2006年02月28日

 沈まない北斗七星

  昨日、公開の坂口安吾の「青春論」を読んで、 「読書blogーすいへいせん」の記事を書いていたら、思い出したことがある。
 彼の、二十歳で亡くなった姪の話の部分を取り上げた。私も、青春時代を病の中ですごしことがある。私の場合、安吾の姪と反対で、友達が毎日のように見舞いに来て、食事制限のある私の分を食べて、そして話し込んでいく。私の病室は笑いが絶えなかった。外が暗くなって、彼らが帰っていく後姿を病室の前で見送った。私の中でわきあがる彼らの優しさへの感謝と彼らの健康への嫉妬。彼らが残していった自由の欠片。私は、それらに背を向けた、同時に同室の誰にも渡すまいとして、彼らの食べたものをゆっくりと片付けたり、持ってきてくれた手紙をひっそりと何度も読んだ。その後でため息をつく。それが日課となっていた。

 ある日やはりそのため息をついて、闇となった窓ガラスに目を向けた。窓際のベッドだった私は、髪を整えるような格好をしながら、じっとガラスに映る自分をみた。そこには十代とは思えない、貧相で強欲な老婆のような私がいた。
 自分を見つめていることが嫌になって、空に目を向けた。冬の厚い雲の割れ目から星が一つ見える。どんな星座のどこの位置の星なのか・・私は知らない。厚い雲の向こうを想像させ、信じさせてくれた。星座という枠から外れた、遠慮がちだが確かにあるその星をみているとガラスの中で斜め向かいのベッドのおばさんと眼が合った。
 五十代のそのおばさんが、
「雪は積もったね、今晩は降らないねきっと。お星さまが見えない?、北斗七星は、夏の星座だったかね?」と言った。星座に不案内な私は黙っていた。黙っているガラスの中の私に笑みを投げかけた。そして
「そのうち必ず退院できるから、みんなといっしょにまた学校へいけるから。」と言った後で、おばさんはさらりと付け加えた。「北斗七星が上ってきて、見えたら教えて頂戴」と。
 ガラスに映る私は唇を噛んでこみ上げてくるものを必死で抑えていた。思春期のアンバランスな精神は、それに一生懸命耐えようとしたが、負けてしまいとうとうカーテンを閉めて布団を被ってぽろぽろと涙を流してしまった。
 そのおばさんはなぜ北斗七星と言ったのかわからない。彼女にとってどんな思い出深い星なのか十代の私には尋ねる余裕がなかった。寂しそうにしている小娘に何を言っていいのかわからなかったから、とっさに出た星座だったのかもしれない。
 やがて春になった。私は学校へ戻った。そのおばさんは、まだ入院していた。私の中からそのおばさんのことも北斗七星のこともあっさりと消えてしまった。その後、大人になってからだったか、まだ学生だったか忘れたが、同室だった人と街で偶然会って、おばさんの訃報を聞いた。昼にもかかわらず北斗七星の柄杓の形が思い浮かんだのを今でも覚えている。
 
 昭和から平成になっても私は生きている。数年前、カナダのバンクーバーに住んでいた人が、バンクーバーでは北斗七星が沈まないのだと教えてくれた。その晩、北斗七星を見た。そういえば、と、おばさんとのやりとりを脳裏の底から穿り返した。そしてその異国の北斗七星をずっと見ていたいと思った。
・・・・とほろにがさとその後の甘い感傷を、昨日思い出したわけである。

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2006年02月27日

 黒衣の宰相

はしる出羽三山
MIB:黒衣の宰相ミニスター・イン・ブラック

 
 胸に七つの傷を持つ男、北斗ケンシロウ。彼も負性をせおった人物。まことちゃんやガキデカも負性をせおってるけれども、正直、苦手。読者対象年齢が高いからエグい描写もできるということはたしかにある。でも、水木しげるのようにチャーミングに表現する方法もある。カオナシはぜひ今後も常連キャラとして、宮崎さんの分身として育ってほしい。

 慶応四年(一八六八)二月、徳川慶喜は謹慎きんしんの意をあらわすため、江戸城を去って上野の寛永寺かんえいじへ入る。東叡山とうえいざん寛永寺は徳川家の菩提ぼだい寺。歴代将軍の霊廟れいびょうと慶喜をまもる名目で、旧幕の有志たちにより彰義隊しょうぎたいが結成される。このときの慶喜は、敵・味方いずれからおそわれてもふしぎでない状態だった。服従するなどもってのほかと意気込む旧幕臣や御家人もそこらじゅうにいたから、かんたんに恭順きょうじゅんの意を表明することもできなかった。水戸出身のよそもの将軍。慶喜にとって真意をうちあけて相談できる者はいくらもいなかった。

 庄内・上山・天童・山形など江戸市中取締とりしまりの任にあたっていた藩は、すでに藩主もろとも奧羽へひきあげている(要確認)。かわって彰義隊が上野寛永寺のおかかえとなって、市中取締をまかされる。結成したてのころこそ、慶喜シンパの水戸藩士が中心となり、市中の評価も得ていた彰義隊。だが、またたく間にさまざまなやからが入りこんでブクブクにふくれ上がる。三月、西郷・海舟対談。四月、江戸開城。慶喜は謹慎のため水戸へ向かう。彰義隊は上野へとどまる。五月、上野戦争勃発。彰義隊は、あれほど意気さかんだったにもかかわらず、一日ももたずに壊滅。隊のなかにかなりの数の間者かんじゃがまぎれこんでいたとの推測がある(『真説 上野彰義隊』加来耕三)。
 当時、上野寛永寺の宗務の長にあたっていたのが、覚王院かくおういん義観ぎかん。文政六年(一八二三)武蔵国新座郡根岸村生まれ。幼名、金子劇蔵げきぞう。十八才で上野寛永寺に入り義厳の弟子となる。慶応三年、四十四才。執当職を任じられる。彰義隊をむかえ入れて資金援助し、薩長への敵対心をあらわにする。慶喜の降伏をよしとせず、あくまでも徹底抗戦のかまえをとる。怪物僧との異名もある。官軍からはもとより、慶喜・海舟からもこころよく思われない。戊辰戦史のなかで、新選組や会津藩と同様、A級の逆賊戦犯として負性を一身にになった人物でもある。

 当時の出羽三山に負性をおびたキャラがみつからない……前回そう書きました。しかし書いてすぐ、それはちがうと思いなおしました。まず、見つけようという意志ばかりが先行してしまって、すでにたくさん出会っているにもかからわず、見えていない、見落としている可能性がひじょうに高い。そして、そもそも負性をもたない人間というのがありえない。存在しえない。成長の過程で、差異はあれども負性は日々おびてゆくもので、負性に浸食され、おびえ、困憊こんぱいし、苦悩することが生きることなのだ。成功や名声や富や美貌や人望や人徳や業績。所有しはじめたとたんに失うことを恐れはじめる。所有と喪失の恐怖のイーブン。チャーミングな負性は、じつはぼくのすぐ周辺にいくらでもいるのだ。ぴょたこらつえをつきながらかたわらを歩いていたり、背中をまるめ首をつきだしてひたいをくっつけて本を読んでいたり、風呂あがりにれちちのまま満足げな顔で夕涼みしていたり、異臭をただよわせ奇声を発しながら浮浪していたり、文句やグチをれ流しながら器用に餃子ぎょうざをこしらえていたり、神経質なくせにボサボサのフケ頭ですまし顔で茶を飲んでいたり。もってこいのモデルたちにかこまれながら生活しているのだということをすっかり忘れていました。
 
 ところで評価するしないは個々の自由ですが、宮崎 駿がたびたび作中に王家や王族を登場させてきたことを、ぼくは評価します。手塚治虫もレオやブッダというかたちでそれを表現した。考えることを忌避しなかったし、表現しつづけることから逃げなかった。だれもがそのことを真正面から語ることをはばかった時代から。ストレートではないものの、表現することへ切りこんでいる。逃げること・態度を保留することはラクだけれども、それでは表現者である自分からも逃げることであり、自由からの逃走でもある。そうやってともに生きることを選択し、その意志を表明したのだと思う。そのかわり、無用なあらそいやドロ沼の不毛な議論やあわれな挑発からはどんどんしっぽをまいて逃げる。24時間だから。よほど慈悲深くないと、残念ながらそういうことにはつきあえない。
 
 上野東叡山とうえいざん、寛永寺。天台宗。
 天台宗。七八八年(延暦七)、伝教でんぎょう大師・最澄さいちょうが京の比叡山に天台宗総本山の延暦寺を創建。桓武天皇が最澄に帰依する。ただし嵯峨天皇の代になると、皇室は高野山の空海・真言宗寄りになる。最澄のあと、唐から帰った円仁や円珍らによってきそいあうように全国へ勢力をひろげる。一五七一年、信長の焼き討ち。秀吉の代にはすでに再建がはじまるものの、痛手を受けて日が浅い。
 家康は江戸への遷都こそしなかったが、天皇(主上)の自由を拘束し、京へ押しとどめ、実権をそいだ。一六一六年、家康が没する。家康の側近の僧であった金地院こんちいん崇伝すうでん(臨済宗)は、家康の霊を「明神」さまとして吉田神道によりまつることを主張。しかし、もうひとりの側近僧、南光坊天海(天台宗)はそれに反対。家康を山王一実神道により「大権現」として日光へまつることを提言。権現さま。かりに現れたほとけの化身。秀忠は天海の案を採用する。家康没の翌年、日光東照宮廟造営。
 黒衣こくい宰相さいしょうといえば、天海のこととばかり思いこんでいました。天海個人にあたえられた称号・蔑称のようなものだと。ところが、天海のことを調べはじめると、こんどは崇伝のことを黒衣の宰相と書いてある。これはどうしたことか、どちらが正しいのだろうと悩みましたが、それもそのはずで。国語辞書で調べると、黒衣の宰相は慣用的な表現であって、特定の個人をさすわけではないらしい。「こくい」「こくえ」いずれも正しい。
  
 南光坊天海。慈眼大師。会津高田に生まれたとの説がある。
 一六二三年、秀忠が隠居して三代家光が就任。その二年後に上野の寛永寺が創建されはじめる。ということは、寛永寺の創設に関して家康は関与していなかった、ということだろうか。天海ひとりの腹案か。それとも生前の家康との周到なうちあわせ済みか。西の比叡山に対し、東の東叡山。天海はさらに、東叡山寛永寺へ天皇の子ども(皇子)を法親王としてむかえ、天台座主にすえる。ただし、実際にむかえいれたのは、Wikipedia によれば、「承応三年(一六五四)、後水尾天皇第三皇子・守澄法親王が入寺して以後、代々皇族が門主をつとめた。門主は輪王寺宮と尊称され、日光山、比叡山の山主を兼務する」とある。当時、すでに天海も崇伝も家光も後水尾天皇もこの世にいない。
 そもそも、寛永寺への皇族のむかえ入れは、オリジナルなアイデアではない。もともと比叡山延暦寺の皇族のむかえ入れをまねてる(*1)。朝廷・皇室との結束や、国教としての天台宗の権威向上はもとより、人質ひとじち的な意味あいもあったかもしれません。戦国時代の政略結婚や、大名妻子を江戸へ置いた措置に近い。権威の縮小と分散。歴史をみるに、あらそいは、しばしば朝廷の皇位継承に端を発してきた。あるいは朝廷・皇室そのものに力や野望がなくても、謀反・テロ・拉致があったばあい、テロリストが錦の御旗をうばって「官軍」になる可能性を、これまでつねにはらんできた。力を持ちすぎてもいけない。けれども、拉致されるようなことがあってもいけない。万が一。

 家康が江戸を選んだのはなぜだろうか。家康は、頼朝を意識しながらも鎌倉を選ばなかった。家康を江戸へ配置し、政宗を仙台へ配置したのは秀吉。その真意は太平洋岸交易の整備か。それでも最初の疑問がのこる。鎌倉ではなく江戸を選んだ理由。都市を整備するのに条件がよかったならば、なぜ、それ以前は江戸は発達していなかったのか。仮に中世以前、江戸や鎌倉は大災害にみまわれて都市が壊滅した経緯があるとする。家康や天海は、江戸へ開幕するさいにそのことを知らなかっただろうか。仮に家康も天海も、そのことを知っていたとする。さらには、今後もふたたび大災害にみまわれる可能性を二人とも想定していなかっとはいいきれない。江戸にせよ大阪にせよ、災害危険度予測が高いにもかかわらず、まるでそれを待っているかのように株式相場が活気づいているのはなぜか。被災景気・復興景気。くりかえす被災と復興を当初からくみこんだ成長経済計画か。
 権威の分散をくわだてたのは、家康だろうか天海だろうか。不滅の法燈。燈明とうみょうの火をやさぬため。以後、天台宗の実権は上野寛永寺がにぎる。出羽三山が寛永寺と無縁でありえたわけがない。問題は、いつ、どのチャンネルでどのくらいのパイプが息づいていたかということ。寛永寺。幕末当時、三十六院・総数七十坊、僧侶約三百名。
 覚王院義観。輪王寺宮能久よしひさ親王を擁護して仙台・白石へと向かう。明治元年九月、仙台藩降伏。十一月、江戸(改称して東京)へ送還。翌二年二月二十六日、あずかり幽閉中に本郷にて没する。享年四十六。

*1 元永元年(1118)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が三千院梶井宮に入室され、皇族出身者が住侍する宮門跡となり、歴代の天台座主を輩出。

 ◇参考資料
 『覚王院義観の生涯 幕末史の闇と謎』長島 進,さきたま出版会2005.2.
 『戊辰秘策 小説 輪王寺宮公現』長尾宇迦 新人物往来社1998.9.
 『真説 上野彰義隊』加来耕三 中央公論社1998.12.
 『彰義隊』吉村 昭 朝日新聞社2005.11.
 『日本人名』
 『滋賀県の地名』平凡社1991.2.
 
