2006年09月30日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」26 大久保ゆう訳

26

 井戸のそばに、こわれた古い石のかべがあった。つぎの日の夕がた、ぼくがやることをやってもどってくると、とおくのほうに、王子くんがそのかべの上にすわって、足をぶらんとさせているのが見えた。その子のはなしごえもきこえてくる。

「じゃあ、きみはおぼえてないの?」と、その子はいった。「ちがうって、ここは!」

 その子のことばに、なにかがへんじをしているみたいだった。

「そうだけど! そう、きょうなんだけど、ちがうんだって、ここじゃないんだ……」

 ぼくは、かべのほうへあるいていった。けれど、なにも見えないし、なにもきこえない。それでも、王子くんはまたことばをかえしていた。

「……そうだよ。さばくについた、ぼくの足あとが、どこからはじまってるかわかるでしょ。きみはまつだけでいいの。ぼくは、きょうの夜、そこにいるから。」

 ぼくは、かべから二〇メートルのところまできたけど、まだなにも見えない。

 王子くんは、だんまりしたあと、もういちどいった。

「きみのどくは、だいじょうぶなの? ほんとに、じわじわくるしまなくてもいいんだよね?」

 ぼくは心がくるしくなって、たちどまったけれど、どうしてなのか、やっぱりわからなかった。

「とにかく、もう行ってよ。」と、その子はいった。「……ぼくは下りたいんだ!」

 そのとき、ぼくは気になって、かべの下のあたりをのぞきこんでみた。ぼくは、とびあがった。なんと、そこにいたのは、王子くんのほうへシャーっとかまえている、きいろいヘビが一ぴき。ひとを三〇びょうでころしてしまうやつだ。ぼくはピストルをうとうと、けんめいにポケットのなかをさぐりながら、かけ足でむかった。だけど、ぼくのたてた音に気づいて、ヘビはすなのなかへ、ふんすいがやむみたいに、しゅるしゅるとひっこんでしまった。それからは、いそぐようでもなく、石のあいだをカシャカシャとかるい音をたてながら、すりぬけていった。

 ぼくは、なんとかかべまでいって、かろうじてその子をうけとめた。ぼくのぼうや、ぼくの王子くん。かおが、雪のように青白い。

「いったいどういうこと! さっき、きみ、ヘビとしゃべってたよね!」

 ぼくは、その子のいつもつけているマフラーをほどいた。こめかみをしめらせ、水をのませた。とにかく、ぼくはもうなにもきけなかった。その子は、おもいつめたようすで、ぼくのことをじっと見て、ぼくのくびにすがりついた。その子のしんぞうのどきどきがつたわってくる。てっぽうにうたれて死んでゆく鳥みたいに、よわよわしい。その子はいう。

「うれしいよ、きみは、じぶんのからくりにたりないものを見つけたんだね。もう、きみんちに帰ってゆけるね……」

「どうして、わかるの?」

 ぼくは、ちょうど知らせにくるところだった。かんがえてたよりも、やるべきことがうまくいったんだ、って。

 その子は、ぼくのきいたことにはこたえなかったけど、こうつづけたんだ。

「ぼくもね、きょう、ぼくんちにかえるんだ……」

 それから、さみしそうに、

「はるかにずっととおいところ……はるかにずっとむずかしいけど……」

 ぼくは、ひしひしとかんじた。なにか、とんでもないことがおころうとしている。ぼくは、その子をぎゅっとだきしめた。ちいさな子どもにするみたいに。なのに、それなのに、ぼくには、その子がするっとぬけでて、穴におちてしまうような気がした。ぼくには、それをとめる力もない……

 その子は、とおい目だったけど、そのことをちゃんと見ていた。

「ぼくには、きみのヒツジがある。それに、ヒツジのためのはこもある。くちわもある……」

 そういって、その子は、さみしそうにほほえんだ。

 ぼくは、ただじっとしていた。その子のからだが、ちょっとずつほてっていくのがわかった。

「ぼうや、こわいんだね……」

 こわいのは、あたりまえなのに! でも、その子は、そっとわらって、

「夜になれば、はるかにずっとこわくなる……」

 もうどうしようもないんだっておもうと、ぼくはまた、こころがぞっとした。ぼくは、このわらいごえが、もうぜったいにきけないなんてことが、どうしても、うけいれることができなかった。このわらいごえが、ぼくにとって、さばくのなかの水くみ場のようなものだったんだ。

「ぼうや、ぼくはもっと、きみのわらいごえがききたいよ……」

 でも、その子はいった。

「夜がくれば、一年になる。ぼくの星が、ちょうど、一年まえにおっこちたところの上にくるんだ……」

「ぼうや、これはわるいゆめなんだろ? ヘビのことも、会うことも、星のことも……」

 でも、その子は、ぼくのきいたことにこたえず、こういった。

「だいじなものっていうのは、見えないんだ……」

「そうだね……」

「それは花もおんなじ。きみがどこかの星にある花を好きになったら、夜、空を見るのがここちよくなる。どの星にもみんな、花が咲いてるんだ……」

「そうだね……」

「それは水もおんなじ。きみがぼくにのませてくれた水は、まるで音楽みたいだった。くるくるとロープのおかげ……そうでしょ……よかったよね……」

「そうだね……」

「きみは、夜になると、星空をながめる。ぼくんちはちいさすぎるから、どれだかおしえてあげられないんだけど、かえって、そのほうがいいんだ。ぼくの星っていうのは、きみにとっては、あのたくさんのうちのひとつ。だからきみは、どの星もみんな、見るのがすきになる……みんなみんな、きみの友だちになる。そうして、ぼくはきみに、おくりものをするんだよ……」

 その子は、からからとわらった。

「ねぇ、ぼうや、ぼうや。ぼくは、そのわらいごえが大すきなんだ!」

「うん、それがぼくのおくりものだよ……水とおんなじ……」

「どういうこと?」

「ひとには、みんなそれぞれにとっての星があるんだ。たびびとには、星は目じるし。ほかのひとにとっては、ほんのちいさなあかりにすぎない。あたまのいいひとにとっては、しらべるものだし、あのしごとにんげんにとっては、お金のもと。でも、そういう星だけど、どの星もみんな、なんにもいわない。で、きみにも、だれともちがう星があるんだよ……」

「どういう、こと?」

「夜、空をながめたとき、そのどれかにぼくがすんでるんだから、そのどれかでぼくがわらってるんだから、きみにとっては、まるで星みんながわらってるみたいになる。きみには、わらってくれる星空があるってこと!」

 その子は、からからとわらった。

「だから、きみのこころがいえたら(ひとのこころはいつかはいえるものだから)、きみは、ぼくと出あえてよかったっておもうよ。きみは、いつでもぼくの友だち。きみは、ぼくといっしょにわらいたくてたまらない。だから、きみはときどき、まどをあける、こんなふうに、たのしくなりたくて……だから、きみの友だちはびっくりするだろうね、じぶんのまえで、きみが空を見ながらわらってるんだもん。そうしたら、きみはこんなふうにいう。『そうだ、星空は、いつだってぼくをわらわせてくれる!』だから、そのひとたちは、きみのあたまがおかしくなったとおもう。ぼくはきみに、とってもたちのわるいいたずらをするってわけ……」

 そして、からからとわらった。

「星空のかわりに、からからわらう、ちいさなすずを、たくさんあげたみたいなもんだね……」

 からからとわらった。それからまた、ちゃんとしたこえで。

「夜には……だから……来ないで。」

「きみを、ひとりにはしない。」

「ぼく、ぼろぼろに見えるけど……ちょっと死にそうに見えるけど、そういうものなんだ。見に来ないで。そんなことしなくていいから……」

「きみを、ひとりにはしない。」

 でも、その子は気になるようだった。

「あのね……ヘビがいるんだよ。きみにかみつくといけないから……ヘビっていうのは、すぐおそいかかるから、ほしいままに、かみつくかもしれない……」

「きみを、ひとりにはしない。」

 でも、ふっと、その子はおちついて、

「そっか、どくは、またかみつくときには、もうなくなってるんだ……」

 

 あの夜、ぼくは、あの子がまたあるきはじめたことに気がつかなかった。あの子は、音もなくぬけだしていた。ぼくがなんとかおいつくと、あの子は、わき目もふらず、はや足であるいていた。あの子はただ、こういった。

「あっ、来たんだ……」

 それから、あの子はぼくの手をとったんだけど、またなやみだした。

「だめだよ。きみがきずつくだけだよ。ぼくは死んだみたいに見えるけど、ほんとうはそうじゃない……」

 ぼくは、なにもいわない。

「わかるよね。とおすぎるんだ。ぼくは、このからだをもっていけないんだ。おもすぎるんだ。」

 ぼくは、なにもいわない。

「でもそれは、ぬぎすてた、ぬけがらとおんなじ。ぬけがらなら、せつなくはない……」

 ぼくは、なにもいわない。

 あの子は、ちょっとしずんだ。でもまた、こえをふりしぼった。

「すてきなこと、だよね。ぼくも、星をながめるよ。星はみんな、さびたくるくるのついた井戸なんだ。星はみんな、ぼくに、のむものをそそいでくれる……」

 ぼくは、なにもいわない。

「すっごくたのしい! きみには五〇おくのすずがあって、ぼくには五〇おくの水くみ場がある……」

 そしてその子も、なにもいわない。だって、泣いていたんだから……

 

「ここだよ。ひとりで、あるかせて。」

 そういって、あの子はすわりこんだ。こわかったんだ。あの子は、こうつづけた。

「わかるよね……ぼくの花に……ぼくは、かえさなきゃいけないんだ! それに、あの子はすっごくかよわい! それに、すっごくむじゃき! まわりからみをまもるのは、つまらない、四つのトゲ……」

 ぼくもすわりこんだ。もう立ってはいられなかった。あの子はいった。

「ただ……それだけ……」

 あの子はちょっとためらって、そのあと立ち上がった。いっぽだけ、まえにすすむ。ぼくはうごけなかった。

 なにかが、きいろくひかっただけだった。くるぶしのちかく。あの子のうごきが、いっしゅんだけとまった。あの子は、そうっとたおれた。木がたおれるようだった。音さえもしなかった。すなのせいだった。

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2006年09月29日

 紙の歴史 II

         五

 オーストリーのウイーンに Rainer 太公という貴族があって、古紙の収集で世間に聞こえている。今より三十余年前たしか西暦千八百七十七、八年の交に、エジプトの Faiyûm 地方そのほか二、三の地方で、たくさんの古文書が発掘された。この古文書の大部は千八百八十四年以来 Rainer 太公の所有に帰した。その古文書の総数は十万以上に達し、その年代古きは西暦前十四世紀より、あたらしきは西暦後十四世紀まで、約二千七百年間にまたがっている。なかにはカヤツリ紙もあれば革紙もあるが、ただしボロ紙(Rag-Paper)もなかなか多い。Rainer 太公はただに古紙を収集するのみでは満足せず、収集した古紙を科学的に研究することをくわだてた。この研究のために多くの学者を依頼したが、その中で特別にこの研究に深き関係をもった学者が二人ある。一人はウイーン大学の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究を担当している。一人は同じくウイーン大学の Wiesner 教授でもっぱら顕微鏡調査と化学試験とで、古代の紙の成分およびその製法などを研究している。これらの人びとの研究調査の結果は数回の報告書となって世におおやけにされた(29)。この報告書がおおやけにされてから世界の紙の歴史ははじめて明瞭となったのである。わが輩は直接その報告書を見たことはないが、その大要は Hoernle 氏の論文(30)に引用されてあるから、Hoernle 氏のをさらに節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたそう。

 Rainer 太公の手もとに収集された古紙のうちには、薩末※[#「革+建」]サマルカンドをはじめマホメット教国で製造された紙がたくさんある。年代が古くて確実な方では、西暦八百七十四年、九百年、九百九年の文書がある。年代は明記されてないけれどもほかの理由によって、西暦七百九十一年もしくば二年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末※[#「革+建」]で支那人の捕虜が紙を製造しはじめてから、ちょうど四十年にあたっている。Wiesner 教授はこのマホメット教国製造の古紙について顕微鏡調査を試みた結果、これらの古紙はいずれも純然たるリンネンの敝布ふるぎれを原料として、けっして樹皮などの生繊維を混和しておらぬことが判明した。
 ただし一方ではマホメット教国の史家などは、最初薩末※[#「革+建」]で紙を製造した時に、草木すなわち生の植物繊維を原料としたとつたえている。なおまた、ペルシア語およびアラビア語で紙を Kâghaz または Kâghad という。これはインドの Kaghaz という言葉と同じく、いずれも支那のモミ紙(Kuchih 古音 Kok-dz)をなまったものである(31)。古伝説が草木を製紙の原料としたとつたえており、またマホメット教国へ最初輸入された紙が、穀紙をなまった Kâghaz または Kâghad という名称で知られている事実をあわせ考えると、当初薩末※[#「革+建」]サマルカンドで支那人の捕虜によって製造された紙は、主として樹皮を原料にもちいたであろうということは、ほとんど疑う余地がないように思われる。
 支那の新疆の探検がおこなわれるとともに、この地方から古文書が発掘された。英国の Stein 氏が天山南路で発掘した古文書はずいぶんあるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されているものが都合七種ほどある。すなわち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(じつは建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(じつは建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(じつは貞元二年、西暦七八六)、建中八年(じつは貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西暦七九〇)の古文書である(32)。これらの古文書はいずれも薩末※[#「革+建」]で製紙工場が創設された時代から、Rainer 太公所蔵のマホメット教国産のもっとも古き紙の時代にかけて、約四十年間にあたっている。これらの古文書はその紙質調査のため、たいてい Wiesner 教授の手もとに送られ、例の顕微鏡調査の結果、これらの古文書の紙には、いくぶんの敝布も混じているが、その大部分は桑、桂およびラミイすなわち China-grass などの皮を原料としていることが判明した。唐の中世に西域地方で使用されておった紙の主要成分が、桑そのほかの草木の皮であるとすると、薩末※[#「革+建」]で支那人の手によってはじめて製造されたマホメット教国の紙もまた同様であったであろうと想像すべき余地がはなはだ多い。マホメット教国の史家が薩末※[#「革+建」]の産紙は最初草木を原料としたと伝えているのは、この点から推しても、だいたい上信憑すべきように思われる。
 以上叙述した要点を約すると、西暦七百五十一年薩末※[#「革+建」]で製紙工場の創設された当時は、製紙の原料として草木を使用したという伝説は疑うべき余地がないが、同時に西暦七百九十一二年の交の薩末※[#「革+建」]産の紙を調査すると、純然たるボロ紙で樹皮などの生繊維はすこしも混和されておらぬ事実もまた信用せねばならぬというに帰着する。したがって製紙の原料にかく顕著なる相違のある原因は、西暦七百五十一年から七百九十一、二年にかけて約四十年間に、マホメット教国内におこったものと認定せなければならぬ。
 Wiesner 教授はマホメット教国の産紙と天山南路で発掘された支那紙とに対して綿密なる化学試験、顕微鏡調査をおこない、この二国の紙を比較して、大要次のごとき断案を下している。

唐時代の支那紙はいくぶんの敝布を混じているけれども、その主要なる原料は桑そのほかの双子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教国につたえたが、薩末※[#「革+建」]サマルカンド付近には第一の原料ともいうべき桑樹が欠乏しているから、必要上しだいに敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを経験すると、最後には敝布——マホメット教国に豊富なるリンネンボロ——のみで紙を製造することとなった。紙は支那から伝ったが、その原料をかえて今日一般に使用さるる純粋のボロ紙(Pure Rag-Paper)を産出するにいたったのは、マホメット教徒の功といわねばならぬ。

支那紙の原料の樹皮は、最初は石うすにて人力で擣きくだいたものであるが、これでは繊維組織を損すること多く、したがってできあがった紙質も粗鬆そしようで、字を書くと※[#「さんずい+念」]る恐れがある。やや後世——西暦七、八世紀ころ——となると、化学作用で樹皮の繊維組織をあまり損ぜぬようになった。したがって紙質も一段改良された。ただし敝布は依然石うすで擣きくだいたままである。ところがマホメット教国の産紙を調査するとその原料たる敝布から化学作用で、手ぎわよく繊維をひきだした痕が歴々として認められる。マホメット教徒は原料とりあつかいについて、支那人よりもいっそうの改良進歩をとげたといわねばならぬ。

原料の変更原料とりあつかいの改良この二点を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は——原料にノリを混加し、または紙面にでんぷん末を塗布して紙質を良好にする方法まで——だいたい支那人のそれと同一である。

 以上の断案が今日の学界に証典として公認されている。ただし多少の疑惑をはさむべき余地がないでもない。第一 Wiesner 教授の調査した支那紙の数はけっして多くない。年代の確実なるものはわずか六、七種にすぎぬはずである。しかもこれらは多く唐代のもので、いずれもコータンの東北約百マイルばかりの Wandân-Uiliq 地方から発掘されたものである。一地方から発掘された少数の支那紙の調査のみでは、けっして支那紙全般の原料や製法を確実に推断するわけにはいかぬ。
 第二に東漢時代からすでに麻紙、穀紙、網紙の区別があった。『東観漢記』の一本に、
倫(蔡倫)典尚方紙。用故麻麻紙。木皮名穀紙。魚網名網紙

と記してある。故麻というと麻ボロのことであろう。すると網紙はもちろん、麻紙もたとい純粋のボロ紙でなくても、その主要成分は熟繊維(Textile Fibres)であったと想像される。すくなくとも天山南路で発掘された支那紙——Wiesner 教授によれば樹皮を主要原料とせる——と同一の成分ではなかったであろうと思われる。ただしこの問題を解決するには、なるべく多くの古代の支那紙を収集して、これを Wiesner 教授と同様の方法で調査するほかはない。事実は最後の解決である。

