水牛だより11月1日
附子

2005年11月02日

 幕府軍艦操練所

 龍馬好きがいらっしゃるようなので、その周辺と庄内のことなど。
 文久二年(1862)坂本龍馬が海舟門下に入ります。竜馬、二十八才。千葉重太郎とともに海舟をりに行って逆に感化されるエピソードは有名。海舟は龍馬らうさんくさい脱藩浪人をあつめて神戸に幕府の軍艦操練所をつくる。その後操練所が解散したあと、ひとつは龍馬ひきいる海援隊となって薩長同盟に一役買い、商社への道をたどることになる。もう一方は榎本武揚の引きつれる旧幕残党となって函館・五稜郭へ向かい、戊辰戦争の幕引き役をになう。そののちも日本近海を防衛する帝国海軍へと道をあゆむ。(要確認)
 龍馬や海舟が出羽や庄内へ来たという記録はありません。おそらく二人とも来たことはない。ところが軍艦操練所のメンバーを見てみると、けっこう庄内出身者がいたことにおどろかされます。今回は現時点でわかったところまでをかいつまんでメモしておきます。

 筆頭は佐藤与之助。政養まさよし。庄内藩遊佐升川出身。農家の出。与之助は島田虎之助の紹介で勝の門弟になる。島田は名の知られた剣客。庄内に来て剣技を披露したところ、与之助が弟子入りを願ったらしい。しかし、弟子はとらないと断られる。そのかわりに江戸の勝海舟を紹介される。小説『大菩薩峠』には島田虎之助が登場しますが、与之助に関する記述はちょっと見つけられませんでした。
 安政元年(1854)三十四才のときに勝の塾に入門。蘭語や砲術を学ぶ。それから長崎で海軍伝習生としてフルベッキから軍艦操練術や測量術をまなぶ。万延元年に勝が咸臨丸で渡米のさいは、その留守をあずかる。幕府からの命で蘭書翻訳方をもつとめる。勝に横浜の開港を献策したのも与之助だったらしい。龍馬が門下に入ったとき、与之助は四十一才。龍馬は浪人。与之助は庄内藩士身分。
 与之助は終始一貫、攘夷運動とは一線を画して関与しなかったという。維新の動乱のなかで庄内藩がその渦中にあったときも、海舟のそばをはなれなかったようだ。明治四年、民部省出仕鉄道助に任じられ、新橋・横浜間鉄道の布設につとめる。翌年開業。明治九年ごろから病気がちになって肺結核のため勝海舟宅で急逝する。享年五十七。

 杉 享二。勝塾の塾長をつとめたというから、与之助と同年代だろうか。出身地などくわしいことはまだ調べてませんが、娘・里子が鶴岡の小説家・高山樗牛の妻となる。
 婚姻関係でいえば、榎本武揚の妻・たつは幕府奥医師・林洞海の娘であり、林洞海は松本良順・林 薫・佐藤泰然らとつながる。彼らは庄内遊佐升川出身・天保義民とよばれた佐藤藤佐とうすけの子孫。
 高木三郎。旧姓、黒田友敬。江戸出身の庄内藩士。天保十二年生まれ。与之助とは二十才ちがう。こちらは庄内藩世子忠恕の相手役をつとめているエリート。安政六年、藩命を受けて勝の軍艦繰練所に入る。異色なのは戊辰戦争の前年、慶応三年四月にアメリカへ留学。明治五年二月に米国在留弁務使館書記。サンフランシスコ副領事、ニューヨーク領事となる。どうやら維新の戦火にまきこまれなかったらしい。長くアメリカに駐留して対米折衝につとめている。使節団が出かけるさいの現地手配役といったところか。十三年に官を辞したあとは生糸の輸出業をはじめている。享年六十九。

