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なんというか、たのしいです。くど監(クドカン)作品ですが、くどかん世界は役者のキャスティングに
現れていて、それ以外は、本当にリヤルってなんだろう?という世界の中でうごめく、漫画の世界。
イージーライダーから始まり、ちりばめられた役者の光が、ほんと楽しい映画です。
長瀬の馬鹿っぷりと、ナイーブな七ちゃんとで、もう最高かな。
(↑ファンの方おこらないでね、いい意味でいってます)おもったよりもファルセットの
いい声してる七ちゃん。トラブルはあったけど、父親をも越えるやもしれぬと私は
わくわくしています。兄よりも、もっと世界をひろげてほしいなとひそかにおもってたり
してます。
映画については深くふれません。
ただ、楽しいだけじゃない、最後の迫力ある美人に撮れている
「美人なので当然なんだけどね」小池栄子さん、イイです。
あとは、えーーーっと。ちょっと私は、2時間を微妙に越えてしまったことが
残念です。やはり、ここは、笑いの宿(というセクション)あたりをすこしけずって
なんとか2時間弱におさめてもらいたいところです。ちょっとそのあたりが
しつこかったかな?と思いました。
次回見る予定なのは、阿修羅城の瞳です。たのしみですのん。舞台は初演からみてますから
いかにフィルムになると違うのか、そのあたりをたのしみにしつつ。
青空文庫はNGOでもNPOでもありません。
みなし法人として、法人登記はしていないものの
団体として、広告収入の営利活動部分には、税務申告を行い
法人税も支払いをしています。
すべてのNPOがそうとはいいませんが、昨今のNPOは
政府の都合のよい雇用対策にしか見えないのです。
一時期、NPO化しようかなと考えた事もあります。
現在は、NPO化しなくてよかったなと思っています。
青空文庫という団体は申請をすればNPOになれます。
そして、2年目には贈与税が免除になったり、専従スタッフには
厚生年金や保険の義務が発生します。
もちろん、税金免除のメリットもあります。けれども、考えてください。
青空文庫は、呼びかけ人のものではなく、サイトを利用してくれる人
こつこつと入力をしてくれてる人、こつこつと校正をしてくれる人
そんな匿名の沢山の人が、青空文庫のやり方を大切にして、
一緒に作りあげたものです。
広告を出してくれて、場を維持するのに必要なお金を
出してくれる会社、会社は本来営利追及であるのに、
青空文庫というどこぞの馬の骨?のような所に、
コストパフォーマンスを度外視して、だしてくれています。
というか、そもそも青空文庫の現状の広告費はいくらが
妥当なのか?いくらなら、1ヶ月だすのかという、広告
会社からのアドバイスがほしいくらいです。
もらいすぎてるのではないか、どうなんだろう?と。
青空文庫は、そこにある。その調整役、基本ルール、場の維持
そういったことをサポートするのが、呼びかけ人であると思います。
呼びかけ人でもある私は、経理を担当しています。
元々会社員生活で、総務経理業務を10年くらいやって
ましたから、法人税の申告業務もできます。青空の会計は非常に
シンプルですから。楽といえば楽です。
各人が得意なことをそれぞれが青空文庫で使えればいいと。
各人いつか青空文庫が空へ返る日がきたとき、自分の本来の
仕事についていないといけないと思います。
(といいつつ、現在派遣で適宜働いてたりしますが)
だからこそ、NPO化することで、給与を払う専従スタッフは、
(それによりそのための収入を確保しその専従スタッフのキャリアを
左右してしまいます。)青空文庫にはいません。
呼びかけ人も、経費(郵便代とか)そういうのは立て替えて
清算していますが、報酬という形で利益をもらうことをしていません。
税金をはらい、残ったお金をためていって、いつか収入(広告が)なくなったら
そこからだそうか?なんて考えているくらいです。
みんなができる範囲でできるだけのことをし、青空文庫と
向き合っていきたいなぁと思うのです。やれない時は遠慮なく、
いまゴメン!っていえるそんな広い気持ちで、青空文庫に
携わっていたいなぁとおもうのです。
私は会計係として、今までどう青空を支えるのが
いいのだろうと考えています。一緒に考えて下さる方がいると
心強いです。
以下は私のあくまでも試案、私案です。呼びかけ人全体で決まった
事でないのですが、一人では心ぼそーーいのです。
スキームとしては、年に1度、予算を見立てます。それに応じて、
毎年7月7日を応募?日にして、広告を広く募集したいと思っています。
現在の広告は、青空へ支援という形でお申し出頂いて、心苦しく
おもいつつも(いまのWEBの広告はクリック数などでコスト
パフォーマンスが重要なのです)、ご好意に甘えています。
そしてその収入でやっていけるので、なんとかなっています。
しかし、いつまでもあると思うな、親と金の世の中。
これは、なんとか青空文庫を維持するために、広告募集のスキームを
考えないといけないなぁと思った次第なのです。
広告をだしたいという連絡も頂きますが、現状、お金を頂戴しても
それがすべてあまって法人税として払われてしまうため、
(それでも残ることは残りますが)なんだかもったいないのです。
というわけで、広告と会計というのが現在関連しているのが現状です。
●まず、6月中に現在年度の決算(予測)をおこないます。
●翌年特別取り組みたいプロジェクトがないか、呼びかけ人や
行司さんたちや、プロジェクトいいだしっぺ?に問い合わせます。
(これくらいの資料代がいりそうだとか、、そういうことね)
●毎年きまっているサーバーのコストの変更がないかどうか確認します。
今年を例にしていえば、2005年6月末にほぼきまると思います。
この時点で、次の年度は、どうも400万くらいかかりそうだと(たとえです)します。
今年の7月1日に、広告募集の案件をサイト内もしくは会計報告の場にでも、発表します。
応募に際しての必須項目として
●出稿期間(業務上制約をつけさせていただきます)
以下の期間内で、最低3ヶ月から1年とします。
期間は、2005年9月~2006年8月まで。
●掲載期間 例) 2005年12月から2006年3月までの4ヶ月などetc...
●契約予定額 ( )円
●支払い方法の希望 毎月の請求書 もしくは、契約による一括請求
●サイトURL
●バナー
●会社もしくは個人担当者名前
●連絡先のメールアドレス(フリーメールはいたずら防止の為ご遠慮ください。)
1週間以内で締め切り(応募があれば)この中から、呼びかけ人全体でも
考えて、担当者様へご連絡させて頂き、最終的に契約書を作成します。
と、まぁそんな事を考えていたわけです。(私が勝手にです)
●サイトに広告が有る以上、興味をもっていただけ問い合わせを頂くことも
少々あるので、この方式だと、一時的に忙しくなりますが、会計、
税務申告としては、シンプルになると思います。
●なおかつ広く公平に広告をだしたいという方と知り合うことができる
のではないかと思うのです。
どうでしょうねぇ?
