2006年10月23日

 ガーネット色のバラ

 先日、鎌倉文学館へ行ってきた。どういうところであるかは、「ちへいせん」 の「文学館あちらこちら」の第一回のレポートに譲ることにする。
 当日の特別展示は、「芥川龍之介 鎌倉物語・青春の歌」 芥川の生原稿、書簡などが展示され、学生時代に一度みたことのある、几帳面な筆跡に再会できた。再会の余韻に浸りながら建物から出た。受付の人が「バラ園を見ていってください」って言っていたことを思い出し庭園へ回った。芝生の真ん中の階段を下りたところに小さなバラ園がある。見て行ってくださいというだけあって、今が盛りであった。その中で私の気を惹いたバラがある。バラの色と言った方がいいのかもしれない。

 秋の夜、食事会の後、アルコールの入っていない私は、すっかりできあがった、赤い顔のA氏を駅まで車で送ることとなった。助手席で、彼は、腹をなでて、「今日は楽しかったですね」と満足そうに言った。
「本当にね」と交差点が近くなったので、私はバックミラーをみた。後ろの車との車間距離を測って、ブレーキを踏んだ。
「気のおけない仲間の集まりは楽しいですね」と私は答えた。車は滑るようにして止まった。他の車からもれてくる音楽に合わせてゆすっていた彼の身体も止まった。
「あなたは、ガーネット色のバラを御覧になったことがありますか?」と彼はまっすぐ前を見て尋ねた。
「はあ?ガーネット?」
「はい、宝石のガーネットです。」
「ごめんなさい、宝石にも花にはあまり知識がないものですから。ガーネットという宝石は知っていますし、深紅のバラは、好きですが・・」
「ガーネット色・・たとえば、走行中の車のテールランプの色ですよ」
 ブレーキを踏んでいるので、前の車のテールランプは一段と輝いていた。それまで気付きもしなかったが、私の持っているガーネットのイヤリングの色と、夜のテールランプの色は似ているのかもしれない。
「高校時代、好きだった女性に贈ったことがあるのですよ。バラの花を買ったのは、あれが最初で最後ですがね」と彼は、てれ笑いをしながら頭を掻いた。「彼女へ誕生日に何がいいかと訊いたら、ガーネット色のバラが欲しいと。同じ高校生だった彼女がなぜガーネットという宝石の名前を知っていたのか、僕にはわかりません。そのころ僕は、ガーネットというものも知らないし、バラの花も知っていたかどうかあやしいものです。とにかく花屋へ行き、ガーネット色を尋ねました」
「はい」
「男子高校生が花屋に入るなんて恥ずかったですよ」と目じりに皺を寄せて、彼は笑った。
「そうでしょうね。顔から火がでそうでしたでしょう」
 彼は頷いた。
「それでも、彼女の言った色のバラの花が欲しい一心ですから」
「わあ・・情熱家でいらっしゃる」と私は、半ば茶化して言うと、「そんなこと・・言わんでください」と彼はしきりに頭を掻いた。「若い男というものは、・・・」
 前の車のテールランプの明るさが落ち、車は動きだした。私もブレーキから足を外した。
「それでバラはあったのですか?」
「はい、何軒目だったか・・確かに、前を走っているテールランプのような色のバラがありました。しかし・・」と言って、彼は前の車を指差した。「タバコを吸ってもいいですか?」
「いいですよ」と私が言うと、窓を少し下げて、タバコに火をつけた。「そもそも花がそんなに高価なものだとは知りませんでした。店を回るたびに驚いたものです。僕の家は裕福ではありません、小遣いは、バイトで稼ぎました、そのほとんどは、食べることに消えていきました。ですから僕は、そのとき持っていた五百円でなんとかしようと思ったのです」
「五百円で一本しか買えません。綺麗に包装してもらうのにもお金が要ります。」彼は、灰皿を引き出すと、灰を落とした。「仕方がないので、一本だけくださいっていいました」
 高校生の男の子が、赤いバラを一本だけ買うというのは相当勇気がいったことだろう、そんな勇気が温厚な彼のどこにあったのかと思った。
「僕は、彼女のところへ急いで持っていきました。そのガーネット色のバラを、一輪だけの」
「はい」
「彼女は、ありがとうと言って受け取りましたが・・・決してうれしそうではなかったのです。あらっという顔をして、『一本ね』と淋しそうに言ったのです」
「そうですか・・私だったら感激しますがね・・」と言うと彼も笑った。
「彼女は外国映画のワンシーンを思い描いていたのですね。大きな花束にして男性がささげてくれるような・・」というと、彼はタバコの煙を窓の外へ払った。「その後、二人で喫茶店へ行ってお茶を飲んだのですが、そこで彼女は、そのバラを席においたまま帰ろうとしたのですね。彼女の頭の中には、バラの花はなかったのです。僕は黒い座席にぽつんと置かれたバラに気付いて、持っていました。僕が持っていることさえ彼女は、知りませんでした。とうとう、そのバラは、彼女のところへは行かずじまいで、僕が持って帰りました。」というとタバコを灰皿に押し当てて消してしまった。
「僕は、帰り道、涙がでたものです。何が悲しいのかわかりません。花束にできなかったことか、それとも僕がもっていることを気付かなかった彼女に対してなのか・・」と言って彼は、じっと前の車のテールランプを見ていた。「何も知らない母親は、僕がもらったのだと勘違いして、ずいぶん問い詰めたものです」
 亡くなったお母さんの写真を、定期入れから出してみせてくれたことがあったのを私は思い出した。彼の顔立ちは母親に似ていた。その話を持ち出して、方向を変えようかと私は思ったが、ちょうど車は駅のローターリに入ろうとしていた。
「今晩は、大分酔ったようです。余計なことまで話してしまいましたね。女房には内緒ですよ。女房に花など贈ったことなどありませんから」と言って彼は大きな声で笑った。「そこでいいですよ、僕は降りますから、今日はありがとございました」と言って、車の止めやすいところを指差した。そのとおり、私は車を止めた。彼は、赤い顔に優しい笑みを浮かべて、「じゃあ、また」と歩き出した。

 私は、この話をすっかり忘れていた。ガーネット色のバラを見るまでは・・・・

rose.jpg

恋すればうら若ければかばかりに薔薇(さうび)の香にもなみだするらむ  「芥川竜之介歌集」 より

 
写真提供:ロクス・ソルス氏

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2006年10月18日

 新字新かな辞書「シン弐くん」

1.ここまでのあらすじ

 初代の新字新かな辞書「シンちゃん」は、幸田露伴「連環記」の作業後に、不注意から致命的な深手を負って、修復不能の状態となってしまいました。かつかつのハードディスク容量で作業していたのが原因です。セーブするときに見慣れない警告が出て、早まって無理に保存したところ、その瞬間、中身がごっそり消えてしまいました。再度テキストを開いたら案の定……というわけです。サルベージ不能。バックアップを 2006.1.2 付けで残してあったので、やむをえず、そこから再スタートとあいなりましたしだいです。シンちゃん、ごめんなさい。

 
2.内容構成
 
 新字新かな辞書「シン弐くん」
 タブ区切りテキスト形式
 992KB
 64227行
 (2006.10.17 現在)

 うちわけ
  1) かな一字           4行
  2) 漢字一字           2373行(3.7%)
  3) かな(2〜3)文字      264行(0.4%)
  4) ひらがな・カタカナ      9789行(15%)
  5) 漢字かなまじり        47127行(73%)
  6) 固有名詞・人名・地名     1099行(1.7%)
  7) 古典名詞・外来地名・外来語  1659行(2.6%)
  8) 誤変換回避用・その他     1516行(2.4%)

