2005年05月30日

 ジャンル別は便利!

青空文庫をジャンル別にわけてくれませんか?
本をよく知らない人には、利用しにくいと思います。
さらに、利用する人がふえるのではないでしょうか・・



Re :ジャンル別は便利!(しだ)
05年05月29日 19時39分

どなたかNDC表を用意していただけませんか?
富田さん、登録済み+作業中作品の、作品ID・タイトル・作者名のみのデータを用意していただけませんか?



Re :ジャンル別は便利!(Juki)
05年05月29日 20時20分

横入りしてすみません。
青空文庫の全作品の情報については、トップ頁より「総合インデックス」→「全てを表示」を辿っていくと、以下のファイル(CSV形式、圧縮済み)がリンクされている箇所が上にあります。ここでは直接書いてしまいますが。
「公開中の作品」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_person_all.zip
「作業中の作品」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp_person_all.zip
NDC表については、こういう頁がありました。
「図書館員のコンピュータ基礎講座 分類」
http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/classification.html
既に御存じでしたら、ごめんなさい。



Re :ジャンル別は便利!(富田倫生)
05年05月29日 23時35分

しださん、富田です。
【データ】
「登録済み+作業中作品の、作品ID・タイトル・作者名のみ」は、私、簡単に用意できます。
Jukiさんがコメントしてくださった、「公開中の作品」と「作業中の作品」を合わる方法でも、同じものがつくれます。
最新のデータが欲しくなったとき、声をかけてくだされば、新しいものを用意します。
ただ、「作業中の作品」は、最新の着手作品を盛り込んだ形で日々更新されており、これを利用すれば、私に依頼して受け取るという工程を省略できます。
その点を踏まえた上で、私が用意した方が望ましければ、ここでなり、メールでなり、指示して下さい。
【分類番号】
データベースには、「■ 分類番号データ」という項目を用意しています。
どの分類方式によるかを決めて、分類番号のデータを作成すれば、図書カードに記載することができます。
データベースを手直しすれば、必要に応じて、分類索引のようなものも、出力できるでしょう。
ここに書き込む分類番号としては、まずNDCが浮かびますが、実際に進める際には、こうしたことに詳しい人の意見を聞きながら、メーリングリストなりで相談し、作業方針を決めることが望ましいと思います。
「青空文庫のメタデータを、検索対象に利用する」といった話もあるので、そうした人達とのすり合わせも必要になりそうです。
分類データを、しださんが独自に用意して提供されるということなら、ご自身の判断でどんどん進めていただければ。
ただ、独自に用意するにしても、その先に図書カードへの流用といったことを想定してくださっているのなら、作業方針に関して、話し合っておきませんか。
ご検討、どうぞよろしく。
Jukiさん、コメントをありがとう。


公開中/作業中リスト(著者名 作品ID 作品名のみ)
作業担当者分担表

公開中 あ〜おの作家:しだ、Juki
公開中 か〜この作家:しだ、Juki
公開中 さ〜その作家:しだ、Juki
公開中 た〜との作家:しだ、あすなろ 
公開中 な〜のの作家:しだ、あすなろ
公開中 は〜ほの作家:しだ、あすなろ
公開中 ま〜もの作家:しだ、Juki
公開中 や〜よの作家:しだ、あすなろ
公開中 ら〜ろの作家:しだ、あすなろ
公開中 わ〜 の作家:しだ、あすなろ

作業中 あ〜おの作家:しだ、Juki、あすなろ
作業中 か〜この作家:しだ、あすなろ
作業中 さ〜その作家:しだ、Juki、あすなろ
作業中 た〜との作家:しだ、あすなろ
作業中 な〜のの作家:しだ、あすなろ
作業中 は〜ほの作家:しだ、あすなろ
作業中 ま〜もの作家:しだ、あすなろ
作業中 や〜よの作家:しだ、あすなろ
作業中 ら〜ろの作家:しだ、あすなろ
作業中 わ〜 の作家:しだ、あすなろ

2005.10.26 第一段階入力作業終了! Jukiさん、あすなろさん、ごくろうさまでした!

入力サンプル
分類番号データ,著者名,作品ID,作品名
911,青木 栄瞳,900,野性のセロリ
953,秋田 滋,43651,狂女
953,秋田 滋,43652,墓
760,秋野 平,700,ロック、70年代—復刻CDに時代を聴く
913,芥川 竜之介,16,秋
911,芥川 竜之介,178,芥川竜之介歌集
913,芥川 竜之介,43014,アグニの神


※項目と項目のあいだは「tab(タブ)」を入力します。
※カンマ区切り形式にしました。
※『野性のセロリ』は、内容がわからないのでナンバリングしません。
※『芥川竜之介歌集』は、日本文学の詩歌なので芥川 竜之介の前に「911」とナンバリングします。
※5月の初期のコメントに「変則的に3次区分と2次区分(三桁と二桁)を併用」との記録が残っていますが、その後ほどなく、おおむね3次区分(三桁)で分類を進めることができましたのでご留意ください。下記データをご覧いただくとわかると思います。

日本十進分類法(NDC)9版 3次区分 http://www.siesta.co.jp/aozora/archives/shida/2005-05-30/NDC.html

html形式にしてみます。
公開中リスト(更新:2005.10.30)
http://www.siesta.co.jp/aozora/archives/shida/2005-05-30/list_person.html

作業中リスト(更新:2005.10.26)
http://www.siesta.co.jp/aozora/archives/shida/2005-05-30/list_inp_person.html



公開:2005.5.30
更新:2005.11.28
しだひろし/PoorBook G3'99
「みずたまり」「図書館員のコンピュータ基礎講座」より無断転載。

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2005年05月22日

 清河八郎と陽明学

幕末維新 踊る出羽三山

 ビンラディン、フセイン、ヒトラー、ゲッペルス、レーニン、東条英機、平 将門、足利尊氏、大塩平八郎、天草四郎、麻原彰晃……

 反逆者・テロリスト・革命家・独裁者。どれが清河八郎に近いだろうと考えてみました。というよりも、10年前に地下鉄サリン事件がおきて4年前に9.11同時多発テロがおこって、がぜん清河八郎をかえりみたい気分が起きたというほうが正しいです。人類の歴史が進歩してるなんてとうてい思えません。進化なんて言葉、おこがましくて使う気になれない。

 治安をみだし社会を混乱と恐怖におとしいれたという点では、麻原彰晃もビンラディンも清河八郎も共通します。単独犯行でなく、同士を集め組織を作ってやらせたという点でも共通します。活動の先頭に立って資金繰りを工面している点でも三者は共通しています。厭世えんせい的・自棄的でありながら、極度に社会の注目を意識している点でも似かよっているかもしれない。現体制への批判を暴力行為・破壊行為・テロ行為というかたちでしか表現できなかったあわれな点も共通する。