 ここでフルベッキについて。Verbeck, Guido Herman Fridolin。1830年生まれ。オランダ、ユトレヒト出身。アメリカのオランダ改革派協会から宣教師として派遣。安政六年(1859)来日。長崎や佐賀で布教のかたわら英語教師をつとめる。専門は工学。フルベッキから教えをうけた者は多い。伊藤博文(長州)・大久保利通(薩摩)・大隈重信(長崎)・副島種臣(佐賀)。明治31年東京にて没する。
 本間郡兵衛。おそらく山形でも知る人は少ない。号を北曜ほくようともいう。文政五年(1822)酒田生まれ。与之助の一才年下になる。姓から察しのつくとおり、酒田の大富豪本間家の分家筋にあたります。十七才で江戸に出てから、蘭学を学び、彫刻を学び、さらに葛飾北斎から絵を学んだという。これだけでもかなりトリッキー。安政二年(1855)蕃書調所にて洋学の翻訳に従事して以降、勝塾の蘭学教師をつとめる。与之助とほぼ同期。長崎海軍伝習所の通訳となり、フルベッキから英語を習う。文久二年(1862)欧米や清国を巡遊。さらに鹿児島開成所の教師をつとめる。慶応二年(1866)開成所を辞し大阪で勤王運動を画策。酒田へ戻ったところ捕らわれ、鶴岡の親戚方に幽閉中死亡。慶応四年没。享年四十七。一説に毒殺ともいわれる。
 赤沢隼之助はやのすけ。1839年生まれ。高木三郎の二才年上。庄内出身。安政六年(1859)海軍繰練所に入り勝の指導を受ける。与之助や郡兵衛よりもあとだが龍馬より先の入塾。慶応二年十二月勝塾で捕縛される。庄内に送られて牢内で断食して死亡。享年二十九。つまり佐藤与之助や高木三郎が恵まれて出世できたのに対して、本間郡兵衛や赤沢隼之助らは同郷出身にもかかわらず、凄惨な最期をとげることになる。凄惨な人生という点では、後者に清河八郎や弟・斎藤熊三郎を加えてもいいかもしれない。
 会津藩のように老若男女が死闘し、なおかつ斗南へ強制移住させられたことにくらべると結果的にではあっても、庄内藩はめぐまれている。しかしその影に、おもてにされずに暗に葬られた者たちが累々といることに気づかされる。当地出身者ばかりでない。庄内藩あずかりだった新徴組浪士たちは、最後まで庄内藩士らと行動をともにして官軍にあらがったにもかかわらず、無惨な結末に終わっている者たちが少なくない。調べれば調べるほどそういう人物たちが現れてくるのだ。
 『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(中公新書,1995)のあとがきを星亮一は「日本の戦後処理のまずさは第二次世界大戦でも指摘されているが、戊辰戦争でもまったく同じで、賊軍の名で奥羽越を一方的に片付け、日本の近代史にとって、戊辰戦争とは一体なんだったのかを十分に討議・検証することなく、歴史の闇に葬ってしまった。これは日本人の恥ずべき歴史感覚である」と強い口調でしめくくっている。賊軍の名で奥羽越を一方的に片付けているのは、勝者の側ばかりではない。敗戦した側もまた、じぶんたちの過去を葬り去ろうとしている。戊辰で流れた血。沖縄・広島・長崎で流れた血。安保闘争・学生紛争で流れた血。現在国内外で流れている血。まぎれもないリフレイン。

 陸奥宗光。土佐出身で龍馬の弟格 紀州藩出身で海援隊所属。あらためていうまでもありませんが、聡明で弁舌に優れのちに外務大臣をつとめることになります。明治十一年西南戦争のくわだてが未然に発覚してとらえられ山形の監獄へ投ぜられる。遠方流罪のようなものだろうか。十二年十一月に仙台の監獄へ移動するまでのあいだ、山形旅篭町旅館亭主・後藤又兵衛が衣食等身辺の差し入れや家族との連絡などの世話をつとめている。宗光は獄中でベンサム『プリンシプルス・オフ・モラル・エンド・レジストレーション』の翻訳などを手がける。十五年十二月、特赦放免され出獄。
 関口隆吉たかよし。江戸出身の幕臣。この人物も今後のくわしい調査を要します。江戸九段坂で勝海舟を暗殺しようとしたことがあるらしい。戊辰時、輪王寺宮を擁しての義挙計画では中軍参謀に予定されたともいう。維新後、山形・山口・静岡などの県令をつとめる。
 益満休之助。西郷吉之助の腹心。江戸市内撹乱の中心人物ともいう。薩摩藩邸焼き討ちのとき逃げ遅れて逮捕される。勝海舟の家に居候。山岡鉄太郎が駿府駆けをしたとき官軍の中を突破する案内をした。(追記:関口隆吉と益満休之助は操練所に所属したわけでなく、海舟と関連あるということでとりあげました。タイトルが「幕府軍艦操練所」だったので、ちょっと誤解をまねきかねない列挙だったか)

