2005年11月19日

 記念撮影

インターネット図書館 青空文庫

きのうあたりから書店に並んでいる『インターネット図書館 青空文庫』の見本ができたのは今月7日のことでした。夕方ならばまちがいなく届いていると言われ、神保町にある出版元のはる書房に見本を見にでかけました。この目で完成した本を見たいという思いは同じなのか、関係者が勢揃いしました。編集統括の宮川典子さん(前列左)が用意してくださったスパークリングワインで乾杯! そして記念撮影をパチリ。

佐久間さん(後列右)は営業担当です。この日すでに大手書店から注文がはいっていました。青いカバーをとると表紙は純白。編著者野口英司さん(後列中央)のこだわりの色です。

富田倫生さん(後列左)が右手に持っているいやに目立っている本は『日本の論点2005』です。著作権について富田さんが書いているこの本も同じ日に届いたとのこと。あわせて読むとおもしろいと思います。

週末は本屋さんに行って、ぜひとも実物を見てください。

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2005年11月10日

 インターネット図書館 青空文庫

インターネット図書館 青空文庫

青空文庫の本ができました。
http://www.harushobo.jp/2005_11_01.html
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来週の中頃には書店に並ぶんじゃないかと思います。
これで、著作権の保護期間70年延長について、少しは話題になってくれればと願ってます。

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 附子

 城の地下深く、ひとりこもって有毒植物をそだてる少女。生と死の秘密をさぐろうとする禁じられた探求。だれにもかすことのできない孤独な行為。同世代の友たちとたわむれるよりも、こわがられおそれられる異形の生物たちをいとおしむ。むしたましいをうばわれる、と人はいう。いっそ、あなたたちと一体になれたらいいのに、とさえ彼女は願う。

 新聞社説は、さっそくのごとくネットの光と影論を展開する。ネットが子どもたちを危険にさらしてしまう、ネットの害悪、むかしはこんなことはなかった、ネットは危険だ、と。ネットが情報へのアクセスを驚異的に加速させたという面はまちがいないだろう。諸手をあげてITを称賛する気もない。ただし原因のすべてをネットのせいにしようとするならば、おそらくそれには無理がある。ネットのせいにしてしまっては、それ以上考えたことにならない。毎度毎度の思考停止もいいところだ。どうやらこの事件は“点”であり、線や面へと発展した形跡はみあたらない。それがせめてもの救いか。
 
 国内において、毒物事件が頻発している理由はさまざま推察できるだろう。また、さまざまな観点から推察がこころみられていいだろう。ここでは、地下鉄サリン事件の未清算、太平洋戦争での毒物使用の未清算、さかのぼって明治維新・戊辰戦争、さらにそれ以前の歴史の未清算が影響しているのではないか、という仮説をたててみます。過去の事件・歴史を清算できていないのではないか。過去を清算しないかぎり将来の再発はふせげないのではないか。ひとつひとつの事件・歴史を清算することこそが再発をふせぐ手だてになるのではないかとの仮定をたててみる。毒物事件がとりわけ日本国内に頻発しているように思えるのだが、それは気のせいだろうか。2001年アメリカ炭疽菌事件、2002年9月南京毒物混入事件などもたしかにあることはあった。単にメディア報道からあたえられるかたよった印象にすぎないのだろうか。
 社会への脅威、テロや戦争というと、飢餓や貧困や発展途上国が原因と思いやすい。しかしそれはおそらく先進国のおもいあがりだろう。じつのところ、先進国内部にこそ脅威を誘発する要因が散乱しているのではないか。政治やメディアは内側の脅威から目をそむけたがっているのではないか。すでに、内側の脅威を語る能力がおとろえてしまっているのではないか。外からやってくるスナフキンだけが問題なのではない。問われているのは、内側に存在するスナフキンとどうやって対話し、どうやってつきあうかなのだ。そもそもスナフキンを排除することは不可能だ。なぜならばスナフキンとは、ひとりひとりの内部に存在するからだ。 陳腐すぎ。
 毒物をわたしたち社会から完全に除外することはおそらく不可能です。毒物を製造し、利用し、管理することによってわたしたちの社会が成り立っているからです。毒物があることによって生活が保証されている。清潔好き・潔癖性の強い日本はとりわけ、大量の毒をまきちらすことによって生きている。文化的水準が高くなればなるほど、毒物への依存度が高いのが現実なのではないだろうか。存在そのものがすでに確信の共犯者なのだ。しらばっくれてもおそらくゆるされまい。彼女もオウムもまぎれもなく、わたしたちの落とし子なのである。
 地下鉄サリン事件をはじめとする個々の毒物事件や、ナチス・帝国日本軍など戦争における毒物兵器のことについては、ここではひとつひとつふれません。かなり強引な展開ですが、毒物の管理という点で話をすすめてみたいと思います。
 