 ちがいももちろんあります。宗教活動をともなっている点でビンラディンと麻原彰晃は共通しますが、清河八郎には宗教的な面はみられません。ビンラディンと八郎は攘夷思想という点で似かよっていますが、麻原彰晃には攘夷という要素はありません。無差別傾向が高いのは、地下鉄サリン、同時多発テロ、異人襲撃の順になると思います。活動をくわだてながらも直接の関与を避けている点でビンラディンと麻原彰晃は似ていますが、清河八郎はひんぱんにみずから渦中にとびこんでいます。ビンラディンはテロ行為そのものは綿密で具体的であったけれども、その後のビジョンをまったく持っていなかった。麻原彰晃もサリン製造という手のこんだことをやっているけれども、サリン事件後になにかをたくらんでいたようには思えない。その点、八郎はファシスティックながらも先々に目的があって、テロ行為はそのための前儀だったと見受けられる。

 清河八郎には宗教的な背景がみられないものの、強いイデオロギーを感じます。八郎の出身地は羽黒山の目と鼻の先です。関所番であり豪商であった八郎の生家は、羽黒をめざす旅客がしばしば立ち寄りました。一般の宿屋ではなくて、身分の高い者にかぎってもてなしていた。羽黒入りする前日に一泊したり、逆に羽黒を出立して最初に宿泊するのが八郎の家でした。つまり羽黒山と浅からぬつながりを持っていたと考えられます。したがってなんらかの影響を受けていてもふしぎではないのですが、八郎自身の記述や言動から仏教や神道や修験道の影響を受けた様子は、いまのところ見つけられません。しいて八郎の思想をあげれば、学問としての儒教ということになります。

 徳川幕府は官学として儒学、とりわけ朱子学を採用しました。各地の藩校でも朱子学を学ばせた。道徳や規律・秩序・礼節を重んじ武士中心の封建体制を維持するのに好都合な思想。しかし、そういう朱子学の現状維持・保守肯定にとどまる姿勢に反発・批判する考え方が朱子学内部から出現します。当時、庄内では徂徠そらい学を藩学として採用していました。「小なる道徳を捨てても大なる経世済民けいせいさいみん(国を治め民を救う)の学でなくてはならない」とし、朱子学を批判した。八郎はこの経世済民を学んだという。そして江戸で開塾するさい、看板には「経学けいがく文章もんじょう・書・剣指南」とかかげた。経学とは孔子の教えを研究する学問、つまり儒学とほぼ同義。八郎に肩書きをつけるとするならば儒学者ということになります。

 当時、朱子学を批判していたものに、徂徠学のほか陽明学もありました。どちらかというと徂徠学は復古的・懐古的傾向があったのに対して、いっぽうの陽明学は革新的・異端的だった。朱子学が理を重んじ修養をみがく学問であったとすれば、徂徠学と陽明学は、いずれも現状を批判し社会の矛盾を改革しようとする能動的な学問だった。行動がともなってこその知や理なのだと説いた。おおざっぱすぎますが、ぼくはそう解釈しています。そこから変革や改革を求める過激な傾向があらわれるようになる。幕府に危険視されながらも、幕末の志士が陽明学の影響を受けていく。大塩平八郎・佐久間象山・吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・河井継之助。陽明学についてぼくが読んだのは司馬さんの小説『峠』のみです。陽明学とは異端の学問であって、影響を受けた志士の数はきわめて少数に限られる。そんなふうにいままで理解してました。ただあらためて考えると、過激で反社会的な思想や行為を容認するイデオロギーが、かなり社会のなかに蔓延まんえんしていたという気がする。時代の狂気。そういうイデオロギーなしで異常な思想や行動だけが頻繁にくりかえされるというのもむずかしい。藤沢周平さんが書いていたように、当時の志士は清河八郎だけに限らず、きそいあって策略をめぐらし過激な行為に走った。

 天誅てんちゅう・尊皇攘夷というかたちで火をつけたのも、そのあと開国というかたちでそれを制御・転換したのもじつは陽明学だったのではないか、すべては陽明学に始まって陽明学に終わったのではないかと、ふと考えてみました。想像以上に当時、陽明学は流布していたのではないかと。しかし、すべての原因を陽明学に求めるのもまた無理があるように思えます。むしろ朱子学を批判する声がさまざまなところからわき上がり、呼応し、混淆こんこうしたと考えられる。さらに、批判されたのは朱子学だけではなかった。当時勢力をほこっていた思想は朱子学以外にもありました。陽明学はそれを牽制けんせいするために神道に近づきます。神儒一致。強大な仏教勢力にあがなうために。

 清河八郎と陽明学。
 『松岡正剛の千夜千冊「伝習録」王陽明』によれば、陽明学という名称は明治・大正に入ってから定着する呼び名で、当時は王学とか余姚之学といったらしい。高野 澄『清河八郎の明治維新』をためしに読んでみましたが、清河八郎と陽明学を直接むすびつける記述は見つかりませんでした。それでも八郎が儒学者だったことを考えれば、陽明学と呼応することは時間の問題だったように思えます。

 八郎は吉田松陰と同い年。二人とも江戸の安積艮斎あさかごんさいのもとで朱子学を学びます。そのあと松陰は佐久間象山に洋学を学び、かたや八郎は最高学府昌平黌しょうへいこうに落胆して塾を開く。
 21歳のとき、八郎は京都にて陽明学者の梁川星巌やながわせいがんに出会っています。ただしこのときは、高齢と病を理由に弟子入りを断られます。27才のとき仙台で伊牟田尚平いむたしょうへいと出会い、翌年、山岡鉄太郎と出会う。桜田門外の変のときが31才。その後、伊牟田を介して田中河内介かわちのすけ・山田親彦ちかひこ真木和泉まきいずみと出会います。河内介は明治天皇養育の御用掛、山田は伊勢神宮の御師、真木は筑後久留米の水天宮祠官。1863年初春、幕府公認の浪士組235名を組織して上洛するが、急遽きゅうきょ江戸へとって返す。そして4月、横浜襲撃の直前に上山藩士・金子与三郎宅へ出向いて自分の著述をあずける。金子与三郎も陽明学者。その帰路、八郎は酩酊めいていしたところを暗殺される。享年34。

