2006年01月30日

 力夕ギり・ジョ一

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 な〜んてれかったようなことを言ったリなんかレちゃったリレて。
 
 ◇参考 死霊 飼料
  門田裕志「aozora blog: ヒラ工作員の日常〜校正編〜」
  かとうかおり「デジタル校正の覚え書き」
  鈴木厚司「非漢字一覧」
 
 
 2006.1.30
 しだひろレ/PoorBook G3'99
 天災・陰陽・りソクは事由です。
 
 
 
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 な〜んてれかったようなことを言ったなんかちゃったて。
 
 ◇参考 死霊 飼料
  門田裕志「aozora blog: 工作員の日常〜校正編〜」
  かとうかおり「校正の覚え書き」
  鈴木厚司「非漢字一覧」
 
 
 2006.1.30
 しだひろ/PoorBook G3'99
 天災陰陽は事由です。

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2006年01月25日

 閑山

ほねぬき偽装版
閑山
坂口安吾

 昔、越後の国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋和尚といって近隣に徳望高い老僧があった。
 初冬の深更のこと、ゆきあかりをづるまま写経に時を忘れていると、窓外から毛のはえた手を差しのべて顔をなでるものがあった。和尚は朱筆に持ちかえて、その手のひらに花の字を書きつけ、あとは余念もなくふたたび写経に没頭した。

 あけがたちかく、窓外から、しきりに泣きさけぶ声がおこった。やがてさきほどの手をふたたび差しのべる者があり、声がいうには「和尚さま。誤って有徳の沙門をなぶり、お書きなさいました文字の重さに、帰る道が歩けませぬ。ふびんと思い、文字をおとしてくださりませ」みれば一匹のタヌキであった。すずりの水を筆にしめして、手のひらの文字を洗ってやると、雪上の陰間をぬい、闇の奥へ消えさった。
 翌晩、坊舎の窓をたたき、訪う声がした。雨戸をあけると、昨夜のタヌキが手にツガの小枝をたずさえ、それを室内へ投げ入れて、逃げさった。
 その後、夜ごとに、季節の木草をたずさえて、窓をおとずれるならいとなった。おいおいじっこんをかさねてこころおきなく物を言う間柄となるうちに、独居の和尚の不便をあんじて、なにくれと小用に立ち働くようになり、いつとなくその高風に感じ入ってみずから小坊主に姿をかえ、側近につかえることとなった。
 このタヌキは通称を団九郎といい、眷族では名の知れた一匹であったそうな。ほどなく経文をそらんじて諷経に唱和し、また作法をおぼえて朝夜の座禅にくわわり、あえて三十棒を怖れなかった。
 六袋和尚は和歌俳諧をよくし、また、おりにふれて仏像、菩薩像、羅漢像などをきざんだ。その羅漢像、居士像などには狗狸に類似の面相もあったというが、おそらく偶然の所産であって、団九郎に関係はなかったのだろう。
 いつとなく、団九郎も彫像のざんまいを知った。木材をさがしもとめ、和尚の熟睡をまって庫裏くりのひとすみにあぐらし、ノミを揮いはじめてのちには、雑念を離れ、しばしば夜のしらむのも忘れていたということである。
 六袋和尚は六日さきんじておのれの死期を予知した。諸般のことをととのえ、辞世の句もなく、特別の言葉もなく、あたかも前栽へ逍遥に立つ人のように入寂した。

 参禅の三摩地をあじわい、諷経念誦の法悦を知っていたので、和尚の遷化せんげして後も、団九郎は閑山寺を去らなかった。五蘊ごうんの覊絆を厭悪し、すでに一念解脱を発心していたのである。
 新らたな住持は弁兆といった。彼は単純な酒徒であった。先住の高風にくらべれば百難あったが、彼もまた一生不犯ふぼんの戒律を守り、もっぱら一酔また一睡に一日のよろこびをたくしていた無難な坊主のひとりであった。
 弁兆は食膳の吟味に心をくばり、一汁の風味にもあれこれと工夫を命じた。団九郎の座禅諷経をふうじて、山陰へ木の芽をとらせに走らせ、また、しばしばソバを打たせた。一酔をもとめてのちは、肩をもませて、やがて大蘿蔔頭だいらふとう(だいこん)の煮ゆるがごとく眠りにおちた。ことごとく、団九郎の意外であった。一言一動俗臭ふんぷんとして、はなはだ正視にたえなかった。
 一夕、雲水の僧に変じて、団九郎は山門をくぐった。おりから弁兆は小坊主の無断不在をかこちながら、酒食のしたくに余念もなかった。
 雲水の僧は身のたけ六尺有余、筋骨隆々として、手足は古木のようであった。両眼はたいまつのごとくに燃え、両ほおは岩かたまりのごとく、鼻孔は風をふき、口はアラナワをよりあわせたようであった。
 雲水の僧は庫裏くりへあらわれ、弁兆の眼前を立ちふさいだ。それから、がねのような大音声でこうと問うた。
※(「口+童」、第4水準2-4-38)酒糟とうしゆそうの漢(のんだくれめ)仏法を食うやいかに」
 弁兆はとっくりをおとし、さて、臍下丹田に力をこめて、まず大喝一番これに応じた。
 と、雲水の僧は、やおらかたえのいろりの上へ半身をかがめた。左手に右の衣そでをおさめて、紅蓮ぐれんをふく火中深くそのたくましい片腕をさしいれた。そうして、大いなるおきのひとつをわしづかみにして、ふたたび弁兆の眼前を立ちふさいだ。
※(「口+童」、第4水準2-4-38)酒糟の漢よく仏法を食うやいかに」
 雲水の僧はにじりよって、まっかなおきを弁兆の鼻先へつきつけた。弁兆に二喝を発する勇気がなかった。おもわず色をうしなって、飛びのいていた。
「這の略虚頭の漢(いんちきやろうめ)!」
 雲水の僧はやにわにおどりかかって、弁兆の口中へおきをねじこむところであった。弁兆は飛鳥のごとくに身をひるがえして逃げていた。そのまま逐電して、ふたたびゆくえは知れなかった。

 雲水の僧は住持となった。人よんで呑火和尚といった。すなわち団九郎ダヌキであった。懈怠けたいを憎み、ひたすら見性けんしよう成仏を念じて座禅三昧にひたり、時に夜もすがら仏像をきざんで静寂な孤独を満喫した。
 村に久次というしれものがあった。大青道心の座禅三昧をおかしがり、法話のつどいのある夕辺、庫裏くりへしのび、和尚の食餌へやたらと砥粉とのこをふりまいておいた。砥粉をくらえばやめようと欲してもおのずと放屁して止める術がないという俗説があるのだそうな。
 はたして和尚は、開口一番、放屁の誘惑にろうばいした。臍下丹田に力をこめれば、放屁の音量を大にするばかりであり、丹田の力をぬけば、心気転倒してなすところを失うばかりであった。
「しばらく誦経いたそう」
 和尚は腹痛をおさえてやおら立ちあがり、木魚の前に端座した。優婆塞優婆夷うばそくうばいの合唱にかくれて、ひそかに始末する魂胆であった。そこでまずこころみに一微風を漏脱したところ、ことごとく思量に反して、あとはもはや大流風の思うがままの奔出を防ぎかける手段てだてもなかった。大風笛は高天井にコダマして、人びとがこれを怪しみ誦経の声をのんだときには、転出する円凹さまざまな風声のみが大小高低の妙を描きだすばかりであった。臭気堂に満ちて、人びとはおもわず鼻孔にそでをあて、ひとりの立ちあがる気配を知ると、われさきに堂をのがれた。
 釈迦牟尼成道の時にも降魔のことがあった。正法にはかならず障害のあるもの。放屁をおさえようとして四苦八苦するのもまだ法を会得すること遠きがゆえであり、放屁の漏出にろうばいしてなすところを忘れるのもまだ全機透脱して大自在を得るていの妙覚にいたらざるがゆえである。すなわち透脱して大解脱を得たならば、拈花ねんげも放屁も同一のものであるに相違ない。静夜端座して、団九郎はかく観じた。
 それにつけても、俗人の済度しがたいことをなげいて、人里から一里ばかり山奥にいおりをむすび、遁世して禅定三昧に没入した。

 冬がきて、いなか役者の一行がこの草庵を通りかかった。
 雪国の農夫たちは冬ごとにそのふるさとのなりわいをうしない、雪どけのころまで他郷へかせぎにでかけるのが昔からのならいであった。部落によって、あるいは灘伊丹の酒男、あるいは江戸の奉公とさまざまであるが、ところによっては、越後獅子の部落もあり、村まわりの神楽狂言しばいなどを伝承するところもあった。もとより正業は農であるが、副業もまたおおむね世襲で、現今もなおこのあたりには冬ごとにしばいを巡業する部落がある。丈あまりの雪上に舞台を設へ、観客もまた雪原にムシロをしき、持参の重箱をひらいて酒をのみながら見物する。木戸としてとくに規定の金額がないから、金銭を支払う者ははなはだまれで、通例米みそ野菜酒などを木戸銭にかえ、一族ひきつれて観覧にあつまる。演者はただひたすらにしばいを楽しむというふうで、寒気厳烈の雪原とはいえさながらに春風駘蕩、「三年さきに勘平の男前の若い衆はどうなすったね。女の子が夢中になったものだったが、たっしゃかね」「あの野郎はかかあをもらって、今年は休ましてもらいますだとの」などいう会話が幕の間に舞台の上下で交わされる。座長とみえる老爺など終生水のみ百姓の見るからに武骨そのものの骨柄であるが、たくみに女形をしこなして優美哀切をきわめ、涙のそでをしぼらせること、いつの年も変りがないということである。
 おりから一行のひとりに病人ができた。通りかかった草庵をこれさいわいに無心して病人をかつぎいれたが、翌日も、また翌日も、はかばかしくいかない。先をいそぐ旅のこととて、ひとりのつきそいを置き残して一座の者は立ち去った。
 病人は暮方から熱が高まり、夜は悪夢にうなされてうわごとを言い、しばしば水をもとめた。あけがたにようやく寝しずまるのが例であった。つきそいの男は和尚に祈祷を懇願した。同村の某がおなじような高熱に悩んだとき、真言の僧に祈祷をうけ、※(「口+奄」、第3水準1-15-6)摩耶底連おんまやてれんの札を水にうつしていただいたところ、翌日は熱も落ちて本復したことを思いだしたのであった。
「拙僧はさような法力を会得した生きぼとけではござらぬ」と和尚は答えた。「見られるとおり俗世間をのがれ、一念解脱を発起した鈍根の青道心でござる。死生を大悟し、即心即仏非心非仏にいたらんことを欲しながら、妄想つきず、見透するところはなはだあさはかな、一尿床の鬼子(寝小便たれ小僧)とはすなわちこの坊主がこと。加持祈祷は思いもより申さぬ」と受けつける気配もなかった。
 病人は日ごとにおとろえ、すでに起居も不自由であった。しきりにふるさとの土を恋しがり、また人びとをなつかしんだ。その音声も日を経るごとに力なく、つきそいの友の嘆きを深くさせるのみだった。彼はしつように和尚の祈祷を懇願した。
「定命はこれ定命でござる。いっさい空と観じ、雑念あっては、成仏なり申さぬぞ」
 和尚のこたえは、いつもながら、それだけだった。そばに瀕死の病人もなきがごとく、ひねもす禅定三昧であった。そのおおいなる趺座ふざ僧のすがたは、山寨さんさいをかまえて妖術をつかうガマのようにものものしくとりすまして、とりつくしまもない思いをさせた。
 さりとて病状は一途に悪化をたどるばかりで、人力のほどこす術も見えないので、つきそいの男は、ひまあるたびに、座禅三昧の和尚のひざをゆさぶって、法力のこころみを懇請するほかに知恵のうかぶゆとりはなかった。ゆさぶるひざの手ごたえは太根をはった大松の木のコブかと思われるばかり、なかなか微動をゆりだすことも絶望にみえるありさまであった。
「生者は必滅のならい。執着して、いたずらに往生の素懐を乱さるるな」
 和尚は俗人の執念を厭悪するもののごとく、ときに不興をあらわして、言った。そうして、ひざをゆさぶられても、半眼をひらこうとすらしなかった。
 しかし、和尚の顔色も、病者の悪化にきそいたって、日に日に光沢をうしない、そのたくましげな全身に、なんとなくおとろえの気がただよった。
 春がきて、巡業の一行がふたたび草庵へもどったとき、すでに病人は臨終を待つばかりであった。人びとは不幸な友のまくら頭に凝坐して、悲嘆にくれたが、もとより人の思いによって消える命がとりもどせようものではなかった。
 草庵の裏山に眺望ひらけた中腹の平地をさがしもとめて、涙ながらに友のなきがらをほうむった。回向、引導も型のごとくにとりおこなったが、和尚の顔色はますますすぐれず、土気色のむくみをあらわし、眉間の憂悶はかくしもあえず、全身衰微の色深く、歩く足にも力失せがちなありさまがただならなかった。
 一座の長が進みでて、一様ならぬ長逗留の不始末をわび、回向の労を深謝したとき、和尚が言った。
「されば、善根、回向は比丘のつとめ。ましてこの身は見られるごとく世をすてた沙門、お礼のことはひらにいり申さぬ。ただ、お言葉ゆえ、所望いたしてよろしいものなら、なにとぞ、一念発起の心根をあわれみ、塵労断ちがたい鈍根の青道心にいたわりをよせたまいて、俗世の風が解脱の障擬とならぬよう、なるべく早う拙僧ひとりにさせてくだされたい」
 語る言葉にも力なく息苦しげであった。
 人びとはにわかに興ざめ、遺品などとりまとめるにも心せかせて、いとまをつげたが、それを待つ間ももどかしげな和尚のようすに、ほとほと厭気さすばかりであった。
 人びとがものの三、四十間も歩いたころ、うしろにふしぎな大音響がわきおこった。低く全山の地肌をはいわたる幅のひろいその音響を耳にしたとき、すでに人びとのふむ足はみずから七、八寸あまり宙にうき、丹田に力のかぎりこめてみても、音の自然に消え絶えるまで、ふたたび土をふむことができなかった。
 おどろいて、草庵の方をふりかえると、和尚は柱にすがりつき、呼吸はあらあらしくその肩をふるわせていた。
 ふたたび大音響を耳にしたとき、和尚の法衣は天にむかって駈けさるがごとく、すそは高々と空間に張りひろがり、人びとの足は自然に踏む土をうしなって、ふたたび宙に浮いていた。