 ざっと、このようなぐあいです。なお海舟は、酒田の本間家に言及したことがあるらしい。積善の家に余慶ありを旨とし、百姓一揆はなかったとされる本間家を、勝は、すぐれた家訓・家憲を持つゆえといってほめたという。
 『竜馬がゆく』のなかで司馬さんはたびたび清河八郎を登場させています。ただし、佐藤与之助については書いていなかったはずです。本間郡兵衛についてもおそらく書いていない。ざっと見たところ『街道をゆく』の横浜・神戸編にも見あたりませんでした。清河は1830年生まれだから与之助・郡兵衛の十才ほど年下になります。何かつながりがあってもふしぎではない。そう思っていたら案の定、八郎の日記『西遊草』に佐藤与之助の出てくるところを見つけました。みじかく「旧知の与之助あてに江戸で手紙を出した」とある。詳細はわかりません。が、面識と交流のあった可能性があります。
 与之助や郡兵衛の視点で庄内藩や維新のことを再点検したいのですが、出羽三山の明治維新を最優先にしたいものですから、その作業はすぐにはできそうもありません。ふれることはできますが、深く記述できそうにありません。佐藤賢一さん、もしくはほかのかたが掘り起こしてくださることを期待したいと思います。

 なお、清河八郎『西遊草』は、当時の庶民の記録としてたいへん参考になります。今の感覚だからでしょうか。母親との全国道中記というのもめずらしい。行く先々で話のネタを仕入れてはこまめに書きとめている。酒造屋のせがれなので芭蕉のようなジリ貧の行脚とも異なります。山形の侠客の親分の名前なども書き記してくれている。当時、山形に狼がいたのか疑問に思っていたのですが、それについても書いてあります。天童から東根へいく途中、このあたりは狼が多いから気をつけるようにと注意をうけている。
 「清河八郎と陽明学」の回で、八郎の羽織の紋について「震為雷しんいらい」と書きました。しかし、早とちりだったかもしれません。高野澄『清河八郎の明治維新』の表紙にあるイラストを見たところ八郎の紋は「震為雷」に見えました。ところが後日、小山松勝一郎『清河八郎』(新人物往来社、1974)や大川周明『清河八郎』を見ると表紙に異なる紋が刻印してあります。こちらは「雷火豊らいかほう」。豊とは盛大。明と動が相助けあって盛大となる象なので豊。盛大であれば亨通する。天下の中で一番の盛大を極めることができるのは王者。しかし盛極に至れば当然次は衰えるようになるが、いたずらに憂えても益はない。よく常を守って盛んに過ぎることなきように努めれば憂いはない、の意(『増補版運勢大事典』より)。震為雷・雷火豊、いづれが正しいか。また記念館へ行く機会があれば確認したいと思います。

 ◇参考資料
 『新編 庄内人名辞典』1986.11.
 『山形県の歴史散歩』1993.2.
 『ものがたり庄内と人物』大泉散士1988.3.
 『山形市史』
 『西遊草』清河八郎
 
 
 
 2005.11.2
 しだひろし/PoorBook G3'99
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 コメント

