2005年06月28日

 青空文庫全部入りCD-ROM『蔵書4670』

蔵書4670今年もボイジャーが、東京国際ブックフェアに合わせて、青空文庫全部入り(ただしエキスパンドブックは抜き、なぜなら容量オーバーだから)のCD-ROMを作りました。今回は会場に行けない人のために予約販売もするので、もし欲しいと言う人がいましたらこちらで予約してみてください。どれくらい作ったらいいのかわからないので、予約してくれると嬉しいみたいです。収録作品数4670で、1枚500円+送料。専用ビュワー、azur 新版のお試し版が付いてきます。
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2005年06月24日

 地域対抗戦リージョナル・タッグマッチ

 国家とか日本とか文明とか、そういうものをまじめに取りあつかおうとするとミイラがミイラ取りになりかねません。つい、ニッポンとかアメリカとかチュウゴクとか“実体”があると思いがちだし、現にそれぞれの政府があって貨幣があって税金徴収がある。けれども、一枚の紙切れに価値があると思いこむから千円札は千円札としての価値になる。一万円札は一万円札になる。国にしても貨幣にしてもひとりひとりの思いこみが前提でなりたつシステム。アメリカ人という名前のアメリカ人はいません。いるのは、ひとりひとり。

 中国人というと、つい、みんな料理がうまくてギョウザが好きで自転車に乗ってるようなイメージをいだいてしまいやすい。けれどもじっさいは油料理が苦手な中国人がいてもふしぎではないし、自転車に乗れない中国人だっているかもしれない。料理のできない中国人だっているだろう。国家論とか人種論とかを話題にするときは、そのことを真っ先に頭にうかべることにしています。ニッポン人も同様です。ひとくちに日本人といっても、東京の人と大阪の人と京都の人と、それぞれに一様ではありません。と同時に東京人という名前の東京人もおらず、大阪人という大阪人もいません。大阪人というとつい、みんなボケとツッコミしてるような気がしてしまいやすいですが。たこ焼き食いながら。

 同様に、それぞれの国の経済も政治も文化も一枚岩であるとはかぎりません。むしろ、みんなあさっての方向を向きあってることが少なくない。一枚岩でないことを承知してるから、各種団体をつくってつながりあって集合体としての力を保持しようとする。数の政治パワーポリティックス。とりわけ民主的デモクラティックであればあるほど一方的・強制的・専制的な政治権力を親のかたきのように嫌悪する。権威や権力の威を借りた押しつけを全否定する。認めない。

 国家というフィクション。
 集団というフィクション。

 フィクションはフィクションだからおもしろいのであって、フィクションにふりまわされるようになるとそれこそ悲劇になる。夢を求めるからフィクションが生まれるのであって、フィクションのためにひとりひとりがいるわけではない。

 フィクションついでに、地域対抗戦リージョナル・タッグマッチを思い描いてみます。たとえばEU。最古参チームです。はた目から見ると、もっとも結束力があってチームプレーがうまくて意志疎通ができていてまとまりがある、ように見えます。内実はどうか知りません。たとえばアフリカ。エジプトがFWフォワードだとするならば、南アフリカはGKゴールキーパーでしょうか。どっちがチームリーダーなのかは、ちょっとわかりません。南米は、ラテン系なドリームチームでバイタリティにあふれている。リーダーはブラジルということになるでしょうか。オセアニアもまとまりがある。オーストラリアとニュージーランド、2トップの息のあったコンビネーション。

 EUをもう少し見てみます。
 西・東・北の3つのリーグの連合体。個性の強い優秀なプレーヤーにめぐまれている。それだけにキャラクターが拮抗している。チーム内で長く競合してきたことがチーム全体のレベルアップにもつながっている。現在の結束力の影には、長い血まみれのポスト争いがあったことは見逃せない。過去の影響は少なからず今なお尾を引いており、固定したチームリーダーがいない。もしくはリーダーが複数いる。それが強みであり弱みである。イングランドはリーダーとしての素質はあるかもしれないが、意志がないのか気がねしているのかもしくは何かひがんでいるのか、いまひとつ引っ張っていくという覇気がない。ドイツ・イタリア・ロシアはヒールな役柄をしばし担ってきたがそれだけに実力も威風もある。頼れるキーパーでありDFディフェンダー
 EUは全体的にまとまりと実力がある。ほかのチームがうらやむほど。ただしそれだけに疲労もまたある。チームの平均年齢がきわめて高い。課題は新しい世代の育成。順調に(もしくは前途多難ながらも)育っている。
 
