一片の石
Wiiで青空文庫を見る

2007年01月09日

 菊の根分をしながら

aozora blog 版
菊の根分をしながら
会津八一


 昨日がいわゆる彼岸の中日でした。われわれのように田舎に住むものの生活が、これからはじまるという時です。私も東京の市中を離れたこの武蔵野の畑の最中に住んでいるから、今日は庭のすみにかたよせてある菊の鉢をとりだして、この秋を楽しむために菊の根分をしようとしているところです。じつはわたしはひさしいこと菊を作っているのであるが、この二、三年間は思うところあって試みにわざと手入れをしないでなげやりに作ってみた。いったい菊というものはその栽培法を調べてみると、あるいは菊作りの秘伝書とか植木屋の口伝とかいうものがいろいろとあって、なかなかめんどうなものです。これほどめんどうなものとすれば、とうていしろうとには作れないと思うほどやかましいものです。そしてこのいろいろな秘訣を守らなければ、存分に立派な菊が作られないということになっている。ところがわたしは昨年もおととしもあらゆる菊作りの法則を無視して作ってみた。たとえば春早く根わけをすること、植える土には濃厚な肥料を包含せしめなければならぬこと、鉢はなるべく大きなものをもちいること、五月、七月、九月の芽を摘まなければならぬこと、日あたりをよくすること、水は毎日一回ないし数回あたえなければならぬこと、秋になってまた肥料を追加し、雑草を除くことなどと、まだまだいろいろの心得があるのにもかかわらず、二、三年の間はわたしはまるでこれをやらなかった。根分もやらず、小さい鉢に植えたままで、土を取り替えもせず、芽もつまず、もちろん水も途絶えがちであった。いわばあらゆる虐待と薄遇とをあたえたのだ。それでも秋になると菊は菊らしくそれぞれにツボミが出て、キレイな色で、そうとうにやさしい花を見せてくれた。それで考えてみれば菊の栽培といっても絶対的に必須なものでもないらしい。手入れをすればもちろんよろしい。しかし手入れがなくとも咲く、植木屋などがよく文人作りなどと名をつけて売っているのは私などからみれば、いつもすこしできすぎていて、かえっておもしろくない。わたしの庭のすみにさいた菊の花の天然の美しさにより多く心がひかれぬでもない。