 小山松おやまつ勝一郎は『清河八郎』(新人物往来社1979.2.)のなかで、権道けんどうという語を使って八郎を説明しています。手段としては道からはずれるが、結果からみて道にあっている行き方。目的を達成するためにとる臨機応変の処置、方便の意味。かなりヤバい。つごうがよすぎます。取りようによっては排他性や利己主義をも肯定することになる。知謀策略のすすめ。
 あらためて八郎の生涯をざっとながめてみると、20代後半まで学問ひとすじのように見えます。学問としての儒学を追究していた。過激な活動に傾倒していき策略の士に変貌するのは30才前後。口がたつうえ不遜なふるまいが悪印象をあたえたようだが、それだけ学問に真摯しんしであり実直であったとも受け取れる。老獪ろうかいないやらしさはない。弟・熊三郎や妻・お蓮がかたわらにいたし郷土の両親の理解もあったから、かならずしも孤独ではない。師とのめぐりあい、同郷の藩士との交流があれば違う展開はおおいにありえた。庄内という土地からも突出していたし、日本全体の藩士・浪士を見渡しても異色だった。突出していたし異色だったけれども、狂気や異常性を感じるほどではない。私怨というものも感じない。むしろ冷静沈着。おちついていてやることが策士的で過激だったから、いっそう怖い。
 ちょっと気になったことがあります。浪士組を組織しておきながら江戸へもどったところまではいいとして、次に計画したことが横浜の異人館襲撃というのは……攘夷ということで貫いているのかもしれないけれど、なんか見劣りする気がします。せっかく浪士組を組織しておきながら。ほんとうにそんなことをしたくて浪士を集めたのだろうか。それほどまでせっぱ詰まっていたということなのか。

 ところで、伊牟田尚平は薩摩給黎きいれ郡出身で八郎の2才年下。蘭学医師。ヒュースケン殺害に関与し、そののち八郎を京都や九州の勤王家たちと顔合わせさせる。フットワークが妙に軽い。維新の直前によくわからない死に方をします。父親が山伏。
 八郎の父、斎藤治兵衛ちべえ雷山らいざん)は明治4年に62才で没します。弟・熊三郎は明治23年まで生きている。
 最後に。八郎の羽織の紋について。易経・八卦はっけのなかの、震為雷しんいらいを八郎みずからアレンジしたもの。しんは長男とし、雷とし、奮動とする。雷鳴がくると人は驚き恐れるが、おこないにあやまちがあって、天が怒っているのではないかと反省し身をつつしみ修めるので、結局は福を得られて安定するから笑いも浮かぶ。誠敬のみが震の時に対処する道であるという意(『運勢大事典』より)。八郎は母・亀代の実家・鶴岡で生まれましたが、そのおり(辰の刻)雷が激しく鳴りひびいていた。それにちなんだという。

参考文献:
『清河八郎の明治維新』高野 澄 NHKブックス2004.3.
『清河八郎グラフィティ』山形県立川町役場 平成9.1.
『松岡正剛の千夜千冊「伝習録」王陽明』web
『日本歴史大事典』河出書房新社



2005.5.22
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。


幕末維新 踊る出羽三山

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2005年05月18日

 18代目勘三郎襲名披露公演 夜の部

今年3月から始まった、襲名公演も最後の1ヶ月となり、最後の演目が「野田版 研辰の討たれ」だった。夜の部は、「義経千本桜」からはじまり、玉三郎の今までにない「鷺娘」、そして、芝居の神様が憑いているかのような、野田の「研辰」である。

どうしても見たいと思い、発売日こっそり職場をトイレに行くフリをして抜け出し、電話をかけまくったが、つながらない。(派遣社員としてはやっちゃだめーなんですが)で、母親にも電話してお願いっ。と頼んでおいたところ、いいわよ頼んであげるわよと、なんかのツテでチケットが手元に届いた。

というわけで、無事今日休暇を頂いて(派遣契約中なのに事前に了解とれれば休めるそうな)、ちょうど仕事がひと区切りついた彼と二人、銀ブラ&歌舞伎デートと相成りました。
襲名公演の最後の月でもあって、またおめでたネタなども噴出してか、アドリブもあったりにぎやかな素敵な芝居でした。

感想は、翡翠との対談方式でお伝えいたします。これからみるよって人はみないでねー。

鷺娘

らん:今日の鷺娘って、玉三郎からの勘三郎お祝いバージョンだよね?

翡翠:うん、他の鷺娘とはちょっと違うよね。すごいいいよね。

らん:いままでのって、鷺娘(人魚姫みたいな話)恋こがれるのですが満たせず、命も果てていくというところで、はかなげだけどね。

翡翠:今日のは、20分の舞踊なのにすごく世界が広い、雪の音(歌舞伎では太鼓で表現)がテクノっぽい抑揚を抑えた演奏で、パッションに溢れた踊りとの対比に新しさを感じたよ。ある意味非常に西洋的、モダンな表現で、それが、勘三郎への玉三郎なりの挑戦でもあり、応援するよという気持ちなんじゃない?

らん:それは気づかなかった、はや着替え? ばっかりが主眼にみられがちだけど、それよりも袖をふる恋こがれる表現の鷺が、ひとの姿になり、傘という小道具だけでひとつの恋愛が終わる世界を描いてて、めっちゃすき。最後息絶えるんだけど、後悔はしてないよという気持ちも新しい表現を感じたなぁ。

野田版「研辰の討たれ」

らん:これって、初演は、平成13年8月で、私は1回目も今回も見てるんだけど、この時に夏の暑いのに朝6時から夜7時から始まる芝居の幕見に並んでいる人がいて一種異様にも思ったなぁ。

翡翠:これってさ、9・11の前? だよね? あだ討ちされるきっかけのからくりしかけが、鳥がぶつかって、建物に仕掛けをして結果、人を死なせる=「9・11の飛行機突撃して人を死なせる」前じゃないとあのしかけ自主規制で、できないよね?

らん:あ、そうだねぇ。野田秀樹ってオイルもそうだけど書く芝居があとから世情がついてくるんよ。だってこの本書いてるときはないんだもん。憑依してるんだよ、芝居の神様がさ。

翡翠:初演と違う?

