鎌倉時代の布教と当時の交通
染織に関する文献の研究

2006年04月12日

 鎌倉時代の布教と当時の交通 II

鎌倉時代の布教と当時の交通 II
原勝郎

 以上は畿内以東につきて観察したところのものであるが、いまにも述べたとおり新宗教は、主力を東国にそそいだのであるから、畿内以西における布教的活動はその盛な点においてとうてい東方とくらべものにならぬ、しかれども西国はまた西国で、その布教の径路の研究におもしろい点もあるから、ひととおりこれを述べる必要がある。

 東国を説明した順序にしたがって、まず浄土宗から始むれば、京師以西には浄土宗が布教上おおいに重きをおいたというわけではないけれど、がんらい西国はこれを東国に比して、京洛文明の影響をこうむったことひさしくかつ深いから、源空の新宗教はみずから西方に伝わらざるを得ぬしだいである、けれどもその伝播は当時の交通の関係によって規定せられているのはやむをえざることですなわち山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けているけれども、丹後から以西伯耆にいたるまでは、鎌倉時代を通じてほとんど浄土宗の侵略をこうむっておらぬ、山陽の播磨はなお山陰の丹波のごときものであるが、美作〔源空の出生地〕から西備中にいたるまでの間も、山陰の丹後以西とおなじく浄土宗の感化を受けておらぬ、南海道の紀伊は播磨と同様であるが、四国においては讃岐と伊予に浄土宗が伝わり、これと前後して向かい側なる山陽道では備後に伝わり、備後からさらに出雲、石見に流布している、聖光の弟子良忠が中国に布教した時は、まさしくこの径路によったものである、また九州において豊前の浄土宗は論ずるにたらぬに反し、豊後における伝道の跡見るにたるものあるのは、豊後の佐賀の関が伊予の佐田岬と相対し、両国の交通がはなはだひんぱんであるためで、これらと中国の例ならびに北陸の例をあわせ考うれば、当時の布教はかならずしも陸地づたいにのみ進んだものでないということがわかり、したがって当時の日本の主要なる交通線のなかには海路も少なからず含まれておったことが明になる。
 しかしながら九州の浄土宗のおもなる活動は、この伊予から豊後に渡ったものではなく、鎌倉時代の始めにおいて筑後の善導寺を根拠とした聖光およびその弟子蓮阿などの努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後とひろがったが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るることができなかったように見える。
 禅宗の山陰道に落莫なるは、浄土宗の場合とおなじである、してみれば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四か国は、京都からさほど遠くないにもかかわらず、鎌倉時代には天然の不便から、みずから別境をなしていて、一般に注意をひく度において、奥州などにすらおよばなかったのかもしれぬと思われる、ただ山陰道において禅僧の活動として見るにたるものは、法灯国師の弟子の三光国師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、浄土宗の場合においてみえたと同様、当時は九州におもむくに主として海路を利用したもののごとくで、播磨を除いて、その以西備中までは、あまり禅宗の影響を受けておらず、備後以西においてはじめてその痕跡を見る、三光国師も浄土僧と同様備後から出雲へ入ったらしい、宗派からいえば播磨には臨済も曹洞も混入しているけれど、備後以西は臨済のみであった。
 南海道の禅宗といえば紀伊の法灯国師の外、伊予に伝道した聖一国師の弟子の仏道禅師、ならびに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。
 九州において禅宗がほかの宗旨にくらべていっそうの盛況をあらわしているのは、これはけだし博多が当時支那との交通の要路にあたっているところからして、渡唐僧や帰化僧は、多くはしばらくここに滞留し、したがって、九州の禅宗はかならずしも京都の方からの布教のみによらずに伝播したためであろうと思われる、であるから九州で禅宗の最流行したのは筑前、その次は豊後で、肥前、肥後はまたその次にくらいしている、九州の布教に尽力した禅僧の有名なものは、まず栄西を第一として、そのほか聖一国師、大応国師、〔南浦〕南山士雲、および寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東国をも風化したのみならず、西国にも巡錫している、すなわち南山同様伊予に布教し、それから九州にわたった、ただし南山は肥前・筑前に伝道したけれども、寒岩はその弟子鉄山などとともに、もっぱら豊後、肥後の布教に尽力をした、されば禅宗が豊後に盛で、となりの豊前に寥々りょうりょうとしているのは伊予からの交通の関係から怪しむにたらぬのである、しかして寒岩は道元の弟子であるから、豊後と肥後とには筑前にくらべて曹洞が多いのである、そのほか大応は主として力を筑前にそそいでいる。
 時代をもってすれば、九州の禅宗は仁治建長の間筑前にさかんに、豊後より進んで両肥におよんだのは、鎌倉の末六十年くらいの間のことである。
