2006年04月29日

 スレイヴ

スレイヴ
パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語
畑仲哲雄

はじめに

 大阪の中小企業で、課長になったばかりの亀井遠士郎は郊外に家を新築したのだが、妻と娘の反対で、書斎を持つことを許されなかった。このため亀井は、部下の薦めで手のひらに乗る小さなパソコンを買った。それを書斎にしようというのだ。
 亀井が書斎を持とうとしていたのは、マスコミで活躍している大学時代の同級生・ジェリィ平賀をギャフンと言わせる、本質的で普遍的な何かを書くためだった。

 息つく間もないストーリー。まるでRPGのキャラのように、亀井はコンピューターから経済、生物学、ジャーナリズム、文学、法律、歴史、哲学、思想という各種アイテムでパワーアップされてゆく。抱腹絶倒のコメディ、怒涛のカンフーアクション、疑惑と裏切りのサスペンス、耽美なロマンス、美しい家族愛…。あらゆる要素を凝縮した深い内容と、最後に待ちかまえる大ドンデン返し!「ソフィーの世界」より勉強になり、「百年の孤独」ほど難解でなく、「アルジャーノンに花束を」より涙を誘い、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」より切なく、「人間失格」より元気が出る。小説のスタイルを取りつつ、面白くてタメになる現代人必読の文明批評と言えよう。

図書カード:No.747
http://aozora.gr.jp/cards/000144/card747.html
 
 
 

無断転載版

ACT 1

SCENE 1

 −−とくにジャンルはない。

 漆黒の画面に、ぼうっと浮かび上がる電子の文字列をいとおしそうにしばらく見つめてから、カチっという音とともに、ソイツを閉じた。
 まえの晩からあれこれ考え抜いたあげく、亀井遠士郎は、けさ出がけにたった一行、そう書いた。
 書き出しなんて、どうでもいいさ。深刻になったって、前に進むもんか。下手くそなところは、あとから書き直しゃいい。紙に書いたものと違って、コイツならいくらでも手直しがきくんだから。
 そんな独り言をつぶやいた瞬間、激しい揺れと圧迫が、これでもか、これでもか、と亀井を襲う。乗車率三〇〇パーセントを超える車内の空気は、人々の呼気で湿っぽく生温かい。酸素も不足気味だ。
 地下鉄という乗り物には悪意などない。そんなことは乗り合わせているサラリーマンやOLも先刻承知だ。原因はどの企業も同じ時間に仕事を始めるということである。鉄道会社がいくら時差出勤を呼びかけたって、一介の勤め人がああそうですかと二時間遅れで出社するなど許されるはずがない。
 ただひたすら運ばれる。勤め人の朝一番の仕事は、それだけなのだ。苦しいのは自分だけじゃない。そう思うと、亀井は肘や膝の力を抜き、人々の迷惑にならないよう努めるのであった。
 いだだッ。
 亀井の足の甲に激痛が走る。革靴の足の甲に、ハイヒールの踵が刺さっている。
 わっ。
 頭をのけぞらせた途端、異臭が頬を撫でる。ニンニク健康法のオヤジの不快な吐息が寄せては返し、鼻がもげそうになる。
 うぐぐぐぐ。
 しっかりせい。あと四駅、あと三駅…、もう少しの辛抱だ。
 そう自分に言い聞かせ、押しつぶされそうな自分の体に無機質な機械であれ、と命じる。
 ようやく地下鉄は御堂筋線の本町駅に着いた。ドアがきしみながら開く。
 これが運送トラックなら違法積載で反則切符だぞ、ばっきゃろめ。
 いつもの言葉をいつものようにつぶやきながら、眉間にしわを寄せた亀井は吐き出される。
 地下の通路はアリの巣並みに混み合っていて、人を縫って進むのに骨が折れた。狭い通路を数珠つなぎに進むサラリーマンとOLの群れは、さしずめ兵隊アリの隊列で、そんな中に亀井もいるのだ。
 ただ、けさの亀井の表情は、普段より心なしか穏やかだった。なぜなら、亀井はソイツを、胸の前で大切に押さえていたからだ。
 ソイツというのは、姉小路無線の手のひらパソコンである。風呂に入るとき以外は、肌身離さず持ち歩くことにしていた。そうし始めたばかりだ、と言ったほうが正確だ。
 重さ三〇〇グラム足らず、横一七・一センチ、縦八・四センチ、厚さ二・二センチと、コートを型崩れさせるには十分なサイズではあったが、むしろ、その胸の膨らみを誇らしく思った。
 コートのポケットにしまった手のひらパソコンを上からなでると、眉は八の字になり、唇がつり上がる。
 正解だったな、コイツを買ったのは。亀井はひとりごちた。
 行列に加わったまま階段を上り終えると、ようやく日の当たるオフィス街に出た。少々ほこりっぽいが、ようやく肺いっぱいに空気を吸い込める。ふと、亀井はコートの内ポケットから姉小路無線の手のひらパソコンを取り出した。歩きながら思わずソイツを開いてみる。
 歩く書斎か。おお、これも悪くないぞ。
 小さな手のひらパソコンのおかげで、長らく続いてきた朝のしかめ面とは、これでお別れだなという予感があった。
 それにしても、自分がパソコンを使うことになるなんてなあ。つい一週間ほど前まで、そんなことは夢にも思っていなかった。しかも、よりによってノートパソコンよりも小さい手のひらパソコンときたもんだ。会社で女子社員が伝票処理をしているデスクトップパソコンさえ触ろうとしなかった自分が、いきなり小さいやつをさりげなくコートの内ポケットに入れて歩いているのである。胸の奥で、なにか新しいことが起きそうな期待がうずく。ヨォーシ! という気分なのである。
 それもこれも、門土知安に強引に勧めてもらったおかげなのだ。
 「そら、スレイヴしかおまへんがな!」そんな門土の言葉が蘇ってくる。


SCENE 2

 スレイヴというのは、亀井のコートの内ポケットに入っているパソコンの商品名であり、かつての部下、門土知安から強引に買うように勧められたものだ。
 ちょうどひと月ほど前の晩だった。亀井は、なぜだかわが家に直行するのが気が進まなかったものだから、門土を飲み屋に誘った。
 営業二課からシステム保守課という何をやってるのかよくわからない部署に飛ばされた門土が、そこで機嫌よくやっているかどうかも訊ねてみたかった。
 その夜、門土は紺ブルゾンにジーンズ姿といういかにも技術社員らしい姿で暖簾をくぐってきた。そんな門土を見たとき、亀井は少し寂しい気がした。
 亀井の頭には、会社の屋台骨を支えているのはやっぱり営業だという思いがある。営業から外される。それはきっと寂しいことに違いない。もし自分がほかの部署に飛ばされでもしたら、うまくやっていけるだろうか。不馴れな仕事を覚えなければならないのもさることながら、なんというか、その、プライドを傷つけられるんじゃないだろうか。そして、門土の心の中にも、そんな痛みがあるのではないか。できることなら、門土を再び営業二課に戻してやりたい。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、門土は背広を着ていたころと全く変わらず、暢気というか、ひょうひょうとしていた。まずビールで乾杯をしてから、亀井はシシャモをかじりもって、それとなく新しい職場の居心地を訊ねてみた。
 「そらサイコーですわ。まっ昼まから機械で遊んでられるんですから」
 門土はからし明太子にタバスコをふりかけたものを箸でつつきながら笑ってみせる。
 無理しとるんじゃないかな。コンピューターなどを触って、いったいなにが面白いというのだ。無理はいかんぞ、無理は。
 たしかに門土の営業成績は悪かった。弐志和彦部長から使いものにならんという烙印を押されたのは無理からぬことなのだ。だが、こいつは妙にまっすぐなところがあり、話をしていて飽きない面白い男である。できれば長い目で見てやりたい。そんなふうに亀井は考えていた。
 しばしの沈黙が訪れる。営業に戻りたくないか、みんなと一緒に背広着て、アタッシュケース持って… そんな言葉を切り出すべきかどうか亀井が迷っていたとき、門土が先に口を開いた。
 「で、書斎のほうはどうですのん」
 七味唐辛子で真っ赤になった冷や奴をパクつきながら門土は、逆に、心配そうな顔で亀井をのぞき込む。
 「おお。それは、ちょっとな」はからずも亀井の動きが一秒ほど止まる。
 門土はきょとんとしていた。それもそのはず、亀井が郊外に家を買うことになったとき、門土を前にして、俺もいよいよ書斎を持てるのだと、少々誇らしげに話したことがあったのだから。
 しかし亀井は、結果的に、書斎を持てなかった。いや、持たせてもらえなかったのだ。それもこれも……
 「ほら、二階に六畳間が二つあって、ひとつは娘さんの勉強部屋で、もう一つがカメさんの書斎になるんや、て言うてはったですよねえ」
 そうだ。そうだよ。その通りだ。書斎を持つってのは、長年の夢だったんだ。随筆のようなものを書いてみるのもいい。文学や哲学、思想といったものに本格的に触れてみたい気もする。仕事一筋だった自分の人生に欠けていたものを、そろそろ取り戻してもいい頃だ。別に仕事が嫌というわけではない。仕事を通じて得られたものは大きな財産に違いない。だが、それだけで得られないなにかを、書斎という自分だけの空間で模索してみたかった。それもこれも……。
 「いっぺん、書斎とやらにお邪魔してみたいなあ、ボカぁ」
 そうさ、それもこれも……、みんなアイツのせいだ。アイツさえ余計なものを書いていなきゃ。そんな思いが脳裏をかすめ、亀井は体を硬直させる。
 亀井がアイツというのは、学生時代に同じゼミにいた男である。卒業してから長らく忘れていたのだが、妻が購読している雑誌に、なんと、アイツが、風水とかいう占いコラムを連載していて、妻と娘がそれに染められてしまったのだ。女どもは熱に浮かされたように、何冊もの風水本を読みあさり、アイツの説く風水ライフに突入した。結果、書斎になるべき部屋を奪われてしまったのである。
 「ねえ、カメさん。カメさんったら」
 なんて野郎だ。ちくしょう。あるときはジャーナリスト、またあるときはエコノミスト、はたまたあるときはエコロジスト、と次から次へ肩書きを変えてブラウン管の中ではしゃぐ軽佻な姿は、学生時代からちっとも変わっちゃいない。人に調子を合わせる能力には長けているが、いつも小狡く立ち回るだけ。他人が汗水流した成果を自分の手柄にする奴で、卒業前にはゼミでも自治会でもすっかり鼻つまみ者だった。
 そうした細々としたことを思い出すうちに、亀井はのどを越すビールがいつもより苦く思えた。
 「実はな…」亀井は門土にそんないきさつを愚痴っていた。
 「なんや、そんなことがあったんですか」門土は練りワサビと練りカラシをスプーンで舐めながらにやりと笑った。「ほな、どこでも書斎を買いましょか」
 「どこでも書斎って、その、駅弁の売り子みたいな格好しろっつーのか」
 「いーえ、HPCとかPDAとかいわれてるヤツ、つまり、手のひらに乗る小さなパソコンのことですよ。僕んとこ、1Kのアパートやから、書斎なんてないんですけど、これで十分ですよ、これで」
 門土はそう言って胸の内ポケットからそれを出すと、手のひらの上に乗せた。
 「なーんだ、ザウルスか」
 「いーえ。あれは電子手帳。僕がいってんのは書斎です。僕なんか、これだけですよ」
 門土の仕草は、ずいぶん前に、竹村健一が眠たそうな顔で宣伝してた手帳のCMの、それだった。亀井は吹き出しそうになったが、その晩は、姉小路無線の「スレイヴ」について、門土にプレゼンしてもらった。
 専門用語をすっとばして聞いている限りでは、その小さなパソコンには、ワープロや表計算、それにパソコン通信の実用ソフトなどがぎっしり詰まっていて、やりようによっては国語辞典や英和辞典といったものも使えるうえ、世界中のあらゆる情報を取り寄せられるという。とにかくそんな夢のような機械だそうだ。
 「もー、これしかおまへんわ。僕なんか、電車の中でも、ベッドの中でも、便所の中でも、いっつも一緒ですから」
 亀井は苦笑せざるを得なかった。それくらいの熱意で仕事をしていれば、システム保守課などに飛ばされることもなかったろうに。

 そんなことを思い出しながら、亀井は会社へと急ぐ道みち、スレイヴのふたを開けてみた。
 画面は、まだあの一行が表示されたままで、文末でカーソルが点滅している。

   −−とくにジャンルはない。   
  
  
  


SCENE 3

 亀井の勤め先は古くさい会社で、中間管理職は朝礼でなにか適当な訓話めいたものをしゃべらなければならない。それは歳月を経て何十人もの課長の足で踏み固められた動かし難い慣例となっている。
 最近でこそようやく馴れてきたものの、課長になってしばらくの間、亀井は自分がくだらない人間に思えてたまらなかった。景気がどうの、経営環境がどうの、そんな説教してどうなるってんだ。トフラーやドラッカーがどうした。長谷川慶太郎が、日下公人が、堺屋太一がなんぼのもんだ。ウォルフレンが書いてることに心痛めてるヒラ社員なんているもんか。
 目ヤニをためたままでも、どうにか出社してきてくれる部下に感謝の念さえ抱く亀井である。朝っぱらからカツを入れるなんて、できっこないのだ。
 リーマン生活十八年の亀井が自信を持っていえるのは、ただひとつ。朝は眠い。それだけだ。
 きょうも元気にガンバロー、なんて唱和をするくらいなら、日計産業新聞を読んでるほうがマシですよ−−。もう何年も前のこと、前任課長の弐志和彦に直談判したことがあった。
 若い社員の提言が職場を活性化させるんだ。だからどんな些細なことでも言ってくれたまえ。わが社は風通しの良い会社なんだからな。そう言ったのは弐志だった。しかし、亀井の提案に、弐志は厚ぼったい唇に笑いを浮かべて言った。
 −−ええ話聞かせてもろて、おおきに。
 次の朝から、亀井は唱和に参加せずひとりで日計産業新聞を読むよう命じられた。若気の至りだった。言葉通りに信じた自分が甘かった。ウブだった。青かった。ガキだった。青かった。亀井が弐志に「わたしも唱和に混ぜてください」と泣きついたのは一週間後のことだった。そんな時代もあったが、そんな俺が朝礼でしゃべってるんだものなあ。
 「や。おはよう。えー、いわゆる、その」無表情の部下たちがこっちを向いてぼーっと立っている。「景気は足踏み状態です。足踏み、ね。おぃち、にっ、おぃち、にっ。ねっ。経済企画庁の景気動向指数が一年以上も五〇パーセントを割り込み、通産省の鉱工業生産指数]も長らく低迷しておりまして、日銀短観もぱっとしません。財界は政府に対して法人税率の引き下げと追加的景気対策を声高に要求するにいたり」
 ネタがないときはとりあえず日計新聞の請け売りだ。むろんカマシである。しゃべってる亀井自身、よくわかってないのだ。景気情勢に続いて業界動向というのが、お決まりのパターンである。
 「で、ありまして、ひところは羽振りの良かった金融・証券、ゼネコン業界など、いまや見ちゃおれません。バブル時代の過剰な不動産投資のツケで、小さな会社から大きな会社までバタバタと潰れております。本当ですよ、そりゃ、もう、バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ」
 そして業界をリードする大企業、つまり自分たちの親会社へのゴマスリもさりげなく織り込む。親会社からの出向社員に向けたリップサービスである。
 「しかしながら食品業界というのは、誠にもって堅実でありまして、それもこれも業界のリーディングカンパニーがしっかりしておるおかげですが、昨今は人々の健康志向や地球環境への関心の高まりもあり、星永食品グループの一員たる我らも、決して安閑とはしておれません。できればグループの中で、小さくともキラリと光る存在になる必要があります。冒頭述べましたように、景気情勢は先行きが見えませんが、こういう時代だからこそ営業二課も一致団結してですなあ、この難局を乗り切らねばならんのだよ! っちうことですわねえ」
 と、そこまできて、亀井は、ウム、と軽くうなづいてみせる。準備はいいですか、いきますよ、という合図である。そして、締めくくりの儀式へとなだれ込む。
 きょうもガンバロー! 亀井が右手で拳を突き上げる。
 「がんばろ〜」部下のふにゃふにゃした声が続く。
 きょうもガンバロー! 亀井はちょっと大きめの声をあげる。
 「がんばろ〜」部下たちの声が心なしか大きくなる。立ったまま居眠りしていた部下が目を覚ましたのだろう。
 小さくともキラリと光る。朝礼ではそう言ったが、亀井の勤め先はかつては全国に名前を轟かせた菓子メーカーだった。まだ大阪が商業の中心だった一九六〇年代のこと、テレビCMにカワイ子ちゃんを起用したことだってある。しかし近代経営を知らない創業者が占いに凝って二度の不渡りを出し、つながりがあった総合食品メーカー星永に救済を仰いだのだ。いまでは華やかな洋菓子など作らせてもらえず、サバ味噌煮缶詰やハムスターの飼料などを星永ブランドで細々と製造販売させてもらっている。小さくともキラリと光る可能性はほとんどないのである。
 「カチョー、お電話です」
 「おお、回してくれ」
 「カチョー、報告書できました」
 「おいおい、なんだ、これ。漢字も知らんのか。書き直しだッ」
 亀井は午前中、たいてい社内にいる。社内の連絡事項を確認したり、新規開拓した取引先に様子うかがいの電話を入れたり、孫請けや曾孫請けの会社から訪問を受けたり、とかく雑用に追われ続けるのだ。
 「カチョー、お客様です。やわらか銀行の祖さんがお見えに」
 「おお、買い物狂いの若ハゲか。よっしゃ、いちおう応接室に通せ。コーヒーはいらんぞ。うんと薄い番茶でかまわん」
 気楽な稼業ときたもんだ〜などというノリではやっていない。仕事は熱心にしてきたつもりである。右上がりの成長神話は吹き飛び、終身雇用や年功序列も崩れた。定年まぎわの肩たたきも珍しくない。だからこそ、亀井はそれなりに楽しもうともしている。豪快がうりものだった前任課長には及ばないが、率先して明るく振る舞い、職場を楽しくしようと心がけてもいる。
 系列の下流に位置する小さな会社だが、規模が小さいからこそ、四十歳で課長にもなれた。処遇に不満はない。仕事を通じて勉強させてもらった。サバの味噌煮であろうとハムスターの飼料であろうと、ちゃんと世間様の役に立っている。濡れ手で粟のような人様から後ろ指さされるようなことはしていない。まっとうに生きてきたという自信だってある。
 なのに、アイツのようないい加減な野郎のせいで、書斎が持てなかったなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。ちっくしょー。
 亀井は机の片隅に置いていたスレイヴをそっと手に取る。そして、ブルーグレーのボディを撫でてみる。
 こいつでもって書いてやる。まっとうに生きてきた者が共感できるなにかを。ちっくしょーめ、目にものみせてくれるわ。
 と、視界の隅に人影が浮かび、近づいてきた。
 「へっへっへっ。見てたんですよ、後ろから」
 顔を上げると、門土の姿があった。駅を出て会社までの道みち、ソイツを開いて独り言をつぶやいていた俺に声もかけず、後ろからながめていたのだという。
 「ハマってきましたね、カメさんも」いじめっ子のように門土は口元を歪める。
 「おお、なんだな、その。そう、すこぶるだ。うむ、すこぶるいいな、こいつは」亀井の口元が緩む。
 「どうだ、昼でも一緒に」
 「ええっすよ。堺筋にエスニックのバイキング見つけたんですわ」
 「辛いやつか。よし、それもよかろう」
 「ごっつ辛いっすよ」
 「のぞむところだ。正午過ぎに迎えにきてくれ」
 門土ほどでもないが、今のご時世、営業二課にもパソコンの使い手は、いるにはいる。ただ残念ながら仕事の効率を高めるほどの使い手ではない。たとえば、窓際に座っているサル顔の嵩山。「旧八」とかいうのを長年使っておるそうだ。そういえば掘多もやっとる。だが、あれはいかん。アメリカに語学留学したというのを鼻にかけて「だすびぃー」だか「うぉーっぷ」だか、わけのわからん言葉を使いおって、嵩山をしょっちゅうからかっとる。
 いや、嵩山のほうも大人げない。掘多に向かって、ウォーム真理教の友だちがいたことを罵ったりするのも、ちと考えもんだ。
 「おい、掘多に嵩山、ちょっと来い」
 二人が雁首そろえて亀井の前に立った。
 「お前らに頼みがあるんだが」亀井は二人に注意したのは、伝票のフォーマットを統一しろということだった。二人とも好き勝手な書式で伝票を書くもんだから、OLたちが困ってるじゃないか、と叱りつけた。
 午前の仕事が一段落したところで、亀井はスレイヴのスイッチを入れた。またもや黒い画面に白い電子の文字が現れる。カーソルが、ご主人様の命令をひたすら待っておりますといわんばかりに、けなげに点滅している。