らん:うん、違うところがちらほら、で、細かいことは抜くけどやっぱり、群集心理の描き方とか(中国の反日運動)とか、やっぱり世情とリンクしてる。作ってる時はそんな事予測してないだろうけどね。でも、どの視点でこの芝居を見るかで感想は人それぞれかもね。私は、ラストシーンは泣きっぱなしだった(私は、ずっと勘三郎の役視点だったから)芝居の再演って、いつも初演の方がよいと思うことがおおいけど、今回はこっちが断然いい。

翡翠:たとえは失礼かもしれないが、大ごとになるとは考えてない=研辰=ビンラディンと、建前で、殺されたことにして、大儀名分のあだ討ちを息子たちに嗾ける(アメリカ他)がリンクするよね。そして、フランスやら周りの国が日本も含めて群集だよね。

らん:最後の橋之助のお坊さんがういちゃうなぁ。そうすると。

翡翠:意味を無理にこじつけるとすれば、宗教は結局無力だなということかな。
〔終了〕

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2005年05月14日

 「脇役本」という本

人様から借りた本について書くというのも妙な話だが・・・。
 先日agさんのサイトを拝見していたら、「脇役本」という本について彼は書いていらした。
 どうも映画好きには涎がでそうな本らしい。しかし作者さんの私家本なので販売はしていないのだそうだ。それでagさんにお願いして送って頂いた。

 確かに涎がでた。そりゃそうだろう・・五社協定が活きていた時代、ヒーローが、ヒロインが、確かにスクリーンの向こうにいた。タレントでも俳優でもなく、スターだった時代である。そのスターを支えた脇役さんたちが書いた本の紹介である。
 本に出てくる(本を出版している)脇役さんといってもいろいろな人がいて、新劇出身の人もいれば、左翼劇団の人もいるし、本職の俳人顔負けの句を作る俳人や、なんと宮沢賢治の研究家もいる。そういう人たちが、役者仲間との交流や映画にまつわる話や自分の生と死を見つめ、本を出しているのだ。出版暦ありの67人を「徳川無声に出会った」を書いた濱田研吾さんが、一人一人丁寧に紹介している。

 私の住んでいるのは地方都市なので、今のように、リアルタイムで映画館で上映されるわけではない。都会より数ヶ月、年遅れというのもあったのではないかと思う。正月映画だけはリアルタイムだったような・・
 私は母のお腹の中から映画を観ていたらしい。物心ついてからも次の日幼稚園が休みなので、土曜日のオールナイトにつれていかれたりした。母の贔屓は、東映映画のチャンバラもので、特に大川橋蔵さんの大ファンだった。
 チャンバラの怖いシーンや残忍なシーンのときは、私はいすの下に隠れていた。しゃがんでじっと嫌なシーンが過ぎていくのを待っていた。せりふだけで判断して、「まだ?」と母に聞くのだが、「まだ」と答えてくれているうちはまだよくて、そのうち母は映画の中の大川橋蔵さんに魂を吸い込まれていくので、私が隠れたことを忘れてしまう。そこで仕方がないので、腰を浮かせていすと前列の椅子の間からそっとみるのだ・・なあんだ。もうこわくないじゃん!と母を責めても母の魂は戻ってこない・・・
 母の魂が戻ってこないことをいいことにして、退屈すると一人、通路に飾ってあるスターの写真を眺め、顔と名前を覚えた。読めない漢字は、顔なじみの売店のおあばちゃんに尋ねる。ほとんど覚えてしまったら、つまらなくなった。
 小学生の頃一時バス通学だったことがある。バス停の近くに東宝の映画館あった。日活の映画館があった。映画館の入り口にずらりと並んだスターの顔写真と名前を覚えることが日課となった・・・どうやらこのころから、しださんがおっしゃる私の脳ミソはフルーツパフェ化し、徐々に育成されたものらしい。
 さすがに小学校高学年からは母と映画に行くこともなくなった。行くことはなくなったが、観るということをやめたわけではない。中学生のころ、テレビで歌舞伎の中継に夢中になりテレビの画面から目を離さなかった。演じる方にも観る方にも規則があり、それを覚えると東映の映画のチャンバラとは別の面白いものだと知った。
 夏休みの自由研究の宿題に当時の歌舞伎界の家系図と屋号を書いて提出した覚えがある。先生は、理科でも社会でも国語でもないので対処に困った。
「一応後ろに貼っておきますが・・・誰が見るんだろう・・・・」と先生はつぶやいていた。
 「脇役本」,この一冊でこういったことが全部思い出されたのだ。

 67人全員を書くことは大変なので、数人をピックアップしてみたい。

・滝沢修: 治安維持法で投獄されている間の奥さんとの往復書簡は有名である。実に愛情あふれた方だったようだ。それを子ども目からみた長男滝沢壮一さんの
「名優・滝沢修と激動昭和 」

・薄田研二: 濱田さんが書くようにこの名前を知らないチャンバラファンは、モグリである。そういったこととは別のことで私は薄田研二という名前を知っている。彼の息子さんは高山なんとかという人で、演劇人だった。劇団の名前を忘れたが、映画「無法末の一生」で阪妻の慕う未亡人を演じた園井恵子さんらと地方巡業中広島で被爆し亡くなったのだったと記憶する。

・伊藤雄之助: この人をしらないチャンバラファンもモグリで、それも沼地のモグリである。あごのとがった長い顔、少し垂れ気味の切れ長の目、大きな鼻、薄い唇。悪いことを考えるとその薄い唇がちょっと片方に上がる。
  口うるさい人だったようで、濱田さんも書くように「文句ゆうのすけ」というニックネームをもらっていた。その文句ゆうのすけが、唯一人頭が上がらなかったのは、この本にもでてくる沢村貞子である。沢村貞子ことお貞ちゃんは、伊藤雄之助の家庭教師だった。
余談:黒澤明監督の「生きる」でみせたデカダンスの作家・NHKのドラマ「氷壁」でみせた常盤大作・それまでもっていた伊藤雄之助像みごとに覆してくれたが、あれだけ幅のある役者も稀有だと思う。

・殿山泰司: 銀座「お多幸」というおでんやの息子で、奥さんを二人もっていた人である。つるつるあたまに大きな目。その昔私が行ったあるコンサートでゲストとしてでていた。歌は歌わないが、恥ずかしそうに頭を掻いて言うには、「うちのババアが、このネクタイをしていけっていうもんで・・・」と。若い女性の目から見てもとても可愛い人だった。殿山泰司といえば、「裸の島」。その監督をした新藤兼人が親愛をこめて一冊の本にしている。「三文役者の死—正伝殿山泰司 」

・内田朝雄: 友人の結婚式でお会いしたことがある。黒いスタンドカラーのジャケットにベレー帽だったと思うが被っていらして、それがお似合いになっていた。とても静かにお話をされる方だった。宮沢賢治については、仏教的な面からも考察していらしゃったようで、独特の賢治観をお持ちだった。
「私の宮沢賢治」

まだまだ書きたいが切がないので・・いったん休止

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2005年05月12日

 赤いだんだらと一文字に三つ星

幕末維新 踊る出羽三山

 昨年、大河ドラマ『新選組!』の終盤、洋装の土方の肩に赤いだんだらを見て、ドキッとしてしまいました。▲▲▲……段だら文様。新選組制服の浅黄色のだんだら羽織は芹沢 鴨の発案だという。忠義のかがみ、赤穂浪士の討ち入り装束にならったらしい。隊旗「誠」の文字とならんで新選組を象徴するアイコン。ただし、京の町では野暮ったいとうとましがられた。