庵寺あんでらの屁っこき坊主はの 山の粉雪も黄色にそめ 春のさかりに紅葉もさかせ おないぶつにけつむけてばちあたりとは面妖な 仏様も金びかりなら    めでたい めでたい

 あるとき、和尚に依頼の筋があって、草庵をたずねた村人があった。
 訪うまでもなく、座禅三昧の和尚のすがたが、まる見えであった。
「おたのみ申します」
 と、訪客は和尚のうしろすがたにむかって、つつしみ深く訪いをつうじた。趺座の和尚に微動もなく、返事もなかった。四たび、五たび、訪客はしだいに声を高らかにして、おなじ訪いをくりかえしたが、さながら木像にものいうごとく、さらに手ごたえの気配がなかった。
 さて、所在もなさに見まわせば、すでに屋根はかたむいて、ところどころにすきまをつくり、また大空ののぞけて見えるあなもあった。雨の降る日は傘さしてもまにあうまいと思いやられるのもことわり、畳はすでにコケむすばかりのありさまであった。長虫はところを得てはいまわり、また翅虫はむしはよどみをさいわいわきむらがって、人の棲家とも思えなかった。さては和尚もこけむしたかと思われるほど、そのたくましく巨大な姿は谷底に崛起くっきする岩石めき、まるまると盛りあがるひたいもほおも、アカにすすけて、黒々と岩肌の光沢を放つばかりであった。
 訪客は縁先ににじりよった。
「もし、和尚さま」
 首をつきいれて、三たび、四たびくりかえしたが、声のつうじた様子もなかった。
 たまりかねて、ぬれ縁へ片ひざをつき、はいこむばかりの姿勢となって、片腕をのばして和尚の背中をゆすろうとした。
「もし。和尚さま」
 やにわに彼はもんどり打って、土の上にころがっていた。彼はそのとき、今のさっき目に見たことが、いかように工夫しても、のみこみかねるありさまであった。
 うしろ向きのすがたではあるが、不興げなかげが顔をかすめて走ったかと想像された一瞬間、たしかに和尚のすがたがむくむくとふくれて、部屋いっぱいにひろがったのを認めたはずであったのである。
 腰骨のいたみもうち忘れて、訪客はふもとをさして逃げかえった。

 ある年、行暮れた旅人が、破れほうけた草庵を認めて立ち入り、旅寝の夢をむすんだ。
 すでにすむ人のすがたはなく、壁はおち、はめ板ははずれて、夜風は身にしみてふきわたり、床のすきまに雑草がのびて、風吹くたびにその首をふった。
 深更、旅人はふとわが耳を疑りながら、目をさました。そのいる場所にすぐ近く、人びとのざわめきの声がするのであった。それは遠くひろびろと笑いどよめく音にもきこえ、またすぐ近くあまたの人が声をころして笑いさざめく音にもきこえた。
 旅人は音する方へにじりよった。壁のあなを手さぐりにして、ひそかにのぞいた。そうして、そこに、わが眼をうたぐる光景を見た。
 そこは広大な伽藍であった。どのあたりからさしてくる光ともわからないが、かすかにただよう明るさによっては、奥の深さ、天井の高さが、どの程度とも知りようがない。さて、広大な伽藍いっぱい、無数の小坊主がひざつきまじえてうごめいていた。ひとりは人のそでをひき、ひとりはわが口を両手におさえ、ひとりはおのれの頭をたたき、またひとりは脾腹をおさえ百態のかぎりをつくして、ののしり、笑いさざめいていた。
 やがてもっとも奥手の方に、ひとりの小坊主が立ちあがった。左右の手におのおの小枝をにぎり、その両肩へ小枝をかつごう姿勢をとって、両ひじをはり、一声高くこう歌った。
「花もなくて」
 うたいながら、へっぴり腰もおもしろく、飛びたつように身も軽くひと舞いした。
「あらはずかしや。はずかしや」
 小坊主は節おもしろく歌いたてて、両手の小枝を高々と頭上にささげ、きりきりと舞った。と、舞いおわり、ヒョイとシリをもちあげて、一足ぽんとけりながら、放屁をもらした。


花もなくて
あらはずかしや。はずかしや

 小坊主は、舞い、うたい、放屁をたれ、こよなく悦に入るとみえた。おなじ歌も、おなじ舞いも、くりかえすたびに調子づき、また屁の音も活気をおびて、にぎやかに速度をはやめた。
 放屁のたびに、満座の小坊主はどッとばかりにどよめいた。手をうつ者もあり、鼻をつまむ者もあり、耳にふたする者もあれば、さてはやにわにかたえの人の鼻をつまんでねじあげる者もあった。ののしり、わめき、さて、ある者はさかだちし、またある者はやにわに人の股ぐらをくぐりぬければ、またある者はあおむけにでんぐりがえって、両足をばたばたふった。
 異様なこととはいいながら、そのおかしさにたえがたく、旅人は透見の自分もうち忘れて、おもわず笑い声をもらした。
 どよめきは光とともにかき消え、あとは真の闇ばかり。ただみずからの笑い声のみあやしく耳にたつことを知ったとき、むんずとくみついた者のために、旅人はすんでによじふせられるところであった。必死の力でふりほどき、のがれようとあせってみたが、からみつく者はさらに倍する怪力であった。精根つきはてて抵抗の気力をうしなったとき、組みしかれた旅人は、毛だらけの脚が肩にまたがり、その両股に力をこめて、首をしめつけてくることを知った。
 ふと気がつけば、草庵の外に横たわり、露をうけ、早朝の天日にさらされている自分のすがたを見いだした。

 村人が寄りつどい、草庵を取りこわしたところ、仏壇の下にあたった縁下に、大きな獣骨を発見した。片てのひらの白骨に朱の花の字がしみついていた。
 村人はあわれんで塚を立て、周囲にあまたの桜樹を植えた。これを花塚とよんだそうだが、春めぐり桜に花の開くごとに、塚のまわりの山々のみは嵐をよび、終夜悲しげに風声がさけびかわして、一夜に花をちらしたということである。この花塚がどのあたりやら、いまは古老も知らないそうな。
 
 
 
底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
   1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文体 第一巻第二号」
   1938(昭和13)年12月1日発行
初出:「文体 第一巻第二号」
   1938(昭和13)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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2006年01月24日

 相場の神様

踊る出羽三山
相場の神様

 本間宗久そうきゅう
 相場の神様、投機の神様、出羽の天狗の異名がある。まるで見てきたかのようにものをいうのは、いまにはじまったことでなし。ろくすっぽ知らないのですが、そこはいつものひらきなおり。タイムリーなのでこの人物について調べてみることにしました。

 一七一七年(享保二)生まれ。酒田の大富豪、本間家初代の五男。二代目をついだ長兄が晩年病気がちだったため、宗久三十五才のとき家業をひきうける。商売を手広くひろげ、米相場で巨利を博す(『新編 庄内人名辞典』より)。酒田の本間さまについてはいまさら説明するまでもなく、大東亜戦争終結後の食糧難とインフレーションのさなか、GHQが日本再生の皮切りに選んだのが国内第一の大地主、本間家でした。昭和二〇年十二月マーク・ゲインが酒田へ訪れて調査し、その後、農地解放政策がはじまる。
 頼朝軍が奥州平泉へ攻め入ったさい、藤原秀衡の妹とも後妻ともいう徳尼公とくあまぎみが、三十六人の家臣団に守られながら出羽・羽黒山まで逃げてくる。しかし、ほどなくそこにも追っ手がせまってきたので、徳尼公らは羽黒を去って酒田へ逃れます。ことの真偽はともかく、そういう伝説がえんえん八百年間語りつがれてきた。歴史の深層で。表層で真実をあからさまに語ることは、あまりに危険すぎた。記録に残せば、追討の口実や手がかりを与えることにもなる。語り、カムフラージュ、記憶と偽装。出羽三山というのはそういう土地がらです。
 本間家は、もとは相模国さがみのくに本間村の出で、新潟をへて永禄年間(十六世紀なかごろ)酒田へ移住したとされる。一六二二年(元和八)最上家が改易され、かわって信濃松代から徳川の四天王・酒井忠次ただつぐの孫、忠家ただいえが庄内入りする(*1)。
 本間家歴代当主のなかでおそらくもっとも有名なのは、庄内浜の砂丘地で大規模な植林事業を成功させた光丘こうきゅうです(*2)。相場の神様、宗久そうきゅうは光丘の叔父おじにあたります。光丘は、一七五〇年(寛延三)一九才のとき姫路の豪商奈良屋権兵衛のもとへ奉公。四年後、帰郷して三代目をつぐ。時代は吉宗(一七五一没)から家重いえしげの代へうつるころ。光丘が有名なのは、植林事業ともうひとつ、天明の飢饉(一七八二〜一七八七)のさいに備蓄米を庶民へ放出し、飢餓から救ったというエピソードです。いわゆる、藩内から一人も餓死者を出さなかった。光丘から財政支援をうけた他藩も多い。なお、光丘のひ孫にあたるのが光美こうびで、幕末当時の本間家当主です。庄内藩の戊辰戦争の武器購入のさい、戦後賠償金の支払いをせまられるさい、また、藩がたびたび転封の危機にみまわれるさいにも、彼が支援することになる。
 光丘は幼少のとき、地元の修験・覚寿院賢秀のもとで経史を学ぶ。天台宗(『酒田の本間家』)とも真言宗(『人名辞典』)とも説がある。賢秀は神道・仏道のほか儒学にも長じて、寺子屋をいとなんだ。

