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泉鏡花の作品は人を選ぶ。わかりにくいと言われることが多い。その理由を考えてみたい。題材に「歌行灯」を用いる。ネタバレありなので、気になる人は読まないように。
さて、鏡花作品が敬遠される理由を挙げてみる。
1 現在では使われない言葉、表現が多い。これは、ちくま文庫版に大量の註が入っていることでもわかる。
2 一文が長く、描写が過剰。映像的とも言えるが、逆に過剰に描写してあるのでわかりにくくなる。
3 時系列がぽんぽん飛ぶので、ストーリーとしてはわかりにくい。また、神の視点を用いて場面を変えるのではなく、登場人物の語りという形で時系列が過去へと飛ぶので混乱しがちである。
とこんなところだろうか。
1に関しては、辞書を引いてもらうなど、で対応してもらうしか対処はない。2はさらに対処なしで、馴れてもらうしかないだろう。
3に関しては、これも作者の特徴と言えばそれまでだが、何故このようなことが起こるのか、考えてみよう。その理由から、鏡花の楽しみ方も見えて来る。
題材には予告しておいた通り「歌行灯」を用いる。3について考えるには、短編よりも少し長めの作品の方がわかりやすいので、この作品を使う。全23章からなっている。内容としては、鏡花の代表作である「高野聖」のような怪奇譚ではなく、芸道ものとも分類される。
まず、各章ごとに何が描かれているか、をざっと記してみる。視点、起こったこと、時系列、で記す。内容の簡単な紹介は、Wikipediaの歌行灯を参照。
登場人物
二人の老人:恩地源三郎(能役者)、辺見秀之進(雪叟、小鼓の名人)
門附:恩地喜多八、恩地源三郎の養子。
宗山:謡の師匠。
お三重:宗山の娘。父の死後、芸者になる。恩地喜多八より舞と謡を習う。
1:二人の老人視点。初冬の桑名駅に二人の老人が到着する。現在。
2:二人の老人視点。二人は車に乗り込む。博多節を唄う男(門附)登場。現在
3:門附視点。門附が饂飩屋に入る。現在。
4:門附視点。二人の老人の宿(湊屋)について尋ねる。現在
5:門附視点。饂飩屋を出る。按摩の笛を聞く。現在
6:二人の老人視点。湊屋にて。現在
7:二人の老人視点。焼き蛤談義。「弥次郎兵衛」と「捻平」と名乗っている。現在
8:二人の老人視点。「弥次郎兵衛」芸妓を呼ぼうとする。現在。
9:門附視点。湊屋に向う芸妓を見かける。現在。
10:門附視点。門附、按摩を呼ぶ。現在。
11:門附視点。按摩を殺したことを告白。現在。
12:門附視点。三年前、古市に来た事。過去。
13:門附視点。古市の宗山に会いに行く。過去。
14:門附視点。宗山に会う。過去。
15:二人の老人視点。お三重(芸妓)登場。現在。
16:二人の老人視点。お三重、三味線が弾けなくて困る。現在。
17:二人の老人視点。お三重、舞う。現在。
18:二人の老人視点。お三重の昔語り、始まる。現在〜過去(お三重語り)。
19:お三重視点。お三重、門附と出会う。過去。
20:お三重視点〜二人の老人視点。お三重、門附から舞と謡を習う。二人の老人の正体、判明。過去〜現在。
21:門附視点。宗山を追いつめる門附。門附の正体、判明。過去。
22:門附視点。宗山自殺。恩地喜多八は破門。過去。
23:門附視点〜二人の老人視点。雪叟の小鼓を聞き、喜多八がお三重の舞う湊屋までたどり着く。源三郎、喜多八の謡、雪叟の小鼓、お三重の舞、で締めくくられる。現在。
気付いた事を列挙してみる。
・二人の老人と門附の視点が交互に変りながら話が進む。しかし、20章に至るまで、この3人が誰なのか、わからない。しかし、話はまるでそういった説明がわかっているものとして進められている。
・過去の話は、全て登場人物の語りで進められる。
・現在の時点のみを考えると、二人の老人が桑名に着いて、芸妓を呼んだら、昔破門した養子の弟子だった、というだけの話。
話がわかりにくい理由は
1 登場人物について説明がなく、わかったものとして話が進む。
2 現在で起こっていることよりも、過去で起こった事がメインなので、時系列がよく飛ぶ。
といったところだろうか。では、登場人物を説明しつつ、メインの過去の話を時系列順にならべるとどうなるだろうか。
時系列順にならべたもの(数字は前述の記載と同じ)
12、13、14:3年前、喜多八の話
21、22:3年前、喜多八の話
18、19、20:喜多八放浪中、お三重に謡と舞を教える
3、4、5、9、10、11:喜多八、饂飩屋にて
23:喜多八、湊屋に向う