         六

 Stein 氏が天山南路の探検に着手して以来、ヨーロッパ諸国の探検者は陸続この方面に出かけた。ドイツからは最初に Grünwedel 氏(西暦一九〇二—一九〇三)次に Le Coq 氏(西暦一九〇四—一九〇六)第三回には Grünwedel および Le Coq 二氏(西暦一九〇六—一九〇七)が出かけて、幾多の古文書を発掘した。英国からは Stein 氏がふたたび天山南路に出かけ(西暦一九〇六—一九〇八)敦煌で幾多の遺籍、文書を発見した。フランスの Pelliot 氏もまたこの方面に出かけ(西暦一九〇六—一九〇九)敦煌で大発見をやったことは、わが国人の耳になお新なるところである。これらの探検によって得た成績は、多くはまだ発表にならぬけれども、そのうちに唐代もしくばその以前の文書——わが輩が前項に述べた支那紙の原料および製法問題を解決するに屈竟なる材料が少なくないことだけは確実である。
 わが国の西本願寺の大谷伯爵もまたさる明治三十五年以来この方面に探検隊を派遣している。第一回第二回の探検はすでに終りを告げ、いまは第三回探検中である。第一回第二回の探検の獲物のうちに、唐の玄宗の天宝五載(西暦七四六)の牒状がある。これは怛邏斯タラス城の戦役前まさに五年のもので、マホメット教国の産紙と支那紙との原料相違如何を調査するにあたって、有力の材料たるべきものである。そのほか年号によってもしくは書体より推して、南北朝もしくばその以前と認定すべき古写経、古文書すこぶる多くしていちいち列挙するにひまないが、中についてもっとも注意に価するもの一、二をあげると次のごときものがある
 第一が西晋の元康六年(西暦二九六)の古写経である。松本文三郎博士がすでに紹介されたとおり(33)この古写経は西晋の竺法護訳の『諸仏要集経』である。写経や書道の方面からみてもずいぶん珍とすべきではあるが、支那紙研究の材料としていっそう貴重すべきである。元康六年は蔡倫が紙を発明した元興元年を距ることわずかに百九十一年、すなわちこの古写経の用紙は支那で紙が発明されてから、後くも百九十二年目のものである。おそらくは今日につたわれる支那紙の最古のものであろう、古紙研究の屈竟の材料たるべきは申すまでもない。これに続くが李栢文書である。この文書は年号を欠いているけれども羽田学士の研究によると、東晋の咸和三年ないし五年(西暦三二八—三三〇)の間のものと認定される(34)。はたしてしかりとすれば、これもまた古代の支那紙を研究するに見逃すべからざる材料である。
 昨年清国へ出張されたわが京都文科大学教授諸君の調査によると、学部もしくば個人の所蔵に帰した敦煌の遺書中に、南北朝隋唐時代の古写経がすこぶる多い。年号のそなわっているものも少なくない。いずれも支那紙研究の材料に供すべきであるが、ことに唐の至徳二載(西暦七五七)の『十戒経』は怛邏斯タラス城の戦役後六年目のもので、西本願寺所蔵の天宝五載の牒状とともに支那紙西伝時代に関係ある重要の材料である。
 ようするに最近数年間に古代の支那紙を研究すべき新材料が多数に収集された。これらの材料ことに西本願寺所蔵の古文書——が Wiesner 教授と同様の方法によって、科学的に研究されたあかつきに、はじめて世界の製紙史上における支那紙の位置が確定されるわけである。わが輩はかかる時期の一日も早く到来せんことを希望するのである。

参照
(1)清の李惇の『群經識小』(『皇清経解』巻七百二十二)。
(2)晋の杜預の『春秋左氏伝』序の注。
(3)清の劉宝楠の『論語正義』巻一所引。
(4)『後漢書』巻一百八、宦者列伝。
(5)『東観漢記』巻二十(『武英殿聚珍版全書』所収)。
(6)『欽定四庫全書總目提要』巻五十。
(7)許慎の『説文解字』叙およびその子、許沖の「進『説文解字』上書」。
(8)『段注説文解字』第十三編上。
(9)『通雅』巻之三十二。
(10)"Die Erfindung des Papiers in China" S. 7 (T'oung Pao, 1890).
(11)"Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 680 (J.R.A.S. 1903).
(12)"Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 522.
(13)『資治通鑑』巻二百十六。
(14)Le Strange; "The Lands of the Eastern Caliphate" p. 486.
(15)『通典』巻一百八十五。
(16)Hirth; "Nachworte zur Geschrift des Tonjukuk" S. 3.
(17)┌Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 668.
   └Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" p. 297.
(18)┌Wüstenfeld; "Vergleichungs-Tabellen der m. und ch. Zeitrechung" S. 6.
   └『三正綜覧』九十七丁(ただしヴェステンフェルド氏と一日の相違あり。しばらくヴ氏にしたがう。)
(19)┌『三正綜覧』九十七丁。
   └Brumsen; "Japanese Chronological Tables" p. 57.
(20)Hammer-Purgstall; "Auszüge aus Saalebl's Buche der Stützen des sich Beziehenden und dessen worauf es sich bezieht" S. 529 (D.M.G. 1854).
(21)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 664.
(22)Hirth; "Die Erfindung des Papiers in China" S. 13.
(23)Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" pp. 297, 298.
(24)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 670.
(25)William Ouseley; "Ibn Haukal" p. 233.
(26)坪井博士『史学研究法』百十四—百二十一ページ。
(27)Jacob; "Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 524.
(28)Jacob; 同右書 p. 524.
(29)"Mitteilungen aus der Sammlung des Papyrus Erzherzog Rainer"
(30)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" (J.R.A.S. 1903).
(31)Hirth; "Die Erfindung des Papiersin China" S. 12 (T'oung Pao, 1890).
(32)Stein; "Ancient Khotan" Vol. I, pp. 523-533; Vol. II, p. cxv, cxvi.
(33)『中央アジア発掘の古写経について』(『芸文』第二年第一号)。
(34)大谷伯爵所蔵新疆史料解説』(『東洋学報』第一巻第二号)。

(明治四十四年九・十月『芸文』第二年第九・一〇号所載)

 
 
 
底本:「桑原隲蔵全集 第二巻」岩波書店
   1968(昭和43)年3月13日発行
初出:「芸文 第二年第九、一〇号」
   1911(明治44)年9、10月
※二行にわたる始め波カッコは、けい線素片の組み合わせにおきかえました。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2006年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。
 
 2006.9.29 公開
 2006.9.30 修正
 しだひろし/PoorBook G3'99
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 紙の歴史 I

紙の歴史
桑原隲蔵

(一)先秦時代の書写の材料
(二)紙の発明
(三)マホメット教国における紙の伝播(上)
(四)マホメット教国における紙の伝播(下)
(五)オーストリーのライネル太公爵の古紙収集
(六)西本願寺所蔵の古文書

         一

 紙の発明は世界の文化に多大の貢献をした。人知の開発と文化の促進とに大関係ある印刷術が発明されても、紙の発明がこれにともなわなかったならば、その効用の大半を没了したであろう。紙の需要は年一年と増加していく。紙の消費高によって幾分その国の文化の程度が推測される。現時代をさして「紙の時代」と称する学者もあるが、あながち不当なる Beiname であるまい。かく人文に関係深き紙の製法は、最初支那で発明せられ、マホメット教国に伝わって改良せられ、最後にヨーロッパに入っておおいに発達した事実は、もはや今日ではほとんど疑う余地がなくなっている。こはかくべつ耳新しい事ではないが、かくに前賢の所説を補綴して、紙の歴史の大要を紹介いたし、いささか『芸文』寄稿の責をふさごうと思う。

 支那の古代では書写の材料として、竹と木とを使用した。竹でつくったのが簡である。簡の長さはかならずしも一定はしておらぬが、経書などは多く二尺四寸くらいから八寸くらいまでの簡を使用した。これにふつう一行に八字から三十字くらいの文字を書いた(1)。木でつくったのを版とも牘ともいう。ふつう三尺くらいの大きさで、形が四角であるから方とも名づけた。この版には三十字から百字くらいまでの文字を書く。百字以上となるとさきに述べた簡を幾個となく韋で編み連ねて用を弁じた。これを策という。策は冊と同字で、許慎の『説文解字』には正しく に作る。これは簡を韋で編み連ねた形にかたどったので、いわゆる象形文字である。唐の孔頴達の『左伝正義』に、

簡之所容一行字耳。牘乃方版。版広於簡。可以並容数行。凡為書字。有多有少。数行可尽者。書之於方。方所容者。乃書於策(2)

とあるのがすなわちこれである。先秦時代には、字数のわずかなることがらは簡に書き、法律の箇條などは版に書き、書籍はたいてい策に書いた。今も一編二編というて書籍をかぞえるのはそのなごりである。戦国時代から、帛もまま書写の材料として使用さるることとなったが、帛に書いた書籍は一巻二巻とかぞえた。
 ともかくも先秦時代では、書籍はたいてい策に写されたもので、重量容積多大にして不便きわまり、費用もかさみ、たとい帛を使用しても、費用はいっそうであるから、なかなか一個人では書籍を所有することができぬ。清の阮元も、
古人簡策繁重。以口耳相伝者多。以目相伝者少(3)

と申している。『書経』や『周礼』やそのほかの古書に、一般の数目をあぐるばあいが多い。例せば三徳とか、三友とか、三楽とか、四教とか、四維とか、四載とか、五福とか、五行とか、五教とか、六言六蔽とか、六官とか、七政とか、七祀とか、八蛮とか、八元八とか、九思とか、九畴とか、これらはみな暗記を容易にする手段である。東漢の末に出た蔡文姫が、その亡父蔡の著書四百編余を暗記しておったのは、当時でもいくぶん古の暗唱風の存しておった証拠である。

         二

 東漢の和帝の元興元年(西暦一〇五)に蔡倫という宦者がはじめて紙を発明した。蔡倫は桂陽(湖北省桂陽州)の人で、もっとも工芸思想に富み、尚方の令となった。尚方とは少府の管下の、宮中の御用品を制作することをつかさどる官省で、令はその長官である。蔡倫はここで宝剣その他の宮中御用の諸器をつくったが、みな精工堅緻にして、後世の法となすに足ったと伝えられている。『後漢書』に彼が紙を発明した事蹟を下のごとく記してある。

古書契多編以竹簡。其用者。謂之為紙。貴而簡重。並不便於人。倫(蔡倫)乃造意用樹膚麻頭及敝布魚網以為紙。元興元年奏上之。帝(和帝)善其能。自是莫従用焉。故天下咸称蔡侯紙(蔡倫のち竜亭侯に封ぜらる。ゆえに蔡侯という(4))。

 『後漢書』よりはるか以前に、東漢時代にできた『東観漢記』にも、また同一の記事がある(5)。范曄の『後漢書』の記事は、だいたい『東観漢記』のそれを襲踏したものとみえる。『東観漢記』載するところの蔡倫の伝は、桓帝の元嘉年間(西暦一五一—一五三)すなわち紙の発明時代をさるわずかに四十余年の後に編纂されたものであるから(6)、その記事は信憑してさしつかえない。紙という名称は蔡倫以前も以後も同一ではあるが、実質は相違して、蔡倫以後は、紙といえば、もっぱら樹皮、麻頭、敝布、古網などを材料として製造した書写の材料を意味することとなった。
 許慎の『説文解字』は東漢の和帝の永元十二年(西暦一〇〇)から安帝の建光元年(西暦一二一)にかけての作で(7)、すなわちだいたい蔡倫の在世時代に作られたもので、ことに蔡倫と許慎とは若干知りあいの間柄であろうと想像さるべき余地さえある。その『説文解字』に紙の字をフルワタ※[#「竹かんむり/沾」]スノコなりと解説している。清の段玉裁はさらにこれに注して、
按造於漂絮。其初糸絮為之。以※[#「竹かんむり/沾」]スキカサネテ而成立。今用竹質木皮之。亦有緻密竹簾之是也(8)

という。許慎の絮一※[#「竹かんむり/沾」]なりという解説のうちには、製紙の原料と方法とがふくまれている。
 さて製紙の原料として絮を使用したのは何時代のことか、許慎の解説はもちろん、段玉裁の注釈をみても不明瞭である。『説文解字』に絮敝綿なりという。蔡倫が製紙の原料として使用せし敝布を広義に解釈すると、その中に絮をも包括し得べきように思われる。ただし清初の方以智などはこれとは反対で、絮を擣きこれを荐きて紙を製造したのは、西漢時代もしくはその以前からのことである。蔡倫は絮に代えるに樹皮、麻頭、敝布、漁網などをもってしたのみであると主張している(9)。Hirth 氏の「支那における紙の発明」という論文もこの点に関しては、方以智とほぼ同様な考えをもっているようにみえる(10)。Hoernle 氏(11)や Jacob 氏など(12)は、さらに一歩を進めて、古代トルコ種族の使用した氈の製法は、紙のそれと同様である。たぶん古代の支那人は北狄の氈の製法にならい、毛に絮を代えて紙を製造したものであろうと考えているが、これは想像に過ぎて、すこぶる信用しがたい。
 Hoernle 氏や Jacob 氏の説はしばらく措き、『説文解字』はだいたい永元十二年すなわち蔡倫が紙を製出した以前に編纂されたもので、許慎の紙の字の解説がそのときのままとすると、方以智などの説にかなりの根拠ができ、したがって蔡倫はただ製紙の新原料を発見したのみで、製紙の方法を発明したものでなく、発明者としての蔡倫の声価はいくぶん低落すべきこととなるが、たとい蔡倫以前に絮を製紙の原料として、今日のような紙をつくったことを事実としても、植物繊維を製紙の原料に利用したのは蔡倫の功で、植物繊維を原料としてつかった紙、例せば麻紙、穀紙、ボロ紙、Rag-Paper などが古今をつうじて、もっとも人文の発達に貢献したのであるから蔡倫の功績はやはり広大無辺といわねばならぬ。斯にはとかくの議論を避け、しばらく『後漢書』の記事をすなおに解釈して、蔡倫を製紙の発明者としておこう。

         三

 支那の製紙法がマホメット教国へ伝わったのは、唐の玄宗時代のことである。当時西域に石国というのがあった。今の Tashkend(元時代の塔什元タシュケンド)がすなわち唐代の石国である。Tashkend という名自身がトルコ語で石国の意味である。西暦八世紀のはじめごろから、石国をはじめその付近の諸胡国は、あるときは唐にあるときは大食タージに、国威のさかんなる方に羈縻きびされる姿となった。玄宗の天宝九載(西暦七五〇)に安西四鎮の節度使の高仙芝が、ある事情の下に石国を征伐した。高仙芝はもと高麗人で唐に仕え、当時に聞こえた名将であったが、いつわって石国王に和をゆるしながら、その不意を襲うてこれをトリコにし、大虐殺、大略奪をやったのみならず、石国王を遠く都の長安に送って、闕下に切り捨てた。このふらちの行為に石国の王子はひじょうに憤慨いたし、四隣の諸胡国もこれに同情をよせ、相倶に大食タージ国の援兵を乞うて、唐軍に復仇せん計画をした。
 このとき大食タージ国(多氏国または大寔国)すなわちマホメット教国では Ommeya 王家すでにたおれて、Abbâs 王家が方に興ってきている。この大革命の舞台に立って、もっとも主要なる役目をつとめたのは、有名な Abû Muslim すなわち『唐書』の並波悉林アブムスリムその人である。彼は Abbâs 王家の Abul Abbâs(『唐書』の阿蒲羅抜アブルアバス)を擁して Ommeya 王家の王 Merwân(『唐書』の末換メルワン)を殺したのは、西暦七百五十年にあたる。かくていわゆる黒衣大食が白衣大食にかわってまもなく、石国以下の諸胡国との交渉が開始された。
 Abû Muslim は当時 Khorâsân(『唐書』の呼羅珊ホラサン)地方の総督であったが、野心満々たる彼は、大支那の威力を摧くはこのときこそと、すぐに部将 Ziyâd ibn Sâlih を派遣して石国を助けることとなった。これに対して高仙芝は天宝十載(西暦七五一)に葛邏禄カルルク(Karluk)、抜汗那フェルガナ(Ferghâna)以下諸国の援兵をあわせて、怛羅斯タラス川(今の中央アジアの Tarâz 川)の付近に大食タージを撃ったが、反って Ziyâd ibn Sâlih のために大敗をこうむった。このときの戦況は、支那方面の材料では『資治通鑑』がもっとも詳細で、次のごとく記載してある。

高仙芝(中略)撃大食。深入七百余里。至恒羅斯城。与大食相持五日。葛羅禄カルルク部衆反。与大食攻唐軍。仙芝大敗。士卒死亡略尽。所余纔数千人。右威衛将軍李嗣業。勧仙芝宵遁。道路阻隘。抜汗那フェルガナ部衆在前。人畜塞路。嗣業前駆奮大梃之。人馬倶斃。仙芝乃得(13)

 この本文に恒羅斯城とあるのは、もちろん怛羅斯城の誤である。怛羅斯城は怛羅斯川の畔で、たいてい今の Aulieh-Ata にあたる(14)。唐の杜佑の伝うるところによると、このとき高仙芝の軍はすべて七万人を失った(15)。もっともその多数は捕虜となったものとみえる。『経行記』の作者の杜環のごときも、このとき捕虜となった一人で、彼は約十年間大食国に拘留せられ、代宗の宝応元年(西暦七六二)に南海をへて、広東に帰着いたし、その見聞にもとづきて『経行記』をつくった(16)。『経行記』そのものは今日すでに逸亡したけれども、そのいくぶんは杜佑の『通典』以下に引用されて今日に伝わり、唐代の西域研究に必要なる材料を供給している。
 怛羅斯城の戦のことはもちろんマホメット教国の記録にも載せられて、よく支那の史料と一致している(17)。マホメット教国の材料では、この戦を回暦ヘジラ百三十三年の十二月(Dsûl-Hiddscha 月)に繋けてある。西暦に換算すると七百五十一年の六月三十日から七月二十九日にあたる(18)。支那の史料では『唐書』の玄宗本紀の天宝十載の条に、
七月。高仙芝及大食。戦(怛の誤)邏斯ラス敗績。

