紙の歴史 I
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」26 大久保ゆう訳

2006年09月29日

 紙の歴史 II

         五

 オーストリーのウイーンに Rainer 太公という貴族があって、古紙の収集で世間に聞こえている。今より三十余年前たしか西暦千八百七十七、八年の交に、エジプトの Faiyûm 地方そのほか二、三の地方で、たくさんの古文書が発掘された。この古文書の大部は千八百八十四年以来 Rainer 太公の所有に帰した。その古文書の総数は十万以上に達し、その年代古きは西暦前十四世紀より、あたらしきは西暦後十四世紀まで、約二千七百年間にまたがっている。なかにはカヤツリ紙もあれば革紙もあるが、ただしボロ紙(Rag-Paper)もなかなか多い。Rainer 太公はただに古紙を収集するのみでは満足せず、収集した古紙を科学的に研究することをくわだてた。この研究のために多くの学者を依頼したが、その中で特別にこの研究に深き関係をもった学者が二人ある。一人はウイーン大学の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究を担当している。一人は同じくウイーン大学の Wiesner 教授でもっぱら顕微鏡調査と化学試験とで、古代の紙の成分およびその製法などを研究している。これらの人びとの研究調査の結果は数回の報告書となって世におおやけにされた(29)。この報告書がおおやけにされてから世界の紙の歴史ははじめて明瞭となったのである。わが輩は直接その報告書を見たことはないが、その大要は Hoernle 氏の論文(30)に引用されてあるから、Hoernle 氏のをさらに節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたそう。

 Rainer 太公の手もとに収集された古紙のうちには、薩末※[#「革+建」]サマルカンドをはじめマホメット教国で製造された紙がたくさんある。年代が古くて確実な方では、西暦八百七十四年、九百年、九百九年の文書がある。年代は明記されてないけれどもほかの理由によって、西暦七百九十一年もしくば二年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末※[#「革+建」]で支那人の捕虜が紙を製造しはじめてから、ちょうど四十年にあたっている。Wiesner 教授はこのマホメット教国製造の古紙について顕微鏡調査を試みた結果、これらの古紙はいずれも純然たるリンネンの敝布ふるぎれを原料として、けっして樹皮などの生繊維を混和しておらぬことが判明した。
 ただし一方ではマホメット教国の史家などは、最初薩末※[#「革+建」]で紙を製造した時に、草木すなわち生の植物繊維を原料としたとつたえている。なおまた、ペルシア語およびアラビア語で紙を Kâghaz または Kâghad という。これはインドの Kaghaz という言葉と同じく、いずれも支那のモミ紙(Kuchih 古音 Kok-dz)をなまったものである(31)。古伝説が草木を製紙の原料としたとつたえており、またマホメット教国へ最初輸入された紙が、穀紙をなまった Kâghaz または Kâghad という名称で知られている事実をあわせ考えると、当初薩末※[#「革+建」]サマルカンドで支那人の捕虜によって製造された紙は、主として樹皮を原料にもちいたであろうということは、ほとんど疑う余地がないように思われる。
 支那の新疆の探検がおこなわれるとともに、この地方から古文書が発掘された。英国の Stein 氏が天山南路で発掘した古文書はずいぶんあるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されているものが都合七種ほどある。すなわち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(じつは建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(じつは建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(じつは貞元二年、西暦七八六)、建中八年(じつは貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西暦七九〇)の古文書である(32)。これらの古文書はいずれも薩末※[#「革+建」]で製紙工場が創設された時代から、Rainer 太公所蔵のマホメット教国産のもっとも古き紙の時代にかけて、約四十年間にあたっている。これらの古文書はその紙質調査のため、たいてい Wiesner 教授の手もとに送られ、例の顕微鏡調査の結果、これらの古文書の紙には、いくぶんの敝布も混じているが、その大部分は桑、桂およびラミイすなわち China-grass などの皮を原料としていることが判明した。唐の中世に西域地方で使用されておった紙の主要成分が、桑そのほかの草木の皮であるとすると、薩末※[#「革+建」]で支那人の手によってはじめて製造されたマホメット教国の紙もまた同様であったであろうと想像すべき余地がはなはだ多い。マホメット教国の史家が薩末※[#「革+建」]の産紙は最初草木を原料としたと伝えているのは、この点から推しても、だいたい上信憑すべきように思われる。
 以上叙述した要点を約すると、西暦七百五十一年薩末※[#「革+建」]で製紙工場の創設された当時は、製紙の原料として草木を使用したという伝説は疑うべき余地がないが、同時に西暦七百九十一二年の交の薩末※[#「革+建」]産の紙を調査すると、純然たるボロ紙で樹皮などの生繊維はすこしも混和されておらぬ事実もまた信用せねばならぬというに帰着する。したがって製紙の原料にかく顕著なる相違のある原因は、西暦七百五十一年から七百九十一、二年にかけて約四十年間に、マホメット教国内におこったものと認定せなければならぬ。
 Wiesner 教授はマホメット教国の産紙と天山南路で発掘された支那紙とに対して綿密なる化学試験、顕微鏡調査をおこない、この二国の紙を比較して、大要次のごとき断案を下している。