 かたや宗久そうきゅう。幼名熊次郎。光丘とは十五才ちがい。享保十八年、十六才のとき庄内藩家老酒井吉之允とともに江戸へのぼっている。妻は新堀村の加藤勘右衛門の娘・美也。覚寿院賢秀は一七一五生まれというから宗久とふたつしかちがわない。もしかしたら同じ師のもとで学んだ可能性もありうるか。兄のかわりに本間家を切り盛りしていた宗久だが、若い光丘が奉公からもどってくるまでにかなりの財をこしらえる。どうやら光丘が家をつぐにあたって、ふたりは相続をめぐり仲たがいしている。光丘は、宗久の資産運用に気をよくしなかった。長く対立して和解したのは晩年になってからという。
 宗久そうきゅうは安永三年(一七七四)五十八才のとき隠居して、江戸の根岸へうつる。田沼意次が老中となったころのこと。家というおもりがなくなった気楽さだろうか。大阪と江戸の米相場で目を見張るような大当たりを続ける。相場の神様、出羽の天狗の誕生。なお、子どもの久作(『──本間家』。『人名辞典』では喜内)は十九才で早世。娘も若くして亡くなる。妻・美也の弟・猪四郎を養子としてむかえ光林と名乗らせ、あとをつがせる。
 
 当時の相場そうば・投機の対象は米。米本位制こめほんいせい。相場という言葉は、十五世紀ごろから文献にあらわれる。当時と現在を単純にならべることは乱暴かもしれませんが、基本的なエッセンスや感覚はまったく変わらないんじゃないか。天候の順不順、在庫量、人口動態、需要量、他マーケットの動勢、ルート、タイミング、動産・不動産の蓄財。現在ならばそこに、中国のエネルギーや原材料の需要、中東などの原油の提供ぐあい、アメリカの小麦・大豆・家畜飼料の生産能力、地域紛争などの政治地理的ファクター、各国の借金の返済信頼などがからむ。
 偽装や風説の流布・横流し・買い占め・企業買収など、もとより当時からおりこみずみのこと。いまさら性善・性悪などちゃんちゃらおかしい。物と物を交換することをおぼえたときから経済がはじまり、交換・交流・物の取り引きがつづくかぎり経済はどこまでもつづく。男女のあいだでも、師弟のあいだでも、友人関係のあいだでも、医師と患者のあいだでも、被害者と加害者のあいだでも。宗教のあいだでも、ネットごしのあいだでも、ボランティアのあいだでも。
 極端なはなし、人類が絶滅しても経済は残る。動物の個体どうしの取り引き、群れどうしの取り引き、異種間の取り引き、生態系間の取り引き。現代経済は中間流通と中間搾取を代行・カムフラージュするための合法的・合意的システムにすぎない。
 さて、宗久が活躍したのは江戸中期ですので、幕末まではしばし(五、六十年ほど)間があります。にもかかわらず、相場の神様のはなしを挿入することにしたのは、二つほど理由があります。ひとつは、宗久が座頭連判貸しなるものを創始したこと。もうひとつは、庄内藩江戸藩邸の御用をつとめるかたわら、寛永寺に出入りして輪王寺宮に仕えたということです。『人名辞典』によると、そののち罪があって職を辞するとある。『──本間家』でも、なんらかの罪におとしいれられて投獄されたとある。大名貸しをはじめて巨万の富をつくるのはその後だったらしい。
 
 座頭連判貸し。
 辞典をみると座頭金ざとうがねという項目がある。江戸幕府は盲人を保護するために高利貸しの営業をみとめ、その貸し金を官金と称して利をおさめる特権をあたえた。座頭金は京・大坂よりも江戸に多く、約三千の江戸の座頭が貸し付け業をおこなっていた。座頭ざとうというのは盲人の階級として定められた四官(検校けんぎょう・別当・勾当・座頭)の最下位のこと。一三五五年の文献に初出があり、制度としては江戸中期以降の成立と推定される。座頭は、公縁久我家を本所とする京都黒川・江戸杉山両検校の支配とある(『国史大辞典』吉川弘文館より)。
 いわば当時の公認巨大金融システムといっていい。寺社や富豪が座頭に元金を貸す。座頭は庶民へ金を貸す。庶民は座頭へ借金と利息を返す。座頭は寺社や富豪へ元金と利息を返す。そのときの利ざやマージンが座頭の手もとへ残る。合理的な盲人救済のシステムともいえる。「弱者」を相手に非道なこと・きたないまねをすることは倫理的にもゆるされない。借りたものは返すのがあたりまえだから返済率はそうじて低くなく、寺社や富豪にとっても利益になった。貸し手、イコール盲人。そこからいろんな意味や記号が付与することともなる。ひとつの例が『座頭市』(*3)。
 宗久そうきゅうは、米相場で成功した資金をもとにして、座頭連判貸しと大名貸しをとりおこなう。大名貸し。大名(藩)への貸し付け。いわば、いまの地方債のようなものだろう。百姓町民から大名まで。ここに近世金融業が誕生したということか(*4)。
 座頭、幕末、とくれば勝海舟。
 勝海舟。曽祖父は越後国三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎市)出身の米山検校(盲人・銀一、山上氏)といい、盲目の身でありながら江戸へ出て高利貸しで巨万の富を得た。その後旗本男谷家の株を買い子の平蔵に継がせ男谷検校をなのった。男谷平蔵の三男が麟太郎(海舟)の父・小吉である(ウィキペディアより)。
 
 本間家。座頭。金貸し。寛永寺かんえいじ輪王寺宮りんのうじみや、勝海舟。これじゃあ、まるでストーレートフラッシュではないか。対するカードはさしづめ、薩長、黒船、西洋兵練、復古神道、明治天皇、地租改正か。京・大坂・堺・近江の関西商人はどっちについたろう。ここまでそろうといわずとしれたことか。
 さて、相場の神様、宗久そうきゅうに座頭連判貸しなるものを入れ知恵した者がいても不思議でない。出羽庄内出身の宗久そうきゅう。そして徳川幕府の消滅するさいにも庄内藩が最後まで抵抗することになる。引導役もまた座頭の末裔、勝海舟。おそらく座頭連判貸しという金融システムもまた江戸幕府とともに消滅した。かなりくさい。上野寛永寺かんえいじ輪王寺宮りんのうじみや……。
 本間宗久そうきゅう、一八〇三年(享和三)没。享年八十七。著書に米商の秘伝書『本宗莫那剣』がある。
 
*1:酒田は『義経記』巻七にあらわれ、一六〇三年(慶長三)最上義光よしあきが大宝寺城を鶴ヶ岡つるがおか城と改称、酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城と改称。明治に入ってから鶴ヶ岡は鶴岡とあらたまる。酒田から鶴岡まで直線距離でおよそ20km。元禄二年(一六八九)芭蕉と曽良そらが出羽三山へ訪れる。酒田の山居倉庫さんきょそうこは明治二十六年の創建。鉄道開通は昭和四年(?)。

*2:光丘は「みつおか」とも読む。砂防植林の距離・幅は要確認。

*3:勝新太郎『検校』『座頭市』シリーズは、子母沢寛『ふところ手帖』収録の短編作品にヒントを得て創作されたもの(ウィキペディアより)。勝新太郎の自伝(あるいは雑誌『別冊太陽・勝新太郎特集』)でもたしかそう書いてあった。

*4:諸藩は幕末まで借金返済に苦慮することになる(要確認)。長州萩藩はとうてい返済できなくて、引き倒すには戦争をするしか手段がなかった、とどこかで読んだ記憶があるがさだかではない。奇跡的に財政再建を成功させた数少ない例として、備中松山藩・板倉勝静かつきよのもとで活躍した山田方谷ほうこくがある。

 ◇参考
 『新編 庄内人名辞典』1986.11.
 『山形県の歴史散歩』1993.2.
 『山形県の地名』平凡社
 『酒田の本間家』佐藤三郎 中央書院1972.8.
 
 
 2006.1.21 あほぉー。勝麟太郎、107回目の命日でしたか。
 2006.1.23
 しだひろし/PoorBook G3'99
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2006年01月19日

 夢の国

取引全面停止版

夢の国
宮原晃一郎
 
 
    一

 雪の降る日でした。
 よしちゃんはつくえについて学課のおさらいをしておりました。障子のたっている室の内は、うす暗くて、まるで夕暮れのようでした。そとにはまださかんに雪がつもるらしく、ときどき木の枝からサラサラと雪のおちる音が聞こえました。

「アア/\/\」
 吉ちゃんは大きな口をあけて、アクビをしました。ふとだれやら自分を呼ぶ声がしますから、ふりかえってみますと、暗いかたすみに、白いおヒゲの長くたれたおじいさんが、コウモリがさを手にもって、立っておりました。
「ぼくを呼んだのは、あなたですか。」
 吉ちゃんはふしぎそうにききました。
「ああわしが呼んだ、おまえはたいへん勉強するね、すこし休まないか、おもしろいものを見せてあげるよ。」
 吉ちゃんは変なおじいさんだ。いったいどこから、いつ来たのだろうと思いました。けれどもぜんぜん見知らぬ人でもないようでした。
「ああそうそう。」
と、吉ちゃんはそのとき不意に思いつきました。
「あなたは去年のクリスマスに、青年会館に出ていらした、サンタ・クロースですね。」
 おじいさんは、にっこり笑いました。
「似ているかもしれないが、ちがうよ。わたしはねえ、オレ・リユク・ウイという名さ。」
「へえ、やはり西洋人ですね。」
「いや、西洋人でもなければ、支那人しなじんでも日本人でもない。夢の国にいるものだよ。」
「夢の国? そんな国がありますか。」
「あるとも/\、わしの名はそれにちなんだものだ。オレ・リユク・ウイというのは、日本の言葉でいえば、をつぶれ、ということだよ。おまえもちょっと、わしの国へ行ってみないか。」
「ええありがとう、でもこんなに雪がふっちゃ、外はみちが悪いでしょう。」
「いいえ、外へ出なくてもいいのだよ、ただそこへすわったまま、この傘の下にいれば、すぐ行かれるんだ、いいかね、ほうれ。」
 オレ・リユク・ウイのおじいさんは、そういって、手にもったこうもりがさをひろげて、吉ちゃんの頭の上にさしかけました。
 それはキレイなふしぎな絵をかいた傘でした。子どもの顔をした花やら、人間のようにあるく動物やら、まだみたこともない形や色をしたものが、たくさんにかいてありました。しかも、それが活動写真のように、動くのでした。
「これが夢の国ですか。変なところですねえ。日本とはまるでちがっている。」
 吉ちゃんがいいますと、オレ・リユク・ウイは、
「日本のようなところもあるよ。そこが見たければ、つれていってあげるよ。ちょっと眼をつぶりなさい。」
と、いいました。
 