***


 
 前方後円墳。二重三重の堀をめぐらしているもの。湖沼と隣接するもの。大阪城や江戸城などの城郭との類似も気になるところですが、ここで注目したいのは水との関係。奈良・大阪のものをみると、平地・川辺・海辺という立地の共通点があるように見える。貯水、灌漑かんがい……。しかしそれが目的ならばもっと合理的な形体があるだろう。高台の意味はなんだろう。海水位の上昇や河川の氾濫はんらんと関係ないものだろうか。水没の被害にあいそうなところに集中していないだろうか。避難所としての高台か……。しかしそれならば広い出入り口がなければ矛盾する。
 外界と遮断してあることで便利という使いみちもありえる。たとえばめずらしい家畜の飼育。外敵から防ぐことができるし逃げ出すことも少ないだろう。普段は放畜しておいて、必要なときに追い込んで捕らえることができる。門外不出の作物を育てることができたかもしれない。あるいは門外不出の作業もできるだろう。ただしこれにも無理がある。聖なる墓地の上で馬などとても放牧できなかったろうし、放牧が目的ならばあれほどの隆起は意味がない。明治以前は出入りの管理も比較的ゆるやかだったともいう。(※追記:この話題は唐突すぎ。不要だったか)
 
 附子ぶす。もしくは、ぶし。トリカブト。トリカブトを解毒して薬用にもちいる技術は中国から伝わったらしいが、それ以前からトリカブトは日本に自生していた。アイヌは狩りに使っていたともいう。附子ぶすを筆頭に、山野草やきのこなど自生する毒性植物はかぞえあげればきりがない。こんにちでもおもいのほか身の回りに毒を持つ植物があることにはおどろかされる。スイセン、スズラン、ジャガイモの芽……。動物性の毒としては、フグやマムシなどがある。鉱物性の毒としては水銀もあるし石見銀山ともよばれた殺鼠剤もある。そしてそれらは、単に毒があるというだけでなくて、解毒したうえで長く薬として重用され続けてきたものも多い。毒。生と死をつかさどる両義性。
 出羽三山にかぎらず、神聖視されて入山がきびしく制限されていた山地は全国各地にあります。女人禁制だけではない。男性でも制限されたり、時期によって制限されたり、入山できるところとできないところが区分されていたり、入山するとしてもかならず先導に従わなければならないとか、整備された山道からそれてはいけないとか。おまいり目的であれ狩猟目的であれ、ことこまかに約束ごとが決められていた。山をおそれうやまう対象としたいきさつには、きっとそういう山の管理という側面がおそらくあった。田畑が飢饉のばあいでも、山にはいろいろ食べられるものがある。悪事をはたらいて里にいられなくなったものが山へ逃げ込んで隠れ住もうとしたこともあったろう。諸藩の境界には関所・番小屋がもうけられ、手形の確認が義務づけられていた。田舎の山のほうではそれもいいかげんだったんじゃないかと思っていたのだが、どうやらとんでもないらしい。むしろ山のほうがきびしく融通がきかなかったとするむきもある。
 
