2007年01月14日

 支那の明器

blog 版
支那の明器
会津八一

 私ほど名実のそわない収集家はない。なにかよほどいいものでもたくさん持っているようにいいはやされながら、じつはこれというほどのものは何も持たない。
 小石川に住んでいるころに——これは十数年も前のことだが——諸国の郷土玩具をあつめたことがあった。六百種もあったかと思う。しかしこれは世間の玩具通などのするように、いろいろの変った物をあつめて自慢をするというのではなく、そのころしきりに私の考えていた原始的信仰の研究資料にと思ったのであった。不幸にしてこの玩具の大半は出版部の倉庫の中で洪水をすって全滅してしまった。
 次に私が今現に持っていていくらか話の種にしてもいいと思うのは支那の明器、すなわち古墳から発掘される土製の人形や器物のたぐいで、わたしの持っているのは百三、四十点にもおよんでいる。支那では三代の昔から人の死んだ時に墓の中へ人形をいれておともをさせる。いわゆる「俑」である。人形のほかにニワトリや犬やブタや馬や牛などの動物あるいは器物、ときとしては建物までおともさせることが漢時代以後だんだんさかんにおこなわれ、唐にいたって流行をきわめた。木でつくって着物を着せたものなどもあったはずだが、木は長いあいだにみな腐ってあとかたもなく消えうせるので今日に残っているのはごくまれに玉製のものなどもあるが、たいていは土製ばかりである。土製といっても瓦のように焼いて、上から胡粉ごふんをぬって、その上へ墨や絵の具で彩色したものもあるし、唐時代などになると三彩といって黄、褐、緑、あるいは藍色のうわぐすりをかけた陶製のものもある。この明器が支那でかれこれいわれるようになったのはあまり古いことではなく、なんでも京漢鉄道の敷設の時に古墳を発掘した欧人の技師がはじめて見つけだして、それからだんだん北京の骨董店などにあらわれることになった。最初はほとんど市価のないものであった。それを有名な考古学者の羅振玉氏が買いあつめて後に『古明器図録』という図録をつくった。そのころから世界の学者や鑑賞家の注意をひいて、今では世界のどこの博物館にもたくさんに蔵されており、欧米人の手で編集された図録もたくさんに出ており、したがって研究もひろくおこなわれている。日本でも東京帝室博物館や、東西両京の帝国大学、東京美術学校、個人では細川侯爵、校友の反町茂作氏などがいずれも優秀なものをたくさんに持っておられる。横川博士の収集は近年宮内省へ献納された。美術的によくできていて、色彩が製作当時のままで、おまけに形がめずらしいものなどになると数百円から千円以上のものもまれではない。しかし上海あたりの場すえの道具屋の店さきにさらされているいかものには一円で二つも三つもくれてよこすようなものもある。つまり明器の価格はピンからキリまである。
 そこで、なぜ世界のすみずみまで、急にこの明器をそれほど珍重するようになったかというに、それはすこしも無理もないことで、支那の骨董品として大昔から古銅器すなわち鐘鼎のたぐいがひじょうに尊重されたものであるし、唐宋以後になれば支那特有の絵画もしだいに発達してその遺品も今日においては豊富につたえている。しかし唐時代以前の美術彫刻はといえば、これまでは漢時代の画像石か六朝時代の仏像あるいはその付属物として沙門の像や獅子ぐらいのものであった。ところが一度この明器のたぐいが続々と出土するにおよんで、漢時代ではこれまでの画像石のように線彫りでなく、丸彫りの人形や動物、ことにうれしいのは六朝以後唐時代にいたる間の将軍、文官、美人、奴婢、家畜などの風俗的生活がわれわれの眼前に見せられることになった。すなわち天地をまつる祭器としての銅器や、装身具としての玉器や、仏教の偶像だけしかなかった支那美術のはたけに、それこそほんとうに人間らしい、やわらかい感じの、気のおけない人間生活の彫刻があらわれたわけである。そこで美術上からも考古学上からも、あるいはただの物好きからも、欧米人などが、ことに大騒ぎするのはけっして無理もないことである。人によると墓から出たということを、いつまでも気にしている人があるが、千年から二千年もたった今日におよんでまだそんな事を気にしているようでは、よくよく学問にも芸術にも因縁のない連中というよりほかはない。またむやみにニセモノをこわがる人もある。たかが土製の人形が、何十円何百円に売れるということになれば、墓を掘るまでもなく、ニセモノを作って金もうけをすることをしらぬ支那人ではないから、事実ニセモノはずいぶんたくさんある。支那のある地方では一村こぞってこのニセモノ製造を商売にしている所さえあって、念の入ったことにはいったんつくりあげて彩色までしたものをわざと土中にうめ、その上からきたない水などをひっかけて、二、三年目に掘りだして、いいかげんに土をおとして市へ出すというやりかたもある。またほんものから型をぬきとって、その型でニセモノをつくったり、ほんものはほんものでも素焼のところへ後からうわぐすりをかけるというややこしい法もある。だから支那の市場にはおびただしい、しかもまぎらわしいニセモノがあるのは事実である。そこであちらを旅行して、そんな現場を見せられて帰ってきた人のみやげばなしなどを聞いてむやみにおそれをなす人のあるのも無理もないことであるが、ニセモノの多いのはなにも明器にかぎったわけではないし、また支那にかぎったわけでもない。どこの国でも古いものはニセモノの方が多い。そこで明器買いもすこぶるマユツバであるが、まゆにツバばかりつけても、わからない人にはやはりわからない。北京や上海やどこに行ったことがあってもそれだけではわからない。支那人でもわからない人はやはりわからない。しかしわかる人がみればなんでもなくすぐ見わけがつく。ニセモノがこわいとしりごみする人は、わたしは美術がわかりませんと自白しているのと同じことだから、そういう人は手を出さぬ方がいいであろう。
 ニセモノは支那製ばかりではなく、ドイツ風の応用化学でたくみに三彩のマネをしたものや、また日本製の物もある。あるいははるばる東京まで来てから、おしろいの塗りなおしイレズミの描きなおし、着物の染めなおしなどをやるのもある。またまったくニセモノという意識はなく、一種のなお古趣味から京都あたりのそうとうな陶工が自分の手腕を見せるつもりで真剣に作ったものもある。それらも目のある人が見ればなんの苦もなく見わけがつくものである。
 ところがわたしはだれも知る貧乏人であるのに今日までに、かなりの数まであつめるにはずいぶん骨が折れた。わたしの手まえとして一個百円前後もする物をいくつも買うことはできるわけがない。そこでわたしは月給のあまりでたりない時は窮余の一策として自分の書いた書画に値段をつけて展覧会を開いて、その収入でようやく商人の支払いをすませたこともある。そういう展覧会をわたしはこれまでに東京の銀座で一度、郷里で三度も開いた。こんな手もとで私があつめたものだから収集として人にほこるほどのものはなにひとつない。したがって安物づくめである。それこそゲテモノ展の観がある。しかし私はいやしくも早稲田大学で東洋美術史というすこし私には荷物の勝った講義をお引き受けしている関係から、なにも持たぬ、なにも知らぬではすまされないと思って、とにかく微力のかぎり、むしろそれ以上をつくしたものである。だからどこの役人に対しても、富豪に対しても、収集の貧弱をはじる必要はすこしもないつもりである。明器の話は、私としては教場ですべき仕事のひとつだから、ここではまずこれくらいのことでやめにする。
 わたしは最近に朝鮮のある方面から、昔の新羅時代の古瓦を、破片混りではあるが四百個ばかり買い入れた。これまでわたしの手もとにあった日本や支那の古瓦二百個をくわえると六百ほどになる。これも私としては東洋美術史研究の標本であって、けっして道楽ざんまいでやっているわけではないが、とにかくこれもひとつの収集といえば収集であろう。
 