 
    二

「ああ本当にふしぎ々々々。」
と、よしちゃんはさけびました。
「おじいさんここはどこ? ええ? 浅草の観音様?」
「さあ、そうかもしれない。夢の国のところの名はむずかしいから、言わないでおこう。」
「あれ、あすこに石の鳥居がみえますよ。けれども仲見世なかみせはありませんね。」
「うん、そんなものはない、けれどもね、ひとつおまえに言っておくことがある。それはおまえにどっさりおみやげをやろうということだ。しかし、わしのいうとおりにしなければいけないよ。いいか、あの鳥居が三つあるから、そのうちの一番目のでも二番目のでも、そこにあったものは、おまえがとってもいい。けれどもそんなものは本当に、おまえのためにならんから、ほしくてもとらないで、三番目の鳥居に行ってから、はじめて取るのだよ。それではわしはここでしっけいする。日本へ帰るのはわけはない。おみやげさえ取れば、あとはひとりでかえれるから。」
 オレ・リユク・ウイはそう言ったかと思うと、ふとそのすがたを消してしまいました。
 一番目の鳥居にきてみますと、はたして、そこにひとつの豆自動車がありました。けれどもその自動車は、あたりまえの形をしていませんで、前の方が竜の首になって、乗るところはちょうどその背中にあたるところでした。そして金と銀とで全体ができて、いろいろの宝石、ダイヤモンド、ルビー、碧玉サファイヤ、エメラルドなどでかざって、ピカピカ光っておりました。
「おや、めずらしい自動車だなあ。」
 吉ちゃんはおもわず、足をそこに止めて、見とれております。
「ぼくもこんな自動車がひとつほしいな。」
 おじいさんの言ったことなんか忘れて、吉ちゃんは、ほしいと思いました。すると、すぐに、
「さあさあお取んなさい/\/\/\、お取りになれば、あなたのものですよ。だれもなんとも言いはしませんよ。」
と、竜の首になっているところが、ふいに口をききました。
 吉ちゃんはビックリしました。
「おや、ふしぎな自動車だ、物をいうのねえ。」
「ええ、この国のものは、なんでも物をいいますよ。」
「そうかね。——うん、ぼく欲しいね、この自動車が——。それでもオレ・リユク・ウイのおじいさんが、一番目の鳥居のものは、取っちゃいけないっていいつけたから……」
「なあに、あのおじいさんの言うことなんかあてになりゃしません。はやくお取んなさい。まあ乗ってごらんなさい、わたしは一時間に千里はしりますよ。」
「千里! 一時間に? うん、じゃ乗ってみよう。でもぼくのものにするんじゃないよ。でないとおじいさんに知れると悪いから。」
「ただ乗るだけですか。」
と、自動車の竜は、ちょっと首をかしげました。
「困りましたなあ。そして乗ってしまったら、あとはおいてけぼりにされるんですか。」
「だって外にもっといいおみやげがあるから、オレ・リユク・ウイのおじいさんが、取っちゃあいけないといったもの。」
「ではしかたがありません。あなたがきがくるまでお乗りなさい。どうせわたしはあなたのおうちまでは行かれないのですから。それに二番目の鳥居へあなたは行くんでしょう。二番目の鳥居までは遠いですよ。」
「どのくらいあるの、遠いってのは。」
「十里あります。だからお乗りなさい。」
「でも、ハンドルがないじゃないか。」
「ハハハ」
と、自動車は笑いました。
「この国じゃハンドルなんて、めんどくさいバカげたものはありません。あなたが乗りさえなされは、自動車はひとりでに、どこへでもあなたのお好きなところへ行きます。飛行機のように空にでものぼります。」
 吉ちゃんはそのいうとおりに自動車にのりますと、自動車はふわりと宙に浮いて、またたくうちに、二番目の鳥居の前にとまりました。
 
 
    三

 第二の鳥居にはよしちゃんの身のたけほどある大きな人形が、りっぱな洋服を着てたっておりました。吉ちゃんが自動車から出るのを見ると、
「ああよくきてくれたね、君のくるのをまっていたのだ。」
と、声をかけました。
「おや、君はぼくを知っているのかい。そして君は人形じゃないか。どうしてそんなに物が言えるの。」
「ハハハ」
と、人形は笑いました。
「この国じゃなんでも物を言って、なんでもひとりで動くのだよ。そんなことをきいているよっかも、はやくこの服を着てくれたまえ。ぼくこまっているんだ。」
 吉ちゃんは首を横にふりました。
「そんなおいはぎなんかぼくできない。それにオレ・リユク・ウイのおじいさんが、二番目の鳥居のも、取っちゃいけないと言ったんだもの。」
「あのおじいさんの言うことなんか、あてになるものかね。いいからぼくがあげるというのだ。おいはぎじゃない。どうか取ってくれたまえ。」
 吉ちゃんも、洋服がとうから欲しかったのでした。けれども吉ちゃんのうちは、お金のあるうちでなかったので、それがなかなかできそうにもなかったのです。ですから吉ちゃんはこの人形の洋服が、ばかにほしくなりました。なにしろりっぱな服でしたから。吉ちゃんは大臣や、陸海軍の大将の服でも、こんなにたくさん金モールがついて、勲章がかざってあるとは思いませんでした。
「ではねえ、ぼくに貸してくれたまえ。きたないけれど、そのあいだぼくのきものを着ていてねえ……三番目の鳥居に行くまででいいのだよ。おみやげができたら、ぼくすぐにうちへ帰るのだから。」
「ああいいとも/\。さあさあ着たまえ、着たまえ。」
 人形はさっさとりっぱな洋服をぬいで、吉ちゃんにわたしました。そして裸になったまま、吉ちゃんの着物なんか着ないで、そのままよたよたといってしまいました。
「まあおかしな人形だ。さむくはないかしら。」
「いいえ。」
と、そばから竜の豆自動車が口を出しました。
「この国じゃ、さむいことも、暑いこともないのです。もっともあなたのような外国人は別ですがね。外国人だとそんなこともあります。けれどもそうなると、すぐその国へ追い出されて、もういちどオレ・リユク・ウイのおじいさんが、むかいにこないうちは二度とここへこられません。さあ、そんなことはどうでもいいです。はやくお乗りなさい。三番目の鳥居に行きましょう。」
 三番目の鳥居は木のボロボロにくさった小さな鳥居でした。吉ちゃんはがっかりしました。
「なんだ、こんな汚ない、ちいぽけな鳥居か。おまけにおみやげになるようないものは、ひとつもないじゃないか。」
「だからわたしが言ったでしょう。」
と、竜の豆自動車は申しました。
「あのおじいさんのいうことなんか、あてになりゃしませんよ……わたしをひろったからこそいいのです。でなかったら、おみやげなんかありゃしません。」
「本当だね、じゃ帰ろう。」
 吉ちゃんは自動車にのりかけると、
「もしもし。」
と、よびかけるものがありました。見ると、鳥居の根にポケットの中に入れるぐらいの、ススけた大黒様がありました。
「吉坊/\、おまえわしを忘れちゃいけないよ。わしをひろっていかなければいけないよ。」
 大黒様は、かなりはっきりした声で申しました。吉ちゃんは頭をきました。
「あなたは汚ないね。取ったら、手がよごれるでしょう。」
「よごれたってかまわない。わしをポケットに入れなさい。」
 吉ちゃんはこまって、竜の豆自動車にききました。
「どうだろう。大黒様をつれて行ったものだろうか。」
「さあ、どうでも。」
と、自動車はいいました。
「あなたのお心まかせです。けれどもこの大黒様は、もう千年も年をっていますから、なんでも物をよく知っていますよ。だからこの国を旅なさるんなら、つれて行った方がべんりです。」
「そう、じゃしかたがない、つれて行こう。」
 吉ちゃんが大黒様をひろって、ポケットにいれると、手にも服にも真っ黒にススがつきましたから、いやな顔をして、はらっていると、大黒様はそっと頭をのぞけて、ニコニコ笑い、
「そんなことを気にしなさるな。いまにもっといいものをあげるから、それよっかも、おまえはだいじなものをひろわない。あれ、あすこにおしゃもじが落ちている。あれがたいへんな宝だ。はやく、ここへ持ってきなさい。」
 そのおしゃもじは、いっぽうは焼けこげになっている汚ないものでした。吉ちゃんは、バカらしいとは思いましたが、なんでも知っている大黒様のいいつけですから、しかたがないから、ひろって別のポケットにいれました。
「さあ、こんどはちっと、遠くへ行こう。」
と、大黒様はいいました。
「おい自動車、一万里の速力になって、千里さきへ行ってくれ。」
「へい、かしこまりました。」
 自動車は、目にもとまらぬ速さで、プーンと空をとびました。
 
 
    四

 千里さきは妙な国でした。
 そこでは、みんな人でも物でもさかさまになっていました。両足を天にあげて、もがもがさしてくるしそうなのです。そして人はくちぐちに、
「ああくるしい/\、助けてくれ/\。」
と、いっていました。
「どうしたんでしょう、大黒さん、なぜあんなにさかさまになって歩くんでしょう。」
 よしちゃんはビックリしてききました。
「ここか。」
と、大黒様が申しました。
「ここは鏡の市というところさ。やはり夢の国のうちなんだよ。だがね、ここでひとつおもしろいことをして遊ぼう。あのさかさまの人や物を、ひっくりかえしてみよう。おまえあのおしゃもじを持っているね。」
「ええ、ここにあります。」
「それをだして、焼けていない方を前へ向けて、クウル、クリイル、ケーレとじゅもんをとなえるのだ。いいか、やってみなさい。」
 吉ちゃんはそのとおりにしますと、ふしぎ/\、音もしないで、ピョコリと、人でも物でもみなあたりまえになりました。するとそこいらにいた人たちが、うようよと自動車のまわりへ集まってきました。
「ありがとうございます/\。あなたのおかげでみんなが、ちゃんとなって助かりました。あなたは神さまでございます。」
 ひとり々々ペコペコとお礼をいいます。そのうちにひとりのりっぱな服を着た人が、その中から進み出て、ていねいにおじぎをいたしました。
わたしは、このまちの長をつとめている者のところからまいりました。あなたがみんなのなんぎをお救いくださいましたから、お礼にごちそうをしたいと申しております。どうぞおいでくださいませんか。」
 大黒様はポケットの中から、行くといいなさいと、すすめますから、吉ちゃんも、では行きましょうといって、その男に案内さして市長のうちへ行きました。
 市長のうちはたいへんりっぱな、大きなお城でした。けれどもふしぎなことには、なんだかゴタゴタしていて、吉ちゃんをうっちゃらかしたままだれも出て来ません。
「大黒様。」
と、吉ちゃんはもうなんでも大黒様にききさえすればわかると思っています。
「どうしたのでしょうね、このさわぎは。それに、お客さまのぼくを、だれもかまってくれないじゃありませんか。」
「うん、これか。」
と、大黒様は申しました。
「これはいつもあることなんだ、世界がひっくりかえったときには。——いまにわかるよ。」
 言っているうちに、りっぱな服に、左の腕に黒い布をまいた人が出てきました。その顔は蒼醒あをざめておりました。
わたしが市長でございます。」
と、その人はていねいにおじぎをして申しました。
「あなたのおかげで、わたしどもの世界が元どおりに、まっすぐになりましたことは、まことに御礼の申そうようもないことでございます。で、ほんのお礼のしるしばかりに、宴会をひらきましておいでをねがったのでございますが、とんでもないことがひとつおこって、たいへん失礼いたしました。」
「はあ、そうですか……なるほど、あなたの顔はあおいですよ。いったいどんなことがおこったのですか。」
と、吉ちゃんはもったいらしく大人ぶって言いました。
「ええそれはあなたに申しかねますが、実のところ、わたしのひとり娘が、こんど世界がもとへもどる拍子に、どこかからだをぶつけたとみえて、死んでしまったのでございます。」
 吉ちゃんがなにかいおうとすると、大黒様がポケットの中から小さな声で、
「そんなことなら、ぼくがすぐよくしてあげますといいなさい。」
と、すすめました。
「そうですか、ええと、ではぼくがよくしてあげましょう。」
と、吉ちゃんはえらそうにいいましたので、市長はたいへんよろこびまして、吉ちゃんをつれて娘のところへきました。大黒様はみんな人を去らしてしまえと、小さな声で吉ちゃんにいいますので、吉ちゃんは、
「ではちょっとみんなこのへやを去ってください。そしてわたしがよしというまで、見てはいけません。」
と、いいつけました。
 みんなが去ってしまうと、大黒様がまたいいました。
「またそのおしゃもじの焼けない方で、娘の顔をでるのだ。クウル、クリイル、ケーレと三べんとなえて——。はやくしなさい。」
 吉ちゃんがそのとおりにしますと、娘はすぐよみがえりました。
 