行動にしてみました。
青空収録はいまのところ魯迅のみ(だったはず)。中国の著作権保護期間は、日本と同様、著作者没後50年と考えていいと思います(サンフランシスコ平和条約に批准していないので戦時加算は不要)。グーテンベルク、青空文庫。きっと中国でも韓国でも似たようなことやってるんだろうけれど。オリジナルを公開しているサイトや翻訳ページなどの情報をいただければにょろにょろリンクを追加することにします。
オレンジの表記は著作権保護期間内であることをしめしています。
ちなみにぼくの知ってる作家は、113人中10人でした。
参照:
『中国現代文学珠玉選1・2』二玄社2000.3.
『中国史人物事典』web
『世界史年表・地図』吉川弘文館1995.4.
『読書案内 世界の作家 新訂版』日外アソシエーツ2002.7.
『新潮世界文学小辞典』1966.5.
公開:2005.4.24
更新:2005.4.29
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。
2005年4月30日(土)に、東京は文京区の谷中・根津・千駄木エリアの書店、雑貨店、ギャラリー、カフェなど12店舗の軒先で、青空古本市が開かれます。75人の出品者が、ミカン箱くらいの大きさの箱に各自古本を持ち寄り、それぞれの店舗の軒先で販売する、日本初(?)のネットワーク型古本市です。このaozora blogからは、私と八巻さんが出店します。東京近郊の方で、お時間がある方は覗いて見て下さい。時間は11:00〜18:00です。八巻さんは「古書ほうろう」の前で、私は「月夜と眼鏡」の前で売ってます。
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青空文庫 旧表記→現代表記 変換プロジェクト
あさっての向かい風 2nd ステージ
注意:「現代表記にあらためる際の作業指針」 非準拠形式です。
青空文庫では、オリジナル作品を現代表記に置きかえるさい作業指針を用意していますが、このプロジェクトではそれに従っていません。非準拠形式です。作業指針を否定している、というわけではなくて。単純な置きかえでは指針に準じることができるほど賢くないからです。意味解釈して置換するっていうのは難易度高すぎ。
現在、シンちゃんは63833行、1MBです。
テキスト形式なので、だれでも内容を見ることができるし改編できます。
しばらく別のことに専念したいので、シンちゃんの育成ができません。ただ、ほったらかしにするよりも興味のある人がいれば、どんどんいじくってもらいたいので。Mac ユーザーならば「ConvChar」と併用してみてください。外国語の機械翻訳があたりまえなのに、日本語から日本語の変換がまだなんて……それとも、ぼくが知らないだけでしょうか。蛇足ですが、いわゆる旧表記を撲滅するプロジェクトではなくて、むしろ、旧表記へのいざないプロジェクト。
ちなみに、芥川・茂吉あたりは複数作品中の語彙を辞書登録したのでそれなりに変換できるのではないかと。つまり、あるテキストから語彙抽出して辞書登録すると、それに似かよった傾向のテキスト(=同一作者の作品とか、同時代の作家とか)の変換精度の向上が期待できる。なので、数人で担当作家を分担して語彙抽出したあとでそれを統合、などというのも。
オリジナル版 國文學の發生(第一稿) 呪言と敍事詩と 折口信夫 一 日本文學が、出發點からして既に、今ある儘の本質と目的とを持つて居たと考へるのは、單純な空想である。其ばかりか、極微かな文學意識が含まれて居たと見る事さへ、眞實を離れた考へと言はねばならぬ。古代生活の一樣式として、極めて縁遠い原因から出たものが、次第に目的を展開して、偶然、文學の規範に入つて來たに過ぎないのである。 似た事は、文章の形式の上にもある。散文が、權威ある表現の力を持つて來る時代は、遙かに遲れて居る。散文は、口の上の語としては、使ひ馴らされて居ても、對話以外に、文章として存在の理由がなかつた。記憶の方便と云ふ、大事な要件に不足があつた爲である。記録に憑ることの出來ぬ古代の文章が、散文の形をとるのは、時間的持續を考へない、當座用の日常會話の場合だけである。繰り返しの必要のない文章に限られて居た。ところが、古代生活に見えた文章の、繰り返しに憑つて、成文と同じ效果を持つたものが多いのは、事實である。律文を保存し、發達させた力は、此處にある。けれども、其は單に要求だけであつた。律文發生の原動力と言ふ事は出來ぬ。もつと自然な動機が、律文の發生を促したのである。私は、其を「かみごと」(神語)にあると信じて居る。 今一つ、似た問題がある。抒情詩・敍事詩成立の前後に就てゞある。合理論者は抒情詩の前出を主張する。異性の注意を惹く爲とする、極めて自然らしい戀愛動機説である。此考へは、雌雄の色や聲と同じ樣に、詩歌を見て居る。純生理的に、又、原始的に考へる常識論である。其上、發生時に於て既に、ある文學としての目的があつたらしく考へるからの間違ひである。律文の形式が、さうした目的に適する樣に、ある進歩を經てから出來て來た目的を、あまり先天的のものに見たのだ。 わが國にくり返された口頭の文章の最初は、敍事詩であつたのである。日本民族の間に、國家意識の明らかになりかけた飛鳥朝の頃には、早、萬葉に表れたゞけの律文形式は、ある點までの固定を遂げて居た樣に見える。 我々の祖先の生活が、此國土の上にはじまつて以後に、なり立つた生活樣式のみが、記・紀其他の文獻に登録せられて居るとする考へは、誰しも持ち易い事であるが、此は非常に用心がいる。此國の上に集つて來た澤山の種族の、移動前からの持ち傳へが、まじつて居る事は、勿論であらう。 併し、此點の推論は、全くの蓋然の上に立つのであるから、嚴重にすればする程、科學的な態度に似て、實は却つて、空想のわり込む虞れがある。だから、ある點まで傳説を認めておいて、文獻の溯れる限りの古い形と、其から飛躍する推理とを、まづ定めて見よう。 其うちで、ある樣式は、今ある文獻を超越して、何時・何處で、何種族がはじめて、さうして其を持ち傳へたのだと言ふ樣な第二の蓋然も立てられるのである。さうなつた上で、古代生活の中に、眞の此國根生ひと、所謂高天原傳來との交錯状態が、はつきりして來るのである。 文章も亦、事情を一つにして居る。敍事詩の發達に就て、焦點を据ゑねばならぬのは、人稱の問題である。 土居光知氏は、日本文學の人稱問題の發達に、始めて注意を向けた方である。氏と立ち場は別にして居るが、此事は、言ひ添へて置きたい。 日本紀の一部分と、古事記の中、語部(カタリベ)の口うつしに近い箇所は、敍事として自然な描寫法と思はれる三人稱に從うて居る。時々は、一人稱であるべき抒情部分にすら、三人稱の立ち場からの物言ひをまじへて居る。「八千矛ノ神と妻妾との間の唱和」などが其である。此は、敍事詩としてのある程度の進歩を經ると、起り勝ちの錯亂である。ところが間々、文章の地層に、意義の無理解から、傳誦せられ、記録せられした時代々々の、人稱飜譯に洩れた一人稱描寫の化石の、包含せられて居る事がある。 