 
 
底本:「日本の名随筆 別巻9 骨董」作品社
   1991(平成3)年11月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第6刷発行
底本の親本:「会津八一全集 第七巻」中央公論社
   1982(昭和57)年4月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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2007年01月11日

 延長反対署名の新作たすきがけバナー

aozora blog トップページの右上に、「著作権保護期間延長反対署名運動」と書いた、新しいバナーが加わりました。
たすきがけのバナーのクリックで、青空文庫の署名案内ページにジャンプします。

ページを開いたら、嫌でも目に飛び込んでくるところで、意志表示しようという狙いです。

ご自分のページに「貼り込んでみよう」と思われたら、html の body タグの後ろに、赤で示したコードを、以下のように組み込んでください。(JavaScript とスタイルシートが有効である必要があります。)


<html>
<head>
<title>文書のタイトル</title>
</head>
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<script type="text/javascript" src="http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/aozorabunko_shomei.js"> </script>
文書の本体
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</html>

以上、たすきがけバナーを作ってくれたうにさんによる説明を、ほぼそのまま、引用させてもらいました。
個人情報保護の観点から、コードを貼り込むことにためらいを覚えられる方は、うにさんご自身の説明を聞いた上で、貼り込むか否か、判断してください。

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 拓本の話

拓本の話 たくほんのはなし

 著者:会津八一 あいづ やいち,1881-1956(明治14.8.1-昭和31.11.21)

 出身:新潟県新潟市 Wikipedia

 底本:『日本の名随筆27 墨』篠田桃紅(編)1985.1. 作品社  /258p ; 19cm

 初出:

