「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第一回シンポジウムに関する雑感(3): aozora blog 発信
「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第一回シンポジウムに関する雑感(5): aozora blog 発信

2006年12月17日

  「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第一回シンポジウムに関する雑感(4): aozora blog 発信

◇著作権における〈子ども〉

「パネルディスカッションの最後には,会場の福冨忠和ディジタルハリウッド大学教授(発起人の1人)から「保護期間延長に反対の人は,皆さん子供をお持ちじゃないから未来に対するイメージが(子供をお持ちの方と)違う。少なくとも,このパネルディスカッションに参加している皆さん(山形氏,平田氏,富田氏)はそうですよね」という主旨の発言があった。個人的には,この日の延長賛成派の発言の中で,最も説得力のあるものだった。」(神近博三「著作権保護期間について「延長賛成派」の意見を聞いた」ITpro、2006)

という記事は、神近さんのものすごい皮肉を感じてならないのだけれど、確かにこの意見は面白いことは面白い。めちゃくちゃ面白い。だが、それ以上に何かがあるというわけでもない。なぜなら、それは何の実際的な検証を経たものでなく、単なる思いつきに過ぎないからだ。

子どものいる人は著作権延長したがっていて、子どものいない人は著作権の延長をしたくない。そんな簡単な議論だろうか? それこそ調査するとき、子どもの有無と著作権に対する感覚の違いを調査しなければ、この発言は何の意味も持たない。また、その〈子ども〉という言葉からイメージするものも違ってくるはずで、著作権における〈子ども〉の定義って何なのか、ということも考えてみなくてはならないだろう。

たとえば、松本さんの場合、〈子ども〉という存在は、財産を残す対象というわけではないように思う。作品と自己の存在の関係の中で、子どもという要素が切っても切り離せない現実だからこそ、〈子ども〉という存在が出てくるのであって、松本さんが何度も繰り返すように「お金はどうでもいい」のである。つまり著作と不可分な「自己の人格」の中に、子どもというものも入ってくるからである。たとえ創作者であれ、生きるものであり、生活するものである。その人生というのは、妻とともに作るものであり、子どもと作るものである。そしてその人生の中から、作品が生まれる。松本さんが「創作者は妻と子どものために……」というとき、そういう作品との繋がりが頭の中にあるから、そういう言葉が出てくるのではないか。だから、松本さんは、別に見たこともないひ孫などのために財産を残したいというわけではないんだ、という弁解の言葉も言うのではないだろうか。まだ見ぬ子孫と自分の繋がりは、作品において何らの人格的関係を有しないからである。

「子孫に財産を残したい」といっても、単にぼんやりとした〈子孫〉というもの、未来永劫の子孫に対して繁栄を求める人もいれば、そうではなく自分の人格に関わる範囲の子孫に対してしか財産の継承を求めない人もいるだろう。だから、一概に〈子ども〉なんていうのは、ずいぶん曖昧で危険な議論のように思える。

また、子どもはいるけど延長に反対の人、子どもはいないけど延長に賛成の人、そういう人は普通にいるはずである。そういう人の意見も、ぜひ聞いてみたい。そこにどういう感覚の齟齬があるのか、違いがあるのかということが、果たしてどこまでこの著作権延長の議論に関わってくるのかわからないが、もしこの単なる思いつきをさらに発展させていこうと思えば、そういうことも必要なのだろう、と思う。


◇本当にお金を払うだけが著作者への敬意になるのか

本当にすごくびっくりしたのだけれど、富田さんがおもむろに芥川龍之介(子どもがいます)の「後世」を朗読した。実のところ、この作品は私の入力した作品で、すべての芥川作品の中でいちばん好きな文章だ。富田さんは、この作品をずいぶん気に入ってくださったみたいで(入力した身としてはとても嬉しい)、以後よく引き合いに出してくださっている。(「読書blog すいへいせん」の「世話役が推すこの一冊 富田倫生」を参照)

「時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆(うづだか)い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚(しみ)の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし——
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。」(芥川龍之介「後世」青空文庫、2003)

こういう文章に接すると、本当にお金を払うだけが著作者への敬意となるのか、ということについて、疑問が生じてくる。いみじくも三田さんが「芸術家はお金のために創作している訳ではないが、『誰かにちょっとほめてほしい』と思っている」と発言したように、未来の誰かにその作品を見つけられて、ぼんやりと蜃気楼を思い浮かべて、「あ、これ、いいな」と思ってもらうことが、いちばん大事なことなんだと思う。

だけど、それが三田さんのいう「著作権は、50年後や70年後に誰かにほめてもらうための権利」に繋がるとは思えない。誰かにほめてもらうためには、そのために著作物が存在する場所というものが必要になる。まず、みんながアクセスできる場所にその作品がなければ、誰かにほめてもらうこともできないのだ。

もし、50年経とうとずっとそれが市場に存在して、それを購入することができれば、その行為によって、ある意味、敬意を示すことができるのかもしれない。だが現在、50年経ってどれだけの著作物が絶版にならずに済むかということを考えれば、まずその購入という敬意の行為を取ることすら難しいのがわかるだろう。

2005年7月16日付けの朝日新聞「be on Saturday」に掲載された丹治吉順さんの「保護期間延長で、埋もれる作品激増? 著作権は何を守るのか」という記事とそれに添えられた画像をぜひ見てほしい。積み上げられた本のうち、半分以上が海に浸かっているのがわかるだろう。著作権があるにもかかわらず、50年経ったとき、半数以上の本は購入することができなくなっている。購入はできなくても、図書館に行けばあるかもしれない。だが、図書館に手に取ったとして、そこからどうやって敬意を示せばいいのか。

なにも敬意を示す行為というのは、お金を払うことだけではない。シンポジウムでも触れられたように、ネット上でコメントするとか、人に「この本いいよね」と勧めることとか、amazon の本のページににリンクを貼るとか、その方法はいくらでもあるのだ。

青空文庫の工作員は、概してみんなその作品や著者に敬意を持っている。そして、その敬意をどうやって表現していいかと考えたとき、その行動のひとつとして、「入力校正して公開すること」を選んだとも言えよう。この本から受けた感激を、誰かと分かち合いたい。しかし、この本は誰もが手に取れるわけではない。もはや書店では手に入らない、あるいは入りにくい本なのだ。たとえ人に勧めたとしても、その本が手に入らなければ、どうにもならない。

そのとき、著作権が失効しているならば、その敬意は大きく広がる可能性を持っているのではなかろうか。この本から受けた感動を、みんなにもぜひ感じてほしい、そう考えたとき、自らその本を出版し、多くの人の手に届けるというのは、かなりわかりやすい手段だ。そのときに作品の公有化が法律によって保証されていれば、青空文庫やテキストアーカイヴの活動に参加して、より多くの人に対して、無料で出版することもできる。一度失ってしまった敬意の手段をも、復活させることができるかもしれない。

富田さんが言うように、その復活の機会を、その「ちょっとほめてほしい」という気持ちを、テキストアーカイヴは支援することができる。そして、著作権が延長されれば、その機会というものは、可能性というものは、20年後まで先延ばしされてしまう。

確かに、松本さんの言うように、芸術作品が残るか残らないかは、運命かもしれない。ただ、今この著作権延長問題に関連して、作品の未来というものを、その未来の可能性というものを、狭めようとしているのは、あるいは消そうとしているのは、運命ではなく法律であり、国の主権を持っているはずの私たちなのである。


まだまだ(5)に続く

★この文章を書いた人→大久保ゆう★こんな時間に→2006年12月17日 17:20 ★トラックバック




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