 テキスト変換プログラム「ConvChar 0.8.2」は、(1)一度変換した文字は再度変換しない、(2)行順で辞書の後ろのほうから出現する候補に先にヒットする、という特性があります。そこで辞書の前半のほうには無条件で置き換えてよさそうで文字数の少ない群 1) 〜 3) を配置し、逆に後半のほうには変換させたくなくて文字数の多い群 6) 〜 8) を置き、その中間に 4) 〜 5) を置くという、おおざっぱに三層の内容構成とすることにしました。あまり複雑にしすぎると並びかえや検索の都合上かえって管理しにくそうなので、品詞ごとの分類はおこなっていません。
 
  因た   よった
  因って  よって
  因つた  よった
  因つて  よって
  因て   よって
  因に   ちなみに
  因まづ  ちなまず
  因み   ちなみ
  因り   より
  因れば  よれば
  因ん   ちなん

 これは登録の一例で、因の項です。「5) 漢字かなまじり」部門にひとまとめで登録してあります。行頭の一字が「因」なので、正規表現で「^因」と入力して検索することで容易にたどりつくことができます。品詞ごとの分類となると登録場所が分散してしまうので、そうはいきません。管理が複雑になりそうなことがわかると思います。ソート(並びかえ)は五十音順(正確には文字コード順)ということになります。ソートは表計算ソフトやエディタによって機能を装備しているものがあります。
 ここで、「こんなにみじかい単語の登録で、誤変換が生じないか?」という疑問が出てくるはずです。たとえば因の字で終わる原因・要因・敗因といった語句が、たまたま上の登録と同じ配列でひらがなにつらなることが予期されます。そういうばあいは「8) 誤変換回避用」の部門に「原因 → 原因」という形で登録することで、回避できることになります。いまのところ「因\t」(因のあとにタブがくる、の意の正規表現)で検索してみると原因・来因・來因の三語句があり、来因と來因は「7) 外来地名」部門に「ライン」として登録してあります。おそらくライン川・ライン地方の漢字表現と思われます。
 
 初期の目的としては、旧字や旧かな・送りがなを現代的な表現におきかえるほか、名詞・代名詞・副詞ほかの難読漢字を極力かなに開くことに専念しました。動・植物名もカタカナで開くことにしました。読者としては中学生・高校生が読めるくらいのものを想定。辞書が成長するにつれて初期目標に近づいたものの、するとこんどは、ひらがなばかりでかえって読みにくい文章になってしまいまいた。そこで、変換しないほうがよさそうな候補に関しては、語尾に「///」のような作品上ありえない文字列を付与することで、変換対象からはずしています。読みのわからない文字もとりあえず収録し、同じ方法で変換対象からはずす(そのまま出力する)ことにしています。また、「くる/\」は「クルクル」に、「にたにた」は「ニタニタ」に、というふうにくりかえしの副詞や擬音語など違和感のないものをカタカナに置き換えることにしました。
 句読点やカッコなどの記号をあらたにくわえることは、原則おこなっていません。例外として、読点(、)のかわりにナカグロ(・)へ変換、「二三日」「四五人」を「二、三日」「四、五人」のように読点をくわえました。
 「外」を「そと」と読むか「ほか」と読むか。「今日は」を「こんにちは」と開くか「今日は」のままとするか。手がかりがそれだけでは、さすがに判定は無理です。しかし「以ての外」「今日は一つ」「は今日は」のように直前・直後の文字列のつらなり=直結する文脈をまるごと登録することで置き換えできるばあいもあるので、気がついたときに収録することにしています。
 
 
3.ルビの処理について
 
 ルビを削除してから変換するか、それともルビを残したまま変換するか。作業手順として大きくふた通り考えられます。当初、前者の方法でためしてみました。しかし現在では、後者のほうがよさそうだと思いなおしています。変換の効率という点では前者のほうがきれいに変換可能です。しかし、それでは当然ながら著者の意図した読みまでもが削除されてしまうからです。また当初は、xhtml版からテキストをコピーしてもちいる方法をとっていましたが、ルビ処理の方針変更にともなって、テキスト版をもちいる方法にあらためました。
 ルビの解釈は残念ながらいまのところ人力です。作品中にないルビをあらたに付与することは、積極的にはおこなっていません。かといって狡黠・泣菫・礙碍・纏繞のように、ひらがなで開くわけにもいかず、ルビなしではつらい熟語があるのも事実です。今後の課題となりますが、ルビふりのための辞書は別途用意するのがいいかもしれません。
 
 
4.オーソドックス、もしくはコンテンポラリー
 
 とまあこんなかんじで手探りで作業している段階なので、正直、作業指針といえるほど固まったものがありません。いきあたりばったりで、手法も方針もコロコロためしています。完全自動変換、ということになればうれしいことこのうえありませんが、ちょっとかなりの難がありそうです。辞書の精度としては、ほどほどの変換率が達成できれば上等で、あとは人力におうということで割りきった使い方がよさそうに思います。
 そもそも50年以上前の作品ばかりだから読みにくいものが少なくありません。そのしわよせは、年齢の低い読者の読めるものが少ないところへ行ってしまう。まあ、年齢の低いひとたちへパソコン読書を積極的に推進するのも、良い点・悪い点の双方あるので、そこは強調しません。ふりかえれば14才の冬に、しゃべるパソコンを四万円で買ったのがはじまりです。17才のときにワープロで古事記の入力に挑戦したことなども、なつかしい思い出です。もちろん、学校教育でパソコンをあてがわれていなかったころのこと。四万円ほしさに屋根の雪下ろしをしたことを、ひさびさに思い出しました。
 
 次回は、後作業について。
 
 
 2006.10.18
 しだひろし/PoorBook G3'99
 転載・印刷・朗読・翻訳は自由です。

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2006年10月17日

 「あのときの王子くん」連載を終えて

aozora blog をご覧のみなさま、こんにちは。「あのときの王子くん」訳者の大久保ゆうです。今年の5月18日から開始されました当連載は、10月8日をもって、ひとまず無事に終了することが出来ました。およそ五ヶ月のあいだ、お付き合いくださったみなさまに、まずは感謝の言葉を申し述べます。

この翻訳は、これからのち、全体を通しての修正に入り、それが終わったら、ひとつにつなげ、あらためてみなさまの前に publish しようと思っております。連載中におかしてしまった誤訳やミスを直すとともに、訳語の統一や文体の調整など、やるべきことがいくつも残っています。それらをひとつひとつ丁寧に見直し、そのうえで、さらに予告しておりました「あとがき」を附記しようと考えています。

そこでは、「まえがき」を吸収するかたちで、この翻訳に至った動機や朗読に関すること、または翻訳の方針や「星の王子さま」ではないタイトルの理由など、この翻訳に必要なコメントを書き記すつもりです。

完成まで、もうしばらくお待ち下さい。

2006/10/8 大久保ゆう


追伸:もしこの連載された翻訳に関して、誤訳やミスなどをお見つけになられましたら、この記事のコメント欄やトラックバック、または個人的なメールでも構いませんので、ご一報いただけると幸いです。修正の際の参考にさせていただきます。よろしくお願い致します。

メール宛先 honyaku_tutor@yahoo.co.jp

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2006年10月08日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」エピローグ 大久保ゆう訳

 これは、ぼくにとって、せかいでいちばんきれいで、いちばんせつないけしきです。さっきのページのものと、おなじけしきなんですが、きみたちによく見てもらいたいから、もういちどかきます。あのときの王子くんが、ちじょうにあらわれたのは、ここ。それからきえたのも、ここ。