 ところが、あの三つの山がならんだ紋様を見たとたん、ぼくは息が止まりました。土方の肩の赤いだんだらが、よく見なれたマークと酷似していたからです。酷似していたことに今ごろ気がついた。どうして今まで気がつかなかったのだろう。山形県の県章とそっくりなのです。

 どうということはないのですが。ほかの人にとって無意味だけれど、ぼくにとってはショックだった。山形県のシンボルは、1963(昭和38)年一般公募から選ばれたそうです。県の山々と最上川をモチーフにしたらしい。山形県と新選組……。直接的なつながりがあるわけではありません。直接的な関係というならばむしろ福島県のほうです。だんだらと山形。新選組と山形。まったく関係がないわけでなく、どちらも幕府側として薩長軍に抵抗したわけですが。それほどまでに山形県人が新選組びいきだという話も聞いたことがありません。新選組・新徴組ともに前身は清河八郎の組織した浪士組であり、そのうち新徴組は庄内藩士らとともに薩長軍と抗戦する。新潟長岡での激戦をかいくぐった桑名藩士も米沢・庄内へと遍戦する。けれども新選組は出羽で戦っていません。あるのは沖田総司の姉・みつが庄内へ来た記録くらいです。

 話は、一文字に三つ星へうつります。
 一文字に三つ星は長州・萩藩、毛利家の家紋です。新選組や庄内藩・奥羽列藩同盟の宿敵です。佐幕側や東国諸藩にとってみれば、若い明治天皇を拉致らちしてニセの錦の御旗をかかげ、こともあろうにずうずうしくも“官軍”を自称する、ゆるされざる賊のやから、クーデター軍・テロリスト集団に見えたはずです。正義はこちらにあり、薩長こそが賊であると。一文字に三つ星は、ゆるされざる・打倒すべきシンボルだった。
 ところがこの一文字に三つ星は、出羽の民衆にとって“長州以外の”もうひとつの記憶を思い起こさせるシンボルでもありました。そちらの一文字に三つ星は、出羽の民衆にとってほこらしさと親近感をかねそなえた象徴でした。おそらく、そうであった。話は頼朝の時代にまでさかのぼります。

 1192年、源 頼朝が鎌倉幕府をひらきます。武家政権のはじまりです。関東武士の悲願だった。平家をたおし、奥州を平定した。そのさい異母弟・義経の追討を口実に、諸国の取締をきびしくとりおこないました。源 頼朝。頼朝が義経に対してどんな感情をいだいていたのか、ぼくにはわかりません。平家を壇ノ浦にほろぼした義経に、頼朝を打つ野望がまったくなかったのか、それもぼくにはわかりません。一般にいわれることですが、頼朝が義経を懐疑し遠ざける要因に、梶原景時の讒言ざんげんがあったといいます。景時は戦場での義経の功績をことごとくおとしめ、逆に武将としての能力を否定する報告をしたという。歪曲わいきょくされた報告をに受けて、頼朝は義経を疎遠するようになったという。

 そのころ頼朝は、源氏の頭領であると同時に、全国を平定できるくらいの圧倒的な武力を保持し、かつ、幕府を開いて政権を運営できる統率とうそつのとれた組織、優れた官僚集団を保持していた。そう考えていいはずです。あるいはそういう集団を具体的に頭に思い描いて、育成していた。頼朝と義経のあいだに、さほど大きな個人的資質の差を感じることはできません。木曽義仲もしかり。差があるとするならば、周囲にそういう集団を持っていたかどうかではないかと。優れた官僚集団は、仮にトップが不在の事態になったとしても動怖どうおじせず業務をとつとつと遂行する能力が求められた。安定した国家運営。その頼朝ひきいるすぐれた官僚集団のトップに、大江広元という人物がいました。

 大江広元おおえひろもと
 母親方が中原姓だったので、(訂正:大江姓は母親方)母の再婚相手の姓をとって中原なかはら広元ともいいます。もともと朝廷の官僚の血筋だったけれども、彼は朝廷をみかぎり頼朝側についた。頼朝が鎌倉幕府をつくれたのはおそらく広元の功績が大きかったと、ぼくは想像しています。いままでたくさんの頼朝や義経をメディアの物語りの中で見てきましたが、大江広元を印象的に描いたものに出会ったことがさほどありません。わずかに竹宮惠子『吾妻鏡』と石ノ森章太郎『日本の歴史』のみです。大江広元という人物、あまりメジャーではありません。地味な役柄だと思います。ただしそれこそ要注意。要注意人物であればあるほど、おもてだったことはさしひかえたはずです。義経は壇ノ浦の戦いののち、鎌倉入りしようとして断られます。そのさい、頼朝に切々と心情をうちあけた腰越状こしごえじょうを送ったことは有名ですけれども、義経がその大切な書状を送ったのが大江広元でした。義経は最後の希望を広元へたくした。

 全国平定し鎌倉幕府ができたのち、広元は褒賞として出羽の寒河江庄さがえのしょう長井庄ながいのしょうをもらいます。寒河江は山形や天童の西部で、中心に慈恩寺じおんじがあり西北端に月山があります。長井は寒河江の南、山形の南東。置賜おきたまの北部、白鷹しらたか山と朝日連峰のはざまです。どちらも最上川流域。隣接しています。広元自身はおとずれていないようですが、代理にしゅうとと自分の息子たちを送り込んでいます。南北朝の後(1300年代後期)、斯波兼頼と伊達宗遠から攻め入れられるまで、それぞれの土地を掌握していました。(要確認)

 この大江家の家紋が一文字に三つ星です。
 寒河江庄のなかに、大江家の血筋をひくという安中坊あんちゅうぼうという屋敷の跡や墓碑があります。真実であれば広元の子孫というわけです。へんぴな田舎だけれど、中央政権とのつながりを連想させるいわくありげな土地というわけです。なぜ広元はこの土地を頼朝からもらったのか。その当時、この土地はどういう意味をもっていたのか。興味はつきませんがそれはまた別の機会にすることにします。今回は一文字に三つ星です。この安中坊、家の出身者がしばしば寒河江慈恩寺の僧侶になった。また、慈恩寺で修行をつんだのち羽黒山の僧侶になった者もいます。代表には、羽黒山の中興の祖ともよばれる天宥てんゆうがいます。彼は徳川初期、天海大僧正の門弟にもなった。