 真宗が京師以西におよぼした影響は、すこぶる希薄な状態で鎌倉時代を終わった、ただしこれはさすが氾濫的伝播をなす宗旨だけあって乗専のごときは近畿布教の序に但馬へも入ったようである、しかし因幡や伯耆に真宗がほとんど入らなかったのは、浄土や禅と同様である、山陽道においては播磨にすこしく入ったほかにはやはり備後を中心として備中・安芸の二国におよんだのみである、この真宗の備後における布教はもっぱら親鸞の弟子明光〔光昭寺開山〕の尽力によるもので、明光は真宗にはめずらしく遍歴布教をした人である、たんに山陽のみならず、山陰の出雲もまた明光の手によって真宗の教化に接した、しかしてこの明光のとれる布教路が、浄土宗および禅宗のとった布教の道筋と符合しているのははなはだおもしろいことである。
 四国では真宗の波動のおよんだのは阿波と伊予とのみであると断言してさしつかえないくらいで、それも影響がはなはだ少ない、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者のごとくである、九州で鎌倉時代に真宗の入ったのはほとんど豊後のみであるが、これも伊予との交通の結果である。
 日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同様である、これは純東国的宗旨であるからいっそうしかるのであろうとも思われる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊をはじめとして日頼という者もある、これに対して他宗の場合におけるごとき備後の布教は見えぬが、備中には日印、日円などの布教があるから、他宗の場合とあまりはなはだしく矛盾してはおらぬ。
 九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐〔日高弟子〕が入って伝道したが、それよりも顕著なのは日向に入った日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗はまったく入らなかった。
 時宗においては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊ならびに四国の伊予はもちろん讃岐にも、九州では筑前にもおよんだのであるが、そのほかの遊行僧では、四祖呑海および、その弟子の随音というが、あらたに石見、隠岐に布教し、二祖真教が備後と伊予に巡錫したくらいのもので、ほかにとりたてていうほどのこともない。
 おわりにのぞんで新宗派が従来の宗派を蚕食し、あるいは新宗派の間にたがいに相呑噬した様子を簡単に述べて、この論を結ぶことにする、浄土宗のもっとも多く蚕食したのは天台で、真言これにつぎ法相またこれにつぐ、新宗の中では禅の浄土に転じたものもあるけれど、浄土がまた転じて真宗になったこともまれではない。
 禅宗のもっとも多く侵略したものもまた天台で真言はこれにつぐ、浄土に対しては侵し方が侵された分より多い。
 浄土真宗にいたっては天台を侵略したこともっともはなはだしく、今日現存の鎌倉時代からの真宗寺で、天台から転宗したのが二百ばかりある、真言の七十三がこれにつぐ、はるかに下るが、これについでは法相である、また真宗は新宗派の中で浄土と禅とをすこしづつ侵略している。
 時宗の侵略したのも天台にもっとも多く真言これにつぐ、ただし小規模の宗派だけ侵略した数は少ない。
 以上の四宗がいずれも天台をもっとも多く侵略しているのはそれ以前に天台宗の寺が真言そのほかの諸宗よりもすぐれて数多かったためでもあろうが、これと全く異なったありさまをしめしているのは日蓮宗で数字においてはその侵略の度真宗の多いのにはおよばぬけれど、とにかく日蓮宗のもっとも多く侵略したのは真言で、天台はかえってその三分一くらいである、これは注意すべき事だ、また新宗派の中では禅をすこしく侵略している、真言亡国、禅天魔をさけんだだけあるといってもよろしい、ただし念仏宗をば無間とそしったけれど、浄土寺をすこしく侵略したのみで、真宗とはまったく没交渉である、真言よりは少ないけれども、天台もまた侵略を免れなかったのは、たとえ日蓮宗が天台の復興を主張するとしてもじっさいこの両宗の間には性質上大差があるからであろうと思われる。
 
 
 
底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日発行
底本の親本:「史学研究会講演集 第四集」富山房
   1912(明治45)年4月16日発行
○進だのて:「進だので」の誤植か。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2005年1月5日作成
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2006.4.12
割り注は〔  〕でくくり、グレー表示にした。
しだひろし/PoorBook G3'99

★この文章を書いた人→PoorBook G3'99★こんな時間に→2006年04月12日 23:53 ★トラックバック




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