 しっかり、このけしきを見てください。もし、いつかきみたちが、アフリカのさばくをたびしたとき、ここがちゃんとわかるように。それと、もし、ここをとおることがあったら、おねがいですから、たちどまって、星のしたで、ちょっとまってほしいんです! もし、そのとき、ひとりの子どもがきみたちのところへ来て、からからとわらって、こがね色のかみで、しつもんしてもこたえてくれなかったら、それがだれだか、わかるはず。そんなことがあったら、どうか! ぼくの、ひどくせつないきもちを、どうにかしてください。すぐに、ぼくへ、てがみを書いてください。あの子がかえってきたよ、って……

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2006年10月07日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」27 大久保ゆう訳

27

 今となっては、あれももう、六年前のこと。……ぼくは、このできごとを、いままでだれにもはなさなかった。ひこうきなかまは、ぼくのかおをみて、ぶじにかえってきたことをよろこんでくれた。ぼくは、せつなかったけど、あいつらには、こういった。「いやあ、こりごりだよ……」

 もう今では、ぼくのこころも、ちょっといえている。その、つまり……まったくってわけじゃない。でも、ぼくにはよくわかっている。あの子は、じぶんの星にかえったんだ。だって、夜があけても、あの子のからだは、どこにも見あたらなかったから。からだは、そんなにおもくなかったんだろう……。そして、ぼくは夜、星に耳をかたむけるのがすきになった。五おくのすずとおんなじなんだ……

 でも、ほんとに、とんでもないこともおこってしまった。くちわをあの王子くんにかいてあげたんだけど、ぼくはそれに、かわのひもをかきたすのをわすれていたんだ! そんなんじゃ、どうやってもヒツジをつなぐことはできない。なので、ぼくは、かんがえこんでしまう。『あの子の星では、どういうことになってるんだろう? ひょっとして、ヒツジが花をたべてやしないか……』

 こうもかんがえる。『あるわけない! あの王子くんは、じぶんの花をひとばんじゅうガラスおおいのなかにかくして、ヒツジから目をはなさないはずだ……』そうすると、ぼくはしあわせになる。そして、星がみんな、そっとわらってくれる。

 また、こうもかんがえる。『ひとっていうのは、一どや二ど、気がゆるむけど、それがあぶないんだ! あの王子くんが夜、ガラスのおおいをわすれてしまったりとか、ヒツジが夜のうちに、こっそりぬけでたりとか……』そうすると、すずは、すっかりなみだにかわってしまう……

 すごく、ものすごく、ふしぎなことだ。あの王子くんが大すきなきみたちにも、そしてぼくにとっても、うちゅうってものが、ただそのどこかで、どこかしらないところで、ぼくたちのしらないヒツジが、ひとつバラをたべるか、たべないかってだけで、まったくべつのものになってしまうんだ……

 空を見てみよう。こころでかんがえてみよう。『あのヒツジは、あの花をたべたのかな?』そうしたら、きみたちは、まったくべつのものが見えるはずだ……

 そして、おとなのひとは、ぜったい、ひとりもわからない。それがすっごくだいじなんだってことを!

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 月夜

月夜
与謝野晶子

 おこうの家は石津村いしづむらで一番の旧家でそして昔は大地主であったために、明治の維新後に百姓が名字みょうじをこしらえる時にも、たくさんの田という意味で太田おおたとつけたといわれていました。それだのに祖父の時に自身が社長をしていたさらし木綿もめんの会社の破綻はたんから一時に三分の二以上の財産をうしない、それからつづいてその祖父がなくなり、かわって家長になったお幸の父はまだやっと二十歳はたちになったばかりの青年であったため、番頭の悪手段にかかって財産をほとんどすべて他へうばわれてしまったのでした。