 もうお気づきのかたもいらっしゃると思いますが、長州藩毛利家の血脈をたどってゆくと、こちらもじつは大江広元にたどりつきます。毛利元就も大江広元の子孫です。つまり、寒河江庄の安中坊も長州藩の毛利家も、元をたどるとひとつになるわけです。現代のぼくが知っているくらいなのだから、幕末の民衆たちも当然知っていても不思議でないと思う。となると、この付近の民衆にとって一文字に三つ星の持つ意味は、かなり複雑なことになってきます。かつて頼朝につかえ鎌倉幕府を築いた始祖を持つ子孫たちが、かたや徳川の外様となり、かたや出羽の寺院の僧侶となったことになる。出羽における戊辰戦争は、同族どうしのあらそいということになる。長州人の傾向として、頭脳明晰・論理的・議論好きということがよくいわれますが、同じ根っこをもつ者が出羽三山の僧侶にいることになる。

 みなさん、知らない人と血縁者には気をつけましょう。

 と、ここで2つほどお知らせです。
 4月26日付『山形新聞』によると、米沢の高国寺に近藤 勇の頭部が埋葬されていた(!?)という、クエスチョンマークつきの記事が載っていました。勇のいとこがさらし首をここまで持ってきたのだという。ちょっとにわかには信じがたいのですが。でも、だまされたと思って想像力をたくましくしてみるのもいいかもしれません。

 もうひとつ。同じく『山形新聞』(5月9日付)によると、なんと佐藤賢一さんが「近い将来、地元庄内を舞台に、戊辰戦争を題材にした小説を執筆する計画がある」とのことです。もうこれは。歓迎すべきブッキングです(^^)。うれしいですね。そもそもこの地域には、長い歴史と多様な文化形態が折り重なっていて、まだまだわからないことだらけです。研究者や郷土史家など優れた方がいままでもたくさんいらっしゃいました。そのおかげで、しだいに明確になってはいますが、現代へ伝える語り部がもっと出てきてほしいと願っていました。同じ時代の同じ舞台を題材にしても、いろんな語られかたが試されていいはずです。現代の社会・世界に語り伝えるに足るものがこの出羽(三山)や庄内にあるのだから。断言できます。いやもう、佐藤さんにさきがけて語っちゃいました。あと4、5人くらい本気で語っちゃってほしいところです。そうすると、かなり全体的に鍛えられて深まってくると思う。ひとりや二人くらいじゃとうてい手に負えないひろがりようなのだから。がぜん、もえてきました(^^)。

2005.5.8 出羽三山 開山1400年祭



2005.5.12
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。


幕末維新 踊る出羽三山

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2005年05月06日

 阿修羅城の瞳

初演の舞台が一番よいっ、映画と舞台は別物という気持ちもありますが
中途半端な、CG処理にちょっと幻滅、ストーリーをしっていても
やっぱり涙もろいので、ないちゃったりして。

宮沢りえさんはきれいでした。ま、そういうことです。

市川染五郎のプロモーションムービー?ってな感じです。

本来のストーリの重要な配役が壊れているし、邪空が(渡部篤郎)うすっぺらすぎ
どうして、彼がああなるのか、その背景を描く必要があり、宮沢りえさんとの
からみ(えろえろしーんもどき)よりも重要なのです。
そのあたりは、以前2人がやった邪空役と渡部篤郎さんが比べられない。
世界が違うっでしょう。

前売りでもらった手鏡を買ったとおもってあきらめした。
上演終了したので、書きました。

渡部篤郎さんのお名前を間違って記載していました。コメントにてご指摘いただき
ありがとうございます。(反省と感謝を込めて)

らんむろ(追記:5・8夜)

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2005年05月04日

 三島通庸と耶蘇ヤソ

幕末維新 踊る出羽三山

 いきなり核心に入ります。
 出羽三山の明治維新、神仏分離や廃仏毀釈のことを物語るなかで欠くことのできない人物が二人います。一人が西川須賀雄にしかわすがお。そしてもう一人が三島通庸みしまみちつねです。西川は佐賀出身で初代出羽三山神社の宮司になります。三島は鹿児島出身で山形や福島・栃木の県知事をつとめました。二人とも九州男児。二人は中央から山形へ派遣されるエリート官僚です。本社(警視庁)から支店(所轄)へ派遣される柳葉さんやかけいさんの役回りです。低音サックスがベベッベベッ、ベ〜バ〜と鳴り響くなか登場する。

 三島通庸・みしまみちつね。
 1835年生まれ。ぼくが子どものころは「つうよう」と聞かされましたが、最近は「みちつね」の読みのほうをよく目にします。典型的な九州男児で、これと思ったらとことんやり通す、山のようにどっしりかまえた、信念が強く一筋縄でいかない男。そんなイメージがあります。橋を作ったり道路を整備したことから「土木県令」ともいわれ、また、その手腕や性格から「鬼県令」と異名のある人物です。山形県民ならだれでも知っている人物です。1874年、酒田県令となって赴任して以来、地方行政官として転々し、後に警視総監となります。現在の山形県の基礎を築いた人物として県内では比較的評価する声のほうが勝っています。それまで峠道だったところに積極的に隧道トンネルを掘って、交通と流通を革新した。サクランボやリンゴなど果樹の栽培をすすめたのも彼だったらしい。

 しかし、全国的にというと彼はさほど知られていないと思います。当時薩摩出身といえば筆頭に西郷や大久保があがります。三島は彼らの弟分ということになります。また、山形県内での評価とは一転、つぎの赴任地である福島県では当時の自由党を弾圧したことで悪評のほうが高い。かつて、三島をテーマとした芳賀 徹さんの講演会を聞いたことがあります。そのとき芳賀さんは、三島が山形へ赴任するいきさつについて「大久保利通の強い信任を得て託された」とされるいっぽうで「直前になにかヘマをしたか、あるいは中央へ置いておくのをよしとされずに左遷されたことは考えられないだろうか」という含みのある発言をしていました。

 いろんな切り口ができるはずですが、ぼくは、つぎの三つのことを三島の人物像に重ねてみたいと考えています。三島家は代々、藩のつつみ打ちを勤めてきたといいます。長男だった通庸みちつねは幼いころから鼓打ちの練習にはげんだ。それから二つめは通庸が19歳のとき。弟がたわいもないケンカが原因で同年代の少年を殺め、その責を負って自害しなければいけないという事件がありました。それから三つめは、通庸は同郷出身の妻・和歌とのあいだに五男七女をもうけました。29才で婚礼をあげ54才で没しています。鬼県令・土木県令。どちらかというと堅物のイメージがありますが、そういう彼の人間性・人間観・人生観にそれらのことをオーバーラップさせてみたい。