一人稱式に發想する敍事詩は、神の獨り言である。神、人に憑(カヽ)つて、自身の來歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。全體、狂亂時・變態時の心理の表現は、左右相稱を保ちながら進む、生活の根本拍子が急迫するからの、律動なのである。神憑りの際の動作を、正氣で居ても繰り返す所から、舞踊は生れて來る。此際、神の物語る話は、日常の語とは、樣子の變つたものである。神自身から見た一元描寫であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに發想は一人稱に依る樣になる。 昂ぶつた内律の現れとして、疊語・對句・文意轉換などが盛んに行はれる。かうして形をとつて來る口語文は、一時的のものではある。併し、律文であり、敍事詩である事は、疑ふ事が出來ない。此神の自敍傳は、臨時のものとして、過ぎ去る種類のものもあらう。が、種族生活に交渉深いものは、屡くり返されて居る中に固定して來る。此敍事詩の主なものが、傳誦せられる間に、無意識の修辭が加る。口拍子から來る記憶の錯亂もまじる。併しながら、「神語」としては、段々完成して來るのである。 文章としての律要素よりも、聲樂としての律要素の方が、實は此「神語」の上に、深くはたらきかけて居た。律語の體をなさぬ文も、語る上には曲節をつける事が出來る。此曲節に乘つて、幾種類もあつた「神語」が巫覡の口に傳つて、其相當の祭り・儀式などに、常例として使はれて來た。つまりは、團體生活が熟して來て、臨時よりも、習慣を重んずる事になつたからなのだ。 郡ほどの大きさの國、邑と言うてもよい位の國々が、國造・縣主の祖先に保たれて居た。上代の邑落生活には、邑の意識はあつても、國家を考へる事がなかつた。邑自身が國家で、邑の集團として國家を思うても見なかつた。隣りあふ邑と邑とが利害相容れぬ異族であつた。其と同時に、同族ながら邑を異にする反撥心が、分岐前の歴史を忘れさせた事もあらう。 かう言ふ邑々の併合の最初に現れた事實は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。邑々の間に嚴に守られた祕密の信仰の上に、靈驗あらたなる異族の神は、次第に、而も自然に、邑落生活の根柢を易へて行つたのである。飛鳥朝以前既に、太陽を祀る邑の信仰・祭儀などが、段々邑々を一色に整へて行つたであらう。邑落生活には、古くからの神を保つと共に、新に出現する神を仰ぐ心が深かつたのである。 單に太陽神を持つて居た邑ばかりでなく、他の邑々でも、てんでに發生した事實もあらうが、多くはかうして授けられたらうと思はれる一つの樣式として、語部(カタリベ)と言ふ職業團體——かきべ——が、段々成立して行つた。 神憑(ガヽ)りの時々語られた神語の、種族生活に印象の深いものを語り傳へて居る中に、其傳誦の職が、巫覡の間に分化して來た。さうして世襲職として、奉仕には漸く遠ざかり、詞句の諳誦と曲節の熟練との上に、其が深くなつて行つたものと思はれる。 語部の話は、私の研究の筋を辿つて、雜誌「思想」(大正十三年一月)に公にせられた横山重氏の論文がある。私の持つて居る考へ方は、緻密に傳へられて居る。それを推擧して、私は唯概念を綴る。 二 神語即託宣は、人語を以てせられる場合もあるが、任意の神託を待たずに、答へを要望する場合に、神の意思は多く、譬喩或は象徴風に現はれる。そこで「神語」を聞き知る審神者——さには——と言ふ者が出來るのである。 中には人間の問ひに對して、一言を以て答へる、一言主(ヒトコトヌシ)ノ神の樣に方法を採るのもあつた。 神の意思表現に用ゐられた簡單な「神語」の樣式が、神に對しての設問にも、利用せられる樣になつたかと思はれる。 私は「片哥」と言ふ形が、此から進んだものと考へる。旋頭歌の不具なる物故と思はれて居る名の片哥は、古くは必、問答態を採る。「神武天皇・大久米命の問答」・「酒折ノ宮の唱和」などを見ると、旋頭歌發生の意義は知れる。片哥で問ひ、片哥で答へる神事の言語が、一對で完成するものとの意識を深めて、一つ樣式となつたのである。併し、問答態以前に、神意を宣るだけの片哥の時代があつた事は、考へねばならぬ。 今日殘つて居る片哥・旋頭歌は、形の頗整頓したものである。我々の想像以前の時代の、此端的な「神言」は、片哥・旋頭歌には近いだらうが、もつと整はぬものであつたらう。なぜなら、此二つの形は、敍事詩がある發達を遂げた後に、固定した音脚をとりこんだものらしく思はれるからである。つまりは、自由な短い樣式が、段々他の方面で發達して來たものに影響せられて來たのである。時代の音脚法によつて、整理せられたと言うてもよからう。片哥を以て、日本歌謠の原始的な樣式と考へ易いが、かうした反省が大事である。 けれども、我々の立場からは、複雜の單純化せられ、雜多が統一せられて行く事實を忘れてはならない。旋頭歌が、一つの詞形——文學意識は少いが——と考へられて來ると、形の上にこそ本句と末句との間に、必、休息點は置いても、思想の上では一貫したものになつて來る。本末のある句を繰り返して、調を整へるのも、他の詩形の影響である。 私は敍事詩の發生と時を同じくして片哥が出來たと考へ、神の自敍傳としての原始敍事詩と、神の意思表現手段としての片哥と對立させて、推論を進めて來たが、其にしても、此音脚の上に整理の積んだ形は、可なり敍事詩時代の進んだ後、其洗煉せられた樣式をとり入れたものとしか思はれない。 | 現代表記おきかえ版 国文学の発生(第一稿) 呪言と敍事詩と 折口信夫 一 日本文学が、出発点からしてすでに、今あるままの本質と目的とをもっていたと考えるのは、単純な空想である。そればかりか、ごくかすかな文学意識がふくまれていたと見る事さえ、真実を離れた考えといわねばならぬ。古代生活の一様式として、きわめて縁どおい原因からでたものが、しだいに目的を展開して、偶然、文学の規範に入ってきたにすぎないのである。 似た事は、文章の形式の上にもある。散文が、権威ある表現の力を持ってくる時代は、はるかにおくれている。散文は、口の上の語としては、つかいならされていても、対話以外に、文章として存在の理由がなかった。記憶の方便という、だいじな要件に不足があったためである。記録によることのできぬ古代の文章が、散文の形をとるのは、時間的持続を考えない、当座用のいつも会話のばあいだけである。くりかえしの必要のない文章にかぎられていた。ところが、古代生活にみえた文章の、くりかえしによって、成文とおなじ効果をもったものが多いのは、事実である。律文を保存し、発達させた力は、ここにある。けれども、それはたんに要求だけであった。律文発生の原動力という事はできぬ。もっと自然な動機が、律文の発生をうながしたのである。わたしは、それを「かみごと」(神語)にあると信じている。 いまひとつ、似た問題がある。叙情詩・敍事詩成立の前後についてである。合理論者は叙情詩の前出を主張する。異性の注意をひくためとする、きわめて自然らしい恋愛動機説である。この考えは、雌雄の色や声とおなじように、詩歌を見ている。純生理的に、また、原始的に考える常識論である。