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正月も三日となれば、そろそろと寝正月に飽いてくるころ、ならばパソコンで世間をみようかと前に坐る。眼に入ってきたのは、門田氏の「鏡花は二度読むと面白い(かも)」。氏の解説とは違う鏡花の魅力を私が書いてみようと決心し、いざキーボードを打たん、ところがディスプレイは月も星も隠した闇夜、ええい!と思って画面を打つ真似をする。天罰と思うたか、いきなり今度は、両国あたりの花火大会の花火が出たかと思え、ぱっと現れたるは丸めがねの男が一人。闇夜にぬっと現れたその男、「おいおい」と画面の向こうから声をかける。正月にしては雪もなく、生ぬるい夜さり、何か化け物か何かのたたりかと、息そって椅子から転がりそうになる。そんな私を見て「かっかっか・・」と顎の外れる大笑い。そして「泉鏡花です」とはっきりと声をあげる。その声にきょとんとして、眼をこする。やはりディスプレイの中の男は、写真で見た鏡花先生、めがねの奥に鋭い光を放ち、那須の与一の扇を射る目でまっすぐと私を見さっしゃる。夢の中にいるのかと、頬をつねってみる、痛い。
私の背筋に冷たいものが走るか?いや、面白そうと、「な、何の用ですか、」と尋ねてみれば、「私の魅力とやらをしっかり書かっしゃい!あんたに書けるかねえ」と励まし半分疑り半分の言葉。そして莞爾と手をふる。私もぽかんと口をあけたまま手を振り返す、横に手を振ればいいものを、ぼんやりけんと縦にふったら、先生、仏壇の蝋燭の消灯と思うたか、ふっと消えていかしゃった。 今のは一体何やったのかと狐につままれたとはこのことよ。まあ、どこまで鏡花先生に迫れるかわからぬが、疑念も励ましの心と思い、書いてみせよう
それにしてもなぜ私が書くとわかったのやら。其処が聖とも眷属とも知り合いの先生の神通力というものか・・・
・・・といんちきくさい鏡花風に切り出してみたが、はなはだ自信が無い。
門田氏の 「鏡花は二度読むと面白い(かも)」 で 「歌行灯」を取りあげてあるので、詳しい説明は要らないということで私も「歌行灯」から。
鏡花の文章は、過去と現在の描写の比重が同じなのではないか。登場人物が過去のエピソードを語るのだから、もっとかいつまんでああだったからこうなったと事実だけをいえばいいと思うのだが、鏡花は、現在描写と同じくらい目に映るように書く、
十四章にでてくる少女のお三重・・
しばらくして上って来た年紀《とし》の少《わか》い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥溜《はきだめ》に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬《とうちりめん》じゃあるが、もみじのように美しい。結綿《いいわた》のふっくりしたの・に、浅葱《あさぎ》鹿《か》の子の絞高《しぼだか》な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝許《ひざもと》で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰《なまず》の鰭《ひれ》で濁ろう、と可哀《あわれ》に思う。この娘が紫の袱紗《ふくさ》に載《の》せて、薄茶を持って来たんです。
十五章にでてくるお三重・・・
傍《かたわら》に柔かな髪の房《ふっさ》りした島田の鬢《びん》を重そうに差俯向《さしうつむ》く……襟足白く冷たそうに、水紅色《ときいろ》の羽二重《はぶたえ》の、無地の長襦袢《ながじゅばん》の肩が辷《すべ》って、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋《なよ》やかに、打悄《うちしお》れた、残んの嫁菜花《よめな》の薄紫、浅葱《あさぎ》のように目に淡い、藤色|縮緬《ちりめん》の二枚着で、姿の寂しい、二十《はたち》ばかりの若い芸者を流盻《しりめ》に掛けつつ、
霜月十日あまりの初夜。中空《なかぞら》は冴切《さえき》って、星が水垢離《みずごり》取りそうな月明《つきあかり》に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯《ともしび》ちらちらと目の下に、遠近《おちこち》の樹立《こだち》の骨ばかりなのを視《なが》めながら、桑名の停車場《ステエション》へ下りた旅客がある。
冒頭の部分、見たままが描かれてある。視線が上から下へと流れる。そして言葉で気温まで表現する。その静かな迫力。
この話の圧巻は、なんといっても最後のお三重が舞うところだろう。登場人物の動きとその動きを演出する日本語の美しさに感嘆する。
その時、漲《みなぎ》る心の張《はり》に、島田の元結《もとゆい》ふッつと切れ、肩に崩るる緑の黒髪。水に乱れて、灯に揺《ゆら》めき、畳の海は裳《もすそ》に澄んで、塵《ちり》も留《とど》めぬ舞振《まいぶり》かな。よろめく三重の背《せな》を支えた、老《おい》の腕《かいな》に女浪《めなみ》の袖、この後見の大磐石に、みるの緑の黒髪かけて、颯《さっ》と翳《かざ》すや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、灯《ともしび》を白《しら》めて舞うのである。
視線が上から下へ、もしくは左右にと流れ、その場にいる錯覚さえする。錯覚しながら、はたと気づく。具体的にお三重ってどんな顔であるか書いてあったか?・・具体的に知らないはずなのに、読み手は、柳腰のすらりとした日本美人が舞扇を翳す姿を思い浮かべることができる。
なぜそれができるのか、鏡花は、紡いだ言葉(比喩)を正確に編んでいく。編まれたものを読み手はイメージとして受け取るからだろうと私は思う。ということは、言葉の位置がずれたら、イメージを見失う危うさが鏡花にはあるのかもしれない。
人間を内面から、言葉にした一等級が芥川龍之介だとすれば、人間を風景の一部と見て、絵を描いた一等級が鏡花である。どちらも人間を描いているのだが、内からみるか、外からみるかの違いである。それを知って読まないとそれぞれ何がいいたいのか?また何がかいてあるのかがわからなくなってしまう。
つらつらと思いつくまま書いてみた。まだまだ言い足りないような、それでいて無駄な言葉が多すぎたような・・ディスプレイの中から、鏡花先生の「ふふふ」と笑う声、「まだまだ読みがたりんよ」と権のあるものいいを付け足す。正月の月夜のしだれ柳と、思わず私の頭は垂れ、ため息一つ。
★この文章を書いた人→ten★こんな時間に→2007年01月06日 19:44 ★トラックバック