とあるのみで、『旧唐書』はじめいずれも月を記してない。天宝十載七月は西暦で七百五十一年の七月二十七日から八月二十五日にあたる(19)。すなわち東西の史料は年月において一致せしめ得べきのぞみがある。東西の史料が正しく会戦の月を伝えたものとすれば怛羅斯タラス城の戦は回暦百三十三年十二月のすえ、天宝十載七月の初の出来事と認定せなければならぬ。
 マホメット教国の慣習で、戦場の捕虜となった異教徒はみな奴隷にする。このとき奴隷となった支那兵士の中に、もと紙灑職工のものがあったから、Ziyâd はこれを使役して Samarkand 市(『唐書』の薩末※[#「革+建」]サマルカンドまたは颯秣建サマルカンド)に製紙所を創設した。これがマホメット教国における製紙の起源である。

         四

 マホメット教国の勃興以前はもちろん、その初起時代でも、パミール以西の諸国では、書写の材料として、ふつうにカヤツリ紙すなわち Papyrus かことに革紙すなわち Parchment を使用した。『史記』の大宛伝および『漢書』西域伝に安息国(Parthia)のことを記して、「画革旁行為書記」といい、『梁書』諸夷伝に滑国すなわち厭帯夷栗(Ephthalites)のことを記して、「羊皮為紙」とあるのは当時革紙の使用された証拠である。便利で徳用な支那紙が使用されはじめてから、カヤツリ紙も革紙もしだいにその影をひそむるにいたった。
 マホメット教国の製紙法は支那のそれをつたえたものであるということは、かなり以前から知られておったが、その製紙法伝来の年代はやや不明瞭であった。Casiri 氏は回暦の三十年(西暦六五〇—六五一)を、Hammer-Purgstall 氏は回暦の五十六年(西暦六七五—六七六)を製紙法伝来の年代にあてている(20)。そのほか西暦七百四年伝来説もふつうであった(21)。オーストリーの Karabacek 教授ははじめてマホメット教国の材料により Hirth 氏は支那の史料によってこれを助け、Ziyâd が支那の捕虜を使役して、薩末※[#「革+建」]サマルカンドに製紙工場をおこしたのは、西暦の七百五十一年にあたることを確実にした(22)
 Karabacek 教授の著書には Taâlibî や Qazwînî などいうマホメット教徒の記録を引用して、薩末※[#「革+建」]サマルカンドに製紙工場の創設された当時のありさまを述べている。今その著書を参考することができぬけれども、その大要はほかに引用されているから、これを抄訳すると次のごとくである。

薩末※[#「革+建」]市については、とくに紙を記載せねばならぬ。薩末※[#「革+建」]の紙はその美麗と便利と廉価の諸点で、はるかに従来のカヤツリ紙および革紙にまさったから、容易に後者を市場より駆逐した。この紙はただ薩末※[#「革+建」]および支那においてのみ産出される。『国および路』の著者によると、紙は戦争の捕虜によって、支那から薩末※[#「革+建」]へ伝えられたもので、かく支那人を捕虜となし、その捕虜の中より経験ある者をもとめて、製紙業に従事せしめたのは Sâlih の子なる Ziyâd そのひとである。かくて紙の製造はしだいに発達し、ついに薩末※[#「革+建」]の重要なる産物となった。またこれによって世界の国々の人類に利益をあたえた(23)

 いったい支那紙は後くも回暦三十年(西暦六五〇—六五一)のころからマホメット教国へ輸入されている(24)。さきに製紙法伝来の年代に関する一説として紹介した Casiri 氏の説はじつは、支那紙輸入の年代と見るべきものであろう。薩末※[#「革+建」]の製紙業が発達するとともに、マホメット教国への支那紙の輸入はしだいに途絶せられ、薩末※[#「革+建」]製の紙をもってその需要をみたすこととなり、薩末※[#「革+建」]は紙の産地として全マホメット教国に聞こえた。西暦十世紀の初にでた Ibn Haukal なども薩末※[#「革+建」]の紙は世界無比と賞賛している(25)
 Abbâs 家第五のカリフ Hârun al Rashîd(『唐書』の訶論ハルン)の時、呼羅珊ホラサンの総督 Al Fazl はじめて薩末※[#「革+建」]の製紙業をマホメット教国の首都 Baghdad(『唐書』の縛達バグダット)につたえ、回暦百七十八年(西暦七九四—七九五)ここにあらたに製紙工場を建てた。ひき続きてペルシア、アラビア、エジプト、シリア、スペインなど当時マホメット教の勢力範囲であった国々に、いたるところ製紙工場が建設せられ、製紙業の隆興とともにカヤツリ紙や革紙の需要は減じ、西暦十世紀の半ごろとなると、マホメット教国ではほとんどカヤツリ紙の使用を絶つにいたった。
 ヨーロッパ諸国も西暦十二、三世紀のころまでは西方アジアと同様で、ふつうにカヤツリ紙や革紙を書写の材料としたが(26)、マホメット教国に製紙業が隆興するにしたがい、その製紙はヨーロッパ諸国へ輸入された。フランス、イタリーなどの南欧諸国は十二世紀のころから、ドイツはやや後くれていずれもマホメット教徒から紙の製造をつたえたという(27)。ヨーロッパの中世紀に紙はふつうにバンビク紙(Charta Bambycina)、もしくはダマスク紙(Charta Damascus)とよばれている。Bambyce とは Euphrates 河(『唐書』の弗利剌河)の右岸にあった一都会である。Damascus(元代の的迷失吉ダマスク)は申すまでもなく Syria 地方の名都会である。当時マホメット教国からヨーロッパへ輸入した紙は多くこの地方の産であることが察知される。今日ヨーロッパ諸国の紙に関係ある言葉で、アラビア語から派生しているものもある。一例をあげると、英語で紙一しめを Ream というが、これはスペイン語の Resma イタリー語の Risma ドイツ語の Ries フランス語の Rame とひとしく、いずれもその語源をアラビア語の Rezma に求むべきである(28)。Rezma とは元来小包みの意味である。

つづく

2006.9.30 修正

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2006年09月28日

 2007年年頭に公有になる作家たち

青空文庫は、新年1月1日に、著作権保護期間が切れる作家たちの作品を公開している。来年、2007年年頭に公開出来るようになる、すなわち公有となる作家たちのリストを、簡単な紹介とともにあげておく。青空文庫で作業が進んでいる作家も進んでいない作家もいる。出来れば、少しでも多くの作家の作品を新年に公開したい。

まずは、青空文庫で作業の進んでいる作家から。

作家名:会津八一
ウィキペディアリンク:「会津八一
作業中の作品リスト:「会津八一
簡単な紹介:美術史家、書家。代表作は、「鹿鳴集」「山光集」「渾齋随筆」。
作業進行状況:校正待ち作品あり。入力底本としては、会津八一全集(中央公論社)が比較的入手が容易かと思う。

作家名:石川三四郎
ウィキペディアリンク:「石川三四郎
作業中の作品リスト:「石川三四郎
簡単な紹介:社会運動家。堺利彦、幸徳秋水らと活動した。代表作は、「西洋社会運動史」「浪」「わが非戦論史」「自叙伝」。
作業進行状況:校正待ち作品あり。入力底本としては、石川三四郎選集(青土社)などが見つかりやすいと思われる。

作家名:沖野岩三郎
関連ページ:「沖野岩三郎
作業中の作品リスト:「沖野岩三郎
簡単な紹介:児童文学者。和歌山県出身。
作業進行状況:入手の容易な日本児童文学大系からの入力が進行中。他の入力底本としては、日本キリスト教児童文学全集、明治キリスト教児童文学史などが、比較的最近の出版なので見つかりやすいかもしれない。

作家名:小金井喜美子
ウィキペディアリンク:「小金井良精
作業中の作品リスト:「小金井喜美子
簡単な紹介:森鴎外の妹にして、星新一の祖母。旦那さんの小金井良精の作品も現在入力中。
作業進行状況:校正待ち作品あり。入力底本としては、「鴎外の思い出」「森鴎外の系族」(岩波文庫)の入手が容易。

作家名:佐藤垢石
ウィキペディアリンク:「佐藤垢石
作業中の作品リスト:「佐藤垢石
簡単な紹介:随筆家。釣り、酒に関するエッセイが多い。井伏鱒二の釣りの御師匠さん(?)。つり人社を創立した4人の中の一人。代表作は、「たぬき汁」「魚の釣り方」。
作業進行状況:校正待ち作品あり。入力底本としては、つり人社のつり人ノベルズの随筆4冊の入手が容易かと思う。

作家名:高村光太郎
ウィキペディアリンク:「高村光太郎
作業中の作品リスト:「高村光太郎
簡単な紹介:彫刻家、詩人。高村光雲の息子。「智恵子抄」「ロダンの言葉」が有名。
作業進行状況:校正待ち作品あり。入力も高村光太郎全集(筑摩書房)、高村光太郎選集(春秋社)などがあり、底本の入手は比較的容易。「智恵子抄」がまだ未着手。

作家名:肥田春充
ウィキペディアリンク:「肥田春充
作業中の作品リスト:「肥田春充
簡単な紹介:肥田式強健術の創始者。
作業進行状況:入力が進行中。入力に用いられている底本以外では、「宇宙倫理の書」という本があるようだ。

作家名:槙本楠郎
関連ページ:「槙本楠郎
作業中の作品リスト:「槙本楠郎
簡単な紹介:児童文学者。
作業進行状況:日本児童文学大系から入力が進行中。他にも最近出版(というか復刻)された本があるようだ。

作家名:吉田絃二郎
関連ページ:「吉田絃二郎
作業中の作品リスト:「吉田絃二郎
簡単な紹介:代表作は、「島の秋」「清作の妻」「小鳥の来る日」「人間苦」「白路」。
作業進行状況:校正待ち作品あり。入力底本としては、全集、選集がいくつかあるが、出版が古いので入手は難しいかもしれない。

以下は、青空文庫での作業が未着手の方々。

作家名:服部達
ウィキペディアリンク:「服部達
簡単な紹介:文藝評論家。「われらにとって美は存在するか」「蛇の穴(メアリ・ジェーン・ワード)」など。

作家名:日野草城
関連ページ:「日野草城
簡単な紹介:俳人。「草城句集」「青芝」「転轍手」「人生の午後」「銀」など。

作家名:服部之総
ウィキペディアリンク:「服部之総
簡単な紹介:歴史学者。「明治維新史」「親鸞ノート」「黒船前後」など。

作家名:関口泰
簡単な紹介:「民衆の立場より見たる憲法論」「山湖随筆」など。

作家名:松本たかし
関連ページ:「松本たかし
簡単な紹介:能役者、俳人。「鷹」「弓」「石魂」「えごの花」など。

作家名:邦枝完二
関連ページ:「邦枝完二
簡単な紹介:脚本家(?)。「東洲斎写楽」「歌麿をめぐる女達」「お伝地獄」など。

作家名:加藤武雄
関連ページ:「加藤武雄
簡単な紹介:「郷愁」「悩ましき春」「叛逆」など。

作家名:池田亀鑑
関連ページ:「池田亀鑑
簡単な紹介:国文学者。「源氏物語」に関する研究が有名。「源氏物語大成」「古典の批判的処置に関する研究」「馬賊の唄」「白萩の曲」「悲しき野菊」など。

作家名:早川孝太郎
関連ページ:「早川孝太郎
簡単な紹介:民俗学者、画家。「花祭」など。

作家名:尾高朝雄
ウィキペディアリンク:「尾高朝雄
簡単な紹介:法哲学学者。「国家構造論」「法の窮極に在るもの」「自由論」など。

以上。補うべき点などありましたら、コメントにお願いします。

改めて調べてみると、埋もれてゆく作家が多い。吉田絃二郎などは、紹介を読むと昭和初期の大流行作家で、教科書にも数多くの作品が採用されたようだけれど、いまはウィキペディアに項目すらない。その頃に出版された選集、全集は、大きな図書館でないと見つからない。もう20年、著作権の保護期間を延長するなら、こういう作家を未来へ残す手だても同時に考えてもらいたいものだ。

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 天津教古文書の批判

天津教古文書の批判
狩野亨吉

      第一 緒言

 天津教古文書の批判にさきだち、わたしはいかなる因縁で天津教の存在を知ったか、またいかなる必要あってその古文書を批判するか、この二点について説明しておきたい。
 昭和三年五月の末に、天津教信者の某々二氏が拙寓におとずれ、その宝物の写真を贈られ、かねてその本拠地なる茨城県磯原へ参詣をすすめられた。わたしは写真を一見して、その原物の欺瞞性を感知しはなはだ怪しからんことを聞くものかなと思ったがあらそうことをやめて穏に帰した。しかし主なる一人は有力なる金主であると察せられたので、同氏の将来を思い、すぐに書面をもって写真に対する愚見を述べ、天津教の警戒すべき所以をしらせた。そののちなんらのあいさつもないので、この警告がなにほどきいたかわからない。

 昭和五年十二月天津教関係者が警視庁の取調べを受けたとき、須くかれらが皇室の歴史に対してほどこしたところの錯迷狂的加工を追究し、厳重の処分をなすべきものであったと思うが、さような徹底的の処置が講ぜられなかったものとみえ、そののちも天津教は検挙にこりずして宣伝をつづけ、シリアの石ころ、ピラミッド類似の山などを応援にかつぎ出してますます病的迷妄の伝播を試みるのであった。じつに苦々しきことと思ったが、世間天津教以上に不都合な宣伝をするものもたくさんあるから、いちいち相手にしていられない。しかるに昨年八月わたしは日本医事新報から天津教古文書の歴史的価値をしらべることを頼まれた。天津教古文書は莫大あるものと称せられるが、不信者には容易に見ることはゆるされまいと思い、まずとりあえず手元にある写真七枚の中の古文書に関するもの五枚の検討にとりかかった。しかしてこの五枚の写真のみの研究により、ただにこの五枚にかぎらず、天津教古文書の全部はことごとく最近の偽造にかかりまったくとるにたらないものであるとの判断に到達した。そこで依頼者にこの趣を返答したが、その意味は決定的であったにかかわらず文句は抽象的であった。抽象的にしたわけは、およそ追撃撲滅などの場面は人心を刺激するおそれがあり、ここでも類似のおそれをさけようとしたためである。ところがまもなく私が関係しているある場所で、軍人の勧誘により、思想善導の講演をやってもらうと、天津教を利用した話を聞かされたものである。こうなるともはや天津教を対岸の火事あつかいにすることはできない。かつまた最初に二人の信者を私に向けた方も海軍大将であったことを想起し、旁々天津教の性質上これはあるいは軍人間に比較的多くの信者を有するにあらざるかとの疑いを生じ、すこしく探索してみるとはたしてそのとおりである。しかればすなわちかの狂的妄想が那辺を蠧毒するにいたるや推察するに難からずで、事はなはだ憂うべきものがある。いまにしてその浸漸を防止せざれば、早晩健全なる思想との衝突を惹起し、その結果社会に迷惑をおよぼすことあろうと思われる。これあるいは杞憂にすぎないとするも、あらかじめ天津教の真価を知り、ことにあたって迷わざるを期すべきであろう。ここにおいてわたしは再び天津教古文書の批判を思い立ち、さきにクズしとせざりし方式により精査糾明これ勉めもって一般世人をも警醒せんことを試みるのである。
 ついては天津教のなにものなるかを知らない人もあるとおもうから、その性質をいちべつしてみる。
 天津教は現に磯原に住する竹内氏が守るところの皇祖皇太神宮を中心として宣伝せられる思想の系統である。その主張を聞けば、武内宿禰の子孫は後ち竹内と称し連綿千九百年、皇祖皇太神宮を奉戴してもって今日におよび、その間あらゆる困難と迫害とをへて、なおよく神代よりつたわった皇室関係の古文書および古器物を守護保存しているというのである。この主張以外に今のところは病気治癒の保証をつけたり、男女交際の便宜をはかったり、心霊現象の所作を見せたり、ないし財物勧進の強要をおこなったりするようなことを聞かない。この点ふつうの宗教とはちがっている。内部の組織も簡単で、まだ伏魔殿式施設を見ない。外部への宣伝方法も穏かで悪辣でない。ゆえに風教上から視てこの教派ほど無難なものはめずらしい。このごとくいわゆる宗教的施設に関してはなんら注意すべきものなきも、そのかわりに古器物古文書を証拠として神代百億万年の歴史を展開しもって皇室の規模を荘厳するにつとめる。ここいやしくも批判をゆるさない態度をとっている。いかにもそのつかいかたが地味とも見られ、およそ紅粉と縁遠きため、君子も近くべからしめもって知識階級によびかける神社神道をおもわしめるものがある。
 以上はもちろん表面観察に写るところであるが一歩深入りして研究してみると、もちろんはさむ所あっての仕事で、その目的をかくすために皇威をかり人を幻惑させようとするしくみが浮き出してくる。類似の企図はよくある手で、鎌倉時代にも徳川時代にも明治時代にもあらわれたことがあり、専門家にはめずらしくはない。天津教そのものはこの種類のもっとも新しいものでありながら、やはりぜんぜん歯牙にかけるにたらない素物であることは一見明白である。しかし確かな証拠をとらえて止めを刺すには第一に研究を要し第二に力を要する。ゆえに官署から命令あらば骨折って鑑定するのもおもしろいが、たいがいのばあいにはこの種の労して効なき事項はダメであるのひとことで早速逃げるのが賢いのである。しかしそうしたぐあいに賢かった大学の博士達は天津教側から首音のにごった陰口いわれているから、わたしはまたどんな怨を受けるか測知りがたい。
 さていやいや批判に取りかかるが、その材料は前申したごとく古文書の写真五枚である。わずかに五枚、じつに天津教文書の片鱗にすぎない。ゆえに片鱗をもって全体を見ることはできないとの反駁あらば認めることを躊躇ちゅうちょしない。しかしながら同時にまた生命を取るには一個の致命傷にて足ることを心得なければならぬ。そもそもこの五つの文書はたんなる片鱗ではない。片鱗といえども代表的宝物として写真に撮られ誇示されたものである。これをまた軍陣に喩ふれば天津教の精鋭を統率する将軍とみるべきで、英姿颯々威風堂々たるをおもわしめる底のものである。もし吾人の張る研究のためにこれら将軍がいちいち致命傷をこうむることあらば、その結果知るべきで、ひきいるところの全軍は土崩瓦解してあわれ壊滅の路をたどるほかないであろう。
 検討に付するにあたり文書の順序はあたらしきより古きにさかのぼる。