 
 2006.2.27
 しだひろし/PoorBook G3'99
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2006年02月22日

 【校正】校正時に迷った点

校正(入力者校正を含む)の手引きを、用意したいと思っています。
ここに盛り込むべき項目を、リストアップしています。

私たちには、みえにくくなっている点があると思います。
実際に取り組んでみて、引っかかった点、わかりにくかったところ、うまくいかなかった要素など、教えていただけないでしょうか?

「続きを読む "【校正】校正時に迷った点"」をクリックすると、新しく開いたウインドウの下に、「コメントする」と題した入力スペースが現れます。

※頂戴したコメント、参考になります。引き続きの書き込みを、お願いいたします。(追記)

「コメントする」の「名前」のところには、本名を書く必要はありません。
「名前、アドレスを登録しますか?」は、「No」のままでかまいません。
「メールアドレス」「URL」は、入力しなくてもかまいません。
「Comment」に、ご意見を書き込んでください。エディター等であらかじめまとめたものを、コピー&ペーストする形もとれます。
「Preview」をクリックすると、書き込んだ内容を確認できます。直すべき点がみつかれば、「Comment」欄で修正します。なおした状態で、もう一度読みたいときは、再度「Preview」をクリック。「よし、これで書き込もう」と決めたら、「Post(投稿)」をクリックしてください。

参考までに、校正に関連する文書を、以下にリストアップしておきます。

▼青空工作員マニュアル
4校正

▼門田裕志さんによる
ヒラ工作員の日常〜校正編〜

ヒラ工作員の日常〜入力編〜

ヒラ工作員の日常〜入力篇補遺〜旧字旧仮名作品の入力は難しいのか?

▼かとうかおりさんによる
デジタル校正の覚え書き【旧版】

▼kompassさんによる

光の君再興プロジェクト 校正のてびき(門田さんのご紹介を受けて、追記。)

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 Do the Write Thing

 1965.2.21 Malcom X 没、享年40。
 1992 映画『マルコムX』公開。監督 Spike Lee。

 スパイク・リーの名前をとんと聞かなくなってひさしい。なにをやってるんだろうか、作りたいものがあっても作れないんだろうか、と思ってちょっと検索してみたら、あれ以降も精力的に作っているらしい。毎年のように作っている。映画『Do the Right Thing』(1989)のなかで、夏の昼下がり、ストリートで子どもたちがキャッキャいいながら、消火栓の水をかけあうシーンがあったはず。水しぶきがキラキラと虹色にかがやく。

 現代社会がマルコムXをすでに十分なほど咀嚼そしゃくできたのかといえば、とてもそんなふうには思えません。よくかまずに食いすぎて消化不良をおこしているのか。ちがう。おそらく精白米ばかり食いすぎて、ビタミンX不足で重度の脚気かっけをわずらっているんじゃないのか。あらためて書店の本棚をなめまわしても、なかなかマルコムXがみつからない。図書館にもない。イスラム論・ムスリム論がこれほど氾濫しているにもかかわらず。ぼく自身、マルコムXの自伝も未読。ようやく見つけたのは講談社現代新書のキングとマルコムX論。テロが怖いなら、ニューヨークの中央に神社を建てて、マルコム大明神をお祭りすることだ。石碑でもフィルムでもいい。祭りという形のなかでマルコムXを記憶しつづけ、語りつづけ、手を合わせつづけることだ。スパイク・リーほどの祭官はちょっと見当つかない。沖縄か長崎あたりにも勧請かんじょう・分祀してもらって、ぜひスパイク・リーにおはらいをたのみ、祝詞のりとをあげてもらおう。そして五穀をしっかりかみしめよう。マジで。
 
 ニグロであるという事実をみとめたうえで、それを超えたところでようやくそこから自由になれる。モンゴロイドもまたしかり。人種の問題や皮膚の色のちがいや宗教問題だけではない。男女という性差の問題もしかり。在日外国人・在日朝鮮人の問題もしかり。身体障害者問題もしかり。ハンセン病患者隔離問題もしかり。
 共存とか共同参画という言葉が普及すれば、それだけで自由で幸せになれるというわけじゃない。不自由や不幸せなのは、異人種や異性やジェンダーや異なる宗教のせいじゃない。差異はどこまでも存在するし、差異はどこまでも埋まらない。人種差、個体差、性差、障害度、病歴差。それぞれの差異を認めたうえで、それぞれがそれを超えたときにようやくそこから自由になれる。差異をうめること自体を目的としていては、いつまでも差異はうまらない。差異を認めることが、ようやく出発点なのだ。山形弁をはずかしいと思いながらも、それをときにかくし、ときに露呈し、それをくりかえしつづけること以外に山形出身という事実を超越し自由になれる方法はないんだべしたなや。
 そういう負性は、いままでも何度も文学や映画や演劇のテーマだったわけですが。極端なはなし、文化とはそういう負性を意図的にくり返し語り続けることだとさえ言い切れる。そういう負性・聖痕スティグマを手をかえ品をかえ表現し、意識の深層から意識の表層へ浮揚させることが物語の役割である。と、こんなことも、いまさらとりたてて熱弁をふるっていうまでもないことですが。
 
 どうも文字文学よりも映像表現のクリエイターのほうが、そのことに敏感なのでしょうか。文学作品よりも演劇や漫画や写真作品のほうが、負性を認識し、表現することに適しているということなんでしょうか。それとも、そう思うのは文学を読みたりないせいでしょうか。
 ひ弱な義経を描いた川原正敏、聾唖ろうあの佐々木小次郎を描いている井上雄彦の『バガボンド』。従来の義経像・小次郎像以上にリアリティがあるのだから不思議です。NHK大河ドラマのなかで、負性・聖痕スティグマをおびたわかりやすいキャラクターをそくざに思い出せません。数少ない例が独眼竜政宗。独眼であることの劣等と生涯にわたって対峙するところがていねいに表現できていた。もうひとりが将軍吉宗の嫡男・家重。中村梅雀。このあたり、表現するものをわきまえているジェームス三木の脚本には心底脱帽します。ってゆーか、ほかの脚本家がぜんぜんそこへ切り込んでなさすぎ。
 とりわけ手塚治虫は負性の表現がうまかった。鼻が大きいという、他人から見ればどうということはない自分の負性を、あえておちょくってカリカチュアして作中にくりかえし登場させる。なかでもブラック・ジャックは負性の百鬼絵巻。無免許、神業、異様な容貌、そして徹底した報酬主義。負性と同時に、それと直結した貴賤が描かれている。固定しがちな倫理や道徳へのゆさぶり。読者への問いかけ。主人公をどう評価すればいいのか。評価していいのか。負性と貴賤とヒーロー。直系の弟子、石ノ森章太郎もそのあたりを描くのがうまかった。仮面ライダーやサイボーグ009。負性を持つゆえに苦悩する主人公。
 宮崎駿作品にも負性は登場するのだけれど、残念ながらパンチ不足だと思う。毎回のごとく聖痕スティグマを持つ者を登場させているにもかかわらず。どういうわけか描写がものたりない。意図的にひかえているのでしょうか。けれどもそれはもったいないと思う。ルパン=どろぼう=負性、という原点へそろそろいちど戻ってみてもいいんじゃないか。
 
 あらためて考えてみると、不自然とおもえるくらい日本史のなかにはニグロが登場しません。唯一あるのは、信長に仕える黒坊主の彌介(『信長公記』)のみ。ニグロの日本史があってもいいはずと思ってネットを検索してみたところ、藤田みどり『アフリカ「発見」  日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店)という本があるらしい。ニグロと列記するのは語弊もありますが、バラモン僧が建立したという寺が山形にあります。寒河江の慈恩寺です。バラモン僧はおそらくインド系コーカソイド。

 ブラック・ジャックや座頭市のようなわかりやすいキャラクターが幕末の出羽三山にいないものかと探しているのですが、なかなか出会えません。とくとくと説明するまでもなく、見るからに負性やコンプレックスのかたまりのような愛すべき存在の登場人物。山伏修験や修行僧というのも、見ようによっては負性やコンプレックスのかたまりではありましょうが。異形ということならば、羽黒山の開祖・蜂子皇子にまでさかのぼることができます。出羽三山の周辺で、らいやサンカや被差別民のはなしをあまり聞いたことがありませんでした。ただし、出羽三山研究の第一人者・戸川安章氏の著作を読んでみると、まったくないわけでもなく断片的にふれられてあります。
 宗教の歴史を語ることは、疾病の歴史を語ることに近いのだとあらためて実感します。風貌や肌の色や身体的特徴はかならずしも疾病でないにもかかわらず、その認知のしやすさともあいまって、かっこうの差異の目印となる。ことばも同様。生活様式も同様です。ある地域のなかではごくありふれているにもかかわらず、ほんの半日歩いた程度の、川をひとつこえた共同体や前山の裏の共同体や向かいの島の共同体では、もうすでに異質なものになってしまう。優劣の差があるわけでもなく、正邪の差があるわけでもない。ただ、事実としての歴然とした差異があるのみ。たいした差異などありはしないのに、相互におそれては差異を誇張しようとする。歴史はいかに差異にほんろうされてきたことか。
 
 
P2175284.jpg
ニグロセキレイ。だから、ちがうだろって。
 
 いよいよ差異の祭典も佳境。
 2006.2.22
 しだひろし/PoorBook G3'99
 転載・引用・リンクは自由です。

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2006年02月15日

 【画像】底本にある画像要素をどう取り扱うか

底本の画像要素の取り扱いに関しては、工作員作業マニュアルが大まかな作業方針を示している。

画像を組み入れる際、入力テキストにどう注記するかについて、マニュアルは「[#写真入る]」といった例を示すにとどめている。
作業方針の細部が示されていなかったため、処理実績にはばらつきが生じていた。
こうした実態を踏まえて、青空文庫メーリングリストの「[aozora:5223] 画像の注記」チェーンで、形式の統一について話し合いがもたれた。(落着点は、[aozora:5243][aozora:5244]と思われる。)

公開ファイル作成にあたって、画像注記をxhtml版中でどうタグ処理するかについては、点検グループ内で話し合って、[[xhtml組み込み用画像ファイル名の付け方]]などのメモをまとめ、これらにそって処理してきた。

これまでのこうした流れを踏まえて、底本にある画像要素の取り扱い方針を、あらためてまとめておく。

なお、このメモは、入力者、校正者に、以下の作業ステップをすべて実践してもらうことを期待して用意するものではない。
画像注記の形式整備や、画像ファイルの作成は、点検グループ、公開用ファイル作成担当に委ねてもらってもかまわない。
このメモの狙いは、公開ファイルがどのように作られるか、その道筋を示しておくことにある。

▼底本中の画像要素の取り扱い

底本中の写真や図版、挿絵などは、マニュアルの以下の方針に従って、原則として、入力しない。

「●写真や挿し絵などは、画像ファイルとして扱い、基本的に、入力の対象には含めません。…」
工作員作業マニュアル、2入力-1
http://aozora.gr.jp/KOSAKU/MANUAL_2.html

入力しなかった画像要素に関しては、省いた旨を、テキスト版中、xhtml版中に注記する必要はない。

ただし、本文の理解を図る上で不可欠であり、かつ著作権が切れていることを確認できる場合は、以下の方針に従って画像要素を入力する。

▼画像ファイル形式

画像形式は、pngとする。
解像度は、72ppiとする。
色深度は、ファイルサイズを抑えるため、画質の明らかな劣化を起こさない範囲で浅くする。

▼画像ファイル名

画像のファイル名は、以下のように付ける。

 fig作品ID_通し番号.png

「作品ID」は、1バイトの数字で表記する。(各作品のIDは、総合インデックスで確認できる。)
「通し番号」は、1バイト数字2ケタの「01」から始まる連番とする。「99」以降が必要になる際は、「001」から始まる1バイト数字3ケタの連番とする。

例)fig2441_01.png

▼テキスト版中の画像要素の注記

テキスト版中では、以下のように注記する。

 [#××××××の××(画像ファイル名)入る]
    ↑     ↑
   内容の説明  画像の種類

「内容の説明」は書き込むことを原則とするが、省略してもかまわない。
画像の種類を示す語は、「図」「地図」「絵」「挿絵」「表」「写真」等を使用する。

例)[#石鏃二つの図(fig42154_01.png)入る]
  [#ひこうかばんの挿絵(fig42385_01.png)入る]
  [#挿絵(fig42385_01.png)入る]
  
