アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」24 大久保ゆう訳
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」25 大久保ゆう訳

2006年09月20日

 あおぞら

 いつから青空文庫に参加したのかなと思って、送信済みメールをさかのぼってみると、2001.4.14付けのメールがありました。青空で T-Time 形式ファイルを提供していたころのことです。Luna Cat さんが「明日の本棚」を開いたころ。はじめての作業には、幸田露伴こうだろはん平 将門たいらのまさかど」の入力を選びました。なぜかというと、「将門に関する露伴の考察は必読である」という記述を、たまたま荒俣 宏『帝都物語』の巻末解説にみつけたからです。

 山形には、どういうわけか平 将門にまつわる伝説がいくつかあります。有名なのは、国宝に指定されている羽黒山五重塔を建立したという説です。詳細はわかりません。それからもうひとつ。出羽三山でわさんざん登拝口とうはいぐちには、いわゆる八方七口はっぽうななくちとよばれる寺院集落があります。その集落のなかのひとつがぼくの出身地なのですが、そこには将門の落人おちうど伝説があるのです。将門の子孫の家系といえば、有名なところで福島県相馬そうま地方があります。相馬へ逃げのびた将門の子孫が、山形へ移住、さらにそこから出羽三山のふもとへ逃げのびてきたという言い伝えがあるのです。
 真実なのか。それとも、とるにたらない伝説なのか。真実ではないとするならば、そういう伝説が生まれた背景はなんだったのか。よりにもよって京の朝廷に反逆して、みずから関東の新しいみかどだと宣言し、田原藤太たわらのとうたにあっけなく征伐せいばいされてしまう将門。いわば平安時代のテロリスト。それがどういうわけか、その死後も怨霊おんりょうとして、あるいは土地を守る神としてまつられる。むしろ、庶民的に長く親しまれ続ける存在となる。
 関東武士もののふのさきがけ。将門の親族でありながら敵対し、後世に繁栄と滅亡の道をたどることになる平家一門にとって、将門はどんな意味をはなつことになったのだろう。頼朝や家康は、将門をどう思っていたのだろう。
 
 インターネットではじめて書きこみした掲示板は、青空文庫のみずたまりでした。その後、MLメーリングリストへの初参加も青空文庫でした。blog を教えてもらったのも青空文庫。作業に参加し続けている理由はいくつかあります。が、なかでも最近ぼんやり思うことがあります。
 参加の動機は人さまざまあるでしょうが、ぼくのようなケースもあるでしょうか。それは告白してしまうと現実からの逃避です。悪く言えば。けれどもそれは裏を返していえば、現実からの救いでもありました。どういうことかというと、当時、自殺することばかり考えて、それが頭から離れない毎日でした。
 どうやったら楽に死ねるだろうか。当然ながら家族のことなど思うゆとりもない。将来のことなど、とても。起きても死、寝ても死。連日連夜。一か月、一年……。歩きながらも死。車を運転しながらも死。食事をしながらも死。それからもうひとつ考えていたことがあります。復讐ふくしゅうです。こういう境遇に追いこんだ奴への復讐。どうやって復讐するか。どういう方法が確実か。どういう方法が効果的か。どうやったらバレないか。いや、もはや差しちがえでもいい。復讐できるのであれば、そのあと逮捕されてもかまわない。復讐しなければ死んでも死にきれない。自殺・復讐・憎悪・殺意……。思考や感情が完全にそういうものに乗っとられた状態でした。そういう負の感情だけがグルグルとローテーションしていました。
 
 よくまあ、はやまったことをしなかったものだと、われながらあきれます。負の感情に乗っとられながらも、これで自殺したら完全な敗北だろ、というさめた眼もかすかにありました。それから、あんな奴らのために自分の時間も感情もこれほど消耗させられるのがたまらなく不快だった。復讐の鬼になるということは、マイナスの意味で相手のことを強烈に“想い続ける”ことだったからです。負の感情に支配された状態は、すごく気色悪きしょくわるかった。アホくさくすら思った。こういうことを書いているということは、憎悪はいまだ消えていません。こういうかたちで復讐をつづけているのだと思う。だから負の感情は消えていないし、いつでも思考の深層部分から噴出してくる。完全に記憶を消して忘れることができるなら、そのほうがたいへん楽だ。思考の表層からも深層からもとっとと消えてほしい。けれどもありがたいことに、まだしばらく深層部におすわられたいらしい。ならばご足労でも、こうやってたまに表層におましましいただいくのも健全とはいえまいか。
 