つづく

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2006年09月27日

 蒲生氏郷

蒲生氏郷
幸田露伴


 大きい者や強い者ばかりがかならずしも人の注意に値するわけではない。小さい弱い平々凡々の者もなかなかの仕事をする。蚊のクチバシといえばいうにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊のクチバシは、その昔その川のそばの山崎村にんでいた一夜庵いちやあんの宗鑑のはだえをさして、そして宗鑑におこりをわずらわせ、それより近衛このえ公をして、宗鑑が姿をみれば餓鬼つばた、の佳謔かぎゃくを発せしめ、しがたって宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句をつけさせ、俳諧はいかい連歌れんがの歴史の巻首をかざらせるにおよんだ。ハエといえばくだらぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅せいようは肉汁を好んでおぼれ死することを致す、と笑わしめたほどの者であるが、そのうるさくていまいましいことはそうの欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字をなすにいたらしめ、そのおえば逃げ、逃げてはまた集まるさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵になぞらえて、さすがの伊達政宗をしてこうべしてともかくも豊臣秀吉の陣に参候するにいたるだけの料簡りょうけんを定めしめた。微物凡物もまたかくのごとくである。もとより微物凡物をかろんずべきではない。そこで今の人が好んで微物凡物、いうにたらぬようなもの、くだらぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。ノミのような男、シラミのような女が、どういたした、こうつかまつった、というがごとき筋道の詮議立てやなんぞに日を暮したとて、もっとも千万なことで、そのひとにとってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡をのぞいているのが立派な事業であると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎あまろうばかりで成り立っているわけでもなく、バチルスやヒドラのみの宇宙でもない。獅子ししやトラのようなもの、鰐魚わにやシャチホコのようなものもあり、人間にも凡物でない非凡な者、悪くいえばひどいやつ、ほめていえばえらい者もあり、矮人わいじんや普通人でない巨人もあり、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者ですぐれた者もある。それらの者を語ったり観たりするのも、はやるはやらぬは別として、まんざらおもしろくないこともあるまい。また人の世というものは、その代々でおのおの異なっている。自然そのままのような時もある、形式ずくめできまりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情欲崇拝の代もある、信仰牢固ろうこの代もある、だらけきったケチな時代もある、人びとの心がするどく強くなってたぎりきった湯のような代もある、バイ菌のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気のとぼしい水のような代もある。そのなかでたぎり立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、またおもしろくないこともあるまい。こまかいことを語る人は今少なくない。で、べつにあたらしい発見やなんぞがあるわけではないが、たまのことであるから、たぎった世の巨人がどんなものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。ハエのことについて今あげた片倉小十郎や伊達政宗に関連かんれんして、天正十八年、陸奥むつ出羽でわの鎮護の大任をおわされた蒲生氏郷がもううじさとを中心とする。

 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家ととらわれてしまうのもうるさい。考証家、穿鑿せんさく家、古文書いじり、シミのバケモノと続西遊記にののしられているようなそういう者のマネもしたくない。さればとて古い人を新しくこねなおして、なんのよりどころもなく自分勝手の糸を疝気せんき筋にひっぱりまわして変な牽糸傀儡あやつりにんぎょうをはたらかせ、芸術家らしく乙にすますのなぞは、地下の枯骨に気の毒でできない。おおよそは何かしらによって、手製の万八まんぱちを無遠慮にくわえず、こうもあったろうというだけを評釈的にのべて、夜涼の縁側にうちわをふるって放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でもない。世界大戦はすんだとはいえ、どこかしらで大なり小なりのちからこぶを出したり青すじを立てたり、鉄砲を向けたり保塁ほるいを造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでもさきざき女房には化粧をさせたり、子どもには可憐な衣服なりをさせたりして、オヤジ殿も晩酌の一杯ぐらいは楽しんでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押しよせてきたぞ、ひどいめにあわぬうちにはやく逃げろ、なぞということはないが、永禄、元亀、天正のころは、とても今の者が想像できるような生やさしい世ではなかった。資本主義も社会主義もありはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕とうこんを談ずるようならちもないことで、なにもかもメチャメチャだった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者のあらそい騒ぐところであったから、はやくより戦乱のちまたとなった。当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城とり、国とり、小荷駄とり、すなわち物とりを専門にしている武士というものも、さようさようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひきタカをひじにして遊ぶほどの身分でもなく、さればといってなんのシャレた遊技を知っているほど怜俐れいりでもないやつは、ほかに知恵がないからバクチを打ってひまをつぶす。いくさということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことのこころよさをあじわったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチがはやる。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔のなごりだ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者はける料がなくなる。負ければなんの道の勝負でもくやしいから、かける料がつきてもやめられない。しかたがないから持ちものをかける。また負けて持ちものをとられてしまうと、ついには何でも彼でもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついにはかけるものがなくなる。それでも剛情に今ひと勝負したいと、それでは乃公おれは土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたらこんど戦のある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約をはたせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束にしたがってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、ぶんどりして渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前受けとるつもりで勝負をする。こういうことが稀有けうではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。そうかと思うと一方の軍が敵地へ行き向かう時に、敵地でもなくわが地でもない、わが同盟者の土地を通過する。その時その土地の者が敵方へ同情をよせていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力をもちいられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶してその一軍に便宜を供給しない。つまり遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。するとその軍の大将が武力をもちいればなんとでも随意にできるけれど、よい大将である、仁義の人であると思われようとするばあいには、寒風雨雪の夜でも押しきって宿舎するわけにはいかない。憎いとは思いながらも、非常の不便をしのび困苦を甘受せねばならぬ。こういう民衆の態度や料簡方りょうけんかたは、今ではちょっと想像されぬが、なかなか手ごわいものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉すなわち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任をおびていたのである。しかるに葛西かさい大崎の地に一揆いっきがおこって、その地の領主木村父子を佐沼の城にかこんだ。そこで氏郷はこれをたすけて一揆を鎮圧するために軍をひきいて出張したが、途中の宿々しゅくじゅくの農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒しゅんきょした。これなどは伊達政宗の領地で、政宗は裏面はとにかく、表面は氏郷とともに一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものをムリ借りするわけにはいかぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時にあたって風雪の露営を幾夜もあえてした困難は察するにあまりある。こういうばあい、戦乱の世の民衆というものはなかなかに極度まで自己などの権利を残忍に牢守ろうしゅしている。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩もあだもあるわけはない無関係の将士に対して、民衆は剽盗ひょうとう的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代よりその証左は歴々と存していて、ことに足利あしかが氏中世ごろから敗軍の将士の末路はたいてい土民のために最後の血を瀝尽れきじんさせられている。ひとり明知光秀が小栗栖おぐるす長兵衛に痛い目を見せられたばかりではない。こういうように民衆もなかなか手ごわくなっているのだから、不人望の資産家などの危険はもちろんの事想察にあまりある。そのかわりまた手ひどい領主や敵将に出あった日には、それこそ草を刈るがごとくに人民は生命も取られれば財産も召しあげられてしまう。で、つまり今の言葉でいう搾取階級も被搾取階級も、いずれもこれも「力の発動」にまかせられていた世であった。理屈もヘチマもあったものではなかった。債権無視、貸借関係の棒引、すなわち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直こうのもろなおにとっては臣下の妻妾さいしょうはみな自己の妻妾であったから、師直の家来たちは、御主人もよいけれど女房の召しあげは困るといったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。どこの領主でも兵卒を多く得たいものはそういうことをあえてするを忌まなかったから、共婚主義などはずいぶん古くさいことである。めちゃくちゃなことの好きなものにはじつによい世であった。
 そういうおそろしい、そしてバカげた世が続いた後に、民衆も目覚めてくれば為政者権力者も目覚めて来かかったとき、この世にあらわれて、みずからも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾におちいっていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐だいごの醍の字を忘れて、まごまごしていた佑筆ゆうひつに、大の字でよいではないかといった秀吉は、じつに混乱から整理へと急いで、たとえば乱れあかづいた髪を歯のあらい丈夫なクシでゴシゴシとかいて整えそろえていくようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引きぬいてもかまわなかった。そのためにすこしくらいは痛くってもかまうものかという調子でやりつけた。ところが結ぼれた毛のひとかたまりグッとクシの歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒なやつ、ひとかたまり引ッコぬいてしまえ、と天下整理の大旆たいはいの下に四十五か国の兵をひきいて攻め下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだひとかたまりの結ぼれがあって、ぐあいよく整理のクシの歯にしたがってとけなければ引ッコぬかれるかひっちぎられるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家をうけた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠をこえて大森にむかい、相馬弾正大弼だんじょうたいひつと畠山右京亮義継うきょうのすけしつぐ、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出したとき、年はわずかに十歳だったが、先鋒せんぽうになろうと父に請うたくらいに気嵩きがささかしかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのをほこるくらいのところ、たいていの者は低級雑誌を耽読たんどくしたり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことをたいしたことのように思っているほどの年齢だ。それがどうであろう、十八で家督相続してから、補佐の良臣があったとはいえ、もう立派に一個の大将軍になっていて、その年のうちに、反復常無しであった大内備前を取っておさえて、今後異心なく来りつかえるはずに口約束をさせてしまっている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、これらをむこうにまわしていつ返しつして、しだいしだいに斬り勝って、すでに西は越後境、東は三春、北は出羽にまたがり、南は白川を越して、下野しもつけの那須、上野こうつけの館林までもいえんは達し、その城主などが心をよせるほどにいたっている。ことに去年蘆名義広との大合戦に、さすがの義広を斬りなびけて常陸ひたちに逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津あいづをのっとり、生まれたところの米沢城からのりだして会津に腰をすえ、これからいよいよ南にむかって馬を進め、まず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将などがおおいに城を築き塁をもうけて、根を深くしへたを固くしようという議を立てたところ、さすがは後に太閤たいこう秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に付してしまった。いわばすこしばかり金ができたからとて公債を買っておこうなどという、そんなシラミッたかりの魂魄たましいとは魂魄が違う。秀吉、家康はもちろんのこと、政宗にせよ、氏郷にせよ、すこし前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻のごとくにみだれて、馬けむりやときの声、金鼓きんこの乱調子、焔硝えんしょうの香、鉄と火の世の中に生まれてきたすぐれた魂魄はナマヌルな魂魄ではない、みないずれも火の玉だましいだ、炎々烈々としてやむにやまれぬもうえんをふきだし白光を迸発ほうはつさせているのだ。いうまでもなくが光をもって天下をおおおう、天下をしてわが光を仰がせよう、といきり立っているのだ。政宗の意中は、いつまで奧羽の辺鄙へんぴ欝々うつうつとして蟠居ばんきょしようや、時を得、機に乗じて、奥州駒おうしゅうごまのひづめの下に天下を蹂躙じゅうりんしてくれよう、というのである。これがかぞえ年で二十四の男児である。来年卒業証書をにぎったらべそ子嬢に結婚を申し込もうなんと思いの夢魂七三しちさんにへばりつくのとはちと違っていた。
 諸老臣の深根固蔕こたいの議をウフンと笑ったところは政宗もじつによい器量だ、りっぱな火の玉だましいだ。ところがこの火の玉より今すこしく大きい火の玉が西の方より滾転こんてん殺到してきた。命に従わずちょうをかろんずるというので、節刀をたまわって関白がいよいよ東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗があって、うかつに取りかたづけられる者ではなかった。そのほかはろくろくの輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りていたが、北条氏はとにかく八州に手がのびていたので、ムザとは圧倒されなかった。強盗をしたのだか何をしたのだかしらないが、黄金をたくさん持って武者修行、悪くいえば漂浪してきた伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せてはだんだんと自分のところへ出入りするさむらいどもを手なずけてついに伊豆相模に根を下し、それからしだいに膨張ぼうちょうしたのである。この早雲という老夫おやじもなかなか食えないやつで、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などといったという大きなところを見せているかと思うと、主人が不取締だと下女が檐端のきばのカヤを引ひきぬいてたきつけにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さなことにまで気のとどいている、すさまじい聡明そうめいな先生だった。が、金貸をしたというのはけだし虚事ではなかろう。地生じおいの者でもなし、おおぜいで来たのでもなし、主人にとりたてられたというのでもなし、そんな事でもしなければ機微にも通じがたく、仕事の人足も得がたかったろう。明治の人でも某老は同国人の借金のしりぬぐいをしてやりやりして、ついにおのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。ウソ八百万両も貸し付けたら小人島こびとじまの政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲はよかったが、そののち氏綱、氏康、これもまずよし、氏康の子の氏政にいたっては世襲財産で鼻の下の穴をうめている先生で、麦の炊きかたをしらないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴にたきつけを作ることまで知った長氏におこって、生の麦をすぐに炊けるものだと思っていた氏政にいたって、もうみゃくはあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打たちうちができるものではない。関白がたびたび上洛じょうらくをすすめたのに、悲しいことだ、お坊さんカラいばりで、弓矢でこいなぞといったからたまらない。待ってましたとばかりに関白の方では、この大石をとれば碁は世話なしに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田さなだを山道より先鋒せんぽうとして、前田、上杉、いずれも戦にかけてはおそろしく強い者などに武蔵、上野、上総かずさ下総しもうさ安房あわの諸国の北条領の城々六十あまりを一月の間にみつぶさせて、小田原へ取りつめた。
 最初北条方の考えでは源平の戦に東軍の勝となっている先蹤せんしょうなどを夢みていたかもしれぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍がふみだして戦っているのに、北条氏はろくにふみだしてもいず、まるで様子がちがっている。勝形はすこしもなく、敗兆はあきらかに見えていた。しかし北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽のすみにいた者の思ったのもムリはない。また政宗も朝命をかさにきて秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨みもなにもない北条攻めに参会せよというのにはおもしろい感情を持とうはずはなかった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手なみのほどもしれたものだし、なにもあわてて降伏的態度に出る必要はないし、かつ北条が敵し得ぬにしても長くたえ得るようならば、火事はさほどに早くわがひさしへ来るものではない、と考えて、狡黠こうかつには相違ないが、他人交際づきあいのあいだがらではあり、戦乱の世のつねであるから、形勢観望、二心抱蔵と出かけて、秀吉の方のさいそくにもかしこまりそうろうとはいわずに、ニヤクヤにあしらっていた。ひとつは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤をおもい、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされていたかどもあろうし、またひとつはなんといっても鼻ッぱりの強いさかりの二十三、四であるから、うわさに聞いた猿面冠者に一も二もなく降伏の形を取るのをいまいましくも思ったろう。
 しかし政宗は氏康のようなおのれを知らず彼を知らぬお坊ッちゃんではなかった。少なくもおのれを知りまた彼を知ることに注意をもっていた。秀吉との交渉は天正十二年ごろからあったらしい。秀吉と徳川氏との長湫ながくて一戦後の和が成立して、戦は勝ったがやはり徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才ない家康はもちろんそれより前に使いを政宗につかわして修好している。家康は海道一の弓取りとして英名伝播しており、かつ秀吉よりはその位置が政宗に近かったから、政宗もおよそその様子合を合点していたことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、また刀などをよせてタカを請うている。タカは奥州の名物だが、もとよりタカはなんでもない、これは秀吉の方から先手を打って、政宗をひきつけようというにあったこともちろんである。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまではいずれにしてもなんでもないことだったが、秀吉もしだいに膨張すれば政宗もしだいに膨張して、いよいよ接触すべき時がせまってきた。その年の九月には家康から使いが来、また十二月には玄越というものをつかわして、関白の命をこうむって仙道の諸将との争を和睦させようと存じたが、うけたまわればこんど和議が成なしたゆえ、今後また合戦ざたになりませぬようありたい、といってきた。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉ちしつされているということを語っているものである。まだその時は政宗が会津を取っていたのではないが、徳川氏からの使いの旨で秀吉の意をすいすれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつその大を成すをよろこばざること分明であることが、政宗の※中きょうちゅうに映らぬことはない。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚をたてるほどのはげしい戦をして蘆名義広をへこませ、とうとう会津を取ってしまったのが、その翌年の五月のことだ。秀吉の意をやぶり、家康の言を耳に入れなかったわけである。そこでこの敵の蘆名義広が、おちのびたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗というやつはひどいやつでござる、と一切の事情をなるべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、その年の暮には上方の富田左近将監しょうげんや施薬院玄以に書をあたえて、どんなものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名はかねてより通聘つうへいしているのに、あなたが勝手にこれをいおとして会津をとられたことは、殿下においてはなはだしく機嫌を損じていらるるところだ、といってよこした。もうこの時は秀吉は小田原の北条をほふって、いわゆる「天下の見こらし」にして、そしてその勢で奥羽をやいばに血ぬらず整理してしまおうという計画が立っていた時だから、もちろん秀吉の命を受けてのことだろう、前田利家や浅野長政からも、また秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐のみぎりは兵を出して武臣の職責をつくすべきである、といって来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることももちろんである。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院りょうがくいんという者を京都へやった。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政などの書を持ってきて、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期にちがってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書をもたらさしめ、守屋守柏しゅはく小関おぜき大学のふたりを京へやったが、政宗のこのごろは去年大勝を得てから雄心勃々ぼつぼつで、秀吉東下のことさえなければ、むろん常陸に佐竹を屠って、上野下野としだいに斬りなびけようというのだから、北条征伐に狩りだされるなどはおもしろくなかったに相違ない。ところが秀吉の方は大軍堂々といよいよ北条征伐にやってきたのだ。サア信書の往復や使者の馬のひづめの音の取りやりではなくなった、今まさに上方勢の旗じるしを読むべき時がきたのだ。金の千成瓢箪せんなりびょうたんにまたひとつ大きなヒョウタンが添わるものだろうか、それとも北条氏三鱗みつうろこの旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実その実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手ゆんでにとりしぼって、ギロリと南の方を睥睨へいげいした。
 