底本が画像に説明文(キャプション)を付けている場合は、鍵括弧内に引用した上で、以下のように書く。

 [#「第一七圖 國頭郡今歸仁村今泊阿應理惠按司勾玉」のキャプション付きの図(fig4990_07.png)入る]

▼xhtml中の画像ファイルタグの書き方

「図」「地図」「絵」「挿絵」等、人が描いたものは、「img class="illustration"」とし、テキスト版注記の「××××××の××」にあたる部分を「alt」にうつして、以下の例のように書く。

 <img class="illustration" width="608" height="380" src="fig42385_01.png" alt="ひこうかばんの挿絵" />

 <img class="illustration" width="564" height="424" src="fig4990_07.png" alt="「第一七圖 國頭郡今歸仁村今泊阿應理惠按司勾玉」のキャプション付きの図" /> 

「写真」については、「img class="photo"」とし、テキスト版注記の「××××××の××」にあたる部分を「alt」にうつして、以下の例のように書く。

<img class="photo" width="623" height="360" src="fig42383_01.png" alt="牛の置物の写真" />

<img class="photo" width="564" height="424" src="fig4990_07.png" alt="「書斎にて」のキャプション付きの写真" />

画像タグの行末には、原則として「<br />」を付す。

▼画像ファイルの配置

画像ファイルは、テキスト版のzip圧縮ファイルに同梱する。
合わせてxhtml版での表示用に、公開サイトのサーバーの、cards>人物IDフォールダー>files内に置く。

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2006年02月14日

 アカゾメエモン

デジタルリマスター海賊版
連環記(四)
幸田露伴
 
 
 定基の妻の名はなんといったか、何氏なにうじむすめであったか、それは皆わからない。このころの女は本名がなかったわけではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、だれも知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、だれも知らない、知ってる方は手をあげなさいといわれたって、たいていの人はふところ手でごめんをこうむるでしょう。まさか赤ん坊のときから、紫式部や、おっぱいおあがり、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などといわれたのでなかろうことはわかっているが、仙人の女王、西王母の、姓はこう、名は婉※えんせん、などと見えすいたいいかげんなことを答えるよりはめんどうだから、そのままにしておこう。(まんまみーや、改行)

 美人だったか、醜婦だったかも不明だが、まず十人並の人だったとしておいてさしつかえはなかろうが、その気質だけは温和でなくて、きつい方だったろうことは、つれそうた者と若い身そらであらそい別れをしたことでも想いやられる。この女が定基に対して求めたことはむろん恋がたきの力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿にくびったけだったから、それをしょうちすべくはないし、また直截ちょくせつな性質の人だったから、わが妻に対することではあり、にやくやにいいまぎらして、たでい滞水のあいさつをもってその場をすませておくというようなこともしなかったろうから、しだいしだいに夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の美饌びせんをうくるを見てはいよいよ飢のくるしみを感ずる道理がある。ける者は人の飢餓きがにのぞめるを見ては、よけいにこれをあわれむの情をもよおす道理がある。ここに定基にとってはイトコ同士である大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家もその格がよい。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどのとしごろであるが、才学は優劣ないにしても匡衡はすでに文名をはせておおいに称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立っている。そこへ持ってきて匡衡は、定基が妻をむかえたとかれこれ同じころにやはり妻をむかえたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したといわれた英才で、祖父の維時の学をうけ、長じて博学、わたらざるところなしと世に称せられていた。その文章の英気があって、当時にみずぎわだっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を駿馬しゅんめにムチうって、粟津の浜を過ぐるがごとし、とあったほどで、前にもすでにそれは述べた。しかも和歌までも堪能かんのうで、男ぶりはどうだったか、ひょろりとしてたけ高く、さし肩であったといわれるから、ポッチャリとした御公卿おくげさんだちのよい男子おとこではなかったろうとおもわれる。さし肩というのは、菩薩肩ぼさつがたというのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のようなやさしい肩つき、今でいうなで肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語のいわゆる鳶肩えんけんである。鳶肩豺目さいもく結喉けっこう露唇ろしんなんというのは、物のできる人や気がさの人に、得てある相だが、あまり人好きのする方ではない。だから男ぶりはよい方であったとも思われないが、この匡衡のむかえた妻は、女歌人じょかじんのうちでもゆびおりの赤染あかぞめ右衛門えもんで、そのころちょうど匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の挙周たかちかは生まれていたか、まだ生まれていなかったか知らないが、若ざかりの夫婦で、女貌郎才、そうとうっており、琴瑟きんしつこまやかに相和して人もうらやむなかであったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間のふすぶりかえり、ひぞり合い、けむを出し火を出しあうようになっているそばに、イトコ同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで朝夕ちょうせきをむつび合っているとすれば、定基の方の側からは、自然と匡衡の方はうらやましいものに見え、したがって自分の方の現在がよけいいまいましいものに見えたにちがいなく、匡衡の方からは、定基の方を、気の毒な、したがってくだらないものに見ていたと思われる。まして定基の妻からは、それこそえたる者が人の美饌をうくるを見るおもいがしたろうことは自然であって、よけいにもしゃくしゃがつのったろうことは測りしられる。
 赤染右衛門は生まれだちから苦労をしょってきた女で、まだ当人が物の色さえ知らぬころから、なさけない争の間に立たせられたのであった。というのは右衛門の母が、どういうわけあいがあったか、どういう身分の女であったのか、いまはさらに知れぬことであるが、右衛門が赤染を名のったのは、赤染大隅守おおすみのかみ時用ときもちの子として育ったからである。しかるに歌人として名高い平兼盛が、その当時、生まれた子をわがむすめと称して引き取ろうとしたのである。検非違使けびいしざたとなった。検非違使庁は非違をあらたむるところであるから、今の警視庁兼裁判所のようなものである。母はその子を兼盛のたねではないといいはり、兼盛はわが子だとあらそったが、畢竟ひっきょうこれは母がその子を手離したくない母性愛の本然ほんねんからそういったのだと解せられもするが、またわが手を離れた女のその子をしいても引き取ろうとするのはよくよく正しい父性愛の強さからだとも解せられるのである。であるから男女の情理から判断すれば、兼盛の方に分があって、女には分がとぼしい。まして生長しあがった赤染右衛門は歌人であった兼盛の血をうけたとみえて、才学つねならぬ優秀なものとなり、赤染時用という検非違使から大隅守になっただけでべつに才学のうわさもない平凡官吏の胤とも思われない。であるから、当時を去ること遠からぬ清補朝臣抄などにも、まことには兼盛のむすめうんぬんと出ているのである。よくよく事情を察するに、当時は恋愛至上主義のおこなわれていた世で、女は愛情の命ずるがままに行動して、それでおのずから欺かぬ、よい事とゆるされていた惰弱だじゃく時代であったから、右衛門の母は兼盛と、手をつないでいた間に懐胎したが、どういう因縁かで兼盛と別れて時用のもとへ帰したのである。兼盛は三十六歌仙のひとりであり、是忠親王の曾孫そうそんであり、父の篤行あつゆきから平姓をたまわり、和漢の才もあった人ではあるが、従五位上駿河守するがのかみになっただけでおわったあまり世栄をうけなかった人であるから、年齢そのほかの関係から、女には疎まれたのかもしれない。兼盛の集を見ると、「いいそめていと久しうなりにける人に」「返事もさらにせねば」「物などいえどいとつれなき人に」「女のもとにまかりて、ものなどいうにつれなきを思いなげくほどに鳥さえなけば」「女よにこいしとも思わじといいたりければ」「女返しもせざりければ」「なおいとつらかりける女に」「いといとう恨みて」「思いかけて久しくなりぬる人のことさまになりぬとききて」などというまえがきの恋の歌が多い。後撰集雑二に「難波なにわがたなぎさのあしのおいのよにうらみてぞふる人のこころを」というのが読みびと知らずになって出ているが、兼盛の歌である。新勅撰集恋二に「しら山の雪のした草われなれやしたにもえつつ年のぬらん」とあるのも兼盛の歌である。後拾遺集恋一、「恋そめし心をのみぞうらみつる人のつらさをわれになしつつ」、続千載集恋五、「つらくのみ見ゆる君かな山のに風まつ雲のさだめなき世に」も兼盛の歌である。なおまだ幾首もあげることができるが、いずれもこっち負け、力負けのかなしい歌のみで、しかもなんとなく兼盛がかわゆそうに年が相手よりも老いているような気味合いがみえる。この女が兼盛に一時はなびいたが、年もそぐわず、気もあわないでついに赤染氏にいておわったのではないか、それが右衛門の母ではなかったかと想われてならない。しかしもちろんとりとめもないことで、女がどういう人であったかさえも考え得ない。兼盛だとて王家をいで下って遠からぬ人ではあり、女児を得たい一心から相当につっぱったので、そのうわさが今にまでのこり伝っているのだろうが、あいにくと赤染時用がその時は検非違使であったからかなわなかった。女児は女とともに赤染氏にとられてしまった。それでその娘は生長して、赤染右衛門となったのである。だから当時の人が、それらのいきさつを知らぬはずはないから、右衛門が右衛門となるまでには、ずいぶん苦労をしたことだろうと十二分に同情されるのである。
 しかし右衛門は不幸の霜雪に圧虐されたままに消朽ちてしまう草やすげではなかった。当時の大権威者だった藤原道長の妻の倫子ともにつかえて、そしておおいに才名をはせたのであった。倫子は左大臣源雅信のむすめで、もとより道長の正室であり、准三宮じゅさんぐうで、鷹司殿と世に称されたのである。この倫子の羽翼はがいのかげに人となったことは、いかばかり右衛門をして幸福ならしめたかしれないが、右衛門の天資がすぐれていなければ、なかなか豪華驕奢きょうしゃの花のごとくにしきのごとく、人多く事多き生活のなかに織りこまれた一員となって、末々まで道長のかがやかしい光に浴するを得るにはいたらなかったろう。詩人や歌人というものは、もとより人情にもつうじ、自然にも親しむものであるが、それでもとかく奇特性があって、ずいぶん良い人でも常識にはちと欠けていたり、妙にそげていたり、はなはだしいのになるとどこか抜けていたりするものがあるが、右衛門はすこしもそういうところのない、しごく円満性、普通性の人で、放肆ほうしな気味合いの強い和泉式部や、神経質すぎる右大将道綱の母などとは選を異にしていた。これはずっと後のことであるが、わが子の挙周の病気の重かったとき、住吉の神に、みてぐらまつって、「千代ちよよとまだみどり児にありしよりただ住吉の松を祈りき」「たのみては久しくなりぬ住吉のまつこのたびはしるしみせてよ」「かわらんと祈るいのちはおしからで別ると思わんほどぞ悲しき」と三首の歌を記したなどは、いろいろの書にもみえて、いかにもよい母である。その挙周を出世させようとして、正月の司召つかさめしはじまる夜、雪のひどく降ったのに鷹司殿にまいりて、任官のことを願いあげ、「おもえ君、かしらの雪をかきはらい、消えぬさきにといそぐ心を」とよんだので、道長もその歌を聞いて、あわれをもよおし、そこで挙周をその望みどおり和泉守にしてやった。「はらいけるしるしもありて見ゆるかな雪間ゆきまをわけていづるいずみの」と、道長か倫子か知らぬがお歌をたまわった。それに返して、「人よりもわきてうれしきいづみかな雪げの水のまさるなるべし」などよんでいるところは、じつによくいえば如才ない、悪くいえば世知にけた女である。いやそれよりもまだおどろくことは、夫の匡衡があるとき家に帰ってくると、なにかうかぬ顔をして、物かんがえをしているようだ。そこであやしく思って、どうあそばしましたと問う。あまり問われるので、匡衡先生もすこし器量はよくないが泥をはいた。じつは四条中納言公任卿きんとうきょう、中納言を辞そうとなさるのである。そこで同卿が紀ノ斉名に辞表を草するようにご依頼なされた。斉名は筆をふるって書いた。ところで卿の御気に召さなかった。そして卿はあらためて大江ノ以言に委嘱された。以言も骨をおって起草した。しかるに以言の草稿をもあきたらずおぼしめして、その果にこの匡衡に文案してほしいとのお頼みなのだ。斉名の文は典雅荘重であり、以言の文は奇を出し才をはせ、その風体おのおの異なれど、いずれも文章の海山の竜であり象である。しかるに両人の文いずれも御心にあかずして、さらに匡衡にあつくお頼みありたりとて、同題にして異色の文、すでに二章まで成りたるうえは、匡衡が作、いずれのところにか筆を立てむ。ご辞退申しかねて帰りてはきたれども、これを思うに、われもまた御心に飽かずとせらるる文字をつらぬるに過ぎざらんと、くやしくもまた心苦しくおもうのである、と話した。公任卿はがんらい学問詩歌の才に長けたまえるのに、かかるばあいに立たせられた夫が、困りもしもだえもするのは文章で立っている身の道理千万のことと、右衛門はなんの答えをすることもできず、しばし思案にしずんだが、こういうところに口をだして夫をたすけられる者はなかなかあるものではない。もちろん右衛門は歌をよくしたばかりではない、法華経ほけきょう二十八品にじゅうはちほんを歌に詠じたり、維摩経ゆいまきょう十喩じゅうゆをよんだりしているところを見ると、学問もあった人には相違ないが、夫のおもてわざにしている文章のことなどに、女の差し出ぐちなどがなんで出来るべきものであろう。しかしさすがに才女で、世の中のからいも酸いも味わい知っていた人であった。ご道理でござりまする、まことに斉名以言の君の御文章のよろしからぬということはないことと存じまする、ただし公任卿はゆゆしく心高きおかたにおわす、ご先祖よりの貴かりし由を述べたて、すこしく沈滞の意をあらわして記したまわんには、おそらくは意にかないて善しとせられなん、いかにおぼす、と助言した。匡衡ここにおいてなるほどと合点して、そういう意味をふくめて、辞表とはいえ、ややいばったような調子をまじえて起草した。はたしてそれは公任卿の意にかなって、中納言左衛門かみをやめんことを請うの状はおおやけに奉呈され、匡衡はすくなくとも公任卿には斉名以言よりも文威の高いものと認められて面目をほどこした。その文が今のこっているからおもしろい。読んでみるとそのなかに、「臣さいわいに累代上台の家より出でて、あやまって過分顕赫けんかくの任にいたる。才はつたなくして零落れいらくせり、槐葉かいよう前蹤ぜんしょうし難く、病重うして栖遅せいちす、柳枝りゅうし左のひじにうべし」とあるところなどは、じつに謙遜けんそんのうちに衿持きょうじをあらわして、いかにもおもしろい。槐葉前蹤を期しがたし、といって、すこしいやみをいっておいて、柳枝左臂さびに生ずべしと、荘子をひっぱりだしてオホンとすましたところなどは、なるほど気ぐらいの高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから加之しかのみならずといって、皇太后の御上をいい、「猶子ゆうしの恩をこうむりて、かねて長秋ちょうしゅうの監たり、嘗薬しょうやくのこと、相ゆずるに人なし」といい、「しばらくの仙院のチリをついで、ひとえにこのこういの月に宿せん」といったあたり、この時代の文章として十分の出来である。公任卿はよろこんだに相違ないが、匡衡のこの手がらも右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したがとくに従二位に叙せられ、のちには権大納言正二位にまでなられたこと人の知るとおりである。右衛門の才はこの話を考えると、なかなかすみへおけるどころではない、男子であったらばずいぶん栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義がとうとばれていたから、これも後のはなしであるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡はどうした因縁だったか、三輪の山のあたりの稲荷いなり禰宜ねぎの女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにもなく、自分の捏造ねつぞうでもないが、地名も人名もなにもなくてはあまり漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門はいかに聡明そうめい怜俐れいりな女でも、やはり女だから、いまいましくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼きたてたにちがいない。匡衡よりもたぶん器量の上だったに疑いない右衛門にせめられては、相手がうわてだったからかなわない、いちおうは降参して、向後きょうこうさようなところへはまいりませぬと謝罪してすんだが、そこにはまたあやしきは男女の縁で、焼木杭やけぼっくいは火のつくことはやく、また匡衡はそこへかよい出した。すると右衛門は、すっかり女の身もとから、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べあげておいて、ちょうど匡衡のそこにいたおり、「わが宿のまつにしるしもなかりけり杉むらならばたずねきなまし」という歌を使に持たせて、受け取り証明を取ってこいとせめたてた。待つに松をかけて、わがへ帰るべきをわすれたのをうらんだもよいが、相手の女が稲荷様の禰宜ねぎの女というので、杉村ならば帰ったろうにといったのは、冷視と蔑視べっしとをかねて、キツネにばかされているのがそんなにうれしいかといわぬばかりに、ぴしゃりと一本みごとに見舞っている。人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは七生しちしょうやみに生まれるなどということわざのある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから、ぜひなくも「人をまつ山路やまじわかれず見えしかば思いまどうにふみすぎにけり」と返事して使をかえした。さほどに待っていてくれるともわからず思いまどうて余の路にふみまどうた、相すみませぬ、おそれいりました、というあやまりの証文の一札の歌であって、※中きょうちゅうも苦しかったろうが歌も苦しい。ふみすぎにけり、で杉を使ったなどはずいぶんせつない、歌仙の歌でもなんでもありはしない、音律不たしかなせつのような歌である。しかしこれにこらされて、キツネは落されてしまったとみえ、それからは、鳶肩えんけん長身、傲骨ごうこつ稜々りょうりょうたる匡衡朝臣も、おとなしくなって、よいお父さんになっていたという話である。この歌もあまりまずいから、たぶん後のものがたり作者などが作ったのだろうとおもわれては迷惑であるからことわっておくが、たしかに右衛門集に出ているのである。

