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九月十七日の正午に大阪駅中央口にやってきたのは、うにさん、jukiさん、 M・Jさん、 T・Mさん、そして私である。正午ということは、まず腹ごしらえ。大阪のお隣、京都に住んでいるうにさんを先頭に、ぞろぞろと続く。「読書blogーすいへいせん」の旗を作ってうにさんに持ってもらうのだった・・と我々は、口々に言いながら、いざ、大阪名物お好み焼き屋をみつけろ! ちょっと立ち止まって、旅行雑誌を開いたり、地下街の地図を見たり・・(地図をみることは苦手なので、私は完全におまかせモード)
大阪弁の集団が私の身体の周りを通り過ぎる。その音に私は、何か落ち着かないもの感じていた。大阪は、厳密にいえば四度目である。その最初、小学生になっていただろうか・・母と私は、母の友人一家と夜行で大阪へ来た。関西のいろいろなところを見て回ったあと、大阪駅から夜行に乗って帰ることになっていた。列車を待つ間、私たちは待合室にいた。そのとき、私より五歳ほど年長の、母の友達の息子さんが、アイスクリームのドライアイスを構内の小さな噴水に一気に投げ込んだ。もちろん煙が天上に届かんばかりに立つ。それをみていた知らないおばさんが、「極楽みたいやな」と言った。「ごくらくみたいやな」という音がなかなか私の耳から消えなかった。ふと外をみると阪急デパート?が聳えていた。あの屋上から飛び降りても極楽にいけるのだろうかと思ったのを今でも覚えている。なぜならば、数日前地元のデパートの屋上から飛び降りた男の話を行きの列車で大人たちがしていたからだった。
現在、噴水はなかったが、構内をでると阪急デパート?は目の前にあった。あの時の「ごくらくみたいやな」という声が聞こえたように思えて、振り返ったが、もちろん空耳だった。
我々は、曽根崎の方へでて、運良くお好み焼きの店をみつけ、すぐに席につくことができた。五人、誰一人、かぶることなく、5種類のものを頼み、さて、これからの午後の行動会議。予定通り+ハプニングありということで・・
まず今晩お世話になるホテルへ、荷物を預かってもらうことにし、それから墓参り(墓石めぐり?)にでかけることにした。
小雨が落ちる。それでも傘を差すほどではない。予定通り墓めぐりのスタート。まず行ったのは、 梶井基次郎の墓である。
私にとっては長かった出会いである。メールのやり取りを何年も続けていて、やっと会えた人のようだ。「春の企画第一弾 梶井基次郎」を「読書blog-すいへいせん」で三回に亘って特集した私としては、まさに愛しい人に会いにきたようなものだ。(密集する墓の中でなかなかみつけることができなかったし、お花の一本も持ってこなかったので、私の誠実もいい加減なものなのだが・・)
ー梶井の作品を一番最初に私が読んだのは、高校生の頃だったと思う。それは「檸檬」でもなければ、「桜の樹の下には」でもない、「冬の日」だった。
ただただ、驚いた。こんな作家もいたのかと。鋭敏な神経の棲息域に片足を一歩踏み込んだようだった。鋭敏な神経で書かれた芥川とも違う、何が違うのか、言葉だと気がつくのにずいぶん時間がかかった。芥川は、その鋭敏な神経で、話の筋を編んだとすれば、梶井は、その鋭敏な神経で、言葉を紡いだのだと漠然と大人になってから思った。ー(2005.3.25 「読書blog-すいへいせん」の拙文より)
梶井への思いは、すいへいせんのほか、このaozora blogでも書いてきたし、これからも書くことがあるだろうから、次へいく。梶井が眠る常国寺を出て、雨が少し強くなったり、止んだりした。誰一人傘もささないし、何も言わなかった。そこから「歴史の道」を辿っていく。寺町という風情で、各寺の門前に、自分のところには、だれそれの墓があると標がたっているので、幾度と無く立ち止まる。標の横の説明を読んでは、知っている人物だったり知らない人物だったり、わいわい言いながらの姿は、どうみても私たちは、ひと昔前の修学旅行の生徒である。
そうやって立ち寄った、あるお寺の茅ふきの立派な門のところで、やはり標をみていると、雨足が早くなった。ちょっと雨宿り。ああ・・この光景は、人数こそ多いが、黒澤明監督の「羅生門」の冒頭、千秋実と志村喬ではないか・・・と私が言うと、M・Jさんがすかさず、「そこの二階に・・・」 二階の死人の仲間入りをしないうちに、すぐに雨も小降りになったことである、次へ行こう。(どこに二階があるのか・・よくわからないが・・)
事前リサーチをしてきた私以外の人たち(私はぼんやり何もせずに参加しました・・すいません)の地図や資料によると、近くに近松門左衛門の墓と書いてある。
ビルの間にひっそりとあるのだ。
近松といえば、先ほどお好み焼きを食べた、曽根崎にあったお初天神。「曽根崎心中」作者である。天神の森で心中したことになっている。森などといったのは、いつのことか・・それはさておき、近松の墓の前に、なぜか、賽銭箱がおいてあるので、(教育委員会がお墓の維持と文化向上のために遣うらしい)みんな、一人ずつちゃりんちゃりんといわせる。
近松が江戸の劇作家なら、江戸のリアリズム作家は、やはり井原西鶴だろう。近松の墓から五分ほど歩いていくと、西鶴が眠る誓願寺 。入るとすぐ左手に武田麟太郎の碑がある。そこの墓地には、監視カメラがあった。西鶴は、世の中を斜めに見つめていた人だから、カメラをみてきゃっきゃっきゃっきゃ、手も振ってみる私たちをみて、「何をやっているんだか・・」とあきれてみているかもしれない
私たちは、少し文学から外れてみようということになり、渡船に乗ることになった。桜島から天保山まで。渡船
昔の人にとって、「橋」は今ほどあるわけではない。合戦において、橋は無い方がいい場合が多かっただろう。一般庶民にとって、川は、「渡る」のではなく、「渡してもらう」ものだったのだと思う。他人の力を借りて、”向こう側”へ行くことができたのだ。私たち以上に「川」というものは、特別な意味があった。川の向こうは全く知らない世界だったのだから、川一つ挟んで、方言が違うというところもある。などとつらつらと考えながら船が作る渦を眺めていたら、すぐに着いた。そこは、日本で一番低い山、天保山である。
遊園地の観覧車がゆっくりと回っていた。観覧車より低い山を私は生まれて初めてみた・・・天保山 桜の木が九月の夕方の風に揺れていたので、四月に来ればそれは見事な景色なのだろうと推察はできた。
さてこれから我らが向かうは、大阪在住のゼファー生さんの待つ「新今宮駅」。そこは武田麟太郎の「釜が崎」の舞台である。・・続きは次回・・