 NDC分類:728914 青空文庫版



aozora blog つくも版 by シン弐くん

2007.1.11

しだひろし/PoorBook G3'99

翻訳・朗読・転載は自由です。


拓本の話
会津八一


 わたしは拓本のお話をしよう。
 支那では昔からすべて文字で書いたものを大切にするが、だれが書いたところで相当に年月がたてばみんな消えてしまう。紙でも、絹でも、木でも、——名人が書けば木の中へ何寸も深く字が食い込むなどと昔からいうことであるけれども、その木からが千年もたてば磨滅もする風化もする。なくなってみればもちろん紀念にもならないし、習字の手本にもならない。そこで金属や石というような堅いものに刻りつけて、いつまでも保存するようにすることが、もうずいぶん古くからおこなわれている。殷や周の銅器の刻文、秦の玉版や石刻の文字、漢魏の碑碣などがそれだ。みな千年万年の後へのこすつもりで作られたものだ。その文字のあるところへ紙をのせて、そのうえから油墨で刷ったものが俗にいう石刷すなわち拓本で、もとより古をとうとび、文字を大切にする支那のことであるから、この石刷をも、原本の実物のように大切にする。こうして拓本を作って珍重することも支那ではずいぶん古くからやっていることで、今日にのこっているのではまず古いところでは唐時代のものであろう。それ以後五代拓、宋拓、元拓、明拓というようなわけで、もちろん古いほど尊ばれる。というのは、いかに石でも金でも、年月がたてばやはりいたむ。あるいは風雨にさらされたり、あるいは野火や山火事にこがされたり、あるいは落雷でくだかれたり、あるいはまたそんなことがなくとも、あまりしばしば拓本をとったために石が磨滅してしまうということはめずらしくないからである。つまり古いほど完全に近い。したがって古いほど貴いということになる。同じ碑の拓本でも、一枚は人が愛馬を売っても宝剣を質にいれても手にいれなければならぬと騒ぐのに、他の一枚はただでもらってもほしくないというような話も出てくる。漢の時代にたてられた西岳崋山廟の碑は、実物はいまはなくなってしまっているのであるが、明時代に取った拓本が一、二枚今日までのこっている。これなどはただ拓本による存在である。この西岳崋山廟の拓本を二、三年前にある支那人が日本へ売りにきたことがあるが、なんでも一枚三万五千円という値段であった。その時に魏の三体石経の拓本ももってきた。この石経は遠からぬ昔に土中からほりだしたものであるが、後にまもなくくだけてしまった。そこでくだけないさきの拓本であるというので一枚二千円と号していた。
 これまでおはなしてきただけでは、なんだか支那趣味の骨董談のように聞こえるかもしれぬが、それこそ心外千万である。なるほど支那人が文字を大切にする態度には宗教がかったところもあって、われわれとしてはいちいち支那人のとおりというわけにもいくまいが、とにかく古人が文字で書いて遺したものは美術であり、文学であり、同時にまた史料である。美術という熟語からが、ファインアートという英語の明治初年の直訳であるように、今日美術を論じている人びとは、いつも西洋流の美学や、美術論や、美術史に頭がひっぱられているから、今のところではよほど偉い人でないかぎりは、東洋の美術というものに理解が薄い。ことに文字が東洋の美術の中でしめているほとんど最高の地位については、まるで無理解な人が多い。けれどもこれも東洋人が今すこしおちついて物を考える時がくるとともにしだいに理解せられる時がくるとわたしは信じているのであるが、支那人の大切にする古代の文字の拓本は、すなわち歴代の東洋美術の遺品であると考えなおしてみてもらいたい。これだけのことは、文字の拓本の美術的価値について、とりあえず申し述べてみたのであるが、なるほど東洋で珍重された拓本は、これまでは、むしろ文字のあるものにかたよりすぎていたかもしれなかった。しかし近頃は大同とか、天竜山とか、竜門とか、あるいは朝鮮や日本内地の石仏、またはそのほかの造型美術の拓本を作ることがおこなわれてきて、それがわが国の現代の学者、美術家、ことに新興の画家、彫刻家に強い刺激をあたえていることは、めざましい事実である。それからまた、漢魏六朝から唐宋におよぶ幾千の墓碑や墓誌の文章はその時代々々の精神や様式をみなぎらした文学であり、同時にまた正史以上に正確な史料的価値をふくんでいることをよく考えてみなければならない。こんな事を私が今事あたらしくのべたてるまでもなく、いやしくも今日まじめに学問をやっている人の間に、拓本の功果をうたがっている者はないくらいの趨勢にはなっているのであって、わたしの友人のある学者は拓本することと、写真を撮ることと、スケッチをすることのできぬ者は考古学や歴史を研究する資格が欠けていると、京都大学の学生に教えているそうであるが、これは私もぜんぜん同感である。写真が立体的におくゆきをも写すのに対して、拓本の平面的なことはひとつの短所であろうが、写真が実物より小さくなるばあいが多いのに、拓本はいつも実物大で、しかも実物とわずかに濡れ紙一重をへだてたばかりの親しみのふかい印象を留めている。拓本が持つこの強い連想はとうてい写真のくわだておよびぶところでない。
 話が前へもどってくりかえすようになるけれども、日本の金石文の拓本のことについていってみても、正史であるところの日本書紀の記載にまちがいのあることが、法隆寺金堂の釈迦像の銘文や薬師寺の東塔の※[#「木+察」、第4水準2-15-66]の銘文から知られてきたというようなことは、今となってはだれも知る事であるが、ここにひとつおもしろい例がある。それはわたしは今、昔奈良の東大寺にあった二つの唐櫃の銘文の拓本を持っているが、その櫃のひとつはいまは御物となって正倉院にあるが、他の一方はもう実物はこの世の中から失われたものとみえて、正倉院にもどこにもありはしない。ところがその失われた唐櫃の銘文の拓本がわたしのところにあるというわけだ。すなわちその唐櫃は天にも地にもただ一枚のこの拓本によってのみわずかに存在をつづけている。そしてその銘文によって、わたしは、これまでこれらの唐櫃に帰せられた製作の時代について、一般学者の推定がじつに五、六百年もまちがっていたことも断定し得るのである。じつはこの唐櫃はほんらいは二つだけのものでなく、四つあるべきもので、その一ともいうべきものがかつて大倉氏の集古館におさめられてあったが、あの大震災のために焼けてしまった。ほかのいまひとつの唐櫃こそは、長へに失われてまったく行く所を知らないのであるが、なにかの機会はずみに、なにかの僥幸で、せめてその銘文の拓本でも手にいれるようなことがあり得たならば、われわれの史的研究、ことに東大寺の研究に対して一大光明となるであろう。こう考えてくると拓本には万金の値ありというべきで、しかもその値たるや、だんじて骨董値段ではない。
 そこでわたしは、わが早稲田学園でも、まず学生が拓本というものの必要をさとり、よくこの方法に親しみ、これをよく手にいれておいてもらいたい希望からわたしは、すくなからぬ犠牲をしのんで、昨年の十月は私が年来秘蔵していた奈良時代の美術に関する拓本の大部分を第一学院史学部の学生の手にゆだねて展覧会を開いてもらい、また十二月には第二学院の学術部の学生をわずらわして日本の古い寺院の瓦にもようの拓本五、六百種で、展覧会を開いてもらった。すると官私立大学や民間の専門学者研究者があいついでやってきて、参観者名簿に署名せられた。
 そのうちにも東京博物館の高橋博士や、万葉学の井上博士のごときは、あるいは学生の分類を批評したりあるいは学生の成功を賞賛したりして帰られた。それから十二月に私が関西方面に旅行したときには、第二学院の学生の手になった瓦の拓本の絵ハガキに対して、京都大学の天沼博士がくわえられた真剣な批評を聞き、それから旅先で見た二つの雑誌『史学雑誌』と『民族』とに、これらのもよおしに対する賞賛的紹介を見た。つまり若い学生達のもよおしでも、こうした学界の専門家達のまじめな真剣な興味を喚起したことはあきらかで、これをもってみても、拓本の学界における価値を知るにじゅうぶんである。そこでわたしは、今年の四月には、さらに進んで、支那の漢から六朝時代までの書画の拓本をあつめてわが大学内で展覧会をひらき、今秋は朝鮮の拓本の展覧会を開いて、学生および世間の学者とともに研究の歩を進めてみたいと思っているのであるが、前回の経験からここにひとつわたしの不満に思うことがある。それは参観者のうちに、学園内のひとの方が学園外の人より比較的少なかった事である。どうか私の常にとなえてやまぬところの、学問の基礎を実際的に、すなわち実物の上におく学風、すなわちわたしのいう実学の態度が、わが学園を支配することの一日も速に実現せんことを祈る。
 最後につけくわえていっておきたいのは、拓本の方法である。前回拓本展観会の宣伝ビラをほうぼうへ貼らせたときに、この拓本という字が読めない人、したがって意味のわからぬ人が学園の内外にずいぶん多かったようで、なかには会場にきて拓本そのものを見ても、まだその作り方などについてよくわからない人が多かったようだから、今簡単に方法を話してみれば、拓すべき石碑なら石碑の上に拓すべき紙をのせて、その上をすこし湿気のあるタオルで強く押さえつける。——あるいはあらかじめタオルをまいておいて、それを紙の上へ押しつけながら転がすほうが手際よく行くかもしれぬ、——すると圧力と湿気のために紙は石面の文字のあらゆるデコボコにまんべんなく食い込む。それからすこし時間をおいて、紙の湿気がすこし乾くのを見はかって、まんじゅうのようにふっくらヽヽヽヽとつくったタンポに、油墨か——これはその目的で作ったものを売っている——、またはただ墨汁をつけて紙の上を軽くたたけば、それで拓本ができる。こまかい事はじっさいの経験上自分で発明するのがなによりだ。これが紙を湿らして取る方法であるが、湿されない種類のものは、実物の上へ紙をよく押しつけて、支那製の雪花墨または日本製のつりがね墨というもので静かにそしてこまかにその上をなでまわせば乾いたままで拓本ができるが、西洋人はそのかわりに石墨などをもちいるようである。
 拓本の趣味を語れという学報記者の注文に対して、わたしはむしろ拓本の実用と私自身の希望を語ってしまったが、拓本の紙の質が支那、朝鮮、日本、同じ支那でも地方々々でちがうことや、タンポの打ち方や墨の濃淡にしたがってあらわるるいろいろの趣味や、平面だけしか取れぬはずの拓本に全形をおもわせる工夫のあることや、模本ニセ本の多いこと、その見わけ方、拓した時代の見わけ方、あるいはまた自分で拓本を取っている時に低く続くタンポの音にともなっておこってくるところのなんともいいがたい微妙な快感や、およそそれこそほんとに拓本の趣味のことは、いずれまたひまな時におはなしをする機会があるでしょう。
 
 
 
底本:「日本の名随筆27 墨」作品社
   1985(昭和60)年1月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第17刷発行
底本の親本:「会津八一全集 第一一巻」中央公論社
   1982(昭和57)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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 Wiiで青空文庫を見る

任天堂の新しいゲーム機“Wii”には、任天堂のサイトからダウンロードすることによりWebブラウザーをインストールすることができる。なので、それを入れてみて、そのブラウザーで青空文庫を見てみました。

wii

テレビでインターネットを見る場合、まずそのインターフェイスがどうしも気になるところだけど、今度のWiiリモコンを使えば、それが案外ポンポンとブラウジングできることがわかった。なるほど、これでもうちょっと無線LANの速度が速くなればストレスなくネットを見て歩くことができるかもしれない。

wii

ただ、長文をテレビの画面で読む気には絶対にならない。文字を読んだとしてもニュースのヘッドライン程度でしょう。だから、青空文庫の小説をこのようなテレビ向けのインターネット・ブラウザーで読むことはないかもしれないんだけど、もし、自動的に音声で読み上げてくれたらどうなんだろう? う〜ん、やっぱり何か動く絵が欲しいところかな。マリオがコインを集めてピョンピョン跳ねる絵柄くらいは欲しいな。