 (つづく)

 
2006.2.12 上村愛子5位。
2006.2.13 男子ハーフパイプ優勝、ショーン・ホワイト。
2006.2.14 500m、及川4位、加藤6位。

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2006年02月10日

 空色通信 2005年4月号

2005年4月は、69作品のファイルが公開された。ニュースとしては、「「自分の作品を登録する」の文言を変更」があげられる。

【主なニュース】
「自分の作品を登録する」の文言が変更された。青空文庫の両輪の一つである「「書き手自身が「対価を求めない」と決めた作品」の収録」は、相対的に大きくなってしまった「著作権の保護期間を過ぎた作品の電子化」と比べて、様々な困難があるようだ。

【公開作品】
 2005年4月には、69作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 もっとも多くの作品が公開されたのは太宰 治で、19作品(「春昼」、「一問一答」、「一歩前進二歩退却」、「かくめい」、「かすかな声」、「小志」、「正直ノオト」、「小説の面白さ」、「食通」、「徒党について」、「富士に就いて」、「悶悶日記」、「容貌」、「一日の労苦」、「芸術ぎらい」、「思案の敗北」、「天狗」、「碧眼托鉢」、「わが半生を語る」)公開されている。

 次に多いのが野呂栄太郎で、書簡が11篇(岩波茂雄宛書簡「一九三一年八月十七日」「一九三一年九月二十一日」、加藤正宛書簡「一九三三年三月十三日」、平野義太郎宛書簡「一九三一年九月二十日」「一九三一年十二月二十四日」「一九三二年二月二十六日」「一九三二年四月三十日」「一九三二年五月二十三日」「一九三二年六月六日」「一九三二年九月八日」「一九三三年三月」)、公開されている。

 岸田国士が9篇(「こんな俳優が欲しい」、「西洋映画は何故面白いか?」、「明治大学文芸科に演劇映画科を新設する件」、「「モンテーニュ随想録」(関根秀雄君訳)」、「映画アカデミイについて」、「後日譚」、「今度の出し物について」、「文学座第一回試演に際して」、「文学座第二回試演に際して」)、寺田寅彦が6篇(「科学上における権威の価値と弊害」、「科学上の骨董趣味と温故知新」、「家庭の人へ」、「学位について」、「鴉と唱歌」、「観点と距離」)、それぞれ公開されている。

 長編では、夏目漱石「それから」、菊池寛「真珠夫人」、泉鏡花「黒百合」が公開されている。三篇ともに恋愛関係を描いているが、時代と著者によって、ここまで変るのか、と驚くほどの違いがある。

 推理小説、大衆文学では、蘭郁二郎「休刊的終刊 シュピオ小史」、海野十三「不思議なる空間断層」「街の探偵」、国枝 史郎「加利福尼亜の宝島 (お伽冒険談)」「南蛮秘話森右近丸」、が公開されている。蘭郁二郎は、海野十三とはひと味違った空想小説を書いている作家である。

 翻訳作品は、グリム/中島孤島訳「ラプンツェル」が公開されている。

 まれびとプロジェクトからは、折口信夫「国文学の発生(第一稿)」が公開されている。「国文学の発生」は、第一稿から第四稿まであって、その内容はほとんど別原稿といってよいほど違っている。「国文学の発生(第三稿)」はすでに公開済み。

 他には宮沢賢治が3作品(「家長制度」、「若い木霊」、「黄いろのトマト」)、新美南吉が3作品(「仔牛」、「チユーリツプ」、「驢馬の びっこ」)、与謝野晶子が2作品(「姑と嫁に就て(再び)」、「註釈与謝野寛全集」)、蒲原有明が2作品(「「有明集」前後」、「仙人掌と花火の鑑賞」)、森鴎外が1作品(「細木香以」)、倉田百三が1作品(「女性の諸問題」)、関寛が1作品(「関牧塲創業記事」)、三遊亭円朝が1作品(「敵討札所の霊験」)、公開されている。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

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2006年02月09日

 空色通信 2005年5月号

2005年5月は、68作品のファイルが公開された。ニュースとしては、青空文庫メーリングリストのオフ会の開催だろうか。

【主なニュース】
 例年のごとく、ブックフェアに合わせて青空文庫メーリングリストのオフ会が開催された。

【公開作品】
 2005年5月には、68作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 もっとも多くの作品が公開されたのは、海野十三と梶井基次郎で、それぞれ13作品ずつ。

 海野十三は「軍用鼠」「新学期行進曲」「海野十三氏の弁」「科学時潮」「豆潜水艇の行方」「大空魔艦」「一九五〇年の殺人」「電気鳩」「流線間諜」「人造人間事件」「ヒルミ夫人の冷蔵鞄」「」「東京要塞」。随筆2篇と小説である。海野のSFは、どうも技術先行のSFのようで、今で言うハードSFのはしりである。

 梶井基次郎は、「「青空語」に寄せて(昭和二年一月号)」「青空同人印象記(大正十五年六月号)」「『青空』のことなど」「『亜』の回想」「浅見淵君に就いて」「編輯後記(大正十五年三月号)」「編輯後記(大正十五年四月号)」「講演会 其他(大正十五年二月号)」「編輯後記(昭和二年一月号)」「編輯後記(大正十五年九月号)」「「親近」と「拒絶」」「『新潮』十月新人号小説評」「『戦旗』『文芸戦線』七月号創作評」で、『青空』の記事を含む、掌編。

 初代国会図書館副館長、中井正一が初登録された。9篇(「映画と季感」「過剰の意識」「カットの文法」「色彩映画のシナリオ」「大衆の知恵」「調査機関」「図書館に生きる道」「図書館の未来像」「二十世紀の頂における図書館の意味」)が公開されている。

 翻訳作品は、グリム/中島孤島訳「杜松の樹」が公開された。

 この月には、『日本の名随筆』底本からたくさんの作品が公開された(『日本の名随筆』収録作品については、「随筆計画2000」を参照)。正篇100冊からは、「23 画」から4篇(横光利一「詩集『花電車』序」、岸田劉生「美術上の婦人」、藤島武二「画室の言葉」、有島武郎「描かれた花)、「30 宙」から1篇(萩原朔太郎「月の詩情」)、「39 藝」から1篇(薄田泣菫「」)、「88 石」から1篇(薄田泣菫「石を愛するもの」)、が公開された。別巻100冊からは、「別巻9 骨董」から4篇(薄田泣菫「贋物」「硯と殿様」「古松研」「青磁の皿」)、「別巻35 七癖」から1篇(萩原朔太郎「僕の孤独癖について」)、「別巻87 装丁」から1篇(萩原朔太郎「装幀の意義」)、「別巻92 哲学」から2篇(萩原朔太郎「ニイチェに就いての雑感」、萩原朔太郎「デカルトと引用精神」)、「別巻100 聖書」から5篇(横光利一「黙示のページ」、生田春月「聖書」、太宰治「パウロの混乱」、内村鑑三「聖書の読方」、有島武郎「聖書の権威」)、が公開された。

 他には北村透谷が5作品(「哀詞序」、「頑執妄排の弊」、「人生の意義」、「賤事業弁」、「熱意」)、森鴎外が2作品(「」、「花子」)、牧野信一が1作品(「吊籠と月光と」)、太宰治が1作品(「もの思う葦」)、田畑修一郎が1作品(「医師高間房一氏」)、樋口一葉が1作品(「反古しらべ」)、末弘厳太郎が1作品(「役人の頭」)、公開されている。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

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2006年02月08日

 連環記(三)

田舎版
連環記(三)
幸田露伴
 
 
 寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、ひろく仏事をなした、とのみ記してあるばかりで、どういうことがあったということは載せていないが、すでに※(「車+(而/大)、第3水準1-92-46)にゅうなんの仏子となった以上はべつになんの事もあろうわけもない。しかし諸国を経歴したとあるその諸国とはどこどこであったろうかというに、西は播磨はりま、東は三河にまで行ったことは、しょうがあって分明するから、なお遠く西へも東へも行ったかと想われる。その播磨へ行ったときの事である。これは堂塔伽藍がらんを建つることは、のりのため、仏のための最善根であるから、寂心も例を追って、そのため播磨の国にいて材木勧進をしたおりとみえる。いずこの町ともわからぬが、あるところで寂心がふと見やると、ひとりの僧形の者が紙のかんむりを陰陽師おんようじの風体をまなび、ものものしげにはらえするのが眼に入った。もとより陰陽道をもって立っている賀茂の家に生まれた寂心であるから、自分はその道によらないで儒道文辞の人となり、またその儒をすてぶつに入って今の身になってはいるものの、陰陽道のいかなるものかのおおよそは知っているのである。(マタニティにつき改行)

