「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第一回シンポジウムに関する雑感(1): aozora blog 発信
「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第一回シンポジウムに関する雑感(3): aozora blog 発信

2006年12月14日

 「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」第一回シンポジウムに関する雑感(2): aozora blog 発信

◇富田倫生さんの発言より

青空文庫の富田さんの発言については、この aozora blog をご覧になっている方ならおなじみ(?)の内容なので、ここで改めて補足説明することもないだろう。しかし、この富田さんの発言については、のちの質疑応答において、疑念が呈されている。

その論旨というのは、以下のようなものだったと思う。青空文庫のテキストファイルは、視覚障害者の読書に役立っており、これは著作物の社会の財産という観点から大きな恩恵を与えている。それが著作権保護期間延長によって阻害されるというが、視覚障害者の読書環境に不備があるのは、日本の福祉行政の遅れであって、何もその遅れを著作権法に押しつけなくてもいいではないか、それは別の問題ではないか、とのことだ。

これについては、富田さんも何か言いたげだったが、司会者に「後で」と制止され、結局その件については、何も言えずじまいだった。(なので、ぜひ富田さん、あのときに言いたかったことを書いてください!)

富田さんがいったいあのとき何を言おうとしていたのかは別として、私も視覚障害者の読書環境について色々とかかわったことがあるので、そういう立場もからめつつ、その意見についてコメントしてみたいと思う。

まず、視覚障害者の読書環境が不備であることについて、日本の福祉行政に遅れがあるというのは、疑いようのない事実である。ただ気になるのは、視覚障害者にとって読書環境が〈どれくらい〉不備であるのか、という想定が、あまりにも軽すぎるということだ。いったい視覚障害者にとって読書(というよりは、読みたい本の確保)がどれほど困難なものであるのか、その現状は少なからず考慮してほしいと思う。

たとえば、年間に出る書籍の数は、2001年でだいたい7万点で、目の見える人にとっては、絶版などでない限り、お金さえあれば、そのどの本も購入することで読むことができる。そこで、まずそれだけのアクセシビリティが無条件に保証されているということでもある。しかし、視覚障害者は年間にどれだけ本が刊行されようと、それが活字であり、印刷された本という媒体でのみ刊行されている以上、その本へアクセスできる点数は、ほとんどゼロから始まらざるをえないのである。そしてその出版が毎年繰り返されるわけで、その差というのがどれだけ恐ろしいものであるかわかるだろう。

そしてもし視覚障害者にとって読みたい本があった場合、もし国からの資金援助があれば、そのお金でもって点字出版物の制作会社などに頼み、点字本にしてもらう。あるいは、お金のない場合、とりあえず市販の本を購入して、その本を元にボランティアに点字本の制作や、朗読用テキストデータの制作を依頼することになる。どれも、ひとつひとつ一からの作業だ。たとえお金があっても、援助額は微々たるものだし、そもそも手作業であるわけだからコストや手間がものすごくかかる。会社であれボランティアであれ、一年で制作できる点訳本、基礎データの数というのは限られており、その生産数・スピードは人間の読書欲求のサイクルにほど遠いところにある。本を読みたいと思ってから一年後にようやく読める(聞ける)ようになる、というケースもよくあるのだ。

小説家の三田誠広さんの最後の発言で、文芸家協会が視覚障害者のために私権である著作権を放棄し、録音図書の一括許諾が可能になる、という話があった。もちろん、確かにその点は大きく評価できる。けれども、放棄されたから明日から自由に読書が可能になるかといったらそうではなく、録音図書の制作には依然としてボランティア等の莫大な努力に頼らざるを得ないのが現状だ。一年の書籍の発行点数に比べ、一年にどれだけの録音図書が制作可能だというのか。そこに読書環境の大きな開きがある。

こういう状況において、青空文庫がその福祉行政の遅れをすべて補えるとはとうてい思えないし、著作権法という枠組み自体で補えるとも思えない。本気で読書環境の整備をしようと思えば、すべての出版社が国会図書館へ本を任意で提出しているような同じやり方で、しかるべき機関なりに本の基礎データを納めさせるべきだろう。もしそんなことが可能であれば、一気に物事は解決できるかもしれない(データ変換の作業を考慮に入れないとすれば)。

ただ、青空文庫というテキストアーカイヴのモデルが示そうとしているのは、そういうことではないと思う。何か本というものが公有財産となって、基礎データ化されることについての可能性なのだと思う。基礎データ化されたデータそのものの可能性でもある。

本が基礎的なデータとして公有化されるということは、それまで活字というもの、本という物質形態が持っていたアクセシビリティの壁を、一気に取っ払ってしまうのだ。それはお金という壁でもいいだろう。海外という壁でもいいだろう。本がデータとして公有化された瞬間、誰でも簡単にアクセスできるようになってしまうのだ。

視覚障害者の利用というのは、あくまでもその一例であって、視覚障害者のために本を公有化せよ、という議論ではない。インターネットという技術が生まれたことによって、著作権法にはものすごい可能性が生じてきた。本当に本が自由になる時代が来てしまった。それは自分たちが考えていた以上に、ものすごい展開になっている。ものすごい効果がある。青空文庫が問いたいのは、その可能性を目の当たりにしたわれわれが、議論もなしに、その可能性がなし崩し的に削られるのを黙って見ていていいのだろうか、われわれはその可能性を本当に削ってしまってもいいのだろうか、ちょっと考えてみようじゃないか、ということではないのか。