唐時代の支那紙はいくぶんの敝布を混じているけれども、その主要なる原料は桑そのほかの双子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教国につたえたが、薩末※[#「革+建」]サマルカンド付近には第一の原料ともいうべき桑樹が欠乏しているから、必要上しだいに敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを経験すると、最後には敝布——マホメット教国に豊富なるリンネンボロ——のみで紙を製造することとなった。紙は支那から伝ったが、その原料をかえて今日一般に使用さるる純粋のボロ紙(Pure Rag-Paper)を産出するにいたったのは、マホメット教徒の功といわねばならぬ。

支那紙の原料の樹皮は、最初は石うすにて人力で擣きくだいたものであるが、これでは繊維組織を損すること多く、したがってできあがった紙質も粗鬆そしようで、字を書くと※[#「さんずい+念」]る恐れがある。やや後世——西暦七、八世紀ころ——となると、化学作用で樹皮の繊維組織をあまり損ぜぬようになった。したがって紙質も一段改良された。ただし敝布は依然石うすで擣きくだいたままである。ところがマホメット教国の産紙を調査するとその原料たる敝布から化学作用で、手ぎわよく繊維をひきだした痕が歴々として認められる。マホメット教徒は原料とりあつかいについて、支那人よりもいっそうの改良進歩をとげたといわねばならぬ。

原料の変更原料とりあつかいの改良この二点を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は——原料にノリを混加し、または紙面にでんぷん末を塗布して紙質を良好にする方法まで——だいたい支那人のそれと同一である。

 以上の断案が今日の学界に証典として公認されている。ただし多少の疑惑をはさむべき余地がないでもない。第一 Wiesner 教授の調査した支那紙の数はけっして多くない。年代の確実なるものはわずか六、七種にすぎぬはずである。しかもこれらは多く唐代のもので、いずれもコータンの東北約百マイルばかりの Wandân-Uiliq 地方から発掘されたものである。一地方から発掘された少数の支那紙の調査のみでは、けっして支那紙全般の原料や製法を確実に推断するわけにはいかぬ。
 第二に東漢時代からすでに麻紙、穀紙、網紙の区別があった。『東観漢記』の一本に、
倫(蔡倫)典尚方紙。用故麻麻紙。木皮名穀紙。魚網名網紙

と記してある。故麻というと麻ボロのことであろう。すると網紙はもちろん、麻紙もたとい純粋のボロ紙でなくても、その主要成分は熟繊維(Textile Fibres)であったと想像される。すくなくとも天山南路で発掘された支那紙——Wiesner 教授によれば樹皮を主要原料とせる——と同一の成分ではなかったであろうと思われる。ただしこの問題を解決するには、なるべく多くの古代の支那紙を収集して、これを Wiesner 教授と同様の方法で調査するほかはない。事実は最後の解決である。

         六

 Stein 氏が天山南路の探検に着手して以来、ヨーロッパ諸国の探検者は陸続この方面に出かけた。ドイツからは最初に Grünwedel 氏(西暦一九〇二—一九〇三)次に Le Coq 氏(西暦一九〇四—一九〇六)第三回には Grünwedel および Le Coq 二氏(西暦一九〇六—一九〇七)が出かけて、幾多の古文書を発掘した。英国からは Stein 氏がふたたび天山南路に出かけ(西暦一九〇六—一九〇八)敦煌で幾多の遺籍、文書を発見した。フランスの Pelliot 氏もまたこの方面に出かけ(西暦一九〇六—一九〇九)敦煌で大発見をやったことは、わが国人の耳になお新なるところである。これらの探検によって得た成績は、多くはまだ発表にならぬけれども、そのうちに唐代もしくばその以前の文書——わが輩が前項に述べた支那紙の原料および製法問題を解決するに屈竟なる材料が少なくないことだけは確実である。
 わが国の西本願寺の大谷伯爵もまたさる明治三十五年以来この方面に探検隊を派遣している。第一回第二回の探検はすでに終りを告げ、いまは第三回探検中である。第一回第二回の探検の獲物のうちに、唐の玄宗の天宝五載(西暦七四六)の牒状がある。これは怛邏斯タラス城の戦役前まさに五年のもので、マホメット教国の産紙と支那紙との原料相違如何を調査するにあたって、有力の材料たるべきものである。そのほか年号によってもしくは書体より推して、南北朝もしくばその以前と認定すべき古写経、古文書すこぶる多くしていちいち列挙するにひまないが、中についてもっとも注意に価するもの一、二をあげると次のごときものがある
 第一が西晋の元康六年(西暦二九六)の古写経である。松本文三郎博士がすでに紹介されたとおり(33)この古写経は西晋の竺法護訳の『諸仏要集経』である。写経や書道の方面からみてもずいぶん珍とすべきではあるが、支那紙研究の材料としていっそう貴重すべきである。元康六年は蔡倫が紙を発明した元興元年を距ることわずかに百九十一年、すなわちこの古写経の用紙は支那で紙が発明されてから、後くも百九十二年目のものである。おそらくは今日につたわれる支那紙の最古のものであろう、古紙研究の屈竟の材料たるべきは申すまでもない。これに続くが李栢文書である。この文書は年号を欠いているけれども羽田学士の研究によると、東晋の咸和三年ないし五年(西暦三二八—三三〇)の間のものと認定される(34)。はたしてしかりとすれば、これもまた古代の支那紙を研究するに見逃すべからざる材料である。
 昨年清国へ出張されたわが京都文科大学教授諸君の調査によると、学部もしくば個人の所蔵に帰した敦煌の遺書中に、南北朝隋唐時代の古写経がすこぶる多い。年号のそなわっているものも少なくない。いずれも支那紙研究の材料に供すべきであるが、ことに唐の至徳二載(西暦七五七)の『十戒経』は怛邏斯タラス城の戦役後六年目のもので、西本願寺所蔵の天宝五載の牒状とともに支那紙西伝時代に関係ある重要の材料である。
 ようするに最近数年間に古代の支那紙を研究すべき新材料が多数に収集された。これらの材料ことに西本願寺所蔵の古文書——が Wiesner 教授と同様の方法によって、科学的に研究されたあかつきに、はじめて世界の製紙史上における支那紙の位置が確定されるわけである。わが輩はかかる時期の一日も早く到来せんことを希望するのである。