 それを管理するのが修験者だったのではないか。
 確たる証拠はありません。けれども修験者は幕末のころまで民間医療の担い手でもあった。附子ぶすや石見銀山をはじめとした劇物や漢方を管理し、必要に応じて精錬したり調製したり吟味してほどこしていたのではないか。それが修験の役割のひとつだったのではないか。そういう技を組織的に伝授する集団としての修験。それが、江戸のなかごろからひんぱんにオランダ医術の優れたところをみせつけられるにしたがって、社会には西洋医学への期待がひろまる。祈祷やまじないにたよる修験のことを、いぶかしがり信用しなくなる。修験はもちろんそれを阻止しようとする。西洋医学は、自分たちの存在を否定しかねないからだ。しかし元来、医療行為という目的が同一だから、修験者のなかには西洋医学へ急接近するものたちもありえた。
 洋の東西をとわず、宗教とは科学であり医学であった。工学でもあり軍事学でもあった。治世側にとっては、先端科学を導入するにあたってそれにならぶ力が存在してもらっては困る。民衆に夢と希望をあたえるみなもとは、ひとつだけでなくてはならない。スムーズな変革のためにはいくつも太陽があっては困るのだ。それを阻害するものは、徹底的に無力化して組織を解体しなければならない。明治の廃仏毀釈・修験宗の廃止は、政治改革をともなった科学と宗教のパラダイム・シフトであった。

***

 藤原秀衡。後白河法皇。北条時頼。楠木正成。山本勘助。上杉謙信。伊達輝宗。真田幸村。服部半蔵。雑賀孫市。徳川家康。おもいつくままにあげてみたのだが、これら人物・武将に共通するのは“修験くささ”だ。修験は、頻繁に時の政治権力に接近しているように見えてしかたがない。ときに武将であったり、ときに朝廷であったり。
 修験にかぎらず、仏教はしばしば政治権力と同衾してきた。利用したり利用されたり、利用されたあげく捨てられたり、逃れようともがいたり。古今の歴史の中で宗教者・科学者・医学者が政治権力と接触した例はそれこそいくらでもある。ここではマンガ『蒼天航路』をテキストに曹操と華佗を見てみる。

 華佗かだ。三世紀、後漢末期の伝説の医師。麻酔薬・麻沸散をもちいて医療をほどこしたといわれる。曹操の頭痛を見立てたともいう。曹操は華佗に、医術をもって治世に仕えよと命じる。この国の病を治してみよという。不逞ふていであろうがなかろうが、それは些末さまつなこと。唯才ゆいざいただ才があれば用いよと絶叫する曹操。それに対し華佗は、国難の原因は儒が腐っていることであり、儒は国家の基本だから儒を正すことなしに国の根幹は定まらぬと言い返す。曹操は華佗に「(張仲景のごとく)医術の子細をしたためよ。秘伝秘術を公開し、医術を広めよ」と迫る。処方を公開することは誤診・悪用をも招く。医術は熟練者のみに口頭で伝授するもの、と華佗はつっぱねかえす。三国志演義では捕捉され獄をうける。正史でも職務放棄して帰郷したのち曹操に殺されるという。後年、江戸時代後期に花岡青洲が世界初の全身麻酔手術を行うもようは『花岡青洲の妻』(有吉佐和子,新潮社)にくわしいが、それはまた別の話。
 話は変わるが、最澄は空海に密教経典の貸し出しを依頼する。それに快くこたえていた空海だが、『理趣釈経』という書の貸与を望まれたときに、それをこばんだ。空海の言い分は、書いてあるものを読んで理解しただけでは、その教えの本随を理解したことにはならない。体得するためにはわれのもとに来て、直接学びを請うように、というものであった。
 曹操と華佗。最澄と空海。このふたつのエピソード、ここでは事実との真偽はさほど問題ではない。現代科学や現代医学、それから現代社会のかかえこんでいる問題の核心が、すでにここに収斂しゅうれんしていることに注目できる。創作者たちがそういうふうに読めるようにアレンジした、というほうが正確かもしれないが、それはそれで正しい歴史認識のありようだ。
 