 ただし考えてみると、世間で観賞されている多数の植物の中では温室の中で一定の化学的成分をふくんだ肥料をほどこさなければ生長しないもの、湿度や温度を綿密にあんばいしなければできないもの、特別な光線をあたえなければならぬものとかいろいろなものがある。保護がなければすぐかれてしまう。こういう植物と、虐待、欠乏の中にあって、なお強い根強い力をふりおこしていつまでも生き長えて美しい花を開くわたしの庭の菊のごときものと比較してみると、無限の感慨が生ずるのである。これを人にたとえていうならば名望のある富貴の家に生まれて、健全な父母を保護者としてそだち、もとめ得ざるはなく、欲して遂げざるはなく、教育も思うままにうけられ、なにひとつ事を欠かぬという人もあろう。またそうとうに艱苦にも、欠乏にもたえていかなければならぬ人もあろう。いったい今の世の中には、放置せられていて、なお自分自身の根強い力をふりおこしてやがては美しい花をさかせるだけの意気ごみのある少年が多いであろうか。文化の進むにつれて、温室の中の植物のような人が、ようやく増加してくるのはまぬがれがたい傾向である。試みに田舎の少年と都会の少年とを比較すると、その間にももうこうした区別が認められる。世の中が複雑になって、文明の設備を利用することが多くなれば、みずから人間の性質が変化して天然の素質がいくぶんかずつ弱ったり失われたりしていくことも止を得ないかもしれないけれども、われわれはわれわれとしてもっとも大切なものを失ってはならぬ。それはわれわれの心の底によこたわっている根強い力である。
 今日のような日に縁側から外をながめて、暖かな太陽の光をあびて、大地の底や枯れたような老木の幹から、輝いたあざやかな芽がもえ出ているのを見る時に、わたしはその中になんともいわれない一種の力を感ずる。そして草木にもわれわれ人間にも天然にあたえられてあるこの力をかぎりなくたのもしく思わずにいられない。
 そもそもわれわれが生まれ出て勉強して世の中へ出て暮らしていくのは人に頼まれてのことではない。われわれ自身がもって生まれた力、これを自分の境遇に応じて、ときとしては境遇以上にも伸びるだけ伸ばしていくためである。われわれが貧困の家に生まれて欠乏の中に生長し、いかほどの苦学をかさねても、自分の心の底にこの力を見いだして進んでいかねばならぬ。それにつけては独立自恃の精神ほど大切なものはないのである。
 しかしわたしは今年は菊を作るのにこれまでとはまったく方針をかへて、根分も、採光も、肥料も、剪定も、灌水もできるだけの優遇をあたえて昨年よりはいっそう美しい花を見たいと思っている。独立自恃の精神のあるものは容易にほかの援助や庇護をこいねがわない。しかし援助をあたえて庇護をくわえらるべき第一の資格はこの独立自恃の精神の存在である。おととし以来菊が私に示した悲壮な態度、その元気のたのもしさに私も心から栽培をうながされるのである。同情や援助というものは求めてもむやみにあたえられるものではない。みだりにそういうものを求めざる人こそあたえらるべきであるのだ。
 それからまた、いよいよ菊の苗をわけようとするときに、いかなる苗を選ぶべきであろうか。もちろんわれわれはもっとも有望な苗を選ばなければならぬ。一株の古根からは幾十本となく若い芽がふきだしている。それが一様に生気にみちたもののようにみえる。しかし経験のある栽培家は思いもかけぬほど遠いところへ顔を出している芽をえらぶのである。親木のわきにある芽はどうしても弱い。よくよく自分の活力に自信のあるのが親木をたよらずに遠くまで行く、その意気を栽培家は壮なりとするのである。私も今年はもちろんそのつもりである。
 世にいい古された、「今日になりて菊作ろうと思いけり」という俳句、これはかくべつ文学的でもないかもしれぬが、秋をむかえてから他人のつくった菊の花を見て、うらやましく思ってながめる気持ちをよんだものでだれにも経験しそうな事であるだけに有名な句になっている。しかしこの句を修養的に味わってみようとする人は、秋になったらもう遅い。この句を誦みながら庭なり畑なりへ下り立って季節を失わずに、しかも自分で土いじりをはじめるならば、やがてはその花のごとく美しい将来が、そのひとの身のうえにも展開してくるであろう。
 わたしはさきにもいうように落合村の百姓で、歌人でもなんでもないけれども、今日はあまりに気候のここちよさに、歌のようなものがすこしばかりできた。それをここでご披露におよぶということにしよう。

さ庭べの菊の古根も打ちかえし分ち植うべき春は来にけり
菊植うと下り立つ庭の木の間ゆもたまたま遠きウグイスの声
取り持てばもろ手にあふれカゴにもればカゴにあふれたる菊の苗かも
十の指土にまみれて狭庭べに菊植うる日ぞ人な訪ひそね
今植うる菊の若草白妙に庭をうめて咲かずしもあらず
今植うる菊の草むら咲きいでて小蜂群れ飛ぶ秋の日をおもう
武蔵野の木ぬれをしげみ白菊の咲きて出づとも人知らめやも
武蔵野のかすめる中にしろ妙の富士の高根に入日さす見ゆ
(大正十二年三月二十三日談)
 
 
底本:「花の名随筆3 三月の花」作品社
   1999(平成11)年2月10日初版第1刷発行
底本の親本:「会津八一全集 第七巻」中央公論社
   1982(昭和57)年4月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

★この文章を書いた人→PoorBook G3'99★こんな時間に→2007年01月09日 23:53 ★トラックバック




 トラックバック
トラックバック用URL: