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幸田露伴『連環記』
登場人物一覧
賀茂忠行 かもの ただゆき
安倍晴明の師。
賀茂保憲 かもの やすのり
賀茂忠行の長子。保胤の兄。累代の家の業をついで、陰陽博士、天文博士となる。賀茂氏の宗。保憲は十歳ばかりの童児のとき、法眼すでにあきらかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられたその道の天才。
源 英明 みなもとの ひであき
文人。本朝文粋にのこる。
源 為憲 みなもとの
文人。本朝文粋にのこる。
源 順 みなもとの したごう
保胤と順とはべつに関渉はなかった。
◇撰『和名類聚抄』
具平親王 ともひら しんのう
紀 斉名 きの まさな
四条公任卿が中納言を辞そうとしたとき、紀斉名に辞表を草するように依頼、斉名は筆をふるって書くが卿は気に召さなかった。
大江以言 おおえの もちとき
四条公任卿はあらためて大江以言に委嘱。以言も起草するがそれにも満足せず、匡衡に文案して欲しいと頼む。
慶滋保胤 かもの やすたね
寂心
?-長保4.10.(※続往生伝は長徳3)
賀茂忠行の第二子。保憲の弟。姓をあらためて慶滋とした。保胤は菅原文時の弟子となって文章生となる。大内記。牛馬がムチに打たれるのを見てハラハラと涙をながしたり、道で泣く女に自分の石帯を貸しあたえたという。保胤は弥陀如来の徒。「唐の白楽天を異代の師となし、晋朝の七賢を異代の友となす」。
寛和二年、出家して寂心となる。子息の冠笄わずかにおわるにおよんで、ついにもって入道す(匡房、続往生伝)。内記の聖と呼ばれる。東山如意輪寺に住み、恵心の弟子になる。僧官などは受けなかったようだが、藤原道長も寂心を授戒の師と頼んだ。西は播磨、東は三河にまで行った。陰陽師のマネをしていた僧に、じぶんが集めていたたくわえをすべて与えて、京へ上り帰ったという。寂心が僧となっての二、三年は大江定基が三河守になっていた時。死後、道長が布施をなし、その諷誦文を大江匡衡が作る。永観元年の改元の詔、同二年、封事をたてまつらしめらるるの詔を草したのをはじめとして、二十編ばかりの文、往生極楽記などを遺した。保胤の妻および子はどんな人であったか伝わっていない。
◇著書『池亭記』『日本往生極楽記』『往生伝』
高尾の文覚 もんがく
黄蘗の鉄眼 おうばくのてつげん
善滋為政 かもの ためまさ?
保胤の弟の文章博士・保章の子。為政は文章博士で、続本朝文粋の作者のひとり。
恵心 けいしん?
東山如意輪寺。寂心(慶滋保胤)の師。頭陀行(乞食行)を厳修。台宗問目二十七条を撰して、宋の南湖の知礼師についてこれを質そうとした。伝説にはこの人一乗要訣を撰したときには、馬鳴菩薩竜樹菩薩があらわれて摩頂賛嘆し、伝教大師は合掌して、我山の教法は今なんじに属すと告げられたと夢みたという。
増賀 ぞうが?