 陰陽道は歴緯にのっとり神鬼を駆ると称して、世俗のために吉をいたし凶をはらうものである。儒よりいえば巫覡ふげきの道、仏よりいえば旃陀羅せんだらの術である。それが今、かりにも法体ほったいして菩提ぼだい大道たいどうに入り、人天の導師ともならんと心がけたと見ゆる者が、紙のかんむりなどして、えせわざするを見ては、たえ得らるればこそ、そのときは寂心馬に打ち乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、たちまちこぼるように馬からくだり、あわてて走りよって、なにわざしたもう御房ぞ、となじりとがめた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞととがめたのはさすがに寂心で、じつによかった。しかし紙のかんむりしてそんな事をするほどの者であったから、かえってけげんな顔をしたことであろう。はらえを仕そうろうなり、と答えた。何しに紙のかんむりをばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほどしばしは仕てはべるという。寂心今はたえかねて、声をあげておおいに泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師はこころえかねてただあきれにあきれ、祓をしさして、これはいかに、といえば、たのみて祓をさせたる主人あるじもおどろきあきれた。寂心はなおもひとり感じ泣きて、かの紙のかんむりをつかみとりて、引きやぶりて地になげうち、漣々れんれんたる涙をとどめもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたもうとて如来の忌みたもうことを忘れて、世俗にそり、かんむりなどして、無間地獄むげんじごくにおちいる業をつくりたもうぞ、まことに悲しき違乱のことなり、しいてさることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、といいて泣くことおびただしいので、陰陽師はなんとしようもなく当惑したが、あくまで俗物だから、俗にくだけてうちあけ話に出た。おおせはいちいちごもっともでござる、しかし浮き世の過しがたさに、かくのごとくにつかまつる、しからずば何わざをしてかは妻子をばやしない、わが生命いのちをもつなぐことのなりましょうや、道業どうごうなおつたなければ上人ともあおがれず、法師の形にはそうらえど俗人のごとくなれば、後世ごせのことはいかがとかなしくはあれど、さしあたりての世のならいに、かくはつかまつる、と語った。いつの世にもこういう俗物は多いもので、そしてまたそういう俗物の言うところは、俗世界にはいかにも正しい情理であると首肯されるものである。しかしせっかく殊勝の世界に眼をつけ、いったんそれにむかって突進しようと心ざした者どもが、この一関いっかんにせきとめられてやむを得ずに、躊躇ちゅうちょし、俳徊はいかいし、ついに後退するにいたるものが、どれほど多いことであろうか。ひたいをやぶりむねをキズつけるのをはばからずにあえて突進するの勇気を欠くものは、皆この関所前で歩を横にしてぶらぶらしてしまうのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、みなここであとへさがってしまうのであるから、多数の人の取るところの道が正しいとうぜんの道であるとするならば、疑もなくこの紙のかんむりをかぶった世わたりびとの所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心はかざりけのないこの御房のうちあけ話には、ハタといきづまらされて、やさしい自分の性質から、はたまた知略をもってことに処することをいやしみ、覇気を消尽するのをもって可なりとしているような日頃の修行の心がけから、かえってタジタジとなって押しかえされたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬわけにはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、とひと休め息を休めて、いかで三世如来のお姿をまなぶ御首みぐしの上に、もったいなくも俗のかんむりをたまうや、不幸にたえずしてかようのことを仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進しあつめたる物どもを御房にまいらすべし、ひとりを菩薩ぼさつに勧むれば、堂寺つくるに勝りたる功徳である、といって、弟子どもをつかわして、材木とらんとて勧進しあつめたるものどもをみな運びよせて、この陰陽師のマネをした僧に与えやり、さて自分はなすべしと思えることも得なさず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙のかんむりかぶった僧はそののちどうなったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などはできぬ人である。どうりで寂心が建立したという堂寺などのあることは聞かぬ。後の高尾の文覚もんがくだの、黄蘗おうばく鉄眼てつげんだのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでもべつに悪いことはない。
 寂心が三河国を経行したというのは、晩秋過参州薬王寺有感ばんしゅうさんしゅうやこうじをよぎりてかんありという短文が残っているのでこれを証するのである。もちろん入道してから三河へ行ったのか、なお在俗の時行ったのかは、その文に年月の記がないから不詳であるが、近江掾おうみのじょうになったことはあったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、緋袍之後ひほうののち不改其官そのかんをあらためずとあり、京官きょうがんであったから、三河へ下ったのは、僧になってからのことだったろうと思われる。文に、余はこれ羈旅きりょの卒、牛馬のそう初尋寺次逢僧はじめてらをたずねついでそうにあい庭前俳徊ていぜんにはいかいし灯下談話とうかにだんわす、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗のときのことのようにも想われるが、庭前灯下の二句はどうも行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は碧海郡あおみぐん古刹こさつで、行基ぎょうぎ菩薩の建立するところである。なんで寂心が三河に行ったか、堂寺建立の勧化かんげのためだったかどうか、それはいっさい考え得るところがないが、※(「てへん+数」、第3水準1-85-5)とそう行脚のちなみにしだいしだい三河の方へまで行ったとしてもさしつかえはあるまい。ことに寂心が僧となっての二、三年はあたかも大江定基さだもとが三河守になっていた時である。定基は大江斉光なりみつの子で、斉光は参議左大弁正三位さたいべんしょうさんみまでにいたった人で、贈従二位大江維時これときの子であった。大江の家は大江音人おとんど以来、儒道文学の大宗たいそうとして、音人の子玉淵、千里、春潭はるふち千古ちふる、みな詩歌をよくし、千里は和歌をもよくし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時はみな文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡まさひらも文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図をみれば、文章博士や大学頭だいがくのかみの鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とはイトコ同士である。で、定基は父祖の功により、はやく蔵人くろうどにぬきんでられ、ついで二十何歳かで三河守に任ぜられたが、そういう家がらの中にできた人なので、もとより文学に通じ詞章をよくし、またこれ一個の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、ことに古人の曾孫そうそんに道真公を出したのでおおいに家声をあげた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時はじつに古人六世の孫であり、匡衡のごときもまた文時に文章詩賦の点鼠てんざんを乞うたというから、定基ももちろんおなじ文雅の道の流れのものとして、自然保胤すなわち寂心とは知りあいで、むろん年輩の関係から保胤を先輩としてまじっていたろうことはあきらかである。
 三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、その父祖の功労によったことはもちろんであるが、長男でもあらばこそ、次男の身をもってそこまで出世していたことは、ひとつはその人物が英発しておって、そして学問詞才にもけ、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致をえていたと後年になって支那の人にさえ称賛されたほどであるから、内におのずから収め養うところの工夫にも切なるりっぱな人物、いわゆる捨てておいても挺然ていぜんとして群をぬくの器量があったからであったろう。
 この定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮き世をおもいきって、簪纓しんえいをなげうちすて、かがやける家がらをも離れ、木のはた、竹のきれのような青道心あおどうしんになって、寂心のもとにはしり、その弟子となったのは、これも因縁成熟じょうじゅくしてそこにいたったのだといえば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷徨ほうこうして、道心の帰趨きすうをおさえた後に、ようやく暮年になって世をのがれ、仏に入ったとは異なって、べつに一段の運命機縁にあやつられたものであった。定基は家がらなり、性分なりで、もとより学問文章にしたしんで、そのするどい資質のまにまに日に日に進歩していたが、豪快な気象もあった人のこととてあいまあいまには田猟馳聘でんりょうちへいをも事として鬱懐うっかいを開いてよろこびとしていた。こういう人だったので、もしそのままに歳月をへて世にあったなら、その世に老い事に練れるにしたがって国家有用の材となって、おのずから出世栄達もしたことだったろうが、よい松の樹の樹もとかくになにかの縁でしんが折られたり止められたりして、そして十二分の発達をせずに異様なものになってしまうのが世の常である。定基ははからずも三河の赤坂のおさの許の力寿という美しい女に出会った。長というのはうまやの長で、駅館をつかさどるものがすなわち長である。その土地の長者が駅館を主どり、駅館は官人や身分あるものを宿泊休憩せしめて旅の便宜びんぎを半公的にあたえる制度からできたものである。いつからともなく、自然のなりゆきで駅の長は女となり、その長の下には美女がその家の娘分のようになっていて、泊まる貴人きにんなどの世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、どこそこの長が家といえば、娼家しょうかというほどの意味にさえなったくらいであるが、はじめはさほどに堕落したものではなかったから、長の家の女の腹に生まれてりっぱな者になった人びとも歴史に数々みえている。力寿という名は宇治拾遺などにはみえず、後の源平時代くさくてややうたがわしいが、まるで想像から生み出されたとも思えぬから、まず力寿としておくが、何にせよこれが定基には前世因縁ともいうものであったかすばらしく美しいかわゆいものにみえて、それこそ心魂を蕩尽とうじんされてしまったのである。けだしまたじっさいによい女でもあったのであろう。そこで三河の守であるもの、定基は力寿を手にいれた。力寿も身の果報である、赤坂の長のむすめが三河守に思いかしずかれるのであるから、誠実をもって定基につかえたことだったろう。
 これだけのことだったらば、それでなにごともない、当時の一艶話ですんだのであろうが、その時すでに定基には定まった妻があったのであって、その妻が徳川時代の分限者ぶげんしゃのしゃれた女房にょうぼのように、わたしゃこの家の床柱、ビンはなは勝手にささしゃんせ、とすましかえっていてくれたなら論はなかったのだが、そうはいかなかった。いったい女というものほど太平の恩沢にならされて増長するものはなく、またけわしい世になれば、たちまち縮まって小さくなるあわれなもので、すこしめんどうな時になると、江戸褄えどづまもヘチマもありはしない、モンペイはいて。バケツさげて、ヒョタコラ姿の気息いきゼイゼイ、おいたわしのご風情やといいたい様になるのであるが、天日とこしえにうるわしくして四海波おだやかなるときには、鬚眉しゅびの男子みなおまえに平伏してごきげんをとりむすぶので、朽木形の几帳きちょうの前には十二ひとえのおめし、なにやら知らぬびらしゃらしたおなりで端然たんねんとしていたまうから、野郎どもみなウヘーとなっておそれいりたてまつる。平安朝はちょうど太平の満潮、ましてこのごろは賢女けんじょ才媛さいえん輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が赫奕かくえきとして、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、女性にょしょう尊重つかまつるべく、いっさい異議申間敷もおすまじくそうろうとおさえられていたであったから、定基の妻はなかなかおさまってはいなかった、瞋恚しんいむらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくもまたおそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火のそばへよればすくなくともヒゲは焼かれるから、だれしもご免こうむって疎み遠ざかる。このほうを疎みて遠ざかれば、余分にかなたを親みむつぶようになる。かなたに親しみ、こっちに遠ざかれば、こっちはいよいよ火の手をあげる。いよいよ逃げる、いよいよ燃えさかる。不動尊のしょっておらるる伽婁羅炎かるらえんという火は魔が逃げれば逃げるだけその※(「陥のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおがのびてどこまでもおいかけて降伏ごうぶくさせるというが、嫉妬しっとの火もまた追いかける性質があるから、ひげぐらい焼かれる間はましもだが、背中へ追いかかってきて、身柱大椎ちりけだいついへ火を吹きつけるようにやられては、きゅうをすえられるわけではないし、向かいなおって闘うにいたるのが、世間ありがちのことである。すなわち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、あさはかなしかし罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆をふるって、あることないこと、見てきたようにでたらめを描くのである。といっておいて、この以下すこしばかりでたらめを描くが、それはまったくでたらめであると思っていただきたい。ただしでたらめを描くようにさせた、すなわち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演したことである。

 (つづく)

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2006年02月07日

 空色通信 2006年1月号

2006年1月は、82作品のファイルが公開された。主なニュースとしては、新しく5人の作家がリストに加わったことだろう。

【主なニュース】
2006年1月1日から、新たに5人の作家が公開可能となった。下村湖人下村千秋坂口安吾豊島与志雄相馬黒光である。坂口安吾、豊島与志雄は、すでに入力済みで校正待ちの作品が多数ある。今年の内にどれだけ公開できるのだろうか。校正希望が寄せられることを祈っている。