つづき

2006.9.27 修正
しだひろし/PoorBook G3'99
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2006年09月24日

 我信念

我信念
清沢満之

 わたしはつねづね信念とか如来とかいうことを、口にしていますが、そのわたしの信念とはいかなるものであるか、わたしの信ずる如来とはいかなるものであるか、今すこしくこれを開陳しようと思います。
 わたしの信念とは、申すまでもなく、私が如来を信ずる心のありさまを申すのであるが、それについて、信ずるということと、如来ということと、ふたつのことがらがあります。このふたつのことがらは、まるで、別々のことのようにもありますが、私にありては、そうではなくして、ふたつのことがらがまったくひとつのことであります。わたしの信念とは、どんなことであるか、如来を信ずることである。わたしのいうところの如来とは、どんなものであるか、わたしの信ずるところの本体である。分けていえば、能信と所信との別があるとでも申しましょうか、すなわち、わたしの能信は信念でありて、わたしの所信は如来であると申しておきましょう。あるいはこれを信ずる機と、信ぜらるる法との区別であると申してもよろしい。しかし、能所だの、機法だの、というような名目を担ぎだすと、かえってわかることがわからなくなるおそれがあるから、そんなことは、いっさいはぶいておきます。

 私が信ずるとは、どんなことか、なぜ、そんなことをするのであるか、それにはどんな効能があるか、というようないろいろの点があります。まずその効能を第一に申せば、この信ずるということには、わたしの煩悶苦悩がはらい去らるる効能がある。あるいはこれを救済的効能と申しましょうか。とにかく、私がいろいろの刺激やら事情やらのために、煩悶苦悩するばあいに、この信念が心にあらわれくる時は、わたしはたちまちにして安楽と平穏とを得るようになる。その摸様はどうかといえば、わたしの信念があらわれくる時は、その信念が心いっぱいになりて、ほかの妄想妄念の立ち場を失わしむることである。いかなる刺激や事情が侵してきても、信念が現在しているときには、その刺激や事情が、ちっとも煩悶苦悩を惹起することを得ないのである。わたしのごとき感じやすきもの、とくに病気にて感情が過敏になりているものは、この信念というものがなかったならば、非常なる煩悶苦悩をまぬがれぬことと思われる。健康な人にても苦悩の多き人には、ぜひこの信念が必要であると思う。私が宗教的にありがたいと申すことがあるが、それは信念のために、このごとく現実に煩悶苦悩がはらい去らるるのよろこびを申すのである。
 第二 なぜ、そんな如来を信ずるというようなことを、するのかというについては、前に陳ぶるがごとき効能があるから、というてもよろしいが、なおそれよりほかの|訳合《わけあい》があるのである。効能があるからというのは、すでに信じたる後の話である。まだ信ぜざる前には、効能があるかなきかは、わからぬことである。もちろん、人の効能があるという言葉を聞いて、信ぜられぬわけでもないが、人の言葉をきいただけでは、そうでもあろうくらいのことが多い。まことに効能があるかないかということは、自分に実験したるうえの話である。私が如来を信ずるのは、その効能によりて信ずるのみではない、そのほかに大なる根拠があることである。それはどうかというに、私が如来を信ずるのは、わたしの知恵の窮極であるのである。人生のことにまじめでなかりし間は、|措《お》いていわず、すこしくまじめになりきたりてからは、どうも人生の意義について研究せずにはおられないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であるというところに到達してここに如来を信ずるということを惹起したのであります。信念を得るには、あながちこのごとき研究を要するわけでないからして、私がこのごとき順序を経たのは、偶然のことではないかというような疑もありそうであるが、わたしの信念は、そうではなく、この順序を経るのが必要であったのであります。わたしの信念には、私が一切のことについてわたしの自力の無功なることを信ずるという点があります。この自力の無功なることを信ずるには、わたしの知恵や思案のありたけをつくして、その頭のあげようのないようになるということが必要である。これがはなはだ骨の折れた仕事でありました。その窮極の達せらるる前にも、ずいぶん宗教的信念は、こんなものであるというような決着はときどきできましたが、それが後から後から打ちこわされてしもうたことが幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うている間は、この難をまぬがれませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、ひとつもわかるものでない。われにはなにもわからないとなったところで、一切のことをあげて、ことごとくこれを如来に信頼する、ということになったのが、わたしの信念の大要点であります。
 第三 わたしの信念は、どんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。その如来はわたしの信ずることのできる、また信ぜざるを得ざるところの本体である。わたしの信ずることのできる如来というのは、わたしの自力はなんらの能力もないもの、みずから独立する能力のないもの、その無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、すなわち如来である。わたしは何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、なにも知りわかる能力のない私、したがって善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だのということのある世界には、左へも右へも前へも後へもどちらへも身動きちょっとすることを得ぬ私、この私をして虚心平気にこの世界に生死することを得しむる能力の根本本体が、すなわちわたしの信ずる如来である。わたしはこの如来を信ぜずしては生きてもおられず、死んでゆくこともできぬ。わたしはこの如来を信ぜずしてはおられない。この如来は私が信ぜざるを得ざるところの如来である。
 わたしの信念はあらかたこのごときものである。第一の点よりいえば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点よりいえば、如来は私に対する無限の知恵である。第三の点よりいえば、如来は私に対する無限の能力である。かくしてわたしの信念は、無限の慈悲と、無限の知恵と、無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なるがゆえに、信念確定のその時より、如来は、私をしてすぐに平穏と安楽とを得しめたまう。わたしの信ずる如来は、来世をまたず、現世において、すでに大なる幸福を私にあたえたまう。わたしは他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれどもいかなる幸福も、この信念の幸福にまさるものはない。ゆえに信念の幸福は、わたしの現世における最大幸福である。これは私が毎日毎夜に実験しつつあるところの幸福である。来世の幸福のことは、わたしは、まだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることはできぬ。
 次に如来は、無限の知恵であるがゆえに、つねに私を照護して、邪知邪見の迷妄を脱せしめたまう。従来の慣習によりて、わたしは知らずしらず、研究だの考究だのと、いろいろ無用の論議におちいりやすい。ときには、有限粗造の思弁によりて、無限大悲の実在を論定せんと企つることすらおきる。しかれども、信念の確立せるさいわいには、たとえしばらくこのごとき迷妄におちいることあるも、またたやすくその無謀なることを反省して、このごとき論議を放擲することを得ることである。「知らざるを知らずとせよ、これ知れるなり」とは、じつに人知の絶頂である。しかるにわれらは容易にこれに安住することができぬ。わたしのごときは、じつに、おこがましき意見を抱いたことがありました。しかるに、信念の幸恵により、いまは「グチの法然房」とか、「愚禿の親鸞」とかいう御言葉を、ありがたく喜ぶことができ、また自分もまことに無知をもってあまんずることができることである。私も以前には、有限である、不完全であるといいながら、その有限不完全なる人知をもって、完全なる標準や、無限なる実在を研究せんとする迷妄を脱却しがたいことであった。私も以前には、真理の標準や善悪の標準がわからなくなっては、天地も|崩《くず》れ社会もおさまらぬように思うたることであるが、いまは真理の標準や善悪の標準が、人智で定まるはずがないと決着しておりまする。
 さてまた如来は無限の能力であるがゆえに、信念によりて、大なる能力を私に、賦与したまう。わたしらは通常、自分の思案や分別によりて、進退応対を決行することであるが、すこし複雑なことになると、思案や分別が、容易にさだまらぬようになる。それがために、だんだん研究とか考究とかいうことをするようになると、しかして、前にいうがごとき標準とか実在とかいうようなことを、求むることになりてみると、行為の決着がしだいにむつかしきなり、何をどうすべきであるやら、ほとんど困却のほかはないようなことになる。言葉をつつしまねばならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊りてはならぬ、礼儀にちがうてはならぬ、作法を乱してはならぬ、自己に対する義務、他人に対する義務、家庭における義務、社会における義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務など、いわゆる人倫道徳の教えより出づるところの義務のみにても、これを実行することはけっして容易のことでない。もしまじめにこれを遂行せんとせば、ついに「不可能」の嘆きに帰するよりほかなきことである。わたしはこの「不可能」につきあたりて、非常なる苦しみをいたしました。もしこのごとき「不可能」のことのために、どこまでも苦しまねばならぬならば、わたしはとっくに自殺もとげたでありましょう。しかるに、わたしは宗教により、この苦しみを脱し、いまに自殺の必要を感じませぬ、すなわち、わたしは無限大悲の如来を信ずることによりて、今日の安楽と平穏とを得ていることであります。
 無限大悲の如来は、いかにして、私にこの平安を得しめたまうか。ほかではない、いっさいの責任をひきうけてくださるることによりて、私を救済したまうことである。いかなる罪悪も、如来の前にはすこしもさわりにはならぬことである。わたしは善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。なにごとでも、わたしはただ自分の気のむかう所、心の欲するところに|順従《したが》うてこれを行うてさしつかえはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、すこしも懸念することはいらない。如来はわたしのいっさいの行為について、責任を負うてくださるることである。わたしはただこの如来を信ずるのみにて、つねに平安に住することができる。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力はいっさいのばあいに遍満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在無障|無礙《むげ》に活動したまう。わたしはこの如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。わたしはわたしの死生の大事をこの如来に寄托して、すこしも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」ということがある。わたしの信ずる如来は、この天と命との根本本体である。(絶筆 明治三十六年五月三十日執筆六月十日発行『精神界』所載)
 
 
 
底本:「わが信念」弘文堂
   1952(昭和27)年2月25日初版発行
初出:「精神界」
   1903(明治36)年6月10日発行
※底本は、物をかぞえる際や地名などにもちいる「ヶ」(区点番号5-86)を、おおぶりにつくっています。
入力:田中敬三
校正:土屋隆
2006年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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 異質な場を多重にリンクする

もしインターネットが世界を変えるとしたら
粉川哲夫

[目次]
1 電子個人主義の先へ
2 異質な場を多重にリンクする
3 もしインターネットが世界を変えるとしたら
4 デジタロン物語
5 日常のインターフェース
6 電子と身体のはざまで
7 テクノロジーと「純粋」自然
8 ラジオ・アート
9 身体のヴァーチャリズム
あとがき
 
 
もしインターネットが世界を変えるとしたら

 異質な場を多重にリンクする


  

 ベルリンの壁の撤廃、湾岸戦争、ソ連ブロックの解体という歴史的な出来事を通じて、メディアの持つ今日的機能がある種の驚きをもって再確認されるところとなったが、実は、このような事件を通じてあらわになった「メディア」の力は、むしろ古いメディアのそれであったということはあまり指摘されない。
 一体、国境を越えて届く「自由主義圏」のラジオやテレビの放送電波が「共産圏」の既存の価値観や制度をぐらつかせたとか、攻撃の操作や監視がすべて電子的なリモートコントロールで行なわれたといったことのどこに新しさがあるのだろうか?
 ヨーロッパのラジオやテレビは、もともとトランスボーダーなものであったし、また遠隔操作は戦争の本質の一つである。それゆえ、衛星からの電波が地理的国境を越えて飛びかい、東欧の諸都市を縦横に結ぶ通信回線が敷設されるようになり、また、攻撃がシュミレーションの結果の再現でしかなくなるといった現在進行中の事態は、すでに半世紀まえに方向づけられていたことにすぎないのである。それが、遅々として進まなかったのは、技術的というよりは政治的な事情のためであり、米ソ冷戦体制というものがそうした進行をあえて遅らせることによって成り立つようなシステムだったからである。権力システムとは、決してシーケンシャルな論理では進行しない。それは、たえず進行を逆行させ、後退させることによってシステムの突然変異的な変化を回避しながら進むのである。
 
  

 印刷メディアであれ、電子メディアであれ、メディア・テクノロジー——というよりも、むしろメディア機器——が高度に浸透している一方で、日本では、表現の不明瞭な屈折した国家規制があり、最もパブリックな場であるはずの国会で行なわれる証人喚問の報道が静止画像でしかできず、さらには、最初から不特定多数に向かって放送される電波以外は、原則として、その自由な受信が法律で禁じられている。
 むろん、ここには、さまざまな理由づけがあるわけだが、それらはすべて官僚主義的な国家政治の勝手な都合によるものであり、メディア・テクノロジーのポテンシャルには逆行する。それならば、最初からメディア機器の浸透をコントロールしておけばよさそうなものだが、装置の方だけは過剰に流通させることを許しながら、その使用を抑えようとするのである。
 この点で、現在、最も矛盾をきたしてしまっているのが電波法である。一瞬耳を疑う者もいるかもしれないが、電波法第五九条を厳守すれば、日本では自分を偽らないかぎり、自由に電波を受信することはできない。「秘密の保護」を目的として作られたとされているこの法律によると、「特定の相手方に対して行なわれる無線通信を傍受してその存在若しくは内容を漏らし、又はこれを窃用してはならない」という。
 一般の放送は、この「特定の相手方に対して行なわれる無線通信」に入らないのだが、日本以外の国から飛び込む電波や通信衛星の電波に対してはこの法律が適用され、それらの受信は、違法になる。もちろん、第二次大戦中とは違い、特高がチェックしてまわるということはないから、事実上、個人的な受信は問題にならないとしても、自宅に大きなパラボラアンテナを設置して海外の衛星放送を見ることは違法であることには変わりないない。人を傷つけようというわけではないにもかかわらず、どこにでもある技術を使わせないという検閲の姿勢——これが、日本のメディア・ポリシーの実態を端的にあらわしている。
 基本的に、電波は、空気や光と同様に、万人のものであるはずだが、日本にかぎらず、国家は、「電波資源の有効利用」と称して電波を独占し、管理している。アメリカのように、国家や企業だけが放送を独占していることへの異議申し立てと批判から、パブリック・アクセスという民主的な制度が勝ち取られ、実際に、限られた枠のなかで個々人や市民が一般のチャンネルで自由に放送できる国もあるが、そのアメリカでもFCC(連邦通信委員会)の介入に対してしばしば抗議と批判が上がっており、FCCの規制には根拠がないとして、たとえばサンフランシスコの「フリーラジオ・バークレイ」のスティーブ・デュニファーのように「海賊放送」を敢行している人々もいる。が、それを「海賊(不法)」行為と見るのは電波を独占している国家の方であって、市民の側にとっては、極めて合法的な行為なのである。
 世界的にみれば、電波メディアは国家が押さえており、パブリック・アクセスの制度すら一部の国々でしか実現されていないが、日本のように外見だけメディア民主制をよそおいながら、その実、独裁国家並の規制を貫徹している国は例がなく、市民無視のその態度は悪質といわなければならない。
 驚くべきことは、日本の放送法は、放送の受信者として「日本国民」しか想定していないため、海外から日本の領域に飛び込んでくる放送波は、全く存在しないもの、ないしは存在すべきでないものとみなされるか、あるいは、非日本国の「特定の相手方に対して行なわれる無線通信」と解され、日本では受信すべきでないものとされるのである。
 郵政省は、一九九四年度から海外の衛星放送の電波を「合法的な越境放送」として認定したが、基本にある国粋主義は少しも変えないだろう。というのも、郵政省は、この電波を一般に誰でもが自由に受信し、「窃用」できる放送波としては認定しないからである。それは、「越境放送」であって、「放送」ではなく、そこに「日本語や英語など日本人が理解できる言語の番組が含まれている」という理由でこれを「特定の相手方に対して行なわれる無線通信」として解釈しようというのである。従って、これは、マスメディアで報道されているような、「海外衛星TV受信解禁」などというしろものではなくて、ケーブルテレビのように受信契約をしている特定の受信者のみに合法的な受信のチャンスを与えるにすぎない。
 通信衛星に見られるようなトランスボーダーなメディアの登場は、すでに近代主義的な国家規制の終焉を表示しているのだが、日本は依然としてそのような国家観にしがみつき、小手先の微調整で事態を切り抜けられると思っている。このような歪んだメディア環境のなかでメディアを論じるかぎり、そこからはロクな展望もえられないだろう。従って、権力システムとは異なったメディアの使い方を問題にするには、メディアをその現状においてではなくて、そのポテンシャル、潜勢力においてとらえなければならないのである。
 
 

 すでに今日のメディアは、フェリックス・ガタリの言葉を借りれば、「ポストマスメディアティック」の時代に入っているが、「ポストマスメディアティック」とは、単にこれまでのマスメディアがやってきた統合と均質化の機能を改め、分散と多元化の機能に転換するといったアルヴィン・トフラー流の変化を意味するにとどまらない。また、マーシャル・マクルーハンが三〇年以上も前に提起した印刷メディアから電子メディアへというテーゼが、あいも変わらず念仏のように繰り返されているが、印刷メディアから電子メディアへの移行は、一方が他方にとってかわるということではなくて、前者が後者によって再編成/脱構築されるということにほかならない。
 現代は、あらゆるものが電子テクノロジーによって再編成/脱構築される時代であるが、その場合、再編成と脱構築とは根本的に異なる。たとえば近年のDTP(デスク・トップ・パブリッシング)技術は、熟練した印刷技師と高度な印刷技術によってしか可能でなかったような印刷術を普通に使えるコンピュータの電子操作のレベルにまで引き下ろすことに成功している。しかしながら、これは、どのみち旧テクノロジーの再編成であって、脱構築ではない。
 テクノロジーの趨勢からして、旧テクノロジーは、消滅するか再編成されて生き残るかのいずれかであるとしても、新しいテクノロジーが持つポテンシャルは、再編成にとどまりはしない。DTPにおいて、印刷術と同じことが実現されるということを越えて示唆されていることがあるはずなのだ。
 たとえば、今日、紙は、コンピュータとの出会いのなかで確実に意味と機能を変えつつある。この場合、紙かペーパーレスのモニター・スクリーンかといった不毛な議論に陥らないようにしよう。事態を平面的にしか見れない人々が、「ペーパーか、ペーパーレスか」、「ペーパーレス社会なんか来はしない、コンピュータ時代になって、むしろ紙の消費は増えているではないか」などと言っているうちに、紙自身の意味と機能が根底から変わりはじめたのである。
 