?-長保5.6.8没
参議橘 恒平(たちばなのつねひら)の子。春久の叔父。十歳から叡山へ上がり、慈慧について仏道をまなんだ。多武峰(とうのみね)。寂心が止観をうけた。元亨釈書に、安和の上皇、みことのりして供奉となす、佯狂垢汗して逃れ去る、としるしている。死に近づいたころ、弟子どもに歌をよませ、自分も歌をよむ。死の間際、碁を打たばやと思いて打ち、古泥障をかけてつばさとして胡蝶の舞を舞った。享年八十七。
源信 げんしん
僧都。横川(よかわ)。源信の方が寂心よりはすこし年がおとっていたかもしらぬが、おさなきより叡山の慈慧について励精刻苦してまなび、顕密双修、行解並列のおそろしい傑物。
◇著書『一乗要訣』『往生要集』
春久 しゅんきゅう
増賀上人の甥。竜門寺にいたが、増賀の介抱にきていた。
然 ちょうねん 東大寺の僧侶。永観元年、入宋渡天の願を立てて彼地へ到る。前年、天元五年七月十三日、
然は母のために修善の大会をもよおす。母は齢六十。ちょうど慶滋保胤がいまだ俗を脱せずに池亭を作りもうけた年。保胤は
然のために筆をふるってその願文を草した。
然上人の唐におもむくを餞して賦して贈る人びとの詩の序も保胤が撰した。
然はインドへ行くのはやめて、大蔵五千四十八巻および十六羅漢像、今の嵯峨清涼院仏像などを得て、寛和元年に帰朝。寂照が宋に入る十六、七年のこと。
佐理 さり
四、五年前に失ったばかりの時代の人。書の大家か。
円融院の中宮遵子 ゆきこ
藤原道長 ふじわらの みちなが
寂心から三帰五戒をさずかる。妻は倫子(とも)。倫子は左大臣源雅信の娘で、准三宮、鷹司殿と世に称される。
菅原道真
菅原古人の曾孫。
菅原文時 すがわら ときふみ?
古人六世の孫。儒家であり詞雄。慶滋保胤(寂心)の師。源英明・源為憲・匡衡も文時に請いてその文章詞賦の斧正をうけたという。詩文は菅三品の作としていまに称揚せられて伝わっている。天暦十一年十二月に封事三条をたてまつる。
四条公任 ?きんとう
中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位。
平 兼盛 たいらの かねもり?
従五位上駿河守。三十六歌仙の一人。是忠親王の曾孫であり、父は篤行(あつゆき)。赤染右衛門の父ともいわれる。
赤染右衛門 あかぞめ えもん
右衛門の母は不明。平兼盛が、当時生れた子をわが娘と称して引き取ろうとして、検非違使沙汰となった。赤染大隅守時用(ときもち)の子として育つ。赤染時用がその当時の検非違使。藤原道長の妻・倫子に仕える。大江匡衡の妻。大江為基との間に、歌の贈答がある。
大江挙周 おおえの ?
大江匡衡・赤染右衛門の子。和泉守。
大江匡衡 おおえの まさひら
大江重光の子。祖父・維時の学を受ける。文章博士。定基の従兄弟。およそ同じほどの年頃。定基が妻を迎えたと同じ頃に妻・赤染右衛門をむかえる。三十前、赤染右衛門も二十幾歳。子は挙周。寂心(慶滋保胤)の諷誦文を作る。ひょろりとして丈高く、さし肩であったといわれる。三輪の山のあたりの稲荷の禰宜の女に通うようになる。赤染右衛門にせめられ、一応は降参して謝罪してすむがまた通い出す。右衛門は女の身許から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて、そこにいた匡衡へ文を送りつける。以降、匡衡はおとなしくしたという。
大江匡房 おおえの まさふさ
続伝のなかには保胤も採録。続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるによれば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇の前年、五十一、二歳ごろ、彼の六条の池亭にあった時であったと推測。近世の才人を論じて、橘 在列は源 順におよばず、順は以言と慶滋保胤とにおよばずと断じた。
◇著書『慶保胤伝』、撰『続本朝往生伝』
大江音人 おおえの おとんど
大江家は音人以来、儒道文学の大宗。音人の子玉淵、千里、春潭、千古、みな詩歌をよくし、千里は和歌をもよくし、小倉百人一首で知られる。
大江維時 おおえの これとき
大江千古の子。贈従二位文章博士。維時の嫡子は重光。次男は斉光。
大江斉光 おおえの なりみつ
大江維時の子。重光の弟。東宮学士。参議左大弁正三位に至る。玉淵の子朝綱、千古、みな文章博士。
大江為基 おおえの ためもと?
