岳崋山廟の拓本を二、三年前にある支那人が日本へ売りにきたことがあるが、なんでも一枚三万五千円という値段であった。その時に魏の三体石経の拓本ももってきた。この石経は遠からぬ昔に土中からほりだしたものであるが、後にまもなくくだけてしまった。そこでくだけないさきの拓本であるというので一枚二千円と号していた。
これまでおはなしてきただけでは、なんだか支那趣味の骨董談のように聞こえるかもしれぬが、それこそ心外千万である。なるほど支那人が文字を大切にする態度には宗教がかったところもあって、われわれとしてはいちいち支那人のとおりというわけにもいくまいが、とにかく古人が文字で書いて遺したものは美術であり、文学であり、同時にまた史料である。美術という熟語からが、ファインアートという英語の明治初年の直訳であるように、今日美術を論じている人びとは、いつも西洋流の美学や、美術論や、美術史に頭がひっぱられているから、今のところではよほど偉い人でないかぎりは、東洋の美術というものに理解が薄い。ことに文字が東洋の美術の中でしめているほとんど最高の地位については、まるで無理解な人が多い。けれどもこれも東洋人が今すこしおちついて物を考える時がくるとともにしだいに理解せられる時がくるとわたしは信じているのであるが、支那人の大切にする古代の文字の拓本は、すなわち歴代の東洋美術の遺品であると考えなおしてみてもらいたい。これだけのことは、文字の拓本の美術的価値について、とりあえず申し述べてみたのであるが、なるほど東洋で珍重された拓本は、これまでは、むしろ文字のあるものにかたよりすぎていたかもしれなかった。しかし近頃は大同とか、天竜山とか、竜門とか、あるいは朝鮮や日本内地の石仏、またはそのほかの造型美術の拓本を作ることがおこなわれてきて、それがわが国の現代の学者、美術家、ことに新興の画家、彫刻家に強い刺激をあたえていることは、めざましい事実である。それからまた、漢魏六朝から唐宋におよぶ幾千の墓碑や墓誌の文章はその時代々々の精神や様式をみなぎらした文学であり、同時にまた正史以上に正確な史料的価値をふくんでいることをよく考えてみなければならない。こんな事を私が今事あたらしくのべたてるまでもなく、いやしくも今日まじめに学問をやっている人の間に、拓本の功果をうたがっている者はないくらいの趨勢にはなっているのであって、わたしの友人のある学者は拓本することと、写真を撮ることと、スケッチをすることのできぬ者は考古学や歴史を研究する資格が欠けていると、京都大学の学生に教えているそうであるが、これは私もぜんぜん同感である。写真が立体的におくゆきをも写すのに対して、拓本の平面的なことはひとつの短所であろうが、写真が実物より小さくなるばあいが多いのに、拓本はいつも実物大で、しかも実物とわずかに濡れ紙一重をへだてたばかりの親しみのふかい印象を留めている。拓本が持つこの強い連想はとうてい写真のくわだておよびぶところでない。
話が前へもどってくりかえすようになるけれども、日本の金石文の拓本のことについていってみても、正史であるところの日本書紀の記載にまちがいのあることが、法隆寺金堂の釈迦像の銘文や薬師寺の東塔の※[#「木+察」、第4水準2-15-66]の銘文から知られてきたというようなことは、今となってはだれも知る事であるが、ここにひとつおもしろい例がある。それはわたしは今、昔奈良の東大寺にあった二つの唐櫃の銘文の拓本を持っているが、その櫃のひとつはいまは御物となって正倉院にあるが、他の一方はもう実物はこの世の中から失われたものとみえて、正倉院にもどこにもありはしない。ところがその失われた唐櫃の銘文の拓本がわたしのところにあるというわけだ。すなわちその唐櫃は天にも地にもただ一枚のこの拓本によってのみわずかに存在をつづけている。そしてその銘文によって、わたしは、これまでこれらの唐櫃に帰せられた製作の時代について、一般学者の推定がじつに五、六百年もまちがっていたことも断定し得るのである。じつはこの唐櫃はほんらいは二つだけのものでなく、四つあるべきもので、その一ともいうべきものがかつて大倉氏の集古館におさめられてあったが、あの大震災のために焼けてしまった。ほかのいまひとつの唐櫃こそは、長へに失われてまったく行く所を知らないのであるが、なにかの機会に、なにかの僥幸で、せめてその銘文の拓本でも手にいれるようなことがあり得たならば、われわれの史的研究、ことに東大寺の研究に対して一大光明となるであろう。こう考えてくると拓本には万金の値ありというべきで、しかもその値たるや、だんじて骨董値段ではない。