 

 紙は、かつて礼拝の媒体であったが、やがて記録の媒体になっていった。それがいま、確実にインターフェースとしての機能に変化しつつある。それゆえ、コンピュータやコピー機やFAXのプリントアウトを、われわれがしばしば、いとも気軽に捨て、きわめて命の短いものとしてあつかうことがよくあるのは、決して偶然ではない。つまり紙は、もう一つの「モニター・スクリーン」、ブラウン管や液晶モニターよりは手軽で安定度の高い「モニター・スクリーン」になりかわっているのである。
 しかし、他方において、この「モニター・スクリーン」は、われわれが電子テクノロジーを使いながら、紙の上に印字・描画された「安定した」文字・画像に執着するかぎり、自然破壊につながる大きなコストを覚悟しなければならないということをも示唆している。結局のところ、紙=モニター・スクリーンは、過渡期の現象でしかないのである。
 問題は、ここからやがて「ペーパーレス」の状況が生まれるということではなくて、紙をモニター・スクリーン化する今日の電子テクノロジーは、「もしあなたが単なる現状の再編成に甘んじるだけならば、自然破壊につながる憂うべき事態を覚悟してくださいよ。あるいは、もしそれがいやなら、あなた自身がメディアに対する姿勢を根本的に変えるしかないですよ」ということを示唆していることである。
 いつの時代も、新しいテクノロジーは、それ以前のテクノロジーをより効果的に展開するためにのみ使われる。そのためには、新しいテクノロジーは、そのポテンシャルの大部分を犠牲にし、その能力を奴隷的レベルにまで引き下げることによって旧テクノロジーに奉仕させる。活版印刷で普通に行なってきた印字技術をコンピュータでやろうとすると、コンピュータにかなりの負担をかけなければならないが、そのときコンピュータは、いわば無能者をよそおい、コンピュータにとってはバカバカしい仕事にあまんじている。その仕事を処理する速度と記憶容量を別の目的に向けるならば、そのコンピュータは、これまでの技術機械が決して発揮できなかったようなことができるはずである。
 
 

 日常的にわれわれは薄々気づいているのだが、依然として、メディアによってメッセージを伝達するという観念が一般的である。メディアが「運送路」と考えられているのであり、だからこそ、情報の「送り手」「受け手」、「メディア・ハイウェイ」などということが言われるわけである。しかし、電子メディアを情報の運送パイプとして使うときには、電子メディアの本来の特性を殺したやり方をしなければならない。
 その適例が軍事通信である。軍事通信においては、情報の「送り手」と「受け手」が明確であり、原理的に、不特定多数の「送り手」や「受け手」は存在しない。普通の放送のように、誰がどのように聴いているかは厳密にはわからず、むしろその不可知性のなかで作動しているようなメディアでは決してない。また、モニター・スクリーンの画像にも、ヴィデオ・アートとは違い、すべて明確なメッセージがこめられている。
 しかし、湾岸戦争中にくりかえし見せられた映像が、もともとは「敵」と「味方」、「送り手」と「受け手」、さらないは「現実」と「非現実」(誤差)とが明確に区別されることを前提とした映像であったはずだが、それが、多くの視聴者にとってはヴィデオゲームの映像や「この上なく美しいヴィデオアート」の映像として見えてしまったという事実は、電子メディアがこうした区別やメッセージ性をつねに越えた存在であることをはからずも示している。
 電子メディアは、情報を伝達するパイプラインとしてよりも、コミュニケーションを組みかえる場として機能すべきものである。ラジオやテレビは、情報を数量的にとらえ、それをできるだけ大量に送達することができるように組織化されるために、信じられないようなロスをしている。現在、プロフェッショナルな放送局には、放送出力が五〇〇キロワット以上のところもめずらしくはない。これは、一ケ所から大量の情報を可能なかぎり多くの視聴者に「放射」(ブロードキャスト)し、送達しようとするからである。ここには、場所の質に関する意識が欠如しているのであり、場所とは均質な電波空間でしかないのである。
 が、もし、場所性ということを重視するならば、出力をかぎりなく増大するという発想は生まれないだろう。五〇〇キロワットの放送局を作るより、一ワットの放送局を五〇〇ケ所に作り、五〇〇種類の異なる放送を行なう方が場所性ははるかに豊かになるからである。湾岸戦争でミサイルの先端に装備された小型の「テレビ局」を一晩で何百局も惜し気なく使い捨てたコストを思えばはるかに安い予算で全世界に小出力のポリモーファスなテレビ・ネットワークを張りめぐらせることが実際に可能である。しかし、そのような放送行政は、まだ世界のいかなる国でも遂行されてはいないし、今後実行に移される見込みはなさそうである。というのも、現存する権力システムは、既存のテクノロジーを突然変異的に組み変えるよりも、膨大な犠牲と浪費を支払ながらしゃにむに継続しようというテクノ・ポリティクスによって動いているからである。
 
 

 電子テクノロジーは、印刷テクノロジーの理念を引き受けることによって、印刷技術を完成させた。すなわちその複製という理念は、電子的なメディア・テクノロジーによってその可能性を極限まで発揮するようになった。が、完成とは終焉であり、ここにおいて複製という理念そのものが終わる。
 実際、ディジタル化された信号においては、オリジナルと複製の差異は消滅する。このことは、電子テクノロジーは、本来、複製のテクノロジーではないということであり、電子メディアも、複製とは別の方向からとらえなおされなければならないということを意味する。
 コンピュータは、当初、プロセス・マシーンと解され、実際にプロセッサーとして使われてきた。いまでもわれわれは、コンピュータにワードプロセッサーの機能を期待している。しかしながら、われわれは、コンピュータの機能がそのポテンシャルの一部でしかないことに気づきはじめている。
 プロセスとは、プログラムに従って何かを処理することであるが、プログラムにあらかじめ封入したことしかできないコンピュータは、いまでは幼稚なコンピュータである。かつて「写真製版」をプロセスと言っていたように、プロセスという言葉は複製文化に属している。が、コンピュータは、もはやプログラムを複製するのではなくて、プログラムをみづから創造するのであり、ある種の自己増殖性と外部へのアクセス性こそが、コンピュータのポテンシャルである。
 
 

 コンピュータがプロセス・マシーンにとどまるとき、それは、情報を集積・所有するという印刷文化の伝統に支配される。これに対して、コンピュータをアクセス・マシーンとしてとらえるときには、ネットワークの発想を抜きにすることはできない。ここでは、情報は、集積・所有されるのではなくて、共有のなかで再構築されるのである。伝達、情報交換としてのコミュニケーションに代わって、《共振》としてのコミュニケーションが重要性を持つのはこの点においてである。
 しかし、現在のコンピュータ通信は、コンピュータのこうしたアクセス性を十分に展開できずにいる。それは、依然として「メール」や「ニューズ」といった印刷文化のコンセプトのなかにとどまっており、従って、コンピュータのネットワークを通じて生まれるコミュニケーションには、何ら新しいものを見出すことができない。
 とはいえ、コンピュータ・ネットワークのなかでしばしば問題になる機密保持、著作権、情報の代価といった問題は、これらの上に築かれた既存の制度と価値体系が意味をなさなくなる事態が始まっていることを示唆している。今後、文字だけでなく映像や音があたりまえのようにコンピュータ・ネットワークのなかに登場するようになれば、このメディアのアクセス性は急速に進むだろうし、いまとは全く違った事態が出現するはずである。
 
 

 ラジオやテレビは、コンピュータ以前から「ネットワーク」という言葉を使っていたし、「共振」は送信と受信の基礎をなしているにもかかわらず、ラジオやテレビもまた、印刷機の概念によってそのポテンシャルを拘束されてきた。送信の時間ユニットが依然として「プログラム」と呼ばれているように、送信にとってあらかじめ(プロ)=書き記す(グラム)ということが前提になっているが、これは、むしろ印刷メディアに固有の性格であって、電子メディアにとって不可欠の条件ではない。電子メディアは、あらかじめ仕掛けをするよりも、即興的ななりゆきにまかせた方がその潜勢力をいかんなく発揮できるような装置である。
 そもそも、「放送」(ブロードキャスティング)という概念自体、電子テクノロジーにはなじまない。不幸にして、現在、ラジオやテレビは、人と人との距離をかぎりなく消去するための装置として使われている。だから、最も強力な放送メディアとは、遠い距離をいまここの感覚にすりかえることができるメディアであり、たとえば湾岸戦争時のテレビ放送は、遠隔地での戦争をいまここの感覚で報道したことでその威力が評価されたのだった。しかし、それは、車や飛行機に期待されている能力——移動能力——であって、電子テクノロジーは、もっと別のことが期待されてしかるべきである。
 ラジオやテレビは、情報を放射=放送するのではなくて、送信(トランスミット)するのであり、このトランスミットは、文字通りに受けとられなければならない。《トランス》とは「横断的」、「一つの場所を越えて」ということであり、《ミット》はラテン語の mittere や mettre の系列に属する語で、「置く」「場所をつくる」ということとつながっている。それゆえ、「トランスミット」とは、「横断的な場所をつくること」であり、それぞれ異質な場を多重にリンクすることである。
 実際には、マスメディアとしてのテレビやラジオは、そうした異質な場をリンクはするものの、それらを同質の場に統合することに努めてきた。それは、テレビやラジオが、不幸にして、輪転機、蒸気機関、歯車、車輪、レールといった機械テクノロジーにもとづく工業化の環境のなかにデビューしなければならなかったという歴史的な事情のためである。
 それゆえ、歴史的な状況が工業化から脱工業化へ移行していくにつれて、ラジオやテレビのローカル化や分権化が進むのは当然である。と同時に、テクノロジーの基本動向も歴史の趨勢もすべて後追いとこじつけで済まそうとする日本のようなところから見ると「自由」に見えるアメリカやヨーロッパのメディア状況も、所詮は、こうした歴史的な趨勢に対応するためにとられた修正の結果としてローカル化し分権化しているのだということを忘れてはならない。
 一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、イタリア、さらにはフランスで始まったラジオとテレビの自由化は、一面では、下側からの市民的要求というファクターもなかったわけではないが、その最も大きなファクターは、資本の多角化、消費の拡大、脱工業化、情報化等々の言葉で言い表されるシステム側の変化であった。むろん、そのなかには、たとえばアウトノミア運動のなかで現われるラジオ運動のように、資本の「自己組織化」を越える創造的な試みも数多くあった(『これが「自由ラジオ」だ』、晶文社参照)が、それらは、そうした歴史的趨勢のゆえに生まれたのではなくて、むしろそれにもかかわらず生まれたのであった。
 だから、重要なことは、権力システムを越え、つねなる未来を照射する試みとしてのメディアとメディア運動は、制度化したモデルのなかにはないということである。つまりは、トランスミッションは、まだトランスミッションではないのである。
 
 

 メディアの歴史は、ある点で、記憶を代補する装置の歴史である。フランシス・イエイツが『記憶の技術』(邦訳、水声社)のなかで書いているように、都市の街路や建築が記憶のメディアであった時代もあったが、近代は、書物が記憶のメディアとなった。書物は、次第に記憶の天才と博学の伝統を消滅させ、今日、コンピュータと連動した電子メディアが、記憶ということそのものを変容させようとしている。
 しかし、街路や書物は、記憶を完璧には代補できないということが、そのメディア性をなしていたが、電子メディアは、記憶をある現実の再現前・複製とみなすことによって、その代補を完璧に実現する。いまここで体験される感覚・思考・動作を一〇年後に全く同じ状況で経験させること、もしお望みなら、一〇年後の「いまここ」の感覚に合わせて現実をヴァーチャルに変容させて経験させることもいとわない。ヴァーチャル・リアリティのテクノロジーは、想像をサンプリングし、現実化するテクノロジーである。
 こうした状況のなかで、人は、記憶の意味自体が変わりつつあるにもかかあらず、一方で、記憶の喪失を嘆き、他方で、記憶が電子テクノロジーによって完璧に代補されるという楽天主義にひたる傾向がある。確かに、記憶は失われているが、それは、電子テクノロジー以前から失われつつあった記憶である。また、電子テクノロジーが代補するかに見える記憶は、われわれがこれまで慣れ親しんできた記憶とは質的に異なるものである。
 記憶とは、基本的に場の記憶である。この場では、情報や言語概念や映像情報や言語概念や映像が、想起のたびごとに更新されるのである。これは、電子的なメモリー装置の記憶のやり方とは根本的に違っている。
 電子テクノロジーの趨勢は、場の記憶を集積としての記憶にすりかえ、印刷技術の発展とともに昂進した場の記憶の喪失傾向をますます強めている。しかしながら、ここで、もし、場の記憶と集積的記憶との存在論的差異を正しく認識するならば、電子テクノロジーを場の記憶の先鋭化に役立てることができるだろう。
 ポール・L・サッフォーは、そのひらめきに富んだ『シリコンバレーの夢』(日暮雅通訳、ジャストシステム)のなかで、今日の「情報オーバーロード」の時代には、一九世紀流の「ある情報を思い出す能力」よりも、「一見関係のない情報を結び付ける能力」、「一見無秩序で混沌としたデータの中に意味のあるパターンを見つけ出す数学の一分野、カオス理論」が重要性を持つようになると言っている。
 こうした能力は、電子テクノロジーがこのまま発展すれば自動的に一般化するというものでは決してなく、むしろ、電子テクノロジーがポテンシャルとして持っている解放的側面であり、現実には、つねに先送りにされる能力であるように思われる。
 メディアをシステムのプログラムに従って受動的に使用するのではないメディア・アクティヴィストは、このような側面にこそ注目すべきだろう。要するにメディアをメッセージの媒介装置や記憶の代補装置とはみなさないことであり、放っておいても過剰に昂進する記憶の代補装置としての側面のかたわらで、ラジオ、ヴィデオ、コンピュータ等々の電子メディアだけでなく、本や新聞のような旧メディアをも、ひらめきや場の再構築をうながす《共振》と《アクセス》を過激に推進する《トランスミッター》としてとらえなおす実験と、それを阻む諸条件の批判に介入することである。


 ◆オリジナル
  粉川哲夫『もしインターネットが世界を変えるとしたら』
  http://cinema.translocal.jp/books/moshiinternet/index.html
 
 
 2006.9.24 転載・行頭スペースを挿入
 2006.9.27 修正
 しだひろし/PoorBook G3'99

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2006年09月23日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」25 大久保ゆう訳

25

 王子くんはいった。「ひとって、はやいきかんしゃにむちゅうだけど、じぶんのさがしものはわかってない。ということは、そわそわして、ぐるぐるまわってるだけ。」

 さらにつづける。

「そんなことしなくていいのに……」

 ぼくたちが行きあたった井戸は、どうもサハラさばくの井戸っぽくはなかった。さばくの井戸っていうのは、さばくのなかで、かんたんな穴がぽこっとあいてるだけ。ここにあるのは、どうも村の井戸っぽい。でも、村なんてどこにもないし、ぼくは、ゆめかとおもった。

「おかしい。」と、ぼくは王子くんにいった。「みんなそろってる。くるくる、おけ、ロープ……」

 その子はわらって、ロープを手にとり、くるくるをまわした。するときぃきぃと音がした。風にごぶさたしてる、かざみどりみたいな音だった。

「きこえるよね。」と王子くんはいった。「ぼくらのおかげで、この井戸がめざめて、うたをうたってる……」

 ぼくは、その子にむりをさせたくなかった。

「かして。」と、ぼくはいった。「きみには、きつすぎる。」

 そろりそろり、ぼくは、おけをふちのところまでひっぱり上げて、たおれないよう、しっかりおいた。ぼくの耳では、くるくるがうたいつづけていて、まだゆらゆらしてる水の上では、お日さまがふるえて見えた。

「この水がほしい。」と王子くんがいった。「のませてちょうだい……」

 そのとき、ぼくはわかった。その子のさがしものが!

 ぼくは、その子の口もとまで、おけをもちあげた。その子は、目をつむりながら、ごくっとのんだ。おいわいの日みたいに、気もちよかった。その水は、ただののみものとは、まったくべつのものだった。この水があるのは、星空のしたをあるいて、くるくるのうたがあって、ぼくがうでをふりしぼったからこそなんだ。この水は、心にいい。プレゼントみたいだ。ぼくが、ちいさなおとこの子だったころ。クリスマスツリーがきらきらしてて、夜ミサのおんがくがあって、みんな気もちよくにこにこしてたからこそ、ぼくのもらった、あのクリスマスプレゼントは、あんなふうに、きらきらかがやいていたんだ。

 王子くんがいった。「きみんとこのひとは、五〇〇〇本ものバラをひとつの庭でそだててる……で、さがしものは見つからない……」

「見つからないね。」と、ぼくはうなずく……

「それなのに、さがしものは、なにか一りんのバラとか、ちょっとの水とかのなかに見つかったりする……」

「そのとおり。」と、ぼくはうなずく。

 王子くんはつづける。

「でも、目じゃまっくらだ。心でさがさなくちゃいけない。」

 

 ぼくは水をのんだ。しんこきゅうする。さばくは、夜あけで、はちみつ色だった。ぼくもうれしかった、はちみつ色だったから。もう、むりをしなくてもいいんだ……

「ねぇ、やくそくをまもってよ。」と、王子くんはぽつりといって、もういちど、ぼくのそばにすわった。

「なんのやくそく?」

「ほら……ヒツジのくちわ……ぼくは、花におかえししなくちゃなんないんだ!」

 ぼくはポケットから、ためしにかいた絵をとりだした。王子くんはそれを見ると、わらいながら、こういった。

「きみのバオバブ、ちょっとキャベツっぽい……」

「えっ!」

 バオバブはいいできだとおもっていたのに!