 
    五

 そこで市長はよしちゃんを大きな広間につれていって、たくさんなごちそうをしました。電灯がピカピカと宝石にうつって輝き、オーケストラの音楽が鳴りひびく。それにキレイに着かざった紳士や、貴婦人が、よく活動写真で見るように、ダンスをしています。吉ちゃんはよろこんでごちそうをたべながら、それを見たり聞いたりしていました。するとふと妙なことを考え出しました。
 それはこんなキレイな人たちが、前のように、さかさまになったら、どんなものだろうか。どんな顔をするだろうかということでした。よく子どもはマタのあいだから、さかさまに世界を見るものです。吉ちゃんはマタのあいだからではなく、ちゃんとしたまま、世界のさかさまになったのを見たくてしかたがなくなりました。そこで、大黒様にはないしょで、そっと、例のおしゃもじを出し、こんどは前とは反対に、焼けこげた方をすこし向けてみますと、はたして考えたとおり、舟がゆれるようにみんながいっぽうへかたむきました。
「うん、これはおもしろいぞ。やあ変な顔をしている。そらもとへかえしてやるぞ。」
 吉ちゃんがおしゃもじの焼けない方を向けると、またみんなが元気よく、おどったり、はねたりします。こげた方を向けると、みなかたむいて、心配そうな顔になる。吉ちゃんはおもしろがって、おしゃもじをヒョイヒョイ向けかえているうち、ふと手に力が入りすぎて、焼けた方を向けますと、さあたいへん、部屋も人もみんなちゅうがえりをして、それといっしょに吉ちゃんもすてんとひっくりかえりました。ビックリして目がさめると、吉ちゃんは自分のつくえに頭をつけて、ねむっていたことがわかりました。
 
 
 
底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「日本文芸童話集 上」興文社・文藝春秋社
   1927(昭和2)年10月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
   1923(大正12)年4月
入力:tatsuki
校正:鈴木厚司
2005年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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2006年01月12日

 牧野さんの死

偽造工作版
牧野さんの死
坂口安吾


 牧野さんの自殺の真相は彼の生涯の文章がもっともよく語っている。牧野さんの文学は自殺を約束したところの・自殺と一身同体の・文学だった。
 牧野さんは理屈の言えない人で、自分の血族と血族にあらざる者とを常にただ次のような言葉によって区別していた。「あれはほんとの蒼ざめた悲しさのわかる人だよ」牧野さんがぼくの小説をほめる言葉「ねえ、ほんとに、なんともいえない蒼ざめた君のすがたがあの中にあるんだよ」彼が私にいまにもすがりつきそうな情熱に燃えて語るとき、それは「蒼ざめた悲しさ」について語るときのほかになかった。「ゲーテはたいへんな大ボラ吹きだ。なんにも知らないくせに学者ぶった顔をしようとひどい苦労をしてよ、わははははは。あいつはたいへんなスケベじじいだ!」ってゲーテを語るとき、牧野さんのいきいきとした時間がそこにもあった。ゲーテがそうであったように、風景のよい隠棲の部屋で、窓によって森や小川のせせらぎにとりまかれながら、彼もしずかに死ぬのではないかと考えたこともないではなかった。

 牧野さんは貧乏だったが、使いきれない分量の収入があるならとにかく、純文学の最大の流行作家ていどの収入なら、おそらくおなじていどに貧乏だったにちがいない。彼は宰相になろうとか人心をたかめようという野心や理想はなかったが(作家のうちでもっともなかった)しかし、「貧乏でなければならなかった」。牧野さんは人生を夢にかえた作家である。彼の最大の夢は文学であり、われわれにとって人生とよばれるものが彼にとっては文学の従者となり、そのための特殊の設計をうけなければならなくなる。彼自身はいっぱし人生を生きていた気で、じつは彼の文学を生き、特殊の設計をうけた人生をしかもみずからは気づかずして生きていた。彼の自殺すら、みずからは気づかざる「自己の文学」に「復帰」した使徒の行為であったのだろう。彼の文学が設計した人生によれば、彼は貧困でなければならず、けれども明るくなければならない。そこで彼はある日銀座で泥酔し女房へのみやげには陸上競技のなげやりを買い、これをかつい高らかにかちどきヽヽヽヽをあげながらわが家の門をくぐるのである。明日の米はないのだ。ほそぼそと明日の米に生きるよりは、米をなげやりにかえなければ「ならなかった」のである。そして翌朝奥さんにどやされ、あわてふためいてともだちの家に雑誌社に助力をもとめにかけつけなければならないのである。ともだちにいやな顔をされ、てめえなぞとはもう絶交だなぞといわれ、あるいはみごとな義侠心にふれなければならなかったのである。
 おなじように、彼は「スケベでなければならず(ゲーテのように)女房にかくれあだな女によこしまな思いをよせなければならず」、しかし彼は人にゆるされたもっとも高度の純潔をもった紳士であった。彼がつねに愛用した言葉をかりれば、ラ・マンチャの紳士のように、紳士であった。
 設計しすぎた人生のために同時代の友人をうしない、多感な青年ばかりが彼の親友になった。同時代の人といえば歌舞伎座の鈴木君ぐらいのもので、そのほかの友人群にぼく以上の年配の人はほとんどない。中戸川吉二氏と絶交のてんまつなぞというものは珍中の珍で、なんでも深夜泥酔のあげく、牧野さんは数名の青年をひきい中戸川氏をたたきおこしたものらしい。その翌日わたしのところへ牧野さんから電話がきて、すぐ遊びにきてくれないかというのでかけつけると、彼はひどく悄気しょげていた。すなわち中戸川氏からあて名に敬称すら記さないハガキがきて、以後絶交だ、とたったそれだけ書いてあったというのだ。こっけいでバカバカしくてしかたがなかった。芸術家はもっとずぶとく自分勝手に生きていい、それをいれないともだちなんてこっちからつきあわないほうがいいなぞとなぐさめると元気をとりもどしてったようだが、一週間ぐらいはおうおうとして楽しまなかったようである。同時代の友情にうえていたのだ。牧野さんの稚気愛すべき生活は、爵位とか名門という世俗的な栄光に完全に批判のない尊敬の念をいだいていて、ひところ若い男爵の文学青年が彼のもとに出入りしていたが、すっかりかたくなってつきあっていた。大学教授とか勲一等とか大将とか富豪とか、およそ世俗の尊敬するところは彼のそっくり尊敬するところで、英雄は英雄であり従卒は従卒であっていっさいの批判をいれる余地がないのである。神社仏閣をすどおりせずかならずなにごとか祈りながら敬々うやうやしく頭をさげて通過するというふうで、この人ほど世俗をそっくり肯定した生き方はもっとも世俗的な文盲人にあってすらありえないばあいのように思われる。彼はもっとも俗人的であった。そしてもっとも俗人でなかった。
 バイロンはきわめて稚気愛すべき名誉心をもった男で、あるとき人が彼をルッソーに比較した。ところがロード・バイロンはルッソーが下男の子どもであるという一点において彼と同等に論ぜられることがひどくふきげんだったという。ことほどさように自己にかれ彼は「しばいができなかった」ことほどさように純粋にして高潔な心の持ち主だったとスタンダールは批評をくわえているのである。これとまったく同じことをわたしは詩人牧野信一についていうことができる。