 修験道もまた、重要な秘伝秘術は口伝であったという。ほかの宗派にくらべると、文献として記録するという慣習が少ない。まったく記録がないわけではないし、石碑や絵札などのかたちで残っているものもあるにはある。しかし、もっぱらが口頭伝承フォークロアである。歴史的に価値があるといわれているいっぽうで、修験道にはうさんくさくて信用するに根拠がとぼしい。まじめな研究者が安易にふれたがらず、解明がすすまなかった理由はそこにもある。
 口伝では、途中で変容したり抜け落ちたり解釈が変わったりしてしまい、本来の形が伝承できないのではないか、というふうに通常考えられる。ただし修験ではどうやらそうは考えないらしい。時代が変わり、ひとが変わりゆくのだから、それにしたがって奥義もまたうつろい変わってこそ当然ではないか。そう肯定的にとらえるらしい。うつろい変化してゆくことにこそ、奥義の奥義たるゆえんがあると。

 なんだか、修験道について記述しているつもりが、憲法論議とシンクロしてしまった気がする。改憲論者の言い分に酷似しているような気がする。つまるところ、改憲論者は大ボラ吹きの山伏修験者という結論か。ひとまず、そういうオチということにしておきたい。
 なお、毒物の出てくる古典にグリム兄弟の「白雪姫」、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」などがある。また、子殺し・親殺しは、異人殺しとともに民俗学のあつかうテーマのひとつであり、うぶめ・姥捨て・家父長制・徒弟制といった社会システムへ言及を展開する可能性を持っている。毒物を子どもに飲ませた例としては伊達政宗の母・義姫がある。子に殺される例として斎藤道三、親を追放する例として武田信玄がある。手元にある「訂正古訓古事記」で、毒という文字を検索してみたのだが、該当文字は皆無。

(※追記:この原稿すべて感情的すぎ。もっとちがう構成があったはず)
 
 ◇参考
 蒼天考:蒼天航路考察サイト
 http://www.h2.dion.ne.jp/~soutenko/top.html
 『蒼天航路』王欣太・李学仁,講談社
 『空海の風景』司馬遼太郎,中央公論社
 
 
 
 2005.11.10
 しだひろし/PoorBook G3'99
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2005年11月02日

 幕府軍艦操練所

 龍馬好きがいらっしゃるようなので、その周辺と庄内のことなど。
 文久二年(1862)坂本龍馬が海舟門下に入ります。竜馬、二十八才。千葉重太郎とともに海舟をりに行って逆に感化されるエピソードは有名。海舟は龍馬らうさんくさい脱藩浪人をあつめて神戸に幕府の軍艦操練所をつくる。その後操練所が解散したあと、ひとつは龍馬ひきいる海援隊となって薩長同盟に一役買い、商社への道をたどることになる。もう一方は榎本武揚の引きつれる旧幕残党となって函館・五稜郭へ向かい、戊辰戦争の幕引き役をになう。そののちも日本近海を防衛する帝国海軍へと道をあゆむ。(要確認)
 龍馬や海舟が出羽や庄内へ来たという記録はありません。おそらく二人とも来たことはない。ところが軍艦操練所のメンバーを見てみると、けっこう庄内出身者がいたことにおどろかされます。今回は現時点でわかったところまでをかいつまんでメモしておきます。

 筆頭は佐藤与之助。政養まさよし。庄内藩遊佐升川出身。農家の出。与之助は島田虎之助の紹介で勝の門弟になる。島田は名の知られた剣客。庄内に来て剣技を披露したところ、与之助が弟子入りを願ったらしい。しかし、弟子はとらないと断られる。そのかわりに江戸の勝海舟を紹介される。小説『大菩薩峠』には島田虎之助が登場しますが、与之助に関する記述はちょっと見つけられませんでした。
 安政元年(1854)三十四才のときに勝の塾に入門。蘭語や砲術を学ぶ。それから長崎で海軍伝習生としてフルベッキから軍艦操練術や測量術をまなぶ。万延元年に勝が咸臨丸で渡米のさいは、その留守をあずかる。幕府からの命で蘭書翻訳方をもつとめる。勝に横浜の開港を献策したのも与之助だったらしい。龍馬が門下に入ったとき、与之助は四十一才。龍馬は浪人。与之助は庄内藩士身分。
 与之助は終始一貫、攘夷運動とは一線を画して関与しなかったという。維新の動乱のなかで庄内藩がその渦中にあったときも、海舟のそばをはなれなかったようだ。明治四年、民部省出仕鉄道助に任じられ、新橋・横浜間鉄道の布設につとめる。翌年開業。明治九年ごろから病気がちになって肺結核のため勝海舟宅で急逝する。享年五十七。