 ろうといったそのお幸の父も、お幸とお幸より三つ歳下とししたの長男の久吉ひさきちがまだ幼少な時に肺病にかかって二年あまりもわづらってくなりました。その時分にもう太田の家は石津川のむかいの稲荷いなりの森の横の今のところへ移ってきていました。自家に所有権のあったそのたくさんの田にとりまかれた三本松ぼんまつの丘の家は、今では村の晒問屋さらしどんや山仁やまにの別荘になっていることもお幸兄第にはおとぎばなしの中のひとつの事実くらいにしか思われないのでした。お幸は強い性質の子でした。丘の三本松はいい形であるとながめることはあっても、感情的な弱い涙をそれにそそごうとはしませんでした。この春高等小学校を卒業してからお幸は母がすこしばかりの田畑を作ることと手仕事で自分たちを養っているのを心苦しく思いまして、自身の友であった中村なかむらおつるという人の親の家へかよい女中になって行っていました。中村の家もまた晒問屋さらしどんやでした。お幸が中村家の手伝いをするようになってからもう五月ほどになるのですがこの最近の四、五日ほどくるしい思いをさせられたことはありませんでした。お幸に親切な心を持っていたおつるが九月の新学期から大阪の某女学校へ入ることになってその地の親戚の家へ行ってしまったことはお幸のためにすくなからぬ打撃といわねばなりません。中村家には意地の悪い女中が二人いました。お幸がかよいで夜おそくなってからの用をしないのが二人には不平でならないことだったのでしょうが、おつるのいる間は目にみえるほどの迫害はしませんでした。中村家のお内儀かみさんは病身でしたから台所のことなどは二人の女中が切ってまわしているのでした。お幸のしなければならない用事がむやみにふえてきて自然お内儀かみさんの部屋へ行くことが少なくなると、そこへはまたほかの用をどっさりお幸に押しつけた女中の一人が行って、おじょうさまが見ていらっしゃらないと思って用事をおろそかにするというような告口つげぐちがされていました。うちへ帰ってうちの用事をする人に夜分の食事はさせないでもいいというような無茶な理屈をこしらえて、下男と下女がいっしょに食べる夜の食卓にお幸の席を作ってやらないようなことを二人の女中はしはじめました。うちへ帰ってさらに食事をするということは母親にすまないことのようにお幸は思われるものですから、昼の食事を少しよけい目に食べてがまんをしようとすればまた二人の意地悪女はそれも口ぎたなくののしりました。今日でちょうど五日の間お幸は日に二食ですごしてきました。
 お幸は中村家の裏口を出てホッと息をつきました。
「なにか別のことを考えなくては。」
 お幸はおもわずひとりごとをしました。そこにはクツワムシがたくさんいていました。前側は黒く続いた中村家の納屋で、あのむこうが屋根より高く穂をあげたキビのはたになっています。お幸はキビがこんなに大きくなってからはつい人かと思うことが多くて、歩きなれた道も無気味でした。中村家の母家の陰になっていた月は河原へ出ると目のさめるような光をお幸にあびせかけました。水も砂原もキラキラと銀色にひかっていました。川下の方に村の真実ほんとうの橋はあって、お幸の今わたって行くのは中村家の人と、ここへ出入りする者のためにかけられてある細い細い板橋です。鳴りだした西念寺さいねんじの十時の鐘の第一音にはじき出されるようにお幸は橋をわたってしまいました。一町ほど行くと右に文珠様もんじゅさまの堂があります。お堂は白い壁のへいでかこまれています。白壁には名灸めいきゅうやらさかいの街の呉服屋やら雇人口入所やといにんくちいれじょの広告やらいつでもられているのです。
「おや、こんなものがある、」
 お幸はその中に新しい貼紙のひとつあるのを見いだしたのです。それは大津おおつの郵便局で郵便配達見習いを募集するものでした。
「学歴は小学校卒業程度の者だって、十五歳以上の男子って、まあそんなにちいさくてもいいのかしら、日給は三十五銭。」
 お幸はこんなことを口でいいながら二、三分間その貼紙の前で立っていました。
「男じゃないからしかたがない。」
 しばらくの間お幸は前よりも早足でスタスタと道を歩いていましたがまたいつのまにか足先に力の入らぬ歩きようをするようになりました。魔の目のような秋の月はお幸のような常識に富んだ少女をも空想な頭にせずにはおきませんでした。
「バカな。」
と思い出したようにいった後でもお幸の空想は大きくのびるばかりでした。お幸は髪を切って男装をして大津の郵便局へやとわれていこうかとそんなことを思っているのです。母さんが承知をしないかもしれない、こう思うとお幸の目には、そっと髪を切ろうとしているところへ母親があらわれてきて、あの小楠公しょうなんこうの自殺をいさめたようなことを、母親が切物きれものをもった手をおさえながらいうような光景が見えてきました。そしてダメだと思いました。
「けれども」
 お幸はまた最初の考えにもどって、大津はここからいえば三里もへだたっていないところだけれども、泉南泉北せんなんせんぼくと郡がわかれていて村の人などはめったに往来しない。どちらかといえば海の仕事をする人と工場の多い大津という街をこの村の人は異端視しているのだ。だからわたしがそこで男に化けて郵便脚夫をしてもだも気のつく人はあるまい。自分の働きで自分の食べていくのはいっしょでも今の女中奉公よりその方がどんなにいいかしれない。お金持ちの奴隷になる訓練をうけてそれが私の何になろう、私はもうだんぜんとほかの仕事にうつってしまうのだ。そうしなければならないのだ。私は工女の境遇がつまらないのであることは知っている。それにはなりたくないと思っている。郵便脚夫は資本のある人に虐待される女工などとはちがって、お国の人がいっしょになって暮すのにぜひまわさなければならない一つの器械をまわすようなことをするものなのだ。人間仲間の手助けを立派にするものなので、男装して男名おとこなにしてわたしはさっそく郵便配達夫の見習いに行こう。真実ほんとうにそれはいいことだとお幸は思うのでした。
 いつのまにかお幸はもう稲荷の森へ入って来ていました。虫の声が遠くなってここではフクロウがしきりにいています。
「久ちゃん。」
 お幸はいつものように弟へ帰った合図の声をかけました。古い戸のガタガタと開けられる音がしました。
「ねえさん。」
 久吉はぞうりをつっかけてバタバタと外へ走ってきました。
「ねえさんにいうことがあるよ。」
「どうしたの、母様かあさんは。」
 お幸の胸ははげしくとどろきました。
「母さんのことじゃないよ。ねえさんにいうことがあるっていってるのじゃないの。」
「じゃなあに。」
 お幸は弟の肩へ手をかけてやさしくいいました。
「ねえさん今日はおイモが焼いてあるよ。」
「そんなこと。」
「だってねえさんはおなかがいているのじゃないか、ぼく知ってるよ。」
 久吉はうらめしそうでした。
「だれに聞いたの。」
「中村さんの音作おとさくさんに聞いたよ。今夜だって食べさせないだろうって。ねえさんはもうがまんができまいって。」
「あなた、母さんに話して、そのこと。」
「いいえ。けれどおイモは母さんにいって焼いたのだからいいよ。」
「そう、ありがとうよ。久ちゃん。」
「早く行こうねえさん。」
 久吉にそでをひかれた時に、お幸は郵便配達夫になることをここで弟と相談してみようと思っていたことを思い出しましたが、そのままなつかしい母の顔のある家の中に入って行きました。
 二人の母親のおちかは頼まれ物のつつそでの着物へ綿をいれたところでした。
「ただいま、母様かあさん、こんな遅くまでよくまあお仕事。」
とお幸は口早にいいました。
「おかえり。道はさびしかったろうね。」
「月夜ですもの提灯ちょうちんは持たないでもいいし。」
 久吉が暗い台所から持ちだしてきた盆からはえたお幸に涙をこぼさせるほどの力のあるあまいにおいが立っていました。お幸は弟の好意をそのまま受けて物もいわずその焼きイモを食べてしまいました。久吉はお茶の用意もしてくれました。
わたしが作ったものだもの、そんなにおいしければ毎晩でもお食べよ。」
 母親はじっと娘を見ながらこういいました。
母様かあさんがお作りになったからおいしいのよ。」
「なんの、おまえ自身で作ってごらん、もっとおいしいよ。」
 お幸はこのときふと母の労力をムダ使いをさせたというようなすまない気のすることをおぼえました。
わたしがもって行く。」
 皮ののった盆をさげようとする久吉をこうとめてお幸は自身で台所へ行きました。
「母さん、暗くて見えませんけれど、なにかしておく用がここにありませんか。」
 お幸はやや大きい声でこういいました。
「ねえさんは元気が出たね。」
と久吉がいいました。
「なにも用はないよ。」
「母さん、母さん、僕はいってしまいますよ。ねえさんはね、中村さんで晩のごはんを食べさせてもらわないのだって、ほかの女中が意地わるをするのだって、中村さんの音作がすっかり僕にいってくれましたよ。母さん、もうねえさんを中村さんへ手伝いにやるのをよしなさいよ。」
 弟の母に語るのをお幸はじっと台所で聞いていました。
「お幸や、そうなのかえ。」
「ええ。」
 お幸は目に涙をためての下へ出てきました。お近はそでぐちをくけかけていた仕事をずっと向こうへ押しやりました。
「なぜだまっていました。自身のからだのことを自身で思わないでどうするお幸。」
「はい。わたしはほかの仕事の見つかるまでと思ってしんぼうしていましたけれど。」
「ほかの仕事って。」
わたし今晩かえりみちで大津の郵便局の郵便脚夫の見習いに十五以上の男を募集するという貼紙はりがみを見ましたから、母さん、私は男の姿になって髪なんかも切ってやとわれに行こうかしらというようなことも考えてきたのです。」
とお幸は思いきっていいました。
「おまえにそんな働きができますか。」
わたしはよく歩きますし、じょうぶですし。」
「それだけの理由わけで郵便屋さんになろうというの。」
「いいえ。わたしは世の中の手助けになる仕事ですからしてみたいのです。」
「今の仕事は。」
「女中というものが主人の家におおぜいいることはいっそうお金持ちをなまけものにするだけのもので、世の中のためにはならないとわたしは気がつきました。そうじゃないでしょうか。」
「それはそうかもしれない。」
わたしは自分のできることの中で一番いい仕事をしなければならないと思います。」
「十五になるとだいぶ理屈がわかるね。」
 お近はこういって久吉の方を見ました。
「ねえさんはえらいや。僕なんかは学校を出たら百姓になるのが一番いいことだと思っていた。」
と久吉はいいました。
「お幸は百姓をどう思うの。」
「まだそれは考えません。」
「それを考えないことがあるものですか。母様かあさんがもし間違ったことをしていたらおまえは注意をしてくれなければならないじゃないの。母様かあさんのしていることは百姓ですよ。わたしは世の中へ迷惑をかけないでくらして行くということが世の中のためだと思っているよ。自身で食べる物を作ってわたしは自分やおまえたちの着物を織っています。自分のできないものは仕事の賃金に代えてもらってくるというこの暮しようが私にはまず一番間違いのない暮しようだと思っているよ。」
 お近のこの話をお幸は両手をひざの上で組合せてうやうやしく聞いていましたが。顔をあげて、
「母さん、田や畑はもうすこしよけいに貸してもらえるのですか。」といいました。
「小作人が少なくてこまっているのですもの、貸してくれますとも。」
「髪を切ってお芝居のようなことをするよりもわたしのすることは、母様かあさん、あったのですよ。」
「なんのことですか。」
「野仕事です。百姓です。」
「そうかね。おまえが郵便局へ行きたいというから、わたしは男になったりなどしないで、局長にって女のままで、採用つかってもらうことを一生懸命ですればいいと思っていたよ。私には百姓がいいといっただけで、おまえを百姓にしようと思っているのじゃないよ。」とお近は言いました。
「ねえさん百姓におなりよ。三人で百姓をすると決めましょうよ。」と久吉はいうのでした。
わたしはなんでもできますが百姓でもできます。」
「それではなって見るがいいよ。ねえお幸、今日角造かくぞうさんに聞くと三本松の家を山仁やまにさんはまた堺の商人へ売るそうだよ。わたしはそれがいいと思っているよ。おまえたちは知らないがそれはそれはムダに広い家なんだからね。あれを真実ほんとうに人間仲間の役に立てようと思うならおおぜいの使うものにしなければならないのだからね。堺へ持っていっていくつかの家に分けてこしらえたらいいだろうよ。しかし建物に立派な宝物になる価値ねぶみのあるものは別だけれど。」とお近はいいました。
「そうなったらあの丘へ自由にあがれますね。いいなあ。」と久吉はいいました。三人は幸福であることを感じていました。
 