 出羽三山の歴史をみると、修験者のなかには、人をあやめた人物が何人か登場します。真偽や詳細はわかりません。その本人が極悪人だったのか。それとも殺された側が悪かったのか。人を殺めて、そこにいられなくなって出羽三山へ逃れ修験者になった人物が少なくとも二人います。これは何を意味しているのだろう。根も葉もないうわさ話なのか。誇張のまじったものか。話が残っているということは、彼らを受け入れた村の人々も、多かれ少なかれ彼らの過去を承知で迎え入れた、かくまった、知らぬふりをして受け入れた、不承不承ながら受け入れた、ということか。あるいはその村では口外できなくても、その村の周囲で話が伝承されたのか。
 幕末、秋田仙北郡出身の進藤勇吉という人物は誤って殺人をおかし、鶴岡へ逃れて出家し、鉄竜海てつりゅうかいと名乗ります。文久二年(一八六二)湯殿山の千人沢で修行。明治一四年(一八八一)、鶴岡でなくなる。享年六十二。ミイラが残っています。
 時代ははるかにさかのぼって天文年間、戦国末期。大隅(鹿児島)出身の人物が、やはり人を殺傷した過去があって出羽三山・八方七口のひとつ大井沢おおいさわ大日寺へ来ます。彼は勢眞せいしんと名乗り、すたれた大日寺を再興し伽藍がらんを建てる。この大日寺の中興の祖に、道智どうち上人しょうにんという、南北朝の後期に播磨国書写山(現兵庫県姫路)で生まれた人物がいて、寒河江慈恩寺で修行します。一休さんや将軍・足利義満や山形最上家の祖・斯波兼頼しば かねよりと同時代の人です。大日寺では道智を初代住職(方丈)とし、勢眞を二代目とかぞえています。
 勢眞上人はもともと武士だったらしい。明治に入ってから墓碑が地中から発掘されます。大日寺には七不思議と呼ばれるものがあり、そのひとつに、勢眞上人の墓のほうからな夜なすすり泣き声が聞こえてくる、という言い伝えがあります。生前の無念をうらんでとも、墓碑が埋められたのを口惜くちおしんでともいわれます。寺の住職ともあろう人がうらみ節かと、いぶかしくもありますが。
 
 ところで羽黒山の開祖は、第三十二代崇峻すしゅん天皇の第三皇子・蜂子皇子はちこおうじだといわれています。蜂子皇子と特定されるのは江戸時代後期(1820年)のことで、それまでは能除仙のうじょせんとだけ伝承がありました。能除仙、イコール蜂子皇子ということになったらしい。聖徳太子のいとこにあたる。皇子がなぜこんな辺境の出羽へやってきたかというと、どうも奈良飛鳥あすかの都を追われて逃れてきたのではないかとの説がある。文書に記さたり彫刻や肖像画に残っている姿をみると、口がけていたり、うわくちびるがめくれていたり、眼尻がつり上がっていたり、浅黒い肌だったりというようにおそろしい形相の人物です。その異形を怖がられて追いはらわれたともいいます。ただし、鬼のようなツノはない。天狗のようなハナもない。貴種流離譚。流浪。将門伝説……義経伝説……奥州・平泉……戊辰戦争・奥羽越列藩同盟……それらの陰間に出羽三山や、この国の宗教史や権力闘争の一端が見えかくれしているような……。
 
 テキスト入力や校正作業をしていて、しばしばハッと思ったのは、作業に集中しているあいだ、あれほど感情を乗っとっていた死の念やうらみの情、復讐心が、いつの間にかかき消えている瞬間があることでした。底本を横に置いてパソコンに向かって原稿を入力する。ひたすら。文章を眼で追い、キーを打つ、漢字を検索する、読みかえす。作業中は文章の意味内容を深く追っかけすぎない。たんたんと文章のツラをなでていく感じ。意識の1/3くらいで底本の字づらを読み、1/3くらいでキーボードを打ち込み、あとの1/3で入力テキストを確認する。とてもそれ以外のことを考えられない状態ができる。没頭。意識の集中コンセントレーション。憎悪や怨みの情念に支配されることも意識の集中だろうけれども、それとはまったく異質の状態。感情の起伏きふくがまったく現われない、別種の集中状態がいつのまにか生まれる。意識的にではなく、完全に“無意識的”にというところがミソです。
 車を運転している最中は、運転に意識を向けながらも、手足は無意識に動く。意識の集中は前方の視覚へ向けられる。ただし新しい道を走るばあいと、走りなれている道を行くばあいで、集中の度合いは大きく変わります。なれた道では、いろいろと考えながら走ることになる。運転中、その思考がグルグル頭をめぐる。リバースする。車を運転していたときには、不快な情念がグルグルして、テキストの入力や校正のようにフラットな心境は生じませんでした。
 スポーツで汗をかいている瞬間がたいへん近い。波乗りをしているときとか、スノボーをしているとき。目の前の波やゲレンデに意識が“無意識に”集中する。目の前のサーファーやボーダーにも意識が“無意識に”くばられる。タイミングやフォームにも気がくばられる。すると、あれほど忘れることが困難だった嫌な記憶が、とても意識の表層にのぼってくるようなゆとりがなくなるのです。“無意識に”。不快な記憶を完璧に消去するのはむずかしい。けれども“意識をしない瞬間をつくる”ことであれば、方法はないことはないわけです。そこまでできるようになれば、つぎは「意識をしない瞬間」を少しずつでも伸ばしたり、断続させたり、別の手段で同じ状態を作り出したりしていけばいい。
 
 まるで出羽三山をとりかこむように、山形には和紙の産地があります。実際に足をはこんだところ、自然条件がどこもたいへん似ていることに気がつきました。山間地であること。近くの川から水をひけること。冬には降雪量が多いだろうこと。稲作には不向きそうなこと。それから、近くに神社や寺院があること。
 写経や座禅修行の経験はありません。ところが、一見まったく別の作業ですが、青空文庫の活動に参加していて、もしかしたらかつて出羽三山で写経をしていた僧侶や修験者たちも似たような精神の安定を感じていたり求めていたのかもしれないと、最近考えるようになりました。なんらかの罪を背負ったり、人を殺めたり、住みなれたところを追いはらわれたり、大切なものをうばわれた人たちならばなおのことです。
 
 蜂子皇子、平 将門、義経……。
 
 
 
 2006.9.20
 しだひろし/PoorBook G3'99
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