そして青空文庫としては、その可能性を、常に新しい作品を公有化することで、人々に知ってもらい、感じてもらうことが大事なのではないか、ということで、だから富田さんは、きっと「テキストアーカイヴってすごいでしょ、こんなに可能性があるんですよ」ということを言いたかったのではないか、と勝手に思ってるのだけれども、どうなんでしょうか富田さん。


◇田中辰雄さんの発言より

今回のパネルディスカッションで、私が誰よりもその発言を期待していたのが、この田中辰雄さんの実証的な議論だ。それは田中さんが経済学者として参加されているように、延長の賛成・反対、どちらがより有効な意見なのかどうか、ということをきっちり考えていこうじゃないか、という観点だからである。

議論というのは、感情論で話をしても、あるいは論理的な言葉で話をしても、明確なデータがなければ、客観的に決着がつくということは、ほとんどないといっていい。それぞれ個人の中では、これは正しいと思っているのであって、そう思いこんでいるからには、一方は相手を説得することなどできないだろうし、その逆もまたしかりである。で、あんたの言うことは正しくないと思うけど、しょうがないから妥協点を見つけることにしましょう、ということになる。

田中さんのいう考えていく〈手がかり〉というのは、以下のものだ。(この件については、現場にいた青月にじむさんの記事の方が正確で適切。ぜひそちらを読んでください。10/17追記)

 ・創造者の側の利益、利用者の側の利益を、多角的に検証する。
(過去においてなされた期間延長による変化とは、どのようなものであったか。延長によって新しいものが生み出されたか否か。多くの国の多くのデータを集めること。)

 ・直接、話を聞く。
(それぞれのクリエイターの意見。どれくらいの人が、どれくらい本当にやる気を出るのか、出ないのか。)

 ・作品のライフサイクルを調べる。
(延長によって、どれくらいの本が活用されたり、死蔵されたりするのか。出版経過年数と売り上げの比較。)

 ・パブリックドメイン化することによる利益を調べる。
(パブリックドメイン作品の市場規模とは、いかなるものか。その作品から再創造された例はどれくらいあるのか。延長によって再創造が延期されるものは、どれくらいあるのか。あるいは、それにまつわる国際貿易の収支はいかに変わるか。)

基本的には財産、収入にかかわる問題なので、そういった側面から攻めるのがフェアな議論で、そのためのたたき台をこうやって田中さんは示したわけだが、まだそれぞれのデータがほとんど出そろっていないし、結論を出すのは時期尚早というのが、彼の意見だ。

おそらくそのデータをそろえる作業と平行して、もっともっと論点を詰めていくということも、賛成派・反対派の議論の中では必要で、定義も一致していない、話す論点も食い違っているではどうにもならないので、次回からは「今回の議題は〈模倣〉について」だとか、「今回の議題はクリエイターの〈やる気〉について」だとか、そういう小さな個別的な議論を積み重ねていく方向になるのだろうな、と見ている側は、勝手に考えていたりする。その整理という面で、田中さんの発言や、その方向性は、非常に効果的なのではないか、という感想を抱いた。


◇なぜ今70年に延長するという議論なのか

という司会の中村伊知哉さんの問いかけに答える三田さんの話は、ちょっとどこかぴんと来ないところがある。まずアメリカやヨーロッパでは70年であるという話を聞いて、聞いちゃったら同じようなものを作っているのに何で50年なんだろう、やる気が出るかどうかはわからないけど、こっちも70年でいいじゃないか、という姿勢なのだとしたら、そこに抜け落ちているのは、「なぜアメリカやヨーロッパでは70年なのか」という思考だ。

アメリカで著作権の存続期間が延びたのは、ひとえに某ネズミさんを守るためだとか、著作権を管理する側の利益のためだとか色々あるわけなのだが、それは著作者本人とは、あんまり関係がない。向こうが70年にしたからこっちも……という論法なら、まずは向こうの論理とやらを精密に検証して、そのことを説明してから、70年どうしましょう、という議論をするのが筋じゃないのか、と思ったりもする。

とりあえず70年だからその70年というお題目を持ってきて、さあみんなどうしよう、という話になってしまうと、そりゃあみんな議論や定義やあっちこっち行って、まとまるものもまとまらない。特に松本さんの場合、おそらく向こうの事情というものはご存じないだろうから(知っていらっしゃったら本当にごめんなさい……)、まずお題目の〈70年〉ありきで話が始まって、そこから和気藹々と話しましょうよ、ということを言うんだけれど、その〈70年〉ってそもそも何なのか。

和気藹々に話を進めようという松本さんにはすごく好感が持てるのだけれど、その辺の理解について、参加者同士で知識の共有をしてないというか、前提の違いというか、そういう溝があらかじめ存在していて、それが詰まってない状態で話が進んでしまったのだと思う。だから私としては、ぜひ今度シンポジウムをやることがあれば、〈70年って何?〉ということをやるといいのではないかと思う。

そういう説明が不足しているから、〈70年〉だけ取り出して、これは人間の一生と同じだから根拠があるんだ、という話になるんだろうと思う。たとえそれが人間の一生に近いとしても、それはただそこから〈70年〉というものさしを作っただけのことで、それが人間社会の、人間の生活のどこに当てはめて妥当性があるのか、その妥当性を検証したことにはならない。たとえば、私の中指の長さを〈一おおくぼ〉としたとき、その〈一おおくぼ〉でいったい何をはかるのか、それがわからなければ、ものさしを作る意味がない。その〈70年〉で死後の何を計るのか。本当に、何を??


(3)に続く

★この文章を書いた人→大久保ゆう★こんな時間に→2006年12月14日 22:17 ★トラックバック




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