 
 
底本:「日本児童文学大系 第六巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
   1979(昭和54)年4月1日2刷発行
底本の親本:「少女の友」実業之日本社
   1918(大正7)年10月
初出:「少女の友」実業之日本社
   1918(大正7)年10月
入力:田中敬三
校正:鈴木厚司
2006年9月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

2006.10.7
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・朗読・翻訳は自由です。

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2006年10月02日

 空色通信 2006年9月号

2006年9月は、67作品のファイルが公開された。主なニュースとしては、関連16団体から、著作権保護期間「死後70年」を求める共同声明が発表されたことがあげられる。

【主なニュース】
著作権関連の16団体が、共同で「著作権保護期間を70年に」という声明を出した(詳しくは、ここ)。発言に対して細かなツッコミを入れるのは、すでに多くのブログでされているから、ひとつだけコメントするにとどめる。「著作権保護期間」と書くと、実は内容が曖昧である。著作権には、著作人格権と著作財産権があって、著作人格権の保護期間は永遠である。著作財産権の保護期間が死後50年となっている。つまり、著作物そのものは永遠に、改造、変造などからは守られているのだ。たとえ、どれだけの時間が経過しようと、著作物は著者の意図の通りに公開されることが、権利として保証されている。死後50年で終了するのは、著作物の利用に関する財産権のみ、なのだ。ここを混ぜて考えてしまうと、「保護期間」終了後に、粗悪なコピーが出回るとか、という暴論へとつながる(「保護」が著作権全てにかかっているように誤解させる)。つまり、著作財産権が短くても長くても、著作物を尊重する姿勢に変化はないのである。「著作権」の議論で、この二つの側面をごっちゃにしているものが多いのではないか、と思う。


【公開作品】
 2006年9月には、67作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 もっとも多くの作品が公開されたのは、寺田寅彦で21作品(「雑感」、「夏の小半日」、「物質とエネルギー」、「物理学実験の教授について」、「物理学の応用について」、「言葉の不思議」、「文学の中の科学的要素」、「方則について」、「漫画と科学」、「耳と目」、「話の種」、「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」、「帝展を見ざるの記」、「中村彝氏の追憶」、「二科会その他」、「二科会展覧会雑感」、「二科狂想行進曲」、「二科展院展急行瞥見」、「アインシュタイン」、「夕凪と夕風」、「レーリー卿(Lord Rayleigh)」)が公開された。寺田寅彦の随筆もこれで267が公開されたことになる。ほとんどの随筆をカバーしていることになる。

 次に多くの作品が公開されたのは、織田作之助で8作品(「勝負師」、「」、「郷愁」、「中毒」、「土足のままの文学」、「文学的饒舌」、「道なき道」、「吉岡芳兼様へ」)。「勝負師」は、同じ日に、坂口安吾「勝負師」が公開されている。

 宮沢賢治が5作品(「〔雨ニモマケズ〕」、「月夜のでんしんばしらの軍歌」、「農民芸術の興隆」、「花巻農学校精神歌」、「めぐりの歌」)、公開されている。「農民芸術の興隆」以外は、詩である。「めぐりの歌」は、裕木奈江が歌っているのを聞いたことがある。

 オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」(小川亮作訳)がついに公開された。「ルバイヤート」は、フィッツジェラルド訳からの翻訳が幾つかあるが、原典からの翻訳はこれが初めてである。フィッツジェラルド訳、及びその日本語訳も素晴らしい作品に仕上がっているが、やはり原典からの翻訳は一味違う。

 世界紀行文学全集からは、野上豊一郎「パラティーノ」、「パリの地下牢」が公開された。どちらも、「西洋見学」からの作品である。野上豊一郎は、能の講義のためにイギリスへと向い、その途中でヨーロッパ各地を見て回った、その見聞録である。時期は、ちょうど第二次世界大戦前。野上は、各地の歴史を踏まえた上で、的確にして簡潔な各地の印象を残している。

 三田村鳶魚の作品が初登録された。「中里介山の『大菩薩峠』」、「話に聞いた近藤勇」の2作品。小説中の細かい間違いを細かく指摘している。うろおぼえで申し訳ないが、林不忘は、こういった批評をあまり評価していなかったそうだ。小説としての面白さとは、あまり関係がない、ということだと思う。

 初公開の作家が、今月は多かった。三田村鳶魚の他に、饗庭篁村「良夜」、西尾正「陳情書」、知里幸恵「日記」、違星北斗「北斗帖」、清沢満之「我信念」、寺島柾史「怪奇人造島」が、それぞれ初公開である。

 日本の名随筆からは、「書斎」から北原白秋「書斎と星」、「時」から鷹野つぎ「」、「秋」から島崎藤村「秋草」、田畑修一郎「盆踊り」、がそれぞれ公開されている。

 「海底軍艦」で、有名な押川春浪の「月世界競争探検」が公開されている。

 他には、楠山正雄が3作品(「一寸法師」、「一本のわら」、「瘤とり」)、桑原隲蔵が2作品(「紙の歴史」、「支那人間に於ける食人肉の風習」)、牧逸馬が2作品(「アリゾナの女虎」、「チャアリイは何処にいる」)、牧野信一が2作品(「木枯の吹くころ」、「病状」)、梶井基次郎が1作品(「檸檬」)、夢野久作が1作品(「近世快人伝」)、小林多喜二が1作品(「防雪林」)、石原莞爾が1作品(「新日本の進路 石原莞爾将軍の遺書」)、十一谷義三郎が1作品(「静物」)、狩野亨吉が1作品(「天津教古文書の批判」)、水谷まさるが1作品(「歌時計 童謡集」)、公開された。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

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2006年10月01日

 水牛だより10月1日

10月はたそがれの国、と言ったのはレイ・ブラッドベリです。10月生まれのわたしの体内に最初に取り込まれたこの世の空気がたそがれの国のものだったことは、きっと何らかの影響を及ぼしているに違いない、と毎年10月になると思い出します。10月生まれのひとは賛成してくれるのではないでしょうか。