 杉 享二。勝塾の塾長をつとめたというから、与之助と同年代だろうか。出身地などくわしいことはまだ調べてませんが、娘・里子が鶴岡の小説家・高山樗牛の妻となる。
 婚姻関係でいえば、榎本武揚の妻・たつは幕府奥医師・林洞海の娘であり、林洞海は松本良順・林 薫・佐藤泰然らとつながる。彼らは庄内遊佐升川出身・天保義民とよばれた佐藤藤佐とうすけの子孫。
 高木三郎。旧姓、黒田友敬。江戸出身の庄内藩士。天保十二年生まれ。与之助とは二十才ちがう。こちらは庄内藩世子忠恕の相手役をつとめているエリート。安政六年、藩命を受けて勝の軍艦繰練所に入る。異色なのは戊辰戦争の前年、慶応三年四月にアメリカへ留学。明治五年二月に米国在留弁務使館書記。サンフランシスコ副領事、ニューヨーク領事となる。どうやら維新の戦火にまきこまれなかったらしい。長くアメリカに駐留して対米折衝につとめている。使節団が出かけるさいの現地手配役といったところか。十三年に官を辞したあとは生糸の輸出業をはじめている。享年六十九。

 ここでフルベッキについて。Verbeck, Guido Herman Fridolin。1830年生まれ。オランダ、ユトレヒト出身。アメリカのオランダ改革派協会から宣教師として派遣。安政六年(1859)来日。長崎や佐賀で布教のかたわら英語教師をつとめる。専門は工学。フルベッキから教えをうけた者は多い。伊藤博文(長州)・大久保利通(薩摩)・大隈重信(長崎)・副島種臣(佐賀)。明治31年東京にて没する。
 本間郡兵衛。おそらく山形でも知る人は少ない。号を北曜ほくようともいう。文政五年(1822)酒田生まれ。与之助の一才年下になる。姓から察しのつくとおり、酒田の大富豪本間家の分家筋にあたります。十七才で江戸に出てから、蘭学を学び、彫刻を学び、さらに葛飾北斎から絵を学んだという。これだけでもかなりトリッキー。安政二年(1855)蕃書調所にて洋学の翻訳に従事して以降、勝塾の蘭学教師をつとめる。与之助とほぼ同期。長崎海軍伝習所の通訳となり、フルベッキから英語を習う。文久二年(1862)欧米や清国を巡遊。さらに鹿児島開成所の教師をつとめる。慶応二年(1866)開成所を辞し大阪で勤王運動を画策。酒田へ戻ったところ捕らわれ、鶴岡の親戚方に幽閉中死亡。慶応四年没。享年四十七。一説に毒殺ともいわれる。
 赤沢隼之助はやのすけ。1839年生まれ。高木三郎の二才年上。庄内出身。安政六年(1859)海軍繰練所に入り勝の指導を受ける。与之助や郡兵衛よりもあとだが龍馬より先の入塾。慶応二年十二月勝塾で捕縛される。庄内に送られて牢内で断食して死亡。享年二十九。つまり佐藤与之助や高木三郎が恵まれて出世できたのに対して、本間郡兵衛や赤沢隼之助らは同郷出身にもかかわらず、凄惨な最期をとげることになる。凄惨な人生という点では、後者に清河八郎や弟・斎藤熊三郎を加えてもいいかもしれない。
 会津藩のように老若男女が死闘し、なおかつ斗南へ強制移住させられたことにくらべると結果的にではあっても、庄内藩はめぐまれている。しかしその影に、おもてにされずに暗に葬られた者たちが累々といることに気づかされる。当地出身者ばかりでない。庄内藩あずかりだった新徴組浪士たちは、最後まで庄内藩士らと行動をともにして官軍にあらがったにもかかわらず、無惨な結末に終わっている者たちが少なくない。調べれば調べるほどそういう人物たちが現れてくるのだ。
 『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(中公新書,1995)のあとがきを星亮一は「日本の戦後処理のまずさは第二次世界大戦でも指摘されているが、戊辰戦争でもまったく同じで、賊軍の名で奥羽越を一方的に片付け、日本の近代史にとって、戊辰戦争とは一体なんだったのかを十分に討議・検証することなく、歴史の闇に葬ってしまった。これは日本人の恥ずべき歴史感覚である」と強い口調でしめくくっている。賊軍の名で奥羽越を一方的に片付けているのは、勝者の側ばかりではない。敗戦した側もまた、じぶんたちの過去を葬り去ろうとしている。戊辰で流れた血。沖縄・広島・長崎で流れた血。安保闘争・学生紛争で流れた血。現在国内外で流れている血。まぎれもないリフレイン。