 −−とくにジャンルはない。
 はて、この続きをこれからどう書き進めるかだな。


SCENE 4

 堺筋にできた「キルドール」というエスニック料理の店は、千円の昼バイキングを出していた。扉には、スポーツカーやら小型飛行機のポスターがべたべた貼ってある。店主の趣味なのか。妙な雰囲気である。
 店に入るなり強烈なスパイスのにおいが鼻腔をつき胃酸がどっと湧き出た。漬け物は真っ赤なキムチ、スープは煮えたぎったタイのトムヤムクン、チキンは真っ黄なタンドリー、カレーは南インドのしゃぶしゃぶしたタイプと、アジア多国籍料理の店だった。
 「きょうみたいに寒い日は、スパイスに限りますね、カメさん」
 「おお、あくる朝、肛門がズキズキしたってかまうものか」
 そんな言葉を交わしながら、ワゴンにある辛そうなものばかりを大皿にテンコ盛りにして、二人はテーブルに戻った。
 いざ食わん。
 手始めに、軽い気持ちでカクテキをかじった途端、亀井の舌に、錆びた金串が貫通したような痛みが走った。
 つつつつつ。
 あわててシニガンというスープをすすったが、赤ピーマンに見えていた野菜は唐辛子で、その味は筆舌に尽くしがたかった。喉がやられて声を上げられず、腕と膝が震えだした。痛いのだ。すでに辛いを通り越している。頭に汗がにじみ、刈り上げのすそに汗が流れてひんやりする。
 くくくくく。
 やせ我慢はいかん、リーマンは体が資本だ。そんな説教を門土にしてみたいと思うのだが、顔の下半分の感覚がバカになっている。
 隣のテーブルでは、喉に手を当てて苦しむ赤ら顔の男や、腕をぶるぶる振るわせながら食い物を少しずつ口に運ぶ涙目の女がいる。だが、門土といえば、見てるだけで舌が焼けそうな熱々のトムヤムをガブガブすすり、テーブル備え付けのガラムマサラと唐辛子を、肉や野菜にドバドバ振りかけて涼しげな顔でパクついてやがる。
 「そだそだ」
 門土が思い出したように顔を上げた。
 「カメさん。辞書、いりません? デジタルの辞書
 「へひはふのひひょ?」
 「そそ、デジタル辞書。書斎には辞書が付き物ですし、ちょうどええわ、いまコピーしましょ」
 そういうと門土は、自分と亀井の二台のスレイヴをちょこちょこっと操作してから、並べて置いた。
 「これでよし。二十分くらいで済むでしょ」
 そういうと門土はデジタル辞書の説明を始めた。
 「辞書って分厚くて重たいじゃないっすか。二キロ超すのなんてザラ。とてもカバンに入れて持ち歩くなんて無理でしょ。けど、デジタル化したら、何冊もの辞書がコイツにすっぽり収まるんですわ」門土は、かじりかけの青い唐辛子でスレイヴを指し示す。
 目に涙を浮かべる亀井は、聞いているのがやっとだった。
 門土は二台のマシンのファイル転送プログラムを起動して、赤外線通信をやるのだという。ただ、赤外線といっても、遠赤外線コタツのような大げさなものではなくて、ようはテレビのリモコンのような方式で信号をやりとりするのだそうだ。亀井にはさっぱりわからない。
 「ほーはっへふひょ?」
 「どーなってるのか、ちうと、ファイル転送プログラムの『融通ネエちゃん』っての使ぅてるんです。ほら、キーボードの青いキーがあるでしょ、ここ、この上の方に。その一番左のやつを押したら、『融通ネエちゃん』の画面になるんです。稲光が走ってる絵柄のキーね」
 スレイヴの画面にはファイルが次々とコピーされていることを示す表示が現れた。パーセントの数字が刻々と変わり、上から順に
 「100% ばっちりいただき!」
 となっていくのを見て、亀井はどぎまぎした。門土のほうの画面には
 「100% もってけどろぼー!」
 という文字が出ていた。門土のスレイヴを、目に見えない赤外線で亀井のスレイヴとつないで、デジタル辞書をコピーしているらしい。
 亀井のマシンがコピーしてもらっているのは、石波書店と四省堂の国語辞典、そして、民主国民社 『現代用語の応用知識』、昼日新聞社 『知恵増』、それから平本社の 『マイペダル百科事典』だった。
 「興味あったら画面、見てくださいよ、どすならではの画面ですから。ね、いいですか。まず左側からCopyちう命令があって、次に目的のファイルの名前。そんで、それをどこへコピーするかという場所。これって、英文法と似てるでしょ。動詞+目的語+前置詞みたいに。コピーしろ+辞書を+どこそこに。これがどすの文法なんですわ。別に難しぅないでしょ。ただのどすですから」
 「……」亀井はひたすら水をがぶ飲みしたが、口の中はおさまりそうにない。
 「ファイル転送プログラムの『融通ネエちゃん』を使うと、そんなファイルのコピーができるんです。なんてっても、こいつ、どすですからね。やっぱり、どすでよ。どす、へへへ、どすどす」
 そうか。やっぱりどすか、どすだもんなあ、道理で気合い入っとるわな。そんな感想を言いたい亀井だが、香辛料でしびれた口では、まともな発音はできない。
 どす。ドス。DOSU…。むかしどこかで聞いたことがあるが、それがなんのことだか、わからない。そんなわけのわからない単語が飛び出したところでファイルのコピーは完了した。
 門土もようやく食べ終わり、帰りにお茶でも飲みましょうと訊ねる。
 亀井の顔がにわかにひきつるのを見て、門土は笑った。「辛くない喫茶店ですよ」
 キルドールの隣にある 「ナード」という安っぽい喫茶店に入るなり、門土はストロングというとびきり濃いやつを注文した。
 亀井は口がきけず、ウエイトレスに哀願のポーズでメニューを指さす。
 「最初とっつきにくいかもしれませんけど、おおえすのことくらいは知っといたほうがいいと思うんですわ」
 そんな門土の言い方が、亀井にはちょっと生意気に映った。次から次へとわけのわからない言葉を平気で使うからだ。だが、たくさんの辞書をもらった手前、大人げなく怒るわけにはいかない。
 亀井はミルクココアでバナナチョコクレープを流し込み、ただ黙ってうなづいていた。
 「勉強せんといかんのかな」
 「基本的なことはね。ほら、自動車の運転も、エンジンがどんなふうな仕組みなのか理解して、交通法規も覚えないとだめでしょ。マージャンだって役の作り方と点数計算を知らなきゃ遊べない。パソコンもいっしょですわ」
 「しかしだ」亀井は手元の週刊誌を開いて見せる。「この広告もそうだし、地下鉄の中吊り広告とか新聞広告でも、パソコンは簡単便利だと書いておるではないか」
 「そんなん大嘘に決まっとるやないですか。ほんまに簡単だったら『簡単じゃねえか』なんて宣伝しません。やめてくださいよ、弐志部長みたいにパニックになるのは」
 そういうと、門土は弐志部長から夜であろうと休みの日であろうと、お構いなしで呼びつけられていることを、こぼすのだった。
 メーカーのヘルプ電話は平日の午後五時に打ち切られる。世のオヤジが仕事から帰って、わが家でパソコンの電源を入れたときにトラブってしまったら弐志部長に限らず、だれだってお手上げなのだ。それに、いま売られているパソコンなんて、テレビ並みに使えると思ったら大間違いだと門土はテーブルを叩いた。
 「ある程度のこと、基本的なところは押さえておいた方がええのです。どすとかおーえすのことは」
 「いったい何なんだ。どすとかおーえす、というのは」
 「よろしぃですか」門土はテーブルに両手をついて小鼻を膨らませながら説明を始めた。
 門土はコンピューターを電子計算機と言い換えた。つまりソロバンのおばけだ。
 ソロバンなら亀井にもどういうものかわかる。五を意味する玉がひとつと一を表す玉が四つ、縦に並んでいて、十進法で桁が繰り上がるやつである。
 だが、電子計算機はオンとオフ、つまり、0と1の二進法で計算している。つまるところ電子計算機はスイッチのオンとオフを猛烈な速さで繰り返しているのだ。でも、いくらなんでも、そんな原理から説明してもらっていたら時間がいくらあっても足りない。
 「かい摘んで話せんのかね」
 亀井は不平を言ったが、門土は気にせず続けた。
 「計算機の内部には、二進法で計算する集積回路が詰まったチップがあって、計算を命じるには機械語で指示せなあきません。でも機械語というのは、人間の言葉とはずいぶんかけ離れてまして、こんな言語を覚えるのはメッチャしんどい。んで、機械語を人間の言葉に近いような形に翻訳する方法が開発されたんです。それがコンピューター言語というやつです」
 「そいつが、どすとかおーえすだな。わかった、もういい」亀井は貧乏揺すりを始めた。
 「いえいえ違います。もうちょっと聞いて」門土は妙に嬉しそうに説明を続ける。「いくら立派なコンピューター言語ができても、素人にとってまだまだ面倒なんです。言語というのはいくつもあってですね、ベーシックというのは比較的簡単だけど複雑なことをさせるのには向いていないとか、フォートランというのは統計処理にはめっぽう強いけど習熟するのが難しいんです。ま、どいつもこいつも一長一短がある。そんないくつもの言語を一括してまとめようという手段が必要になって、オペレーティングシステム、略してOSが考えられたんです。つまりOSってのは、人間がコンピューターを扱うときの中央指令室のようなものなんです。こいつのおかげで、機械的思考じゃなくて、人間的思考でコンピューターが扱えるようになったんです」
 亀井は、唇の端に付いたホイップクリームを親指でこそぎ落として指を舐めていた。眉間に苛立ちの縦じわがしっかりある。
 「ね、原理がわかると取っつきやすくなるでしょ」門土はコーヒーを一気飲みする。「車にたとえるとOSは運転席みたいなもんです。わざわざエンジンのところに行って回転数を調節したり、レンチ使って変則ギアを取っかえひっかえしなくても、アクセル踏んだりクラッチ操作したりするだけで済むんです。んで、DOSちうのは比較的普及したOSの一つで、最初はちょっぴり取っつきにくいかもしれないけど、COPYとかDELとか全部で十ほどの命令さえ覚えとけば、ずいぶん応用がきくんです。それと、OSってのはひとつのプラットフォームだから、それに合ったさまざまなワープロや表計算、通信ソフトといった実用ソフトやゲームソフトが次々次々次々次々次々次々と作られたんです」
 「さぁて、もう気は済んだかな」亀井は伝票を手に席を立とうとする。わけのわからんことばっかりヌカシおって。そんなことには興味はないのだという顔つきになっている。
 「えー、カメさん、なんも聞いてくれてないんですか」
 「たわけ。一〇〇パーセント理解しておるわ。ざっくりいうと、OSっつーのはお経だ」
 「…はぁ」門土の顔には一瞬失望の色が浮かぶ。
 「お前は出家修行者だから、お経も読めるんだろうけど、俺みたいな在家信者はそこまで覚えることはないんだ。だけど、その、それはありがたいことなんだ。そうだ、そういうことを知ってるだけでいいんだろーが」
 「うー、わかりました。んなら、お経にたとえましょ」門土は特濃コーヒーをお代わりする。「釈迦は悟りを開いたけど、それを人間の言葉で説明することができなかった。機械語だから。そんなもんだから、釈迦は弟子たちに二進法であれこれと説明したけど、弟子はバカだからコンピューター言語でそれを理解しようとした。その言葉ならなんとか分かりそうな気がしたから。でもコンピューター言語ってのは出家して修行している弟子にしかわからん言葉で、無知蒙昧なカメさんみたいな民百姓にはちと難しい。そこで、弟子たちがお経や念仏や仏教説話を作った。それがOS。これでどうです」
 「そろそろ仕事に戻らんとなあ」
 「ようするに、OSはお経全般のことで、DOSというのは特定の宗派のお経というふうにも考えられます。きょうからカメさんはDOS宗の門徒になったということですよ」
 「そーらみろ、やっぱOSはお経じゃないか」
 「ま、お経でもいいです。だけどカメさんだって、きっとお経を使うことができ」
 「みなまで言うな! DOSとOSの関係で俺の頭はいっぱいなんだ」
 亀井はスレイヴを胸のポケットにしまったとき、さっき門土からコピーしてもらったデジタル辞書のことを思い出した。
 「おお、そうだ。きょうもらった辞書の代金だけど、ちゃんと払うからな」
 「いいですよ。ただであげます。公園のごみ箱で拾ったもんですから」
 やっぱり何を言っとるのかさっぱりわからん。デジタル辞書がなんで公園に落ちてるんだ。あー、わからん。さっぱりわからんぞ。ちくしょうめ。
 弐志部長とまではいかないが、そうした言葉をさらりと言われると、ムッカーとなる亀井であった。




ACT 2 にすすむ見出しにもどる

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 講談社オンデマンドブックス

ブック・オンデマンドという技術を耳にしてから長い年月が経つ。で、それはどうなったんだろう? 出版社は在庫切れを無くすべく積極的にこの技術を採用しているんだろうか? 在庫を持たない、絶版なしの夢のテクノロジーはどこへいってしまったのか?

唯一、積極的にブック・オンデマンドを取り入れている出版社として新潮社がある。ウェッブの書斎では新潮社のオンデマンド本を買うことができる。

と、自分の知識はそこまでで、その知識もいったいいつ仕入れた情報なのかもわからないほど昔のこと。その後、ブック・オンデマンドがどうなったかなんて、まったく注目していなかった。

ここにもう一つブック・オンデマンド・サービスがあることを最近知った。講談社、小学館、富士ゼロックス、マイクロソフトが出資して設立したコンテンツワークス株式会社のブック・オンデマンド。その中の「BookPark」では、主に文芸系のオンデマンド本を買うことができる。

なぜ、このようなサービスを知ったかというと、「講談社オンデマンドブックス」のホームページ立ち上げを手伝ったからで、そんなことをしなければまったく知らなかった。つまり、まだまだ「BookPark」の認知度が低かった。誰も、ブック・オンデマンド自体に注視していない。

そこで、なんとか世間の注目を浴びようと、「講談社オンデマンドブックス」では、中高年に向けて文字を大きくして印刷する、ということに重点ポイントを置いている。文庫本の文字よりもやや大きめの「通常版」と、12ポイントもの大きさの「ワイド大活字版」の2種類を用意している。1冊から製本・印刷するが故に、普通の単行本よりも若干高めの定価設定になってしまうが、このような付加価値があれば、その割高感が少しは薄まっているんじゃないかと思う。

まだまだタイトルが揃ってない感じは否めないけど、講談社といえば文芸系が強く、講談社文芸文庫にあるような作品がこのブック・オンデマンドのラインナップに載っていけば、素晴らしいラインナップになるんじゃないかと期待してしまう。

今後、たまには「講談社オンデマンドブックス」を覗いてやってください。

講談社オンデマンドブックス

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2006年04月22日

 「音声化された青空文庫リンク集」更新

ありゃりゃ、コメントができない。
てなわけで、恐縮しながらこちらに書きます。

音声化された青空文庫リンク集

ひとつ前のagさんの記事を受けて、さっそく「フジポッド文庫」を追加し、さらにポッドキャスティングを色々と追加してみました。

佐々木健さんの「STORYTELLER BOOK ポッドキャスティング by 心尽」では、私が訳した「赤毛連盟」の配信が始まったみたいで、とっても恐縮です。あわわ。そういえば、光文社文庫で日暮雅道さんの新訳シリーズが刊行されていますね。私は講談社青い鳥文庫(以前は講談社KK)に入っている訳が好きだったので(というか日本でいちばんまともな訳だと思っているので)、ちょっと期待しています。

アニメ「アイシールド21」の佐竹役(蛭魔妖一に脅されて助っ人するバスケ部員)で活躍中の河野清人さんは、「北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記」を朗読するという渋い選択。個人的には週刊少年ジャンプ連載中に佐竹がクローズアップされることを前々から期待しています。佐竹と山岡がアメフトに目覚めるのはいつなのか……

大きな情報としては、「桂木範・オンラインソフト工房」にてインターネットの電子図書館「青空文庫」の蔵書約3000冊を音声で聞くことができるソフト「音訳ネット文庫」が開発中とのこと。完成すれば「このソフトでは、本のデータの読み上げに必要なダウンロード処理、ルビ・踊り字の変換処理を自動化し、青空文庫にある多数の本を合成音声で読み上げることを実現」できるとか。期待です!

そんなわけで、更新報告でしたっ。

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2006年04月20日

 フジポッド文庫

フジポッド文庫

フジテレビのポッドキャスティング・サービス「フジポッド」の中の「フジポッド文庫」では、青空文庫のテキストを使って朗読が行われている。読んでいるのは、フジテレビの現役アナウンサー。

「注文の多い料理店」 菊間千乃アナウンサー
「どんぐりと山猫」 田代尚子アナウンサー
「さるのこしかけ」 木幡美子アナウンサー

朗読を聞くには、ここにある「フジポッド文庫」コーナーの「RSS Podcasting」アイコンをiTunesにドラッグ&ドロップするだけ。そしてiPodに転送。

iTunes

やっぱり現役アナウンサーだけあって、なかなか素晴らしい。通勤時間に聞くには最適かも。できたら長編作品も、章ごとに区切ってポッドキャスティングをやってくれたらいいんだけど。

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2006年04月19日

 世良修蔵

世良修蔵せらしゅうぞう

延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。 (松尾芭蕉『奥の細道』より)

 LUNA CAT さんから出羽を「いずわ」とも読むことを教えてもらって、ちょっとネットを検索してみたのであります。結果をつらつらながめたところ、どうも西日本・中国地方にかぎって「いずわ・いずは」という姓があるらしい。鎌倉期の武将に由来するという。東北には見あたりません。デワとイズワ。関連はありやなしや。そもそも羽が出るとは何なのか。弓矢の羽根のことか。羽毛のことか。それとも地形か。あるいは意味ではなくて音か。日本の地名には越や備や呉や肥のように、古い中国地名に由来するものが少なくありませんが。中国や朝鮮に出羽と関連する地名や人名があるのでしょうか。聞いたことがありません。中国で羽といえば、項羽、関羽くらいしか思いうかばないのであります。
 なんの脈絡もないのですが、デバが気になってこれも検索してみたのであります。出刃包丁のデバ。出っ歯のデバ。出刃包丁の出刃は、作り手が出っ歯だったことに由来するらしい。発祥の地は堺とある。堺、刃物、刀工。出っ歯といえば『ゲームセンターあらし』が、出っ歯で炎のコマを繰り出すシーンが頭から離れないのであります。
 
 じぶんで大江広元うんぬんとレスを書いておきながら、おどろいたのであります。気になって Wikipedia の吉田松陰と木戸孝允のページを開いてみたのでありますが、すると、木戸孝允きどたかよしが大江の家系だという一文が飛び込んできたからであります。
 木戸孝允(桂 小五郎)。正式な名のりは大江孝允おおえのたかよし。生家は藩医和田家。少年時代に桂家の養子となる。和田・桂ともに藩主毛利家からの枝分かれらしい。木戸孝允は大江広元へ通じるサラブレッドということになる。もちろんなかには、養子縁組が入るだろうから、血の系統というのはフィクションに近い。家系図の捏造などというはなしもめずらしくはない。けれども、行動の動機づけとしてはそれでも十分に機能しうる。よきにつけあしきにつけ。それが家系という物語フィクションの強さでもあり怖さでもあります。
 木戸孝允というと、どうも竜馬や西郷にいいところをとられて、正直あまりパッとした印象がありません。影が薄い。変装して逃げ回って、かろうじて生きのびているようなかっこわるさ。同じ長州なら、こころざし半ばで倒れた吉田松陰や高杉晋作のほうに華がある。それにしても。木戸孝允が大江広元につながるなど、これまで目にした記憶も耳にした記憶もありません。たんにぼくが知らなかっただけなんだろうか。まさかガセではないと思うのだけれど。まったくのノーマークでした。まさかこんなふうに連環してくるとは。逃げの小五郎。本性をかくすのがたくみであります。
 幕末当時の毛利藩主、敬親たかちかは天保八年(一八三七)に先代斉広まさひろの婿養子となって家督をつぐ。敬親にも実子がおらず、同じく毛利一族出身の元徳もとのりを養子にし、明治二年に家督をゆずる。敬親、五十一才。元徳、三十才。その二年後、敬親は没する。それにしても敬親たかちかは藩主でありながら、木戸に輪をかけていまひとつぱっとしないのであります。家臣にふりまわされて、幕府から征伐せいばつされ、欧米の連合艦隊からも痛めつけられ、大きな犠牲をはらう。そのすえに、大どんでん返しで倒幕の最大の功労藩となる。ところが敬親本人は「そうせい候」と揶揄やゆされたという身もふたもない人物なのであります。
 
 さて、世良修蔵せらしゅうぞう
 一八三五年、長州山口椋野生まれ。同年生まれには東征大総督で新政府の総裁となる有栖川宮ありすかわのみや熾仁親王たるひとしんのうや、薩摩の三島通庸みしまみちつね松方正義まつかたまさよし、会津藩主松平容保まつだいらかたもりがいます。
 奇兵隊の書記ののち、奥羽鎮撫総督府の参謀をつとめる。慶応四年閏四月十九日夜、福島城下の金沢屋にて遊女と寝ていたところを襲われる。襲撃したのは仙台と福島の藩士。同参謀・大山格之助(綱良、薩摩藩)あての書状が露顕したことから斬首。翌二十日寿川河川にて斬られる。享年三十四。斬殺されたのは世良修蔵のほか三名。墓が白石月心院に建てられる。
 長州といえば、吉田松陰・木戸孝允・高杉晋作……、と役者がいるものの、世良修蔵がクローズアップされることはかなりまれであります。最期が最期なものだからだと思うのでありますが、これまで薩摩や長州寄りのひとの口からも、世良修蔵の名を聞いた記憶がありません。小説でもワンパターンのごとく悪漢として描かれます。不遜な言動が多く、それが元で奥羽諸藩の反感をかったという。ちょっとこわい人相の写真が残っています。

 世良修蔵を演じるとしたら、だれがいいだろう。
 できたら、山口出身がいい。
 そう思って、Wikipedia の山口県出身の有名人一覧を見てうれしくなりました。三十才前後のタレント陣の層が厚いこと。ミュージシャンがまたいい。きわめつけは漫画家に格闘家。うらやましいかぎりです。幕末の志士の全員が現地調達で十分まかなえる。さらに女性陣が輪をかけていい。ひたすら妄想は妄想をよぶのであります。
 意外性ということでは、ここでは山崎まさよしをキャストしてみたいのであります。ひょうひょうとしてかつ、影を持ち、敵地で遊女とたわむれ、へべれけで三味をひく。沈降と狂気。世良修蔵の生い立ちをさかのぼると、月照の名が見えます。西郷隆盛とともに入水して月照だけが命をおとすのであります。 そだってきた環境がちがうから、価値観はいなめないのであります。

1868年(慶応四年)略年譜

 2月10日 庄内藩主忠篤ただずみ、江戸を立つ
 2月12日 慶喜、上野寛永寺へ入り謹慎
 2月26日 奥羽鎮撫総督軍編成
 3月5日 山岡鉄太郎、駿府駆け
 3月13日 西郷・海舟対談
 3月16日 桑名藩主定敬さだあき、横浜出港、越後柏崎へ
 3月17日 神仏分離令
 3月29日 庄内藩、寒河江柴橋代官所の年貢米を持ち去る
 4月2日 総督軍、天童に進出
 4月9日 会津藩、庄内へ使者送り、同盟結成
 4月11日 江戸開城
 4月24日 薩長軍、庄内領清川を攻撃(東北で最初の戦火)
 4月25日 近藤 勇、斬首
 閏4月4日 庄内藩、天童攻撃。落城
 閏4月12日 奥羽鎮撫総督、謝罪書を却下
 閏4月19日 世良修蔵襲撃
 5月6日 奥羽越列藩同盟結成
 5月15日 上野彰義隊を攻撃
 5月19日 長岡陥落
 5月28日 輪王寺宮、白石に入る
 7月4日 秋田藩、同盟離脱
 9月8日 改元、明治
 9月22日 会津降伏
 9月26日 庄内降伏
 
 ◇参照
 『菅 実秀と庄内』安藤英男
 『戊辰戦争とうほく紀行』加藤貞仁

 江戸では慶喜が上野寛永寺へこもっている。庄内藩主酒井忠篤ただずみは、家臣とともに庄内へ引き上げる。四月に入って江戸無血開城となるが、奥羽では会津と庄内の討伐令が発せられる。
 よく、戊辰戦争は「薩長にはめられた」という言説を見聞きしますが、それは事実の半分ぐらいしか見ていないような気がするのであります。言葉の裏には「はめられたのだから、しようがなかったのだ」という言いわけが含まれている。戊辰戦争にしても太平洋戦争にしても、敗者の側からは受け身的な「はめられたのだ」という原因論が出てきがちですが、それは戦争責任の半分を回避する発言であります。
 戊辰戦争に先立つ慶応三年九月、庄内騒動といわれる事件がおこる。藩政改革派が藩主忠発ただあきを引退させて若い忠恕ただひろを立てようと画策する。ところが忠恕は病のため急逝する。享年二〇。くわだてが発覚して、改革派は一網打尽に処刑、藩論が佐幕に統一されるのであります。
 当時、どこの藩も佐幕か倒幕かで、内部の意見が分裂しているのであります。藩主は佐幕だけれど家臣はそうでないとか、家老の意見が対立しているとか、藩士や庶民の間でも温度差があったり。江戸詰めと藩元詰めの間でも志気にちがいがある。そういう浮き足だった「世論」を一色に統一してしまうのは、往々にして庄内騒動のような内部粛正しゅくせい、もくしは世良修蔵襲撃のようなテロ行為であります。戦争したがりやは、どうにかして社会を引きずりこもうとするのであります。死にたがりやも、どうにかして道連れを引きずりこもうとするのであります。引き返せないように追い込んで、あえて退路を断つのであります。

 とかく戦争では、佐幕か倒幕かとかテロか正義かといったように、大義名分がつごうよく持ち出されるのでありますが、本当のところはそういうイデオロギーよりも、労働人口と余剰人口、食糧の過不足、借財の多寡たかといった生活くさい要因のほうが強く働いているように思えるのであります。戦争が起こることで、国内の余剰労働者がかなり整理できる。食糧配給も助かる。インフレのどさくさにまぎれて借金もチャラみたいな。戦争特需があちこちに期待できるのであります。いいことずくめなんだから、周期的に適度にやりあってくれるとありがたい。火の粉のふりかからないところで。おそらくアジア諸国に「日本」への根深い不信があるとすれば、帝国統治に引き続き、漁夫の利を得てきたことをしらばっくれている態度にあるのであります。こっちが食えなくて腹をすかしているというのに、買いあさっては半分捨ててるような奴をだれが信頼できるだろうか。尊敬してくれというのがどだい無理な話であります。

「そなた、このあたりの子か」
そう訊いた和山わざんへ、子供はにこにこ笑ってみせた。町家の子ではない。おそらく山野辺家の侍の子ではあるまいかと思い、和山はあたりを見た。
 しかし、この子の親らしい者の姿はない。
(村上元三「慈恩寺十一勝」より)

◇参照:松坂俊夫『やまがた文学のある風景』みちのく書房、2000.8. p.110-)


 四月三日、村上元三、没。享年九十六。
 村上元三氏の作品はいずれも未読。山形ゆかりの作品として上記「慈恩寺十一勝」という短編があるらしい。村上氏が直接、寒河江慈恩寺へ訪れて取材した作品だろうか。初出は雑誌『大法輪』昭和55年6月号。『村上元三短篇集 蓮華草 上』(弥生叢書)に収録。葬儀は寛永寺輪王殿。

 鳥海山は葉山のかげになって、山形や天童からは見えない、というようなことを以前書きましたが、それを否定する新聞コラムを見かけましたので紹介しておきます。天童の北北西、直線にしておよそ130km。鳥海山がみえるとそのあと天気が悪くなるとの言いつたえが天童にはあったらしい。地図を見て確認すると、たしかに葉山の右肩をかすめるように見える可能性があります。執筆者は昨年何度か確認できたという(『山形新聞』2006.3.26)。
 
 慶応3年4月14日、高杉晋作が労咳ろうがいで亡くなる。享年二七。山岡鉄太郎が海舟の命を受けて駿府駆けをしたころが江戸の花見頃か。慶喜、輪王寺宮、覚王院義観、三人は寛永寺境内の桜を見たはずであります。
 閏4月19日は陽暦で6月中旬になるらしい。すでに初夏。その夜、 世良修蔵は金沢屋にて大山綱良あての書状を書き、その夜、遊女と寝入ったところを襲われる。世良を捕らえた仙台・福島藩士らは、書状のなかに「奥羽皆敵」の文字をみつけて、翌日斬首するのであります。世良が書状を書いたには違いなさそうなものの、ところどころ書き換えられた疑いがあるとする考察があります。偽造メールではないかという指摘であります。「奥羽皆敵」の四文字は後で書き加えられたものではないかと。全面戦争へ持っていきたいものたちにとっては、世良修蔵を悪役に見立てれば見立てるほど好都合だから。
 世良はその年の桜をどんな思いで見たものでありましょうか。いつの時代も、歴史はこんなふうに回天していくということでありましょうか。
  