そのうえ、発生時においてすでに、ある文学としての目的があったらしく考えるからのまちがいである。律文の形式が、そうした目的に適するように、ある進歩をへてからできてきた目的を、あまり先天的のものに見たのだ。 わが国にくり返された口頭の文章の最初は、敍事詩であったのである。日本民族の間に、国家意識のあきらかになりかけた飛鳥朝のころには、早、万葉にあらわれただけの律文形式は、ある点までの固定をとげていたようにみえる。 われわれの祖先の生活が、この国土の上にはじまって以後に、なりたった生活様式のみが、記・紀そのほかの文献に登録せられているとする考えは、だれしも持ちやすい事であるが、これはひじょうに用心がいる。この国の上にあつまってきたたくさんの種族の、移動前からの持ち伝えが、まじっている事は、もちろんであろう。 ただし、この点の推論は、まったくの蓋然の上に立つのであるから、厳重にすればするほど、科学的な態度に似て、じつはかえって、空想のわりこむおそれがある。だから、ある点まで伝説を認めておいて、文献のさかのぼれるかぎりの古い形と、そこから飛躍する推理とを、まずさだめてみよう。 そのうちで、ある様式は、今ある文献を超越して、いつ・どこで、何種族がはじめて、そうしてそれを持ち伝えたのだというような第二の蓋然も立てられるのである。そうなった上で、古代生活の中に、真のこの国根生いと、いわゆる高天原伝来との交錯状態が、はっきりしてくるのである。 文章もまた、事情をひとつにしている。敍事詩の発達について、焦点をすえねばならぬのは、人称の問題である。 土居光知氏は、日本文学の人称問題の発達に、はじめて注意を向けた方である。氏と立ち場はべつにしているが、この事は、いいそえておきたい。 日本紀の一部分と、古事記の中、かたりべ(カタリベ)の口うつしに近いか所は、叙事として自然な描写法と思われる三人称にしたがうている。ときどきは、一人称であるべき叙情部分にすら、三人称の立ち場からの物言いをまじえている。「八千矛ノ神と妻妾との間の唱和」などがそれである。これは、敍事詩としてのあるていどの進歩を経ると、おこりがちの錯乱である。ところがまま、文章の地層に、意義の無理解から、伝承せられ、記録せられした時代々々の、人称翻訳にもれた一人称描写の化石の、包含せられている事がある。 一人称式に発想する敍事詩は、神のひとりごとである。神、人に憑(カカ)つて、自身の来歴をのべ、種族の歴史・土地のゆいしょなどをのべる。みな、巫覡の恍惚時の空想にはすぎない。ただし、種族の意向の上に立っての空想である。しかも種族の記憶の下積みが、とつぜん復活することもあった事は、もちろんである。それらの「本縁」を語る文章は、もちろん、巫覡の口をついて出る口語文である。そうしてその口は十分な律文要素が加わっていた。全体、狂乱時・変態時の心理の表現は、左右相称をたもちながら進む、生活の根本拍子が急迫するからの、律動なのである。神がかりのさいの動作を、正気でいてもくりかえすところから、舞踊は生まれてくる。この際、神のものがたる話は、いつもの語とは、様子のかわったものである。神自身から見た一元描写であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに発想は一人称によるようになる。 たかぶった内律のあらわれとして、畳語・対句・文意転換などがさかんにおこなわれる。こうして形をとってくる口語文は、一時的のものではある。ただし、律文であり、敍事詩である事は、うたがう事ができない。この神の自叙伝は、臨時のものとして、過ぎ去る種類のものもあろう。が、種族生活に交渉深いものは、しばしばくり返されている中に固定してくる。この敍事詩のおもなものが、伝承せられる間に、無意識の修辞がくわわる。口拍子からくる記憶の錯乱もまじる。しかしながら、「神語」としては、だんだん完成してくるのである。 文章としての律要素よりも、声楽としての律要素の方が、じつはこの「神語」の上に、深くはたらきかけていた。律語の体をなさぬ文も、語る上にはメロディーをつける事ができる。このメロディーにのって、幾種類もあった「神語」が巫覡の口につたって、そのそうとうのまつり・儀式などに、常例として使われてきた。つまりは、団体生活が熟してきて、臨時よりも、習慣を重んずることになったからなのだ。 郡ほどの大きさの国、村というてもよいくらいの国々が、国造・県主の祖先に保たれていた。上代の村落生活には、村の意識はあっても、国家を考える事がなかった。村自身が国家で、村の集団として国家を思うてもみなかった。となりあう村と村とが利害あいいれぬ異族であった。それと同時に、同族ながら村を異にする反発心が、分岐前の歴史を忘れさせたこともあろう。 こういう村々の併合の最初にあらわれた事実は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。村々の間にげんに守られたヒミツの信仰の上に、霊験あらたなる異族の神は、しだいに、しかも自然に、村落生活の根底を易へて行ったのである。飛鳥朝以前すでに、太陽をまつる村の信仰・祭儀などが、だんだん村々を一色に整えていったであろう。村落生活には、古くからの神をたもつとともに、あらたに出現する神をあおぐ心が深かったのである。 たんに太陽神をもっていた村ばかりでなく、ほかの村々でも、てんでに発生した事実もあろうが、多くはこうして授けられたろうと思われるひとつの様式として、かたりべ(カタリベ)という職業団体——かきべ——が、だんだん成立していった。 神憑(ガカ)りのときどき語られた神語の、種族生活に印象の深いものを語りつたえている中に、その伝承の職が、巫覡の間に分化してきた。そうして世襲職として、奉仕にはようやく遠ざかり、詞句の暗唱とメロディーの熟練との上に、それが深くなっていったものと思われる。 かたりべの話は、わたしの研究の筋をたどって、雑誌「思想」(大正十三年一月)におおやけにせられた横山重氏の論文がある。わたしのもっている考え方は、緻密に伝えられている。それを推挙して、わたしはただ概念をつづる。 二 神語即託宣は、人語をもってせられるばあいもあるが、任意の神託をまたずに、こたえを要望するばあいに、神の意思は多く、比喩あるいは象徴風にあらわれる。そこで「神語」を聞き知る審神者——さには——という者ができるのである。 なかには人間の問いに対して、ひとことをもって答える、一言主(ヒトコトヌシ)ノ神のように方法をとるのもあった。 神の意思表現にもちいられた簡単な「神語」の様式が、神に対しての設問にも、利用せられるようになったかと思われる。 わたしは「片哥」という形が、ここから進んだものと考える。旋頭歌の不具なる物故と思われている名の片哥は、古くは必、問答態をとる。「神武天皇・大久米命の問答」・「酒折ノ宮の唱和」などを見ると、旋頭歌発生の意義は知れる。片哥で問い、片哥で答える神事の言語が、一対で完成するものとの意識をふかめて、ひとつ様式となったのである。ただし、問答態以前に、神意をのるだけの片哥の時代があった事は、考えねばならぬ。 