杉享二は日本の統計学の祖として有名ですが、子母沢寛の「勝海舟」にかなり重要なポジションで登場します。

陸奥宗光は海援隊に加わっていますが紀州藩出身ですね。

Posted by: kous37 at 2005年11月03日 09:47

さっそくどうもありがとうございます。

子母沢寛「勝海舟」、さっそく探してみます。

杉享二には自叙伝もあるらしいので、それも。

> 紀州藩出身

すっかり勘違いして記憶してました。

ご指摘、ありがとうございます。

Posted by: しだ at 2005年11月03日 12:07

>子母沢寛「勝海舟」

NHKの大河ドラマになったことがあるようですよ。

Posted by: ten at 2005年11月03日 22:02

検索したら、大河ドラマのキャスト表をみつけました。

杉純道/江守徹

榎本釜次郎(武揚)/村井国夫

島田虎之助/垂水悟郎

佐藤与之助/北浦昭義

垂水悟郎・北浦昭義ってどんな俳優だろう。

宍戸錠の山岡鉄太郎!

Posted by: しだ at 2005年11月04日 06:54

>垂水悟郎・北浦昭義ってどんな俳優だろう。

垂水悟郎さんは、亡くなったはずです。劇団民藝の方だったと思います。日活の映画にもでていらしような・・で、どんな方だったかというと・・うう・・んん、思い浮かぶのは・・今村昌平監督で佐木隆三さんの「復讐するは我にあり」で、殺される役だったような・・

北浦昭義さんは、ご存命ではないでしょうか・・劇団に所属していらしゃるのかどうかわかりません。で、どんな顔の方かというと・・・ウウ・・んん、顔はなんとなく思い浮かぶのですが(多分あの顔の人だと思う。じゃあ、どんな顔やねん?)・・

Posted by: ten at 2005年11月04日 09:17

まったく予備知識のない歴史小説なんか、文章だけで固有名詞だけだとなかなかイメージができなくて、読んでいても空転してしまうけど、挿絵なり顔写真なり、あるいは俳優なり代用できるイメージがあると、それでかなりキャラクターがおぎなえるし、愛着さえ生じる。ふしぎなもんです。映像の強み・トリックですかね。

杉享二。文政11年(1828)長崎生まれ。

緒方洪庵の適塾に入ったあと、江戸に出る。勝海舟宅に寄寓するようになるのは嘉永6年。万延元年(1860)蕃書調所教授、開成所教授。郡兵衛ときわめて近い。官軍の江戸入府にさいし、寛永寺にて僧・竹林坊に面会している。沼津海軍兵学校教官。明治3年民部省出仕。

◇参考『幕末維新人名事典』奈良本(監)1978、『日本人名大事典』平凡社1983

ところで、そろそろ店頭に出始めてます?

当方ではまだちょっと見あたりませんが……

Posted by: しだ at 2005年11月04日 21:37

幕府軍艦操練所跡の石碑は、神戸メリケンパークに入る道のひだりがわ、神戸水上警察署横の公園にたっているようです。岸壁のところなのですが、当時の位置かどうかは不明。背後が居留地になっていました。

Posted by: at 2005年11月19日 19:57

書きこみありがとうございます。

地図を見てみました。最寄りの駅は三宮の次、元町駅になるみたいですね。

ポートアイランドの付け根で目の前に商船三井ビルがあって、

近くに神戸市立博物館がある。

神戸はぼくの家族にとっては思い出ぶかい土地です。

母がまだ学生だった40年も前のこと、東北では出稼ぎがめずらしくなく、

祖父は神戸湾岸で潜水工を、祖母はその飯場で働いていたことがあったそうです。

そのとき祖母は大病をして生死をさまよった。

たしか済生会病院とかいったと思います。命を救ってもらったと。

退院直後に撮影した一枚の写真を見ながら語ってくれました。祖父母ともに健在です。

いつか行ってみたいです。

Posted by: しだ at 2005年11月21日 22:50

明治五年(一八七三)からかぞえて132年目の惨劇。

今回の事故現場は、佐藤与之助の故郷と目と鼻の先。

日常性=あたりまえであることとひきかえに失ったもの。

与之助たち当時の努力への畏敬。

大臣を筆頭に墓参から再出発することを求めます。

Posted by: しだ at 2005年12月26日 22:59

与之助の墓参がすんだら、

村上陽一郎を読みかえすこと。

Posted by: しだ at 2006年01月15日 01:37

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