 ◇参考資料
 奥の細道出羽三山
 http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno25.htm
 tsubu 敬天愛人けいてんあいじん 世良修蔵暗殺事件の周辺
 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm
 ※未読 谷林 博『世良修蔵』(新人物往来社、昭和49)
 
 
 
 2006.4.19
 2006.5.11 訂正
 しだひろし/PoorBook G3'99
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2006年04月14日

 秋田県散歩

司馬遼太郎『街道をゆく 二十九 秋田県散歩』昭和61.9.-
掲載人物
没年順一覧

生没年,氏名,よみ,出身地・著書・備考など

988?-1050?,能因法師,のういん ほうし,奥羽へ行脚、曹洞宗
1118-1190,西行法師,さいぎょう ほうし,佐藤義清のりきよ
1715-1746,富永仲基,とみなが なかもと,『出定後語しゅつじょうごこ』『翁の文』
1703?-1762,安藤昌益,あんどう しょうえき,大館生まれ,八戸藩医『自然真営道しぜんしんえいどう
1775-1815,佐竹義和,さたけ よしまさ,
1748-1821,山片蟠桃,やまがた ばんどう,
1763-1827,小林一茶,こばやし いっさ,27才のとき象潟へ
1767-1827,栗田定之丞,くりた さだのじょう,佐竹家中,砂防植林砂留役
1754-1829,菅江真澄,すがえ ますみ,三河出身、本姓は白井
1857-1907,陸 羯南,くが かつなん,青森
1845-1918,大内青巒,おおやま せいらん,仙台,仏教研究
1856-1921,原 敬,はら たかし,岩手
1871-1924,原 勝郎,はら かつろう,南部盛岡『日本中世史』
1856-1927,沢柳政太郎,さわやなぎ せいたろう?,亨吉の友人
1847-1928,大槻文彦,おおつき ふみひこ,仙台『大言海』
1870-1931,桑原隲蔵,くわばら じつぞう,越前厚賀『中等東洋史』
1866-1934,内藤湖南,ないとう こなん,秋田鹿角郡『近世文学史論』
1854-1936,高橋是清,たかはし これきよ?,宮城
1865-1942,狩野亨吉,かのう こうきち,秋田大館,佐竹家臣,夏目漱石と中学同窓
1882-1971,金田一京助,きんだいち きょうすけ,岩手南部
,秋山悌次郎,あきやま ていじろう,秋田藩周旋方,熊本で漢文を教える
,朝山小次郎 師綱,あさやま こじろう もろつな,梵燈ぼんとう、出雲国の地頭、象潟へ
,安倍能成,あべ?,『狩野亨吉遺文集』『木屑録ぼくせつろく
,石井忠行,いしい ただつら,『伊頭園茶話いずえんさわ』秋田藩財用奉行
,石田博英,いしだ ひろひで,石橋湛山の片腕
,泉沢子兼,いずみさわ?,桜庭家の家老,塾を開く
,越後屋太郎右衛門,えちごや たろうえもん?,能代の海岸林を育てる
,覚林,かくりん,秋田、文化年間の蚶満寺住職
,狩野久子,かのう ひさこ?,秋田大館,亨吉の姉
,狩野良知,かのう よしとも?,秋田大館,亨吉の父,内務省出仕
,鎌田正家,かまた まさやか,真澄が滞在
,菅 秀才,かん しゅうさい,道真の子、象潟へ来たという説あり
,関山道察,かんざん どうさつ,
,渋江内膳,しぶえ?,秋田藩家老、江戸初期
,神功天皇,じんこう てんのう,象潟へ来たという説あり
,菅 禮子,すが れいこ?,秋田
,鈴木 正,すずき ただし?,『狩野亨吉の思想』(レグルス文庫)
,高橋克三,たかはし かつぞう?,毛馬内出身『近世鹿角郡学統考』
,内藤 琴,ないとう きん?,湖南のめい「思い出あれこれ」
,内藤調一,ないとう ちょういち?,秋田鹿角郡,湖南の父
,内藤天爵,ないとう てんしゃく?,秋田鹿角郡,湖南の祖父
,那珂通高,なか みちたか,岩手南部藩教授,吉田松陰と親交
,那珂通博,なか みちひろ,秋田明徳館の学者
,那珂通世,なか みちよ?,通高の養子
,楢山佐渡,ならやま さど?,
,新野直吉,にいの なおよし,『秋田の歴史』
,西宮端斎,にしみや?,明徳館の最後の学長,湖南の師
,三田村泰助,みたむら やすすけ?,『内藤湖南』(中公新書)
,向井蔵人,むかい くらんど?,南部藩家老
,茂木筑後,もぎ ちくご?,
,柳田国男,やなぎた くにお,「菅江真澄のこと」
,イストレーキ,,アメリカ,塾に湖南が通う
 
 
 2006.4.14
 2006.4.15 青空文庫著者カードへリンク、生没年を前へもってきてみた
 しだひろし/PoorBook G3'99
 転載・引用・リンク・トランスレーションは自由です。

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2006年04月13日

 染織に関する文献の研究

染織に関する文献の研究
内藤湖南
 
 
 織物の発達は、世界の古い国々においても、支那はそのもっともすぐれた国であって、ことに蚕糸の発達が古代からあって、これを西洋の方にも輸出したのは前漢頃からでもあろうかと思われ、日本に輸出されたのは後漢頃からではあるまいかと思われる。ともかく絹の生産地としてたいへん古い歴史を持っているのである。その文献にあらわれたのもずいぶん古いので、先秦の古書といわれる尚書、詩經、周礼、爾雅というような書籍に見えておって、中にも尚書の益稷編——今文尚書でいえば皐陶謨の一部であるが——にいわゆる虞の十二章というものが見えている。それは一部分は絵すなわち書き文様とも考うべきものであって、一部分は繍すなわちヌヒである。おそらく衣服に関する文様としてもっとも古いものは、この書文様、ヌヒ文様から出たということを考え得られるであろう。その中で日月星辰山竜華虫は、絵すなわち書き文様であって、藻火粉米黼黻は繍すなわちヌヒ文様である。こういうものが何代ごろからあったかは、尚書に見えておっても、もとより確実には知り得ないが、その原始的である点から見てよほど古いものと考えられるのである。

 尚書の禹貢編にいたっては、織物に関する記事がいろいろ載っているが、その中でもっとも注意すべきものは織文、織貝である。織文は古くから錦綺のたぐいだと解釈せられているが、これは染色は一定しておって、織り方によって文様がいろいろにあらわれるのであろうかと思われる。織貝にいたっては昔から説が二つにわかれておって、偽古文尚書の説では、織は細紵なりと解し、貝を水ものと解しているので、貝の方は織物と関係ないようであるが、この説はあやまっているといわれている。貝というのも、やはり織物であって、詩經の中にも貝錦とあるから、貝は一種の錦の名称であるというのが正しい。この織物はやはりいろいろに染めた糸を織ると一種の文様ができる者で、いわゆる織色というようなもので、織りあげた結果、一種の色の出るものであろうと思われる。これらはずいぶん古くから織物の発達したということを徴すべきものである。そのほか、もしくは帛という文字のごときは、絹織物の総名として使用せられておったので、その産出が少なからざりしことを推測することができる。
 また染め物のことについても爾雅に、

一染謂之※[#「糸+原」]。再染謂之。三染謂之※[#「糸+燻」]。

とあり、また周礼の考工記には、
三入為※[#「糸+燻」]。五入為※[#「糸+取」]。七入為緇。

ということがあって、染め物の発達も想像せられる。ただしかしこれを実物に徴する事は今日ではほとんど難かしい。支那における従来の発掘品でも、発掘者の不注意のためか、三代の織物が発掘せられたことはない。そのときの製作法がずっと後世までも伝わり、六朝から唐代まで伝わった者があるかもしれぬ。たとえば錦というような文字は、その時分から後世まで共通されているけれども、はたして三代のときの錦、たとえば貝錦と六朝以後のものとが同様であるかどうかは、判断をくだしがたい。虞の十二章などの説明から考えると、よほど原始的なもので、今日の苗族とか南洋地方などの織物のような種類ではないかと考えられるが、ただし禹貢にある織物などは、またそれとは異なってよほど発達したもののようにも考えられる。ひとくちに先秦時代といっても、たいへん長い年数をへているのであるから、一様には考えられない。まずこの時代のものは実物から証拠立てることはむずかしいというよりほかはないのである。
 そのつぎの時代になり、両漢三国六朝頃になると、これらはいくらか少なくとも実物をたよりに想像し得られるのである。もっとも今日まで実物で織物の文様のある者など多く見たこともないが、わが邦などでも漢から六朝までの間の鏡鑑が古墳から出る時に、それをつつんだきれが付着して出ることがある。もちろんその色合い、地合などはわからなくなっているけれども、その織法おりかたぐらいは想像し得られるのである。いっぽうでは漢代より六朝へかけては、すでに織物の名称がずいぶん種類が多くなって、ごく手近かなところでいえば、当代の字書類、たとえば説文解字とか、釈名とか、玉編とかいうものに集められてある。そしてその名称が唐時代と同じものがあって、おそらく実物も同じものであったろうかと判断することのできるものが少なからずある。たとえば綺のごときは釈名に、
綺。なり。その文邪。不順經緯之縦横なり。

とあるが、今日古い巻き物のヒモなどに綺帯と称してのこっているものはすなわちこの織法おりかたで、ハスカイな文様があらわれて、經緯の糸のとおりに通らさないものが存在している。それで漢代の綺と称したものも唐代の綺とだいたい同じであろうと考えられるのである。また綾については釈名に、
綾。凌なり。その文望之如冰凌之理なり。

とあるが、すなわちその文様が氷柱つららなどのごとくなっているのであろうから、これが唐の時代にわが邦にわたって、平安朝頃までさかんに使用せられた綾地切と称するものと同じであろうと想像される。また説文解字にという字があって、并糸なりと解釈してあるが、これらは絹本の宋元画などに二本の糸をいっしょに織り込んだきれが存しているが、漢のときのもやはりかくのごとき種類であったろうかと考えられるのである。
 かくのごとき方法で、実物がなくても、いくらか後世の実物からして想像し得られるものは漢代からすでにあるのであって、矧んや六朝ころのものになると、唐代のものとまったく種類の変らぬものが多く出てきたのであるから、顧野王の玉編などに載っている織物から以後はだいたい実物を想像し得られる。玉編は顧野王の原本の存在しているのは全体の半分にもたりないが、さいわいにも糸の部は原本が存在しており、それからまた日本でつくった秘府略は、前田侯爵家に残っている本がさいわいにも錦繍の部分であり、大平御覧などにも、唐以前六朝頃までの古書を多く布帛の部に引用してあるので、それによって唐代以後の実物と対照して研究することができるのである。
 その次は唐の時代であるが、これは前にも述ぶるごとく、秘府略、大平御覧のごとき書籍はもちろんの事、もっとも文献と実物との対照に有力なのは、たとえば東大寺献物帳のごとき書籍を正倉院に存する実物と引き合わせることである。この献物帳のなかにはずいぶんいろいろな織り物染め物の名称が出ている。たとえば織り物としては前にあげた錦、綾、綺のごときはあきらかに解し得るのであるが、そのほか、織成、刺納などのごときも、実物についてみれば、その織法おりかたを知ることができようと思う。
 織成についての支那人の解釈では、錦と織成とを別けて、昔の織り物は厚を地として別に五彩の糸でそれに文様を織る。その素地のものを素錦といい、朱地のものを朱錦といい、その地のないものを織成というというて、錦と織成とを織法おりかたによって別けているが、しかしまたいっぽうには錦という字の解釈として、今日の説文解字には、
錦。襄邑織文なり。

とあって、すなわち襄邑から出る織文だとしてあり、これに参考になる文としては、続漢書輿服志に襄邑より年々織成虎文を献ずと書いてあるところを見れば、織文は織成と同じ意味であるようにも聞こえる。そのうえ、大平御覧に説文を引いたところでは、この錦は襄邑の織文なりという文を襄邑織成なりと書いてある。もっとも大平御覧に載っている織成の分には、今日でいうモールを金縷織成などいっているから、唐の時代には錦と織成とはすでに別々になっていったのかもしれない。ともかく時代によりてことばの意味に差異ができてくるので、なかなか解釈しがたいが、献物帳の織成というのがいかなるものであるか、自分もまだ実物について研究したことはない。
 この時代のきれは、昔は正倉院か古い寺院などの宝物でなければない種類のものが多いので、従来のきれの学問としてはまったく特別扱いのもので、一般に研究せられておらなかった。これが研究者の注意を惹き出したのは明治以後といってもよろしいのである。しかし染織の専門家も学者もたがいに一致するまで研究を進めたことがないので、これを将来に望まざるを得ないのである。
 宋以後の織物はこれまでもずいぶん研究せられている。それはひとつには装用のきれと茶器に付属した切とに使用せらるるがためである。それについてはいろいろな分類の仕法しかたもあり、茶人などはその道に達した人がすくなくない。但併しその名称などは、伝来の歴史的関係から命名せられたものもあり、あるいはその織物の性質上からつけられたものもあり、一定の原則がないので非常にわかりがたい。専門家はこれを片端から実物についておぼえこむだけのことで、数百種にものぼる種類を、この混雑した名称でおぼえこむことはよほどの労力を要する。ことに近代になっては、たんに支那の織物のみならず、南洋インドあたりまでの産物にもおよんでおって、その範囲も種類もますますひろくなっている。
 この唐と宋との間は、織物にとりてもひとつの大きな変化の時代であったろうかと考えられるので、支那人の好尚も、その間にすこぶる変化しているようである。だいたい唐以前は、一般の好尚は薄物うすもの、透き通るものを好む傾向がある。もちろん厚手の織物もその間にあったにはちがいないけれども、一般には厚手は貴ばれない。たとえば厚を命名してというが、というものは織物の下等な種類のものと考えられておったようである。ところが宋以後はだんだん厚手の織物が発達してきている。現存している装切、茶器に関する切でも、みな唐以前のごとき薄い種類のものはない。ただ僧侶の袈裟とかいうような、古代の形式を保存すべき必要のあるものには、古い製品と同様の薄物うすものを使用したりしている。
 明のころから以後は緞子が発達してきた。この緞子に関しても、支那人には一種の誤解をなしているものがある。緞子は昔は段というたというので、漢代から存在するという説をなしているものがある。それは文選に見ゆる張衡の四愁詩に、
美人贈我錦繍段。

とある。これが緞子だという説であるが、それはおそらく謬見であろうと思う。唐の時代には、地方の貢物のの中に、貢段というものが六典などにあらわれているが、それさえも今日の緞子だとは考え得られない。紫野の大徳寺に大法被というものがあって、それに元代の繍をした織物を一部分に使用してあるが、その織物を綉段と命名している。それはそのきれに文字をぬうて、その文字に綉段とあるから、これが綉段たることを知りえるのである。しかしその織物は今日の緞子とは異なるらしく思われる。真の緞子はおそらくは明代以後のものであろうと思う。もちろん段という字は、すなわち段匹という織物の分量をあらわしたことばであって、張衡の錦繍段というのも錦繍の分量をあらわしたのであり、唐の貢物の貢段も、織物の分量をあらわしてその織物たることを自然に知らしめることばを使用したのである。明代には諸国から貢上する織物を朝廷でおさめておくところを段匹庫と命名し、それからして当時さかんに貢上せられた織物を緞子と称することとなったもので、今日のごとき緞子はやはり明代以来のものであろうとおもわれるので、その名目が同じいからとて、この織物を漢代まで上すわけにはいかぬ。
 宋代明代の織物の名称は、文献にもしばしばあらわれておって、これを実物に引き合わせることも割合に困難ではないと思う。ことに宋代以後に貴ばれた刻糸のごときは、すなわち京都でいうつづれであるが、これらは装切などに使用せられて現存しているので、これを文献に引き合わすことが難くない。明代の織物などでも、一例をいえば、嘉靖年間、時の権相なる厳嵩が失敗して家産を没収せられた時に作られた目録があって、それらを見ると織物の名称がずいぶん多く出ている。かくのごときものを、今日に伝来しているところの明代の織物に比較すれば、自然にその一致点を見いだすであろう。
 だいたい織物も長い歳月の間に変化をへて、昔存在した織物で早くなくなっているものもあり、また後世になって新たにできたものもあり、その名称の変化もあることであるが、これらをできるだけ実物と文献とを一致させることが、すなわち織物研究の基礎をなすゆえんであって、従来の茶人などの取った方法にばかりよらずして、歴史的な考え方をそれに加えるという事が必要であろう。茶人などの研究は、前にもいうとおり、古くとも宋代くらいで止まっておったが、今日においてはそれよりも以前の唐代ぐらいまでのものを対象とする必要があろう。その目的を達するためには、学者と専門家との協力を必要とするので、織物学会のごときがその機関として働くことを希望してやまない。
 それから次にわれわれが織物研究について必要なることは、織物の多くが支那産で、まれには南洋その他の産もあるが、大部分は支那であるから、そのために支那の名目と日本の名目の対照ということが研究上必要となってくる。これは日本ではよほど古くから考えられたことであろうが、整備せられて書籍にあらわれてきたのは和名抄のごときものからである。
 近代にいたって新井白石の東雅などには、たんに支那の名称と日本の名称との対照にとまらずして、日本名を有せる支那織物に対して、さらに歴史的変遷のあとを考えるようになってきた。たとえば和名抄以前からの織物につけられた織物名が、今日では一般に通用されないものになって、その日本名のものが今日でなんと呼ぶかを研究せなければならなくなった。それであるから、近代の和名抄の研究家、たとえば狩谷斎のごときは、和名抄に出ている織物に対して、新井白石が取ったと同様な研究方法で注釈を加えるようになった。たとえば新井白石は綾の字をアヤと読むことについて、その語源が漢の意味であると解釈し、狩谷斎は和名抄の羅の字の注釈において、今俗に呂と呼ぶものがあるが、これはおそらくは羅の音の転じたものであろうという解釈をくだした。かくのごときことは、注意せずして読み去る時はなんでもないことであるが、これじつに織物の研究が歴史的になってきた一端を示しているのである。
 近代においては、また支那の新しい織物に対して、日本でこれをなんと呼ぶべきかということに注意した人もある。明代の書籍に天工開物というのがあるが、それが日本において飜刻せられた時に、いろいろなものの名目に、かなでもって日本名をつけてあることは、よほど細密な注意をなしたものとみえる。その中に、綾の字にリンズとかなをつけ、紬の字にサヤとかなをつけているなどは、やはり実物について考えたることであって、ことに綾をリンズとしたのは、リンズということばが綾の字の支那音からきたことをおもわしめる。今日になれば、すでにそのリンズ、サヤ、というものさえも、すでに古代織物の一部分に入ってしまったのであるから、これら当時の必要からつけられた名称も、今日では歴史的の名称となってきた、その間に織物の名称の変遷を研究する材料となってくるのである。
 かくのごとく、日本にありて支那織物を研究するには、二重の手数をかける必要があるのであるが、そのかわりに、名目の考え方が歴史的に綿密になってくるところから、かえってまた、支那人のごとく緞子を古代から存在するものと考え、織成の名称にも歴史的の変遷あることを忘れるような誤りは自然に少なくなるのであるから、案外日本において研究するがために良好な成績をあげ得るかもしれない。ことに正倉院その他のごとき古代の宝庫が存在し、宋代以後は茶人によりてきれが保存せられたるがために、大きな分量のものが少なくても、種類を多く保存していることは、支那その他の原産地にも勝っていると思う。その点は古代織物を研究するについて、日本があるいはもっとも便利な土地であるかもしれない。この研究上の便利を、将来おおいに利用せられんことを希望するのである。
(大正十三年一月十九日古代織物学会講演、同十四年五月雑誌「古代織物」掲載)

 
 
 
底本:「内藤湖南全集 第八巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月初版発行
初出:「古代織物」
   1925(大正14)年5月
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
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2006年04月12日

 鎌倉時代の布教と当時の交通 II

鎌倉時代の布教と当時の交通 II
原勝郎

 以上は畿内以東につきて観察したところのものであるが、いまにも述べたとおり新宗教は、主力を東国にそそいだのであるから、畿内以西における布教的活動はその盛な点においてとうてい東方とくらべものにならぬ、しかれども西国はまた西国で、その布教の径路の研究におもしろい点もあるから、ひととおりこれを述べる必要がある。

 東国を説明した順序にしたがって、まず浄土宗から始むれば、京師以西には浄土宗が布教上おおいに重きをおいたというわけではないけれど、がんらい西国はこれを東国に比して、京洛文明の影響をこうむったことひさしくかつ深いから、源空の新宗教はみずから西方に伝わらざるを得ぬしだいである、けれどもその伝播は当時の交通の関係によって規定せられているのはやむをえざることですなわち山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けているけれども、丹後から以西伯耆にいたるまでは、鎌倉時代を通じてほとんど浄土宗の侵略をこうむっておらぬ、山陽の播磨はなお山陰の丹波のごときものであるが、美作〔源空の出生地〕から西備中にいたるまでの間も、山陰の丹後以西とおなじく浄土宗の感化を受けておらぬ、南海道の紀伊は播磨と同様であるが、四国においては讃岐と伊予に浄土宗が伝わり、これと前後して向かい側なる山陽道では備後に伝わり、備後からさらに出雲、石見に流布している、聖光の弟子良忠が中国に布教した時は、まさしくこの径路によったものである、また九州において豊前の浄土宗は論ずるにたらぬに反し、豊後における伝道の跡見るにたるものあるのは、豊後の佐賀の関が伊予の佐田岬と相対し、両国の交通がはなはだひんぱんであるためで、これらと中国の例ならびに北陸の例をあわせ考うれば、当時の布教はかならずしも陸地づたいにのみ進んだものでないということがわかり、したがって当時の日本の主要なる交通線のなかには海路も少なからず含まれておったことが明になる。
 しかしながら九州の浄土宗のおもなる活動は、この伊予から豊後に渡ったものではなく、鎌倉時代の始めにおいて筑後の善導寺を根拠とした聖光およびその弟子蓮阿などの努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後とひろがったが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るることができなかったように見える。
 禅宗の山陰道に落莫なるは、浄土宗の場合とおなじである、してみれば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四か国は、京都からさほど遠くないにもかかわらず、鎌倉時代には天然の不便から、みずから別境をなしていて、一般に注意をひく度において、奥州などにすらおよばなかったのかもしれぬと思われる、ただ山陰道において禅僧の活動として見るにたるものは、法灯国師の弟子の三光国師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、浄土宗の場合においてみえたと同様、当時は九州におもむくに主として海路を利用したもののごとくで、播磨を除いて、その以西備中までは、あまり禅宗の影響を受けておらず、備後以西においてはじめてその痕跡を見る、三光国師も浄土僧と同様備後から出雲へ入ったらしい、宗派からいえば播磨には臨済も曹洞も混入しているけれど、備後以西は臨済のみであった。
 南海道の禅宗といえば紀伊の法灯国師の外、伊予に伝道した聖一国師の弟子の仏道禅師、ならびに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。
 九州において禅宗がほかの宗旨にくらべていっそうの盛況をあらわしているのは、これはけだし博多が当時支那との交通の要路にあたっているところからして、渡唐僧や帰化僧は、多くはしばらくここに滞留し、したがって、九州の禅宗はかならずしも京都の方からの布教のみによらずに伝播したためであろうと思われる、であるから九州で禅宗の最流行したのは筑前、その次は豊後で、肥前、肥後はまたその次にくらいしている、九州の布教に尽力した禅僧の有名なものは、まず栄西を第一として、そのほか聖一国師、大応国師、〔南浦〕南山士雲、および寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東国をも風化したのみならず、西国にも巡錫している、すなわち南山同様伊予に布教し、それから九州にわたった、ただし南山は肥前・筑前に伝道したけれども、寒岩はその弟子鉄山などとともに、もっぱら豊後、肥後の布教に尽力をした、されば禅宗が豊後に盛で、となりの豊前に寥々りょうりょうとしているのは伊予からの交通の関係から怪しむにたらぬのである、しかして寒岩は道元の弟子であるから、豊後と肥後とには筑前にくらべて曹洞が多いのである、そのほか大応は主として力を筑前にそそいでいる。
 時代をもってすれば、九州の禅宗は仁治建長の間筑前にさかんに、豊後より進んで両肥におよんだのは、鎌倉の末六十年くらいの間のことである。
 真宗が京師以西におよぼした影響は、すこぶる希薄な状態で鎌倉時代を終わった、ただしこれはさすが氾濫的伝播をなす宗旨だけあって乗専のごときは近畿布教の序に但馬へも入ったようである、しかし因幡や伯耆に真宗がほとんど入らなかったのは、浄土や禅と同様である、山陽道においては播磨にすこしく入ったほかにはやはり備後を中心として備中・安芸の二国におよんだのみである、この真宗の備後における布教はもっぱら親鸞の弟子明光〔光昭寺開山〕の尽力によるもので、明光は真宗にはめずらしく遍歴布教をした人である、たんに山陽のみならず、山陰の出雲もまた明光の手によって真宗の教化に接した、しかしてこの明光のとれる布教路が、浄土宗および禅宗のとった布教の道筋と符合しているのははなはだおもしろいことである。
 四国では真宗の波動のおよんだのは阿波と伊予とのみであると断言してさしつかえないくらいで、それも影響がはなはだ少ない、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者のごとくである、九州で鎌倉時代に真宗の入ったのはほとんど豊後のみであるが、これも伊予との交通の結果である。
 日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同様である、これは純東国的宗旨であるからいっそうしかるのであろうとも思われる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊をはじめとして日頼という者もある、これに対して他宗の場合におけるごとき備後の布教は見えぬが、備中には日印、日円などの布教があるから、他宗の場合とあまりはなはだしく矛盾してはおらぬ。
 九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐〔日高弟子〕が入って伝道したが、それよりも顕著なのは日向に入った日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗はまったく入らなかった。
 時宗においては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊ならびに四国の伊予はもちろん讃岐にも、九州では筑前にもおよんだのであるが、そのほかの遊行僧では、四祖呑海および、その弟子の随音というが、あらたに石見、隠岐に布教し、二祖真教が備後と伊予に巡錫したくらいのもので、ほかにとりたてていうほどのこともない。
 おわりにのぞんで新宗派が従来の宗派を蚕食し、あるいは新宗派の間にたがいに相呑噬した様子を簡単に述べて、この論を結ぶことにする、浄土宗のもっとも多く蚕食したのは天台で、真言これにつぎ法相またこれにつぐ、新宗の中では禅の浄土に転じたものもあるけれど、浄土がまた転じて真宗になったこともまれではない。
 禅宗のもっとも多く侵略したものもまた天台で真言はこれにつぐ、浄土に対しては侵し方が侵された分より多い。
 浄土真宗にいたっては天台を侵略したこともっともはなはだしく、今日現存の鎌倉時代からの真宗寺で、天台から転宗したのが二百ばかりある、真言の七十三がこれにつぐ、はるかに下るが、これについでは法相である、また真宗は新宗派の中で浄土と禅とをすこしづつ侵略している。
 時宗の侵略したのも天台にもっとも多く真言これにつぐ、ただし小規模の宗派だけ侵略した数は少ない。
 以上の四宗がいずれも天台をもっとも多く侵略しているのはそれ以前に天台宗の寺が真言そのほかの諸宗よりもすぐれて数多かったためでもあろうが、これと全く異なったありさまをしめしているのは日蓮宗で数字においてはその侵略の度真宗の多いのにはおよばぬけれど、とにかく日蓮宗のもっとも多く侵略したのは真言で、天台はかえってその三分一くらいである、これは注意すべき事だ、また新宗派の中では禅をすこしく侵略している、真言亡国、禅天魔をさけんだだけあるといってもよろしい、ただし念仏宗をば無間とそしったけれど、浄土寺をすこしく侵略したのみで、真宗とはまったく没交渉である、真言よりは少ないけれども、天台もまた侵略を免れなかったのは、たとえ日蓮宗が天台の復興を主張するとしてもじっさいこの両宗の間には性質上大差があるからであろうと思われる。
 
