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ある盲人は象の足をなでながら「大木のようだ」といい、ある盲人は鼻をなでながら「大蛇のよう」といい、耳をさわった者は「大きなうちわ」と、腹をさわった者は「太鼓」と、しっぽをさわった者は「ほうきのようだ」と答えた。いずれの答えも正確でない。正しい実体を知らずにあれこれ私見を述べあうことや、無知な人がいくら集まって論じあっても正確な答えにたどりつくことができない、こんな内容の故事だったと思います。とりたてていうまでもなくあたりまえのことなのですが、この故事は障害者や「無知な人」をあからさまに侮辱・けなす表現ですから、好ましい表現とはいえません。どんな場所・場面でも使用はゆるされない故事です。いまとなっては、おおやけに使われない、教科書や新聞やテレビではぜったいに見かけない表現です。
ゆうくんのレポートを読んでいて、ふとドキュメンタリー映画祭終了後の、ある監督のコメントを思い出しました。その人は「自分の作品の海賊版DVDが大量に出回ってほしい」と、テレビカメラの前で語っていました。さらりと。「そうでもなければ、この作品が自国の人たちの眼にふれることはないから」と、ほほえみながらいうのです。
デジタルテキストがさまざまな形で利用できることは、強調してしすぎることがありません。視覚障害者の件にとどまらず。ただしそれは、デジタルテキストの良い面・可能性のみをアピールすることであって、裏の面にあえてふたをして見ないように(見せないように)誘導しているような印象を受けます。アピールしたい気持ちはじゅうぶんわかります。しかし、自分で自分の存在意義・活動の意義を強調しはじめることは、たいへん危険な行為でもある。
評価とは他者がくだすもの。利用ガイダンスはどうか、サービスの質やレスポンスはどうか。そもそも、どんなことをやっている集団なのか。なんのために。腹にいちもつ持ったあやしい集団じゃないのか。直接アクセスしている利用者は、そういう青空文庫の日常をすったもんだの過程もふくめて体感してくれています。そのうえで個々が評価をしてくれている。
ところが新聞などのマスメディアでは、すったもんだの部分は省かれて、表層の評価がひとり歩きをはじめます。わかりやすいところ・見てくれのいいところ・理想化されがちなところ・語りやすいところ・他者との識別にもってこいのところなどが取り上げられ、くりかえされ、認知されるようになります。実体から生まれたにはちがいないけれども、実体のほんの一部のみが伝播される。くり返されるうちに一部であったはずのところが、実体をおおいつくす。実体よりも虚像のほうがリアリティを獲得するようになる。幽霊の出現です。
メディアがわるいわけじゃない。メディアは紙面や時間枠がそもそも有限だから。ところが刷りこみとは恐ろしいもので、オリジナルよりも幅をきかせるようになり、一般に受け入れられてしまう。悪意が介在するかどうかは問題ではありません。
幸田露伴「平将門」や海音寺潮五郎『風と雲と虹と』など、生前の将門に関する伝記小説を読むと、正直、あまり魅力を感じることができません。どちらかというと、なまぐさい権力闘争にまきこまれた、どこにでもいそうなさえない田舎オヤジのような印象があります。ロミオとジュリエットのような悲劇性も若干加味されてはいるものの、将門の半生には、全体にやぼったさのほうを感じます。
どうも将門の魅力は、彼の生前にあるのではなく、彼の亡くなったあとのほうにあるんじゃないだろうか。田原藤太にあっけなく打ちとられたあと、三条河原にさらされたサレコウベがケタケタ笑ったとか、サレコウベがふたたび都から関東をめざして飛んだとか、末裔がどこぞへ逃げのびたとか、皇居前の首塚の一連のたたりの話とか。将門の魅力の半分は、彼の虚像・幽霊にある。伝記小説・史実を再現した大河小説では、ものたりないのはあたりまえなのです。
デジタルテキストのメリットと可能性を青空文庫は活用しています。それゆえに参加しているひとりひとりは、負の可能性についても日々、直面しているはずで。ウイルスやスパムしかり。掲示板管理・個人情報管理しかり。予期しない検索情報の集積と逆利用。ソフトやハードウェアへの終わることない依存。デジタルテキストを使うということは、スレイヴになるということでもある。デジタルアーカイブを人にすすめるということは、自分だけでなく他人にもスレイヴになりなさいということでもある。故意に負の面をふせるならば、それはもはや確信的犯行です。
ピュアな意志が、新聞や映画などのマスメディアに登場することが危険な側面をもはらんでいることを、ぼくたちはイヤというくらい見てきています。包丁は善悪という価値のそとにあります。包丁に悪意があるわけでなく、利用する人の意志、利用する方法にちがいがあるわけです。ネットや文学やフィクション、幽霊もまた同様。
とくにネットや文学、さらに言語活動や表現活動すべては、実社会と合わせ鏡のような関係にある。鏡にうつる像は実体ではありません。誇張・虚飾もある。けれど、実体が実体をそのまま認識することにも限界があって、ぼくたちは自分自身の顔を見ることができなく、自分の後ろ姿や腹の中を見ることもできなく、自分の声を聞くこともできません。鏡やビデオ、スピーカーの再生音などにたよらないと、ぼくたちは「ほんとう」の姿や声を認識できない。不思議といえば不思議、不条理といえば不条理。ぬけているといえばぬけています。ぬけているところをおぎなおうとするから、鏡や文学や幽霊がある。インターネットの状況をみてなげくひとたちがいますが、それは、鏡に写った自分の姿を見てびっくりするようなものなんじゃないだろうか。