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2007年01月09日

 菊の根分をしながら

aozora blog 版
菊の根分をしながら
会津八一


 昨日がいわゆる彼岸の中日でした。われわれのように田舎に住むものの生活が、これからはじまるという時です。私も東京の市中を離れたこの武蔵野の畑の最中に住んでいるから、今日は庭のすみにかたよせてある菊の鉢をとりだして、この秋を楽しむために菊の根分をしようとしているところです。じつはわたしはひさしいこと菊を作っているのであるが、この二、三年間は思うところあって試みにわざと手入れをしないでなげやりに作ってみた。いったい菊というものはその栽培法を調べてみると、あるいは菊作りの秘伝書とか植木屋の口伝とかいうものがいろいろとあって、なかなかめんどうなものです。これほどめんどうなものとすれば、とうていしろうとには作れないと思うほどやかましいものです。そしてこのいろいろな秘訣を守らなければ、存分に立派な菊が作られないということになっている。ところがわたしは昨年もおととしもあらゆる菊作りの法則を無視して作ってみた。たとえば春早く根わけをすること、植える土には濃厚な肥料を包含せしめなければならぬこと、鉢はなるべく大きなものをもちいること、五月、七月、九月の芽を摘まなければならぬこと、日あたりをよくすること、水は毎日一回ないし数回あたえなければならぬこと、秋になってまた肥料を追加し、雑草を除くことなどと、まだまだいろいろの心得があるのにもかかわらず、二、三年の間はわたしはまるでこれをやらなかった。根分もやらず、小さい鉢に植えたままで、土を取り替えもせず、芽もつまず、もちろん水も途絶えがちであった。いわばあらゆる虐待と薄遇とをあたえたのだ。それでも秋になると菊は菊らしくそれぞれにツボミが出て、キレイな色で、そうとうにやさしい花を見せてくれた。それで考えてみれば菊の栽培といっても絶対的に必須なものでもないらしい。手入れをすればもちろんよろしい。しかし手入れがなくとも咲く、植木屋などがよく文人作りなどと名をつけて売っているのは私などからみれば、いつもすこしできすぎていて、かえっておもしろくない。わたしの庭のすみにさいた菊の花の天然の美しさにより多く心がひかれぬでもない。

 ただし考えてみると、世間で観賞されている多数の植物の中では温室の中で一定の化学的成分をふくんだ肥料をほどこさなければ生長しないもの、湿度や温度を綿密にあんばいしなければできないもの、特別な光線をあたえなければならぬものとかいろいろなものがある。保護がなければすぐかれてしまう。こういう植物と、虐待、欠乏の中にあって、なお強い根強い力をふりおこしていつまでも生き長えて美しい花を開くわたしの庭の菊のごときものと比較してみると、無限の感慨が生ずるのである。これを人にたとえていうならば名望のある富貴の家に生まれて、健全な父母を保護者としてそだち、もとめ得ざるはなく、欲して遂げざるはなく、教育も思うままにうけられ、なにひとつ事を欠かぬという人もあろう。またそうとうに艱苦にも、欠乏にもたえていかなければならぬ人もあろう。いったい今の世の中には、放置せられていて、なお自分自身の根強い力をふりおこしてやがては美しい花をさかせるだけの意気ごみのある少年が多いであろうか。文化の進むにつれて、温室の中の植物のような人が、ようやく増加してくるのはまぬがれがたい傾向である。試みに田舎の少年と都会の少年とを比較すると、その間にももうこうした区別が認められる。世の中が複雑になって、文明の設備を利用することが多くなれば、みずから人間の性質が変化して天然の素質がいくぶんかずつ弱ったり失われたりしていくことも止を得ないかもしれないけれども、われわれはわれわれとしてもっとも大切なものを失ってはならぬ。それはわれわれの心の底によこたわっている根強い力である。
 今日のような日に縁側から外をながめて、暖かな太陽の光をあびて、大地の底や枯れたような老木の幹から、輝いたあざやかな芽がもえ出ているのを見る時に、わたしはその中になんともいわれない一種の力を感ずる。そして草木にもわれわれ人間にも天然にあたえられてあるこの力をかぎりなくたのもしく思わずにいられない。
 そもそもわれわれが生まれ出て勉強して世の中へ出て暮らしていくのは人に頼まれてのことではない。われわれ自身がもって生まれた力、これを自分の境遇に応じて、ときとしては境遇以上にも伸びるだけ伸ばしていくためである。われわれが貧困の家に生まれて欠乏の中に生長し、いかほどの苦学をかさねても、自分の心の底にこの力を見いだして進んでいかねばならぬ。それにつけては独立自恃の精神ほど大切なものはないのである。
 しかしわたしは今年は菊を作るのにこれまでとはまったく方針をかへて、根分も、採光も、肥料も、剪定も、灌水もできるだけの優遇をあたえて昨年よりはいっそう美しい花を見たいと思っている。独立自恃の精神のあるものは容易にほかの援助や庇護をこいねがわない。しかし援助をあたえて庇護をくわえらるべき第一の資格はこの独立自恃の精神の存在である。おととし以来菊が私に示した悲壮な態度、その元気のたのもしさに私も心から栽培をうながされるのである。同情や援助というものは求めてもむやみにあたえられるものではない。みだりにそういうものを求めざる人こそあたえらるべきであるのだ。
 それからまた、いよいよ菊の苗をわけようとするときに、いかなる苗を選ぶべきであろうか。もちろんわれわれはもっとも有望な苗を選ばなければならぬ。一株の古根からは幾十本となく若い芽がふきだしている。それが一様に生気にみちたもののようにみえる。しかし経験のある栽培家は思いもかけぬほど遠いところへ顔を出している芽をえらぶのである。親木のわきにある芽はどうしても弱い。よくよく自分の活力に自信のあるのが親木をたよらずに遠くまで行く、その意気を栽培家は壮なりとするのである。私も今年はもちろんそのつもりである。
 世にいい古された、「今日になりて菊作ろうと思いけり」という俳句、これはかくべつ文学的でもないかもしれぬが、秋をむかえてから他人のつくった菊の花を見て、うらやましく思ってながめる気持ちをよんだものでだれにも経験しそうな事であるだけに有名な句になっている。しかしこの句を修養的に味わってみようとする人は、秋になったらもう遅い。この句を誦みながら庭なり畑なりへ下り立って季節を失わずに、しかも自分で土いじりをはじめるならば、やがてはその花のごとく美しい将来が、そのひとの身のうえにも展開してくるであろう。
 わたしはさきにもいうように落合村の百姓で、歌人でもなんでもないけれども、今日はあまりに気候のここちよさに、歌のようなものがすこしばかりできた。それをここでご披露におよぶということにしよう。

さ庭べの菊の古根も打ちかえし分ち植うべき春は来にけり
菊植うと下り立つ庭の木の間ゆもたまたま遠きウグイスの声
取り持てばもろ手にあふれカゴにもればカゴにあふれたる菊の苗かも
十の指土にまみれて狭庭べに菊植うる日ぞ人な訪ひそね
今植うる菊の若草白妙に庭をうめて咲かずしもあらず
今植うる菊の草むら咲きいでて小蜂群れ飛ぶ秋の日をおもう
武蔵野の木ぬれをしげみ白菊の咲きて出づとも人知らめやも
武蔵野のかすめる中にしろ妙の富士の高根に入日さす見ゆ
(大正十二年三月二十三日談)
 