今日残っている片哥・旋頭歌は、形のすこぶる整頓したものである。われわれの想像以前の時代の、この端的な「神言」は、片哥・旋頭歌には近いだろうが、もっと整わぬものであったろう。なぜなら、このふたつの形は、敍事詩がある発達をとげた後に、固定した音脚をとりこんだものらしく思われるからである。つまりは、自由なみじかい様式が、だんだんほかの方面で発達してきたものに影響せられてきたのである。時代の音脚法によって、整理せられたというてもよかろう。片哥をもって、日本歌謡の原始的な様式と考えやすいが、こうした反省がだいじである。 けれども、われわれの立ち場からは、複雑の単純化せられ、雑多が統一せられていく事実を忘れてはならない。旋頭歌が、ひとつの詞形——文学意識は少ないが——と考えられてくると、形の上にこそ本句と末句との間に、必、休息点はおいても、思想の上では一貫したものになってくる。本末のある句をくりかえして、調を整えるのも、ほかの詩形の影響である。 わたしは敍事詩の発生と時をおなじくして片哥ができたと考え、神の自叙伝としての原始敍事詩と、神の意思表現手段としての片哥と対立させて、推論を進めてきたが、それにしても、この音脚の上に整理の積んだ形は、かなり敍事詩時代の進んだ後、その洗練せられた様式をとりいれたものとしか思われない。 |

ええじゃないか。
幕末、尾張・三河近辺で伊勢神宮のおふだが家々にばらまかれ、町民や農民衆がまちなかでわけもなく踊りくるったという。天からおふだが降ってきた、天のお告げだと言って、おふだの降ってきた家(商屋など)ではモチや酒を町民にふるまい、祈祷してもらい、無病息災・わざわいの降ってこないことを祈った。さわぎが通り過ぎるまで。
おんなもおとこも。理性、ではない。りくつじゃあないのだとおもう。日常のうっぷんばらし、圧政への鬱屈した力の発散、未来へのばくぜんとした失望、やりどころのない怒り、一過的な快楽、群衆のなかでただようことの陶酔、意味のない高揚。踊ったところでどうなるものでもないとわかりつつも。もともと大衆のまつりは無秩序的・無目的的だけれども、それが連日連夜つづいた。
一地域ではじまったものが、東海道ぞいにまたたくまにひろまる。江戸以西・中部・近畿・山陽・四国。当時、民衆のあいだで伊勢参りや富士講、四国八十八か所巡りなどのお宮参りがさかんだったが、ええじゃないかはそういう信仰をたくみに利用した。そして、秘密裏に同盟をむすんだ薩摩と長州がこの騒ぎにまぎれて京都へ入る。ええじゃないかは非暴力的だった。けれどもまた非生産的でもあり非秩序的だった。慶応3年11月、京都町奉行はええじゃないか禁止令を出す。
幕末から明治にかけての山形県内の歴史をながめると、ええじゃないかがあったという記録は見あたりません。出羽三山の登拝口ごとに参拝者数の記録が残っていますが、1865年(慶応元年・丑年)にひとつのピークがあります。丑年の三山参り。月山は、別名・臥牛(がぎゅう)山ともよばれますが、湯殿山や羽黒参りをすると牛のおふだをもらえる。それを家に帰って台所やふろのかまどのそばに逆さまに貼る。火伏せといって火事よけだったらしい。寝かせた牛の小便で出火を消すことができるのだと。小さいころ自宅でも、ともだちの家やまわりの家でも貼ってあるのを見ました。明治の神仏分離以前から続く慣習だと思うのですが、正確なところはわかりません。
かたや、一揆・打ちこわし。
こちらも、県内の記録はなくはないものの極めて多いという印象でもありません。よくいわれることは、庄内藩は江戸時代ずっと転封がなかった、だから藩政と農民の関係が良好だったという見解です。明治になるまで農民一揆がなかったと解説する本もある。上杉米沢藩も家康に転封を命じられてからは幕末になるまで移動してない。かなり貧窮しどおしだったものの、こちらでも一揆のはなしはさほど聞かない。では、江戸時代をとおして出羽の民衆は平穏だったのかというと、そうでもない。
表 江戸時代・出羽(山形)の民衆暴動や強訴
(『山形県の歴史』山川出版社1998.12.年表より)
1633 白岩目安
1665 小国目安
1666 信夫目安
1723 長瀞一揆
1747 上山一揆
1755 宝暦の飢饉。米沢・天童・山形で打ちこわし
1760 置賜・青苧騒動
1787 寒河江窮民、富商をおそう。強借
1801 村山一揆。天童打ちこわし
1833 奥羽地方大凶作。庄内一揆
1837 白岩郷窮民、強訴
白岩(しらいわ)というのは、村山地域西部・寒河江市内です。慈恩寺のすぐそば。小国は米沢の西で新潟との境。長瀞(ながとろ)は現在の 村山市。天童や東根の北 (訂正)東根市です。目安とあるのは訴状を奉行や大名へ直訴することのようです。おおざっぱにピックアップしただけなので、見つけこぼしがあるはずですが。庄内が1件・最上が0件・村山が8件・置賜が4件。最上地域(新庄戸沢藩)で暴動が起きていないのは、ちょっと要確認です。最上地域は積雪地帯であり、かつ北東から吹いてくる冷風・ヤマセの影響で常習的に冷害にみまわれた地域です。銀山・銅山などの鉱山開発でうるおった時期もあるけれども。目を引くのは村山の8件。人口がもっとも集中していたからということもできますが、ちょっと記憶にとめておいてもいいかもしれない。
なかでも白岩。二代将軍・秀忠の落とし胤《だね》、保科正之が1636年山形に入部します。それにさきがけて1633年、白岩の農民が代官の圧政を幕府に直訴します。結果だけをいうと農民たちは処刑されてしまいます。1637年の島原の乱や、1652年の佐倉宗吾よりも前のはなしになります。直前です。興味深いのはこの徳川時代の初期に、白岩の農民たちの用意した直訴状のうつしがどうやらその後全国にひろまり、教本として利用された形跡があるらしいのです。そのテキストがほうぼうに残存しているという。郷土史家によれば白岩の農民たちは、運動が成功するにせよそうでないにせよ、じぶんたちがやろうとしたことを書き残し、後世もしくはほかの地域のひとびとにメッセージとして残しておきたいという意志があったのではないかと。白岩の農民たちの意志を、そのテキストから感じ取った民衆たちが全国各地にいたのではないかと。
一揆や打ちこわしの記述がむずかしいのは、表面的には民衆の暴動であり、民衆対為政者、民衆対豪商という対立図式であり、理由はどうであれ暴力であり略奪であり脅《おど》しであり恐喝であり、ゆるされてよいものではありません。共感をよんだとしても、それをたくらんだ時点ですでに敗北でもある。当事者もそれを承知してたろう。自虐的。虚無的。自棄的。むずかしいのは、そういう民衆運動という側面があるのと同時に、その民衆の運動とよばれるものがほんとうに民衆から生まれたものか、誰がくわだてたのか、運動の根っこの判別がまたむずかしい。有名なのは、戦国時代に大名がおたがいにおたがいの領地の民衆をそそのかし、一揆をアジって混乱を誘導した。内部崩壊。内側から混乱させようとたくらんだ。