「きみのキツネ……この耳……ちょっとツノっぽい……ながすぎるよ!」

 その子は、からからとわらった。

「そんなこといわないでよ、ぼうや。ぼくは、なかの見えないボアと、なかの見えるボアしか、絵ってものをしらないんだ。」

「ううん、それでいいの。子どもはわかってる。」

 そんなわけで、ぼくは、えんぴつでくちわをかいた。それで、その子にあげたんだけど、そのとき、なぜだか心がくるしくなった。

「ねぇ、ぼくにかくれて、なにかしようとしてる……?」

 でも、その子はそれにこたえず、こう、ぼくにいった。

「ほら、ぼく、ちきゅうにおっこちて……あしたで一年になるんだ……」

 そのあと、だんまりしてから、

「ここのちかくにおっこちたんだ……」

 といって、かおをまっ赤にした。

 そのとき、また、なぜだかわからないけど、へんにかなしい気もちになった。それなのに、ぼくはきいてみたくなったんだ。

「じゃあ、一しゅうかんまえ、ぼくときみが出あったあのあさ、きみがあんなふうに、ひとのすむところのはるかかなた、ひとりっきりであるいていたのは、たまたまじゃないってこと!? きみは、おっこちたところに、もどってるんだね?」

 王子くんは、もっと赤くなった。

 ぼくは、ためらいつつもつづけた。

「もしかして、一年たったら……?」

 王子くんは、またまたまっ赤になった。しつもんにはこたえなかったけど、でも、赤くなるってことは、〈うん〉っていってるのとおんなじってことだから、だから。

「ねぇ!」と、ぼくはいった。「だいじょうぶ……?」

 それでも、その子はこたえなかった。

「きみは、もう、やることをやらなくちゃいけない。じぶんのからくりのところへかえらなきゃいけない。ぼくは、ここでまってる。あしたの夜、かえってきてよ……」

 どうしても、ぼくはおちつけなかった。キツネをおもいだしたんだ。だれであっても、なつけられたら、ちょっと泣いてしまうものなのかもしれない……

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2006年09月20日

 あおぞら

 いつから青空文庫に参加したのかなと思って、送信済みメールをさかのぼってみると、2001.4.14付けのメールがありました。青空で T-Time 形式ファイルを提供していたころのことです。Luna Cat さんが「明日の本棚」を開いたころ。はじめての作業には、幸田露伴こうだろはん平 将門たいらのまさかど」の入力を選びました。なぜかというと、「将門に関する露伴の考察は必読である」という記述を、たまたま荒俣 宏『帝都物語』の巻末解説にみつけたからです。

 山形には、どういうわけか平 将門にまつわる伝説がいくつかあります。有名なのは、国宝に指定されている羽黒山五重塔を建立したという説です。詳細はわかりません。それからもうひとつ。出羽三山でわさんざん登拝口とうはいぐちには、いわゆる八方七口はっぽうななくちとよばれる寺院集落があります。その集落のなかのひとつがぼくの出身地なのですが、そこには将門の落人おちうど伝説があるのです。将門の子孫の家系といえば、有名なところで福島県相馬そうま地方があります。相馬へ逃げのびた将門の子孫が、山形へ移住、さらにそこから出羽三山のふもとへ逃げのびてきたという言い伝えがあるのです。
 真実なのか。それとも、とるにたらない伝説なのか。真実ではないとするならば、そういう伝説が生まれた背景はなんだったのか。よりにもよって京の朝廷に反逆して、みずから関東の新しいみかどだと宣言し、田原藤太たわらのとうたにあっけなく征伐せいばいされてしまう将門。いわば平安時代のテロリスト。それがどういうわけか、その死後も怨霊おんりょうとして、あるいは土地を守る神としてまつられる。むしろ、庶民的に長く親しまれ続ける存在となる。
 関東武士もののふのさきがけ。将門の親族でありながら敵対し、後世に繁栄と滅亡の道をたどることになる平家一門にとって、将門はどんな意味をはなつことになったのだろう。頼朝や家康は、将門をどう思っていたのだろう。
 
 インターネットではじめて書きこみした掲示板は、青空文庫のみずたまりでした。その後、MLメーリングリストへの初参加も青空文庫でした。blog を教えてもらったのも青空文庫。作業に参加し続けている理由はいくつかあります。が、なかでも最近ぼんやり思うことがあります。
 参加の動機は人さまざまあるでしょうが、ぼくのようなケースもあるでしょうか。それは告白してしまうと現実からの逃避です。悪く言えば。けれどもそれは裏を返していえば、現実からの救いでもありました。どういうことかというと、当時、自殺することばかり考えて、それが頭から離れない毎日でした。
 どうやったら楽に死ねるだろうか。当然ながら家族のことなど思うゆとりもない。将来のことなど、とても。起きても死、寝ても死。連日連夜。一か月、一年……。歩きながらも死。車を運転しながらも死。食事をしながらも死。それからもうひとつ考えていたことがあります。復讐ふくしゅうです。こういう境遇に追いこんだ奴への復讐。どうやって復讐するか。どういう方法が確実か。どういう方法が効果的か。どうやったらバレないか。いや、もはや差しちがえでもいい。復讐できるのであれば、そのあと逮捕されてもかまわない。復讐しなければ死んでも死にきれない。自殺・復讐・憎悪・殺意……。思考や感情が完全にそういうものに乗っとられた状態でした。そういう負の感情だけがグルグルとローテーションしていました。
 
 よくまあ、はやまったことをしなかったものだと、われながらあきれます。負の感情に乗っとられながらも、これで自殺したら完全な敗北だろ、というさめた眼もかすかにありました。それから、あんな奴らのために自分の時間も感情もこれほど消耗させられるのがたまらなく不快だった。復讐の鬼になるということは、マイナスの意味で相手のことを強烈に“想い続ける”ことだったからです。負の感情に支配された状態は、すごく気色悪きしょくわるかった。アホくさくすら思った。こういうことを書いているということは、憎悪はいまだ消えていません。こういうかたちで復讐をつづけているのだと思う。だから負の感情は消えていないし、いつでも思考の深層部分から噴出してくる。完全に記憶を消して忘れることができるなら、そのほうがたいへん楽だ。思考の表層からも深層からもとっとと消えてほしい。けれどもありがたいことに、まだしばらく深層部におすわられたいらしい。ならばご足労でも、こうやってたまに表層におましましいただいくのも健全とはいえまいか。
 
 出羽三山の歴史をみると、修験者のなかには、人をあやめた人物が何人か登場します。真偽や詳細はわかりません。その本人が極悪人だったのか。それとも殺された側が悪かったのか。人を殺めて、そこにいられなくなって出羽三山へ逃れ修験者になった人物が少なくとも二人います。これは何を意味しているのだろう。根も葉もないうわさ話なのか。誇張のまじったものか。話が残っているということは、彼らを受け入れた村の人々も、多かれ少なかれ彼らの過去を承知で迎え入れた、かくまった、知らぬふりをして受け入れた、不承不承ながら受け入れた、ということか。あるいはその村では口外できなくても、その村の周囲で話が伝承されたのか。
 幕末、秋田仙北郡出身の進藤勇吉という人物は誤って殺人をおかし、鶴岡へ逃れて出家し、鉄竜海てつりゅうかいと名乗ります。文久二年(一八六二)湯殿山の千人沢で修行。明治一四年(一八八一)、鶴岡でなくなる。享年六十二。ミイラが残っています。
 時代ははるかにさかのぼって天文年間、戦国末期。大隅(鹿児島)出身の人物が、やはり人を殺傷した過去があって出羽三山・八方七口のひとつ大井沢おおいさわ大日寺へ来ます。彼は勢眞せいしんと名乗り、すたれた大日寺を再興し伽藍がらんを建てる。この大日寺の中興の祖に、道智どうち上人しょうにんという、南北朝の後期に播磨国書写山(現兵庫県姫路)で生まれた人物がいて、寒河江慈恩寺で修行します。一休さんや将軍・足利義満や山形最上家の祖・斯波兼頼しば かねよりと同時代の人です。大日寺では道智を初代住職(方丈)とし、勢眞を二代目とかぞえています。
 勢眞上人はもともと武士だったらしい。明治に入ってから墓碑が地中から発掘されます。大日寺には七不思議と呼ばれるものがあり、そのひとつに、勢眞上人の墓のほうからな夜なすすり泣き声が聞こえてくる、という言い伝えがあります。生前の無念をうらんでとも、墓碑が埋められたのを口惜くちおしんでともいわれます。寺の住職ともあろう人がうらみ節かと、いぶかしくもありますが。
 
 ところで羽黒山の開祖は、第三十二代崇峻すしゅん天皇の第三皇子・蜂子皇子はちこおうじだといわれています。蜂子皇子と特定されるのは江戸時代後期(1820年)のことで、それまでは能除仙のうじょせんとだけ伝承がありました。能除仙、イコール蜂子皇子ということになったらしい。聖徳太子のいとこにあたる。皇子がなぜこんな辺境の出羽へやってきたかというと、どうも奈良飛鳥あすかの都を追われて逃れてきたのではないかとの説がある。文書に記さたり彫刻や肖像画に残っている姿をみると、口がけていたり、うわくちびるがめくれていたり、眼尻がつり上がっていたり、浅黒い肌だったりというようにおそろしい形相の人物です。その異形を怖がられて追いはらわれたともいいます。ただし、鬼のようなツノはない。天狗のようなハナもない。貴種流離譚。流浪。将門伝説……義経伝説……奥州・平泉……戊辰戦争・奥羽越列藩同盟……それらの陰間に出羽三山や、この国の宗教史や権力闘争の一端が見えかくれしているような……。
 
 テキスト入力や校正作業をしていて、しばしばハッと思ったのは、作業に集中しているあいだ、あれほど感情を乗っとっていた死の念やうらみの情、復讐心が、いつの間にかかき消えている瞬間があることでした。底本を横に置いてパソコンに向かって原稿を入力する。ひたすら。文章を眼で追い、キーを打つ、漢字を検索する、読みかえす。作業中は文章の意味内容を深く追っかけすぎない。たんたんと文章のツラをなでていく感じ。意識の1/3くらいで底本の字づらを読み、1/3くらいでキーボードを打ち込み、あとの1/3で入力テキストを確認する。とてもそれ以外のことを考えられない状態ができる。没頭。意識の集中コンセントレーション。憎悪や怨みの情念に支配されることも意識の集中だろうけれども、それとはまったく異質の状態。感情の起伏きふくがまったく現われない、別種の集中状態がいつのまにか生まれる。意識的にではなく、完全に“無意識的”にというところがミソです。
 車を運転している最中は、運転に意識を向けながらも、手足は無意識に動く。意識の集中は前方の視覚へ向けられる。ただし新しい道を走るばあいと、走りなれている道を行くばあいで、集中の度合いは大きく変わります。なれた道では、いろいろと考えながら走ることになる。運転中、その思考がグルグル頭をめぐる。リバースする。車を運転していたときには、不快な情念がグルグルして、テキストの入力や校正のようにフラットな心境は生じませんでした。
 スポーツで汗をかいている瞬間がたいへん近い。波乗りをしているときとか、スノボーをしているとき。目の前の波やゲレンデに意識が“無意識に”集中する。目の前のサーファーやボーダーにも意識が“無意識に”くばられる。タイミングやフォームにも気がくばられる。すると、あれほど忘れることが困難だった嫌な記憶が、とても意識の表層にのぼってくるようなゆとりがなくなるのです。“無意識に”。不快な記憶を完璧に消去するのはむずかしい。けれども“意識をしない瞬間をつくる”ことであれば、方法はないことはないわけです。そこまでできるようになれば、つぎは「意識をしない瞬間」を少しずつでも伸ばしたり、断続させたり、別の手段で同じ状態を作り出したりしていけばいい。
 
 まるで出羽三山をとりかこむように、山形には和紙の産地があります。実際に足をはこんだところ、自然条件がどこもたいへん似ていることに気がつきました。山間地であること。近くの川から水をひけること。冬には降雪量が多いだろうこと。稲作には不向きそうなこと。それから、近くに神社や寺院があること。
 写経や座禅修行の経験はありません。ところが、一見まったく別の作業ですが、青空文庫の活動に参加していて、もしかしたらかつて出羽三山で写経をしていた僧侶や修験者たちも似たような精神の安定を感じていたり求めていたのかもしれないと、最近考えるようになりました。なんらかの罪を背負ったり、人を殺めたり、住みなれたところを追いはらわれたり、大切なものをうばわれた人たちならばなおのことです。
 
 蜂子皇子、平 将門、義経……。
 
 
 
 2006.9.20
 しだひろし/PoorBook G3'99
 転載・引用・リンク・朗読・翻訳は自由です。

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2006年09月16日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」24 大久保ゆう訳

24

 おかしくなって、さばくに下りてから、八日め。ぼくは、ものうりの話をききながら、ほんの少しだけのこっていた水を、ぐいとのみほした。

「へえ!」と、ぼくは王子くんにいった。「たいへんけっこうな思いで話だけど、まだひこうきがなおってないし、もう、のむものもない。ぼくも、ゆっくりゆーっくり水くみ場にあるいていけると、うれしいんだけど!」

「友だちのキツネが……」と、その子がいったけど、

「いいかい、ぼうや。もうキツネの話をしてるばあいじゃないんだ!」

「どうして?」

「のどがからからだと、すぐにでも死んじゃうんだよ……」

 その子は、ぼくのいいぶんがわからなくて、こういった。

「友だちになるっていいことなんだよ、死んじゃうにしても。ぼく、キツネと友だちになれてすっごくうれしくて……」

 ぼくはかんがえた。『この子、あぶないってことに気づいてない。はらぺこにも、からからにも、ぜったいならないんだ。ちょっとお日さまがあれば、それでじゅうぶん……』

 ところが、その子はぼくを見つめて、そのかんがえにへんじをしたんだ。

「ぼくだって、のどはからからだよ……井戸《いど》をさがそう……」

 ぼくは、だるそうにからだをうごかした。井戸をさがすなんて、ばかばかしい。はてもしれない、このさばくで。それなのに、そう、ぼくらはあるきだした。

 

 ずーっと、だんまりあるいていくと、夜がおちて、星がぴかぴかしはじめた。ぼくは、とろんとしながら、星をながめた。のどがからからで、ぼうっとする。王子くんのことばがうかんでは、ぐるぐるまわる。
「じゃあ、きみものどがからから?」と、ぼくはきいた。

 でも、きいたことにはこたえず、その子はこういっただけだった。

「水は、心にもいいのかもしれない……」

 ぼくは、どういうことかわからなかったけど、なにもいわなかった……きかないほうがいいんだと、よくわかっていた。

 その子はへとへとだった。すわりこむ。ぼくもその子のそばにすわりこむ。しーんとしたあと、その子はこうもいった。

「星がきれいなのは、見えない花があるから……」

 ぼくは〈そうだね〉とへんじをして、月のもと、だんまり、すなのでこぼこをながめる。

「さばくは、うつくしい。」と、その子はことばをつづけた……

 まさに、そのとおりだった。ぼくはいつでも、さばくがこいしかった。なにも見えない。なにもきこえない。それでも、なにかが、しんとするなかにも、かがやいている……

 王子くんはいった。「さばくがうつくしいのは、どこかに井戸がかくしてるから……」

 ぼくは、どきっとした。ふいに、なぜ、すながかがやいてるのか、そのなぞがとけたんだ。ぼくが、ちいさなおとこの子だったころ、古いやしきにすんでいた。そのやしきのいいつたえでは、たからものがどこかにかくされているらしい。もちろん、だれひとりとして、それを見つけてないし、きっと、さがすひとさえいなかった。でも、そのいいつたえのおかげで、その家まるごと、まほうにかかったんだ。その家に、かくされたひみつがある。どこか、おくそこに……

「そうか。」と、ぼくは王子くんにいった。「あの家とか、あの星とか、あのさばくが気になるのは、そう、なにかをうつくしくするものは、目に見えないんだ!」

「うれしいよ。」と、その子はいった。「きみも、ぼくのキツネとおなじこといってる。」

 王子くんがねつくと、ぼくはすぐさま、その子をだっこして、またあるきはじめた。ぼくは、むねがいっぱいだった。なんだか、こわれやすいたからものを、はこんでるみたいだ。きっと、これだけこわれやすいものは、ちきゅうのどこにもない、とさえかんじる。ぼくは、月あかりのもと、じっと見た。その子の青白いおでこ、つむった目、風にゆれるふさふさのかみの毛。ぼくはこうおもう。ここで見ているのは、ただの〈から〉。いちばんだいじなものは、目に見えない……

 ちょっとくちびるがあいて、その子がほほえみそうになった。そのとき、ぼくはつづけて、こうかんがえていた。『ねむってる王子くんに、こんなにもぐっとくるのは、この子が花にまっすぐだから。花のすがたが、この子のなかで、ねむってても、ランプのほのおみたく、きらきらしてるから……』そのとき、これこそ、もっともっとこわれやすいものなんだ、って気づいた。この火を、しっかりまもらなくちゃいけない。風がびゅんとふけば、それだけできえてしまう……

 そうして、そんなふうにあるくうち、ぼくは井戸を見つけた。夜あけのことだった。

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2006年09月11日

 文化事情・ネットで文化遺産共有

「文化事情・ネットで文化遺産共有」
岡村久道
(国立情報学研究所各員教授・コンピュータ法)
『毎日新聞』2006.9.10 p26

 以下、要約。
・米グーグル、文芸作品全文、ネットで無料閲覧。8月30日正式開始。
・図書館の蔵書デジタル化を推進する米国の非営利団体 OCA も、IT企業大手と提携して同様の著作権切れ作品デジタル配信プロジェクト「オープン・ライブラリー」。
・欧州デジタルライブラリー
・日本、近代デジタルライブラリー。02年より。12万冊以上。
・「青空文庫」

 ※OCA(Open Content Alliance )。
  Yahoo!、Microsoft、Adobe、HPなどが参加。
 
 岡村久道。あんまし聞いたことない名前です。国立情報学研究所って何? (引用意訳)これまで、日本でこの分野を開拓したのは青空文庫であった……って過去形になってるし。
 商業誘導であれ非営利であれ、大目的は青空文庫も同じだろうから、歓迎していいムーブメントだと「ぼくは」思います。目指すサービスに、それぞれ多少の差異が生じるのはやむをえないし、ムリに画一化すべきものでもない。既存図書館では、だいぶ相互交流が進められている。インター・ライブラリー……ってところでしょうか。利用者の便宜を考えると、相互に連動してくれることが望ましいし、パブリックなコストの使い道は、ダブってほしくないですなぁ。既得権益を確保せよ。死んだ作家の年をかぞえろ。ちゅーちゅータコかいなあ。著者の出身地に足を運んで恩を売れ。あると思うな印税生活。ないと思うな内部告発。蛸啓発、新入社員をゲットせよ!(※記事とは関係ありません)
 