【公開作品】
 2005年12月には、82作品のファイルが公開された。なお、作品未公開のため機能しないリンクが一部ある。

 もっとも多くの作品が公開されたのは豊島与志雄で33作品(「蠱惑」、「作品の倫理的批評」、「最近の菊池寛氏」、「大自然を讃う」、「真夜中から黎明まで」、「梅花の気品」、「春の幻」、「蝦蟇」、「真夏の幻影」、「秋の気魄」、「湯元の秋」、「秋の幻」、「」、「金魚」、「轢死人」、「」、「旅人の言」、「故郷」、「偶像に就ての雑感」、「生活について」、「都会に於ける中流婦人の生活」、「バラック居住者への言葉」、「小説の内容論」、「ヒューメーンということに就て」、「月評をして」、「舞台のイメージ」、「野に声なし」、「作者の住む世界」、「病室の幻影」、「戯曲を書く私の心持」、「帰京記」、「」、「囚われ人」)。主に、「旅人の言」(聚英閣、1924(大正13)年7月発行)に収録されている随筆が公開されている。随筆の中では、「故郷」「旅人の言」に示されている豊島の心持ちが気になる。日本の名随筆には「真夏の幻影」(18 夏)、「秋の気魄」(19 秋)、「湯元の秋」(67 宿)、「真夜中から黎明まで」(72 夜)、「」(別巻64 怪談)、が収録されている。「帰京記」は、題名からはわかりくいが、関東大震災の記録である(個人的な思い出と言った方が正しいか)。小説は、「蠱惑」「囚われ人」の2篇のみ。どちらも、豊島らしい小説なのではないかと思う。

 次に多いのが坂口安吾で31作品(「風と光と二十の私と」、「風博士」、「白痴」、「日本文化私観」、「天皇小論」、「狼園」、「禅僧」、「不可解な失恋に就て」、「流浪の追憶」、「雨宮紅庵」、「牧野さんの死」、「牧野さんの祭典によせて」、「現実主義者」、「母を殺した少年」、「老嫗面」、「スタンダアルの文体」、「一家言を排す」、「フロオべエル雑感」、「幽霊と文学」、「日本精神」、「新潟の酒」、「お喋り競争」、「手紙雑談」、「北と南」、「気候と郷愁」、「女占師の前にて」、「南風譜」、「本郷の並木道」、「囲碁修業」、「「花」の確立」、「閑山」)。代表作とともに、昭和11〜13年に書かれた作品を公開している。日本の名随筆には「囲碁修業」が収録されている(別巻1 囲碁)。

 他に、今年から公開可能になった作家は、下村湖人が2作品(「次郎物語」第一部第二部)、下村千秋が2作品(「泥の雨」、「旱天実景」)、相馬愛蔵/相馬黒光(共著)が1作品(「一商人として」)、が公開されている。下村湖人の大長編「次郎物語」は、続いて校正が進んでおり、第三部が2月2日に、第四部が3月20日に、公開される予定である。

 大衆文学作品が、2作品公開されている。国枝史郎「沙漠の古都」と林不忘「丹下左膳 02 こけ猿の巻」である。どちらも痛快に読む事ができる。国枝史郎は、時代劇が多い中、珍しい異国もの(他には「銀三十枚」がある)。香山滋を思わせる秘境探検ものである。丹下左膳は、「01 乾雲坤竜の巻」「02 こけ猿の巻」「03 日光の巻」がようやくそろった。

 他には太宰治が1作品(「きりぎりす」)、海野十三が6作品(「洪水大陸を呑む」、「時計屋敷の秘密」、「千早館の迷路」、「大脳手術」、「地獄の使者」、「密林荘事件」)、宮原晃一郎が4作品(「賢い秀雄さんの話」、「幸坊の猫と鶏」、「鳩の鳴く時計」、「夢の国」)、公開されている。

 さて、2月の公開予定をみると、坂口安吾が続々と公開されるようである。ファンにはたまらないであろう。また、青空文庫で坂口安吾を知ったという方にも楽しみなラインナップなのではないだろうか。

 最後になりましたが、入力してくださった方々、校正してくださった方々に感謝いたします。また、みなさんのお気に入りを、コメント欄で紹介してもらえると、うれしいです。

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★この文章を書いた人→門田裕志★こんな時間に→08:08コメント (0)トラックバック

2006年02月06日

 連環記(二)

Bone in the U.S.A. 2006 edition
連環記(二)
幸田露伴
 
 
 保胤が日本往生極楽記をあらわしたのは、この六条の池亭にあった時であろうとおもわれる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせんと署名してある、それによれば保胤がまだ官を辞せぬときの撰にかかると考えられるからである。その書に叙して、保胤みずから、予わかきより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、その志いよいよはげしく、口に名号をとなえ、心に相好そうごうを観じ、行住座臥ざが、しばらくも忘れず、造次顛沛てんぱいもかならずこれにおいてす、かの堂舎塔廟とうびょう、弥陀の像あり浄土の図ある者は、礼敬らいきょうせざるなく、道俗男女、極楽にこころざすあり、往生を願うある者は、結縁けちえんせざるなし、といっているから、四十以後、道心日につのりてやみがたく、しかもまだ官をよさぬころ、自他の信念勧進のために、往生事実の良験りょうげんをしるして、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭のうち、仏前唱名しょうみょうのあいあいに、筆をとって仏菩薩ぼさつ引接いんじょうをうけた善男善女の往迹おうじゃくを物しずかに記した保胤のあけくれは、いかに塵界じんかいを超脱した清浄ざんまいのものであったろうか。この往生極楽記はその序にみえるとおり、唐の弘法寺ぐほうじの僧の釈迦才しゃくかさいの浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのにならったものであるが、保胤往生の後、大江匡房おおえのまさふさはまた保胤の往生伝の先蹤せんしょうをおって、続本朝往生伝をせんしている。そしてその続伝のなかには保胤も採録されているから、法縁微妙みみょう、玉環の相連なるがごとしである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるによれば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇ひしの前年、五十一、二歳ごろ、彼の六条の池亭にあった時ででもあったろう。

 保胤が池亭を造った時は、みずから記して、老蚕のマユを成せるがごとしといったが、老蚕はながく繭中けんちゅうにありえなかった。天元五年の冬、その家は成り、その記は作られたが、その翌年の永観元年には和名類聚抄わみょうるいじゅしょうの撰者の源したごうは死んだ。順も博学能文の人であったが、後に大江匡房が近世の才人を論じて、たちばな在列ありつらは源ノ順におよばず、順は以言と慶滋保胤とにおよばず、と断じた。保胤と順とはべつに関渉はなかったが、兎死してキツネ悲しむどうりで、前輩知友のだんだんと凋落ちょうらくしていくのは、さらぬだに心やさしい保胤には向仏の念をそえもしたろう。世の中はようやくおしつまって、人民安からず、去年は諸国に盗賊がおこり、今年は洛中らくちゅうにてみだりに兵器を携うるものを捕うるの令が出さるるにいたった。これといって保胤の身近になにごとがあったわけではないが、かねてからの道心いよいよ熟したからであろう。保胤はついに寛和二年をもって、自分がせっかくこしらえたマユをかみやぶって出て、落髪出家の身となってしまった。戒師はだれであったか、どの書にもみえぬが、保胤ほどの善信の人にとっては、道のかたえの杉の樹でも、田のあぜの立ちぐいでも、戒師たるにたるであろうから、だれでもよかったのである。多武峰とうのみねの増賀上人、横川よかわ源信げんしん僧都そうず、みないずれも当時の高僧で、しかも保胤には有縁うえんの人であったし、そのほかにもしかるべき人で得度させてくれる者はたくさんあったろうが、まさか野菜売りの老翁が小娘を失った悲みに自剃じぞりで坊主になったというようなしだいでもあるまいに、さらにそのうわさのつたわらぬのはふしぎである。匡房が続往生伝には、子息の冠笄かんけいわずかにおわるにおよんで、ついにもって入道す、とあるばかりだ。それによれば、なんらの機縁があったのでもなく、我児がひとりで世に立って行かれるようになったので、かねての心願にまかせてしごく安穏に、時いたってウリがヘタから離れるがごとく俗世界からコロリとすべりだして後生願いいっぽうの人となったのであろう。保胤の妻および子はどんな人であったか、さらにわからぬ。子はあったに相違ないが、傍系の故だか、加茂氏系図にも見あたらぬ。思うに妻も子も尋常無異の人で、善人ではあったろうが、いわゆる草芥そうかいとともに朽ちたものとみえる。
 保胤は入道して寂心となった。世間では内記のひじりと呼んだ。在俗の間すら礼仏誦経らいぶつじゅきょうに身心をうちこんだのであるから、寂心となってからは、いよいよ精神を※(「てへん+数」、第3水準1-85-5)とそうして、問法作善さぜんに油断もなかった。伝には、諸国を経歴してひろく仏事をなした、とあるが、べつに行脚の苦修談くじゅだんなどは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけてきた者を済度して寂照という名をあたえた。この寂照は後に源信のために宋に使つかいしたもので、寂心と源信とはもとより菩提ぼだいの友であった。源信の方が寂心よりはすこし年がおとっていたかもしらぬが、何にせよおさなきより叡山えいざんの慈慧について励精刻苦してまなび、顕密双修そうじゅ行解ぎょうげ並列のおそろしい傑物であった。この源信と寂心との間のちょっとおもしろいはなしは、今その出どころを確記せぬが、閑居之友であったかなんだったか、なんでもかなり古いもので見たと思うのである。記憶のまちがいだったら抹殺してもらわねばならぬが。
 あるとき寂心は横川の慧心院えしんいんうた。院は寂然じゃくねんとして人もないようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、なにかは知らぬが、たがいに日ごろから、見てはよからぬ、見られてはよからぬごとき行儀をたがいにもたぬ同士であるから、遠慮なく寂心は安詳あんじょうにあちこちを見まわった。源信はどこにもいなかった。やがて、ここぞと思うへやの戸を寂心は引あけた。するとはいかに、眼の前は茫々漠々ぼうぼうばくばくとして何ひとつ見えず、イヤ何ひとつ見えないのではない、ただこれ漫々洋々として、大河だいがのごとく大湖のごとく大海だいかいのごとく、※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)いいたり瀲々れんれんたり、汪々おうおうたりとうとうたり、きょうたりふつたり、煙波糢糊もこ、水光天に接するばかり、なにもなくして水ばかりであった。寂心はあとへひと足引いたが、あたかもそこにあった木まくらを取って中へうちこみ、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛をおぼえた。寂心がきて卒爾そつじのたわむれをしたことがわかって、源信はふたたび水を現じて、寂心にその中へ投げ入たものを除去させた。源信はもとのごとくになった。
 この談は今の人には、ただこれむちゃくちゃのだんと聞こえるまでであろう。またこれを理解のゆくように語りわけることも、あえてするにあたるまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経にあっては月光童子のものがたりがこれと同じことで、童子は水観をはじめて成しえた時に、無心のこどもにガレキを水中に投げ入れられて心痛をおぼえ、それをとりだしてもらって安穏を回復したというのである。伝にあっては、唐の法進が竹林中で水観を修めたときに、これは家人が縄床上に清水せいすいがあるのを見て、ふたつの小白石をその中に置いたので、それから背痛をおぼえ、後またそれを除いてもらって事なきを得たという談がある。日本でも大安寺の勝業しょうごう上人が水観をじょうじたとき同じく石を投げ入れられて、これはむねが痛んだという談があって、なにも希有けうな談でもなんでもない。清水だろうが、洪水だろうが、ガレキだろうが、小白石だろが、なんだってかまうことはない、慧心寂心の間にかような話の事実があったろうが、なかったろうがそんなことはじつはどうでもよい、ただこういう談が伝わっているというだけである。いやじつはそれさえおぼつかないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様の態度をとって支那にわたるにおよんでいるほどであるから、寂心源信の間には、日ごろ経律きょうりつの論、証解しょうげの談がたがいにかわされていたろうことは想いやられる。もちろん文辞においては寂心に一日の長があり、法悟においては源信に数歩のさきんずるものがあったろうが、源信もまた一乗要訣、往生要集などの著述すくなからず、寂心とおなじように筆硯ひっけんの業には心をよせた人であった。
 寂心は弥陀みだの慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことにすなおな仏徒ではあったが、この時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世におこなわれていたのでなく、したがって捨閉擱抛しゃへいかくほうと、ほかの事はなにもかもなげうちすてて南無阿弥陀仏一点張り、唱名ざんまいに二六時中をすごしたというのではなく、後世からは余業雑業よごうざつごうとしりぞけてしまうようなことにも、正道正業しょうどうしょうごう思惟しゆいさるることには恭敬心くぎょうしんをもっていかにも素直にこれを学びこれをぎょうじたのであった。で、横川に増賀の聖が摩訶止観まかしかんを説くにあたって、寂心はついてこれをけんとした。
 増賀は参議橘恒平たちばなのつねひらの子で、四歳の時につきものがしたように、叡山にのぼって学問をしよう、といったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧について仏道をまなんだ。聡明そうめいおどろくべく、学は顕密をべ、もっとも止観にふかかったといわれている。真の学僧かたぎで、俗気がみじんほどもなく、深く名利みょうりをにくんで、断岸絶壁のごとくに身の取り置きをした。元亨釈書げんこうしゃしょに、安和の上皇、みことのりして供奉ぐぶとなす、佯狂垢汗ようきょうこうかんして逃れ去る、としるしているが、はばかりもなくバカげた事をして、ほかにいとい忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申し上げるにさいし、一山の僧侶そうりょ、翼従はなはださかんに、それこそ威儀を厳荘にし、かざりたてて錬り行った。いったい本来をいえば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇くださるゆえとはいえ、世俗の者ども月卿雲客げっけいうんかくの任官謝恩のごとくに、よろこびくつがえりて、綺羅きらをかざりて宮廷に拝趨はいすうするなどということのあるべきではないから、増賀には俗僧どもの所為がことごとく気にいらなかったのであろう。衛府の大官がりっぱな長剣をおびたように、乾鮭からさけの大きなやつを太刀たちのごとくに腰におび、はだか同様のあさましい姿で、やせた牝牛めうしの上に乗りまたがり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中をどうどうと打たせたから、群衆はあきれ、衆徒はおどろいて、こはなにごとと増賀を引きさがらせようとしたが、増賀は声をはげしくして、僧正の御車のさきがけ、我をさしおいてだれがつとむべき、とどなった。盛儀もどうもさんざんなぶちこわしであった。こういう人だったから、あるりっぱな家の法会があって、われてそこへおもむく途中、これは名聞みょうもんのための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、とおもいついたので、ついに願主とむしりあい的諍議そうぎをしだしてしまって、せっかくの法会をめちゃめちゃにして帰った。ずいぶんやっかいといえばやっかいな僧である。
 かかる狂気きちがいじみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせたまわんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、とてつも無き※(「鹿/(鹿+鹿)、第3水準1-94-76)そげんをはき、悪行をはたらき、殊勝のえんにつらなれる月卿雲客、貴嬪采女きひんさいじょ、僧徒などをして、身おののき色失い、慙汗憤涙ざんかんふんるい、身をおくところなからしめたのも、うそではなかったろうと思われる。それを記している宇治拾遺うじしゅういの巻十二の文は、ここに抄出するさえいまわしいから省くが、虎関禅師は、出麁語しゅっそごの三字きりですませているから上品ではあるが事情はわからぬ。大江匡房は詞藻の豊かな人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、さすがに筆鋒ひっぽう窘蹙きんしゅくしている。放臭風の三字をもって瀉下しゃかしたことを写しているが、写しえていない。誰人以増賀※※之輩たれびとかぞうがをもってきうあいのはいとなり達后※(「門<韋」、第4水準2-91-59)こういにけいたつするものとなすか、と麁語を訳しているが、これもほうふつたるにいたらず、訳して真を失っている。しかたがない。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂のはなはだしきのみと言っておこう。シャカの弟子の中で迦留陀夷かるだいというのが、教壇の上で穢語えごを放って今にのこり伝わっているが、迦留陀夷のはただあほげているので、増賀のはその時すでに衰老の年であったが、ふたたび宮※(「門<韋」、第4水準2-91-59)などに召し出されぬよう斬釘截鉄的ざんていせってつてきに狂叫したのだともいえばいえよう。じつに断岸絶壁、近よりむずかしい、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。
 この断岸絶壁のような知識に、清浅の流れしずかにして水は玉のごとき寂心が魔訶止観まかしかんを学びうけようとしたのであった。止観はずいの天台知者大師の所説にして門人潅頂かんじょうの記したものである。たとい唐の※(「田+比」、第3水準1-86-44)びりょう堪然たんねん補行弘決ぶぎょうぐけつをまだ寂心が手にし得なかったにせよ、寂心もすでに半生を文字のなかに暮して、経論の香気も身にしみじみとあじわっているのであるから、止観の文の読み取れぬわけはない。しかし甚源微妙じんげんみみょうの秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下についたのである。もちろん同会の僧も幾人かあったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観明静めいじょう、前代いまだ聞かず、という最初のところからべる。そのどういうところが寂心のむねにひびいたのか、その意味がか、その音声おんじょうがか、そのなんの章、なんの句がか、その講明がか演説がかは、今伝えられておらぬが、けだしあるか所、ある言句からというのではなく、全体のそのときの気味合いからでもあったろうか、寂心はおおいに感激した随喜した。そしてたまりかねて流涕りゅていし、すすり泣いた。すると増賀はたちまち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、とこぶしをかためて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙をながしてつつしみ聞けるものを打擲ちょうちゃくするは、と人びとも苦りきって、座もしらけてそのままになってしまった。さてあるべきではないから、寂心も涙をおさめ、人びとも増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、また寂心は感動して泣いた。増賀はまたこぶしをもって寂心を打った。かくのごとくにして寂心の泣くこと三たびにおよび、増賀はついに寂心の誠意誠心に感じ、さすがの増賀も増賀のほうが負けて、それからついに自分の淵底をつくして止観の奥秘を寂心に伝えたということである。なにゆえに泣いたか、なにゆえに打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後のわれらも知らぬとしてよいことだろう。