もしかしたら、出羽の民衆にとって一揆や打ちこわしとは、そのたびに何らかの記憶を思い出すきっかけだったかもしれない。伊達政宗がそういう策略にたけたことを、徳川時代の一般民衆もぼくたち現代人同様、周知していたかどうかはわかりませんが。そして当の政宗もまた、地域のなんらかのそれ以前の歴史にヒントを得て思いついたことだってありえるかもしれない。あるいは、70年前・80年前、大東亜共栄圏というひとりよがりな思いやりをゴリおしするために、満州でくわだてをたくらんだひとたちも。
最後に得をするのはだれか。
日本と中国がもめて得をするのは、日本でも中国でもないと思う。アジア各地で治安が不安定になって得をするのは、アジアに住む人たち自身ではないと思う。中東の治安が不安定で得をするのは、中東の人たちでないと思う。アフリカの治安が不安定で得をするのはアフリカの人たちでないと思う。得をする人は得てしておもてには現れない。ひっそりと息をひそめて暴動をながめている。そしてころあいをみて「治安維持」ということを言いだし、それを名目にして自分の所有する戦力を売りこむ。北東アジアが不安定で得をするのは、北東アジアに住む人たちじしんではないと思う。
ミリタリーほどやっかいなものはない。
増殖性がきわめて高い。一度繁殖しだすとその勢いはだれにも止められなくなる。ミリタリーはミリタリー自身の存在意義を正当化しようとする。どこにでもエネミーを見つけだす。だれでもエネミーにしたてようとする。そうしないと自分自身が不必要とされ、廃棄され、増殖できないからだ。
ええじゃないか。
ええじゃないかは1867年の夏に発生し、1868年の春まで続きます。1867年の暮れ、江戸で火付けや騒動が頻発する。下手人が江戸の薩摩藩邸へ入るのがたびたび目撃される。当時江戸の警備をまかされていた庄内藩が、薩摩藩邸を襲撃することになる。そして年が明け、戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いが始まることになります。
2005.4.19
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。
著作権保護期間70年延長反対に賛成。
デモをする権利は誰にでも保障されている。
いま、日本の報道で暴徒と称している中国の青年たち。
同じインターネットを共有する立場として、一度落ち着いて
ほしいとおもう。
金銭的余裕がない、一方幹部の子息の贅沢な生活ぶりを
目の当たりにして腹立たしいのは理解できる。そういう国に
生まれてしまった中国の人たちへ
たまたま日本に生まれてしまった。同じネットを利用する
青年とはいえないけど(気分だけでごめんっ)いわせてもらいたい。
私は中国語はできない、香港もイギリス統治時代に数回訪れただけ
中国の教科書がどういうようになっているかはわからないけれど、
日本の教科書について、今回一部の教科書が魚釣り島のことを
記述しそれにたいして、文部省(今は科学もつくっけ?)が意見をのべ
修正しないと発行できないのである。
教科書会社かつて私が在籍していた会社は今はもうない。
というのも、教科書は、沢山採択されなければ、赤字なのです。
その解説、副読本、ドリルの作成許諾料などで支えられている。
なぜなら、教科書の価格は製造する教科書会社がきめるのではなく
国がきめるからです。
見栄えがよいよう、よい紙をつかい、採択されるべく、見本本をつくります。
検定が通るとすぐ採択のために配らないといけないため、検定で
修正指示がはいると、もう、編集部はひっくりかえったような騒ぎで
印刷の機械をおさえ、修正で許可をもらえた場合、採択のための本を
つくれるよう用意しなければなりません。
ここで、修正せず、検定が通らないといままでのすべての苦労は
水の泡です。全部損失です。会社としてそんなことはできません。
結果的に妥協するべく、表現をかえたりしていくわけです。
その後ようやく検定通過すると、採択戦という名の各自治体に存在する
採択委員(公開されてはいないがだいたい同じひとなのでわかる)へ
見本の本を各学校などへ配るわけです。
結果、現場の先生たちがこの教科書がいいといっても、採択委員が
この教科書と決めてしまうと、その地域では、その教科書が一律採用される
わけです。
なるべく沢山の地域で採択されればそれだけ、教科書ガイド、ドリルなどの
作成許諾利用料が教科書会社にはります。教科書をつくっても赤字だけど
採択されればこの部分で黒字になる場合もあります。
教科書会社としては、審査にとおらなければ、会社がつぶれるといっても
過言ではないのです。
というわけで、中国の青年たち、日本は全部が同じ教科書を使っている
わけでなく、中には教科書を無視した授業をする先生もいます。
私の学生時代の先生は採択された教科書がきにいらないと、一度も
ひらかず、手書きのプリントと図書館で授業をしました。
日本の戦後のレッドパージや当時教科書にはのっていないことを
プリント(キーワードしかかいていない)から、えらび自分でしらべ、
みんなにレポートするという方式で色々な情報を得ることができました。
私は、そこで、メディアリテラシーの教育も同時にうけたようにおもいます。
とても感謝しています。
お願いです、同じ地球上にすむもの、同じインターネットを共有する
人間として、意味のない破壊行為をやめ冷静になってほしいです。
日中で国際結婚をしている友人とその子供たち、たくさん悲しむ
同胞のことも考えてください。
怒りを向ける方向を今一度見直してください。
新潟にアルカイダの幹部が潜伏、とニュースが騒いだのは昨年春先ごろだったでしょうか。おお、すぐ山の反対側じゃん、と、つい顔がほころんでしまいましたが。「テロ厳重警戒」の立て看板が自宅近くに設置されたのにはなんとも。写真撮っておくんでした。10数年前、新宿駅や上野にイラン人がたむろしてたことも思い出しました。このごろでは山形や天童の街中でも、外国人とすれちがうようになりました。西洋系はそう多くない。イスラム系と東洋系が大半。昨年末だったか今年に入ってからだったか入国管理手続きが変更になったらしく、一時ほどではありませんが。スーパーなどへ行くと耳なれない日本語以外のことばが飛びかっていたりする。多くのひとたちは、当の日本人よりも活気があってたくましいような気がする。
小松和彦『異人殺しのフォークロア』は、まれびと・さすらい人・旅人・客人・非定住者が、ときに歓迎され、受け入れられ、もてはやされ、あがめられ、尊崇され、と同時に、あやしまれ、疑われ、うとましがられ、軽蔑され、畏怖され、忌み嫌われ、排除される、という両義的な性格を論じていました。「両義的な性格」と書きましたが、これは異人本人の性格づけでもありますが、異人を迎え入れる(あるいは排除する)側からの性格づけ、意味づけ、ラベリング、レッテルの付与……という、社会(共同体)の問題、社会(共同体)の機能、つまりはわたしたち自身のもんだいなわけですけれども。
さて、はなしは明治。
太平洋戦争とならんでぼくたち日本人にとってとてつもない大変革の時代。大河ドラマなどで新選組やら坂本龍馬やら見ると、はるか昔のできごと、ぼくたちと全く関係のないことと安堵してしまいやすいけれども、たかが百二、三十年ほど前のことにすぎない。明治生まれのひとなんてザラだから、聞こうとさえすれば話は聞くことができる。民間伝承《folklore》。