参照
(1)清の李惇の『群經識小』(『皇清経解』巻七百二十二)。
(2)晋の杜預の『春秋左氏伝』序の注。
(3)清の劉宝楠の『論語正義』巻一所引。
(4)『後漢書』巻一百八、宦者列伝。
(5)『東観漢記』巻二十(『武英殿聚珍版全書』所収)。
(6)『欽定四庫全書總目提要』巻五十。
(7)許慎の『説文解字』叙およびその子、許沖の「進『説文解字』上書」。
(8)『段注説文解字』第十三編上。
(9)『通雅』巻之三十二。
(10)"Die Erfindung des Papiers in China" S. 7 (T'oung Pao, 1890).
(11)"Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 680 (J.R.A.S. 1903).
(12)"Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 522.
(13)『資治通鑑』巻二百十六。
(14)Le Strange; "The Lands of the Eastern Caliphate" p. 486.
(15)『通典』巻一百八十五。
(16)Hirth; "Nachworte zur Geschrift des Tonjukuk" S. 3.
(17)┌Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 668.
   └Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" p. 297.
(18)┌Wüstenfeld; "Vergleichungs-Tabellen der m. und ch. Zeitrechung" S. 6.
   └『三正綜覧』九十七丁(ただしヴェステンフェルド氏と一日の相違あり。しばらくヴ氏にしたがう。)
(19)┌『三正綜覧』九十七丁。
   └Brumsen; "Japanese Chronological Tables" p. 57.
(20)Hammer-Purgstall; "Auszüge aus Saalebl's Buche der Stützen des sich Beziehenden und dessen worauf es sich bezieht" S. 529 (D.M.G. 1854).
(21)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 664.
(22)Hirth; "Die Erfindung des Papiers in China" S. 13.
(23)Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" pp. 297, 298.
(24)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 670.
(25)William Ouseley; "Ibn Haukal" p. 233.
(26)坪井博士『史学研究法』百十四—百二十一ページ。
(27)Jacob; "Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 524.
(28)Jacob; 同右書 p. 524.
(29)"Mitteilungen aus der Sammlung des Papyrus Erzherzog Rainer"
(30)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" (J.R.A.S. 1903).
(31)Hirth; "Die Erfindung des Papiersin China" S. 12 (T'oung Pao, 1890).
(32)Stein; "Ancient Khotan" Vol. I, pp. 523-533; Vol. II, p. cxv, cxvi.
(33)『中央アジア発掘の古写経について』(『芸文』第二年第一号)。
(34)大谷伯爵所蔵新疆史料解説』(『東洋学報』第一巻第二号)。

(明治四十四年九・十月『芸文』第二年第九・一〇号所載)

 
 
 
底本:「桑原隲蔵全集 第二巻」岩波書店
   1968(昭和43)年3月13日発行
初出:「芸文 第二年第九、一〇号」
   1911(明治44)年9、10月
※二行にわたる始め波カッコは、けい線素片の組み合わせにおきかえました。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2006年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。
 
 2006.9.29 公開
 2006.9.30 修正
 しだひろし/PoorBook G3'99
 転載・朗読・翻訳は自由です。

★この文章を書いた人→PoorBook G3'99★こんな時間に→2006年09月29日 20:11 ★トラックバック


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むしとりあみメモ

大谷伯爵所藏新疆史料解説』 → 『大谷伯爵所藏新疆史料解説』 【『】

底本:「桑原隲蔵全集 第二巻」岩波書店

   1968(昭和43)年3月13日発行

http://www.aozora.gr.jp/... 底本未確認です。

Posted by: しだ at 2006年10月08日 13:59

しださんのご指摘通りです。
大谷伯爵所藏新疆史料解説』 → 『大谷伯爵所藏新疆史料解説』 【『】

底本確認済み。
底本:「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店
   1968(昭和43)年3月13日発行

Posted by: はまなかひとし at 2006年10月28日 18:32

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2006年10月05日 22:07

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