 
底本:「花の名随筆3 三月の花」作品社
   1999(平成11)年2月10日初版第1刷発行
底本の親本:「会津八一全集 第七巻」中央公論社
   1982(昭和57)年4月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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 一片の石

一片の石
会津八一


 人間が石にたよるようになって、もうよほどひさしいことであるのに、まだ根気よくそれをやっている。石にたより、石にすがり、石をあがめ、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思う物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるいはどこのはてでも、昔から人間がつとめている姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたにすてておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似てながくのこるべき素質であるのに、遺族友人ととなえるものがあつまって、火をつけて焼く。せっかくの骨までがこなごなにくだけてしまう。それをひろいあつめて、底深く地中にうめて、そのうえにいかつい四角な石をたてる。お参りをするといえば、まるでそれが故人であるように、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子とほめられる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむずかしい。

 なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、およそ人間の手わざで、遠い時代からのこっているものはある。しかしのこっているといっても、時代にもよるが、すこし古いところは、作られた数にくらべると、千にひとつにもあたらない。つまり、石といえども、千年の風霜にバクロされて、平気でいるものではない。それに野火や山火事が崩壊をはやめることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、まだ世間が忘れきらぬうちから、もう押したおされて、倉の土台や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといって跡を絶たない人たちの、搨拓の手のために、磨滅をうながすこともある。そこで漢の時代には、いずれの村里にも、ありあまるほどあった石碑が、今では支那全土で百基ほどしかのこっていない。国破れて山河ありというが、国も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思いをこめた記念物が、もう無くなっていることは、いくらもある。まことにさびしいことである。
 むかし晋の世に、羊という人があった。学識もあり、手腕もあり、情味のふかい、立派な大官で、晋の政府のために、呉国の懐柔につくして功があった。この人は平素山水のながめが好きで、襄陽に在任のころはいつもすぐ近い山というのに登って、酒を飲みながら、友人と詩などを作って楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人にむかって、いったいこの山は、宇宙開闢のはじめからあるのだから、昔からずいぶん偉い人たちも遊びにやってきているわけだ。それがみんな湮滅してなんのいい伝えもない。こんなことを考えると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへきて、今のわれわれを思い出してくれる人があるなら、わたしの魂魄は必ずここへ登ってくる、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのように功績の大きな、感化の深い方は、その令聞はながくこの山とともに、いつまでも世間につたわるにちがいありませんと、ようやくこのさびしい気持ちをなぐさめたということである。それからまもなくこの人が亡くなると、はたして土地の人民どもは金を出しあってこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想い出しては涙に暮れたものであった。そのうちに堕涙の碑という名もついてしまった。
 おなじころ、晋の貴族に杜預という人があった。年は羊よりもひとつ下であったが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかった。襄陽へ出かけてきて、やはり呉の国を平げることに手柄があった。堕涙の碑という名なども、じつはこの人がつけたものらしい。羊とはすこし考え方がちがっていたが、この人も、やはりひどく身後の名声を気にしていた。そこで自分の一生の業績を石碑にきざんで、二基おなじものを作らせて、ひとつをおなじ山の上に立て、いまひとつをば漢江の深い淵にしずめさせた。万世の後に、いかなる天変地異がおこって、よしんば山上の一碑が蒼海の底にかくれるようになっても、そのときには、たぶん谷底の方があらわれてくる。こんな期待をかけていたものとみえる。
 ところが後に唐の時代になって、おなじ襄陽から孟浩然という優れた詩人が出た。この人もあるとき弟子たちをつれて山のいただきに登った。そしてまず羊のことなどを思い出して、こんな詩をつくった。

人事代謝あり、
往来して古今を成す。
江山は勝迹を留め、
我輩また登臨す。
水おちて魚梁浅く、
天寒うして夢沢深し。
羊公碑なおあり。
読みやめて涙襟を沾す。
 この一編は、この人の集中でも傑作とされているが、その気持ちはまったく羊とおなじものに打たれているらしかった。
 この人よりも十二年おくれて生まれた李白は、かつて若いころこの襄陽の地に来て作った歌曲には、
山は漢江にのぞみ、
水は緑に、沙は雪のごとし。
上に堕涙の碑のあり、
青苔してひさしく磨滅せり。
とか、また
君見ずや、晋朝の羊公一片の石、
亀頭剥落して莓苔を生ず。
涙またこれがために堕つあたわず、
心またこれがために哀しむあたわず。
とか、あるいはまた後に追懐の詩の中に
むなしく思う羊叔子、
涙を堕す山のいただき。
と感慨を詠じたりしている。
 なるほど、さすがの羊公も、いまは一片の石で、しかも剥落して青苔をこうむっている。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいうのであろうが、ここにひとつ大切なことがある。孟浩然や李白が涙をながしてながめ入った石碑は、羊公没後に立てられたままではなかったらしい。というのは、没後わずか二百七十二年にして、破損がはなはだしかったために、梁の大同十年という年に、原碑の残石をもちいて文字を彫り直すことになった。そして別にその裏面に、劉之※[#「二点しんにょう+となりのつくり」、105-8]の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであったにちがいない。こんなわけで碑をせおっている台石の亀も、いちど修繕を経ているはずであるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあおあおとコケむしていたというのである。そこのところが私にはほんとにおもしろい。
 この堕涙の碑は、ついに有名になったために、李商陰とか白居易とか、詩人たちの作で、これにふれているものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜というものが、べつにまた一基の堕涙の碑をいとなんで、羊のために山に立てたといわれている。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところをみると、もっと早く失なわれたのであろう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけをあげているから、こちらはそのころにはまだあったものとみえるが、いまはそれもなくなった。
 羊は身後の名を気にしていたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さえほろびはてた今日にいたっても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらんかぎり、いつの世までも、どこかに彼の名を知る人は絶えぬことであろう。彼の魂魄は、もうこれに気づいていることであろう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともにほろびて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであったらしい「左氏経伝集解」は、今もなお世におこなわれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかわらず、石は案外もろいもので寿命はかえって紙墨にもおよばないから、人間はもっとたしかなものに憑らなければならぬ、ということができよう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込みちがいをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得ているのであろう。
 
 
 
底本:「日本の名随筆88 石」作品社
   1990(平成2)年2月25日第1刷発行
   1996(平成8)年8月25日第5刷発行
底本の親本:「続 渾霽随筆」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年1月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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2007年01月06日

 鏡花は言葉の絵描きさん(かも)