 ところでアジアは、なぜ亜細亜アジアなのだろう。
 いつからアジアになったのだろう。

 ユーロに対しアジア。ユーロという概念が生まれ育った時代、同時にアジアも生まれた。とするとアジアもまた古参の部類といえるだろうか。アジアには自他共に認めるリーダーがいた。中国。フィールドを所狭しと走り回る攻撃的MFミッドフィルダー。めんどうみもよかったから、したわれてもいた。ヤク中になるまでは。ラリってからは、もう足腰がフラフラになってしまった。

 さて、もんだいはわれらが異端児、ジパング。
 万年右サイド。職人的でもある。近眼でもある。しばしばひきこもるクセもある。ほめられると育つタイプだが、傷つきやすくて逆ギレしやすい。あばれると手のつけようがなくなる。オウンゴールの名手。チームメイト相手にレッドカードをもらうという、ありえねー奴。当然信頼されない。半強制的にアメリカにコーチしてもらうことになる。ところがこの問題児、根が素直でまじめだからメキメキと実力をつけてしまった。

 このアジアチーム、課題がいくつかあります。
 過去の栄光からいうと中国を核にしたチーム作りということになるかもしれない。本人もプライドをひきずっている。日本はアメリカのアシストのおかげで急成長できた。だれもが目を見張るほど。しかしアジアのなかでは今もって孤立しがち。日本だけではない。このチームはまったくかみあっていない。意志疎通がわるい。お互いに信頼関係を築けない。自閉的。けれども救いなのは、おたがいにチームメイトを高く評価しておりしっかり見ている。口ベタだけれどするどい批評の目をもっている。とくに中国も韓国も、日本をしっかりチェックしている。どうでもよければこれほどチェックしないだろう。日本の勢いが正真正銘のものなのか、虚勢ではないのか。いっときの勢いにすぎないのではないか。チームにとって有害なものをはらんでいないのか。なんだかかなり注目されてるような気がするのですが。たんに自意識過剰なだけかもしれませんが。
 
 というわけで、これはフィクションです。たぶん。



2005.6.23 コンフェデ杯 対ブラジル 2:2

2005.6.24
しだひろし/PoorBook G3'99
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2005年06月20日

 ジョージア州のホタル

 蛍といえば、青白い光を漂わせ、まるで人魂のようだと形容され、幽玄なおもむきを思い起こさせるものである。ところ変れば品変わる、でアメリカのホタルはかなり違うおもむきを感じさせた。ちょっと時期は早いけれど、蛍の出てくる作品とともにアメリカのホタルの話を少し記してみたい。

 とある事情でアメリカにいる。とある事情でホームパーティに参加することになった。季節は6月の終わり。日本は梅雨のまっただ中だけど、こちらは快晴。日差しは強いけれど、湿度が低いので日陰に入るととても涼しい。場所はジョージア州の北の方で、サウスカロライナ州にかなり近いところ。といってもジョージア州の首都であるアトランタから車で一時間もかからない。アトランタといえば、コカコーラやデルタ航空の本社がある大都会である。それでも、ハイウェイを降りたあたりで、木々がやけに多く、カントリーサイドであることを感じさせた。
 パーティには半裏方として参加したので、料理の準備や片付けをしながら合間合間に会話をするくらい。半裏方の仕事も、結構のんびりとしていた。アメリカもカナダもパーティの始まりと終わりはいつもいい加減で、いつの間にか始まって、いつの間にか終わっている。サマータイムのためか、なかなか暗くならないので、大体夕方5時頃からパーティは家の裏にある庭で始まった。裏の庭といっても、松の木が2、3本、他の木々も結構ある広い庭である。
 料理を出してしまえば、かなり暇なので、椅子に座って庭の木々の方をぼけっと見ていた。サマータイムで暗くならないとは言っても、8時を過ぎれば少しずつ暗くなる。その頃に、木々の間にちらちらと光るものが見えた。最初は、夕日が蜘蛛の巣にでも当たっているのかと思った。もしくは、目の錯覚かと。近づいてよく見てみると、小さい虫が光っているのだった。家の主人に、このへんにはたくさんいるのか、と聞くと「ホタル(fire fly)か、結構いるぞ」とのことだった。
 ホタルと聞いてもその実感が湧かなかった。なぜならば、まず光っている時間が短い。大体1秒弱光って、すぐ消えてしまう。そして、色が違う。黄色かオレンジ色なのだ。
 蛍ならば、青空文庫で関わった作品を検索してもいろいろと出てくる。古くは、源氏物語の副題にもなっている。作中の与謝野晶子の和歌にあるように、