 (つづく)

 
2006.2.6 「反省すべきは反省する」という弁解には主語がない。大手既成メディアは「反省する主体は誰か」問い直すべき。(村上龍『JMM』No.361より)

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2006年02月04日

 連環記

ボーン・イン・ザ・USA 2006 エディション
連環記
幸田露伴
 
 
 慶滋保胤かものやすたね賀茂忠行かものただゆきの第二子として生まれた。兄の保憲やすのりは累代の家の業をついで、陰陽博士おんようはかせ天文てんもん博士となり、賀茂うじそうとして、その系図に輝いている。保胤はこれにゆずったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄しゆうであった菅原文時の弟子となって文章生もんじょうせいとなり、姓の文字をあらためて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでもなく、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでもなく、兄にゆずるような意から、賀茂の賀の字にかえるに慶の字をもってし、茂の字にかえるに滋の字をもってしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章もんじょう博士保章の子の為政が善滋かもと姓の字をあらためたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋しょくほんちょうもんずいの作者のひとりである。保胤の兄保憲は十歳ばかりの童児のとき、法眼ほうげんすでにあきらかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられたその道の天才であり、また保胤の父の忠行は後の人のさくさくとして称する陰陽道のだい験者げんざ安倍晴明あべのせいめいの師であったのである。この父兄や弟やおいを有した保胤ももとより尋常一様のものではなかったろう。

 保胤の師の菅原文時は、これもまたひととおりの人ではなかった。当時の文人の源英明ひであきにせよ、源為憲にせよ、今なおその文は本朝文粋にのこり、その才は後人に艶称さるる人びとも、みな文時にいてその文章詞賦の斧正ふせいをうけたということである。あるとき御内宴がもよおされて、詞臣などをして、宮鶯囀暁光きゅうおうぎょうこうにさえずるいう題をもって詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心をよせられたこととて、

露はこまやかにして ゆるく語る 園花の底、
月はおちて 高くうたう 御柳ぎょりゅうの陰。

という句を得たまいて、ひそかに御懐ぎょかいにかないたるようおぼしたまいたる時、文時もまた句を得て、
西の楼 月 おちたり 花のあいだの曲、
中殿 ともしび えんとす 竹のうちの声。