 正月も三日となれば、そろそろと寝正月に飽いてくるころ、ならばパソコンで世間をみようかと前に坐る。眼に入ってきたのは、門田氏の「鏡花は二度読むと面白い(かも)」。氏の解説とは違う鏡花の魅力を私が書いてみようと決心し、いざキーボードを打たん、ところがディスプレイは月も星も隠した闇夜、ええい!と思って画面を打つ真似をする。天罰と思うたか、いきなり今度は、両国あたりの花火大会の花火が出たかと思え、ぱっと現れたるは丸めがねの男が一人。闇夜にぬっと現れたその男、「おいおい」と画面の向こうから声をかける。正月にしては雪もなく、生ぬるい夜さり、何か化け物か何かのたたりかと、息そって椅子から転がりそうになる。そんな私を見て「かっかっか・・」と顎の外れる大笑い。そして「泉鏡花です」とはっきりと声をあげる。その声にきょとんとして、眼をこする。やはりディスプレイの中の男は、写真で見た鏡花先生、めがねの奥に鋭い光を放ち、那須の与一の扇を射る目でまっすぐと私を見さっしゃる。夢の中にいるのかと、頬をつねってみる、痛い。
 私の背筋に冷たいものが走るか?いや、面白そうと、「な、何の用ですか、」と尋ねてみれば、「私の魅力とやらをしっかり書かっしゃい!あんたに書けるかねえ」と励まし半分疑り半分の言葉。そして莞爾と手をふる。私もぽかんと口をあけたまま手を振り返す、横に手を振ればいいものを、ぼんやりけんと縦にふったら、先生、仏壇の蝋燭の消灯と思うたか、ふっと消えていかしゃった。 今のは一体何やったのかと狐につままれたとはこのことよ。まあ、どこまで鏡花先生に迫れるかわからぬが、疑念も励ましの心と思い、書いてみせよう
 それにしてもなぜ私が書くとわかったのやら。其処が聖とも眷属とも知り合いの先生の神通力というものか・・・

 ・・・といんちきくさい鏡花風に切り出してみたが、はなはだ自信が無い。
 門田氏の 「鏡花は二度読むと面白い(かも)」 で 「歌行灯」を取りあげてあるので、詳しい説明は要らないということで私も「歌行灯」から。

 鏡花の文章は、過去と現在の描写の比重が同じなのではないか。登場人物が過去のエピソードを語るのだから、もっとかいつまんでああだったからこうなったと事実だけをいえばいいと思うのだが、鏡花は、現在描写と同じくらい目に映るように書く、

十四章にでてくる少女のお三重・・

しばらくして上って来た年紀《とし》の少《わか》い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥溜《はきだめ》に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬《とうちりめん》じゃあるが、もみじのように美しい。結綿《いいわた》のふっくりしたの・に、浅葱《あさぎ》鹿《か》の子の絞高《しぼだか》な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝許《ひざもと》で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰《なまず》の鰭《ひれ》で濁ろう、と可哀《あわれ》に思う。この娘が紫の袱紗《ふくさ》に載《の》せて、薄茶を持って来たんです。

十五章にでてくるお三重・・・

傍《かたわら》に柔かな髪の房《ふっさ》りした島田の鬢《びん》を重そうに差俯向《さしうつむ》く……襟足白く冷たそうに、水紅色《ときいろ》の羽二重《はぶたえ》の、無地の長襦袢《ながじゅばん》の肩が辷《すべ》って、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋《なよ》やかに、打悄《うちしお》れた、残んの嫁菜花《よめな》の薄紫、浅葱《あさぎ》のように目に淡い、藤色|縮緬《ちりめん》の二枚着で、姿の寂しい、二十《はたち》ばかりの若い芸者を流盻《しりめ》に掛けつつ、

 抜粋した文章を読んでもらえばわかるが、語り手は、見えることだけしか描かない。見えないことは描かない。それは全編を通っている。だから登場人物は、自分で心中を吐露し、正体も自分で言うことになるのだろう。それはまるで絵描きが、構図と色彩で鑑賞者を自分の世界に引き込むことと似てはいないか。鏡花は、構成と言葉で読み手を引き込む。鏡花の場合は、引きずり込むと言ったほうが合っているかもしれない。

霜月十日あまりの初夜。中空《なかぞら》は冴切《さえき》って、星が水垢離《みずごり》取りそうな月明《つきあかり》に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯《ともしび》ちらちらと目の下に、遠近《おちこち》の樹立《こだち》の骨ばかりなのを視《なが》めながら、桑名の停車場《ステエション》へ下りた旅客がある。

  冒頭の部分、見たままが描かれてある。視線が上から下へと流れる。そして言葉で気温まで表現する。その静かな迫力。
 
この話の圧巻は、なんといっても最後のお三重が舞うところだろう。登場人物の動きとその動きを演出する日本語の美しさに感嘆する。

 

その時、漲《みなぎ》る心の張《はり》に、島田の元結《もとゆい》ふッつと切れ、肩に崩るる緑の黒髪。水に乱れて、灯に揺《ゆら》めき、畳の海は裳《もすそ》に澄んで、塵《ちり》も留《とど》めぬ舞振《まいぶり》かな。

よろめく三重の背《せな》を支えた、老《おい》の腕《かいな》に女浪《めなみ》の袖、この後見の大磐石に、みるの緑の黒髪かけて、颯《さっ》と翳《かざ》すや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、灯《ともしび》を白《しら》めて舞うのである。

 視線が上から下へ、もしくは左右にと流れ、その場にいる錯覚さえする。錯覚しながら、はたと気づく。具体的にお三重ってどんな顔であるか書いてあったか?・・具体的に知らないはずなのに、読み手は、柳腰のすらりとした日本美人が舞扇を翳す姿を思い浮かべることができる。
 なぜそれができるのか、鏡花は、紡いだ言葉(比喩)を正確に編んでいく。編まれたものを読み手はイメージとして受け取るからだろうと私は思う。ということは、言葉の位置がずれたら、イメージを見失う危うさが鏡花にはあるのかもしれない。

 人間を内面から、言葉にした一等級が芥川龍之介だとすれば、人間を風景の一部と見て、絵を描いた一等級が鏡花である。どちらも人間を描いているのだが、内からみるか、外からみるかの違いである。それを知って読まないとそれぞれ何がいいたいのか?また何がかいてあるのかがわからなくなってしまう。

 つらつらと思いつくまま書いてみた。まだまだ言い足りないような、それでいて無駄な言葉が多すぎたような・・ディスプレイの中から、鏡花先生の「ふふふ」と笑う声、「まだまだ読みがたりんよ」と権のあるものいいを付け足す。正月の月夜のしだれ柳と、思わず私の頭は垂れ、ため息一つ。

小説に用ふる天然
小説文体

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2007年01月04日

 群盲、象をなでる

 ある盲人は象の足をなでながら「大木のようだ」といい、ある盲人は鼻をなでながら「大蛇のよう」といい、耳をさわった者は「大きなうちわ」と、腹をさわった者は「太鼓」と、しっぽをさわった者は「ほうきのようだ」と答えた。いずれの答えも正確でない。正しい実体を知らずにあれこれ私見を述べあうことや、無知な人がいくら集まって論じあっても正確な答えにたどりつくことができない、こんな内容の故事だったと思います。とりたてていうまでもなくあたりまえのことなのですが、この故事は障害者や「無知な人」をあからさまに侮辱・けなす表現ですから、好ましい表現とはいえません。どんな場所・場面でも使用はゆるされない故事です。いまとなっては、おおやけに使われない、教科書や新聞やテレビではぜったいに見かけない表現です。

 ゆうくんのレポートを読んでいて、ふとドキュメンタリー映画祭終了後の、ある監督のコメントを思い出しました。その人は「自分の作品の海賊版DVDが大量に出回ってほしい」と、テレビカメラの前で語っていました。さらりと。「そうでもなければ、この作品が自国の人たちの眼にふれることはないから」と、ほほえみながらいうのです。