「身にしみて物を思へと夏の夜の蛍ほのかに青引きてとぶ   (晶子)」

と、蛍は青い光を発している。そして、泉鏡花「草迷宮」にあるように、

「と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、流《ながれ》が白い。」

と、その光はすぐに消えてしまうようでもないらしい。そして、蛍のいるところは泉鏡花「黒百合」にあるように、

「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」

と、水の傍らしい。
 再び、アメリカのホタルに話を戻す。サウスカロライナ州に近いここには近くに清流がある訳でもない。光の色も光り方もかなり違う。日本の蛍とは呼び起こす情緒がかなり違うなあ、と思いながら、眺めていた。パーティは、9時半頃にいい加減に終わった。いつの間にか主役たちは去り、残っているのは半裏方とこの家の家族だけになっていた。片付けも大体済んで、庭に面したバルコニーでぼけっと暗くなった木々の間を飛んでいるホタルを眺めていると、家の主人が気を利かせてくれたのか、庭に面した照明を消してくれた。すると、ホタルの光がもう少しはっきりと見えてきた。木々の所々で、点滅しながら光っているホタル。たくさんのホタルが黄色い光の点滅を木々にまとわせている姿はまるで、そうクリスマスツリーの装飾のようであった。これはこれで、情緒のあるものだと思った。アメリカ東部、南部の文学でホタル(fire fly)が描写されている作品があるのかどうかを知らないが、この景色を見ると、そんな作品があってもいいのではないかと思った。

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2005年06月14日

 テロリストとしてのスナフキン

 『風の谷のナウシカ』は“怒りにわれを忘れて”暴走する王蟲オームのシーンからはじまります。原因は、むしにさらわれたキツネリスを、人の赤ん坊と勘違いしたユパが取り戻そうとしてあやめたことによります。ナウシカはメーヴェに乗りながら王蟲をなだめようと近寄りますが、怒り狂う王蟲はとても説得に応じる状態ではない。ナウシカは光弾ひかりだまと虫笛を使って王蟲の暴走をとめます。

 なかごろに、トルメキア軍が風の谷におしよせてナウシカの父親を殺害するシーンがあります。ナウシカは怒りにわれを忘れて兵士たちに斬りかかります。暴れ狂うナウシカを止められる兵士は一人もおらず、身をもって制止に入ったユパによりようやく正気をとりもどします。
 また、怒りにわれを忘れて復讐ふくしゅうにかられるアスベルや、腐海に不時着するのを怖れてわれを忘れてあわてふためく城オジたちや、腐海や蟲たちに恐怖し激情するクシャナを、ナウシカが身をもって制止するシーンがつづきます。
 あなたは何をそんなにおびえているの? まるで。
 ナウシカとキツネリスのテトが出会うシーンも、怖れに総毛立ち、手のひらにかみつくテトを、ナウシカがそっとなだめるところからはじまります。

 スナフキンはなんとなくテロリストみたいなにおいがする、といったら、原作者のトーベ・ヤンソンから怒られるでしょうか。それとも大口をあけて笑いとばしてくれるでしょうか。どんな権力者にも従わない、だれにも拘束こうそくされない自由人。「○○禁止」のような立て札を見たとたんに激情して暴れ狂う。得体えたいの知れないニョロニョロの種をあちこちにばらまく。

 ある夏の日の夕暮れ。学校の自治会主催の納涼会でもあったのでしょうか。校舎の中庭で花火を楽しむ学生たちがいました。あたりには花火の後のけむりと硝煙のにおいが立ちこめている。「花火のけむりのにおいっていいですよね」と、となりにいた先輩にはなしかけると、先輩は、
「うわ、なんか危ない……」
とひとこと。しばしその意味がわかりませんでしたが、どうやらぼくのつねひごろの人となりやら言動と、火薬のにおいが好きという発言が絶妙なニュアンスで聞こえたらしい。花火のけむりのにおいをかぐと、そのときのことを思い出します。