スリランカのスマナサーラ長老の説法の記録をときどき読みます。特におもしろいと思うのは「仏陀の智慧で答えます」というQ & A。小学3年生の女のこの質問「私は何のために生まれてきたのですか?」の答(の一部)は「もしも何か生まれてきた目的があるならば、それはだれよりも生まれてきた「わたし」が知っているはずです。もし「わたし」が何のために生まれたかとわからないならば二つのことが言えます。1.生まれてきた目的はない。2.もしあったとしても、それを知らなくても問題はない。(中略)何のためかと聞いても答えがありません。ただ、そのとき、そのときやらなくてはならないことをして生きているのです。」
こんなにむつかしい質問でなくても、答までの筋道はいつも冴えています。
「リラックスとは「のんびり、ゆっくり」という意味ではありません。「諦めず、めげず、イライラせず、明るく」ということです」というところを読んで、水牛はこれでいこう! と秘かに決めたのでした。

「水牛のように」を2006年10月号に更新しました。
タイでクーデターが起きたとき、森下ヒバリさんはタイにいるのかなと思いましたが、帰ってきた直後だったのですね。タイではクーデターがあり、ヨルダンとイラクの国境の難民キャンプは年末には閉鎖するようです。杉山洋一さんはモンツァからミラノへ、冨岡三智さんは奈良からソロへ引っ越し。移り変わりのときは新しいおはなしをもたらしてくれるときでもあります。

●恒例、江村夏樹さんのコンサートのお知らせです。
「江村夏樹のピアノコンサートに甲斐史子と西陽子が来る」
2006年11月4日(土)7時半開演
公園通りクラシックス(東京渋谷) tel 03(3464)2701
主催 太鼓堂 http://www.taikodo.info/
予約 太鼓堂 tel/fax 048(688)1102 mail taikodo@taikodo.org
詳しい内容は↓へ
http://taikodo.hp.infoseek.co.jp/emura.kai.nishi.2006.html

それではまた!(八巻美恵)

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 天津教古文書の批判 II

      第二 長慶太神宮御由来

 第一の文書は写真の標記に長慶太神宮御由来とあり、文字がこまかいうえに汚染のため不明な所もあるが、これを拡大してみれば一字を除きまちがいなく読める。すなわち左のとおりである。

掛巻毛恐伎応永二乙亥年十月十四日越中国神明棟梁
皇祖皇太神宮境内に長慶太神宮奉勧請祭神皇王九十八代
長慶寛成天皇神霊歴代皇霊神御帝河内交野私市師師
窟寺に敵のために元中九年閏十月十五日夜御寿四十九歳御崩百重
原に葬神霊神体天皇詔して御名を石に形假名にて堀付る御頭毛
□瓶に十六菊紋付き十六菊紋袈裟御宸筆歌鈴を神体にまつる
摂社秋葉位明神総大将殉死紀氏竹内越中守正四位惟
真寿七十三歳の神霊竹内信治五十七歳神霊竹内日座定介あらため
惟尚神霊天皇の忠心勧王者竹内一族百五十名天皇前後の
敵にかくれ敬護し勧王家元中九年八月十三日窟寺に安着の時
九十七名いる道中の難戦に討死の者岩崎彌助前田又蔵関屋
次郎若槻礼太郎関谷和吉牧野助之丞粕谷十郎倉富
利秋板垣七之助東郷八右エ門黒田清兵衛渋沢隆栄高橋
門次渋谷安右エ門真鍋武利楠次郎正幸清浦善次郎平田
東右エ門野村総三郎中田清次郎安田作右エ門岡崎藤助井上
次郎浅野長義松井蔵之助桜井左エ門赤井幾右エ門一条助
隆二条利義中条春完三条信義四条隆次五条清信六条
助信八条信弘芝信義小村安五郎武藤清右エ門新保八郎小山
三郎杉政次郎右エ門高道治助高柳利治藤田小三郎野尻善右エ門
稲垣角之進草野清利蛭田甚左エ門木村常陸之助結城三左エ門
斯波左エ門白川政利長井吉兵衛の神霊を同日奉勧請毎年
十月十四日を祭日に定
 応永二年十月十四日五日印之
  祭主棟梁皇祖皇太神宮神主
      紀氏竹内宗義謹(華押)
      紀氏竹内惟義謹(華押)
 長慶太神宮秘蔵

 この縁起文の大要を述ぶれば、応永二年十月に越中国高祖皇太神宮境内に長慶太神宮をもうけ、主神として長慶天皇をまつり、摂社として秋葉位神社をたて、これには長慶天皇御崩御のさいの殉死者竹内惟真ほか二名および同志の戦死者岩崎彌助以下五十三名を合祀するというのである。