 
 
底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日発行
底本の親本:「史学研究会講演集 第四集」富山房
   1912(明治45)年4月16日発行
○進だのて:「進だので」の誤植か。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2005年1月5日作成
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2006.4.12
割り注は〔  〕でくくり、グレー表示にした。
しだひろし/PoorBook G3'99

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 鎌倉時代の布教と当時の交通

鎌倉時代の布教と当時の交通
原勝郎

 仏教が始めてわが国に渡来してから、六百余年をへていわゆる鎌倉時代に入り、浄土宗、日蓮宗、浄土真宗、時宗、それに教外別伝の禅宗を加えて、総計五つの新宗派が前後六、七十年の間に引き続いておこったのは、わが国宗教史上の偉観とすべきものであって、予はこれを本邦の宗教改革として、西洋のヤソ紀元十六世紀における宗教改革に対比するに足るものと考える、その理由は雑誌「芸文」の明治四十四年七月号に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれにゆずって今は省略にしたがう、しかしながら講演の順序としては、これら各宗の教義の内容に深入りせぬにしても、少なくもこれらの新たに興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。

 王朝から鎌倉時代にうつったのは、一言もってこれをおおえば、政権の下移とともに、文明が京都在住の少数者の壟断から脱して、地方の武人にも行きわたるようになったのである、もちろんこの政権の下移に際して、真の平民すなわち下級人民までが政権に参与することを得るようになったというわけではなく、むしろたんに器械として使役されたのみにすぎないので、したがって移動のあった後といえども、依然としてもとの下級の人民であった、しかれどもすでに社会の中心が政権とともに公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立ち場からいっても、やはり社会の中枢に一歩近づいたわけであって、社会史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代においては、王朝におけるよりも、下級人民というものをより多く眼中に置かなければならなくなったのである。
 時代の趨勢すでにこのごとくであるから、これに適応するためには、文明のあらゆる要素が、いずれも狭隘なる壟断から離れて普遍洽及のものとなった、ほとんど仏画にかぎられ、まれに貴顕の似顔を写すくらいに止まっておった美術も、鎌倉時代に入ると、多く絵巻物の形においてあらわれ、たんに浮世の日常の出来事が画題の中におさめらるるに至ったのみならず、美術の賞翫者の範囲もまたおおいにひろがり、文学は文選のできそこないのような漢文から「候畢」の文体となり漢字かなまじりのものを増加した、ただし芸術も文学も文明の要素としてはいずれもぜいたくな要素であって、生計に多少の余裕あるものでなければ、これを味わい娯むことができぬ、であるから予といえども、鎌倉時代の水呑百姓が今日の農民のごとく文学の教育もあり美術のたしなみもあったとは思わぬ、しかるに宗教はこれに反し、当時のような人知発達の程度においては、ことに一日も欠くべからざる精神上の食物であるから、この点においてはいかにしても下層人民を度外に置くことはできなかった、ようするにきわめて玄妙にしてしかも難解で、見世物としてはあまりに上品で、しかも高価にすぐる従来の聖道門の仏教では、とうてい新時代の一般社会の渇仰を満足せしむることができず、かならずや下級人民をも済度することのできるような宗教がおこらなければならぬ、ここにおいてこの必要を充足するためにあらわれたのは、前に述べた易行門の諸新宗である、もっとも易行門と普通にいえば多くは浄土門の諸宗派を斥すので、日蓮宗は天台の復興とこそいえ、簡易仏教とは自称しておらぬ、けれども日蓮宗のだいたいの性質からいえば、やはり鎌倉式の易行宗に似たところがある、また禅宗のごときも教外別伝というからには、爾余の鎌倉仏教と同日に論じられぬもののごとくにも見えるけれども、その手数を必要とせず、つまり直指人心で、階級制度に拘泥することなき点において、たしかに天台真言などよりも平民的なるのみならず、悟入につきて予備の学問を必要なりとせぬこと、まさに新時代の宗派である、ただ禅宗が不立文字を呼号しながらそのじつは立文字の極端に流れやすく、それゆえにその感化は武士に止まって、それ以下の下級人民にあまりおこなわれなかったのはおもしろき現象といわなければならぬ。

ちなみにことわっておくが、前に鎌倉時代の文明の特徴として論じた諸の点は同時代にいたりてはじめて生じた者ではなく、そのじつは王朝の末においてすでに端緒をひらいたものである、ただし機運の熟さなかったために、充分の発達を遂げ得なかったのが、政治上の大変動とともに、一時に隆興したのである、ゆえに文明史上においては、これをもって鎌倉時代のものとする方がむしろ適当である、がんらい政治上の変遷というものはかならずしも他の文明の諸要素の変遷に先ちて起るものではないが、社会百般の事物はたに大に変ぜむとして未だ変することあたわず、ひたすらに気運の熟するを待ている際に、これが導火線となって大変動を起さしむるのは、多くは政治上の出来事である、しかしてかく政治が文明史に多大の貢献をなすは、たんに鎌倉にかぎったことではない、古今東西例証にとぼしからぬことである。

 さて以上論じきったところによりて推すときは、文明を構成する諸の要素の中で、鎌倉時代をもっともよく代表し得るものは、この時代に興隆した新宗教であって、文学美術などはこれにつぐものであることは明である、であるから今「鎌倉時代の布教と当時の交通」と題して一場の講演をこころみるのは、じつは宗教の流布を説くのみならずして、かたわらこれによって当時の文明一般の伝播せる径路をたどらんと欲するのである、ただし未研究のたらぬところからして、今は文学や美術に説きおよぼすことのできぬのは、予のはなはだ遺憾とするところである。
 なお本論に入るに先ちて、いまひとつことわっておかなければならぬのは、この講演の論証の基礎とした根本材料のはなはだ脆弱なものであることである、というのは、予をしてこの講演をなすにいたらしむるについて、もっとも多く暗示をあたえたのは、各寺院に存する縁起であるが、およそ史料中で何が怪しいといってもおそらくはこの諸寺の縁起ほど信用しがたいものはあるまい、いずれの寺院もみな我寺貴しの主義に基きて、さかんに縁起を飾り立てるのがふつうで、なかには飾りそこないて、あり得べからざる事実を捏造するむきもないではない、たとえば日蓮や法然の生まれぬ以前にできた法華寺や浄土寺もある、中に無学のはなはだしい僧侶は禅僧をもって門徒寺の開基としてすましこんだ縁起を作っているのもある、よしかりに一歩をゆずって縁起にあやまりがないとしても、あいにく僧侶には同じような名称が多い、すなわち浄土宗や浄土真宗に属する僧侶の名は、多くは三部経中の字をつなぎあわせたものであるから同じ名がしばしば出来する、たとえば芝居などによく出てくる西念などいう僧は、実際幾たりもありえるもので、甲の寺の縁起に見える西念と、同時代に乙の寺の縁起に載っている西念と、いちいち異同を甄別することは容易のことではない、また同一の名称があまたの僧侶に適用することができて、はなはだあいまいなることもある、たとえば浄土真宗に属するもので常陸の国におった順信という僧があるこの順信の二字の下に房の一字を加うれば同じく常陸の僧証信の名となる、しかるに証信の名ある僧はかならずしも順信房と号したもののみではない、ほかに明法という僧侶があって、これも証信という号を持ている、そしてなおこのほかに単に順信とのみ称する僧侶も別にある、コンナに混雑しておってはとうてい安心して考証をすることができぬ、しかるにこのごとき困難は単に浄土宗と真宗とにおいて出逢うばかりでなく、時宗にもある、日蓮宗にもある、また禅宗にもある、時宗では阿の字の上にいろいろの字を加えて名とする習慣であるからときどき重複をまぬがれないが、日蓮宗の方はまた二字の僧名の中で上の一字は日の字とさだまっているから、区別の用としては二番目の字だけであって、これも同名異人が多い、禅宗にいたっては、一人で同時に三以上の号を有しているのがめずらしくない、ことにすこしエライ禅僧になるとずいぶん長い諡がついている、もしていねいに吟味すればまったく同名ということはほとんどないが、そのうちの二字だけ書いてある場合にはしばしば他の名僧の諡号とまちがうことがあって、これを区別するには非常の手数が入る。
 このごとく寺院の縁起を土台として、宗教史を研究するには種々の危険と困難とをともなうのであるが、それでもまったくこれをすてるに忍ばざるのみならず、これをもって研究の根本材料としたのには、また多少の理由がある、すなわち個々の寺院の縁起の中には信用のできぬものあるけれども、さりとていかなる縁起もことごとく信用のできぬというわけではないのみならず、宮廷にも出入りしない、また幕府の眷顧をも得ない僧侶、および僻陬にある寒寺につきては、縁起のほかなんら文献に記載のなきことが多い、しかしてそのほかの場合におけるよりも宗教界においては、これら無名の豪傑の手になる事業がもっとも多いのであってみれば、今講演せんとする問題のごときは、有名な本邦の仏教史籍を渉猟するのみに止まらず、世間に忘れられている寺や僧侶をも考察の材料とせざるを得ない、換言すればこの点において寺院の縁起もゆるがせにしがたい好史料である、ただこの史料ははなはだ危険な史料であるからこれを採用するにはいちいち査照を要するのであるが、予は未充分にこの査照をおえておらぬ、これははなはだ残念のことであって、しかして講演に先ちて告白しておかなければならぬ義務があるのである、ただし右の危険を自覚して今日演壇に上った以上、なるべく安全な推論をなすにとどめ、あまり大胆な結論をなすのをさけるにつとめるから、新奇な名論を紹介するあたわざると、同時にたいていは動きのない辺で断ずる積である、それでもなお怪しい所はさらに他日の研鑚によるほかはないことになる。
 ずいぶん冗長にすぎた前置をして、これからいよいよ本論にとりかかる順序となったが、新興の諸宗の地方に伝播した径路を探ぐるには、五宗派の中で浄土と禅宗との二宗に徴するのが、もっとも穏当な方法だと考える、なぜというに、鎌倉時代において北は奥州のはてから西は九州まで、とにかく当時の日本六十六国の全体におよんだのはこの二宗で、そのほかの三宗は東北方には、いずれも伝わったけれども西は、京畿付近をかぎり、たまたま大に西進したところで、中国の西端に止まっている、すなわち地方において前の二宗よりも多く偏在しているといってよろしい、なかんずく日蓮宗のごときはほとんど関東地方特有の宗教としてもさしつかえないほど地方的制限がある、されば当時の新仏教の伝播を考察してあわせて交通の問題にも及ぼさんとするには、まず浄土と禅との二宗の場合につきて見る方が至当といわなければならぬ、よって予は今この二宗の場合から帰納して得た結果を査覈するに他の三宗の例をもってせんと欲するのである。
 浄土宗にも禅宗にも共通なる点の第一は、両宗ともにその布教上力をもっぱら東国にそそぎたることである、これはけだし文明が毎に西方からはじまってそれからしだいに東国におよぼすことをもって習としておったわが国においては、当然のことではあるが、鎌倉時代にはこの歴史的惰性のほかにも、なお別に原因がある、それはすなわち鎌倉にあらたに幕府ができたがために日本にはここに二つの中心が成立し、ひとつは京都という在来の文明の中心で、これと鎌倉という政権武力の新中心が両々相対立することとなった、成り上がりの首府なる鎌倉は、文物の点において容易に京都と比肩することができず、否ついに比肩することができなかったけれども、しかし鎌倉に覇府が開けたために東国の地位はいちじるしく昂上し、いままで軽蔑して入らなかった、あるいは入ろうとしても受けつけられなかった東国地方に、高等なる文物が翕然として流れ込むこととなった、しかして文明のあまたの要素のなかでもとくに政権を利用し得る性質を有する宗教は、文学や美術よりもいっそうすみやかにその活動の中心を東方にうつしたので、相模の鎌倉というものは彼らにとりてはぜひとも略取せざるべからざる根城であった、京都の小天地にのみ跼蹐して満足しえた時代はすでに過ぎ去ったのである。
 しからば数多き東国のあいだを、いかなる径路をつたわって、これら新仏教の伝道者が鎌倉に向かったかというに、それは王朝以来の東に向かう大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦をへて、尾張の萱津、三河の矢作、豊川と伝わり、橋本、池田より遠州の懸河をとおり、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかかりて鎌倉に著したのである、すなわち今の鉄道線路と大なる隔りはない、日数は日足の長い時とみじかい時とで一様には行かぬが、冬の日の短きときには将軍の上り下りなどには、十六、七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二、三日くらいで達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりもいっそう軽便にできる点から考うれば、いますこし短期で達し得るようなものであるが、宿駅におおよそ定まりあるがゆえにはなはだしき差異はなかったらしい、それは東関紀行などにてらしてもあきらかである、阿仏尼の旅行には十一月に十四日をついやした、もっともこれは女の足弱であるから例にならぬかもしれぬ、伊勢路すなわち海道記の著者がとった道筋は、山坂も険阻であるのみならず日数を費すことも多かったところから、ふつうの人はみな美濃路をえらんだものとみえる、しかして浄土僧禅僧もみなこの美濃路に出でたがため、伊賀・伊勢・志摩の三国は京都に近き国々でありながら、鎌倉時代を終わるまでほとんど新宗教の波動を受けなかったといってさしつかえないのである。
 美濃以東に出でた浄土宗の布教僧は、宗祖法然上人のほかあまたあるが、その主なるものは相模地方まで伝道した隆寛〔法然弟子〕と善恵証空〔同上〕とである、なかんずく善恵の事業はすばらしいもので、その布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武蔵、北は越後におよんでおり、その弟子隆信(立信)は三河地方に浄音法興は美濃から越前にかけて布教している、ここに注意すべきことは、同じく北陸道の国々でも、若狭や越前は京畿の布教圏内に入るが、越後はこれと異なりて、信濃から往復したもので、まったくちがった方面に属することである、これは善恵の場合においてしかるのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考えても同じである、聖光はいわゆる鎮西派の開祖でそのひと自身は東国に関係を有しておらぬけれど、その弟子なる記主禅師すなわち良忠は、じつに善恵以後における浄土宗の東国大布教者であって、大往還に外づれている伊賀、志摩、伊豆、安房の四国を除けば、東海道中いずれの国も良忠かもしくはその弟子なる唱阿性真、持阿良心および良暁などの風靡する所とならぬはない、否単に海道の諸国許りでなく東山道において信濃および上野、下野、北陸の越後みなこの良忠一派の化導を受けている、北陸諸国の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ浄土宗の風化に接しなかった、これは地勢の不便によると思われる。
 新宗教に特有なる現象として、浄土宗においてもこれを認むることのできるのは、奥州の布教についてわりあいに大なる尽力をなしたことである、陸奥に入った浄土宗の布教僧のなかには、隆寛の弟子実成房という者もあるが、それよりもこの宗旨の奥州における伝播にあずかりて大功のあったのは、源空の弟子の金光坊である、ただしこの人の足跡は、ほとんど陸奥の北端におよんだけれども、ついに出羽には入らなかった、これはけだし陸奥・出羽両国間の交通ははなはだまれで、出羽に入ろうとするものは越後よりして進んだからであろう、文治年間の頼朝の泰衡征伐にも、左翼軍をば越後国より出羽の念種関に出でしめ、それより比内まで北上して、それから陸奥の本軍にあわせしめたのを見ても、王朝末より以来の北方交通路のありさまがわかる、しかして浄土宗の日本海岸における布教は鎌倉時代にあっては、また越後以北に及ぶいとまがなかったのかもしれぬ。
 浄土宗はこのごとき布教路をたどり、東国において文永弘安の交その活動の盛をきわめたのであるが、次に建長の頃より東国にとみに勢を得た禅宗の伝播は、はたしてどうであったかこれを浄土宗と比較すれば、きわめて興味が多い。
 そもそも禅宗というものは、その宗派としても性質組織おおいに他の諸宗と異なり、その布教も群衆を相手として撫切りをするのではなく、個々の有志者をのみ相手とするのである、したがって禅宗僧侶の布教上の活動を批評するには、かならずしも参禅者の多少のみをもってすることができぬ、加之禅宗の伝播を研究するに別に困難なる事情がある、それはほかでもないが、禅宗には他宗と同様、師資相承ということがあるのはもちろんであるけれど、ひとりの禅僧であまたの先進についた場合がひじょうに多い、そこで他宗におけるがごとく分明に伝統をたどるのははなはだ困難であるからである。
 禅宗の僧侶で東国に布教した主たる人びとは、栄西、道隆、仏源禅師、大休、および夢窓国師などであるが、いったい禅僧というものは、他宗の僧侶よりもいっそう世間離れがしておりながら、しかもすこぶる敏活に機微を察し得るものである、そこで鎌倉をとりこまなければ、将来の日本においての発展がむずかしいということは、禅僧の方が浄土宗の人びとよりも、いっそう切実に考えたようであるすなわちかれらの東方に向かうや、その径路は浄土僧と同じ筋であったけれど、その道筋を一歩一歩布教しつつ進んだのではなく、まっしぐらに鎌倉へと志したのである、されば伊賀、志摩のごときほとんど鎌倉時代の禅僧のかえりみる所とならざりしこと、浄土宗の場合と同様なるのみならず、伊勢または尾張、三河のごとき鎌倉街道筋の国々ですらも、禅宗の風化を受くること関東の諸国よりおくれ、しかも尾、参の両国の漸次に禅宗の布教を受くるや、京都より東せる禅僧よりは関東よりして西にもどれる禅僧の感化をより多く受けたことは、すこぶるおもしろき現象といわなければならぬ、加之なおそれよりも奇妙なことは、後年禅宗界においてひとかどの根拠地と目せらるるにいたりたる美濃のごときもその禅宗を接受したのははるかに関東殊に相武よりもおくれ、近江とともに鎌倉中葉以後のことであったのは、つまり浄土宗に比べていっそう東進の方針の急劇なためである。
 しからば関東における禅宗はいかなる地方的伝播をなしたか、鎌倉時代において関東の禅宗の中心とも称すべきものは相模・武蔵・甲斐の三国であることはいうまでもない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越をひかえ、南は駿河からあるいは相模から、あるいは武蔵からひんぱんなる往来があったとみえ、禅宗の感化早くおよんだのみならず、その成効もまたすこぶるめざましいものであった、さればその甲斐の国に夢窓国師のような名僧の生まれ出でたのも決して偶然ではない、これに反して一部は鎌倉街道に当ている伊豆は安房上総と同じく、浄土宗のみならず禅宗の感化を受くることも遅く、かつ薄かった。
 関東に布教した禅僧およびその弟子などは、さらにその活動の区域を拡張して信越および奥州に入った、すなわち栄西の弟子記外のごときは陸奥の宣教をもって有名であった、その後では道隆の風化も陸奥の南辺まではおよんだらしい、聖一国師弁円の東方における活動ははなはだめざましいものとはいいがたいけれど、その弟子無関は陸奥に入りたりとおぼゆ、また帰化僧なる仏源禅師のごときは、その教化陸奥・出羽二国におよんだ、しかれども陸奥に入った禅僧は、ことごとく仏源禅師のように出羽にも入ったのではない、浄土宗の場合における同様で出羽の禅宗は主として越後から入ったものである。
 禅宗中の臨済と曹洞との二宗派の、地理的分布のだいたいを述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨済わりあいに多く、曹洞が少ない、これは曹洞が臨済よりもおくれて出たので、曹洞の起ったときにこの地方には臨済の地盤すでに固まっておったからでもあろう、これに反して北陸道には曹洞が多い、すなわち道元〔永平〕営山〔総持〕瑩山の弟子明峯素哲帰化僧明極などは主としてその活動力を北陸道に集注した、ただしその径路にいたっては北陸道を若狭から越後に向けて順次に感化したのではなく、越前から海路能登に向かい、それより加賀へも、また越中へも伝わったごとくにみえる、これは当時の海陸交通の関係あるいはこれを余儀なくしたのかもしれぬ、また上述の曹洞の禅僧の中明峯と明極とは、たんに北陸道のみならず、陸羽にも宣教している、出羽が鎌倉時代に臨済よりも多く曹洞の影響をうけたのは、これがためである。
 時代をもってすれば禅宗は建長頃より関東にとみにさかんにして鎌倉末葉にいたるまでおとろえず、中仙道はこれに後くるること半世紀、奥羽はそれよりもさらに早きこと四分一世紀、これまた注意すべきことで、北陸道にいたりては、鎌倉末の二、三十年間にいたって始めてさかんになったのである。
 以上のごとく浄土と禅との二宗の伝播の跡をみれば、おおいに相類似している点がある、すなわち布教地としてとくに関東に重をおいたことと、その伝播をした交通路の状態とである、しかしてこの点においては五宗中の残りの三宗もみな同じ結果をしめしているのがおもしろい、今まず浄土真宗からはじめて、この原則を適用してみよう。
 真宗の開祖親鸞は京都の人ということになっているけれども、真宗の東方における伝播の状態を察するときは、あるいはこれは東国の人のおこした宗教であるまいかとの疑をおこさしむるくらいである、今こそ真宗というものは京都風な宗旨であること紛うかたなき様であるけれど、鎌倉時代には、やはり関東をさきにした、これは親鸞が越後・常陸の間に遍歴したためといえばそれまでであるが、その痕跡は浄土や禅とほとんど同一轍である。
 越後、下野、常陸の三国を連結した日本を横断する線は真宗の発剏線である、この中で常陸の方面が最も多く発展したようにみえる、すなわち改宗の当初三十か年ばかりの間に、常陸から下総、武蔵、甲斐、相模という順序に海道筋を押し上って三河に活動の大勢力をあつめ、一方においては越後から信濃に入り、美濃を犯した、これがすなわち真宗西漸の始である、しからばこの時代に東国の布教に従事したものは誰かというに、これははなはだ答えがたい問題である。
 なぜというに、東国と西国とを論せず、真宗の伝播のしかたはよほどほかの宗旨と違っているところがある、ほかの宗旨でいえば、ひとりの名僧が足にまかせて数か国を行脚して、あまたの帰依者・改宗者を作るという順序になるのであるが、真宗にありては右のごとく諸国を遍歴する僧侶のまったくないではないが、はなはだ僅少である、鎌倉時代における真宗は、潮の押しよせるように、洪水の氾濫するように、連続性をもって将棋倒しに伝播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帯してその寺に居直って、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を変じて寺としたとはいうものの、今日でいう説教所を開始したので、その寺号は数十年、もしくは数百年の後に、始めて本願寺から許可になったものである、ゆえにかかる俗人の説教所開始以後も、以前と同様俗事に忙わしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前よりいっそう深く、しかも公然俗事の間に没入し、なかなか遠国などへ布教に出かける余裕はない、かようのしだいであるから、真宗では同一の僧侶の手で数個の寺が開かれた例がはなはだとぼしく、したがいて布教の径路を探ぐることが困難である、けれども今それら少数者の場合につきて考えると、関東に真宗を流布せしめたのは、開祖親鸞のほか、その弟子と称する真仏、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、そのほか明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海などである、中にも真仏の一派はもっともさかんに東国に布教したしかしてその基線よりさらに東北に進んだ真宗僧には、陸奥に入ったものに前にあげた性信や親鸞の弟子の是信房や、無為信などという者があり、出羽の方へは浄土、禅と同様越後からはいって、明法や源海などという人があった、しかしながら真宗は禅宗ほど北陸に侵入はしなかったのである。
 ここに看過すべからざることは真宗が三十か年ばかり東国にさかんに流宣して後、暦仁頃からバッタリとその活動を停止したことである、もっともこれと同時に近江、美濃、越前、加賀、能登、越中などにおける盛なる伝道が始まったのであるから、真宗がまったく活動をやめたわけではなく、ただ関東においてしたのを、方面をかえて中山道に北陸道にうつしたものということもできる、しかるに奇妙なことには、この真宗が活動を停止したあとへ、同地方すなわち東国に日蓮宗の興隆したことである、日蓮宗の興隆のために真宗がこれを西に避けたのか、あるいは真宗が西にむかった空虚に乗じて日蓮宗が伝播し得たのか、その辺はなお詳に研究してみなければ分明せぬ。
 中山道から北陸道にかけて布教した真宗の僧侶の重なるものをあげれば、ここにも真仏およびその派がなかなか働いている、そのほかには覚如およびその弟子宗信、覚善、覚淳、慶順、乗専、存覚、ならびに善鸞・法善などいう人びとである、しかして真宗の氾濫的布教は、飛騨をも度外に置かなかったがために、越中からこれに宣教師を進めている、要するにこの地方における真宗の宣教の盛時は覚如以後と見て大なるあやまりはない。
 なによりも不思議の念にたえぬのは今日本願寺の所在地たる京都およびその付近の諸国、すなわちいわゆる近畿において真宗の弘布したのが、鎌倉時代の末十年間であることである、もっともそれ以前にもポツポツ真宗の寺というものが見えるが、その教[#「教」はママ]ははなはだ少なく、あげていうにたらぬほどであって、正中頃からようやく、活動らしい活動を見るのである、これは主として存覚の弟子なる仏光寺の了源の力である。
 日蓮宗に至りてはその東国的宗教であることはなはだ明瞭なもので、その伝播の著しい地方といえば、関東の八か国に、駿、甲、豆の三国を加えたものであって、遠江に入ると、その跡はなはだ急に薄くなる、しかしてこの東国地方においては文永の末から正応の末にかけての二十年間をもって最も活動のさかんな時期とするのであるけれども、それ以後とてもこの範囲内においては、ほとんどゆるみなくその活動を持続して、もって鎌倉の末に達している、しかしてこの地方に主として尽力した僧侶は宗祖の日蓮を第一とし、日昭、日朗、日頂、日向、日興、日持、日位、日弁、日朗の弟子日像、日善、日像の弟子日源などである。
 しかして日蓮宗もまたさきの三宗と同じく北陲の感化にすくなからず注意をもった、すなわち日蓮の直弟子では日弁が磐城に同日興が陸中まで、日目が陸前に入りたるを首として、日朗の弟子日善の又弟子日円が岩代に、日持の弟子日円は磐城に、日向の弟子の日進のその又弟子の日栄は岩代に入いった、伝説によれば日蓮そのひとの感化もすでに岩代の一部におよんだとのことである、が、それは信ぜられぬとしても、とにかく日蓮宗が東北地方に力をつくしたのが明である、羽前へは日昭の弟子の日成という者が入って布教したが、これも以前の場合とおなじく、越後からして進だのて[#「進だのて」はママ]、陸奥から入ったのではない。
 北陸道では日蓮宗はほかの宗旨と少しく異なった径路をとって布教している、これは日蓮が佐渡に配流せられたためであるので、いっぽうにおいては北陸道を西から東に進んだものもあるけれど、また佐渡や越後からして海路をも利用し越中、能登などに布教した者もある、この後者のうちでかさなるものは、日蓮の直弟子では日向、日乗などで、又弟子では日進の弟子の日栄の越前におもむいたのも、日印〔日朗弟子〕の越中に布教したのも、日印の弟子の日順・日暹の越中に布教したのもみなこの順路によったものとみえる。
 日蓮宗が京師に入ったのは、日像が永仁年間に伝道したのがはじまりで、それより鎌倉時代の末まで、ふるわず、おとろえずに続いている、東方から京都へ入るのに、遠江、三河、尾張などをほとんど素通りにして、真一文字に京都に突入したのは、日本において宗教として勢力を得るには、どうしても京都という文明の中心をおとしいれなければならぬということを、純粋に関東式なる日蓮宗すらも感ぜざるを得なかったがためであるらしく考えらるるが、この時代と両統迭立のはじまった時代と大差なきことを考え、しかして両統迭立ということは、かならずしも関東の希望ではなく、むしろ関東の方から譲歩したものとするときは、この日蓮宗が京都に入った永仁正安のころというものは、鎌倉開府以来勢力を失っておった京都の、日本の中心としての価値が、ちょうどこのころに回復されたものとも考うることができるので、気運の変遷から観察して鎌倉時代史中の一段落と認むることができるようにも思われる。
 日像の京都における活動の影響は、ほかの畿内諸国にはおよばなかったが、丹波から若狭をへて越前、加賀、能登まで日像自身が巡錫した跡が見ゆるのみならず、その弟子の乗純および日乗の能登における、日禅の若狭における布教、いずれも同系統に属するものであるしてみれば京都のみならず、中山道、北陸道における日像の功績は、顕著なるものである。
 五宗中最後にあらわれた時宗についてこれを考察しても、前にかかげた原則のなお誤らざることをしめすに充分である、一遍上人の一宗を建立したのは、近畿においてしたのであってしかしてこの宗旨は、遊行宗と称するほどあって、遍歴化道を主として、千里を遠しとせず辺陲の地までもあまねくおよんでいるけれど、そのおもなる布教地はやはり関東諸国であることは、二祖たる他阿真教および同じく一遍の弟子たる一向上人の活動を見てもあきらかにわかる、また奥羽における時宗の布教は、その遅く起こった宗旨のわりあいにしては、なかなか盛で、宗祖一遍自身は磐城岩代から陸前辺まで遊行しているのみならず、二祖真教も磐城ことに岩代に布教し、二祖の弟子其阿彌は陸中辺まで、湛然は陸奥の北端まで行っている、そのほか一遍の弟子の宿阿尊道という僧も陸中辺まで巡錫した、また五祖の安国上人は磐城より陸前まで遊行した、そのほか時宗の僧侶の出羽に多く入って布教したことは、他宗の遠くおよばぬところで、一向上人が岩代から羽前にはいったのをはじめとして無阿和尚、弁阿上人、崇徹、礎念、證阿、向阿など羽前地方に活動している、しかしてこれらの僧侶が他宗におけるがごとく羽州に入るに越後よりせずして、岩代より直にせるのは、けだし遊行の名にそむかず、天険をも事とせずして、布教しまわりしことを徴するにたるものである。