 死んだら罪はなくなるのか。
 ぼくはそうは思いません。死のうが釈放されようが、そのひとがやったことは未来永劫そのひとのやったことです。100年たとうが1000年たとうが変わらない。解釈は変わっても、やったことはかえられない。未来永劫さばかれつづける。未来永劫語り伝えられる。生前の罪やおこないをひっくるめたうえで、肉親は肉親として手を合わせる。祖霊。あらみたま、にぎみたま。荒ぶる神。現ぶる神。タタリ神。怨霊。ぼくも、たたけばほこりの出てくるまっとうな人間のひとりです。周囲のいろんなひとたちに迷惑をかけたり、いつのまにか不快にさせながら生きているのだろう。かろうじて今まで犯罪者になったこともなければ、投身したり練炭を買うこともなかった。けれども、デビルマンにならないなんてことは残念ながら言えない。首をくくらないなんてことも残念ながら言えない。
 犯罪者にならずにこれたのも自殺しなくてすんだのも、さいわいではあるけれども、そのさいわいはこれからもぼくを助けてくれるかというと、はなはだ心もとない。知や理では説明つかない。説得もできない。救済もできない。改心もできない。

 腹切りHarakiriと、神風Kamikaze
 日本文化を表現することばとして、ワビ・サビ、ヒロシマ・ナガサキと同様に、ハラキリとカミカゼがしばしばあげられます。(日本人として心苦しいけれども)それほどインパクトがある。世界のひとはそんな古めかしい言葉にいまなお日本人を見、また国内外ともにその言葉にひきずられています。現代の日本人がそのことを自覚してるか無頓着かにかかわらず。腹切り=ジャパニーズ・スプラッター。神風=ジャパニーズ・テロル。残念ながら宗教ができることは多くありません。むしろ、あらそいの種をばらまいていることも少なくありません。

 犯罪行動の原因としてしばしば脳機能障害があげられます。“異常行動”をひきおこすのは、先天もしくは後天的な脳の部分的疾患であると。しかしそれだけではすべての犯罪を説明できません。犯罪行動の原因が脳にあるとして、その部分的疾患を排除すれば“異常行動”をふせぐことができるかもしれません。けれどもその代償として、人間らしささえも失うことになります。
 異常行動や非理性的(=感情的)な行動もまた人間らしさだといえます。知性や理性は人間らしさの主要部分ではあるけれども、それだけでは残念ながら“異常行動”や感情的な行動を抑制することはできません。怒りにわれを忘れて暴走するものを言葉や理性で抑制できるかといえば、それはきわめて難しい。残念ながら激情しているひとに向かって説得をこころみても、かならずうまくいくとはかぎりません。人間は人間らしくあるかぎり動物だからです。
 犯罪者やテロリストと、ぼくたちのちがいは何なのか。生物的にはそれほどちがいはないと心がまえしておいたほうが無難かもしれません。

 感情的行動が犯罪をひきおこすとするならば、すべての人が犯罪者予備群とも言えます。脳機能の障害や欠陥けっかんが犯罪の原因だとするならば、すべての人の脳を矯正きょうせいするか、すべての人の行動を拘束するか、相互監視するかしなければ安心できないことになってしまいます。犯罪のすべてを感情や非理性に原因づけするのは賛成しかねます。一部の犯罪はそれで説明できるかもしれませんが、いわゆる知能犯や計画的な犯罪を説明できないし抑止できないからです。

 家庭環境やしつけ、個人的おいたち・履歴に原因を求めようとするこころみもしばしばなされます。家庭環境やおいたちが“異常”だから異常な犯罪をおこしたとする。家庭環境にかぎらず、学校・職場・地域など社会環境や都市環境は、たしかに犯罪誘発のおこしやすさやおこしにくさと関わりあるでしょう。つながりの強弱が犯罪を誘発することもありえます。つながりが希薄でも誘発しやすいし、強固な間柄のばあいにも別種の火種をかかえやすい。犯罪の動機や理由づけをぼくたちはややもすると、犯罪者個人の資質や特性や周囲の“異常環境”のせいにしたがるし、そういう理由づけがないと安心できない。安心するためには、犯罪者個人を特定し隔離するか排除するか“異常な家庭”を探し出して非難バッシングするか、といった社会的制裁にたよることになります。