 わたしは近年牧野さんと文学上の見解を異にしあまり往来しなかった。わたしは詩人から小説家になった。すくなくとも、なろうとしていた。わたしたちは詩と小説の食いちがいで会えばかならずいがみあった。しかし牧野さんは理論をもたない人だからたんに悪罵になるばかりでおたがいに気まずい思いをするばかりだから、自然会うことも少なくなり、あっても最近は文学を談じたことはまったくなかった。それでも今年になってからわたしは三度牧野さんをおとずれた。牧野さんはふだんと変らぬ元気だった。むしろ奥さんが若干ヒステリー気味で、牧野さんのいない時をみはからって、ちかごろ彼の神経衰弱のひどいこと、酒に酔うと乱暴で昨日も先日もイスをふりあげてなぐられた、などとうったえられたのである。また周期的にやっているな、と思っただけで、時間が経過するうちにふたたび健康と平和がもどるものだと思っていた。
 私がはじめて牧野さんを知ったのは二十六歳の夏で、そのとき牧野さんは三十六だった。その春わたしは自分のやっていた「青い馬」という同人雑誌に「風博士」というのを書いた。わたしはかようなファルスがひとつの文学であることを確信はしていたが、日本に先例のすくない作品であり世評もわるく自己の文学上の信念に疑惑すらいだきはじめていた。ところが文藝春秋で牧野さんがこの作品を激賞した。わたしはむしろあぜんとしたばかりで、自分の信念にひびのはいったわたしは牧野さんをたずねる勇気も手紙を書く元気もなく、とにかく自分をたてなおすつもりで「黒谷村」というのを書いたが、新聞の文芸時評で牧野さんはふたたび「黒谷村」を激賞してくれ、同時に遊びにこないかという地図入りの手紙(この地図のデタラメさったらない、道の方向がぜんぜん逆であった)をくれた。そのときはじめて牧野さんにあったわけだが、当時彼は大森山王に一戸をかまえ、ちょうど春陽堂から「文科」の発刊される時で、わたしは初対面の日「文科」に長編を連載するよう慫慂しょうようをうけ、いろいろ激励をうけた。私が文学の先輩にあった最初の日である。
 わたしの知るかぎりでは文科時代が牧野さんの一番飲み歩いた時代で、わたしたちのほかに河上徹太郎・中島健蔵・佐藤正彰・三好達治そのほか嘉村礒多がときどき加わりひとこともしゃべらずすみにすわっていたりした。酒もまた牧野さんの人生の一設計で、彼は「飲み助でなければならなかった」けれども、飲み仲間ではだれよりも酒に弱く、酒がときどききらいですらあった。
 そのころも牧野さんの神経衰弱がはじまっていた。牧野さんの神経衰弱は奥さんのヒステリーをともなうのが例で、ふだんはストア派の牧野さんが神経衰弱になると小説を創るにも苦吟するようになり、したがってかれの人生の設計を深刻化し立体化する必要にせまられる。彼は女に「もてたかった」し、また「もてなければならなかった」。そして「あだ心をもやさなければならなかった」。文学の苦吟が深まると、彼は奥さんの前ですら「しばいができなくなり」むしろけっして大胆に恋愛をしたり情婦をつくったりすることのできない彼は、内心の欲念をあたかもげんに実行しつつあるかのようなしばいすらしなければならなくなる。彼は意識上にとどまる欲念すらあざむくことができないのである。彼の文学が意識上に夢の人生を設計しつづけたことを思えば、意識上の姦淫が実人生に混線し混乱するどあいは、俗世間の大悲劇にそうとうする錯雑をきわめた難問に匹敵したかもしれないのだ。
 当時牧野さんはあたかも某婦人(かりにA婦人とよぶ)と恋愛があるかのようにその人生を仮構してしまった。もちろん「恋愛したかった」のも事実であろうが、奥さんをすててまで恋愛に没頭できる人ではなく、彼は奥さんを愛していた。むしろただひとりの味方であると信じていた。彼のばあい、恋愛はできる「はずがない」のである。こんなことは退屈の生むちょっとしたイタズラにすぎないので、はたから見ているわたしたちにはなんでもないことなのだ。しかし神経衰弱になると奥さんもヒステリーになる、あらそいのあげく牧野さんは暴力をふるう、ますます奥さんのヒステリーも強まるという状態で、余波をくらって悪いくぢヽヽをひいたのが私だ。わたしは当時蒲田にいておたがいの住所も近かったが、奥さんは牧野さんになぐられるとわたしのところへ逃げてくる、わたしはなかなか応接に多忙で、夫婦げんかの仲裁くらい味気ないものもあるまいからおおいにくさっていた。奥さんは私をとらえて牧野さんの乱暴や不身持をめんめんとうったえるのだが、それほどおおげさにいう正体はなにもないことを知っているからバカバカしく思うのだが、牧野さんの厭人癖・孤独癖に同化され、夫婦ふたりの孤独感を合一せしめている奥さんにとって精神上の姦淫すらガマンがならぬというなら、これもまずいたしかたがない。ヒステリーでさえなければ、牧野信一の文学と、文学の生む人生の仮構をじゅうぶんに同情をもってながめている奥さんだったのである。
 当時牧野さんは泉岳寺付近へ越したばかりで小学二年生だったむすこ英雄君の学校のことで苦労していた。これからも転々住所をかえることはわかっているから(彼は書けなくなるとひっこしをした)ひっこしても転校の必要のない学校へ入学させたいという。私が暁星学校をすすめると牧野夫妻も賛成だったが、かんじんの夫婦が反目の最中で神経をとがらしているから手がつけられない。牧野さんは狂人のような目つきをしてふきげんにおしだまっているというありさまで、私もついしゃくにさわってそのころさかんにケンカをしつづけ、ひところは神経的な不和を生じた。牧野家へ足をふみいれるのもユウウツしごくで不愉快だったが、ほったらかしてはおけないのでいやいやながら英雄君をひきまわしてとにかく暁星へ入学させてしまったのである。金がかかるといってこぼしていたが、一風かわった私学の風習が牧野さんの趣味にかなった様子で、あの学校の父兄の中では「牧野さん」(彼はときどき自分に敬称をつけて呼んだ。むしろ愛称というべきで、こういう点でも彼は完全に自己にかれていた人である)がもっとも貧乏だとしきりに吹聴していたが、それはひがみでなく、ここでも彼は暁星第一の貧乏な父兄であることをたくみに自家設計の人生へくりいれてたのしんでいた形であった。そのころから神経衰弱もおさまり、私との神経的な反目もやわらいだが、そのころからわたしは文学上の見解で彼とあらそうようになり、昔のように足しげく往来しなくなった。そのうちに、牧野さんは五反田のかすみ荘へうつり、小田原へ帰り、横須賀へうつり、ふたたびかすみ荘へもどった。それが去年の十一月のことだ。この期間牧野さんは昆虫採集にふけっていた。これも彼の設計による人生である。
 横須賀ではイガグリ頭にしてしまった。兵隊の生活を見ているうちに同化されてやったらしいが、飲み屋へ行くと中尉にはまちがわれるが、どうしても大尉にはまちがえられぬと笑っていた。これも彼の設計された人生であろう。

 東京へうつった報らせで私がおとずれたのは去年の十一月のはじめであった。牧野さんは睡眠中で、出てきた奥さんがまたひどい神経衰弱でなぐられどおしだとうったえた。何とかいうめんどくさい名前の催眠剤をいちいちていねいにはかりにかけてのんでいると聞いていたが、あってみると、私と以前反目したときのように神経的ないらだたしさは見うけられずほとんど変りがないようだった。どうしても小説が書けないとこぼしていた。小説が書けなくなったといいだしたのは最初に小田原へ越した時からで、そのころから牧野さんはかぞえるほどしか小説を書いていない。主として随筆と文芸時評(これは早稲田文学の再刊と同時にはじめて書きはじめたもので、自分でも文芸時評の書けることがわかったといってたいへんよろこんでいたものだ。そのころから小説が書けなくなっていたのである)そのほか雑文のたぐいしか書いていないようである。
 今年になって三度会ったが、わたしの会っているうちは昔とまったく変らない牧野さんであったのである。

 こんどの夫婦別居のことが自殺の原因のようにおおげさな問題になり、新聞では奥さんがひどくわるものになっているが、これはたしかに不公平だ。第一に、なんといっても自殺の真の根幹をなすところは彼の生涯の文章がもっとも明白に語るとおり、彼の一生の文学が自殺を約束された、自殺と一身同体の、文学だったと見なければならない。
 一八五五年一月二十五日パリでひとりの牧野さんが首をくくって死んだ。ゲラル・ド・ネル※[#濁点つきカタカナワ、1-7-82]ルがそれである。彼の絶筆となった小説はオレリア(別名・夢と人生)で、「夢は第二の人生である——」という書きだしにはじまる彼の生と知性との宿命的な分裂をうたった傑作だが、テオフィル・ゴーチェによれば、ネル※[#濁点つきカタカナワ、1-7-82]ルの死は「夢が人生を殺した」のであった。牧野さんまたしかり。ふたりはともにゲーテの熱読者であったのは奇縁だが、牧野さんはおそらくネル※[#濁点つきカタカナワ、1-7-82]ルの名前すら知らずに死んだ。
 その深夜ネル※[#濁点つきカタカナワ、1-7-82]ルは泥酔していきつけの飲み屋をたたいた。飲みたりなかったらしい。飲み屋は店をとじたところだったので、ネル※[#濁点つきカタカナワ、1-7-82]ルにねばられるのがいやだつたから戸をあけようとしなかった。「ええ、ままよ」そんなことをつぶやいて彼の遠距とおざかる足音あしおとがしたが、翌朝行人によって、そこからいくらも離れない路上に縊死をとげたネル※[#濁点つきカタカナワ、1-7-82]ルが発見された。

 牧野夫妻の別居の原因というのはじつはたあいもないことなのだ。とくに私にはそれをいう権利がある。ひとむかし前の夫婦げんかにぐあいの悪いくぢをひいたわたしは、今回の夫婦げんかに公平な裁判官でありうるのだ。
 例のとおりの牧野さんの仮構された恋愛から出発する。相手をB婦人と名づける。(宇野女史ではない)牧野さんが二年たっぷりほとんど小説の書けないことは前にも言った。われわれがふつうそうであるように、心にもない小説を書きなぐることが、あの人にはできなかった。夢の混乱がはじまり、例の意識上の姦淫が実人生の問題になってきた。すべては文学の道具で、たとい肉体上の姦淫がおこなわれたにせよ、それによって夫婦関係が不純になるような深刻なものではなかったのである。それに牧野さんは最近インポテンツの傾向がしだいに強くなっていた。そのことをわたしは彼にもらされて知っていたが、おそらくそんなことも原因して、奥さんはあたかも彼とB女史とふかい関係ができたために疎外されているように解釈したのではないだろうか? わたしたちの眼からみれば牧野さんの愛妻ぶりは天下の範とするにたり、また奥さんの貞淑さも天下の範とするにたり、とうてい第三者、ことに女性の介入を許さぬものがわかっていたから、ときどき牧野さんが、「スケベでなければならぬ」時があっても、この模範的な夫妻に最後の問題が起きようなぞとは考えなかった。
 牧野さんは気の弱い人でともだちにワガママもいえなかった。わがままいっぱいにふるまえたのはただ奥さんの前だけで、これを悪い例でいえば、夢と生のくいちがいを腕力に表現してうっぷんをはらすことのできたのもゆいいつの味方とたのむ奥さんなればこそであったが(これは皮肉でない)これをおぎなってあまりあるだけの愛妻のための精神的苦労(たとい物質的にまで具現することはまれであったといえ)はわれわれの眼によくわかった。むしろ痛々しくもあった。
 B婦人の問題なぞも牧野さんの神経衰弱とそれにともなう奥さんのヒステリーがおさまりさえすれば自然あとかたもなく消えてしまうことなのだが、あいにく悪い事件が起きた。ひとむかし前のぼくの役割を引きうけるはめになった某が、痴話げんかに深入りしすぎたのである。こういうことは感傷上の問題でひじょうに偶発的な性質をおびているから、大きな問題にしてはいけない。奥さんと某の失踪という事件が起きた。失踪といっても恋愛とかかけおちというばあいとちがう。ユウウツしごくでたまらないから、ついずるずるべったり活動でも見てすごしていたということとまったくおなじ感傷的なできごとで、姦淫の要素はみじんもないし、奥さんの性格から、こういう事件のなんでもなさはきわめて明瞭にわかるのである。むしろこれが問題になって彼女ははじめてあわてたろう。牧野さんの神経衰弱、奥さんのヒステリーという悪い条件の時でなかったら、奥さんと某とふたりきりでたとい温泉へ行ったにしてもけっして問題にならないだけの習慣もあり間柄でもあったのだ。じっさいの悪徳はなにも犯していないにせよ、牧野さんの精神にひびく影響を考えたら、まず理知ふんべつある男子なるところの某の方でじゅうぶん注意すべきであった。
 世人がこの問題を重大に見ているとすればそれは誤解で、牧野さん自身がこの問題を軽視していた。いちどはたしかにまいったろうが、ふたりの潔白は信じきっていた。牧野さんはむしろ自分とB婦人とのあらぬ誤解が奥さんをこうまで錯乱させたことをはじて、単身小田原へかえったのである。牧野さんは奥さんにも小田原へ帰ってもらいたかった。
 奥さんは某との失踪が世間の問題になったので、しかし自分は潔白だから、自分の潔白を強めるためにも、こんどの行動の責任を牧野信一の姦淫に負わすべきだと考えついたのであろう、ますます牧野さんをにくんだ「ふり」をして小田原へ帰らなかった。このさいとしてはいかにも女らしい手口をもちいたわけで、おそらくそれでいいのではないかとわたしは考えている。これだけの理由で奥さんを悪妻というのはあたらない。牧野さんが信じたように、そして、牧野さんが信じていたがゆえに、われわれはむしろ彼女を良妻と呼んでいいのだろうと思うのである。牧野さんの奥さんは小田原の牧野さんの母堂と仲がわるかったが、これとて牧野さんが母堂と不和だったから、しかたがなかった。