 
2006.9.11
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンク・翻訳は自由です。

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2006年09月09日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」23 大久保ゆう訳

23

「こんにちは。」と、王子くんがいうと、

「こんにちは。」と、ものうりがいった。

 ものうりはクスリをうっていた。そのクスリは、のどのからからをおさえるようにできていて、一しゅうかんにひとつぶのめば、もう、のみたいっておもわなくなるんだ。

「どうして、そんなのをうるの?」と王子くんはいった。

「むだなじかんをなくせるからだ。」と、ものうりはいった。「はかせがかぞえたんだけど、一しゅうかんに五三ぷんもむだがはぶける。」

「その五三ぷんをどうするの?」

「したいことをするんだ……」

 王子くんはかんがえる。『ぼく、五三ぷんもじゆうになるんなら、ゆっくりゆーっくり、水くみ場にあるいていくんだけど……』

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 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」22 大久保ゆう訳

22

「こんにちは。」と王子くんがいうと、

「こんにちは。」とポイントがかりがいった。

「ここでなにしてるの?」と王子くんがいうと、

「おきゃくを一〇〇〇にんずつわけてるんだ。」とポイントがかりがいった。「きかんしゃにおきゃくがのってて、そいつをおまえは右だ、おまえは左だって、やってくんだよ。」

 すると、きかんしゃが、ぴかっ、びゅん、かみなりみたいに、ごろごろごろ。ポイントがかりのいるたてものがゆれた。

「ずいぶんいそいでるね。」と王子くんはいった。「なにかさがしてるの?」

「それは、うごかしてるやつだって、わからんよ。」とポイントがかりはいった。

 すると、こんどはぎゃくむきに、ぴかっ、びゅん、ごろごろごろ。

「もうもどってきたの?」と王子くんがきくと……

「おんなじのじゃないよ。」とポイントがかりがいった。「いれかえだ。」

「じぶんのいるところが気にいらないの?」

「ひとは、じぶんのいるところが、ぜったい気にいらないんだ。」とポイントがかりがいった。

 すると、またまた、ぴかっ、びゅん、ごろごろごろ。

「さっきのおきゃくをおいかけてるの?」と王子くんはきいた。

「だれもおっかけてなんかないよ。」とポイントがかりはいった。「なかでねてるか、あくびをしてる。子どもたちだけが、まどガラスに鼻をおしつけてる。」

「子どもだけが、じぶんのさがしものがわかってるんだね。」と王子くんはいった。「パッチワークのにんぎょうにじかんをなくして、それがだいじなものになって、だからそれをとりあげたら、泣いちゃうんだ……」

「うらやましいよ。」とポイントがかりはいった。

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2006年09月05日

 空色通信 2006年8月号

2006年8月は、84作品のファイルが公開された。ニュースは特になし。

【公開作品】
 2006年8月には、84作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 もっとも多くの作品が公開されたのは坂口安吾で24篇(「明治開化 安吾捕物その十五 赤罠その十六 家族は六人・目一ツ半その十七 狼大明神その十八 踊る時計その十九 乞食男爵その二十 トンビ男」、「特攻隊に捧ぐ」、「芸道地に堕つ」、「今後の寺院生活に対する私考」、「土の中からの話」、「文学のふるさと」、「新らしき性格感情」、「講談先生」、「茶番に寄せて」、「長島の死」、「露の答 ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露とこたへて消なましものを」、「ピエロ伝道者」、「アンゴウ」、「矢田津世子宛書簡」、「安吾下田外史」、「織田信長」、「感想家の生れでるために」、「思想と文学」、「人生案内」)。「明治開化 安吾捕物」が先月に引き続いて、公開されている。

 また、8月6日には、豊島与志雄「ヒロシマの声」が、そして15日には、坂口安吾「特攻隊に捧ぐ」が公開された。

 次に多くの作品が公開されたのは竹久夢二で18篇(「」、「大きな蝙蝠傘」、「大きな手」、「おさなき灯台守」、「玩具の汽缶車」、「」、「」、「クリスマスの贈物」、「最初の悲哀」、「少年・春」、「たどんの与太さん」、「誰が・何時・何処で・何をした」、「人形物語」、「博多人形」、「はしがき」、「」、「日輪草 日輪草は何故枯れたか」、「街の子」、「」)。「童話集 春」の作品である。

 山路愛山は、6篇(「英雄論」、「詩人論」、「信仰個条なかるべからず」、「凡神的唯心的傾向に就て」、「明治文学史」、「唯心的、凡神的傾向に就て(承前)」)が公開された。

 鈴木三重吉は、童話が6篇(「一本足の兵隊」、「乞食の子」、「湖水の鐘」、「ざんげ」、「星の女」、「ぽつぽのお手帳」)公開された。

 土井晩翠は、3篇(「「雨の降る日は天気が悪い」序」、「新詩発生時代の思ひ出」、「野口英世博士の生家を訪ひて」)が公開された。「「雨の降る日は天気が悪い」序」には、晩翠自らの手による略歴が収録されている。姓を「どい」と読むか「つちい」と読むについても含めて。「新詩発生時代の思ひ出」は、薄田泣菫「詩集の後に」とともに、新体詩の黎明を語った文章である。

 泉鏡花は、4篇(「化銀杏」、「琵琶伝」、「春昼」、「春昼後刻」)が公開された。「春昼」、「春昼後刻」は一続きの作品で、小見出しの数字も連続している。「琵琶伝」は、岩波版の全集刊行の際、内容故にカットされ、第二刷の時に別巻に収録された作品である。

 岡本綺堂は、4篇(「近松半二の死」、「栗の花」、「ランス紀行」、「倫敦の一夜」)が公開された。「栗の花」、「ランス紀行」、「倫敦の一夜」は、世界紀行文学全集からの収録。フランス、イギリスの紀行文。

 他には、木下尚江が3篇(「佐野だより」、「雪中の日光より」、「臨終の田中正造」)、伊藤左千夫が3篇(「河口湖」、「去年」、「紅黄録」)、中井正一が2篇(「絵画の不安」、「スポーツの美的要素」)、狩野直喜が1篇(「支那研究に就て」)、内藤湖南が1篇(「支那目録学」)、 桑原隲蔵が1篇(「那珂先生を憶う」)、林芙美子が1篇(「下町」)、 小山内薫が1篇(「梅龍の話」)、富田木歩が1篇(「小さな旅」)、水上滝太郎が1篇(「山の手の子」)、菊池 寛が1篇(「大衆維新史読本 07 池田屋襲撃」)、武田 麟太郎が1篇(「反逆の呂律」)、公開された。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

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2006年09月02日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」21 大久保ゆう訳

21

 キツネが出てきたのは、そのときだった。

「こんにちは。」とキツネがいった。

「こんにちは。」と王子くんはていねいにへんじをして、ふりかえったけど、なんにもいなかった。

「ここだよ。」と、こえがきこえる。「リンゴの木の下……」

「きみ、だれ?」と王子くんはいった。「とってもかわいいね……」

「おいら、キツネ。」とキツネはこたえた。

「こっちにきて、いっしょにあそぼうよ。」と王子くんがさそった。「ぼく、ひどくせつないんだ……」

「いっしょにはあそべない。」とキツネはいった。「おいら、きみになつけられてないもん。」

「あ! ごめん。」と王子くんはいった。

 でも、じっくりかんがえてみて、こうつけくわえた。

「〈なつける〉って、どういうこと?」

「このあたりのひとじゃないね。」とキツネがいった。「なにかさがしてるの?」

「ひとをさがしてる。」と王子くんはいった。「〈なつける〉って、どういうこと?」

「ひと。」とキツネがいった。「あいつら、てっぽうをもって、かりをする。いいめいわくだよ! ニワトリもかってるけど、それだけがあいつらのとりえなんだ。ニワトリはさがしてる?」

「ううん。」と王子くんはいった。「友だちをさがしてる。〈なつける〉って、どういうこと?」

「もうだれもわすれちゃったけど、」とキツネはいう。「〈きずなをつくる〉ってことだよ……」

「きずなをつくる?」

「そうなんだ。」とキツネはいう。「おいらにしてみりゃ、きみはほかの男の子一〇まんにんと、なんのかわりもない。きみがいなきゃダメだってこともない。きみだって、おいらがいなきゃダメだってことも、たぶんない。きみにしてみりゃ、おいらはほかのキツネ一〇まんびきと、なんのかわりもないから。でも、きみがおいらをなつけたら、おいらたちはおたがい、あいてにいてほしい、っておもうようになる。きみは、おいらにとって、世界にひとりだけになる。おいらも、きみにとって、世界でいっぴきだけになる……」

「わかってきた。」と王子くんはいった。「いちりんの花があるんだけど……あの子は、ぼくをなつけたんだとおもう……」

「かもね。」とキツネはいった。「ちきゅうじゃ、どんなことだっておこるから……」

「えっ! ちきゅうの話じゃないよ。」と王子くんはいった。

 キツネはとってもふしぎがった。

「ちがう星の話?」

「うん。」

「その星、かりうどはいる?」

「いない。」

「いいねえ! ニワトリは?」

「いない。」

「そううまくはいかないか。」とキツネはためいきをついた。

 さて、キツネはもとの話にもどって、

「おいらのまいにち、いつもおなじことのくりかえし。おいらはニワトリをおいかけ、ひとはおいらをおいかける。ニワトリはどれもみんなおんなじだし、ひとだってだれもみんなおんなじ。だから、おいら、ちょっとうんざりしてる。でも、きみがおいらをなつけるんなら、おいらのまいにちは、ひかりがあふれたみたいになる。おいらは、ある足音を、ほかのどんなやつとも聞きわけられるようになる。ほかの音なら、おいら穴ぐらのなかにかくれるけど、きみの音だったら、はやされたみたいに、穴ぐらからとんででていく。それから、ほら! あのむこうの小むぎばたけ、見える? おいらはパンをたべないから、小むぎってどうでもいいものなんだ。小むぎばたけを見ても、なんにもかんじない。それって、なんかせつない! でも、きみのかみの毛って、こがね色。だから、小むぎばたけは、すっごくいいものにかわるんだ、きみがおいらをなつけたら、だけど! 小むぎはこがね色だから、おいらはきみのことを思いだすよ。そうやって、おいらは小むぎにかこまれて、風の音をよく聞くようになる……」

 キツネはだんまりして、王子くんをじっと見つめて、

「おねがい……おいらをなつけておくれ!」といった。

「よろこんで。」と王子くんはへんじをした。「でもあんまりじかんがないんだ。友だちを見つけて、たくさんのことを知らなきゃなんない。」

「自分のなつけたものしか、わからないよ。」とキツネはいった。「ひとは、ひまがぜんぜんないから、なんにもわからない。ものうりのところで、できあがったものだけをかうんだ。でも、友だちをうるやつなんて、どこにもいないから、ひとには、友だちってものがちっともいない。友だちがほしいなら、おいらをなつけてくれ!」

「なにをすればいいの?」と王子くんはいった。

「気ながにやらなきゃいけない。」とキツネはこたえる。「まずは、おいらからちょっとはなれたところにすわる。たとえば、その草むらにね。おいらはきみをよこ目で見て、きみはなにもしゃべらない。ことばは、すれちがいのもとなんだ。でも、一日、一日、ちょっとずつそばにすわってもいいようになる……」

 

 あくる日、王子くんはまたやってきた。

「おんなじじかんに、来たほうがいいよ。」とキツネはいった。「そうだね、きみがごごの四じに来るなら、三じにはもう、おいら、うきうきしてくる。それからじかんがどんどんすすむと、ますますうきうきしてるおいらがいて、四じになるころには、ただもう、そわそわどきどき。そうやって、おいらは、しあわせをかみしめるんだ! でも、でたらめなじかんにくるなら、いつ心をおめかししていいんだか、わからない……きまりごとがいるんだよ。」

「きまりごとって、なに?」と王子くんはいった。

「これもだれもわすれちゃったけど、」とキツネはいう。「一日をほかの一日と、一時間をほかの一時間と、べつのものにしてしまうもののことなんだ。たとえば、おいらをねらうかりうどにも、きまりごとがある。あいつら、木ようは村のむすめとダンスをするんだ。だから、木ようはすっごくいい日! おいらはブドウばたけまでぶらぶらあるいていく。もし、かりうどがじかんをきめずにダンスしてたら、どの日もみんなおんなじようになって、おいらの心やすまる日がすこしもなくなる。」

 

 こんなふうにして、王子くんはキツネをなつけた。そして、そろそろ行かなきゃならなくなった。

「はあ。」とキツネはいった。「……なみだがでちゃう。」

「きみのせいだよ。」と王子くんはいった。「ぼくは、つらいのはぜったいいやなんだ。でも、きみは、ぼくになつけてほしかったんでしょ……」

「そうだよ。」とキツネはいった。

「でも、いまにもなきそうじゃないか!」と王子くんはいった。

「そうだよ。」とキツネはいった。

「じゃあ、きみにはなんのいいこともないじゃない!」

「いいことはあったよ。」とキツネはいった。「小むぎの色のおかげで。」

 それからこうつづけた。

「バラの庭に行ってみなよ。きみの花が、世界にひとつだけってことがわかるはず。おいらにさよならをいいにもどってきたら、ひみつをひとつおしえてあげる。」

 王子くんは、またバラの庭に行った。

「きみたちは、ぼくのバラとはちっともにていない。きみたちは、まだなんでもない。」と、その子はたくさんのバラにいった。「だれもきみたちをなつけてないし、きみたちもだれひとりなつけていない。きみたちは、であったときのぼくのキツネとおんなじ。あの子は、ほかのキツネ一〇まんびきと、なんのかわりもなかった。でも、ぼくがあの子を友だちにしたから、もう今では、あの子は世界にただいっぴきだけ。」

 するとたくさんのバラは、ばつがわるそうにした。

「きみたちはきれいだけど、からっぽだ。」と、その子はつづける。「きみたちのために死ぬことなんてできない。もちろん、ぼくの花だって、ふつうにとおりすがったひとから見れば、きみたちとおんなじなんだとおもう。でも、あの子はいるだけで、きみたちぜんぶよりも、だいじなんだ。だって、ぼくが水をやったのは、あの子。だって、ぼくがガラスのおおいに入れたのは、あの子。だって、ぼくがついたてでまもったのは、あの子。だって、ぼくが毛虫をつぶしてやったのも(二、三びき、チョウチョにするためにのこしたけど)、あの子。だって、ぼくが、もんくとか、じまんとか、たまにだんまりだってきいてやったのは、あの子なんだ。だって、あの子はぼくのバラなんだもん。」

 

 それから、その子はキツネのところへもどってきた。

「さようなら。」と、その子がいうと……

「さようなら。」とキツネがいった。「おいらのひみつだけど、すっごくかんたんなことなんだ。心でなくちゃ、よく見えない。もののなかみは、目では見えない、ってこと。」

「もののなかみは、目では見えない。」と、王子くんはもういちどくりかえした。わすれないように。

「バラのためになくしたじかんが、きみのバラをそんなにもだいじなものにしたんだ。」

「バラのためになくしたじかん……」と、王子くんはいった。わすれないように。

「ひとは、ほんとのことを、わすれてしまった。」とキツネはいった。「でも、きみはわすれちゃいけない。きみは、じぶんのなつけたものに、いつでもなにかをかえさなくちゃいけない。きみは、きみのバラに、なにかをかえすんだ……」

「ぼくは、ぼくのバラになにかをかえす……」と、王子くんはもういちどくりかえした。わすれないように。

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2006年09月01日

 水牛だより9月1日

必要があって手にした雑誌「コヨーテ」の最新号が「フィンランドのみじかい夏」という特集をしていました。トーベ・ヤンソンが夏をすごしたクルーブ島の小屋の写真を見ているうちに、こころ動かされて短篇集のはじめにある「夏について」を読み返しました。
「わたしの記憶はどうしようもなく頼りなくて、日付やできごとはするすると抜けおちて、何年もあったはずの子ども時代は、ただひとつの長い夏として思いだされてしまいます。」トーベ・ヤンソンが言うように、わたしの子ども時代もひとつの長い夏のよう。寒冷地に住んでいたこともあったのに、ぜったいに夏であるのは、夏休みというもののせいかもしれません。

水牛の9枚目のCD『記号説/う・む——高橋悠治による北園克衛と足立智美による新國誠一』を発売しました。高橋悠治と足立智美が自分の声とコンピュータなどを使って、北園克衛と新國誠一を音楽にしました。ぜひ聞いてください。
9月23日(秋分の日)にはCDの発売を記念して二人のライブを予定しています。午後3時から渋谷のアプリンクファクトリーで。詳しくはこちらをごらんください。
9枚目を無事に発売して、適当に、いい加減に、をモットーに、CDはまだ何枚かの企画がゆっくりと進行中です。世の中からはあまり評価されないモットーかもしれませんが、ほんもののインディーズとしては欠かせない大事なこと。ピシリとかたにはまっては何のいいこともないと思うのです。

「水牛のように」を2006年9月号に更新しました。
夏のおわりは忙しいひとも多く、今月は少ないかなと思ったのですが、それでも9人が書いています。少なくはありませんね。
「製本、かい摘まみましては」の四釜裕子さんには『記号説/う・む』のデザインをお願いしました。原稿を書いたりデザインをしたり、こき使われているというわけです。
今月は水牛のひとたちのブログをまとめてご紹介します。

佐藤真紀さんのブログ「クロヨン平和主義」
四釜裕子さんのブログ「bookbar5」
御喜美江さんのブログ「道の途中で」
片岡義男さんのブログ「ペーパーバックの数が増えていく」

それではまた!(八巻美恵)

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