(つづく)

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2006年04月09日

 霊魂の話 II

霊魂の話 II
折口信夫

       石成長の話

 日本には、古くから石成長の話がある。また漂著神ヨリガミの信仰がある。これもたま成長の信仰と関係があってできたものだと思う。たまが成長をするのに、なにものかの中に入って、ある期間をすごすと考えた事から、その容れ物として、うつぼ舟ひさごを考え、また衣類・フトンのようなものにくるまる事を考えたのであるが、さらにこのたまは、石の中にもはいると考えた。どうして石のようなものの中にはいると考えたか、とにかく、日本の古代にはそうした信仰があった。これが後に、たまが神に飜訳せられて考えられるようになると、神が石になると信じられるようになった。こんどアルスの児童文庫の中の一冊として書かれた柳田先生の「日本伝説集」にも、石の成長する話が出ているが、先生はこれまでにも、そうした石の成長する話をたくさん書かれているので、「君が代は千代に八千代に」の歌なども、たんに詩人の空想から、ああした言葉をつらねただけではない。すでに古くそうした信仰があって、あの歌はできたのだと論じられたこともある。

 どうして、石のようなものが成長する、と考えたのであろうか。拾うてきた石が、家に帰りつくまでに大きくなったとか、祠にまつったのが一晩の中に大きくなって祠を突き破ったとかいう話が、数かぎりなく諸国にある。古代人はそうした信仰をもった。小さい間は、大きくなると思っているのだろうが、それから後は信仰である。目に見えない事を信ずるのだから、信仰というよりほかに、説明のしようがない。どうしてそんな信仰を持つ様になったか。先生にもすでに説明があったが、ここですこしばかり、わたしの考えを述べてみたい。

       神の容れ物としての石

 前に、この石成長の話も、たま成長の信仰と関係がある、木や竹の中に入って成長すると考えたたまが、石の中にもはいる、と考えたとのべたが、後世の考えからすると、木や竹ならば、入っても成長するだけの空間があると考えられるが、石のようなものでは、第一はいることもできず、それが大きくなるなどということは、とうてい考えられない事だと思うが、昔はそう信じたので、すなわち、たまがそのなかで成長すると信じたので、成長してある時期がくると、さきのうつぼたまごひさごのばあいのように、やはり石がわれて神が出てくると考えたのであるが、その石から神が出てくるという話の中間の一部分——石が大きくなるという一部分だけ——が発達してきたので、ついにわれわれには、訣のわからぬ話になってしまったのである。
 人や動物が化石したという話も、じつはこの信仰の中間にできたものだと思われる。石の中にたまがはいったとだけを考えると、人が石になった、犬が石になった、と考えるようになる。沖縄には、ことにそうした話が多い。これを逆に考えると、死んで石になったとの考えも出てくる。さよ姫の化石はなしのようなものができてくるのだが、この考えは反対だと思う。
 この石が、神の乗り物・容れ物と考えられた例が、だんだんある。石がじっとしていないで、よそからやってくるばあいがある。石にたまがはいるという信仰には、たまがよそからやってきてはいるのと、すでに入ったものが、他界からやってくると考えたのと、このふたつがあったようだ。後者は、海岸にことに多い。古くからあった像石カタイシ信仰がそれである。大洗の磯崎神社の像石は、この有名なひとつで、一夜の中に、海中から出現した神だ、といわれている。

       おおくにぬしおおものぬし

 おおなむちすくなひこなとがひとつものに考えられたには、理由がある。すくなひこなが他界からきた神である事は前にのべたが、おおくにぬしの命が、このすくなひこなをうしなうて、海岸に立ってうれえていると、海原をテラして、よりくる神があった。「なにものだ」と問うと、「おれはおまえだ。おまえの荒魂アラミタマ和魂ニギミタマ奇魂クシミタマだ」とこたえたとある。やまとの三輪山にまつったおおものぬしの命であるが、この三つのたましいが、おおなむちについていたのである。たまには、形はないが、すくなくともこの話では、ひかりをもっていた事が考えられる。
 日本の神々に、いろいろな名があるのは、一の体に、いろいろなたましいがはいると考えたからで、そのたましいに、それぞれの名があるからだと思う。元は、体はたまの容れ物だと考えた。三輪山のおおものぬしの命は、この神自身は、人格をそなえていない、すなわち、眼に見えない精霊で、おおものぬしものそのものが示しているように、純化した神ではないのである。それで、おおくにぬし自身ではないが、また、おおくにぬしでもあることになるのである。

       漂著石——石移動の信仰

 かようにたまだけがやってくる事もあり、それが体にくっつくばあいもあり、さらにこのたまが、石にはいることもあり、石に入ってやってくることもあると考えたので、一夜の中に、常世の波にうちよせられて、こつぜんと石があらわれ、みるみるうちに、大きくなったという信仰はなしが、そこから発生した。石が流れよるなどとは考えられない事だが、たまがよりくるひとつの手段として、こんな方法を考えたのだとみればよい。そこに石移動の信仰も生まれた。柳田先生の生石の話がそれである。
 石が大きくなったという話に、石と旅行をした話が付随しているものがある。後世では、熊野へ行ったとき、あるいは伊勢へまいったとき、淡路へ行ったときに、拾うてきた石ということになっているが、これは、巫女のたぐいが、従来あった石成長の話を、諸国にもって歩いた印象が、残ったのだと見られる。
 わたしは、おそらくその前に、石そのものがあちこち移動をし、あるくものだという話が、かならず出来ていたのだと思う。それがそうした話に、不審をいだく時代になって、次の携帯してあるく人の話ができたのではなかったろうか。

       石こづみの風習

 これは、石の中にたまがはいる、と考えた事から生じた、ひとつの風習と考えられるが、石の中に人をつみ込む風習が、古く日本にあったようだ。男子が若者になるためには、成年戒をうけねばならなかった。かれらは、先達にともなわれて山にのぼり、ある期間、山ごもりをしてくるのであるが、その間に、この風習がおこなわれたようだ。修験道の行者仲間には、かなりのちのちまで、この風習が残っていた様で、謡曲の谷行タニコウを、ああした読みかたをするのにも、なにかわけがあるのだと思われる。かれらの仲間では、死んだものがあると、谷におとして、石をふりかける。悪い事をした者は、石こづみにする。こづむとは、つみあげる事である。これが、後に石こづめといわれるようになって、奈良のサル沢の池の石こづめ塚のような伝説もできたのであるが、元は、山伏し仲間の風習であった。それが、のちには、山伏し以外の者にも、刑法としておこなわれるようになった。
 ただし、山伏し仲間では、これが刑罰としてではなく、復活の儀式としておこなわれた時代があったに相違ない。前にのべた、衣類やフトンにくるまって、たましいが完全に、体にくっつく時期をまった、とおなじ信仰のもので、石のなかには、はいる事ができないために、石を積んだのである。そうすると、生まれかわると信じたのである。

       山伏し生活のおこり

 いったい山伏しの仕事は、なにからはじまったかというと、あれはがんらい、仏教から出ているのではない。日本の古い神々のおしえが、そうした形をもっていたので、村の若者を山ごもりをさせて、男にすることが、そのひとつであった。この時期が、後の山伏しの精進・行といわれるものであったので、山伏しのこもりに行くのは、すなわち、若者になりに行った風習のなごりである。
 この風習は、山伏しを専門にしない者の間にも残った。近年まで、羽後の三山などへ出かけたのが、それである。これは、従来の神道や仏教では、説明のできない事なので、ただ山ごもりのことを考えてみると、山伏しの生活のはじまった、元のすがたがわかると思う。そして、これが宗教化し、毎年、時期をさだめておこなわれている中に、一種の宗教的な形をもつようにもなったのだが、さらにこれが、奈良朝以前からすでにあった、山林仏教の影響をうけて、ついにその一派のように説明せられてきたのである。その山伏しに、石を積んで、人をいれる法式が残っているというのはおもしろい。
 二、三年前、三河の山奥へ入って、花祭りという行事を見た。旧暦をもちいたころは霜月におこなわれたが、いまは初春の行事となっている。古い神楽の一部分で、神楽は三日三晩つづいた、その一部分だと説明せられているが、ようするに、村の若者に、成年戒をさずける儀式のなごりと見られるもので、白山というものを作って、若者に行をさせる。人にならせるという、信仰があったのだと思われる。
 かように、若者になるためには、石につめたり、山の中に塗りこめたりすることがおこなわれたので、ふつう、山ごもりは、たんなる禁欲生活だと思われているが、じつはその間に、こうして、いちど自然界のものの中に入って来なければならなかった。それをしなければ、人にもなれなかったのである。これは、神のたましいが育つのと、同じことになるので、他界からくるたまをうける形なのであって、そうすることによって、村の聖なる仕事に、与る資格が得られる、と考えたのである。
 こういう風に考えてみると、他界からやってくるたまは、たんに石や木や竹のようなものの中にやどるのではなく、人自身が、ものの中に入って、たましいをうけてくるのであった。おかしな考えのようであるが、日本人が、最初から、現実にたましいをもってきていると考えたら、こんな話はできなかったと思われる。すなわち、容れ物があって、たまがよってくる。そうして、人ができ、神ができる、と考えたのであった。

       たまたましいとの区別

 たまからたましいに入って見ると、用語例が、さまざまに混乱していて、自分にも、賛成のできないような、矛盾した気持ちで話をしなければならぬが、たまたましいとは、ならんでいるのだから、これはどうしても、別のものと考えねばならぬ。たましいたまで、すなわち、火光を意味する、と説明した学者があったけれども、それは信じられない説である。すくなくとも、第二義におちた説明だと思われる。やはりじっさいに使うている例から、考えねばならぬと思うが、やまとだましいとか、そのほか、平安朝に書かれた用語例などで見ると、これは知識でなく、力量・才能などの意味につかわれているので、活用する力・生きる力の意をもった、極はたにいえば、常識ということにもなるので、ある学者は、大和魂を常識として説明したが、それまでには考えなくとも、すくなくとも、はたらいている力、ということにはなるのである。
 沖縄へ行って見ると、この二者のつかい方が、あきらかにちがう。たまは、われわれのいうたましいのことで、たましいは、才能・技量を意味する。ぶたましぬむん不たましい之者ブタマシノモノ)というのは、器量のないもの・働きのないものということになるので、平安朝時代の用語例と、ひじょうによく似た近さを、もっているのである。
 そうすると、たまたましいとの区別は、どこにあるかということになってくるのだが、その説明は、簡単にはできない。とにかく、すくなくとも、たましいというものは、目にみえるひかりをもったもの、尾をひいたものではない。抽象的なもので、体に、はいったり出たりするものがたまだったのであるが、いつかそれが、これを具体的にしめした、すなわち、たましんぼるだったところの鉱石や動物の骨などだけが、たまとよばれ、抽象的なものの方は、たましいという言葉で、現されるようになった。たいへんな変化がおこったわけである。
 この、たまたましいとの区別については、いずれ機会を見て、もういちど話をしてみたいと思う。
 
 
 
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗学 第一巻第三号」
   1929(昭和4)年9月
※「郷土研究会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2006年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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 霊魂の話

霊魂の話
折口信夫

       たまたましい
たまたましいとは、近世的には、このふたつが混乱してつかわれ、大ざっぱに、同じものだと思われている。もっとも、なかには、このふたつに区別があるのだろうと考えた人もあるが、あきらかなこたえはないようである。私にもまだ、はっきりとした説明はできないが、多少のあかりがついた。それを中心に話を進めてみたいと思う。

古く日本人が考えた霊魂の信仰は、後にだんだんかわって行っている。民間的に——知識の低い階級によって——おいおいに組織だてられ、統一づけられた霊魂の解釈が加わっていったためだと思う。だからそのうちから、似よったものをとりだして、ひとつの見当をつける事は、却々なかなか困難であるが、まずだいたい、たまたましいとは、ちがうものだという見当だけをつけて、この話を進めたい。いずれ、最初にたまの考えがあって、後にたましいの観念が出てきたのだろう、というところにおちつくと思う。
       たまの分化——神ともの
日本人のたまに対する考え方には、歴史的の変化がある。日本の「神」は、昔の言葉であらわせば、たまと称すべきものであった。それが、いつか「神」という言葉で飜訳せられてきた。だから、たまで残っているものもあり、神となったものもあり、書物の上では、そこに矛盾が感じられるので、あるときはたまとしてあつかわれ、あるところでは、神としてあつかわれているのである。
たまは抽象的なもので、時あって姿をあらわすものと考えたのが、古い信仰のようである。それが神となり、さらにその下に、ものと称するものが考えられるようにもなった。すなわち、たまに善悪の二方面があると考えるようになって、人間から見ての、いい部分が「神」になり、邪悪な方面が「もの」として考えられるようになったのであるが、なお、習慣としては、たまという語も残ったのである。
先、最初にたまの作用から考えてみる。
われわれの祖先は、ものの生まれ出るのに、いろいろな方法・順序があると考えた。いまふうの言葉であらわすと、その代表的なものとして、卵生と胎生との、ふたつの方法があると考えた。古代を考えるのに、今日の考えをもってするのは、もちろんいけない事だが、これはだいたい、そう考えてみるよりしかたがないので、便宜上こうした言葉をつかう。このふたつの別け方で、ほぼよい様である。
胎生の方にはたいして問題がないと思うから、ここでは、卵生について話をする。そうすると、たまの性質がわかってくると思う。
       なるうまるある
古いもので見ると、なるという語で、「うまれる」ことを意味したのがある。なるうまるあるは、往々同義語と考えられているが、あるは、「あらわれる」の原形で、「うまれる」という意はない。ただ「うまれる」の敬語に、転義したばあいはある。万葉などにも、この語に、貴人の誕生を考えたらしい用語例がある。けれども、厳格には、神聖なるものの「出現」を意味する言葉であって、貴人について「みあれ」というたのも、あらわれる・出現に近い意を表したと見られるのである。すなわち、永劫不滅の神格を有する貴人には、誕生という事がない。休みからの復活であると信じたのである。あるが「うまれる」の敬語に転義したわけが、そこにある。
うまるの語根は、うむである。うむは「はじまる」と関係のある語らしい。うぶから出ている形と見られる。これに対して、なるという語がある。あるは、形をそなえて出てくる、すなわち、あれいづであるが、なるは、はじめから形をそなえないで、ものの中にやどることにつかわれている。くわしくは、なりいづというべきである。
このなるの用語例が多くなってくると、という語だけに意味が固定して、を語根とした、なすという語などもできてきた。なるという語には、べつに、ものの内容ができてくる——充実してくる——という同音異義の語があるが、元はひとつであるに相違ない。同音異義でなく、意義の分化と見るべきであろう。
       発生における三段の順序
たまごの古い言葉は、かい(穎)である。「ウグイスの、かいこの中のほととぎす」などの用語例が示している様に、たまごのことをかいこというた。カイコにもこの意味があるのかもしれぬが、これはしばらく、昔からの「飼いこ」としてあずけておこう。
ものをつつんでいるのが、かいである。米のことをかいというたのは、モミにつつまれているからいったので、すなわち、モミがかいなのだが、はいてお米のことにもなったのである。ちかいももかいしるにもかいにもなどの、用語例で見ると、昔はモミのまま食べたのかとも思われる。モミははきだしたのであろう。そうでないと、かいのつかい方が不自然である。
かいは、もなかの皮のように、ものをつつんでいるものをいったので、ここから、ハマグリ貝・シジミ貝などの貝も考えられるようになったのであるが、このかいは、密閉していて、穴のあいていないのがよかった。その穴のあいていない容れ物の中に、どこからか入ってくるものがある、と昔の人は考えた。その入ってくるものが、たまである。そして、この中である期間をすごすと、そのかいをやぶって出現する。すなわち、あるの状態をしめすので、かいの中に入ってくるのが、なるである。これがなるの本義である。
なるをくだものにのみ考えるようになったのは、意義の限定である。ただしくだものがなるというたのも、その中にものが入ってくるのだと考えたからで、原の形をかえないで成長するのが、熟するである。熟するという語には、大きく成長するという意もふくんでいるのである。
かように日本人は、ものの発生する姿には、原則として三段の順序があると考えた。外からやってくるものがあって、それがある期間ものの中に入っており、やがて出現してこの世の形をとる。この三段の順序を考えたのである。
       なるの信仰から生まれた民譚
竹とりものがたりのかぐや姫は、このなるの、適切な例と見られる。この物語には、なるという語はつかってないが、ないだけに、かえって信用ができるように思われる。
なよ竹のかぐや姫は、山の中の竹の、——節と節との間の空間——の中にやどってそだった。それを竹とりのおきなが見つけてつれてくる。この物語は、純粋の民間説話でなく、それをとって平安朝にできたものがたりであるから、自然作意がある。姫がどうして、竹のの中にはいったかなどということもいわれてはない。天で失敗があって下界におり、ある期間を地上にいてまた天へかえったというふうに、きれいに作られている。
類型の話は、なおいくつかある。桃太郎の話が、やはりそのひとつである。われわれの考えからいえば、モモの中にどうして人がはいったろうとうたがわないでいられないが、昔はそこまで考える必要はなかったのだ。この話では、モモの実が充実してくるという考えと、桃太郎が大きくなって出てくる時期をまっているという考えとが、ひとつになっている。朝鮮には、卵から生まれた英雄の話がたくさんある。日本と朝鮮とは、一部分共通している点がある。あめのひぼこは、朝鮮からやってきた神だが、やはり卵の話に関連している。
卵の話は、日本にもぜんぜんない事はないが、日本には、卵でなく、もっとほかの容れ物があった。ウリに代表させていいと思うが、ウリというと、平安朝ごろまではまくわのことで、食べられるものの事をいった。古くは、主としてひさごを考えた。そのひさごの実が、だんだんふくれてきて、やがてぽんとはじける時がくる。それはそれ中に、あるものが育っていると考えたのである。
さらにこうした話は、もっと異った形でも残っている。聖徳太子に仕え、中世以後の日本の民俗芸術の祖といわれている、秦河勝には、ツボの中に入って三輪川を流れてきた、との伝説が付随している。このツボには、ふたがあった。桃太郎の話よりは、多少進化した形と見られる。
       たまのいれもの
日本の神々の話には、なかには大きな神の出現する話もないではないが、それよりも小さい神の出現について、説かれたもののほうが多い。このらの神々は、たいていものの中に入ってくる。その容れ物がうつぼ舟である。ひさごのように、人工的につめをしたものでなく、中がうつろになったものである。これにふたがあると考えたのは、後世のことである。書物で見られるもので、この代表的な神は、すくなひこなである。この神は、適切にたまというものを思はす。すなわち、おおくにぬしの外来魂の名が、このすくなひこなの形でしめされたのだとも見られる。
この神は、かがみの舟に乗ってきた。ささぎの皮衣を着てきたともあり、ひとり虫の衣を着てきたともあり、鵞あるいは蛾の字があてられている。かがみぱんやの実だともいわれるが、とにかく、中のうつろなものに乗ってきたのであろう。かつて柳田国男先生は、彼荒い海中をのりきつてきた神であるから、おそらく潜航艇のようなものを想像したのだろうといわれた。
かように昔の人は、他界からきてこの世のすがたになるまでの間は、なにものかの中に入っていなければならぬと考えた。そしてその容れ物に、うつぼ舟・たまごひさごなどを考えたのである。
       ものいみの意味
なぜこうしてものの中にはいらねばならぬのであったか。その理由は、われわれにはわからぬ。あるいは、姿をなさない他界のものであるから、姿をなすまでの期間が必要だ、と考えたのであったかもしれない。ただし、もうひとつ、ものがなるためには、じっとしていなければならぬ時期があるとの考えもあったようだ。えびかにが固いカラにつつまれてじっとしているのも、ヘビが冬眠をするのも、昔の人には、よほど不思議なことに思われたに相違ない。光線もあたらない、暗黒の中に、じっとしていたものが、やがて時がくれば、その皮をぬいで、りっぱな形となってあらわれる。古代人は、そこに内容の充実を考えたのであろう。
この話は、日本の神道で最大切なことに考えていた、ものいみと関連がある。ものいみは、この自然界の現象から思いついた事であるかとも考えられるが、あるいは、そうした生活があったために、この話ができたのかもしれない。これは今のところ、どちらともいえないが、とにかく、古く日本には、神事に与る資格を得るためには、ある期間をじっと家の中、あるいは山の中にこもらねばならなかったのである。
にこもるということは、フトンのようなものをかぶってじっとしている事であった。大嘗会の真床覆衾(神代紀)がそれである。そうしていると、たましいが入ってきて、次の形を完成すると考えた。その時は、フトンがものをつつんでいるので、つかひである。そうして外気にあたらなければ、なかみが変化を起すと考えた。完成したときがみあれである。これは昔の人が、生物のよう態を見ていて考えたことであったかもしれない。
       うつすつすだつそだつ
話が多少複雑になってきたので、ここらで単純にもどしたいと思う。
古い言葉に、これはうつぼにも関係があると思うが、うつという語がある。空・虚、あるいは全の字をあてる。熟語としては、うつはた(全衣)・うつむろ(空室)などがある。うつは全で、完全にものにつつまれている事らしい。このはなさくや姫のうつむろは、戸なき八尋殿を、さらに土もて塗りふさいだとあるから、すっかりものにつつまれた、窓のない室の意で、空の室を言ったのではないと思う。ただそれが、空であったばあいもあるのである。
うつに対してすつという語がある。うつにはふたとおりの活用がある。うてうてうつうつるうつれと活くばあいと、うつてうつてうつつうつつるうつつれと活くばあいと、この二様がある。なげうつは、ものをなげたときの音の連想から、うちつけるに感じが固定したようであるが、古くはそうでなかった。現在の語感から古語を解剖すると、往々あやまりを生じる。このなげうつも、たまの信仰にてらしてみると、どうしてこの語ができたか、元の形がわかると思う。
琉球の古語のすじゆんは、ものの中から生まれ出ることを意味した語らしい。これは蘇生する・復活するなどに近い気分をもった語である。日本のうつにも、それがある。このすじゆんの語根すじは、他界からくる神を表した語らしく、日本のたまとほぼ、同義語のようである。柳田先生は、このすじを、わが国の古語いつ(そば威)とひとつものに見られた。
いつは「みいつをいのりて」とか「いつのちわきにちわきて」などの用語例に入ってくると、多少内容がかわってくるが、ほんとうは、列と列とが近くて区別のなかったとき、いつともうつともいったらしく、ちはやぶるいつはやぶるで、まとうつはやぶるともいって、たましいの荒ぶる方面をいったのだが、それがいつか、神のまくらことばになってしもうた。おそらく、そうした暴威をふるう神のあったことを考えた事からできた語であると思われる。
とにかく、琉球のすじと日本のうつとは、おなじ意味の言葉である。すだつは、巣に連想が向いたために、すだつと説いて、主として鳥を連想するようになったが、語根 stu であることを考えれば、すだつそだつは同じものであると見ていい。すつは、いっぽうすてるという意を持つ様になった。うつも、うつぼ舟・うつせみなど、からつぽの意にも、目のないものの意にも考えられるようになった。
うつすつすだつそだつは、いずれもたまの出入りについていった語である。たまがものの中でなりいづ——あるるにいたる——までの期間にもちいた言葉であったのだが、それがいつか、かいの中に出入りすることをあらわす動詞ともなった。ものの中に入ってくる事を考えたと同時に、外へ出る事を考えた。そうして出る方ばかりにつかわれるようになって、はいる方の考えがだんだん薄らいでいった。すだつそだつはその代表的な言葉だと見られよう。