 当時、薩摩は全国に先立って廃仏毀釈が盛んだったという。
 戊辰戦争後、三島はまず都之城みやこのじょう(宮崎)におもむきます。そののち東京府に出仕する。銀座の赤煉瓦通り整備にかかわったともいう。それから教部省に勤務します。酒田赴任の二年前です。教部省。復古神道の徹底や神仏分離令など明治初期の宗教政策を全国に指揮した省庁です。三島は教部省大丞に任じられる。……ところが、その教部省時代の三島のことをくわしく述べている資料がなかなか見つかりません。ほんの数行でかたづけられているものばかりです。

 戸川安章とがわあんしょう『羽黒山二百話』という本のなかに、三島通庸が羽黒山へおとずれて当時の別当・官田と面会する話がでてきます。ただし、官田という人物は1872年に亡くなっています。三島が酒田県令になるのは1874年です。ということは、三島は酒田県令になる以前に(教部省大丞として)羽黒へ出向いたことになります。これを裏付ける資料がないものかと思い『山形県史』など読んでいるのですが、そのような記録は見あたりません。わずかに当地の古老の話として記録があるのみ。そのかわり国立国会図書館『三島通庸関係文書目録』と山形県県史編纂室『三島通庸文書目録』を見ていておもしろいものを見つけました。

 それによると、明治天皇・皇后にバイブルを奉呈、とあります。また「キリスト教に関する意見書」というつづりのなかに、「欧州を模範とするうえはキリスト教を嫌悪するの念を醸成せしめざること」と書いてあります。くわしい内容や年代はわかりませんが。これは……、一般的には明治初期、旧薩長藩士らが中央官僚の職を独占し、そのさいに耶蘇を牽制けんせいする意味もあって復古神道をすすめたとされています。鎖国を開いて西洋の進んだ技術を取り入れたい。だけれども国内でキリスト教を布教されては困る。秀吉時代や徳川時代をふりかえるまでもなく、キリスト教徒はやっかいだと。ところが、三島のこの記録はそれと矛盾することになります。明治の当初、修験道も廃仏毀釈という迫害をうけましたが、耶蘇(キリスト教)もまた布教を固く禁じられていました。ところが明治6年、大久保や岩倉ら欧米使節団は行く先々で、キリシタン禁制に対してきびしい非難の声をあびます。それを受けて新政府はやむをえず、切支丹禁止の立て札を撤廃し布教活動を黙認することになります。明治の夜明け、耶蘇布教のあけぼのです(*1)。

 通庸と耶蘇ヤソ
 山形時代、三島は積極的に洋風建築を取り入れ、レンガ造りの官庁街を整備します。ドイツの医師ローレッツを迎え入れ、イザベラ・バードを案内し(*2)、アメリカ製の削岩機を購入する。役所出仕のさいの礼装をはかまから洋服にかえさせた(要確認)。そして長男・弥太郎をアメリカ・ペンシルバニアへ留学させている。ごく先年まで尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていたはずなのに。てのひらをかえしたように西洋文化を受け入れはじめています。西洋文化のすぐれていることを頭で納得したとしても、はたしてそう簡単に実践できるものでしょうか。ものめずらしさや好奇心だけで可能だろうか。まわりのひとにあわせて受け入れるのではなく、まわりのひとがまだやらないものを受け入れ、やってみせる……。明治近代化、あけぼのの時代。三島は率先してやってみせている。命令されて、だろうか。意志が強くないとできない。風当たりもきっと強かったにちがいない。

 徐々にではなく、劇的に西洋を取り入れた(*3)。
 三島は自分の使命と思ったかもしれません。旧薩摩藩には異人排斥はいせきの経歴や薩英戦争の経験があったし、復古神道を重んじていました。おそらく三島もその点では他の薩摩藩士と変わらなかったはずです。ややもすると、過激な攘夷の先鋒と見てとられる時代だった。けれども、一度動きはじめた日本の近代化をすすめるためには、西洋文化の取り入れは欠くことができなかった。先進技術の取り入れのためには、異文化との交流が必須だった。そのためには日本国民すべてがキリスト教徒を容認し、受け入れ、まざりあうことが前提だった。日本を訪れる外国人の生命をおびやかすようでは開国・近代化などとうていムリなのだから。

 とすると、通庸にとっての転機はいつどこでだったのだろう。直接の影響はだれだったのだろう。大久保利通だろうか。片方で西洋文化を取り入れ、外国人の保護と受け入れを演出し、もういっぽうで、まだ若年の明治天皇を中心とする政治体制をととのえ、徳川政権に変わりうる権威と権力の構造を急ごしらえした。復古神道、王政復古、絶対天皇君主制の確立。「日本」の自己同一性アイデンティティの確立。

 まるで明治維新の権化のような三島通庸。
 片方の目で耶蘇ヤソを見て、もう片方の目で復古神道を見つめ、足の下には旧佐幕派や反政府運動や既成仏教勢力や修験道や俗信・迷信を踏みつけて。強固な意志を四肢にあらわしながら。慈悲の心を奥底に秘めながら。



*1 耶蘇:キリスト教のこと。切支丹キリシタン(吉利支丹)・基督きとく宗・基督教とも。信長の頃、伴天連バテレンともよばれる。南蛮なんばんはポルトガル・スペイン人の意。紅毛・紅夷はオランダ人の意。

*2 三島本人がイザベラ・バードを案内したわけではないが、山形市街入りしたときに案内人を手配させた。当時できたばかりの官庁街の建築設計者が案内にあたったという。また明治政府は、バードが行く先々に前もって粗相そそうのないよう触れを出して迎えさせた。明治11年のこと。

*3 西洋文化の積極的取り入れを演出するひとつとして、明治天皇にアンパンを献上した事例がある。幕末当時、尊皇思想は攘夷(外国を打つ・排除する)の行動に直結しやすかった。日本がインドや清の二の舞になることをもっとも危惧した。しかしそれでは開国ができない。維新直後、明治政府は早急に東京遷都をすすめたほか、明治天皇ご本人に率先して西洋文化を受け入れてもらえるよう画策した。天皇のパン食という行為は、西洋食文化受容の意味をになっており、また明治の御新政・御一新を内外に印象づける行為となる。

付記¶前回の一揆に関する補足
 『日本大百科全書』(小学館1985.2.)によると、江戸時代、全国で起きた百姓一揆の数はおよそ3200件。また、長井政太郎(編)『出羽百姓一揆録』によると、山形県内で江戸時代起こった主な一揆の数は56件。そのうちわけは、村山23件・最上8件・庄内18件・置賜4件。また形態別には、暴動・打毀26件・強訴・越訴17件、他とある。