 第一、文体について吟味するに、はじめの文句は掛巻毛恐伎で、いかにも神社の縁起にふさわしいと聞こえたが二の句が続かず、たちまち凡俗の口調に変じ、奇妙な熟語や当て字をつかっている。熟語の例は第二行に皇王(人皇というべきところ)、第四行に御崩(崩御)があり、当て字の例は第五行に形假名(カタカナ)堀付(彫付)、第九行に忠心(忠臣)、第十行に敬護(警護)、第二十三行に印(記)がある。しかして形假名と印とは後にとりあつかう平群真鳥の文書にもすでにあらわれているから、天津教伝来の語法ととってさしつかえないわけで、千年も変らずにこうした文字をつかっているのははなはだ頑強なところがある。そこにはなにか特別な理由が存在するものとみられるが、これは後に研究することにする。用語のおだやかならぬものに第五行の初に「百重原に葬」がある、ここは葬のただの一字で満足すべきでなくよろしく敬語の形とすべきである。もっともだいたいなっていない文章であるから、敬語の用法などを責むるは無理かもしれぬ。第十行の「敵にかくれ敬護し勧王家うんぬん」は多々論議すべきところを持っているが、いまはただ警護せしというべきをそのなかから「せ」の一字を脱したところに注意を呼んでおくにとめる。それから勧王家はもちろん勤王家のあやまりであろうが、どうも新しいひびきがする。また徳川以前には所有格をしめす「の」字はたいてい「之」字をつかったのであるが、この文にはことごとく「の」字をもちいているのもまたあたらしくみえる。第二十三行の「印之」はこれを記すと読まなければ意味が通じない。すなわち印は記の当て字である。この用例は平群真鳥にも出ている。第二十五、二十六行署名の下に書とか記とかあるいはこれにかわる動詞があるべきところに、ふつうこれらの字に副詞としてそえられる謹の一字を置きその下に華押を書そえている。この形式はまた平群真鳥のばあいにあらわれるからいわゆる頑強の第二例となる。最後にこの文のもっとも不都合なる点は第七行の「紀氏竹内越中守正四位うんぬん」と書下したところに存ずるのであるが、史実に関するものであるから後まわしにして、いまはただこの文は典故を知らない人の作ったものであることを言っておく。
 以上文体の考察を約言すれば、この文は文法も知らず典故も知らずして書いたもので、かつ全体の調子より察して比較的ちかごろの人の作と思わせられる。
 第二、書体について吟味するに、字形はだいたい唐様と取るべきもので、御家流の影響は微弱である。しかして一見菱湖の影響を肯定できる。筆致を考えるに器用の質であるがまだ修練を積まない。ゆえに無理ができたり誤字があらわれたりする。前者の例として第二行そのほかにある「宮」第四行「夜」第六行「歌」などの行体をあげ得る。後者の例としては第四行「窟」第六行「裟」第九、十行「勤」第十一行「難」第十四行「次」とすべきところに無理な形あるいはまったく別字をもちいている。このほかに許すべき範囲に入る特異の字形がすこぶる多い。そのうち二、三をあげると皇、霊、義、隠、信などの文字が得られる。他は必要もないから省くことにする。これらの文字は個性習慣によって頑強性を保持し、ほかの文書にもあらわれることを余儀なくされているのを見るであろう。いわゆる頑強の第三例である。
 以上書体の考察を約言すれば、この書はしろうとの筆で、菱湖の風をうけている所より推測して、天保以前に遡らしめることのできないものである。
 第三、内容について吟味するに、時日、地理、人物、事件の順序で調査する。
 時日に関し、干支閏月などの記入には不都合はない。
 地理に関し、越中国皇祖皇太神宮の所在が問題とすべきであるが、これを決定するには意外の困難が予想せられるので、しばらく天津教の言分を立てる。ただし後でわかるが結局はこのせんさくの必要はないのである。次に河内国交野郡私市師々窟寺は師々を獅子として生きる。昔は亀山帝の御陵があるとおもわれた有名な寺である。百重原もその付近にあって鴨長明の歌であらわれている。
 人物に関しては、長慶天皇を除きたてまつり、ほかの登場者は五十六人とも皆目わからない。しかしながら竹内家郎党の名前の一、二字をかえると、ちかごろの相当聞こえた人があらわれ出るのである。わたしの気づいた二、三を選んでみようならば、あらわれ出る人は岩崎彌之助、岩槻礼次郎、黒田清隆、渋沢栄一、平田東助、浅野長勳、松崎蔵之助あるいは松井庫之助、藤田小四郎などで、このうち藤田小四郎だけが明治前の人である。選び手がかわるとまた人数が増すことになるであろう。今一事郎党の名前について目立つことをいえば、一条二条と順を追い、七条を除き中条をもってこれにかえて第三番目に置き、八条までの名字におのおの立派な名乗りをつけて並列させた奇観である。郎党の名前を読んでいけばなにかしらん近頃の人がならんでいるような気がしてならず、応永ごろの勢ぞろいとしては受け取りがたいところがある。すなわち人物の実在性に関しては多大の疑団が存ずるのであるが、その一人を証明するにも否定するにも、ちょうど皇祖皇太神宮所在地のばあいと同じような困難を感ずるのであるから、無駄な努力をやめて、つぎの事項にうつる。
 事件すなわち史実に関しては確実な証拠をあげ得られることだけをのべる。この縁起には、長慶天皇は「敵のために元中九年閏十月十五日夜御寿四十九歳御崩百重原に葬」と記載されている。長慶天皇の御事蹟については中間いろいろの説もあったが、今日はほぼ一定し、崩御に関しては大乗院日記目録に記載するところを正しいとされている。これによれば天皇は南北合一の後京都に還幸せられ大覚寺に御座し、応永元年八月一日聖寿五十二にて崩御せられている。右大乗院日記目録は当時第一流の学者であった一条兼良の子大僧正尋尊の記録したもので、天津教文書など出たところで対抗おぼつかない。すなわちこの文書の長慶天皇に関する記事は虚妄である。しかし聞くところによると天津教ではなにごとでも自分側の主張を正しいとするということで、はなはだ始末にわるいのであるが、ここでもかならず負惜に出るであろう。しからば進んで殉死者の一条にうつる。さきに文体を論ずるにあたり「紀氏竹内越中守正四位惟真」と書下したのは典故を知らないためだと指摘しておいたが、官位を記す書式を知らないことはゆるしてやっても、どうしてもゆるせないのは正四位である。およそ位階は大宝令で定められた以来明治初年末まで変化なしに伝わってきたもので、その定めによれば、位階にはおのおの正従があり、ことに四位以下には正従にまたおのおの上下があって、たんに正四位という位はないのである。すなわち正四位竹内某などいう人の応永年間に存在したことは認めるわけにいかない。したがってこの記事はまた虚妄である。どうしてこんな不都合なことを書いたかその原因をつきとめてみよう。これには第一に考えられるのは、知ってこのような不都合を書くはずもないから、知らないで書いたものとなさなければなるまい。そこでまた二つのばあいが考えられる。第一のばあいはじつは知っているがちょっと忘れるか不注意のためかで書き落としたものと取るのである。第二のばあいはまったく知らないため書かなかったと取るのである。まず事実は第一のばあいであったと取る。そうすると宗義惟義などは大事な尊族の官位を書きまちがえたといっただけで済みそうであるが、そうは行かない。なぜならいかに長慶太神宮秘蔵の文書とはいえ、書き手が再見できないはずもなし、また最初書き終わった時にも校読もしたであろう。しかしてここの不都合に気づいたとするとぜんぜん清書し直すかまたは訂正しなければならないはずである。しかるになんらほどこすところがないのをもってみれば、忘れたのでも見落としたのでもなくまったく知らなかったのである。ひとり宗義惟義が知らなかったのみならず、竹内家代々の人もまた知らなかったのである。そう演繹せざるを得ないではないか。ただし要するに書手の二人が知らなかっただけでよろしい。すなわち第一のばあいが成立せずして第二のばあいが成立することになる。すなわち宗義惟義二人ともに正四位に上下のあることを知らないことになるのであるが、赤の子どもや土百姓素町人ならいざ知らず、殿上人の資格ある惟義の近親たる二人が知らないとはなにごとぞ。しかし事実知らないものならいたしかたもないが、そのかわり知らないですむ時代に生息してもらわなければなるまい。そうすると惟義宗義は明治後の人と取るがふさわしい。なぜなら位階に上下のなくなったのは明治に入ってからであり、これがたしかに制定されたのは明治二十年であるからである。
 以上内容の考察を約言すれば、この文書の史実が認められないのみならず、応永二年に竹内某々の書いたということもまったく偽りときまり、かつかかるデタラメを書く資格は明治も末年の無学のものにかぎられているという断案がともなうことになる。
 上述の理由により長慶皇太神宮由来は明治後期以後の偽作にかかるものと判断する。

     第三 長慶天皇御真筆

 第二の文書は写真の標記に長慶天皇御真筆とあり、二通より成立する。その全文は下記のごとくである。

 第一文書            第二文書
鳴ゆたなり諸国めぐり       ああ覚り天に神辟
父をふてあわして帰る       獅子口に隠魂都百重
河内の口ち寺          帝乃千代守り
 元中九壬申八月二十六日     元中壬申十閏月九日
  ゆたなり(華押)         覚理(華押)
        惟真へ         惟真へ
        宗義へ         宗義へ
        信治へ         信治へ