 異常なのは、脳なのか、個人なのか、家庭なのか。それとも現代社会そのものなのか、人類そのものなのか、生物そのものなのか。それとも異常なのは、わたしなのか。わたしは犯されているのか。それとも、犯しているのか。
 現代社会、とりわけわたしたち日本人社会の特異性・異常性というものが仮にあるとして、そのばあい特異性・異常性といえるものはなんだろうか。仮にそのような特異性も異常性もないのだとするならば、現代日本で起こっているすべての犯罪はわたしたち日本人が原因なのではなくて、日本をとりまく国際社会のせいということになります。もしくは、過去の歴史のせいということになる。
 たしかに外国人の関与する犯罪もあるでしょう。国際化するさいの光と影。けれどもそれだけを現代日本の治安悪化の原因と考えるのは難があります。太平洋戦争から60年。さいわいにも日本は直接戦争に巻きこまれることなくすみました。だけれども。

 ムーミンの世界は、一見ユートピアのようであるいっぽう、たびたび自然災害に襲われたり彗星の危機に混乱します。学校がないかわりに、ムーミンの世界そのものが学校や教室の隠喩メタファーにも見えます。しばしば小説や映画などフィクションのなかでは、学校を舞台にあらそいが描かれたり、生徒同士があらそったり、生徒と教師があらそったり、生徒と家族が対立したり、大人や現実社会との対立というテーマなどがくりかえし形を変えて語られます。ベトナム戦争の比喩であったり、学生紛争の比喩であったり、冷戦構造の比喩であったり、公害問題・環境問題の比喩であったり、太平洋戦争の比喩であったりしながら。

 「日本政府も中国政府も靖国参拝を政争の具にしているのではないか」「靖国参拝を政争の具にすることは、二重の意味で戦争犯罪者をスケープゴートにすることになるのではないか」と田原総一朗さんが述べていましたが、ぼくもその意見に賛成です。「靖国の件をゆずれば、つぎには教科書問題が、そのつぎには領海問題が、つぎには台湾問題が、戦争賠償問題が……と譲歩を迫られることになる」と細田さんだったかが述べてましたが、それも本音だと思います。領海問題で衝突するよりも……という意識があるのだと思う。カードゲームはいかに持ち札を大きいと相手に信じこませるかのかけひき。だからこぞってカードを大きく見せようとないそでをふる。報道メディアは報道の使命に忠実であればあるほど、そのつまらないカードゲームに加担し貢献することになる。そういうゲームにばかりひきこもってると、想定外のできごとに足元をゆさぶられかねません。清河は忘れたころにやってくる。スナフキンは忘れたころにやってくる。
 また、さくらんぼどろぼうの季節がやってきました。



2005.4.20 岡本敏子没。
2005.6.8 サッカーW杯日本出場決める、対北朝鮮 2:0
 タイムアウト直前のレッドカード。安英学(アンヨンハ)再び制止に入る。
2005.6.13 民間家屋に落氷。

2005.6.14
しだひろし/PoorBook G3'99
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2005年06月13日

 京都のバーで

その頃ネルソンマンデラという南アフリカの政治家(今)が、アパルトヘイト政策の下
はじめて、外遊(というべきか)する際に、政府というよりも、日本のアパルトヘイトに
大して反対運動をしていた団体が集まって歓迎イベントをしようという事になり、
当時イベント屋さん(その前は環境問題の国際会議だった)だった私は、日々
大阪の天王寺から京都九条山まで(当時は路面電車!)通勤していたのでした。

と、まぁ、むかしの事はさておき、なんでコレが音楽なの?と思うでしょう。

最近頭の中を美空ひばりさんのジャズが流れまくってます。
京都にあるバーで、仕事帰りに初めて飲んだビール(それまで下戸)そして
初めて聞いたレコードの若いひばりさんのジャズスタンダードナンバーに
驚き、そしてジャズというよりも音として、とても素敵だったなぁと思うのです。

その後、色々なジャズミュージシャンがたちよる小さなそのジャズバーは
私にとっては、単なるおっちゃんやん、っていうのが、実はすんごい人とか
そういう場所でびびびびっくり。という経験だったのです。
アートアンサンブルシカゴのレコードをききながら隣に演奏家がいたり
(知らないまま)これ好き!!!!と、喜ぶ私。にんまりわらう髭のマスター
後から、となりにいた人やでと教えるいぢわるな友人。