実社会の出版活動は、青空文庫があろうとなかろうと存在します。けれども、青空文庫はそうはいきません。電子の本が紙媒体の本を凌駕することを懸念するひとがいますが、おそらくそうはならない。部分的にデジタルテキストに置きかえられることはあっても、それがすすむほど逆に紙媒体が重用されることになるはずです。パソコンやワープロが登場したときに、紙の消費量が減るとまことしやかにいわれたのと同様、デジタルテキストはそれだけで存在するというわけにはいかない。言語そのものが虚体であり、デジタルテキストはさらにその虚体です。デジタルテキストをあつかうほど、紙媒体へ依存しないわけにいかなくなります。外字や文字コード問題もそのひとつ。パソコンが搭載するうつろなフォントやコード、あるいは一冊の底本では信頼できなくて、底本や漢和字典をつねに手放せない。デジタルテキストから紙媒体へ。おそらくデジタルアーカイブは、その往復運動のスパイラルから解放されることはない。
たとえば図書館の索引カードがすべてパソコンに置きかわりました。たしかに検索の便も情報の追加も貸し出しの管理もよくなったかもしれない。と同時に、仮に地震でもおこって停電になれば、図書館に被害がなくても利用ができなくなる。そういう危惧は、交通機関、証券取引、公共放送、銀行ATMなどですでに現実のものとなっています。こと国会図書館でいえば、提供するデータやサービスにこりすぎると、一般的なブラウザからの利用ができないような皮肉な現象が生じます。これはブロードバンドの罠でも同様。世界一ブロードバンドが普及しているということは、世界一、海外からアクセスしにくいものを集団で生み出している、孤立していても気がつきにくい。そういうこともありえます。
群盲、象をなでる。この逸話をはじめて聞いたとき、こんなことを考えました。たしかに盲人たちは、さわっているものが「象」であるとはわからなかった。では、目の見える、晴眼のぼくたちは、象のことを彼ら以上に知っているといえるのだろうか。象というばくぜんとしたイメージは持っている。けれども、直接、象にさわったことはありません。いっぽう彼らは直接ふれてなでたわけです。感触を知っている。さわったことのないぼくたちと、さわったことのある盲人たちと、はたしてどちらのほうが象のことをよく知っているといえるのだろうか。
とかく電子図書館と出版業界は対立構造でイメージされやすい。電子図書館は出版業界の権益を害している、と。だから著作権の延長問題でも、両者は意見が対立している“かのような”イメージのもとで認識されがちです。前者が延長反対なのに対して、後者(出版業界側)は延長賛成だと。理由は、いうまでもなく出版業界は既得の出版権利を失いたくないから。著作権者は延長すれば印税収入が増えるから。そう認識しやすい。けれども、ほんとうにそんな単純な二項対立の構図なのだろうか。そもそも、出版業界や雑誌や新聞などのメディアが延長賛成という態度を表明しているのを、まだ聞いたことがありません。延長賛成を表明しているのは、ごくかぎられた個人と業界団体にとどまっています。なんか、既成の巨大な出版業界権力は悪である、かのような単純な反対意見が勢いづいているのは、なにか腑に落ちません。むしろ、ひょっとしたらこの単純対立構造こそ、だれかの用意したシナリオなんじゃないか。
浮世絵の歴史では、歌麿や広重や北斎といった絵師に目がいきがちですが、それ以上に彼らをかかえていたスポンサーや版元のおよぼす影響力を無視できない。版元には、絵師を見いだし、育成し、仕事をつづけさせる力量がいります。
現存するこの国最古の著作物も、稗田阿礼や太安万侶たちの共同作業から生まれました。同様に、著作のクレジットは個人の名前になっているとしても、アシスタントや編集者、印刷業者、あるいは論文の指導者やアドバイザー・評者、あるいは家族がその作品制作にたずさわっていることも十分ありえます。むしろ、共同作業をへず自己完結している著作システムのほうが、これまでのパブリッシュの歴史のなかでは異例だった。共同作業。つまり他者依存のシステムです。
自分の著作に自分でタイトルをつける権利はあたりまえといえばあたりまえのはずだけれど、共同作業のパブリッシュという行為では、成功も失敗も一蓮托生です。もし、著作者個人にその全責任を負わせるシステムにとどまっていたとしたら、現在のような状況もまた期待できなかった。一蓮托生だから売れそうな命名を共同作業で考える。ときに著作者本人を除外して。新聞や雑誌の見出しもしかり。そういったアート生産の経済的システムは、マンガでも映画でもポップスでも大差ない。前途多難なハッピー新年(はあとマーク)。
メディア業界の再編。考えすぎですか。まあ、単純な反対論も思考停止ですが、業界再編の陰棒説っていうのも古典的な思考停止ですか。おっと、さげさげ。捏造カップ。これはフィクションです。たぶん。
2007.1.4
しだひろし/法令順守海賊パルパルパン
翻訳・朗読・転載はぎっちょんちょん。