 こんなことはじっさいどうでもいいことだ。これが死をはやめたことにはなっても、自殺の根底はこれではない。彼の夢が彼の「人生を殺した」のだ。
 それにしても小田原へひきあげてからの牧野さんの神経衰弱はひどかったらしい。いったい牧野さんはわたしたちと話をしても、死や、いわんや自殺について、かつて語ったためしがない。牧野さんにしてみれば、生きることの難さにくらべて死ほど容易な、それゆえいやな、妖怪じみたやつはなかったのだろう。生きることには値打ちがあるが、死には一文の値打ちもない。語る値打ちもなかったのだ。わたしたちが死をうんぬんすると彼はあらわに不興な渋っつらをつくったのである。
 その牧野さんが小田原へひきあげてからは(三月のおわりだ)毎日死についてのみ語ったという。牧野さんの小田原の住宅のとなりに古いなじみの瀬戸一弥君が住んでいるが、毎日瀬戸君をたずねて、死の話をする。孤独になると、死ぬ方法だけしか頭にうかんでこないという。とつぜん手ぬぐいで自分の首をしめ、これでも死ねるとひとりごとをもらしている——すべてがふだんの牧野さんに想像もできぬ錯乱だった。彼は小田原へ越したことをだれにも知らさなかった。小田原の友人たちにすら、瀬戸君以外にはぜったいに知らさなかった。そのくせ孤独がもっともくるしく、なんとかして孤独をまぎらすために毎日瀬戸君をたずね、いったん家へかえったと思うとたちまちまた話しこみにもどってくる、そういうことを日に何度となくくりかえしていたそうだ。
 何分神経衰弱がひどく原稿が書けないので催眠薬を買うこづかいがない。母堂に催眠薬を買ってくれと再々たのんだが、もしものことがあるのをおそれて(牧野さんの設計した人生流にいえば、ひどいケチヽヽで)買ってくれない。これにはまいったらしい。もう三日一睡もできないと瀬戸君に言ったこともあるという。
 東京へ行ってぜひ奥さんをつれてきてくれと瀬戸君に懇願し、とつぜん母堂の肩に手をかけて、たのむからあれをよびよせてくれとさけんだりしたという。死の一週間前英雄君も暁星が休みになったので小田原へ遊びにきた。そのときのオヤジのよろこびようといったらなかったそうだ。そのくせ奥さんへの気がねからか、とつぜん翌日東京へもどしてしまった——
 死ぬ前日梅焼酎を一升のんだ。
 自殺の日、あいにく瀬戸君がるすだった。もし瀬戸君がいたら、気がまぎれて死ななかったろう。小田原へきて以来、牧野さんは一番たまらないのがたそがれだと言っていたそうだ。夜になればいくらかおちつくという。それは私も思いあたる。ボードレエルにもそういう詩があったようだ。たそがれの狂気のような寂寥は孤独人のもっともたえられぬ地獄の入口のような気がする。牧野さんはまた、こんなことも瀬戸君にかたった。自分の今一番ほしいのはすなおな若い女のともだちだ、と。女中であってすらいい。しかし商売女ではいけない、と。
 五時がきた。例のたそがれが近づいたのだ。母堂が海岸へ散歩にでかけようとした。その二時間ほど前、牧野さんはピンポン台にひもを張り首をいれて自殺のマネをやっていたそうだ。牧野さんはとつぜん母堂にすがりついて、どうか出かけないでくれ、おれをひとりにしないでくれと懇願した。しかし母堂は海岸へ散歩にでかけた。
 帰ってきたのが五時半ころで、牧野さんのすがたが見えない。台所で女中が夕飯のしたくをしていたのだが、牧野さんが納戸へはいった姿は気づかなかったのである。女中が部屋々々をさがしたあげく、納戸で英雄君のへこ帯をはり縊死した彼を見いだした。

 だれの責任でもなかったのだ。牧野さん自身すら。「夢が人生を殺した」のだ。それがほんとの真相なのだ。よしんば死をはやめた多少の事件があるにしても、彼のごとき純粋な死にかぎってそれはまったく問題にならぬ。彼の死は暗い事件ですらない。彼の文学と死の必然的なそして純粋な関係を見るなら、自殺は牧野さんの祭典だったかもしれない。わたしはそう思った。なぜって彼の死ほど物欲ものほしそうでない死はないのだ。死ぬことは彼にはどうでもよかったのだ。すべてはただ生きることにつくされていた。彼の「生」は「死」の暗さがいささかも隠されていない明るさによって、かえってあまりにも強く死の裏打ちをうけていた。生きることはただ生きることであるために、かえって死にみいられていたのだ。だから彼の死は自然で、劇的でなく、芝居気がなく、物欲ものほしそうでないのだ。純粋なたましいがあくまでも生きつづけ、死をもなお生きつづけたのではないか! 生きたいための自殺は世の多くの自殺がそうであるが、牧野さんは自殺をも生きつづけたというべきである。彼はついに死をもなお夢とともに生きつづけたのだ。あかるい自殺よ! とてもユウウツな顔つきをしてお通夜なぞしていられたものではなかったので、わたしは谷丹三をそそのかし、通夜をぬけでて小田原の飲み屋へいった。わたしたちは泥酔した。

 牧野さんはわたしたちと酒をのむと、自分ひとりまっさきにったあげく、(前にものべたが彼は酒に弱かった。そしてあるときはてんでえず、あるときはまたへべれけによっぱらうのが常だった。そのへべれけにったときにはきまったように——)「おい、おまえたちはぬれワラのようにしめっぽくだんまりこんでいるじゃないか」と一夜に数回となくきめつけるクセがあった。これはファウストのセリフだそうだ。わたしたちはお通夜をしりめヽヽヽにさかずきの数をあげながら、つまり今夜おれたちは例のファウストのセリフに復讐しているようなものだなといいあってカラカラ大笑したものである。そして翌朝まで帰らなかった。

「ええ、ままよ」おそらく彼はそうつぶやいたにちがいない。「牧野さんヽヽヽヽもこれだけの仕事をしたんだから、死んだっていいじやないか!」
 へこ帯の中へ首をつき込む時、もしなにかつぶやいたことがあるとすれば、それだけのつぶやきしか私には考えられない。彼は自分につかれとおして死んだのだ。私にはその明るさしかわからない。
 わたしはお通夜の夜、小田原の街で酔いながら谷丹三にむかって牧野さんの悪たれ口をたたいた。「死んだっておどろくもんか! しかしあいつを死にやすくしたひとつの理由は、彼の最近のインポテンツの傾向だよ」谷丹三も賛成した。そしてわたしは敬愛する詩人の一生の祝典のためにカンパイすることのほかに考えられるものがなかった。それはわたしの強がりではない。わたしは彼の純粋さには徹頭徹尾敗北だ。とてもわたしは死ねないのだ。

(付記) しんみりと重々しく書きつらねる気持ちにならないので、(なんべんも書きだしたのをみんなやぶって)すこし飲み一気に書きまくった。文章がひじょうに雑なことだけわかる。しかしいっていることは、わたしの今のほんとのものだけ思いつくとおり書きなぐったのだ。もっと書かなければならないのだ。しかし今はそれにふさわしくないわたしの状態だ(これは牧野さんの死に関係がない)。もっと気持ちがおちついたら、牧野さんに関するそしてわたしの思想生活にからみつき生きているあらゆることをみんな書こう。だいたいわたしは夫婦関係のことを書きすぎた。こんなことはどうでもいいのだ。彼の死と文学(夢)との結びつく部分に一番多く語らなければならないものがあるのだが、いまはわたしの状態がそれを語るにふさわしくないこと、およびゴシップ的な世評で彼の死がけがされてはいけないという思いがあってか、ついそのことをしゃべりすぎずにいられなかったようである。
 
 
 
底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
   1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第七巻第五号」
   1936(昭和11)年5月1日発行
初出:「作品 第七巻第五号」
   1936(昭和11)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみなさんです。

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2006年01月03日

 06:過去の「新着情報一覧」を見たいのですが。

答え:以下のURLを直接指定すると、見ることができます。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/whatsnew_yyyy_1.html

yyyyは、西暦4桁です。2005年分であれば
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/whatsnew_2005_1.html
となります。
これで、その年の最新の新着情報が開きます。
最新以外の新着情報は、ページ上部のリンクからたどってください。

なお、2000年以前の新着情報は、この方法では参照することができません。
過去の「そらもよう」で確認してください。
「そらもよう」のいちばん下に、過去の「そらもよう」へのリンクがあります。

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 蛸博士

タコです。
正月だから、風博士に章魚博士だとです。
タコです。
腹がすくと、じぶんの足でも食べるとです。
タコです。
泣きながら、吸いつかせてもらったことがあるとです。
タコです。
これでも、悪魔のつもりだとです。
タコです。
たまたま、かぜはかせといっしょに乗っていたとです。
腕十字。ハッスル、ハッスル。
タコです、タコです、タコです……

タコの頭にはちまき巻いて、きゅーっとしめたら、しまらない♪
電線に鳥インフルエンザ。おっとっとっと。あいの子リーだ。
伝説のワン・ナイト・カーニバル。ラブ・マシーン。
おくさん、エロリスト、マイアヒ、ペコリナイト、山川です。
格闘技はフィクションだ。口パク・カラオケはドキュメンタリーだ。
ニートか、一級建築士か。それが問題だ。
HG(HaGe)レーザープリンタ、ふぉー。
陀落せよ。
by むてきんぐ@タツノコ

***

捏造工作版

風博士
坂口安吾
 
 
 諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅をごぞんじであろうか? ごぞんじない。それはたいへん残念である。そして諸君は偉大なる風博士をごぞんじであろうか? ない。ああ。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士じたいはようとして紛失したこともごぞんじないであろうか? ない。ああ。では諸君はぼくがその筋の嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることもごぞんじあるまい。しかし警察は知っていたのである。そしてその筋の計算によれば、偉大なる風博士はぼくと共謀のうえ遺書を捏造ねつぞうして自殺をよそおい、かくてかの憎むべきタコ博士の名誉棄損をたくらんだに相違あるまいとにらんだのである。諸君、これはあきらかに誤解である。なんとなれば偉大なる風博士は自殺したからである。はたして自殺したか? しかり、偉大なる風博士は紛失したのである。諸君は軽率に真理を疑っていいのであろうか? なぜならば、それは諸君の生涯にさまざまな不運をもたらすに相違ないからである。真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。そして諸君は、かの憎むべきタコ博士の——あ、諸君はかの憎むべきタコ博士をごぞんじであろうか? ごぞんじない。ああ、それはたいへん残念である。では諸君は、まず悲痛なる風博士の遺書を一読しなければなるまい。