赤面ものですが、そうして、京都の深い夜のことを思い出したのでした。

美空ひばりさんの17回忌番組が多い今日この頃ですね。

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2005年06月12日

 『本とコンピュータ』終刊

本とコンピュータ本とコンピュータ』がついに終刊となった。

青空文庫が走りだしたのが1997年夏から秋口で、『本とコンピュータ』の第1期1号が刊行されたのが1997年夏だから、まったく同じ時間を一緒に歩んだことになる。だから、この終刊の報せは、青空文庫にも一つの区切りが訪れていることを、それとなく知らせてくれているような気がしてしまう。

『本とコンピュータ』がはじまったころは、編集部内に知り合いがいることから、いろいろと青空文庫を積極的に紹介をしてもらってはいた。しかし、もっとその紙上で、岩波書店や筑摩書房などの出版社と、著作権についてや権利の切れた作品の共有化などについて、もっとオープンな議論ができたら良かったんじゃないかと今になっては思う。将来に向けてどのようにして行けばいいのか、もっと前向きな意見が提唱できればなお良かったかな、とは思う。

とはいえ、編集部のみなさん、ごくろうさまでした。

そんな『本とコンピュータ』の終刊号が、青空文庫を読むためのビュワーソフト『Azur』をいま買うと、もれなく先着50名の人に付いてきます。なんだ、結局は告知だ。

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2005年06月01日

 水牛だより6月1日

外に出るときはジーンズをはくことが多いのですが、このところ、帰宅するとすぐに作務衣のズボンにはきかえます。気持ちよく楽なこのズボンはタイの綿の藍染めです。新品のうちは着ていると指が藍に染まります。腰まわりはたっぷりしていて、ユルすぎるほど。この作務衣は、松本の神宮寺にあるNGO組織アクセス21が、タイのチェンマイ郊外にある小さな村のお寺でHIVに感染している女性たちと協同でつくっているものです。春まだ浅いころ訪ねた神宮寺では、住職の高橋卓志さんが何度も洗われてほどよく色落ちして水色になった、見るからに柔らかそうなこの作務衣を着ていて、しばし見とれました。着れば着るほど体になじんで恰好よく見えるのがタイの綿の特徴です。俗人のわたしが住職のように上下をあわせて着てしまうと、信心はないのにカタチだけイカニモという感じになるので、どちらかひとつを着て、ちょっとだけおしゃれに。

「水牛のように」を2005年6月号に更新しました。
今月はにぎやかにお届けします。石田秀実さんがみずから連載をはじめてくださったのはうれしいことです。「「ビレッジにもはやすまない人々」からなる「グローバル・ビレッジ」とは、どのようなビレッジなのだろうか。」気になりますね。

5月に出た本を2冊。
『パレスチナから報告します——占領地の住民となって』(アミラ・ハス著 くぼたのぞみ訳 筑摩書房)
「水牛のように」に訳者のくぼたのぞみさんが書いているように、本のカバーの裏にあるアミラ・ハスの写真は凛々しい。ジャーナリストとしての彼女の姿勢がこの写真にはきちんとあらわれていると思います。
『物のかたちのバラッド』(片岡義男 アメーバブックス)
3年ぶりの片岡さんの小説集。編集を担当して、以前よりは片岡さんの言葉がわかったかなという感じはするものの、やはりヘンな小説です。

おなじみ江村夏樹さんが今月もコンサートをします。
江村夏樹:性質の異なる女たちの間で行なわれた不完全な対話(2005)
6月11日(土)19時から 四ツ谷・コア石響(JR四ッ谷駅下車徒歩7分)で。
予約・お問い合わせは太鼓堂 ティコ・ディコ へ。

20年ぶりくらいに片山令子さんと会う機会がありました。最初に会ったのは吉祥寺での友部正人+カラワンのコンサート。偶然となりの席にすわって、住所を教えあったりしたのでしょう、それからたまに手紙が行ったり来たりのほそぼそとしたつきあいで、2度目に会ったのが20年以上たった最近のことでした。お互いに顔も覚えていないのに、とてもなつかしくうれしかったのは、きっとほそぼそととりかわしてきた言葉のせいですね。

それではまた!(八巻美恵)

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