大江斉光の長男。定基の兄。文章博士。正五位下、摂津守。病弱で、はやくなくなる。為基・定基兄弟の母と右衛門との間にも後になってたがいに問いおとずれしあう。贈答の歌が残っている。知れるかぎりでは右衛門と為基の恋愛譚は見当らず、また恋物語などがあったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に歌の贈答が少くなかった。
大江成基 おおえの しげもと
為基・定基の弟。長保四年、大江定基が渡宋へ出発したころには近江守になっていたと思われる。
大江尊基 おおえの たかもと
為基・定基の弟。
大江定基の母
寂照(定基)は願文をつくって、母のために法華八講を山崎の宝寺に修し、本朝を辞する。
大江定基 おおえの さだもと
寂照
?-長元7(?-1034)
大江斉光の次男。為基の弟。匡衡、赤染右衛門の従兄弟。父祖・維時の功により、はやく蔵人にぬきんでられ、二十何歳かで三河守に任ぜられる。慶滋保胤とは知りあいで、定基のほうが年少。妻を家から出し力寿をむかえる。が、ほどなく力寿は病没。死んだ力寿の口を吸う。キジ生けを作らせるが声を立てて泣き出して、国府をあとにして都へ出る。官職位階はみな辞する。鏡を売りにきた女に自分の財物をすべて与え、わが家をすてて東山如意輪寺へ入る。恵心・寂心(保胤)の弟子になる。永延二年、三十か三十一才、寂照と名乗る。僧都となる。
寂心(保胤)の死後、道長が布施をなし、その諷誦文を大江匡衡が作り、その請状を寂照が記したものが現存する。支那の知礼法師へ恵心の宗問目二十七条を託される。長保四年、渡宋して霊場を参拝。彼土の人びとにも神州の高徳と崇敬。宋主(真宗)に拝謁、紫衣束帛をたまわり、上寺にとどめ号を円通大師とたまわる。このころ丁謂と相知る。最初に謂がしきりに照を世話したころ、照は謂にそのもっていた黒金の水瓶に詩をそえて贈った。
本国へ帰るべきところ、丁謂にとどめられ、照の徒弟をして知礼の答釈を持て帰らしめ、ついに呉門寺にとどまる。三呉の道俗ようやく多く帰向して、寂照の教化はおおいにおこなわれたといわれている。そのままに呉にあったこと三十余年、仁宗の景祐元年、わが後一条天皇の長元七年没する。
大江定基の妻
ついに家を出る。
力寿
三河の赤坂の駅の長の許。大江定基と出会う。駅の長は女となり、その長の下には美女がその家の娘分のようになっていて、泊まる貴人などの世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、どこそこの長が家といえば、娼家というほどの意味にさえなったくらいであるが、はじめはさほどに堕落したものではなかったから、長の家の女の腹に生まれてりっぱな者になった人びとも歴史に数々みえている。力寿という名は宇治拾遺などにはみられない。わずらい病没する。
鏡を売りにきた女
定基が官職位階をみな辞してしまったあと、鏡を売りにくる。定基はその婦人の窮を救うために、いろいろの自分の財物をあたえとらせる
虎関 坊さん。
紫式部
海老茶式部
清少納言
金時大納言
和泉式部
右大将道綱の母
高 師直 こうの もろなお
卜部兼好 うらべの けんこう
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迦留陀夷 かるだい
釈迦の弟子。教壇の上で穢語を放って今にのこり伝わっている。
西王母
孔子 こうし
年十九にして宋の幵官氏をめとる。翌年に鯉、字は伯魚を生ませる。孔子が継室をむかえられた、それは何氏であったということも、まだ見およばず聞きおよばぬ
子伯魚
子思子の父。妻を去られたようである。伯魚の母すなわち孔子の妻も去られたことは分明。伯魚の弟、妹というものはなかった。
子思子 ししし
孔子の孫。妻を去られたことは分明。
檀弓 六国の人。檀弓一編は礼記にあり。もと伝聞に出ずるもの。
呂洞賓 りょどうひん
仙人。仙道成就しても天に昇ったきりにならずに、いつまでもこの世に化現遊戯して塵界の男女貴賎を点化したということで、唐から宋へかけて処処方方に詩歌だの事跡だのを遺しており、宋の人の間にはその信仰が普遍で、すでに蘇東坡の文にさえもちいられているし、今でも法を修してよべば出てくるとおもわれている。
白楽天
もともと狂言綺語すなわち詩歌を賛仏乗の縁としてみとめるとした。唐人のならい、弥勒菩薩の徒であったろう。
知礼 ちれい?