 デジタルテキストがさまざまな形で利用できることは、強調してしすぎることがありません。視覚障害者の件にとどまらず。ただしそれは、デジタルテキストの良い面・可能性のみをアピールすることであって、裏の面にあえてふたをして見ないように(見せないように)誘導しているような印象を受けます。アピールしたい気持ちはじゅうぶんわかります。しかし、自分で自分の存在意義・活動の意義を強調しはじめることは、たいへん危険な行為でもある。
 評価とは他者がくだすもの。利用ガイダンスはどうか、サービスの質やレスポンスはどうか。そもそも、どんなことをやっている集団なのか。なんのために。腹にいちもつ持ったあやしい集団じゃないのか。直接アクセスしている利用者は、そういう青空文庫の日常をすったもんだの過程もふくめて体感してくれています。そのうえで個々が評価をしてくれている。
 ところが新聞などのマスメディアでは、すったもんだの部分は省かれて、表層の評価がひとり歩きをはじめます。わかりやすいところ・見てくれのいいところ・理想化されがちなところ・語りやすいところ・他者との識別にもってこいのところなどが取り上げられ、くりかえされ、認知されるようになります。実体から生まれたにはちがいないけれども、実体のほんの一部のみが伝播される。くり返されるうちに一部であったはずのところが、実体をおおいつくす。実体よりも虚像のほうがリアリティを獲得するようになる。幽霊の出現です。

 メディアがわるいわけじゃない。メディアは紙面や時間枠がそもそも有限だから。ところが刷りこみとは恐ろしいもので、オリジナルよりも幅をきかせるようになり、一般に受け入れられてしまう。悪意が介在するかどうかは問題ではありません。
 幸田露伴「平将門」や海音寺潮五郎『風と雲と虹と』など、生前の将門に関する伝記小説を読むと、正直、あまり魅力を感じることができません。どちらかというと、なまぐさい権力闘争にまきこまれた、どこにでもいそうなさえない田舎オヤジのような印象があります。ロミオとジュリエットのような悲劇性も若干加味されてはいるものの、将門の半生には、全体にやぼったさのほうを感じます。
 どうも将門の魅力は、彼の生前にあるのではなく、彼の亡くなったあとのほうにあるんじゃないだろうか。田原藤太にあっけなく打ちとられたあと、三条河原にさらされたサレコウベがケタケタ笑ったとか、サレコウベがふたたび都から関東をめざして飛んだとか、末裔がどこぞへ逃げのびたとか、皇居前の首塚の一連のたたりの話とか。将門の魅力の半分は、彼の虚像・幽霊にある。伝記小説・史実を再現した大河小説では、ものたりないのはあたりまえなのです。

 デジタルテキストのメリットと可能性を青空文庫は活用しています。それゆえに参加しているひとりひとりは、負の可能性についても日々、直面しているはずで。ウイルスやスパムしかり。掲示板管理・個人情報管理しかり。予期しない検索情報の集積と逆利用。ソフトやハードウェアへの終わることない依存。デジタルテキストを使うということは、スレイヴになるということでもある。デジタルアーカイブを人にすすめるということは、自分だけでなく他人にもスレイヴになりなさいということでもある。故意に負の面をふせるならば、それはもはや確信的犯行です。

 ピュアな意志が、新聞や映画などのマスメディアに登場することが危険な側面をもはらんでいることを、ぼくたちはイヤというくらい見てきています。包丁は善悪という価値のそとにあります。包丁に悪意があるわけでなく、利用する人の意志、利用する方法にちがいがあるわけです。ネットや文学やフィクション、幽霊もまた同様。
 とくにネットや文学、さらに言語活動や表現活動すべては、実社会と合わせ鏡のような関係にある。鏡にうつる像は実体ではありません。誇張・虚飾もある。けれど、実体が実体をそのまま認識することにも限界があって、ぼくたちは自分自身の顔を見ることができなく、自分の後ろ姿や腹の中を見ることもできなく、自分の声を聞くこともできません。鏡やビデオ、スピーカーの再生音などにたよらないと、ぼくたちは「ほんとう」の姿や声を認識できない。不思議といえば不思議、不条理といえば不条理。ぬけているといえばぬけています。ぬけているところをおぎなおうとするから、鏡や文学や幽霊がある。インターネットの状況をみてなげくひとたちがいますが、それは、鏡に写った自分の姿を見てびっくりするようなものなんじゃないだろうか。

 実社会の出版活動は、青空文庫があろうとなかろうと存在します。けれども、青空文庫はそうはいきません。電子の本が紙媒体の本を凌駕することを懸念するひとがいますが、おそらくそうはならない。部分的にデジタルテキストに置きかえられることはあっても、それがすすむほど逆に紙媒体が重用されることになるはずです。パソコンやワープロが登場したときに、紙の消費量が減るとまことしやかにいわれたのと同様、デジタルテキストはそれだけで存在するというわけにはいかない。言語そのものが虚体であり、デジタルテキストはさらにその虚体です。デジタルテキストをあつかうほど、紙媒体へ依存しないわけにいかなくなります。外字や文字コード問題もそのひとつ。パソコンが搭載するうつろなフォントやコード、あるいは一冊の底本では信頼できなくて、底本や漢和字典をつねに手放せない。デジタルテキストから紙媒体へ。おそらくデジタルアーカイブは、その往復運動のスパイラルから解放されることはない。
 たとえば図書館の索引カードがすべてパソコンに置きかわりました。たしかに検索の便も情報の追加も貸し出しの管理もよくなったかもしれない。と同時に、仮に地震でもおこって停電になれば、図書館に被害がなくても利用ができなくなる。そういう危惧は、交通機関、証券取引、公共放送、銀行ATMなどですでに現実のものとなっています。こと国会図書館でいえば、提供するデータやサービスにこりすぎると、一般的なブラウザからの利用ができないような皮肉な現象が生じます。これはブロードバンドの罠でも同様。世界一ブロードバンドが普及しているということは、世界一、海外からアクセスしにくいものを集団で生み出している、孤立していても気がつきにくい。そういうこともありえます。

 群盲、象をなでる。この逸話をはじめて聞いたとき、こんなことを考えました。たしかに盲人たちは、さわっているものが「象」であるとはわからなかった。では、目の見える、晴眼のぼくたちは、象のことを彼ら以上に知っているといえるのだろうか。象というばくぜんとしたイメージは持っている。けれども、直接、象にさわったことはありません。いっぽう彼らは直接ふれてなでたわけです。感触を知っている。さわったことのないぼくたちと、さわったことのある盲人たちと、はたしてどちらのほうが象のことをよく知っているといえるのだろうか。
 とかく電子図書館と出版業界は対立構造でイメージされやすい。電子図書館は出版業界の権益を害している、と。だから著作権の延長問題でも、両者は意見が対立している“かのような”イメージのもとで認識されがちです。前者が延長反対なのに対して、後者(出版業界側)は延長賛成だと。理由は、いうまでもなく出版業界は既得の出版権利を失いたくないから。著作権者は延長すれば印税収入が増えるから。そう認識しやすい。けれども、ほんとうにそんな単純な二項対立の構図なのだろうか。そもそも、出版業界や雑誌や新聞などのメディアが延長賛成という態度を表明しているのを、まだ聞いたことがありません。延長賛成を表明しているのは、ごくかぎられた個人と業界団体にとどまっています。なんか、既成の巨大な出版業界権力は悪である、かのような単純な反対意見が勢いづいているのは、なにか腑に落ちません。むしろ、ひょっとしたらこの単純対立構造こそ、だれかの用意したシナリオなんじゃないか。