付記¶三島通庸に関する補足
 武士出身でありながら算盤そろばんや法規にくわしかったとする文献がある。戊辰戦争時などの華々しい戦歴はなかったものの実務経験を確実に積み重ねたものと思われる。測量の経験もあったかもしれない。当時、算術は商人のするものとみなされ、武士は敬遠する傾向があったというから、三島はまれな部類に入る。
 ただし、武士らしくなかったかというとそうでもない。薩摩藩士同士の斬り合いとなる寺田屋事件に座をつらねている。また、弟と同様、殺傷事件を起こしそうになり、謹慎を申し渡された若い頃の経験がある。



2005.4.16 高田 渡、没
2005.4.17 月山山頂でスキー客凍死
2005.5.4
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。


幕末維新 踊る出羽三山

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2005年05月03日

 海外で青空文庫の工作員をするには

どれほど要望があるかわかりませんが、「海外で青空文庫の工作員を始めたい」という方のために、必要なものを簡単に記しておきます。一部、私の海外での工作員経験も含めておきます。皆さんからのコメントを合わせて、Q&Aに加えられたいいかな、というつもりでまとめておきます。

まず、必要となる環境は、「日本語が使えるコンピュータ」です。マックでもウィンドウズでも構いませんが、日本語を表示、入力できる環境は必須です。マックの場合、海外でOSを購入しても日本語の表示は可能です。コンピュータ本体のキーボードがUSAスタイルになってしまうことは避けられませんが。もちろん、e-mailでも日本語が使えないと困ります。このへんは、青空文庫を海外でご覧になっている方ならば、問題なくクリアしていることでしょう。

次に、最大の問題となる「底本の確保」です。以下、入力と校正に分けてまとめておきます。

<入力編>
 入力の場合は、校正に比べて話が簡単です。著作権が切れている著作者の作業が始まっていない作品の底本をなんらかの形で手に入れられば作業が始められるからです。海外で日本語の本を手に入れるには、新刊書ならば
アマゾン http://www.amazon.co.jp/
紀伊国屋 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/
などのサイトから注文する方法があります。私の経験では、北米大陸の西海岸から紀伊国屋を使って注文して5割増し程度の価格で購入できました。現地で日本語の本を手に入れる際も5割増しが普通でした。ちなみに、送料は送る本の重量で決まってきます。ですので、本のサイズなどによって変ってきますが、いろいろとまとめて購入した時の平均が5割増し、という結果なのです。他にもいろいろと海外発送をしてくれるサイトはあると思います。ほとんどの場合、宅急便の海外発送を利用することになるので、価格の増え方は変らないと思います。
 実際には、底本さえあれば、後は自分の好きなスタイル(ワープロやエディターを使って手入力、スキャナーとOCRソフトを使って入力、など)で入力作業は可能です。エディターは、海外でもダウンロード販売で購入できました。日本語OCRソフトは、ダウンロードでは手に入らなかったので、日本で購入しました。

<校正編>
 校正の場合、問題になるのは入力に使用した底本と同一の底本を入手することが困難なことが多いということです。まず、一度刊行されてもすぐに絶版になってしまってアマゾン、紀伊国屋などの新刊書店では取り扱ってくれない本が多く、そのような本を底本にして入力されていることが多いのです。そして、日本の図書館ならば簡単に手に入るような全集ものを底本にしている時にも、そのような全集は手に入りにくく、また手に入るとしてもあまりにも高額であることが問題となります。絶版になってしまった本に関しては古本屋を利用することになりますが、古本屋さんはあまり海外発送を取り扱っていません。また、送料が異常に高くつくので(私の経験では、全集モノを買ったら送料の方が高くなりました)、あまりおすすめ出来ません。古本屋さんによると、「日本で購入して、持ってゆけるギリギリまで手荷物で持ってゆくのがベスト」とのことですので、日本に帰った時に図書館でいろいろとコピーを取るとか、古本を大量に購入するのがいいようです。
 青空文庫の校正待ちリストの中で、比較的入手しやすい本と言えば、「日本の名随筆」のシリーズです。正篇100巻、別巻100巻、花の名随筆12巻、全て紀伊国屋などで購入できます。あまり重くもないので、送料もあまりかからず、校正に使った後は他の収録作品を楽しむことも出来ます。海外で青空文庫の校正を始めた時には、片っ端から「日本の名随筆」作品を担当していました。

ということで、海外で青空文庫、は不可能ではないけれど、ちょっと大変といったところでしょうか。また何か思いついたら、コメントに追加しておきます。

★この文章を書いた人→門田裕志★こんな時間に→08:38コメント (9)トラックバック

2005年05月01日

 水牛だより5月1日

もう二ヶ月ほど前から予定していた不忍ブックストリートの一箱古本市に一日店主となって、段ボール一箱分の本を売ってきました。根津駅と千駄木駅のあいだ、不忍通り沿いの書店の前や、少し入った路地にあるあちこちのカフェの軒先に、あわせると80近い段ボールが並びました。その段ボール箱ひとつひとつが古本店というわけです。店番を担当する時間以外は自分もお客になって、全店見てまわります。よく歩いた一日でもありました。たった一箱のお店ですが、実際に売ってみると、品揃えや値段のつけかた、並べ方など考えさせられました。次の機会のためのアイデアがすでにあれこれ浮かびます。またやってみたい! お昼は「オトメ」という中華料理屋で。「すみれ」という喫茶店もありました。ありそうであまりない、「不忍通り」によく似合う名前だと思ったのでした。

「水牛のように」を2005年5月号に更新しました。
「しゃしゃむしゃしゃ、思い」はメタクタ(めちゃくちゃ)緑の虱風。藤井さんは第一回目に、「シラミが環境汚染で緑色に染まってしまい頭髪に住み始めたという童話だと思ってください。」と書いています。
冨岡三智さんが大阪現代演劇祭の一環として、hmpの公演「cage」に出演します。原作はカフカの「流刑地」。5月13、14、15日です。ジャワ舞踊とはかけはなれたキャラクターを演ずる冨岡さんと、その上演場所である大阪港の突堤の仮設劇場を見てみたいものです。
カラワンのモンコンによれば、あのツナミのあと、復興したのは観光地だけで漁村と漁民はなおざりにされたままだとのこと。カラワンが被災した漁民のために歌をうたっていることは彼らを知っていればすぐに想像できるとしても、そうしたことはほとんど伝わってこないのも事実です。情報はあふれるほどだと信じられているのに。

今月も「メントール・ユーカリプト」に3編の詩を追加しました。片岡さんの詩は1編だけ読むのと、こうしてたくさん読むのとではかなり違う感じがします。なぜでしょう?

それではまた!(八巻美恵)

★この文章を書いた人→八巻美恵★こんな時間に→11:07コメント (1)トラックバック