(つづく)

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 『連環記』キャラ

幸田露伴『連環記』
登場人物一覧

賀茂忠行 かもの ただゆき
安倍晴明の師。

賀茂保憲 かもの やすのり
賀茂忠行の長子。保胤の兄。累代の家の業をついで、陰陽博士、天文博士となる。賀茂氏の宗。保憲は十歳ばかりの童児のとき、法眼すでにあきらかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられたその道の天才。

源 英明 みなもとの ひであき
文人。本朝文粋にのこる。

源 為憲 みなもとの
文人。本朝文粋にのこる。

源 順 みなもとの したごう
保胤と順とはべつに関渉はなかった。
◇撰『和名類聚抄』

具平親王 ともひら しんのう

紀 斉名 きの まさな
四条公任卿が中納言を辞そうとしたとき、紀斉名に辞表を草するように依頼、斉名は筆をふるって書くが卿は気に召さなかった。

大江以言 おおえの もちとき
四条公任卿はあらためて大江以言に委嘱。以言も起草するがそれにも満足せず、匡衡に文案して欲しいと頼む。

慶滋保胤 かもの やすたね
 寂心
?-長保4.10.(※続往生伝は長徳3)
賀茂忠行の第二子。保憲の弟。姓をあらためて慶滋とした。保胤は菅原文時の弟子となって文章生となる。大内記。牛馬がムチに打たれるのを見てハラハラと涙をながしたり、道で泣く女に自分の石帯を貸しあたえたという。保胤は弥陀如来の徒。「唐の白楽天を異代の師となし、晋朝の七賢を異代の友となす」。
 寛和二年、出家して寂心となる。子息の冠笄わずかにおわるにおよんで、ついにもって入道す(匡房、続往生伝)。内記の聖と呼ばれる。東山如意輪寺に住み、恵心の弟子になる。僧官などは受けなかったようだが、藤原道長も寂心を授戒の師と頼んだ。西は播磨、東は三河にまで行った。陰陽師のマネをしていた僧に、じぶんが集めていたたくわえをすべて与えて、京へ上り帰ったという。寂心が僧となっての二、三年は大江定基が三河守になっていた時。死後、道長が布施をなし、その諷誦文を大江匡衡が作る。永観元年の改元の詔、同二年、封事をたてまつらしめらるるの詔を草したのをはじめとして、二十編ばかりの文、往生極楽記などを遺した。保胤の妻および子はどんな人であったか伝わっていない。
◇著書『池亭記』『日本往生極楽記』『往生伝』

高尾の文覚 もんがく

黄蘗の鉄眼 おうばくのてつげん

善滋為政 かもの ためまさ?
保胤の弟の文章博士・保章の子。為政は文章博士で、続本朝文粋の作者のひとり。

恵心 けいしん?
東山如意輪寺。寂心(慶滋保胤)の師。頭陀行(乞食行)を厳修。台宗問目二十七条を撰して、宋の南湖の知礼師についてこれを質そうとした。伝説にはこの人一乗要訣を撰したときには、馬鳴菩薩竜樹菩薩があらわれて摩頂賛嘆し、伝教大師は合掌して、我山の教法は今なんじに属すと告げられたと夢みたという。

増賀 ぞうが?
?-長保5.6.8没
参議橘 恒平(たちばなのつねひら)の子。春久の叔父。十歳から叡山へ上がり、慈慧について仏道をまなんだ。多武峰(とうのみね)。寂心が止観をうけた。元亨釈書に、安和の上皇、みことのりして供奉となす、佯狂垢汗して逃れ去る、としるしている。死に近づいたころ、弟子どもに歌をよませ、自分も歌をよむ。死の間際、碁を打たばやと思いて打ち、古泥障をかけてつばさとして胡蝶の舞を舞った。享年八十七。

源信 げんしん
僧都。横川(よかわ)。源信の方が寂心よりはすこし年がおとっていたかもしらぬが、おさなきより叡山の慈慧について励精刻苦してまなび、顕密双修、行解並列のおそろしい傑物。
◇著書『一乗要訣』『往生要集』

春久 しゅんきゅう
増賀上人の甥。竜門寺にいたが、増賀の介抱にきていた。

然 ちょうねん 東大寺の僧侶。永観元年、入宋渡天の願を立てて彼地へ到る。前年、天元五年七月十三日、然は母のために修善の大会をもよおす。母は齢六十。ちょうど慶滋保胤がいまだ俗を脱せずに池亭を作りもうけた年。保胤は然のために筆をふるってその願文を草した。然上人の唐におもむくを餞して賦して贈る人びとの詩の序も保胤が撰した。然はインドへ行くのはやめて、大蔵五千四十八巻および十六羅漢像、今の嵯峨清涼院仏像などを得て、寛和元年に帰朝。寂照が宋に入る十六、七年のこと。

佐理 さり
四、五年前に失ったばかりの時代の人。書の大家か。

円融院の中宮遵子 ゆきこ

藤原道長 ふじわらの みちなが
寂心から三帰五戒をさずかる。妻は倫子(とも)。倫子は左大臣源雅信の娘で、准三宮、鷹司殿と世に称される。

菅原道真
菅原古人の曾孫。

菅原文時 すがわら ときふみ?
古人六世の孫。儒家であり詞雄。慶滋保胤(寂心)の師。源英明・源為憲・匡衡も文時に請いてその文章詞賦の斧正をうけたという。詩文は菅三品の作としていまに称揚せられて伝わっている。天暦十一年十二月に封事三条をたてまつる。

四条公任 ?きんとう
中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位。

平 兼盛 たいらの かねもり?
従五位上駿河守。三十六歌仙の一人。是忠親王の曾孫であり、父は篤行(あつゆき)。赤染右衛門の父ともいわれる。

赤染右衛門 あかぞめ えもん
右衛門の母は不明。平兼盛が、当時生れた子をわが娘と称して引き取ろうとして、検非違使沙汰となった。赤染大隅守時用(ときもち)の子として育つ。赤染時用がその当時の検非違使。藤原道長の妻・倫子に仕える。大江匡衡の妻。大江為基との間に、歌の贈答がある。

大江挙周 おおえの ?
大江匡衡・赤染右衛門の子。和泉守。

大江匡衡 おおえの まさひら
大江重光の子。祖父・維時の学を受ける。文章博士。定基の従兄弟。およそ同じほどの年頃。定基が妻を迎えたと同じ頃に妻・赤染右衛門をむかえる。三十前、赤染右衛門も二十幾歳。子は挙周。寂心(慶滋保胤)の諷誦文を作る。ひょろりとして丈高く、さし肩であったといわれる。三輪の山のあたりの稲荷の禰宜の女に通うようになる。赤染右衛門にせめられ、一応は降参して謝罪してすむがまた通い出す。右衛門は女の身許から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて、そこにいた匡衡へ文を送りつける。以降、匡衡はおとなしくしたという。

大江匡房 おおえの まさふさ
続伝のなかには保胤も採録。続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるによれば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇の前年、五十一、二歳ごろ、彼の六条の池亭にあった時であったと推測。近世の才人を論じて、橘 在列は源 順におよばず、順は以言と慶滋保胤とにおよばずと断じた。
◇著書『慶保胤伝』、撰『続本朝往生伝』

大江音人 おおえの おとんど
大江家は音人以来、儒道文学の大宗。音人の子玉淵、千里、春潭、千古、みな詩歌をよくし、千里は和歌をもよくし、小倉百人一首で知られる。

大江維時 おおえの これとき
大江千古の子。贈従二位文章博士。維時の嫡子は重光。次男は斉光。

大江斉光 おおえの なりみつ
大江維時の子。重光の弟。東宮学士。参議左大弁正三位に至る。玉淵の子朝綱、千古、みな文章博士。

大江為基 おおえの ためもと?
大江斉光の長男。定基の兄。文章博士。正五位下、摂津守。病弱で、はやくなくなる。為基・定基兄弟の母と右衛門との間にも後になってたがいに問いおとずれしあう。贈答の歌が残っている。知れるかぎりでは右衛門と為基の恋愛譚は見当らず、また恋物語などがあったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に歌の贈答が少くなかった。

大江成基 おおえの しげもと
為基・定基の弟。長保四年、大江定基が渡宋へ出発したころには近江守になっていたと思われる。

大江尊基 おおえの たかもと
為基・定基の弟。

大江定基の母
寂照(定基)は願文をつくって、母のために法華八講を山崎の宝寺に修し、本朝を辞する。

大江定基 おおえの さだもと
 寂照
?-長元7(?-1034)
大江斉光の次男。為基の弟。匡衡、赤染右衛門の従兄弟。父祖・維時の功により、はやく蔵人にぬきんでられ、二十何歳かで三河守に任ぜられる。慶滋保胤とは知りあいで、定基のほうが年少。妻を家から出し力寿をむかえる。が、ほどなく力寿は病没。死んだ力寿の口を吸う。キジ生けを作らせるが声を立てて泣き出して、国府をあとにして都へ出る。官職位階はみな辞する。鏡を売りにきた女に自分の財物をすべて与え、わが家をすてて東山如意輪寺へ入る。恵心・寂心(保胤)の弟子になる。永延二年、三十か三十一才、寂照と名乗る。僧都となる。
 寂心(保胤)の死後、道長が布施をなし、その諷誦文を大江匡衡が作り、その請状を寂照が記したものが現存する。支那の知礼法師へ恵心の宗問目二十七条を託される。長保四年、渡宋して霊場を参拝。彼土の人びとにも神州の高徳と崇敬。宋主(真宗)に拝謁、紫衣束帛をたまわり、上寺にとどめ号を円通大師とたまわる。このころ丁謂と相知る。最初に謂がしきりに照を世話したころ、照は謂にそのもっていた黒金の水瓶に詩をそえて贈った。
 本国へ帰るべきところ、丁謂にとどめられ、照の徒弟をして知礼の答釈を持て帰らしめ、ついに呉門寺にとどまる。三呉の道俗ようやく多く帰向して、寂照の教化はおおいにおこなわれたといわれている。そのままに呉にあったこと三十余年、仁宗の景祐元年、わが後一条天皇の長元七年没する。

大江定基の妻
ついに家を出る。

力寿
三河の赤坂の駅の長の許。大江定基と出会う。駅の長は女となり、その長の下には美女がその家の娘分のようになっていて、泊まる貴人などの世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、どこそこの長が家といえば、娼家というほどの意味にさえなったくらいであるが、はじめはさほどに堕落したものではなかったから、長の家の女の腹に生まれてりっぱな者になった人びとも歴史に数々みえている。力寿という名は宇治拾遺などにはみられない。わずらい病没する。

鏡を売りにきた女
定基が官職位階をみな辞してしまったあと、鏡を売りにくる。定基はその婦人の窮を救うために、いろいろの自分の財物をあたえとらせる

虎関 坊さん。

紫式部
海老茶式部
清少納言
金時大納言
和泉式部
右大将道綱の母
高 師直 こうの もろなお
卜部兼好 うらべの けんこう

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迦留陀夷 かるだい
釈迦の弟子。教壇の上で穢語を放って今にのこり伝わっている。

西王母

孔子 こうし
年十九にして宋の幵官氏をめとる。翌年に鯉、字は伯魚を生ませる。孔子が継室をむかえられた、それは何氏であったということも、まだ見およばず聞きおよばぬ

子伯魚
子思子の父。妻を去られたようである。伯魚の母すなわち孔子の妻も去られたことは分明。伯魚の弟、妹というものはなかった。

子思子 ししし
孔子の孫。妻を去られたことは分明。

檀弓 六国の人。檀弓一編は礼記にあり。もと伝聞に出ずるもの。

呂洞賓 りょどうひん
仙人。仙道成就しても天に昇ったきりにならずに、いつまでもこの世に化現遊戯して塵界の男女貴賎を点化したということで、唐から宋へかけて処処方方に詩歌だの事跡だのを遺しており、宋の人の間にはその信仰が普遍で、すでに蘇東坡の文にさえもちいられているし、今でも法を修してよべば出てくるとおもわれている。

白楽天
もともと狂言綺語すなわち詩歌を賛仏乗の縁としてみとめるとした。唐人のならい、弥勒菩薩の徒であったろう。

知礼 ちれい?
宋の南湖の僧。当時、学解深厚をもって称されたものであったろう。寂照は恵心の台宗問目二十七条をあらわして、その答えを求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞。答釈を作る。知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見。宋主が寂照を見たまうにおよびて、わが日本のことを問いたもうたので、寂照は紙筆をこいて、わが神聖なる国体、優美なる民俗を答えのべた。

丁謂 ていい ?-明道年間
蘇州長州の人。おそろしいような、またさほどでもないような人であるが、とにかく異色ある人だったにちがいなく、宋史の伝はこれを貶するに過ぎているきらいがある。丁謂が寂照と知ったのは年なお若き時であり、後に貶所にありてもっぱら浮屠因果の説を事としたと史にはある。早く寂照に点化されたのかもしれない。楊億の談苑によれば、丁謂が寂照を供養したとある。
 わかい時孫何と同じく文をそでにして王禹に謁したら、王はその文を見ておおいに驚きほめたという。当時孫・丁と称されたという。累進して丞相にいたり、真宗の信頼を得、乾興元年、晋国公に封ぜられる。蘇州節度使のときの句がある。真宗崩じてのち、その后のにくしみをうけ罪をこうむり、宦官雷允恭と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫、数年にして道州にうつされ、致仕して光州におりて卒した。政敵にたたき落されて死地に置かれた。寂照に先だつこと一年か二年、明道年間に死す。

妲己 だっき 妖怪くさいおそろしい美人
褒 ほうじ 妖怪くさいおそろしい美人
楚王 陳をうちやぶり、夏姫を入れようとする。
夏姫 かき いたるところに不幸をまいた女。
申公巫臣 しんこう ふしん
荘王

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『今鏡』
慶滋保胤『池亭記』
慶滋保胤『日本往生極楽記』
慶滋保胤『往生伝』
大江匡房『慶保胤伝』
大江匡房(撰)『続本朝往生伝』
源 順(撰)『和名類聚抄』
源信『一乗要訣』
源信『往生要集』
『清輔朝臣抄』
『後撰集雑二』
『新勅撰集恋二』
『後拾遺集恋一』
『続千載集恋五』
『宇治拾遺』
『今昔物語』
『赤染右衛門集』
『閑居之友』
『元亨釈書』
『続古今集』
『小倉百人一首』
『大鏡』
『赤染集』
『寂心上人伝』
『梵網経』
『楊億の談苑』
『温公詩話』『詩話総亀』
『丁謂集』『天香伝』
『東軒筆録』
 

大江音人 ┬─玉淵 ──朝綱
     ├─千里
     ├─春潭
     └─千古 ──維時 ┬─重光 ──匡衡
               └─斉光 ┬─為基
                    ├─定基(寂照)
                    │  │
                    │ 力寿
                    │  
                    ├─成基
                    └─尊基
                    
               賀茂忠行 ┬─保憲
                    ├─保胤(寂心)
                    └─保章 ──善滋為政
      
                      安倍晴明
       
菅原古人    ……道真    ……文時

                  藤原道長
                    │
                    倫子

               平 兼盛 
                ×
               赤染時用 ……赤染右衛門 
                         ├──挙周
                      大江匡衡
 
 
 
2006.4.9
2006.4.11 修正
しだひろし/PoorBook G3'99
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内容の誤りはご容赦。指摘歓迎。

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2006年04月08日

 寂照

連環記(ハチ)
幸田露伴

 寂照が去ったその翌年の六月八日に、寂心が止観をうけた彼の増賀は死んだ。時に年八十七だったという。死に近づいたころ、弟子どもに歌をよませ、自分も歌をよんだが、その歌はずいぶん増賀上人らしい歌である。「みずはさす八十路やそじあまりのおいの浪くらげのほねにあうぞうれしき」というのであった。甥の春久しゅんきゅう上人という竜門寺にいたのが、介抱にきていた。増賀は侍僧じそうに、碁盤をてこいと命じた。平生、碁なぞ打ったことのない人であるので、侍僧はあやしく思ったが、これは仏像でも身近くすえようとするのかと思ってとりよせて、前に置くと、我をき起せ、という。侍僧がかきおこすと、碁一局打とう、と春久に挑んだ。合点のゆかぬことだとは思ったが、おそろしい人のいうことだから、言葉にしたがって春久は相手になると、十目ばかりたがいに石を下したとき、よしよしもはや打つまい、といって押しやぶってしまった。春久はおそるおそる、なにとて碁をば打ち給いし、と問うと、何にもなし、小法師なりし時、人の碁打つを見しが、今念仏唱えながら、心にそれが思いうかびしかば、碁を打たばやと思いて打ったるまでぞ、と何事もなき気配だった。また、泥障あおりひとかけもてきたれ、という。馬の泥障などは、臨終近き人になんの要あるべきものでもなく、寺院の物でもないが、とにかく取りよせて持くると、身を掻抱かいいだかせて起きあがり、それを結びて吾がくびにかけよ、という。ぜひなく言葉のごとくにすると、増賀はしいておのが左右のひじをさしのべて、それを身のつばさのようになし、古泥障をまといてぞ舞う、といって二、三度ふたふたとさせて、これ取り去れ、といった。取り去って後、春久は、これは何したまえる、とおそるおそる問うと、若かりしころ、となりの房に小法師ばらの多くありて笑いののしれるをのぞきて見しに、ひとりの小法師、泥障をくびにかけて、胡蝶こちょう胡蝶とぞ人はいえども古泥障をくびにかけてぞ舞うと歌いて舞いしを、おかしと思ったが、としごろは忘れたに、今日思い出られたれば、それ学びてみたまで、とケロリとしていた。九十に近い老僧がからびた病躯びょうくに古泥障をかけてつばさとして胡蝶の舞を舞うたのであった。死にひんしたおぼえのある人はだれも語ることだが、まさに死せんとする時はおさなき折のさじがあざやかに心頭によみがえるものだという。晴れたそらの日の西山に没せんとするや、かえって東の山の山膚やまはだまでがハッキリとみえるものだ。増賀上人のはるかに遠い東の山には仔細らしい碁盤やこっけいな胡蝶こちょう舞、そんな無邪気なものが判然はっきりとみえたのであろう。しかしそんなことを見ながらに終ったのではない、最期の時は人を去らせて、室内廓然かくねん、縄床にいて口に法花経ほけきょうじゅし、手に金剛の印を結んで、端然たんねんとして入滅したということである。布袋ほていや寒山のたぐいを散聖というが、増賀も平安期の散聖ともいうべきか。いや、そのような評頌ひょうしょうなどは加えぬでもよい。

