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地上に鐘が鳴り響く。人が死んだのだろうか。それとも、死に臨む病人のために鳴っているのか。あるいは、私は自分のことを、今以上に深く考えるべきだということか。周りの人々が私のありさまを見て、何も知らせず私のために鐘を鳴らせているのかもしれない。
地球は我々すべてを包み込む、我々の生きるひとつの世界だ。だから、地球の起こすこと、なすことは、すべての人間にかかわっている。地球に赤子が生まれるのなら、その出来事は私にかかわりがある。なぜならその赤子は、私もその一員である人類というものの中に加わるからだ。同じように、地球に人が埋められ葬られたら、その出来事も私にかかわりがある。
全人類というものは、宇宙という著者によって書かれた一巻の書物だ。ある人が死ねば、その本の一章は破り捨てられるのではなく、死というものへ翻訳される。すべての章は、そのように翻訳されるよう定められている。ただ、宇宙の雇う翻訳者は、幾人かいる。あるものは〈老年〉によって訳され、またあるものは〈病気〉という訳者によって訳されるだろう。あるものは〈戦争〉によって訳されるだろうし、〈正義〉というものによって訳されることもあろう。だが、宇宙はすべてのものを翻訳するのであり、最後にはその手で我々という散らばったページをひとつに綴じるのかもしれない。
鐘は、鐘を意識するもののために鳴る。いったん止んだとしても、あるとき心を動かしたのであれば、そのときから、人は地球と一体になる。太陽が昇れば、その太陽は人の目に入るだろう。災いがやってくるのであれば、それを避けたくなるだろう。どんな時であれ、鐘が鳴れば、その音は人の耳に入らざるを得ない。そして、自分の身体を突き抜けていくその音を、自分の耳から取り除くことのできるものは、この世界に存在しない。
人ひとりというものは、それだけで完結するひとつの島ではない。どんな人であれ、大きな陸の一片であり、大地の一部なのである。もし一塊の土くれが海に流され削られたら、陸は小さくなる。それは、あたかも岬ひとつが削られるに等しい。あなたの友人やあなた自身の土が削られるに等しい。どんな人が死んでも、私はそがれ削られていく。なぜなら、私は人類の一員であるからだ。それゆえに、誰のために鐘は鳴るのか、と問うてはいけない。その鐘は、あなたのために鳴っているのだ。
我々は、他人に苦しみを分けてくれということができない。他人の苦しみを譲り受けることもできない。たとえ、自分の苦しみが足りなくて、隣人の苦しみを背負おうとするにしてもだ。もしそれが可能なのだとしたら、そういう罪深き求めも、許されるものなのかもしれない。
たとえば、誰かが危機に瀕している。危機のために死にゆこうとしている。ならば、苦しみがそのものの心の中に、充ち満ちているのではないか。そして今、鐘が鳴っている。私に誰かの苦しみを知らせる。もしかすると、この鐘の音は、誰かの危機を私に思い起こさせるための音、私に深く考えさせるための音なのかもしれない。
(この記事は、ジョン・ダン「瞑想17」のポストモダン的な翻案です。偉大なる詩人ジョン・ダンよ、時代と必要のため、誤読と読み替えをなすことを、どうかお許し下さい。)
★この文章を書いた人→大久保ゆう★こんな時間に→2006年12月02日 12:44 ★トラックバック