 右長慶天皇御真筆とあるものとこの次に出づる後醍醐天皇御真筆とあるものとは、いずれも破損はなはだしくかつ汚染も多く、なんのためかくなるまでに麁末な扱い方をなしたものであるか解釈に苦しむところである。破損汚染もはたして自然のものか、それとも人工をくわえたものにあらざるか、はなはだ疑うべきところがある。しかしながらこの程度の写真ではこの疑問につき十分の研究をなしがたいから、その調べはやめにしてすぐに文書の意味を取調べる。しかしてあらかじめことわっておくが、この文書もまた次の文書も一目瞭然天皇のものでないことがわかるのであるから、そのつもりで批判する。
 第一、文体について吟味するに、二通ともわずか三十字たらずの文の中に誤字、当て字、えん字、脱字などおびただしく構え、誤字をのぞいた外はわざとわかり難くする目的をもって、おそらく尊厳を増すために、異様の書きふりを試みたごとくにおもわれる。そこでこれを平易の文に書き換えると第一文書は「ああ寛成は諸国をめぐり、父を追うてあわして河内の獅子窟寺に帰る。」第二文書は「ああ覚理は天に神避け、獅子窟寺にかくれ都す、百重原は帝の千代守る所。」とこんな意味ではなかろうかとおもう。原文をありのままに読めば巫女の口寄せか御筆先かの口調に類し、一種の悲哀を感ぜさせる。かかるヘンテコな文であるから、その意味などに重きを置くのも考えものであるが、ひとつ見逃すことのできないのは第一文書の三行目にある口ち寺の「ち」である。わたしはこれを「つ」の転訛ととったのであるが、類似の転訛は平群真鳥の文書と称するものにもあらわれるから注意すべきである。
 以上文体の考察を約言すれば、この文は假名違いがあり、かなの多すぎたるも時代の下れることを示し、口寄せ風の口調もいかがわしいことであり、これを長慶天皇の宸翰など称するは実にもってのほかのことである。
 第二、書体について吟味するに、筆法は長慶太神宮御由来を書いた人のものとまったく一致し、したがって筆者の同一人なること疑うべくもない。前に特異の字形として摘出しておいた字がここにも出ているから証拠となる。二つの文書とも第一行第一字は鳴であるが、これは嗚のあやまりである。呼の崩方もあやしい。もはや誤字などうんぬんする必要も薄らいできたが、それでも参考になるから例の特異の字形すなわち頑強性を有するもの三つを摘出する。それは「帰」「都」「守」である。これがやがて後醍醐天皇御真筆にもかさねて現出するのである。
 以上書体の考察を約言すれば、これら二つの文書の筆者は長慶太神宮御由来の筆者と同一であるという事実に帰着する。
 第三、内容について吟味するに、第一文書に「父ををふてあわして帰る」とあるが、前にこれを父を追うと読み、御父君後村上天皇の御跡を追われ御一所に河内に入らせられたと取ったのである。ところが長慶天皇が河内に入られたのは長慶太神宮御由来によって見てもこの文書の日付元中九年八月二十六日より遠くさかのぼることはないと推せられる。すなわち後村上天皇崩御の正中二十三年よりずっと後のことである。そうするとさきの読みかたでは史実とあわないことになる。そこでかなの「を」を正しいと立ててしまうと読めばそこまではよろしいが、「合して帰る」へ続かなくなり、神秘的な説明でもしなければわからなくなる。しかして神秘的の解釈なら勝手にできることであるが、そんなことをする必要もない。なぜならこの文書の記事はいくぶん長慶太神宮御由来を補足する所もあるが、帰着する所は由来記と同一で、なんら事実と認められるものでないのであるから、結局この文書はニセモノときまり、このうえ研究する価値のないものだからである。次に第二の文書は第一行の末字がよく読めないのであるが、たぶん「辟」かとおもい、しかしてまたこの字はかかる文書に不相応と推し、「避」のまちがいではなかろうかと取り、をおぎなって読んだのである。ところで天に神避くるはあながち概念することできないでもないがいささか神秘的になるおそれがある。そこでむしろ辟のままにしておいたらどうかと見るに、辟は天子となり明となりきざすともまだいくらも意味がある。これらの意味で付会けるにはさらに努力を要するごとく思われる。しかしていかなる努力もこの文書の殿をうけたまわっている由来記同様の史実を肯定することは不可能である。結局この文書は第一文書と同じくニセモノときまるのである。
 以上内容の考察を約言すれば、二通の文書の記すところだいたい長慶太神宮御由来の記事にふくまれ居るかあるいは演繹すべき範囲のもので、まったく虚構にすぎないのである。
 上述の理由により長慶天皇御真筆は明治末期に作成したるニセモノと鑑定する。

     第四 後醍醐天皇御真筆

 第三の文書は標記して後醍醐天皇御真筆と題し二通ある。全文左のとおりである。
 第一文書            第二文書
流が礼くる常陸のくに居     我礼隠魂ゆく登む霊実ば
足し王洗良日の国帰り      帝枝たむく帝の国倍栄
隠魂都こぞ           万づ代守るぞ
 与国二幸已九月六日       興国二幸已九月十二日
  尊治(華押)          尊治(華押)
    惟光へ             惟光へ
    惟真へ             惟真へ
 右後醍醐天皇御真筆と称する文書二通は長慶天皇御真筆と称する文書二通とまったく同一筆にして、偽筆なること明白なるもいちおうの取調べをおこなうべし。
 第一、文体について吟味するに、二通とも長慶天皇御真筆と称するものの文体に同じである。文意は判明しがたい所もあるが、第一文書は後醍醐天皇が常陸国大洗へ御著になりそこで崩御あらせられたというように取られ、第二文書は御かくれの後といえども御霊は帝を助け国を守るべしとのおおせごとのごとくに聞こえる。かく考えたのはまちがっているかもしれずまたさいわいにあたっているかもしれないが、なんのためかかる拮屈牙なる文句を書つづり、おそれおおくも天皇の御名を付したてまつったか怪しむべきである。坊さんの読経と同じく分らんのが尊厳を増す所以とでも考えてのせいか。それにしても御名を付するにはもっとうまい文章を代作せしむべきであった。いかに秘密を守る必要があってもこれで押し通せると思うはすこしく変だ。小くびをかたむけざるを得ない。
 以上文体の考察を約言すれば、この文は長慶天皇御真筆の文と同じくまったくはなはだしい偽作である。
 第二、書体について吟味するに、筆法は長慶天皇御真筆と称するものとぜんぜん同一にして、したがってまた長慶太神宮御由来ともまったく一致する。すなわち筆者の同一なることをおもわしめる。前に指摘しておいた奇癖の文字はこれら文書にもあらわれいることを注意すべきである。とくに長慶天皇御真筆にあらわるる「帰」「都」「守」などを比較すれば同筆なること一目瞭然である。字形の無理なるもの、誤謬とすべきものをあげると第一文書の第一行「陸」、第二行「足」、第四行「與」(興の誤)、同行「幸」(季の誤)、第二文書の第三行「守」、第四行「幸」(季の誤)などがある。これらの文書は長慶天皇御真筆とともに文字すこぶる大形にして菱湖の影響を判然とみることができる。すなわちこれを文化文政以前のものとするは許すべからざることなるに、なんの根拠あって天津教はかかる幼稚の筆をもって、名筆かくれなき後醍醐天皇の御物したもうなどと言いふらすものぞ。
 以上書体の考察を約言すれば、これら二つの文書の筆者は長慶太神宮御由来の筆者と同一であるとの事実に帰着する。
 第三、内容について吟味するに、文書にいうところその意味あきらかならずほとんど了解に困難を感ずる。かかる変態的記述を吟味するにはいきおい作者の心事をそんたくする必要も加わり容易のことでは判断に達し得ない。ゆえに明確に捕捉のできる点についてのみ吟味する。そこで第一文書の日付は興国二年九月六日第二文書の日付は同年同月十二日となっているが、史を按ずるに後醍醐天皇は延元四年八月十六日崩御あらせられているから、これらの日付は崩御の日からかぞえて七百五十九日と七百六十五日目にあたっている。いずれも今日の勘定では二年一ヶ月程度の隔りがある。すなわち天津教では後醍醐天皇崩御の後二年一ヶ月をへてなお御存命あらせられていると取っていることになるのであるが、この事実はこれを歴史的無知に帰すべきか。それとも異をとなうるためわざとだいそれた試みをなしたと取るべきか。そもそもまた霊魂不滅の実証を提供せんとの意であるか。いずれにしてもはなはだ面妖のしだいである。ここでも負けおしみをいうならば天津教知識の錯迷狂的変態性は証明されたと見るべきであろう。
 以上内容の考察を約言すれば、この文書は後醍醐天皇御真筆とあるにかかわらず、崩御後二年一ヶ月を経た日付で書かれているから、まったくけしからぬニセモノである。
 上述の理由により後醍醐天皇御真筆は明治末期後の偽作と鑑定する。

つづく

2006.10.1
しだひろし/PoorBook G3'99

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