 寂照は宋に入って、南湖の知礼にあい、恵心の台宗問目二十七条をあらわして、その答えを求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方にかくのごとき深解じんげの人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧ちょうねん入宋にっそう渡天のがんを立てて彼地かのちへ到った。その前年すなわち天元五年七月十三日、然は母のために修善しゅぜん大会だいえをもよおした。母は六十にしてすでに老いたれど、身は万里をこえて遠く行かんとするので、再会のしがたきをおもい、逆修ぎゃくしゅの植善をなさんとするのであった。ちょうど慶滋保胤がいまだ俗を脱せずに池亭を作りもうけた年であったが、保胤は然のために筆をふるってその願文を草したのであった。なかなかの長文で、灑々さいさい数千言、情をつくし理をつくし、当時の社会を動かすには十分のものであった。それからまた然上人の唐におもむくをせんして賦して贈る人びとの詩の序をも保胤がせんした。今やその寂心はすでに亡くなっているが、不思議因縁で寂心の弟子寂照がひとり唐土モロコシに渡ったのである。然はインドへ行くのはやめて、大蔵だいぞう五千四十八巻および十六羅漢像、今の嵯峨清涼院しょうりょういん仏像などを得て、寛和元年に帰朝したのであった。それよりのち十六、七年にして寂照は宋に入ったのであるが、寂照は人品学識すべて然にはまさって見えたので、彼土かのどの人びともさすがに神州の高徳と崇敬そうけいしたのであった。で、知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見せらるるにいたった。宋主が寂照を見たまうにおよびて、わが日本のことを問いたもうたので、寂照は紙筆をこいて、わが神聖なる国体、優美なる民俗を答えのべた。文章は宿構のごとくに何のとどこおるところもなく、筆札は逎麗しゅうれいにして二王の妙をあらわした。それはそのはずで、なにもこしらえごとをして飾りたててわが国のことを記したのでもなく、詞藻はもとより大江の家筋を受けていた定基法師であり、また翰墨かんぼくの書は空海くうかい道風とうふうを去ること遠からず、佐理さりを四、五年前に失ったばかりの時代の人であったのである。そこで宋主(真宗)は日本の国体に嘆美くあたわず、また寂照の風神才能に傾倒の情を発して、おおいにこれをよろこび、紫衣束帛しえそくはくをたまわり、上寺じょうじにとどめ置かせたまいて号を円通大師とたまわった。前世因縁値遇だかなんだかは知らぬが、このころ寂照は丁謂ていいと相知るにいたった。
 丁謂はおそろしいような、またさほどでもないような人であるが、とにかく異色ある人だったにちがいなく、宋史の伝はこれをへんするに過ぎているきらいがある。道仏の教が世に出てから、道仏にるの人は、歴史にはたいてい善正でない人にされていると解するのがあたる。丁謂が寂照と知ったのは年なお若き時であり、後に貶所へんしょにありてもっぱら浮屠ふと因果の説を事としたと史にはある。さすれば謂は早くより因果の説を信じていたればこそ、後年貶謫へんたくされるにいたっていよいよ深くこれを信じたので、あるいは早く寂照に点化てんけされたのかもしれない。楊億ようおく談苑だんえんによれば、丁謂が寂照を供養したとある。いつからいつまで給助したのか知らぬが、有力な檀那だんながつかなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、そのことは実際だったにちがいない。
 丁謂は蘇州長州の人、わかい時孫何そんかと同じく文をそでにして王禹おううしょうえつしたら、王はその文を見ておおいに驚き、唐の韓愈かんゆ、柳宗元の後三百年にしてはじめてこの作あり、とほめたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名はすこし後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名におおわれて、いまは知る者も少ない。淳化三年進士及第して官に任じて、その政事の才により功を立てて累進して丞相じょうしょうにいたり、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公にほうぜらるるにいたった。蘇州節度使だったとき、真宗のたまわった詩に、

践歴せんれき 功みないちじるしく、諮詢しじゅん つとめかならずす。 懿才いさい 曩彦のうげんし、佳器かき 時英じえいをつらぬく。 よく経綸けいりんの業をのべ、めぐりのぼ輔弼ほひつえい嘉享かきょう 盛遇せいぐうをよろこび、尽瘁じんすい純誠じゅんせいつくす。

の句がある。これでは寇準こうじゅんのごとき立派な人を政敵にしても、ながい間は勝ちほこったわけである。政治は力をもちいるよりも智をもちいるを主とし、法制よりも経済をおもんじ、会計録というものを撰してたてまつり、賦税ふぜい戸口ここうの準をなさんことを欲したという。文はもとより、また詩をもよくし、図画、奕棋えきき、営造、音律、なにもかにも通暁して、茶もこの人から蔡嚢さいじょうへかけて進歩したのであり、蹴鞠しゅうきくにまで通じていたか、その詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じてのち、そのきさきにくしみをうけ、ほしいままに永定陵をあらためたるによって罪をこうむり、かつ宦官かんがん雷允恭らいいんきょうと交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫えんたくせられ、数年にして道州にうつされ、致仕して光州におりてしゅつした。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂はかくのごときの人なのである。
 知礼の答釈は成った。寂照はこれをたずさえて、本国へと帰るべきことになったのである。しかるにどういうものだったか、その時は勢威日にさかんであった丁謂は、寂照をとどめんと欲して、しきりに姑蘇こその山水の美を説き、照の徒弟をして答釈をもてかえらしめ、照を呉門寺において、優遇いたらざるなくした。寂照はすでに仏子である。いっさいの河川が海にいればただこれ海なるがごとく、いっさいの氏族が釈門に入れば皆釈氏である。べつに東西のわけへだてをして日本に帰らねばならぬという要もないのであるから、寂照はついに呉門寺にとどまった。寂照は戒律精至、いかにも立派な高徳であることが人びとに認められたから、三呉の道俗ようやく多く帰向して、寂照の教化きょうけはおおいにおこなわれたといわれている。そして寂照はそのままに呉にあったこと三十余年、仁宗の景祐元年、わが後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾かんじとして微笑みしょうしておわった。
 丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が平坦へいたんな三十年ばかりの生活をした間に、謂は嶮峻けんしゅんな世路をあゆんで、上ったり下ったりしたのであった。べつにその間に謂と照とのはなしはない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話したころ、照は謂にそのっていた黒金の水瓶すいびょうに詩をそえて贈った。

提携ていけい三五載さんごさい、日にもちいてかつて離れず。 暁井ぎょうせい 残月をくみ、寒炉かんろ さいしをおく。 はぎん ををまぬかれ難く、莱石 らいせきをなしやすし。 この器 かたくまた実なり、こうす まさに知るべきなるべし。

 答詩があったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時ははなはだしい蛮島であった。謂の作、

いま崖州にいたる 事なげくよし、夢中むちゅうつねに京華けいかにあるがごとし。 程途ていとなんぞただ一万里のみならん、戸口すべて無し三百家。 夜は聞くましら孤樹こじゅいて遠きを、あかつきにはうしおのぼって瘴煙しょうえんのななめなるを。 吏人りじんは見ず中朝ちゅうちょうの礼、麋鹿びろく ときどき 県衙けんがにいたる。

 かかるところへ、死ねがしに流されたのである。しかしそこにあること三年で、内地へかえるを得たとき、

九万里 ほう かさねて海を出で、一千里 つる ふたたびに帰る。

の句をなした。それのみかそういう恐ろしいところではあるが、しかし沈香じんこうを産するの地に流された因縁で、天香伝一編を著わして、めぐみを後人におくった。じつにもっぱら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そしていまに伝わっているのである。かくて香に参したこの人のおわりは、宋人魏泰ぎたいの東軒筆録に記されている。いわく、丁晋公臨終前半月、すでにくらわず、ただ香をたいて危座きざし、黙して仏経をじゅす、沈香の煎湯せんとうをもって時々じじ少許しょうきょあふる、神識みだれず、衣冠を正し、奄然えんぜんとして化しさると。
 
 
 
底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年5月28日作成
2004年2月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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2006年04月05日

 著作権保護に関して思う事

宮崎駿作品は、実は「風の谷のナウシカ」以来見ていない。ナウシカまで(「カリオストロの城」「未来少年コナン」など)でパターンが決まってしまったと思うからである。ナウシカの併映(添え物といった方がよいか)で「名探偵ホームズ」を2本立てで上映していた。久しぶりに映画版のホームズをDVDで見て、著作権の保護について思ったことを書いてみる。

初めにお断りしておくが、私はスタジオジブリの中でもこの「名探偵ホームズ」が特に好きである。改めて見た映画版は、今見ても当時の感動を思い出させてくれた。何回、映画館に足を運んだか覚えていないが(5回は行ったと思う)、ナウシカよりもホームズを楽しみにしていたほどだ。以下、苦言というか苦情のようなことを書くのであらかじめお断りしておく。

テレビ放映版と映画併映版を比較すると、すぐに気付くことがある。下宿の主人の名前がエリソン夫人になっており、悪役の教授もモロアッチという名前になっている。二人の名前は、テレビ放映版では、それぞれハドソン夫人とモリアーティに変っている。テレビ放映版の方の名前が原作に基づいたものであることは言う迄もないだろう。

なによりも驚くことは、エンディングの後に「この映画はコナン・ドイルの著作物に基づくものではありません」というテロップが入っている。映画を見ていた時には気付かなかったが、これはあまり普通のこととは思えない。

今回、改めてDVDで映画版を見てみると、ホームズが名乗るところで、「シャーロック・ホームズ」の「シャーロック」の「ロ」が後で「ル」を加えたような不明瞭な発音になっている。

ウェブで情報を探してみると、映画上映当時はコナン・ドイルの著作権が有効であったために、一部登場人物の名前を変え、最後にテロップを入れたのだそうだ。テレビ放映時には、著作権が失効していたので、原作にある通りの名前に変更したということである。

名前の変更、テロップ、不明瞭な「シャーロック」、こういった状況証拠から想像するに、映画上映時には、著作物を利用する際の許諾を得ていなかったのではないかと思ってしまう(違っていたらすみません)。

最近の著作権保護期間延長などに見る、著作物の保護の動きに少し変だなと思うところがあった。どんなところが変なのか、はっきりしなかったのだけれど、この「名探偵ホームズ」の一件で、少しわかってきたと思う。それは、著作物保護の動きが著作物を作った側の視点のみで動いていることなのだと思う。

著作物が出来る迄には、それまでに公開されている全ての著作物の影響を受けている可能性がある。全ての著作物は、過去の著作物から自由ではあり得ない。とすれば、著作物の保護は、著作物を作る側と著作物を利用する側の二つの視点から、議論されるべきであろう。ところが、現在の動きは、著作権者の権利強化へとのみ動いている。利用する側の視点が完全に欠けている。

著作物の利用によって新たな著作物が出来ることは、明白である。しかし、それを促進するような動きは、あまり見られない。著作物を自由に利用させないように縛る方向に動いている。

作家、映画監督、など著作物の製作に関わっている人は、著作物の制作者でもあり、著作物の利用者でもある。しかし、「名探偵ホームズ」の例に見るように、題名から明らかであるようにコナン・ドイルの著作物に影響を受けて製作された作品に関して、「関係ありません」という意味のテロップを付け加える神経が、よくわからない(22年前のことなので、現在ではこんなことはあり得ないことなのかもしれないが)。うがった見方をすれば、過去の著作物を利用する際には「大目に見てよ」と甘えているような気がする。著作物の利用者として、過去の著作物の著作権を重要視していないように感じられるということである。よい作品を生み出す為ならば著作権は気にしなくてよいということはないだろう。

著作権を巡る動きの中で、著作物の利用者としての制作者の意見が聞こえてこない。財産権としての著作権を主張する制作者のコメントしか見当たらない。新たな作品を生み出す為に、過去の著作物をどれだけ利用しているのか、そしてその自由な利用がどれだけ大切か、について、出来る事なら著作物制作者の意見を聞いてみたい。

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2006年04月03日

 空色通信 2006年3月号

2006年3月は、79作品のファイルが公開された。ニュースとしては、「「青空文庫 分野別リスト」にリンク」があげられる。

【主なニュース】
青空文庫 分野別リスト」へとリンクが張られた。5000を越える作品を読む手がかりが少ないことへの一つの答えであろう。詳しくは、こちら

【公開作品】
 2006年3月には、79作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 もっとも多くの作品が公開されたのは岸田国士で22編(「「明るい文学」について」、「あの日あの人」、「映画素人談義」、「ジヨルジュ・クウルトリイヌに就いて」、「「チロルの秋」以来」、「「チロルの秋」上演当時の思ひ出」、「梅雨期の饒舌」、「衣食住雑感」、「カルナツクの夏の夕」、「劇作家としてのルナアル」、「劇的伝統と劇的因襲」、「俳優教育について」、「仏国議会に於ける脚本検閲問題」、「『落伍者の群』を聴け」、「演劇漫話」、「苦労人クウルトリイヌについて」、「女優と劇作家」、「新劇のために」、「玉突の賦」、「「追憶」による追憶」、「ふらんす役者気質」、「幕が下りて」)。大正末から昭和初期に書かれた随筆、評論である。

 高村光雲は、幕末維新懐古談が7編(「11 大火以前の雷門附近」、「12 名高かった店などの印象」、「13 浅草の大火のはなし」、「14 猛火の中の私たち」、「15 焼け跡の身惨なはなし」、「16 その頃の消防夫のことなど」、「17 猫と鼠のはなし」)が公開されている。坂口安吾は、代表作を含む6編(「堕落論」、「続堕落論」、「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」、「明治開化 安吾捕物 01 読者への口上」、「明治開化 安吾捕物帖 読者への口上」)が公開されている。

 今月は翻訳モノが豊作で、童話が14編とデカルトの「省察」(翻訳は三木清)が公開されている。童話は、アンデルセンが8編(「幸福のうわおいぐつ」、「ひこうかばん」、「旅なかま」、「野のはくちょう」、「しっかり者のすずの兵隊」、「人魚のひいさま」、「もみの木」、「醜い家鴨の子」)、ペローが4編(「青ひげ」、「灰だらけ姫 またの名 「ガラスの上ぐつ」」、「猫吉親方 またの名 長ぐつをはいた猫」、「眠る森のお姫さま」)、ド・ヴィルヌーヴが1編(「ラ・ベルとラ・ベート(美し姫と怪獣)」)、そしてイギリス民話の「ジャックと豆の木」(楠山正雄著となっている)、が公開されている。

 探偵小説/推理小説は、酒井嘉七「両面競牡丹」が公開されている。

 長編は、国枝史郎「名人地獄」、下村湖人「次郎物語 04 第四部」、佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」が公開されている。

 他には、黒島伝治が5編(「田舎から東京を見る」、「砂糖泥棒」、「まかないの棒」、「窃む女」、「雪のシベリア」)、太宰治が4編(「五所川原」、「砂子屋」、「無題」、「横綱」)、勝海舟が4編(「大勢順応」、「旗本移転後の始末」、「黙々静観」、「猟官運動」)、芥川竜之介が2編(「愛読書の印象」、「私の好きなロマンス中の女性」)、寺田寅彦が2編(「新年雑俎」、「俳諧瑣談」)、泉鏡花が2編(「伊勢之巻」、「露肆」)、徳田秋声が1編(「或売笑婦の話」)、南方熊楠が1編(「十二支考 05 馬に関する民俗と伝説」)、海野十三が1編(「地底戦車の怪人」)、西田幾多郎が1編(「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」)、倉田百三が1編(「学生と先哲 ——予言僧日蓮——」)、幸徳秋水が1編(「筆のしづく」)、公開されている。

泉鏡花作品発表年代順リスト」に3月公開分の2編を追加してあります。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

 バックナンバーは、こちら

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2006年04月02日

 芥川龍之介「愛読書の印象」リンク付き

芥川の愛読書を読もう!

愛読書の印象

芥川龍之介

 子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。これ等は今日でも僕の愛読書である。比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。名高いバンヤンの「天路歴程」なども到底この「西遊記」の敵ではない。それから「水滸伝」も愛読書の一つである。これも今以て愛読してゐる。一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記(あんき)してゐたことがある。その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」だの「西遊記」だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」や樗牛の「平家雑感」や小島烏水氏の「日本山水論」を愛読した。同時に、夏目さんの「」や鏡花氏の「風流線」や緑雨の「あられ酒」を愛読した。だから人の事は笑へない。僕にも「文章倶楽部」の「青年文士録」の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」時代があつた。
 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかとかいふやうな絢爛(けんらん)とした小説が好きであつた。それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥(たし)かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」などの影響であつたらうと思ふ。
 さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。


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底本:「芥川龍之介全集 第六巻」岩波書店
   1996(平成8)年4月8日発行
初出:「文章倶楽部 第5年第8号」
   1920(大正9)年8月1日発行
※初出誌に、顔写真と「曇天の水動かずよ芹の中」の句の筆跡写真と共に掲載された。
入力:砂場清隆
校正:高柳典子
006年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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作業中と未着手ばかりでした。すみません。

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 ナンキン娘。

だーや、どごどごどん、
だーや、だーや、どごどごどんどんどん、
た、めーいきのーでるよーな
恋の、尾張は、
愛のナンキン娘。

すぃーすぃーすーだらだっだ
そのうちなんとか、なるだろう〜
ジョーズの前にゴジラがあり、
スター・ウォーズの前にヤマトがある。
J.ウィリアムズの前に伊福部 昭と宮川 泰がいる。

だからといって宮川 泰も松本零士も
大和魂とかさむらい魂とか武士などとヤボなことは
一言もいわない。
武士だあ? カツ節と浪花節のほうがありがてえや
そのくらいのことは言いそうだ
パトリオットは戦艦ヤマトと心中しちまいな。
口先三寸の虫にも五分のやまと魂
乱々、らんら、乱で、一刻館。

もすらー、やっ、もすらー。
ひねもすら。
甘粕マッチでーす。藤原マッチでーす。
銀河満州鉄道666。メーテル、おら悟空だ。
ペアでそろえた、さりげなく。
ギンギラギンにラ・フランス。
おしゃれでシックなナンキン娘。が
すーだらだっだ、すーだらだっだ、
銀色の、はるかな道。

 
 
2006.4.2
みやかわひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンク・トランスレーションは自由です。

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2006年04月01日

 連環記(NANA)

連環記(NANA)
幸田露伴

 定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人がいたのである。定基は寂心の前に端座してわが淵底をつくして寂心の明鑑をあおいだのである。寂心は出塵しゅつじんしてからわずかに二、三年だが、いまはすでに泥水まったく分れて、湛然たんぜん清照、もとより浮世のニカワもなければ、仏の金箔きんぱくくさい飾り気もなくなっていて、ただ平等慈悲のざんまいに住していたのである。二人の談話はどんなものだったか、あったかなかったか、それもわからぬ。ただしかし機縁契合して、師とあおがれ弟子といれられ、定基はついに剃髪ていはつして得度をうけ、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、としはといえば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。