そこでわたしは、わが早稲田学園でも、まず学生が拓本というものの必要をさとり、よくこの方法に親しみ、これをよく手にいれておいてもらいたい希望からわたしは、すくなからぬ犠牲をしのんで、昨年の十月は私が年来秘蔵していた奈良時代の美術に関する拓本の大部分を第一学院史学部の学生の手にゆだねて展覧会を開いてもらい、また十二月には第二学院の学術部の学生をわずらわして日本の古い寺院の瓦にもようの拓本五、六百種で、展覧会を開いてもらった。すると官私立大学や民間の専門学者研究者があいついでやってきて、参観者名簿に署名せられた。
そのうちにも東京博物館の高橋博士や、万葉学の井上博士のごときは、あるいは学生の分類を批評したりあるいは学生の成功を賞賛したりして帰られた。それから十二月に私が関西方面に旅行したときには、第二学院の学生の手になった瓦の拓本の絵ハガキに対して、京都大学の天沼博士がくわえられた真剣な批評を聞き、それから旅先で見た二つの雑誌『史学雑誌』と『民族』とに、これらのもよおしに対する賞賛的紹介を見た。つまり若い学生達のもよおしでも、こうした学界の専門家達のまじめな真剣な興味を喚起したことはあきらかで、これをもってみても、拓本の学界における価値を知るにじゅうぶんである。そこでわたしは、今年の四月には、さらに進んで、支那の漢から六朝時代までの書画の拓本をあつめてわが大学内で展覧会をひらき、今秋は朝鮮の拓本の展覧会を開いて、学生および世間の学者とともに研究の歩を進めてみたいと思っているのであるが、前回の経験からここにひとつわたしの不満に思うことがある。それは参観者のうちに、学園内のひとの方が学園外の人より比較的少なかった事である。どうか私の常にとなえてやまぬところの、学問の基礎を実際的に、すなわち実物の上におく学風、すなわちわたしのいう実学の態度が、わが学園を支配することの一日も速に実現せんことを祈る。
最後につけくわえていっておきたいのは、拓本の方法である。前回拓本展観会の宣伝ビラをほうぼうへ貼らせたときに、この拓本という字が読めない人、したがって意味のわからぬ人が学園の内外にずいぶん多かったようで、なかには会場にきて拓本そのものを見ても、まだその作り方などについてよくわからない人が多かったようだから、今簡単に方法を話してみれば、拓すべき石碑なら石碑の上に拓すべき紙をのせて、その上をすこし湿気のあるタオルで強く押さえつける。——あるいはあらかじめタオルをまいておいて、それを紙の上へ押しつけながら転がすほうが手際よく行くかもしれぬ、——すると圧力と湿気のために紙は石面の文字のあらゆるデコボコにまんべんなく食い込む。それからすこし時間をおいて、紙の湿気がすこし乾くのを見はかって、まんじゅうのようにふっくらとつくったタンポに、油墨か——これはその目的で作ったものを売っている——、またはただ墨汁をつけて紙の上を軽くたたけば、それで拓本ができる。こまかい事はじっさいの経験上自分で発明するのがなによりだ。これが紙を湿らして取る方法であるが、湿されない種類のものは、実物の上へ紙をよく押しつけて、支那製の雪花墨または日本製のつりがね墨というもので静かにそしてこまかにその上をなでまわせば乾いたままで拓本ができるが、西洋人はそのかわりに石墨などをもちいるようである。
拓本の趣味を語れという学報記者の注文に対して、わたしはむしろ拓本の実用と私自身の希望を語ってしまったが、拓本の紙の質が支那、朝鮮、日本、同じ支那でも地方々々でちがうことや、タンポの打ち方や墨の濃淡にしたがってあらわるるいろいろの趣味や、平面だけしか取れぬはずの拓本に全形をおもわせる工夫のあることや、模本ニセ本の多いこと、その見わけ方、拓した時代の見わけ方、あるいはまた自分で拓本を取っている時に低く続くタンポの音にともなっておこってくるところのなんともいいがたい微妙な快感や、およそそれこそほんとに拓本の趣味のことは、いずれまたひまな時におはなしをする機会があるでしょう。
底本:「日本の名随筆27 墨」作品社
1985(昭和60)年1月25日第1刷発行
1997(平成9)年5月20日第17刷発行
底本の親本:「会津八一全集 第一一巻」中央公論社
1982(昭和57)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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★この文章を書いた人→PoorBook G3'99★こんな時間に→2007年01月11日 21:34
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