新字新かな辞書「シン弐くん」
空色通信 2006年10月号

2006年10月23日

 ガーネット色のバラ

 先日、鎌倉文学館へ行ってきた。どういうところであるかは、「ちへいせん」 の「文学館あちらこちら」の第一回のレポートに譲ることにする。
 当日の特別展示は、「芥川龍之介 鎌倉物語・青春の歌」 芥川の生原稿、書簡などが展示され、学生時代に一度みたことのある、几帳面な筆跡に再会できた。再会の余韻に浸りながら建物から出た。受付の人が「バラ園を見ていってください」って言っていたことを思い出し庭園へ回った。芝生の真ん中の階段を下りたところに小さなバラ園がある。見て行ってくださいというだけあって、今が盛りであった。その中で私の気を惹いたバラがある。バラの色と言った方がいいのかもしれない。

 秋の夜、食事会の後、アルコールの入っていない私は、すっかりできあがった、赤い顔のA氏を駅まで車で送ることとなった。助手席で、彼は、腹をなでて、「今日は楽しかったですね」と満足そうに言った。
「本当にね」と交差点が近くなったので、私はバックミラーをみた。後ろの車との車間距離を測って、ブレーキを踏んだ。
「気のおけない仲間の集まりは楽しいですね」と私は答えた。車は滑るようにして止まった。他の車からもれてくる音楽に合わせてゆすっていた彼の身体も止まった。
「あなたは、ガーネット色のバラを御覧になったことがありますか?」と彼はまっすぐ前を見て尋ねた。
「はあ?ガーネット?」
「はい、宝石のガーネットです。」
「ごめんなさい、宝石にも花にはあまり知識がないものですから。ガーネットという宝石は知っていますし、深紅のバラは、好きですが・・」
「ガーネット色・・たとえば、走行中の車のテールランプの色ですよ」
 ブレーキを踏んでいるので、前の車のテールランプは一段と輝いていた。それまで気付きもしなかったが、私の持っているガーネットのイヤリングの色と、夜のテールランプの色は似ているのかもしれない。
「高校時代、好きだった女性に贈ったことがあるのですよ。バラの花を買ったのは、あれが最初で最後ですがね」と彼は、てれ笑いをしながら頭を掻いた。「彼女へ誕生日に何がいいかと訊いたら、ガーネット色のバラが欲しいと。同じ高校生だった彼女がなぜガーネットという宝石の名前を知っていたのか、僕にはわかりません。そのころ僕は、ガーネットというものも知らないし、バラの花も知っていたかどうかあやしいものです。とにかく花屋へ行き、ガーネット色を尋ねました」
「はい」
「男子高校生が花屋に入るなんて恥ずかったですよ」と目じりに皺を寄せて、彼は笑った。
「そうでしょうね。顔から火がでそうでしたでしょう」
 彼は頷いた。
「それでも、彼女の言った色のバラの花が欲しい一心ですから」
「わあ・・情熱家でいらっしゃる」と私は、半ば茶化して言うと、「そんなこと・・言わんでください」と彼はしきりに頭を掻いた。「若い男というものは、・・・」
 前の車のテールランプの明るさが落ち、車は動きだした。私もブレーキから足を外した。
「それでバラはあったのですか?」
「はい、何軒目だったか・・確かに、前を走っているテールランプのような色のバラがありました。しかし・・」と言って、彼は前の車を指差した。「タバコを吸ってもいいですか?」
「いいですよ」と私が言うと、窓を少し下げて、タバコに火をつけた。「そもそも花がそんなに高価なものだとは知りませんでした。店を回るたびに驚いたものです。僕の家は裕福ではありません、小遣いは、バイトで稼ぎました、そのほとんどは、食べることに消えていきました。ですから僕は、そのとき持っていた五百円でなんとかしようと思ったのです」
「五百円で一本しか買えません。綺麗に包装してもらうのにもお金が要ります。」彼は、灰皿を引き出すと、灰を落とした。「仕方がないので、一本だけくださいっていいました」
 高校生の男の子が、赤いバラを一本だけ買うというのは相当勇気がいったことだろう、そんな勇気が温厚な彼のどこにあったのかと思った。
「僕は、彼女のところへ急いで持っていきました。そのガーネット色のバラを、一輪だけの」
「はい」
「彼女は、ありがとうと言って受け取りましたが・・・決してうれしそうではなかったのです。あらっという顔をして、『一本ね』と淋しそうに言ったのです」
「そうですか・・私だったら感激しますがね・・」と言うと彼も笑った。
「彼女は外国映画のワンシーンを思い描いていたのですね。大きな花束にして男性がささげてくれるような・・」というと、彼はタバコの煙を窓の外へ払った。「その後、二人で喫茶店へ行ってお茶を飲んだのですが、そこで彼女は、そのバラを席においたまま帰ろうとしたのですね。彼女の頭の中には、バラの花はなかったのです。僕は黒い座席にぽつんと置かれたバラに気付いて、持っていました。僕が持っていることさえ彼女は、知りませんでした。とうとう、そのバラは、彼女のところへは行かずじまいで、僕が持って帰りました。」というとタバコを灰皿に押し当てて消してしまった。
「僕は、帰り道、涙がでたものです。何が悲しいのかわかりません。花束にできなかったことか、それとも僕がもっていることを気付かなかった彼女に対してなのか・・」と言って彼は、じっと前の車のテールランプを見ていた。「何も知らない母親は、僕がもらったのだと勘違いして、ずいぶん問い詰めたものです」
 亡くなったお母さんの写真を、定期入れから出してみせてくれたことがあったのを私は思い出した。彼の顔立ちは母親に似ていた。その話を持ち出して、方向を変えようかと私は思ったが、ちょうど車は駅のローターリに入ろうとしていた。
「今晩は、大分酔ったようです。余計なことまで話してしまいましたね。女房には内緒ですよ。女房に花など贈ったことなどありませんから」と言って彼は大きな声で笑った。「そこでいいですよ、僕は降りますから、今日はありがとございました」と言って、車の止めやすいところを指差した。そのとおり、私は車を止めた。彼は、赤い顔に優しい笑みを浮かべて、「じゃあ、また」と歩き出した。

 私は、この話をすっかり忘れていた。ガーネット色のバラを見るまでは・・・・

rose.jpg

恋すればうら若ければかばかりに薔薇(さうび)の香にもなみだするらむ  「芥川竜之介歌集」 より

 
写真提供:ロクス・ソルス氏

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