宋の南湖の僧。当時、学解深厚をもって称されたものであったろう。寂照は恵心の台宗問目二十七条をあらわして、その答えを求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞。答釈を作る。知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見。宋主が寂照を見たまうにおよびて、わが日本のことを問いたもうたので、寂照は紙筆をこいて、わが神聖なる国体、優美なる民俗を答えのべた。
丁謂 ていい ?-明道年間
蘇州長州の人。おそろしいような、またさほどでもないような人であるが、とにかく異色ある人だったにちがいなく、宋史の伝はこれを貶するに過ぎているきらいがある。丁謂が寂照と知ったのは年なお若き時であり、後に貶所にありてもっぱら浮屠因果の説を事としたと史にはある。早く寂照に点化されたのかもしれない。楊億の談苑によれば、丁謂が寂照を供養したとある。
わかい時孫何と同じく文をそでにして王禹
に謁したら、王はその文を見ておおいに驚きほめたという。当時孫・丁と称されたという。累進して丞相にいたり、真宗の信頼を得、乾興元年、晋国公に封ぜられる。蘇州節度使のときの句がある。真宗崩じてのち、その后のにくしみをうけ罪をこうむり、宦官雷允恭と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫、数年にして道州にうつされ、致仕して光州におりて卒した。政敵にたたき落されて死地に置かれた。寂照に先だつこと一年か二年、明道年間に死す。
妲己 だっき 妖怪くさいおそろしい美人
褒 ほうじ 妖怪くさいおそろしい美人
楚王 陳をうちやぶり、夏姫を入れようとする。
夏姫 かき いたるところに不幸をまいた女。
申公巫臣 しんこう ふしん
荘王
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『今鏡』
慶滋保胤『池亭記』
慶滋保胤『日本往生極楽記』
慶滋保胤『往生伝』
大江匡房『慶保胤伝』
大江匡房(撰)『続本朝往生伝』
源 順(撰)『和名類聚抄』
源信『一乗要訣』
源信『往生要集』
『清輔朝臣抄』
『後撰集雑二』
『新勅撰集恋二』
『後拾遺集恋一』
『続千載集恋五』
『宇治拾遺』
『今昔物語』
『赤染右衛門集』
『閑居之友』
『元亨釈書』
『続古今集』
『小倉百人一首』
『大鏡』
『赤染集』
『寂心上人伝』
『梵網経』
『楊億の談苑』
『温公詩話』『詩話総亀』
『丁謂集』『天香伝』
『東軒筆録』
大江音人 ┬─玉淵 ──朝綱
├─千里
├─春潭
└─千古 ──維時 ┬─重光 ──匡衡
└─斉光 ┬─為基
├─定基(寂照)
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│ 力寿
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├─成基
└─尊基
賀茂忠行 ┬─保憲
├─保胤(寂心)
└─保章 ──善滋為政
安倍晴明
菅原古人 ……道真 ……文時
藤原道長
│
倫子
平 兼盛
×
赤染時用 ……赤染右衛門
├──挙周
大江匡衡
2006.4.9
2006.4.11 修正
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンク・トランスレーションは自由です。
内容の誤りはご容赦。指摘歓迎。
> 源順は、みなもとのしたごう だと思います。
ご指摘、ありがとうございます。
Posted by: しだ at 2006年04月11日 22:52