明治維新。
和魂洋才などということばもあります。海外の技術や能力・習慣・哲学など、優れたものは積極的に取り入れる。学べるものは素直に真摯に学ぶ。姿・形から新しいものを受け入れよう。けれども心は、志は……大和のこころ、大和の魂。政治体制を変革して鎖国をとき、洋を取り入れることにした。それが明治でした。幕末から明治にかけて、欧米から入ってきた最新技術はあげればきりがありませんが、写真、鉄道、電報、活字、このへんがこぞって黒船に乗ってやってきた。多くのばあい胸にクルスをぶらさげて。
結論だけいえば、排除ではなく取り入れるほうを選んだ。明治維新の一代変革のために、戊辰戦争から西南の役にかけて日本国人同士によるあらそいがあったわけですけれども、そのおり武器の大半もまた外来品に依存した。大砲・ライフル銃。舶来品。あるいはそれを見まねたレプリカ。時おりしもアメリカは南北戦争、イギリスはアヘン戦争、フランスはナポレオン三世、ドイツはビスマルクの時代(*1)。世界中できそって多量に武具馬具ブグバグが製造されて出まわった。黒船には信心ぶかい宣教師も乗っていただろうけれども、めざとい武器商人のかたがたもいらっしゃった。かくしてジパング・ゴールドが流出することになる(*2)。
*1 幕末・明治維新当時の世界情勢(※要確認)
1840-1842 アヘン戦争
1854-1856 仏・クリミア戦争
1861-1865 アメリカ南北戦争
1861- ドイツ統一(?)。ビスマルク時代
1868 明治維新
1870-1871 プロシア・フランス戦争
1877-1878 ロシア・トルコ戦争
*2 国産金貨の流出 当時日本の金と銀のレート(交換比率)が欧米と異なっていたのを利用して、海外の商人が銀を国外からもちこんでかわりに国産の金を持っていった。徳川幕府は生麦事件の賠償金を、手元に潤沢だった銀を使って支払ったともいう。
最新技術、武器、そして耶蘇教と医術。
黒船に乗ってやってきたものを、殿様はじめ武士も民衆もおそるおそる見聞し接触しはじめる。手塚治虫『陽だまりの樹』は、そのあたりのことをくわしく描いてましたが。幕末当時、民衆も殿様もわけへだてなく恐れたものに天然痘やコロリなどの流行病がありました。黒船がウイルス・はやりやまいをばらまいているといううわさが流れた。まさに異邦人がもたらす脅威。一方そのころタイミングよく、各地で大地震がおこったり、天候不順がつづいて凶作・飢饉に苦しんでいた。国内のいたるところに、疾病がはやる素地が整いつつあったわけです。
まさに異人は両義性そのものだった。ありがたいものであるのと同時に、死をもたらすまれびととして恐れられた。死をもたらすのも異人。死から救ってくれるのも異人。困惑《confused》。時代はぐっとさかのぼりますが、信長や政宗がそれを好奇し、家康や家光、あるいは時宗や道真がそれを閉ざしたのもわかるような気がします。鎖国というと非文明的なイメージを持ってしまいがちだけれども、そうしないではいられなかったほどの脅威。耶蘇。バテレン。恐怖。拒絶。わからなくもありません。ウイルスのキャリアや狂人や異形の者や犯罪者を隔離しないではいられない。遠ざけておきたい。共同体の中に入ってきてほしくない。そういうどうしようもない感情。生命保持のための根元的・生物的欲求。“われわれ”にあだなすエネミーへの拒否反応。
尊皇攘夷。
明治維新は、まさに異人殺しからはじまりました。ヒュースケン殺害。清河八郎は異人殺し・異人襲撃をたくらみ、それによって幕府が困惑し崩壊するというシナリオを考えたという。あるいは生麦事件。参勤交代中の 薩摩藩主(訂正:藩主父)・島津光久久光の行列に無礼をはたらいたかどでイギリス人が殺害される。これをきっかけに薩英戦争となる。ところが塞翁が馬とはよくいったもので、生麦事件と薩英戦争の戦後処理をとおして薩摩藩とイギリスは密接な関係を築いていくことになる。まるで戊辰戦争で最後まで抵抗した庄内藩がその後薩摩藩と親密になっていくのと同じように。まるでGHQに占領された日本がその後アメリカと急接近していくかのように。生麦事件で殺害されたのがイギリス人でなく別の国の人であったなら、その後の薩摩も明治以降の日本もはたしてどうなっていたものやら。
明治維新にしても太平洋戦争にしても、もっと最悪の進路がすぐとなりにあったように思えてならないのです。悲惨なイメージがあるわりに戊辰戦争から西南の役にかけて亡くなった日本人の数はそう多くない。徹底的に争っていたら江戸だって危なかったはずだ。すんでのところで救われた生命や災難をまぬがれた都市。責任を一手にひきうけて散った者たち。太平洋戦争にしても、沖縄同様、本土が決戦場となりえた可能性。東京や大阪・京都が、長崎・広島となりえた可能性。分裂統治の可能性。ソ連や中国による統治の可能性。それをおもうと過去のギリギリの選択・舵取りと現在の状況は、まるで奇跡にさえ思えてくる。
両国国技館で座布団が宙を舞うのは、横綱が外国人だからではなく日本人力士同士であっても舞うときは舞うのですが……あの座布団の舞いっぷりのいいこと。TVで見ててあまりいい気はしないのですが、モンゴルで見てるひとたちはどんなふうに見てるものやら。案外、あの座布団に共感してるひとも少なからずいるかなとも。日本人の希望的観測。
さて、明治維新。出羽三山。
庄内のおひざもとだった出羽三山は、直接的・間接的に戊辰戦争にまきこまれます。結論からいうと庄内藩や出羽三山は、敗者側ということになります。裁かれる側・罰を受け入れる側です。理不尽な戦後のあつかいにも耐えねばならなかった。命があるだけでも、田畑が残されただけでも救いだった。明治維新という大変革・大転換のために徳川幕府を排除し、それにかわるものとして新政府は天皇中心的の政治・王政復古をかかげたわけですが、それをした支える哲学・思想・歴史として神道がもちだされます。なににもまして天皇であり神道であると。
告白してしまいますが、出羽三山の明治維新を考えていて、薩長 vs 庄内藩、神道 vs 修験道、という基本的構図を当然のごとく頭に描いていました。神仏分離。廃仏毀釈。それにつらなる戊辰戦争。出羽三山対新政府の宗教政策。ところが、どうやらそれではたりないのだと考えを改めることになりました。神道、仏教、修験道。これだけでは明治の大転換はすまされない。大きな存在を忘れていました。……バテレン。耶蘇。基督宗。過激な尊皇攘夷思想から倒幕・王政復古へと向かい、さらに開国・明治維新へと向かう過程は、海外から訪れた宣教師の活動をぬきにして語れるものじゃないことに遅まきながら気がつきました。舞台が出羽三山ならばさほど重要ではないだろうという認識でした。ところがおそらくとんでもない。明治維新の宗教界はもっとどろどろの、三つどもえ、四つどもえ、くんずほぐれつ、上になり下になりの異種格闘技、天下一武道会、バトルロワイヤルだったのかもしれない。
参考文献
小松和彦『異人殺しのフォークロア』
安丸良夫『神々の神仏分離』1979.11.