 陸奥宗光。土佐出身で龍馬の弟格 紀州藩出身で海援隊所属。あらためていうまでもありませんが、聡明で弁舌に優れのちに外務大臣をつとめることになります。明治十一年西南戦争のくわだてが未然に発覚してとらえられ山形の監獄へ投ぜられる。遠方流罪のようなものだろうか。十二年十一月に仙台の監獄へ移動するまでのあいだ、山形旅篭町旅館亭主・後藤又兵衛が衣食等身辺の差し入れや家族との連絡などの世話をつとめている。宗光は獄中でベンサム『プリンシプルス・オフ・モラル・エンド・レジストレーション』の翻訳などを手がける。十五年十二月、特赦放免され出獄。
 関口隆吉たかよし。江戸出身の幕臣。この人物も今後のくわしい調査を要します。江戸九段坂で勝海舟を暗殺しようとしたことがあるらしい。戊辰時、輪王寺宮を擁しての義挙計画では中軍参謀に予定されたともいう。維新後、山形・山口・静岡などの県令をつとめる。
 益満休之助。西郷吉之助の腹心。江戸市内撹乱の中心人物ともいう。薩摩藩邸焼き討ちのとき逃げ遅れて逮捕される。勝海舟の家に居候。山岡鉄太郎が駿府駆けをしたとき官軍の中を突破する案内をした。(追記:関口隆吉と益満休之助は操練所に所属したわけでなく、海舟と関連あるということでとりあげました。タイトルが「幕府軍艦操練所」だったので、ちょっと誤解をまねきかねない列挙だったか)

 ざっと、このようなぐあいです。なお海舟は、酒田の本間家に言及したことがあるらしい。積善の家に余慶ありを旨とし、百姓一揆はなかったとされる本間家を、勝は、すぐれた家訓・家憲を持つゆえといってほめたという。
 『竜馬がゆく』のなかで司馬さんはたびたび清河八郎を登場させています。ただし、佐藤与之助については書いていなかったはずです。本間郡兵衛についてもおそらく書いていない。ざっと見たところ『街道をゆく』の横浜・神戸編にも見あたりませんでした。清河は1830年生まれだから与之助・郡兵衛の十才ほど年下になります。何かつながりがあってもふしぎではない。そう思っていたら案の定、八郎の日記『西遊草』に佐藤与之助の出てくるところを見つけました。みじかく「旧知の与之助あてに江戸で手紙を出した」とある。詳細はわかりません。が、面識と交流のあった可能性があります。
 与之助や郡兵衛の視点で庄内藩や維新のことを再点検したいのですが、出羽三山の明治維新を最優先にしたいものですから、その作業はすぐにはできそうもありません。ふれることはできますが、深く記述できそうにありません。佐藤賢一さん、もしくはほかのかたが掘り起こしてくださることを期待したいと思います。