以下は別視点(二人の老人視点)の時系列順にならべたもの
1、2、6、7、8:二人の老人、桑名に着いて、湊屋に泊まる
15、16、17:二人の老人、芸妓を呼ぶ
時間順に説明して、喜多八をメインに話を進め、所々に二人の老人の話を入れる(もしくは、23の前に一気に二人の老人視点の話を入れる)とすれば、ストーリーはわかりやすく、そして登場人物の説明も出来る。この並べ方ならば、語りを使う必要もなく、直接的に描写できる。ラストシーンに変更はない。
では、何故鏡花はわかりやすくストーリーを展開しなかったのだろうか。もう一度、各章のエピソードを見直してみよう。今度は、時系列と視点ではなく、起こったこととその印象度(どのくらいインパクトがあるか、私の主観)で見直してみる。
1:初冬の桑名駅に二人の老人が到着する。普通。
2:二人は車に乗り込む。博多節を唄う男(門附)登場。普通。
3:門附が饂飩屋に入る。普通。
4:二人の老人の宿(湊屋)について訪ねる。普通。
5:饂飩屋を出る。按摩の笛を聞く。普通。
6:湊屋にて。普通。
7:焼き蛤談義。「弥次郎兵衛」と「捻平」と名乗っている。普通。
8:「弥次郎兵衛」芸妓を呼ぼうとする。普通。
9:湊屋に向う芸妓を見かける。普通。
10:門附、按摩を呼ぶ。普通。
11:按摩を殺したことを告白。印象度高い。
12:三年前、古市に来た事。印象度高い。
13:古市の宗山に会いに行く。印象度高い。
14:宗山に会う。印象度高い。
15:お三重(芸妓)登場。普通。
16:お三重、三味線が弾けなくて困る。普通。
17:お三重、舞う。普通。
18:お三重の昔語り、始まる。印象度高い。
19:お三重、門附と出会う。印象度高い。
20:お三重、門附から舞と謡を習う。二人の老人の正体、判明。印象度非常に高い。
21:宗山を追いつめる門附。門附の正体、判明。印象度非常に高い。
22:宗山自殺。恩地喜多八は破門。印象度非常に高い。
23:雪叟の小鼓を聞き、喜多八がお三重の舞う湊屋までたどり着く。源三郎、喜多八の謡、雪叟の小鼓、お三重の舞、で締めくくられる。印象度マックス。
実に、10章を経過するまで印象度はあまり高くない。また、この10章に伏線とでも呼べるほどの描写もない(何かを臭わす描写はあるが)。このエピソードの並べ方は、印象度の低い順になっているのだ。
最初が地味で最後が派手という構成は、実はよく見かける小説作法である。具体的に言えば、推理小説や怪談である。では、何故鏡花の作品がわかりにくいと言われてしまうのだろうか。それは、最後のオチとでも呼ぶべき落としどころを共有しにくいからである。推理小説ならば最後に犯人がわかるし、怪談なら何かぞっとして終わる。こういうわかりやすい結末がないために、同じような構成でもわかりにくいと思われてしまうのだろう。
鏡花のくどいまでの描写は、地味なエピソードでも際立っている。そう、まるでジグソーパズルのピースのように。起こったことをわかりやすく説明する、起承転結のようなストーリー展開ではなく、ジグソーパズルを完成させるためにそれぞれのエピソードが語られているのだ。ジグソーパズルを中央から始める人はいないだろう。鏡花も、最後に完成する一枚絵の枠の部分から、ジグソーパズルを始めている。だから、最初は印象度の低いエピソードが続くのだろう。最後に近づくに従い、それぞれのエピソードから絵が見えてくる。ジグソーパズルの最終過程のように、展開は加速し始めるのだ。そして、たどり着く最後の一枚絵。この最後の絵が鏡花の頭の中にはあるのだろう。そして、それを印象的にするために、各エピソードを配置したため、時系列の乱れが生じてくるのだろう。
さて、締めくくりに鏡花をより楽しむ方法を提案しておこう。題名にもあるように、「二度読む」のがコツだと思う。最初に挙げたわかりにくさの問題も、二度目に読む時には、難しい言葉、表現ももう辞書を引かなくてもわかるはずだし、過剰な描写にも馴れてくれていることと思う。良質なミステリは、オチを知ってももう一度伏線を確かめながら楽しむことが出来る。鏡花のオチは、ミステリとは少し違うが、最後の完成図を頭に入れて、それぞれのエピソードがどういう風に嵌め込まれ、完成図へとたどり着くのか、を楽しむことで、よりはっきりとすると思う。最後に向って加速してゆく(ピースそれぞれが互いに関連を示し始めた時のように)その感覚を楽しんで欲しい。
さあ、一度鏡花作品を読んだあなた、是非もう一度読み直してみて欲しい。そうすれば、鏡花作品の面白さがよりわかると思うから。