を、おねえちゃん、ちょっと……

ぼくのハクモクレンも開花しちゃうって。
2005.4.2 ローマ法王・ヨハネパウロ2世没。
2005.4.3 甲子園準決・神村学園(鹿児島)4×0羽黒(山形)。野上投手に羽黒4安打。
2005.4.14
しだひろし/PoorBook G3'99
著作権保護70年延長反対に賛成。転載・引用・リンクは自由です。
ソニーの携帯ゲーム機「PSP」には無線LAN機能が付いている。でも、WEBブラウザーが付いていない。もし付いていたら、携帯機器のなかでも最高のWEBブラウジング・マシンとなるんじゃないかと思っていたら、「林檎はいかかですか?」さんのページで、PSPのソフト「Wipeout Pure」を使ってWEBブラウジングする方法が載っていた。
その方法で、さっそく青空文庫にアクセス。見え方は以下の通り。

いや、素晴らしい! 感動!
さらに各作品のXHTMLを表示。

まあ、これで読むことはないだろうけど、なかなかイイ感じ。
しかし、もともとWEBブラウザーではないので、履歴を戻ることができない。ページ内に「もどる」のリンクがあれば、それを選択してもどることができるのだろうけど。
それと、大きな容量の作品を表示させようとすると、ダウンロードしっぱなしになってしまう。これも、WEBブラウザーとして考えられていない結果だと思う。

これは、T-Time5.5ベータ版を使って青空文庫の作品をPSPで表示させた場合。こちらは結局、T-Timeで表示させたテキストを画像化してPSPに送り込んでいるので、写真のスライドショーのようなもん。これでもいいんだけど、一番スマートなのはPSP版azurがあって、無線LAN経由で、各作品のXHTML版が縦書きルビ付きで上記の様に表示されることだろうなあ。
J-WAVEのホームページが、4月1日から全面的にblogを使い始めた。
FM放送というものは、何か別のことをしながら聞く場合が圧倒的に多いと思う。仕事をしながら、家事をしながら、食事をしながら。で、この中の仕事の場合、最近では否が応でもコンピュータとにらめっこしている場合が多い。つまり、コンピュータの近くにFMラジオがある場合が多いのだ。となると、FM放送のナビゲーターに、詳しくはホームページを見て下さい、と言われればすぐにそのページにアクセスすることができる。FMで気に入った曲が流れていたりすれば、そのホームページで曲名をすぐに確認することができる。
だったら、電波でプログラムを提供すると同時に、同じものをネットででも配信すればいいのに。iTunesの「ラジオ」のところに、J-WAVEやFM東京があればいいのに。まあ、放送法だかなんだか知らないけれど、権利の絡みですぐに実現は無理なんだろうなあ。しかし、おそらく、そうなるのは遠い未来のことじゃあない。メディアの融合を考えるんなら、まずはニッポン放送をiTunesの「ラジオ」のところに出してみて欲しいなあ。
放送局として、メディアの融合に関していま出来る範囲内のことは、まずは番組のナビゲーターのblogを作ることだけで、その内容のRSSを配信するだけなのかもしれない。でも、そこんところを一歩踏み込んで、ポッドキャストなんて技術を使って、音声をネットで配信することも試して欲しいんだけど、ダメかなあ。米国音楽著作権団体もポッドキャスティングに関する使用許諾条件を発表したことだし、日本の金儲けばかり考えている団体も、こういう新しい技術に関してもフットワークを軽くしくれるんなら、70年に伸ばしても……。いやいや、やっぱりダメだ。
参考blog:
http://pcweb.mycom.co.jp/column/svalley/119/
http://kojo.typepad.jp/kjs_view/
CD「Like a Water Buffalo」(水牛のように)を本日発売しました。4月1日という日付にちょっとあやしさがただよいますが、ウソではありません。御喜美江さんと水牛との共同プロデュース、2年がかりで実現しました。
「Like a Water Buffalo」(高橋悠治作曲)というアコーディオンのための曲ができて20年たち、御喜さんの提案を受け入れて、フリードリヒ・リップス(ロシア)、エルスベート・モーサー(スイス)、マッティ・ランタネン(フィンランド)が演奏に参加してくれました。曲のもとになった詩を書いてくれたオーストラリアのウェンディ・プサードともインターネットを通じて連絡がとれて、彼女のあかるい声の朗読もいれることができました。CDとしては現代音楽に分類されることになるのでしょうが、そこからはみだす部分が微妙ながらも確実にあるのが水牛的なところです。御喜さんという演奏者をはじめに得て、そこから幸福な20年間をスタートさせた曲の歴史というようなものも感じます。楽譜もきょうからダウンロードできるようになりました。楽譜を見ながら4人のソリストの4人4様の演奏と朗読を楽しむ、という趣向はいかがですか?
「水牛のように」を2005年4月号に更新しました。
杉山さんのところにやってきたちいさなひとについてはメールで知らせが届きました。原稿にも書いてくれるといいなと思いましたが、黙っていました。そしたら、ほら、願いのとおりに。御喜さんは13歳のときにははやくもアコーディオンを弾くひとになろうと決めていたのですから、筋金入りです。でも、彼女の筋金はとてもしなやかで、それがあることすら感じさせないこともあるのです。その御喜さんのコンサート、アコーディオン・ワークス2005は本日、4月1日午後7時から東京文化会館小ホールで。今回のテーマは、「風景のなかで」。「たとえば、「風景」「風」「鳥」といったテーマ別の本棚に納まったさまざまな本をひもとくのを想像してください。まるで呼吸するような、クライマックスのない演奏会があっても、いいですよね?」水牛のCDの出店もあります。
水牛のアドレスを変更しました。新居はhttp://www.suigyu.comです。ブックマークの書き換えをお願いします。
それではまた!(八巻美恵)