 浮世絵の歴史では、歌麿や広重や北斎といった絵師に目がいきがちですが、それ以上に彼らをかかえていたスポンサーや版元のおよぼす影響力を無視できない。版元には、絵師を見いだし、育成し、仕事をつづけさせる力量がいります。
 現存するこの国最古の著作物も、稗田阿礼や太安万侶たちの共同作業から生まれました。同様に、著作のクレジットは個人の名前になっているとしても、アシスタントや編集者、印刷業者、あるいは論文の指導者やアドバイザー・評者、あるいは家族がその作品制作にたずさわっていることも十分ありえます。むしろ、共同作業をへず自己完結している著作システムのほうが、これまでのパブリッシュの歴史のなかでは異例だった。共同作業。つまり他者依存のシステムです。
 自分の著作に自分でタイトルをつける権利はあたりまえといえばあたりまえのはずだけれど、共同作業のパブリッシュという行為では、成功も失敗も一蓮托生です。もし、著作者個人にその全責任を負わせるシステムにとどまっていたとしたら、現在のような状況もまた期待できなかった。一蓮托生だから売れそうな命名を共同作業で考える。ときに著作者本人を除外して。新聞や雑誌の見出しもしかり。そういったアート生産の経済的システムは、マンガでも映画でもポップスでも大差ない。前途多難なハッピー新年(はあとマーク)。

 メディア業界の再編。考えすぎですか。まあ、単純な反対論も思考停止ですが、業界再編の陰棒説っていうのも古典的な思考停止ですか。おっと、さげさげ。捏造カップ。これはフィクションです。たぶん。


 
2007.1.4
しだひろし/法令順守海賊パルパルパン
翻訳・朗読・転載はぎっちょんちょん。

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2007年01月01日

 空色通信 2006年12月号

2006年12月は、77作品のファイルが公開された。ニュースとしては、「保護期間の延長問題に関するシンポジウム第一回開催」と「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準の改定」があげられる。

【主なニュース】
 保護期間の延長問題に関するシンポジウムの第一回が開催された。賛成、反対に関わらず多くの視点からの意見が聞けたのは大変によいことであったと思う。第二回はいつなのかな?
 また、青空文庫収録ファイルの取り扱い規準が改定された。より多くの人に自由に使えるようになったと思う。詳しくは、そらもようを参照。

【公開作品】
 2006年12月には、77作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 今月の記念モノは、
 12月24日:愛知敬一「ファラデーの伝 電気学の泰斗
 12月25日:オールコット「若草物語
 12月31日:サン=テグジュペリ「あのときの王子くん
である。ついでに、12月30日には島崎藤村「破戒」が公開されている。

 さて、もっとも多くの作品が公開されたのは、蘭郁二郎で14作品(「足の裏」、「」、「息を止める男」、「腐った蜉蝣」、「幻聴」、「孤独」、「自殺」、「舌打する」、「植物人間」、「蝕眠譜」、「鉄路」、「脳波操縦士」、「古傷」、「鱗粉」)が公開された。海野十三とともに戦前SFの大家でありながら、これまで紹介があまりされてこなかった作家である。来月にも公開が予定されている(作業中一覧)。

 次に多くの作品が公開されたのは、岡本綺堂で10作品(「麻畑の一夜」、「鰻に呪われた男」、「怪獣」、「」、「経帷子の秘密」、「くろん坊」、「深見夫人の死」、「マレー俳優の死」、「雪女」、「」)。「青蛙堂鬼談」などのような怪談とは違うが、友人が語るというスタイルは同じ。

 福沢諭吉「瘠我慢の説」が公開された。「丁丑公論」としてまとめられた時に収録された作品(石河幹明「」、福沢諭吉、勝海舟、榎本武揚「書簡」、石河幹明「瘠我慢の説に対する評論について」、木村芥舟「福沢先生を憶う」)も、「瘠我慢の説」を主題名の作品として公開されている。また、福沢諭吉は、「旧藩情」と「新女大学」も公開された。

 翻訳ものとしては、大著であるワルラス「純粋経済学要論 01 上巻」が公開された。上巻だけでこのボリューム、下巻も合わせると結構な量となる。

 推理小説は、甲賀三郎が1篇(「愛の為めに」)、小酒井不木が4篇(「暗夜の格闘」、「名古屋スケッチ」、「髭の謎」、「錬金詐欺」)、公開された。

 初登録作家は、石井研堂と波多野精一。石井研堂は釣りの大家。4作品が公開(「元日の釣」、「研堂釣規」、「釣好隠居の懺悔」、「東京市騒擾中の釣」)されている。「元日の釣」を元日に楽しむのも一興。波多野精一は1篇(「時と永遠」)が公開されている。「釣り」ならやはり「佐藤垢石」だろう。1月には大量に公開される。

 「釣り」のキーワードでは、鏡花の「夜釣」(「新字旧仮名」、「旧字旧仮名」)も公開されている。他には、「南地心中」、「悪獣篇」の2篇。「悪獣篇」はストレートな怪談、「南地心中」は珍しい大阪モノ。また、長谷川時雨が鏡花の魅力を語っている「水色情緒」も公開された。

 豊島与志雄(「或る作家の厄日」、「悲しい誤解」、「牛乳と馬」、「新妻の手記」、「復讐」)と坂口安吾(「朴水の婚礼」、「わが血を追ふ人々」、「不良少年とキリスト」)が公開された。二人とも今年から公開できるようになった作家である。豊島与志雄は160作品、坂口安吾は157作品、公開された。トータルで900篇弱の作品を今年は公開しているので、約3分の1が豊島与志雄と坂口安吾だったことになる。この二人、まだまだ校正待ちの作品が多いので、来年も公開続くことであろう。

 日本の名随筆、日本随筆紀行からは、萩原朔太郎「小説家の俳句」、宮沢賢治「凾館港春夜光景」、島木赤彦「諏訪湖畔冬の生活」、堀口九万一「フランソア・コッペ訪問記」、が公開された。

 三遊亭円朝の「塩原多助旅日記」は、「塩原多助一代記」(校正待ち)の制作秘話のような裏話的小篇である。実際には取材に向う前のところまでで終わっており、取材の記録は「上野下野道の記」(未着手)にある。また、「塩原多助旅日記」「上野下野道の記」の内容に関しては、岡本綺堂が「寄席と芝居と」で詳しく解説している。

 他には、太宰治が3篇(「青森」、「音に就いて」、「純真」)、中井正一が3篇(「機構への挑戦」、「国立国会図書館」、「聴衆0の講演会」)、直木三十五が2篇(「寛永武道鑑」、「寺坂吉右衛門の逃亡」)、萩原朔太郎が1篇(「蒲原有明に帰れ」)、梶井基次郎が1篇(「詩集『戦争』」)、宮沢賢治が1篇(「茨海小学校」)、桑原隲蔵が1篇(「司馬遷の生年に関する一新説」)、久米正雄が1篇(「競漕」)、公開された。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

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