と、つらねた。天皇聞しめして、われこそこの題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるもまたすぐれたりとおぼしめして、文時を近々と召して、いずれかよろしきや、とおおせられた。文時は、御製ぎょせいいみじく、下七字は文時が詩にもすぐれてそうろう、と申した。これははばかりて申すならんと、ふたたび押しかえしおたずねになった。文時ぜひなく、まことには御製と臣が詩とおなじほどにもそうろうか、と申した。なおもはばかりて申すこととおぼしめして、まことしからば誓言せいごんを立つべしと、深く詩を好ませたもうあまりにせまっておたずねあると、文時ここにいたって誓言は申し上げず、まことには文時が詩は一段と上におりそうろう、と申して逃げ出してしまったので、お笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品かんさんぽんの作としていまに称揚せられて伝わっているが、保胤はじつに当時の巨匠たるこの人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、ある人の夢に、疫病神が文時の家には押し入らず、その前を礼拝らいはいしてすぐるのを見た、といわれたほど時人じじん尊崇そんそうされた菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世にいた保胤は、に応じて及第し、官も進んで大内記だいないきにまでなった。
 具平ともひら親王は文を好ませたまいて、ときの文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、斉名まさな、大江ノ以言もちときなどは、いずれもつねに伺候したが、中にも保胤は師としてもてなしたもうたのであった。しかし保胤ははやくより人間の紛紜ふんうんにのみ心は傾かないで、当時の風とはいえ、出世間の清寂の思にむねみていたので、親王の御為に講ずべきことはこうじ、おしえまいらすべきことはおしえまいらせても、その事ひとわたりすむと、おのれはおのれで、眼を少しねむったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。おもいを仏土にいたし、仏経の要文なんどを潜かに念誦ねんじゅしたこととみえる。ずいぶんふしぎな先生ぶりではあったろうが、なにもとうめんを錯過するのではなく、寸暇の遊心を聖道しょうどうに運んでいるのみであるから、とがめるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語きぎょすなわち詩歌を賛仏乗の縁としてみとめるとした白楽天のような思想は保胤のとしたところであったには疑いない。
 この保胤に対しては親王もほかの藻絵そうかいをのみ事とする詞客しかくに対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけてはおたずねの出るのは自然のことで、あるとき当世の文人の品評をお求めになった。そこで保胤はぜひなくお答え申し上げた。斉名が文は、月のさえたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺ひわだぶきの家の御簾みすところどころはずれたるうちに女のそうの琴弾きすましたるように聞こゆ、と申した。以言はとおおせらるれば、白沙の庭前、翠松すいしょうの陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、ともうす。大江ノ匡衡まさひらは、とおたずねあれば、鋭士数騎、介冑かいちゅうこうむり、駿馬しゅんめにムチ打って、粟津の浜をすぐるにも似て、そのほこさき森然しんぜんとしてあたるものもなく見ゆ、ともうす。親王興に入りたまいて、さらば足下そなたのは、と問わせたもうに、旧上達部ふるかんだちべ檳榔毛びろうげの車にのりたるが、時にその声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずからその詩品をありのままに申したる、まことに唐の司空図しくうとが詩品にもまさりて、いみじくもうるわしくお答え申したと、親王も御感ぎょかんあり、当時の人びとも嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤などの文、みな今に存しているから、この評のあたっているか、いぬかは、だれにでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評のしかたのいかんにも韻致いんちがあって、仙禽せんきんおのずから幽鳴をなせるおもむきがあるのは、保胤そのひとを見るようでおもしろいといいたい。
 欲をすて道にこころざすにいたる人というものは、多くは人生の磋躓さちにあったり、失敗窮困におちいったりして、そしていったん開悟してこうべをめぐらしていままで歩を進めた路とは反対の路へあゆむものであるが、保胤にはそうした機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人よりたけた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、すなおに受けいれて、人はさようあるべきだと信じ、さようありたいと念じ、学問修証のようやく進むにつれて、いよいよ日に月にその傾向をつのらせ、またその傾向のいよいよつのらんことを祈求きぐしてやまぬのをば、これ真実道、是無上道、是清浄道しょうじょうどう、是安楽道と信じていたに疑いない。それで保胤は性来慈悲心の強いうえに、みずからしいてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。いかなるおりであったか、保胤はあるとき往来繁き都の大路の辻に立った。大路のことであるから、たかき人も行き、ひくき者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、こどもも行けば壮夫も行く、亢々然こうこうぜんと行くものもあれば、踉蹌ろうそうとしていくものもある。なにも大路であるからふしぎなことはない。たまたままたひじょうに重たげなかさだかの荷を負うてあえぎあえぎ大車のくびきにつながれてよだれをたれ脚をふんばって行く牛もあった。これもまた牛馬がもちいられた世のことでなんのふしぎもないことであった。牛は力のかぎりをつくして歩いている。しかも牛使いはつとむることなおたらずとして、これをムチうっている。ムチの音はおこって消え、消えてまたおこる。これも世の常、なんのふしぎもないことである。しかし保胤は仏教のいわゆる六道の辻にも似たこの辻のけしきを見ている間に、ようようたる人、※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)くくたる人、営々きゅうきゅう、戚々せきせきたる人、ああああ、世法はまたまたかくのごときのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力をつくしてなおしもとを受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、きびしきムチ、荷はおもくみちは遠くして、日はさかりに土はこがる、飲まんとすれどしずくも得ぬその苦しさやそもいかばかりぞや、牛目づかいといいて人のうとむ目づかいのみに得しらぬこころをうごかしてなにをか訴うるや、ああ、牛、なんじなんぞつたなくも牛とは生まれしぞ、なんじ今そもそもなんの罪ありてその苦を受くるや、と観ずるとたんに発矢はっしとまたムチの音すれば、保胤はハラハラと涙をながして、南無なむ、救わせたまえ、諸仏菩薩ぼさつ、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度ではなく、またあるいは直接方便のあったばあいには牛馬そのほかのとうめんの苦を救ってやったこともたびたびあったので、そのうわさはついに今日にまでのこり伝わったのであろう。服牛乗馬は太古たいこからのことで、世法からいえば保胤の所為のごときはおろかなことであるが、是のごとくに感ずるのが、いつわりでもなんでもなく、また是のごとくに感じ是のごとくに念ずるのをもって正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断のごときは本よりなんともすることのできぬ、力ないものである。また仏法からいっても是のごとく慈悲の念のみの亢張するのがかならずしも可なるのではなく、ばあいによっては是のごときは魔境におちたものとして弾呵だんかしてある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念がたかぶって、それによって非違にはしるにいたったのでもなんでもないから、もとより非難すべくもないのである。
 ただし世法は慈仁のみでは成り立たぬ、仁の向側といってはすこしおかしいが、義というものが立てられていて、義は利のなりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、ふらち不都合になって、ややむちゃくちゃになってしまう。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することのおきるのも自然のことである。しかしそれも純情で押しきる保胤のごとき人にとっては、世法のごときは、灯芯とうすみのなわばり同様だといって終われればそれまでである。あるとき保胤は大内記の官のおもて、もよおされて御所へ参入しかけた。衛門府えもんふというのが御門警衛の府であって、左右ある。その左衛門の陣あたりに、女がじつに苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐ひれんの涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようはない。つと立ちよって、なにごとがあってその様には泣き苦しむぞ、と問いなぐさめてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人あるじの使にて石の帯を人にかりて帰りそうろうが、路にておろかにもそを取りおとして失い、さがしもとむれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思いそうろう、主人の用を欠き、人さまの物をうしない、生きても死にても身の立つべき瀬のありとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒ウルシのなめしがわの帯の背部のかざりを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯などがあれば、石の形にもけたなのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人はむろん参朝にせまっていて、朋友の融通をあおいだのであろうし、それをおとしたというのでは、おろかさはいうまでもないし、その困惑さもまた言うまでもないが、主人もこれにはなんともこまるだろう、なんとかしてやりたいが、さしあたって今なんとすることもならぬ、ぜひがない、自分が今おびている石帯を貸してやるより道はないと、自分がいま催促されて参入する気ぜわしさに、思慮ふんべつのいとまもなく、よしよし、さらばこの石帯を貸さんほどにとくとく主人あるじがかたにもて行け、と保胤は我がつけた石帯を解きてするするとひきだして女にあたえた。女は仏菩薩ぼさつに会ったここちして、てをすりあわせて礼拝し、よろこび勇んで、いそいそとたちまち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッとひと安心したが、ア、こんどは自分が石帯なし、石帯なしでは出るところへ出られぬ。
 いかに仏心仙骨の保胤でも、われながら、わがおぞましいことをして退けたのにはいまさらこうじたことであろう。さてかたすみに帯もなくてかくれおりたりけるほどに、と今鏡には書かれているが、そのかたすみとはどこのかたすみか、衛門府のかたすみでもあろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことはおもいやられる。その風態は想像するだにおかしくてたえられぬ。公事くじまさにはじまらんとして、保胤がまだ出てこないではしかたがないから、属僚は遅い遅いとまちかねてむかえ求めに出てきた。この体を見いだしては、たがいにあきれて変な顔をしあったろう。でも公事にかれてはそのままにはすまされぬので、保胤のめんぼくなさ、人びとのやっかい千万さも、ごようの進行の大切だいじに押し流されてしまって人びとに世話をやかれて、御くらの小舎人こどねりとかに帯をかりて、からくも内に入り、公事はつとめおおしたということである。
 このものがたりは疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでもなかろうか。何にせよずいぶんとっぴなはなしではある。しかしおおいにゆがめられた談にせよ、この談によって保胤という人の、俗知のとぼしく世法にうとかったことはいかんなくあらわされている。これではいかに才学があって、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうとおもわれるから、まして官界の立身出世などは、東西あいさる三十里だったであろう。
 かような人だったとすれば、よほど俗才のある細君でも持っていないかぎりは家の経済などはらちもないことだったに相違ない。そこで志山林にあり、居宅を営まず、などといわれれば、たいそうよいようだが、じつはしょうことなしの借家ずまいで、長いあいだの朝夕ちょうせきを上東門の人の家にくらしていた。それでもだんだん年をとっては、せめて起臥きがをわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地のやすいのをあがなって、わがすまいをこしらえた。もちろんりっぱな邸宅というのではなかったに疑いないが、さすがに自分がつくり得たのだから、その居宅の記をつくっている、それが今存している池亭記である。記にはまず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮けんこん二方の繁栄はとうてい自分らの居をいとなむを許さざるを述べ、六条以北、窮僻きゅうへきの地に、十有余を得たのを幸とし、隆きにつきては小山をつくり、くぼきにつきては小池しょうちをうがち、池の西には小堂を置きて弥陀みだを安んじ、池の東には小閣を開いて書籍しょじゃくをおさめ、池北には低屋をおこして妻子をつけり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、いかにも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香供華くげ礼拝らいはい誦経じゅきょう、心しずかに称名しょうみょうしたろうまじめさ、おとなしさは、なんという人柄のいいことだろう。およそ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、芹田きんでん七の一、とあるので全般のようすは想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、みぎわの柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋にほめられるほどのものは何ひとつなく、また先生のまゆをシワめさせるような牛にはこばせた大石などもさらに見えなくても、蕭散しょうさんな庭のさまはさすがに佳趣なきにあらずと思われる。予行年ようやく五旬になりなんとしてたまたま少宅あり、その舎に安んじ、シラミその縫を楽しむ、と言っているのも、ケチなようだが、その実を失わないでよい。家主、職は柱下にありといえども、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工あまねし矣。寿夭じゅよう乾坤けんこんに付す、きゅうのいのることや久しいずくんぞ。と内力すこし※(「陥のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんをあげているのも、ウソではないから憎まれぬ。朝にありて身しばらく王事にしたがい、家にありては心ながく仏那ぶつなに帰す、とあるのは、儒家としては感服できぬが、この人としては率直の言である。かの漢の文皇帝を異代の主となす、といっているのは、ふに落ちぬ言だが、そののちにただちに、倹約を好みて人民を安んずるをもってなり、とある。いったい異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕いまつる人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、まことに学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、なにも当時の君主を奢侈しゃしで人民を苦しめる御方おんかたとみなすごとき不臣の心を持っていたでは万々ばんばんあるまい、ただし倹約をこのみ人民を安んずるの六字を点出して、この故をもって漢文を崇慕するとしたについては、いささか意なきにあらずである。それはこの記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、うんぬんと書きだして、繁栄の地は、高家比門連堂、その価値二、三畝千万銭なるに至れることをのべているが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条をたてまつったのは、ちょうど二十余年前にあたっており、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明ぶんみょうであり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎ともにその居をさかんにし、麗服美衣、貧富おなじくその製をゆたかにするといい、富める者は産業をかたむけ、貧者は家資を失う、とすでにその弊のあらわるるをいっている。物価は騰貴をつづけて、国用ようやくたらず、官を売って財に換うるのことまで生ずるにいたったことは、同封事第二条にみえ、もし国用を憂うならばすなわち毎事かならず倹約をおこなえ、と文時をして切言せしめている。爾後じご二十余年、世態いよいよ変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上をしたわしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師となす、詩句に長じて仏法に帰するをもってなり、と記している。白氏を詩宗しそうとしたのは保胤ばかりでなく、当時のひと皆しかりであった。ただ保胤の白氏を尊ぶゆえんは、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法にかえせるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞをじょうぎにして詩をった人なので、気の毒にその益をも得たろうがその弊をも受け、また白氏は唐人のならい、弥勒菩薩みろくぼさつの徒であったろうに、保胤は弥陀如来みだにょらいの徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友となす、身は朝にあって志は隠にあるをもってなり、と記している。竹林の七賢は、いずれしゃれた者どもには相違ないが、ふところに算籌さんちゅうをいれていたような食えない男もいて、案外保胤の方がいいお父さんだったかしれない。かくのごとく叙し来ったとて、文海の蜃楼しんろう、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々こういう人びととあっているというのである。そして、近代人世のこと、いつしたうべきなし、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文をもってせず、師無きにしかず、人の友たる者はいきおいをもってし利をもってし、淡をもって交らず、友なきにしかず、予門をふさぎ戸をとじ、ひとり吟じひとり詠ず、とみずからたりている。応和以来世人このんで豊屋峻宇ほうおくしゅんうをおこし、ほとんど山節※(「木+兌」、第3水準1-85-72)そうせつにいたる、その費かつ巨千万、その住わずかに二、三年、古人の造る者おらずといえる、誠なるかな斯言このげん、とあざけり、自分の暮歯におよんで小宅を起せるを、老蚕のマユをなすがごとしと笑い、そのすむこと幾時ぞや、とみずから笑っている。老蚕のマユを成せるごとし、とはさすがに好かった。この記をなせるは、天元五年の冬、保胤四十八、九歳ともおもわれる。

 (つづく)
 
 
2006.1.24 ディズニー、ピクサーを買収。ジョブズ、ディズニー取締役。
2006.1.29 白南準、没。享年73。

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2006年02月03日

 T-Time新版のロービジョン機能を電子校正に活かす

弱視者への読書支援を狙った、T-Timeの新版(ロービジョン対応、v5.5.7)が出ました。

支援機能の柱は、「1」「2」「3」のキーを押すという簡単な操作で、文字を拡大したり、輝度を反転したり、太字化できること。
数字キーをもう一度押せば元に戻せて、「拡大して、輝度を反転」といった組み合わせも可能です。
表示文字の操作に加えて、挿絵や図版中の文字を大きく見せる、「拡大鏡」の機能も備わっています。

この新しいT-Timeで、校正用のテキストファイルを開いてみました。

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「嗚呼」が「鳴呼」となってはいないか。「烏」か「鳥」か。「完璧」が「完壁」に、「溌剌」が「溌刺」になっていないか。

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ひょいと拡大し、ひょいと戻せる機能を、ありがたく感じました。

ファイルを開いて読むだけなら、無料のバージョンで問題ありません。
これらのロービジョン対応機能も、以下からダウンロードできる無料版ですべて、利用できます。

http://www.voyager.co.jp/T-Time/

▼新しいT-Timeで、青空文庫のCD-ROMを開いてみました。

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まずは、トップページ。

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内藤湖南の「卑弥呼考」を開きます。

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「1」を押して、文字を拡大。(書体が、ゴシック系に変わりました。)

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「2」を押すと、白黒が反転。

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「3」で、太字化。

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マウスの右ボタンクリック(Windows)、control+クリック(Mac OS X)で呼び出せる「拡大鏡」で、外字画像を見てみます。

※青空文庫のCD-ROMについては、「azurなら、ウェッブにある最新のものを読める」と、少々さめているところがありました。ただ、ウェッブブラウザーとしての機能は持っていないけれど、はっきりした強みをもったビュワーと組み合わせることで、あらためて役割を実感できるなと感じた次第です。

★この文章を書いた人→富田倫生★こんな時間に→10:27コメント (4)トラックバック

2006年02月01日

 水牛だより2月1日

この冬の「冬の旅」の旅公演はすべて終了しました。各地でこのコンサートを引き受けてくださった主催者のみなさん、そして聞きにきてくださったみなさん、ありがとうございました。

自分の部屋にいて、コンピュータや電話で事前にあれこれ打ち合わせをしていると、まだ見ぬ会場やピアノに一抹の不安を感じることもありました。会場はコンサートホールから喫茶店まで、いろいろでしたから。でも、実際に出かけていった先では、不安を感じることは何ひとつありませんでした。出演者とスタッフと観客とを包みこむ「冬の旅」というコンサートのぜんたいは、約1時間だけ咲く大輪の花のようなもので、そのときそこにいるひとだけが見ることのできるものです。かすかな不安はその種子の一部だったのかもしれません。
全部で15ステージ、リハーサルもいれると少なくとも40回くらいは聴いたことになりますが、まだ飽きるということがありません。「冬の旅」は日本ではこう歌われるのを待っていたのだという気もします。次の冬にもまたどこかで。
歌うひとに徹していた斎藤晴彦さんがNHK教育テレビのN響アワーに出演します。コンサートでは一言も話さなかった斎藤さん、番組ではゲストで「冬の旅」について語るそうです。楽しみですね。放送は2月26日(日)の予定です。

「水牛のように」を2006年2月号に更新しました。
こちらでは高橋悠治さんが「冬の旅」について書いています。「歴史を知らなくても、「冬の旅」によって今の時代を語ることができる」と。コンサートを聞き逃してもCDは手に入りますよ。
アジアのごはんの森下ヒバリさんは京都に住んでいます。そして夏は京都の暑さを逃れてタイに行き、冬は寒さを逃れてタイに行ってしまうのです。暖房のためにお金を使うよりいいかも。イエンタフォーの謎はとけたのでしょうか。
2月はチョコレートの月。JIM-Netの佐藤真紀さんたちは「限りなき義理の愛作戦」を展開しています。いつもながら、アイデアに乾杯! そもそもプレゼントにはアイデアがなくてはつまらない。こういうチョコレートをもらって喜ばない相手なら、その場で見限りましょう。

1月には「透明迷宮」(高橋悠治piano×笠井叡dance)もありました。天使館と水牛との主催というかたちで、あまり宣伝もしなかったのにほぼ満席。出演者の力は別にして、あまり宣伝しないという宣伝方法があるのかもしれないと、ちょっとかんがえさせられた夜でした。

それではまた!(八巻美恵)

★この文章を書いた人→八巻美恵★こんな時間に→22:15コメント (1)トラックバック