 寂照は入道してから、ただもう道心を持し、道行どうぎょうをはげみ道義を詮するほかに余念もなく、清浄安静しょうじょうあんじょうに生活した。眼前は日に日にほがらかに開けて、大千世界をみることようやくにして掌上の菓をみるがごとくになり、未来は刻々にあざやかに展じて、億万里ほどもただ一条の大路たいろのごとく通ずるを信ずるにいたったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器にまかせて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれにしたがっておおいに益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のようにいい伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた頭陀行ずだぎょうを厳修したので、当時円融院の中宮遵子ゆきこの御方は、あらたに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくてはかえってあまりにすぎたりといって、恵心は乞食こつじきをとどめたという噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、なにも乞食をするのみが唯一のことではないが、二、四、じゅう六の法式のうちの、第三、常乞食じょうこつじきの法が自然に十二行の中枢たるの観をなすにいたっているので、頭陀行をするといえば乞食をするということのようになっている。本来をいえばこの優美でも円満でも清浄でもないシャバ世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分はむさい色目もわからぬ襤褸らんるを着てあまんじ、欲得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれをまもる住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向しおわらんとするのが頭陀行である。その頭陀行のうちの常乞食は、ひとつには因縁所生しょしょうのわが身を解脱にいたらしむるまでの経程をなすのである、二にはわれに食をほどこす者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三にはわれに食をほどこすものをして悲心を生ぜしむ、四にはわれに我心なし、仏の教行に順ずるなり、五には満ちやすく養いやすく、安易の法なり、六には諸悪の根幹たるきょうまんを破る、七には最卑下の法を行ずるによりて最頂上相の感得をいたす、八にはほかの善根を修する者のならうことを生ず、九には男女大小のもろもろの縁事を離る、十にはしだいに乞食こつじきするがゆえに、衆生のうちにおいて平等無差別むしゃべつの心を生ず。これであるからあまりに鄭重ていちょうな供養を提出された時に、恵心がその燦爛さんらんたる膳部に対して「かくてはあまりに見ぐるし」といったのもムリはないことで、ピカピカキラキラしたものを「見ぐるしい」としたのはさすがに恵心であった。その恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日にひきかえて、今日は見るかげもない青道心である。しだい乞食はこれを苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。しだい乞食とは、いい家もまずしい家もえらまず、鉢を持してしだいにその門に立ってを乞うのである。ある日のこと寂照は師の恵心のごとく頭陀行ずだぎょうをした。一鉢三衣いっぱつさんえ、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家によび入れられた。通ってみると、食物を体よくして「庭に畳をしきて、供養しようとしたのである。なんの心もなくその畳にいて、唱え言をして食わんとした。その時そこに向いておろしてあったすだれ捲上まきあげたので、そなたを見ると、好き装束した女のすがたがしだいにあらわれた。すだれは十分にあげられた。だれに言うたのか、女は「あの乞丐かたい、かくてあらんを見んとおもいしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とはたしかに見あわせた。女はまさしく寂照が三河守定基であった時においいだしたその女であった。女の眼のなかには無量なものがあった。怨恨えんこんの毒気のようなものもあった、勝利をほこるようなものもあった、冷やかなものもあった、はなはだしい軽蔑けいべつもあった、軽蔑し罵倒ばとうし去ってのあわれみのようなものもあった、なお自己おのが不幸に沈淪ちんりんしている苦痛を味わいかえしているがごときものもあった、またその反対にあくまでも他をあざけりさいなむような、氷ででもできた利刃のごときものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深くえぐりまわろうとした。割り口説いていえばこうでもあるが、なにもそれがひとつひとつに存在しているのではなく、皆が皆いっしょになって、青黄赤白、なんのひかりともない毒火のほのおとなってほとばしり出ておおいかかるのであった。そして女はきわめてゆるく鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、なんであったかわからぬ、いかなる画にも彫刻にもない、妖異ようい凄惨せいさんなものであった。
 定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、波乱淪はらんりんいはここに生ぜずにはすまなかったろう。しかし寂照は寂照であった、鳥影が池上におちたのみであったから、白蘋緑蒲はくひんりょくほ、かつて動かずであった。いまは六波羅密ろくはらみつの薄いころもに身をまもられて、風の射るもとおらざる境界きょうがいにあるものであった。忍辱にんじょく波羅密はらみつ、禅波羅密、般若はんにゃ波羅密の自然のうごきは、せまりくるまえんをも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただおだやかに合掌した。諸仏菩薩ぼさつの虚空に充満しておられてこっちをていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみのわきあがるにまかせた。われにふきかける火の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼をあたえるわけになった。われに射掛くる利箭りせんの毒は、それだけ彼女のふところを出でて彼女の※[#「匈/月」]裏きょうり清浄しょうじょうにすることになった。われを切り、突き、らんとするいっさい凶悪きょうあく刀槍剣戟とうそうけんげきのたぐいは、われに触れんとするにあたって、その刃頭がみな妙蓮華みょうれんげのツボミとなって地に落つるを観た。施行せぎょうは彼のわれに与うるによって彼の檀波羅密だんはらみつじょうじ、我の彼に受けてむくいるに法を与うるをもってするのゆえに、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」といいて端然たんねんをとり、自他平等利益りやく賛偈さんげをとなえて、しずかにそこを去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照はいよいよ道にはげむのみであった。彼女はその後どうなったかは伝わっておらぬが、おそらくは当時の有識階級の女子であったから、たぶんは仏縁に引かれて化度けどされたでもあったろう。
 寂照は寂心恵心の間にはさまり、そのほかの碩徳せきとくにも参学して、学徳日に進んで衆僧にあおがれよらるるにいたり、幾干歳いくばくさいも経ないで僧都そうずになった。僧都だの僧正そうじょうだのというのは、俗界から教界を整理する便宜上からできたもので、本来からいえば、名誉でもなく、あるべきはずもないものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集にみえている。寂心は僧官などは受けなかったようだが、一世の崇仰すうぎょうを得たことはもちろんであって、のちにはあめが下をほとんどおのが心のままにしたようにわれ、おのれも寛仁の二年の冬には、自己満足のよろこびのあまりに「この世をばわが世とぞおもう望月もちづきのかけたることも無しとおもえば」と、じつにケチな歌をよんでいい気になった藤原道長も、寂心を授戒の師と頼んだのであった。なにも道長が寂心に三帰五戒をさずかったからとて寂心のために重きをなすのではないが、あの果報いみじくて慢しごくであった御堂関白が、このやせぼけたおとなしい寂心を授戒の師とし、自分は白衣びゃくえの弟子として、しおらしくその前にすわったかと思うと、おかしいような気がする。寂心は長保四年の十月にねむるがごとくこの世を去ったが、その四十九日にあたって、道長が布施をなし、その諷誦文ふうじゅもんを大江匡衡が作っている。そしてその請状は寂照が記している。それは今に存しているが、匡衡の文の日付は長保四年十二月九日とある。しかるに続往生伝には、寂心の往生は長徳三年とあって、五年ほどの差がある。続往生伝は匡衡の孫の成衡しげひらの子の匡房のせんだから、これも信ずべきであるが、どうしてそういう相違が生じたのであろう。世外の老人の死だから、五年やそこらはいずれが真実でもさしつかえはないが、想うに書写輾転てんてんの間に生じたいずれかのあやまりなるのみであろう。長徳の方が正しいかもしれぬ。長保四年の冬には寂照が日本にいなかったかと思われるから。
 長徳でも長保でもよい、寂心は晏然あんぜんとして死んだのである。もちろん俗界の仕事師ではなかったから、たいした事跡は遺さなかった。文筆の業も、在官の時、永観元年の改元のみことのり、同二年、封事ふうじをたてまつらしめらるるの詔を草したのをはじめとして、二十編ばかりの文、往生極楽記などを遺したにすぎないでしまったが、当時の人の心界に対して投げたこの人の影は、定基を点化てんけした一事にてらしてもあきらかであった。そこでこの人の往生についてもおもしろいいい伝えが残っている。ふつうの信心深い仏徒や居士のおわりには、聖衆来迎しょうじゅらいごう、紫雲音楽めでたく大往生というのが常である。それで西方兜率天とそつてんかどこかしらぬが遠いところへ移転したきりというのがまりであるが、寂心のことを記したのは、それでおわっていない。東山如意輪寺で型のごとくにいた後、ある人が夢みた。寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、さらにシャバにいますということであった。かかることが歴然と寂心上人伝に記されているのである。わざわざ誰とも知れぬ人のいつの夢ともしれぬ夢などを死後の消息として書いてあるのは希有けうなことである。しかしその夢が、夢中に寂心上人があらわれて自分でそう語ったのを聞いたのだか、そのひとがそうした上人の生まれかわり、または仙人の影法師かのようなものにあったというのだか、なんだかわからずに朦朧もうろうと書いてある。いったいこれはどういうことなのであろうか。なぜそういう夢を見たのであろうか。むかし呂洞賓りょどうひんという仙人は、仙道成就しても天に昇ったきりにならずに、いつまでもこの世に化現遊戯けげんゆげして塵界じんかい男女なんにょ貴賎を点化したということで、唐から宋へかけて処処方方に詩歌だの事跡だのを遺しており、宋の人の間にはその信仰が普遍で、すでに蘇東坡そとうばの文にさえもちいられているし、今でも法をしゅしてよべば出てくるとおもわれている。わが邦でも弘法大師はいまに存在して、遍路の行者とまでもいえない世の常の大師まいりをするくらいの者の間にも時によりてあらわれて、抜苦与楽転迷開悟の教を垂れてくださるという俗間信仰がある。いやそんなことをいうまでもなく、釈迦しゃかにさえもシャバ往来おうらい八千返はっせんぺんはなしがあって、梵網経ぼんもうきょうだか何だったかに明示されている。本来をいえば弥陀みだなり弥勒みろくなり釈迦しゃかなりをたのんで、何かムニャムニャを唱えて、そして自分ひとり極楽世界へ転居して涼しい顔をしようというのは、ずいぶん虫のいいことで、世のことわざにいう「雪隠せっちんでまんじゅうを食う」料簡りょうけん、汚い、ケチなことである。証得妙果の境界きょうがいに入り得たら、こんどは自分がそのいいものを有縁無縁の他人にもほどこし与えようとすべきが自然のことである。そこで菩薩ぼさつとなり仏となったものは化他けたのすでにいそしむことになるのが自然の法で、それがすなわち菩薩なり仏なりなのである。弥陀の四十八願、観音の三十三身、どんな苦労をしても、どんなものに身をなしても、いっさい世間をよくしたい、救いたい、化度けどしたいというのが、すなわち仏菩薩なので、なにも蓮花れんげの上にゆったりすわって百味の飲食おんじきくらこうとしているのが仏菩薩でもなんでもない。寂心は若い時から慈悲心牛馬にまでおよんだ人である。それが出家入道して、所証日に深く、浄土は隣家をみるよりも近々と合点せられるにいたったのである。ついにはこの世彼世をひとまたぎの境界にいたったのである。そこで昔はあれほど想いこがれた浄土もわが手のものとなったにつけて、浄土へ行きっきりとなろう気はなく、自然とシャバへ往来しても化他の業をとろうという心がわきあがったに疑いなく、言語げんぎょのはしにもおのずからその意がもれて、それからある人の夢や世間のうわさも出たのであろう。その保胤のときから慈悲牛馬におよんだ寂心が、自己の証得いよいよ深きにいたって、なんで世人の衆苦充満せる此界しかいにあえぎ悩んでいるのを傍眼よそめにのみ見すごし得ようや。まして保胤であったころにも、その明眼からはすでに認め得てその文章にもらしているごとく、世間はようやく苦しい世間になって、一面には文化の華の咲きみだれ、奢侈しゃしの風の蒸暑くなってくる、ほかの一面には人民の生活はいきづまり、永祚えいその暴風、正暦しょうりゃくの疫病、諸国の盗賊のおこるごとき、やさしい寂心の心からはいかにかなしむべき世間に見えたことであろう。寂心は世を哀み、世は寂心のごとき人をなつかしんでいた。寂心シャバ帰来のはなしの伝わったゆえんでもあろう。もちろん寂心は辟支仏へきしぶつではなかったのである。
 寂心の弟子であったが、恵心についても学んだであろう寂照は、そのゆえに恵心の弟子とも伝えられている。恵心は台宗問目二十七条をせんして、宋の南湖なんこ知礼師ちらいしについてこれをただそうとした。知礼は当時学解がくげ深厚じんこうをもって称されたものであったろう。この事は今くわしく語り得ぬが、恵心ほどの人が、なにも事あたらしく物を問わないでもよかりそうに思われる。しかし恵心はいかにも謙虚の徳と自信のそうとの相対的にあった人で、しかも毫毛ごうまつの末までも物事をあいまいにしておくことの嫌いなような性格だったと概解してもさしつかえないかと考えられる。伝説にはこの人一乗要訣を撰したときには、馬鳴めみょう菩薩ぼさつ竜樹りゅうじゅ菩薩があらわれて摩頂賛嘆さんたんし、伝教大師は合掌して、我山の教法は今なんじに属すと告げられたと夢みたということである。夢とはいえ、馬鳴竜樹にも会ったのである。また観世音菩薩、毘沙門天王びしゃもんてんおうにも夢に会ったとある。夢に会ったということと、うつつに会ったということとは、さほど違うことではない。黒犬にももをかまれて驚いたなどというくだらない夢を見る人は、さめていても、ノミにの目をさされて騒ぐくらいのくだらない人なのである。竜樹や観音に応対した夢を見たなどとは、ずいぶんシャレている、シャレた日常をもっていた人でなくてはみられない。とにかくこれだけの恵心が問目二十七条を撰した。これを支那の知礼法師に示してその答えを得ようというのである。いや、むしろ問をもって教となそうというのだったかもしれない。そこでこれを持たせてやるのに、小僧さんのお使いではしかたがない。ちょうど寂照がかねてから渡宋して霊場参拝しようという念をいだいていたので、これをたくすことにした。そのころ大陸へ渡るということは、今日南氷洋へ出かけてクジラを取るというよりも大さわぎなことであった。しかし恵心にとっても寂照にとっても、双方ともつごうのよいことであったから寂照は母の意を問うた上で出ることにした。滄海そうかい波はるかなる彼邦かのくににわが児を放ちやることは、明日をも知らぬ老いた母にとっては気の楽なことではなかった。しかし母もさすがに寂照の母であった。恩愛の情は母子より深きはない、今そなたと別れんことはまことに悲しけれど、そなたにしてのりのため道のために渡宋せんことはわれもまた随喜すべきである、我いかでなんじの志を奪うべきや、と涙ながらにゆるしてくれた。で、寂照は表をたてまつりて朝許を受け、長保四年いよいよ出発渡宋することになった。
 寂照には成基尊基の二弟があって、成基はこのごろすでに近江守にもなっていたであろうから、老母を後に出て行く寂照には、せめてもの心強さであったろう。しかし寂照が老母を後に、老母が寂照をひきとめずに、慈母孝子たがいに相別るるということははなはだしく当時の社会を感動せしめた。しかもかみは宮廷よりしもは庶民までが尊崇そんそうしている恵心院僧都そうずの弟子であり、また僧都の使命をおびているということもあり、かの人柄も優にやさしかった大内記のひじり寂心の弟子であるということもあり、三河守定基の出家因縁の前後の談の伝わっていたためもあり、老若男女、皆この噂をしあった。で、寂照が願文がんもんをつくって、母のために法華ほっけ八講はっこうを山崎の宝寺にしゅし、いよいよ本朝を辞せんとした時は、法輪さかんに転じて、情界おおいに風立ち、随喜結縁けちえんする群衆ぐんじゅ数を知らず、車馬填咽てんえつして四面をなし、講師の寂照が如法に文をじゅし経を読むころには、感動にたえかねて涕泣ていきゅうせざる者なく、この日出家する者もはなはだ多く、婦女にいたっては車より髪を切って講師に与うる者もできたということである。席にはむろんに匡衡も参していたろう、赤染右衛門もいたろう。ただ彼の去られた妻がなお生きていてここの参集に来あわせたか否やは、知るよしもない。

(つづく)

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 水牛だより4月1日

本屋で文庫本をみていて、『君あり、故に我あり(YOU ARE THEREFORE I AM)』という魅力的なタイトルを見つけました。デカルトの「我思う、故に我あり」の反対です。「その本なら家にあるぜ」と隣にいた家の者がいうので、買わずに帰り、家にあったその本を読んでいます。サブタイトルに「依存の宣言(A Declaration of Dependence)」とあるように、自立や分離や対立ではなく関係や共感をみる哲学。著者サティシュ・クマールはインド生まれで、この本はみずからの記憶を娘に語ったものだそうです。娘による父親の聞き書きです。貧しさが問題なのではない、問題なのは富だというみかたは世界を裏返すと思います。バナナを一本しか持っていないひとはその半分をくれる、でもトラック一杯持っているひとは一本もくれない、と言ったのはインディオのアユトンだったかな。

「水牛のように」を2006年4月号に更新しました。
「大切なわたしのともだち」と「リカちゃんイラクへいく」と「身体と「社会的なるもの」の変化」とが並んでいること、これが水牛です。
四釜さんが紹介している『手で作る本』(山崎曜)はわたしも発売と同時に買いました。よくできた実用書はまず見て美しく、そして自分でもできると思わせてくれるところがすてき。オンデマンド本というのは最近あまり話題になりませんが、技術は進歩しているようなので、そういう最新技術と手作りの部分を組み合わせて、「水牛のように」のあれこれをきれいでちいさなブックレットにしてみたいなあと水牛出版の夢もふくらむのでありました。

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 大江定基

大江定基さだもと
連環記 VI
幸田露伴
 
 およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものではなかろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても妬忌ときの念が今すこしすくなかったらいかに定基が力寿に迷溺めいできしたにせよ、しいてこれを去るまでにはいたらなかったろうと想われる。しかし何がどうあろうとも、一生の苦楽を他人にたよる女のことであるから、よかれあしかれ取りあてたクジの男に別れてはたまるものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。はなはだしいのになると、雨晴れてみのをぬぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと洒落しゃれれているのである。それでいてその男がひどい悪人でもないというのがあるのだから、いったい愛情というものの上には道徳が存するものかどうかと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基はもちろん悪人というのではないが、つまりは馬でいえば癇強かんづよな馬で、人としては生一本きいっぽんの人であったろう。で、女房を逐出おいだし得てからは、それこそせいせいした心持ちになって、渾身こんしんの情をかたむけて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何ひとつ心にまかせぬこともなく、好きな狩猟でもして、山野を馳駆ちくしてこころよい汗をかくか、天うるおいて雨しずかな日は明窓浄几じょうき香炉詩巻、吟詠ぎんえい翰墨かんぼくの遊びをして性情を頤養いようするとかいうふうに、心ゆくばかり自由安適な生活を楽しんでいたことだったろう。ところが、それでいつまでもすめばそんなよいことはないが、花に百日の紅無し、玉樹また凋傷ちょうしょうするは、人生のきまり相場で、造物あにひとりこの人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛じゅそがきいたのかもしらぬ。いつからという事もなく力寿はわずらい出した。当時は医術がなお幼かったとはいえ、それでも相応に手のつくしかたはあった。また十一面の、薬師の、なんの修法しゅほう、かの修法と、祈祷きとうの術もかずかずあった。病は苦悩の多く強いものではなかったが、美しい花の日に瓶中へいちゅうにしおれゆくがごとく、清らなウリの筐裏きょうりにまもられながらようやく玉のつやを失っていくように、しだいしだいおとろえ弱った。定基は焦燥しょうそうしだした。怒りを人にうつすことが多くなった。愁をひとりであじわっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。あるときはやや病がおとろえて元気が回復したかのように、透きとおるようなやつれた顔に薄紅の色がさして、それはじつに驚くほどの美しさがあらわれることもあったが、それはかえって病気の進むのであった。病人は定基の愛にひじょうな感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、しいてうれしげをよそおうて飲んだ。定基にはそれがわかってじつに苦かった。修法の霊水、本尊にそなえたところの清水せいすいをいただかせると、それは甘美の清水であるので、病人は心からよろこんで飲んで、そして定基を見てほのかに笑う、そのこの世においていまはただ冷水をかように喜ぶかと思うと、定基はたまらなく悲しくて腹の中で泣けてしかたがなかった。病気はすこしもなおる方へは向かなかった。いい馬がたしかな脚どりをもって進むように、しだいしだいに悪い方へのみ進んだ。その到着点の死という底なしの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想いしられているようになったことが、こっちの眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人ともそのいまわしいことには、心をも言葉をもふれさせないようにつとめた。たがいに相すてたくない、執着しゅうじゃくの心が、世相の実在に反比例して強く働いたからである。

 日影の動かない日はありえない。その時は来てその影は流れた。力寿は樹の葉がゆれやんで風のなくなったのが悟られるように、ついにやすらかに死んでしまった。定基は自分も共に死んだようになったが、それは一時いっときのことで、死なないものは死ななかった。たしかに生き残っていた。別れたのだ。二つが一つになっていた魂が、彼は我をすて、我は彼にしたがうことがかなわないで、彼は去り、我はのこったのであった。ただ茫然ぼうぜん漠然としていたのみであった。
 生は相あわれみ、死は相捐あいすつということわざがある。そのことわざどおりなら定基はさっそくに僧を請じ経をじゅさせ、野辺の送りをいとなむべきであった。しかしふつうの慣例のごとくにそういう社会事相を進捗しんちょくさせるには定基の愛着はあまりにも深くて、力寿は死んでたしかに我をすてたけれども、我は力寿をすつるには忍びなかった。さくをかえをおき、花をくうし香をたくような事は僕婢ぼくひのなすがままにまかせていたが、僧をよびひつぎにおさめることは、その命をくださなかったからだれも手をつけるものはなかった。一日すぎ、二日すぎた。病気の性の故であったろうか、今すでに幾日かすぎても、面ざしなお生けるがごとくであった。定基はそのかたえに昼もいた、夜もふして、やるせないおもいに、わが身の取置きもわが心よりとはなく、ただ恍惚こうこつ杳渺ようびょうと時をすごした。古き文に、ここを叙して、「悲しさのあまりに、とかくもせで、かたらい伏して、口をすいたりけるに、あさましきの口より出来いできたりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなくほうりてける」と書いてある。生きては人たり、死しては物たり、定基はもとより人に愛着を感じたのである、物に愛着を感じたのではなかった。しかし物なお人のごとくであったから、いつまでもそばにいたのであろう。そしてあるとき思いもよらず、わが口を死人の口に近づけたのであろう。口を吸いたりけるに、と素樸そぼくに書いた昔の文はじつによかった。あさましき香の口より出来りける、とあるが、それはじつにだれもが想像しかねるほどのいとわしい、それこそまことにあさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他のなにものにも比べがたい希有けうの香のするもので、俗に仏様くさいといって怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日かたったものの口を吸ったのでは、いかに愛着したものでもたまらなかったろう。しかし定基はさすがに快男児だった、愛も痴もここまでにいたれば突き当たりまで行ったものだった。その時その腐りかかった亡者が、うれしゅうござんす定基さん、といって楊枝ようじのような細いつめたい手を男のくびにきつけて、しがみついてきたらどういうものだったかしらぬが、自然の法輪に逆まわりはなかったから、定基はあさましいその香におそれおののいて後へ退すさったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりもない遠い海のカツオやマグロの死骸などは、なめて味わってんでんでしまうのであるから、かわいいい女の口を吸うくらい、あたりまえすぎるほどあたりまえであるべきだが、そうはできないのである。ダーキーニなら、これはごちそうと死屍しかばねを食べもしようが、ダーキーニではなかった定基は人間だったから後へ退ってしまったのであった。ここを坊さんの虎関は、会失たまたまはいをうしない愛厚あいこうをもってそうをゆるうし因観九相よりてきゅうそうをかんじ深生厭離ふかくおんりをしょうず、と書いているが、それは文飾が届きすぎて事実に遠くなっている。九相きゅうそうは死人の変化道程を説いたもので、膨張相ぼうちょうそうせいお相、相、血塗けっと相、膿瀾のうらん相、ちゅうかん相、散相、骨相、土相をいうので、なにもいかに喪を緩うしたとて、九相を観ずるまで長く葬らずにいたのではない、大納言の「口を吸いたりけるに」の方がはるかによい文である。そこで定基は力寿を葬ってしまった。葬という字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中にすててしまうことであり、ほうむるという言葉は、ほうり放つことで、野か山へほうりだしてしまうのである。どうもいたしかたのない人の終りは、そうするかそうされるのが自然なのである。生相あわれみ、死相つるのである、力寿定基はついに死相すてたのである。
 力寿にすてられ、力寿をすてた後の定基はどうなったか。どうもない、こうもない、ただそこには空虚があったばかりであった。定基はその空虚の中に、かしらは天をいただくでもなく、脚は地をふむでもなく、東西も知らず南北もわきまえず、是非善悪吉凶正邪、なにもわからずフラフラと月日をすごした。そのうちに四月がきて、年々の例式で風祭りということをする時がきた。風祭りといっても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打ち越えて、名に負える森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、いけにえを神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々おこなわれてきたことだった。定基は三河の守である、式にはもちろんあずかったのである。ただそのいけにえをささげるというのは、イノシシを生けながら神前にひきすえて、男どもが情もなくおろしたのであった。イノシシは鈍物でも殺されるのを合点して忍従するわけはないから、逃れようともすれば、抵抗もする。ついにかなわずして変な声を出してかなしみくるしんで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途でやめるわけにはゆかぬから、みずからたえてそのままにすませてしまった。いけにえということはいつからはじまったか知らぬが、わがくにでは清らな神代のいにしえにはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念はわが神国にも支那の思想や文物の移入とともに伝わったのではないか、すでに今昔物語には人身御供ごくうの物語が載っていて、はるかにのちの宮本左門之助の武勇談などの祖となっている。社会組織の発達の半途にあっては、いけにえの是認せらるべき趨勢すうせいはありもしようが、こくそくたる畜類のあゆみなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神にささげるとはいえ、どうも善いことか善くない事か疑わしいと思わずにはおられないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、はたして善であろうか、そうでなかろうかも疑わしいことである。しかし豪傑主義からいえば、もちろんのこと、神にささげる犠牲などは論ずるにもたらぬことで、そんなことを否認などしては国家の組織は解体するのであるから、巌窟がんくつに孤独生活でも営んでいる者でないかぎりは犠牲ということを疑ってはならぬのが、人間世界の実状である。さてそれからすこしあとのことであった。いままで狩猟などをもよろこんでいたことであるから定基のところへ生きキジを献じたものがあった。定基は、このキジ生けながら作りて食わん、味やよき、心みん、と言い出した。奴僕ぬぼくのうちの心のあらい者は、主人を神とも思っているから、さようでござる、それは一段と味もまさり申そうといい、すこし物わかりのした者は、それはむごいとは思ったが、いさめとどめるまでにもいたらなかった。やがてむしらせると、キジはバタバタとするのを、取っておさえてむしりにむしった。鳥はたまらぬから、涙の目をしばたたきて、あたりの人びとを見る。目を見あわせてはさすがにあわれにたえかねて立ち退くものもあったが、鳴きおるは、などとかえって興じ笑いつつなおもむしりたてる強者つわものもあった。むしりおおせたから、おろさせると、とうにしたがって血はつぶつぶといで、たえがたい断末間の声をだして死んでしまった。あぶり焼きして心見よ、というと、情ない下司男げすおとこは、その言葉どおりにしてみて、これはことのほかにけっこうでござる、生身いきみのあぶり焼きは、死したるのよりもはるかに勝りたり、などといった。いずれはこの世の豪傑共である。定基はつくづくと見ていたが、ついにたえかねて、声を立てて泣き出して、自分の豪傑性を否認してしまって、三河守もなにもあらばこそ、衣袍いほうとりつくろういとまもなく、はんてんの落ち葉ただ風に飛ぶがごとく国府をあとにして都へ出てしまった。
 もちろん官職位階はみな辞してしまった。うたがいいぶかる者、ひきとめる者もあったには相違ない、一族朋友ほうゆうに非難する者もあったには相違ない。が、もうむちゃくちゃムリやり、なんでも構わずに非社会的の一個のただの生物いきものになってしまった。犠牲をささげるのを正しいこととし、犠牲をささげるのをおこたるごときは、神に対するはなはだしい非礼とし、不道とし、大悪とする。犠牲を要求するのは神の権威であり、高徳であり、いっさいを光被する最善最恵の神の自然の方則であり、あるばあいにはみずから進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神にささげるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露としてあまんずるのを純粋な道徳であるとする、したがってそうして神に一致するを得るにいたるを、ということで社会は勇健に成立っているのである。いかにもそれでなくては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というがごときは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求ないし巧要巧求をするのは、豪傑ないし智者なのである。犠牲を甘受しなければフナ一尾いっぴき、卵一個もとれぬのである。うまく味わうがためにキジの一羽や二羽のいけづくりがなんであろう。風の神にささげるイノシシの一匹や二匹のいけにえがなんであろう。易牙えきがはわが子をあぶり物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者はいったいどういうものであるか、卑怯者ひきょうものなのか豪傑なのか。すでに犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、おびただしい数の犠牲取扱人がいなければならぬが、イヤ、一切の人間がたいてい相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのがこの人間世界の実相なのである。人間同士、あまんじて犠牲となりあうのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、そうでない犠牲の自、他、中間の種々相はすなわちシャバ世界の実相である。自分はもう幻影にすぎなかった愛の世界を失ってシャバすなわち忍苦の世界の者となったのみだ、そのシャバにあって又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたびあさましい物のかおりに接しようとも思わぬ、と取りとめもなく、物を思うでもなく、思わぬでもなく、五月雨さみだれのシトシトと降るころを、何かわからぬ時をすごした。もうそういう境界きょうがいを透過した者からいわせれば、いわゆる黒山鬼窟裏の活計をなしていたのであった。そこへ従僕が突としてあらわれて、手になにかしらぬ薄いかたみ様のものをささげてきた。
「なにか」と問うと、老いたその男の答えはきわめて物しずかであった。「そのさまいやしからぬ女の、物ごしもまことによろしくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれてみえたるが、願わくはこの鏡をしかるべくあがない取りてたまわれかしとて持ち参り深々と頼み入りましてのことに、きつくはこばみかねて、要なきこととは存じましたれど、御眼の前にもてまいりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。しかし定基はなにかとたずねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長いわずらいの末か、あるいはどういうかの事情の果にいたく窮乏して、いかんともしがたくなって、わが随一の宝の鏡を犠牲にして売って急をしのごうということらしい。鏡は当時なおなかなかに貴いものであったのである。定基はそのかたみを開いて鏡をみようとすると、その包み紙のなえたるに筆のあとも薄く、「今日きょうのみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情がなにも分ったわけではないが、女の魂魄たましいとする鏡を売ろうとするにのぞみての女の心やその事情がまざまざとむねにうかんできて、定基は闇然として眼をつむって打ちあおいで、たえがたいあわれをもよおした。そこで、鏡はわれに要なければ返し取らせよ、さだめてなにかと物の用あろうほどに、わがものは何なりとおしみなくその人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、といいつけて、涙のもる眼をおしぬぐうた。この鏡を売りにきた女はどういうものであったか、定基になにか因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、なにかの仔細しさいをつけ加えそうなところだが、それはなにも分明していない。おそらくは偶然にこういうことがわいてきたのであろう。しいて筋道を求むれば、人が濁悪じょくあくの世界を離れようとする時には、ふしぎに上求菩提じょうぐぼだいの因縁となることが現出するもので、それは浄居天じょうごてんがさせるわざだ、という小乗的のはなしがあるが、かりにその談にしたがえば、浄居天が定基をよびにきてくれたものであったろう。定基はその婦人の窮を救うために、いろいろの自分の財物ざいもつをあたえとらせた後ふしぎにすがすがしいよい心持ちになった。そしてついにいよいよわが家をすてて出た。もちろん定基の母は恩愛の涙を流したことではあろうが、これをふさぎさえぎろうとするような人ではなく、かえってその背影うしろかげに合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者のは、定基の※[#「匈/月」]のうちにも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙とともに随喜の涙によって唱えられたことであったろう。

(つづく)

★この文章を書いた人→PoorBook G3'99★こんな時間に→00:19コメント (0)トラックバック