    風博士の遺書
 諸君、彼はハゲあたまである。しかり、彼はハゲあたまである。ハゲあたま以外のなにものでも、だんじてこれあるはずはない。彼はカツラをもって之の隠蔽いんぺいをなしおるのである。ああこれじつに何たるこっけい! しかり何たるこっけいである。ああ何たるこっけいである。かりに諸君、一撃をくわえて彼の毛髪を強奪せりと想像したまえ。とつじょ諸君は気絶せんとするのである。しかして諸君は気絶以外のなにものにも遭遇することは不可能である。すなわち諸君は、猥褻わいせつ名状すべからざる無毛赤色の突起体に深く心魄を打たるるであろう。異様なる臭気は諸氏の余生に消えざるなげきをあたえるに相違ない。きたんなく言えば、彼こそ憎むべきタコである。人間の仮面をこうむり、門にあらゆる悪計をかくすところのタコはすなわち彼にほかならぬのである。
 諸君、余をさして誣告ぶこくのそしりをやめたまえ、なんとなれば、真理にちかって彼はハゲあたまである。なお疑わんとせば諸君よ、パリ府モンマルトル三番地、Bis, Perruquier ショオブ氏に聞きたまえ。今を距ること四十八年前のことなり、ふたりの日本人留学生によってカツラのあがなわれたることを記憶せざるや。ひとりはハゲあたまにして肥満することブタ児のごとく愚昧ぐまいの相をただよわし、その友人は黒髪明眸めいぼうの美少年なりき、と。黒髪明眸なる友人こそすなわち余である。見たまえ諸君、ここにいたって彼は果然四十八年以前よりハゲていたのである。ああじつに慨嘆の至にたえんではないか! 高尚なることかしわの木のごとき諸君よ、諸君はなぜ彼ごとき陋劣漢ろうれつかんを地上より埋没せしめんと願わざるか。彼はカツラをもってそのハゲあたまを瞞着まんちゃくせんとするのである。
 諸君、彼は余の憎むべき論敵である。たんなる論敵であるか? いやいやいな。千辺いな。余の生活のすべてにおいて彼はまた余の憎むべきかたきである。じつに憎むべきであるか? しかりじつに憎むべきである! 諸君、彼の教養たるやあさはかしごくでありますぞ。かりに諸君、聡明なること世界地図のごとき諸君よ、諸君は学識深遠なるタコの存在を認容することができるであろうか? いやいやいな、万辺いな。余はここにあえて彼の無学を公開せんとするものである。
 諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであろうか? もしも諸君がフランス、スペイン両国の国境をなすピレネー山脈をさまようならば、諸君は山中に散在する小部落バスクに逢着ほうちゃくするのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語において西欧の全人種に隔絶し、じつに地球の半回転をこころみてのち、極東じゃぽん国にいたってはじめていちじるしき類似を見いだすのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。しかして諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献をあたえたのである。見たまえ、源義経はジンギスカンとなったのである。ジンギスカンは欧州を侵略し、スペインにいたってその消息をうしなうたのである。しかり、義経およびその一党はピレネー山中もっとも気候の温順なるところに老後の隠栖いんせいぼくしたのである。これすなわちバスク開闢かいびゃくの歴史である。しかるにああ、かのぶれいなるタコ博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論をとなえたのである。彼はいわくく、モンゴルの欧州侵略はジンギスカンの後継者太宗の事蹟にかかり、ジンギスカンの死後十年の後にあたる、と。じつに何たる愚論浅識であろうか。失われたる歴史において、たんなる十年がなんであるか! じつにこれ歴史の幽玄を冒涜するもはなはだしいではないか。
 さて諸君、彼の悪徳を列挙するは余のはなはだ不本意とするところである。なんとなれば、その犯行は奇想天外にして識者の常識をがえんぜしめず、むしろ余に対して誣告の誹を発せしむるうらみあるからである。たとえば諸君、頃日けいじつ余の戸口に Banana の皮を散布し余の殺害をくわだてたのも彼の方寸に相違ない。ゆかいにも余は臀部でんぶおよび肩胛骨けんこうこつに軽微なる打撲傷をうけしのみにて脳震盪のうしんとうの被害をこうむるにはいたらなかったのであるが、余の告訴に対し世人はあげて余を罵倒したのである。諸君はよく余の悲しみをはかりうるであろうか。
 賢明にして正大なること太平洋のごとき諸君よ。諸君はこの悲痛なる椿事ちんじをも黙殺するであろうか。すなわち彼は余の妻をねとったのである! しかして諸君、ふたたび明敏なること触鬚しょくしゅのごとき諸君よ。余の妻はうるわしきこと高山植物のごとく、じつにたんなる植物ではなかったのである! ああ三度冷静なること扇風機のごとき諸君よ、かの憎むべきタコ博士はなんらの愛なくして余の妻をうばったのである。なんとなれば諸君、ああ諸君永遠にタコなる動物に戦慄せよ、すなわち余の妻はバスク生まれの女性であった。彼の女は余の研究を助くること、うたがいもなく地の塩であったのである。タコ博士はこの点に深く目をつけたのである。ああ、千慮の一失である。しかり、千慮の一失である。余は不覚にも、タコ博士のハゲあたまなる事実を余の妻に教えておかなかったのである。そしてそのために不幸なる彼の女はついにタコ博士に籠絡ろうらくせられたのである。
 ここにおいてか諸君、余はふんぜん蹴起けっきしたのである。打倒タコ! タコ博士をほうむれ、しかり、膺懲ようちょうせよ、憎むべき悪徳漢! しかりしかり。ゆえに余は日夜その方策をねったのである。諸君はすでに、正当なる攻撃はひとつとして彼の詭計きけいに敵しがたいゆえんを了解せられたにちがいない。しかして今や、ゆいいつ策を地上に見いだすのみである。しかり、ただ一策である。ゆえに余は深く決意をかため、鳥打ち帽に面体をかくしてのち夜陰に乗じて彼の邸宅にしのび入ったのである。長夜にわたって余は、錠前に関するおよそあらゆる研究書を読破しておいたのである。そのために、余は空気のごとく彼の寝室に侵入することができたのである。そして諸君、余はなんのたわいもなくかの憎むべきカツラを余の掌中におさめたのである。諸君、目前に露出する無毛赤色の怪物を認めた時に、余はじつに万感胸にせまり、あふれ出る涙を禁じ難かったのである。諸君よ、翌日の夜明けを期して、かの憎むべきタコはついにタコじたいの正体をいかんなく暴露するにいたるであろう! 余はおどる胸にカツラをひそめて、ふたたび影のごとく忍び出たのである。
 しかるに諸君、ああ諸君、おお諸君、余は敗北したのである。悪略神のごとしとはこれか。ああタコはクセモノの中のクセモノである。だれかよく彼の深謀遠慮を予測しうるであろうか。翌日彼のハゲあたまはふたたびカツラに隠されていたのである。じつに諸君、彼はひそかに別のカツラを貯蔵していたのである。余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力をもってして、彼の悪略におよばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、だれ人かよくタコをこらす勇士なきや。タコ博士をほうむれ! 彼を平なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざるか! ああやむをえんしだいである。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。

 諸君は偉大なる同博士の遺書を読んで、どんなにふかい感動をもよおされたであろうか? そしてどんなにはげしい怒りをおぼえられたであろうか? ぼくにはよくお察しすることができるのである。偉大なる風博士はかくて自殺したのである。しかり、偉大なる風博士ははたして死んだのである。きわめて不可解な方法によって、そして死体したいを残さない方法によって、それがおこなわれたために、一部の人びとはこれをあやしいとにらんだのである。ああぼくはたいへん残念である。それゆえぼくはゆいいつの目撃者として、偉大なる風博士の臨終をつぶさにのべたいと思うのである。
 偉大なる博士ははなはだあわて者であったのである。たとえば今、部屋の西南端にあたる長イスに腰かけて一冊の書に読みふけっていると仮定するのである。次の瞬間に、偉大なる博士は東北端のひじかけイスにうもれて、じつにあわただしくページをくっているのである。また偉大なる博士は水を飲むばあいに、とつじょコップをのみこんでいるのである。諸君はそのとき、じつにあわただしい後悔といっしょにたそがれに似た沈黙がこの書斎にとじこももるのを認められるに相違ない。したがって、このあわただしい風潮は、この部屋にあるすべての物質を感化せしめずにおかなかったのである。たとえば、時計はいそがしく十三時を打ち、礼節正しい来客がもじもじして腰を下そうとしない時にイスははげしいかんしゃくをならし、物体の描く陰影はとつじょ太陽にむかって走り出すのである。すべてこれらのろうばいはきわめて直線的な突風を描いて交錯するために、部屋のなかには何本もの飛ぶ矢に似た真空が閃光せんこうをちらして騒いでいる習慣であった。ときには部屋の中央に一陣の竜巻が彼自身もまたあわてふためいてわきおこることもあったのである。そのせつな偉大なる博士はしばしばこの竜巻に巻きこまれて、こぶしをふりながらいそがしくちゅうがえりを打つのであった。
 さて、事件のおこった日は、ちょうど偉大なる博士の結婚式にそうとうしていた。花嫁は当年十七歳のたいへん美しい少女であった。偉大なる博士が彼の女に目をつけたのはさすがに偉大なる見識といわねばならない。なんとなればこの少女は、街頭に立って花を売りながら、三日というもの一本の花も売れなかったにかかわらず、主として雲をながめ、ときたまネオンサインをながめたにすぎぬほど悲劇に対してむじゃきであった。偉大なる博士ならびに偉大なる博士などの描く旋風に対照して、これほどふさわしい少女はまれにしか見あたらないのである。ぼくはこの幸福な結婚式を祝福して牧師の役をつとめ、同時に食卓給仕人となる約束であった。ぼくはぼくの書斎に祭壇をつくり花嫁とむきあせに端座して偉大なる博士の来場をまちかまえていたのである。そのうちに夜があけはなれたのである。さすがに花嫁はおどろくような軽率はしなかったけれど、ぼくは内心おだやかではなかったのである。もしも偉大なる博士はまちがえてほかの人に結婚を申しこんでいるのかもしれない。そしてそのときどんな恥をかいて、地球一面にあわただしい旋風をまきおこすかもしれないのである。ぼくは花嫁に理由をのべ、自動車をいそがせて恩師の書斎へかけつけた。そしてぼくは深く安心したのである。そのとき偉大なる博士は西南端の長イスにうもれてくことなく一書をむさぼり読んでいた。そして、今、東北端のひじかけイスから移転したばかりに相違ない証拠には、一陣の突風が東北から西南にかけて目にしみわたる多くの矢を描きながら走っていたのである。
「先生約束の時間がすぎました」
 ぼくはなるべく偉大なる博士をおどかさないように、とくに静粛なポーズをとって口上をのべたのであるが、結果においてそれは偉大なる博士をおびやかすにじゅうぶんであった。なぜなら偉大なる博士は色はあせていたけれど燕尾服を身にまとい、そのうえひざがしらにはシルクハットをのせて、たいへんりっぱなチューリップを胸のボタンにはさんでいたからである。つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ないいろいろの条件を明示していた。
「POPOPO!」
 偉大なる博士はシルクハットをかぶりなおしたのである。そして数秒の間うたがわしげにぼくの顔をみつめていたが、やがて失念していたものをありありと思いだした深い感動があらわれたのであった。
「TATATATATAH!」
 すでにその瞬間、ぼくはするどいさけび声をきいたのみで、偉大なる博士のすがたはけとばされたトビラのむこう側に見失っていた。ぼくはびっくりして追跡したのである。そして奇跡のおこったのはすなわちちょうどこの瞬間であった。偉大なる博士のすがたはとつぜん消えうせたのである。
 諸君、開いた形跡のない戸口から、人間はぜったいに出入りしがたいものである。したがって偉大なる博士は外へ出なかったに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にもいなかったのである。ぼくは階段のとちゅうに凝縮して、まだ響き残っているそのあわただしいあしおとを耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞い狂うのを見たのみであった。
 諸君、偉大なる博士は風となったのである。はたして風となったか? しかり、風となったのである。なんとなればそのすがたが消えうせたではないか。すがた見えざるは之すなわち風であるか? しかり、之すなわち風である。なんとなれば姿が見えないではないか。これ風以外のなにものでもありえない。風である。しかり風である風である風である。諸氏はなお、この明白なる事実をうたぐるのであろうか。それはたいへん残念である。それではぼくは、さらにうごかすべからざる科学的根拠をつけくわえよう。この日、かの憎むべきタコ博士は、あたかもこのおなじ瞬間において、インフルエンザに犯されたのである。
 
 
 
底本:「坂口安吾全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年12月4日第1刷発行
   1989(平成元)年12月25日第2刷発行
底本の親本:「黒谷村」竹村書房
   1935(昭和10)年6月25日発行
初出:「あおい馬 第二号」岩波書店
   1931(昭和6)年6月1日発行
入力:砂場清隆
校正:伊藤時也
2005年11月19日作成
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