 なお、清河八郎『西遊草』は、当時の庶民の記録としてたいへん参考になります。今の感覚だからでしょうか。母親との全国道中記というのもめずらしい。行く先々で話のネタを仕入れてはこまめに書きとめている。酒造屋のせがれなので芭蕉のようなジリ貧の行脚とも異なります。山形の侠客の親分の名前なども書き記してくれている。当時、山形に狼がいたのか疑問に思っていたのですが、それについても書いてあります。天童から東根へいく途中、このあたりは狼が多いから気をつけるようにと注意をうけている。
 「清河八郎と陽明学」の回で、八郎の羽織の紋について「震為雷しんいらい」と書きました。しかし、早とちりだったかもしれません。高野澄『清河八郎の明治維新』の表紙にあるイラストを見たところ八郎の紋は「震為雷」に見えました。ところが後日、小山松勝一郎『清河八郎』(新人物往来社、1974)や大川周明『清河八郎』を見ると表紙に異なる紋が刻印してあります。こちらは「雷火豊らいかほう」。豊とは盛大。明と動が相助けあって盛大となる象なので豊。盛大であれば亨通する。天下の中で一番の盛大を極めることができるのは王者。しかし盛極に至れば当然次は衰えるようになるが、いたずらに憂えても益はない。よく常を守って盛んに過ぎることなきように努めれば憂いはない、の意(『増補版運勢大事典』より)。震為雷・雷火豊、いづれが正しいか。また記念館へ行く機会があれば確認したいと思います。

 ◇参考資料
 『新編 庄内人名辞典』1986.11.
 『山形県の歴史散歩』1993.2.
 『ものがたり庄内と人物』大泉散士1988.3.
 『山形市史』
 『西遊草』清河八郎
 
 
 
 2005.11.2
 しだひろし/PoorBook G3'99
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2005年11月01日

 水牛だより11月1日

冬の足音がたしかに聞こえる今日、水牛レーベル8枚目のCD、日本語で歌う「冬の旅」を発売しました。ジャケットぜんたいのデザインが独特です。水牛のCDはいつも紙のジャケットにしていますが、これまでのようにボール紙に別の紙を貼ったタイプではなく、厚紙に直接印刷して、折りたたみ糊付けしてあります。二つある入口の片方にCD、もう片方に歌詞カードが入っています。作ってくれたのは旭川にある印刷所です。親切できちんとしていて安くて速い! 電話とメールで連絡とデータをやりとりし、翌朝配達の宅急便があるおかげで、距離を感じることはあまりないのです。

11月19日はシューベルトが亡くなった日です。「冬の旅」東京公演はこの命日をはさんだ三日間。出演者と会場の都合をあわせて決めた日程が偶然こうなっていたのでした。はたして偶然なのだろうか、と思ってみるのも興味深いものです。コンサートのための新作の詩をご紹介します。おそらく死を意識していたころのシューベルトの詩です。どんな歌なのか、それは当日のお楽しみ。

   民衆に訴える
     フランツ・ペーター・シューベルト(作曲・訳詞:高橋悠治)

  時代の青春は終わった
  民衆の力も
  流れ行く群衆のなかに埋もれて
  使いはたされた

  苦しみにさいなまれ
  あの力の名残りさえ
  時代にさまたげられて
  実りなく消える

  民衆は歌を忘れて
  病んだ時代をさまよう
  あの日の夢を捨てて
  顧みることもなく

  ただ歌だけが運命に
  立ち向かう力をくれる
  かがやく思い出をえがき
  苦しみを和らげて

「水牛のように」を2005年11月号に更新しました。
雑誌の目次のように、原稿の順番をきめるのは更新のための最後の楽しみです。今月はタイからはじまってインドネシア、イラク、イタリア、ドイツとめぐり、どこともわからないふしぎの国に足をふみいれ、日本へというふうにしてみました。テーマをもうけることはしないので、「水牛のように」は目的のない旅のようなものです。

新しく出た藤本和子さんの翻訳を2冊。
『不運な女』は1982年にピストル自殺をしたリチャード・ブローティガンの遺品の中からひとり娘が発見した最後の小説です。藤本さんが書いた『リチャード・ブローティガン』をあわせて読むとよりおもしろいと思います。
『闇の夜に』はブルーノ・ムナーリの絵本。イタリア語版とおなじくイタリアで印刷されています。黒や半透明の紙が効果的に使われていて、ページをめくるのが楽しい。簡素な日本語にもつい見入ってしまいます。

11月30日には金沢で「冬の旅」の公演があります。翌日12月1日に帰ってから作業をしますから、更新はいつもよりおそく、1日夜になると思います。そして3日からは北海道ツアーです。どこでもおいしいものが待っていてくれそう。暗い冬の北に旅する者の特権です。

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