DVDレコーダーが進化する
水牛だより3月1日

2005年02月18日

 自然と理性と死と生と

なんだか前口上ばかり長くて、なかなか物語りに入れなくなったような。
まわりみちついでにいましばし。

ふたたび、死にそうな思いをしたことについて。
「踊る弘法大師」のなかで書きましたが、そのことについてもうちょっと。思い出しましたが2年ほどまえ、どうしようもなくて病院へ行ったことがありました。腰の裏側から右太ももにかけて激痛がおそい、寝ても立ってもいられない、痛みで夜もまったく眠れない、日に日に痛みが増すばかりという症状におそわれました。ぎっくり腰でもない。

こどものころ、足首をねんざしてギプスをはめ、松葉づえをついて学校へかよったことがあります。それ以来、病院へはいつも人の見舞いばかりでした。ところが今回ばかりは原因不明の尋常じゃない痛みにどうすることもできなくて。しかも、なんか足のつけ根に黒いアズキ大のカサブタが4つ5つ出来ている。ひたいにも。さらに、わきばらから足のすねまで虫さされのような赤い点々がいくつも。

なんじゃぁ、こりゃあ? でした。
じぶんでも怖くなった。ほんと。もしかしてこのまま下半身不随になるんじゃないかとマジで思った。とにかく痛みが尋常じゃない。眠れないのだ。いっそ死んだほうがラクだと思うほど。わけのわからない痛みというのは怖い。どう対処すればいいのかわからないのだ。こころあたりはあるにはありました。症状があらわれる直前、山仕事の手伝いに行ったことです。里地からさほど離れているわけではないけれど、野ネズミが出る、カモシカが出る、マムシが出るというような里山。カモシカが体を木にこすってダニ落としをすると聞いていたので、もしやそういったダニの一種だろうか? と疑いました。ちょうど虫さされに似た赤いブツブツだったので。初夏なので油断して肌を露出してました。でも、たかがダニくらいでこんなに痛むだろうか……。虫さされと違って皮膚の表面がかゆいというもんじゃなく、筋肉とか骨に近い深いところがズキンズキンと絶え間なく響くように痛む。そこでふと思いうかんだのがツツガムシ。まさかと思いながらも半信半疑にネットでツツガムシを検索。すると……解説文とともに、なんか見なれたような黒いカサブタの写真が。それも足のつけ根に。

ソケイブ? と看護士さんがすっとんきょうな声をあげてました。驚喜に近い声だったような気がするのですが。それはともかく。どうやら医療業界用語では、足のつけ根からイチモツにかけての部分を鼠径部《そけいぶ》と言うらしい。血液検査の結果、1週間後ツツガムシ疑惑は晴れました。それでも痛みはおさまらないので、皮膚専門の病院へ紹介状を書いてもらって行くことに。すると、うら若き女医さんはいともかんたんに「あ、これツヅラゴじゃない?」とのたまわく。それから、やさしい看護士さんがツヅラゴ(帯状疱瘡)についてプリントを使って解説。軟膏をヌリヌリ。ふつうこどものころ経験する水ぼうそうは、症状が消えたあともウイルスは体内に潜伏しているらしい。ところがそのウイルスがなんらかのきっかけ(ストレスとか、生活習慣の変化とか、睡眠不足とか)で働き出すことがある。それを帯状疱瘡と(方言でツヅラゴとも)いうらしい。はじめて聞いた。

発症するひともいれば、発症しない人もいる。痛みが消える人もいれば、ずっと痛みが残る人もいる。体の表面に帯状にポツポツがあらわれるひともいれば、体の内部に症状が出るひともいるという。ぼくのばあい、およそひと月で痛みは弱まり、ほぼ完治してくれました。後日談。その年の暮れあたりだったでしょうか。皇太子妃雅子さまが、同じく帯状疱瘡で体調をくずされたと。ひとごとのように思えませんでした。ちなみに人にうつる心配はないらしい。ただ、生まれたての赤ん坊には接触しないこと。半年間は献血もペケ。

さて帯状疱瘡がテーマというわけではなくて。
なんていうか、人間社会のなかにいると「恐ろしい」とか「怖い」とかいうような経験は、幸か不幸かあまりありません。震災などの自然災害に遭遇したこともぼくはありません。自動車事故なども見かけたことはあっても体験したことはない。周囲の多くのひとたちもおおかた理性的ですから、ある程度なにをするかはおおざっぱであっても予測がつきます。おおざっぱながら予期できるから、そんなに驚くことはない。恐ろしい、怖いということもあまり感じない。

ところが、自然はそうはいかない。
昨年、ロイヤルストレートフラッシュのように天災が続きましたが、自然《nature》は人間のように手加減がない。ようしゃがない。情状酌量も恩情もない。公平にわけへだてなく、ぼくたちを恐怖におとしいれる。現代技術で押さえこめればその恐怖を感じることなく日常をすごせるわけだけれども、それをこえておしよせる自然は……。現代医療が押さえこむことに成功している病気やウイルスもあれば、そうでないものもある。現代社会が押さえこむことに成功している狂気もあれば、そうでないものもある。理性《reason》と無縁な存在が自然だ。

寝不足だったり、疲れていたり、空腹だったり、準備体操不足だったりすると、波乗りをしているときに、それがモロじぶんにかえってきます。確実に。波はぼくの体調や事情など配慮してくれません。手がかじかんでいようが、足がつっていようが、くりかえしくりかえし押しよせます。無謀につっこめば無惨にのみこまれ、巻かれ、海中へ押し込まれ、もみかえされ、天地が不明になり、しこたま海水を飲み、押し流される。まったく情け容赦ない。冬の雪山も同様です。ハーフパイプの中、ジャンプしたはいいが、そのまま急転落下。受け身をとれぬまま横腹からアイスバーンの上へ落ちる。頭も打つ。呼吸のできなくなる胸痛。やっとのおもいで立ち上がる。めまい。おう吐感。だれも悪いわけじゃない。当然の結果がじぶんへかえってくるまでのこと。

この恐怖感とか、体の痛みとか、そういう人間社会では排除されがちな。そういう苦痛から逃れるための現代社会なわけだけれども。だから日々の生活のなかでそういうものを感じる機会はきわめてまれになる。あえてそういうものを求めないと、なかなか体感できない。ところが皮肉にもそういう恐怖感や苦痛こそ「生」を実感できるもってこいの手がかりなのだ。快楽や歓喜以上に。生を感じることができるのは死を直感して、その裏返しとして一体としてある「生」なわけだ。

……というこのあたり、ものがたりに盛りこみたいネタのひとつなわけです。ネタというより作品をささえる柱の一本かもしれない。前回の両義性うんぬんとともに。哲学とか宗教とかいうと、ややもするとあたまでっかちな話になりやすい。ところが、仏教のなかでも山岳修験とか山伏とかいわれるものは、体を酷使してそのことを体得しようとしている。こっけいなほど。かたちはちがうけれど禅宗にもそういった部分があるかもしれない。書物を読むだけでは体感できない、皮膚の毛穴や五臓六腑や感覚器官や足の裏や尻の穴などなど全細胞総動員で、たどりつける、とぎすまされる、遠い記憶からふたたび思い起こせる感覚。そんなことを考えると現代も修験のさかんだった当時も、ひとの悩んでることは似たりよったりだったような気がおおいにしてくる。それもまたおかしからずや。



2005.2.18
しだひろし/PoorBook G3'99
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