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たんなるスケベならまだいいものの、説教くさいスケベとなると、これはいけない。説教をしてる自覚がないままに、他人にああしろこうしろなどといいはじめたら、とりわけ要注意。わが身を三省。
さて、「過去を振り返る、そんな感じですかね?」というコメントをいただいて、なるほど、そういう受けとりかたがすなおかもしれないと思いました。個人的には、前回の文章(「オリジナリティについて」)を書いた目的は、なんらかの共感をもっていただけたらと思ってのことでした。マンガやイラストを描くのが好きな人はもちろん、詩でも小説でも音楽活動でも、創作にたずさわったことのある人なら多くのひとがピンと感じてもらえそうなテーマ。かといって創作活動や表現活動をしているひとだけの問題というわけでもなく、すべてのひとに共通するかもしれないテーマ。
どうして共感してもらいたかったかというと、前回の文章のなかでもちょっとふれましたが、ぼくがうまれそだった山形、この地域を舞台にしたものがたりをこれから数回にわたってしていきたいと思っています。ところがそれは、ぼくにとって身近で興味ある題材ではあっても、すべてのひとにとってそうであるわけではありません。むしろ興味ないひとのほうが多くてあたりまえです。さらにいうと、出羽三山という宗教的かつ歴史的(=現代的でない)なテーマをとりあつかっていきます。現代人の「ぼくたち」にとって、宗教も歴史もまたちょっと縁遠い題材なわけです。身近でない、実感がわかない、興味がもてない、親しみがない。唐突に、山形だ出羽三山だといわれてもちょっとついていけない。
そういう反応があたりまえだと思うのです。事実、すでに数回にわたって出羽三山をとりあげ、ちょっとした文を書いてみましたが、「このテーマについてたいへん興味がある」という反応は、いただいたコメントからは見受けられませんでした。ポジティブに考えれば、大勢の読者が声をひそめてワクワク心待ちにしてくれてる。ネガティブに考えれば、出羽三山などどうでもいい、関係ない、興味ない、うざい、だれも読んじゃいない。
歴史的な題材であっても、ぼくたちは共感できる例をたくさん持っています。坂本竜馬しかり、信長・秀吉・家康しかり、義経しかり、釈迦やイエス、ピカソ、ガンジー、チャップリン、ケネディー、ブルース・リー、ジェームス・ディーン。ではでは、山形を舞台にしたメジャーな最近の作品といえば。近年、山田洋次監督や恩地監督などなどありがたいほど映画のロケ地として採用してくれてますが。だがしかし、山形といったらなんといっても『おしん』をあげないわけにはいかない。橋田先生と小林綾子ちゃんは名誉県民どころじゃない。国民栄誉賞あげてもいいくらい。20年たったいまなお人気おとろえず。伝説的国民的テレビ作品。では、おしんちゃん以外のビッグネームとなると、米沢出身の伊達政宗とか上杉鷹山あたりでしょうか。
文学界、といってもひとくちにいえませんが、どうなんだろう。ひいき目でみるせいでしょうか。山形出身作家の多いこと。かりに、これから作家になるためには同郷のすべての作家のすべての作品を読まなければならない、などというルールがあるとしたら。おそろしいことです。この地を舞台にした作品となるとだいぶ候補がせばまりますが。ではでは、そのなかで、宗教とりわけ出羽三山や山寺など山岳修験をあつかったものというと……。
藤沢周平さんならもしかすると、と思ったので書店の本だなをざっとながめると、予想どおり『春秋山伏記』という作品があるのをみつけました。エッセイにも六部なんとかというのがありました。佐藤賢一さんは西欧の中世が専門だし、阿部さんは現代だし。御大・井上ひさしは……かぞえるほどしか読んでいないので参考になりませんが、直接山形の修験をあつかった作品をぼくは知りません。けれども、直接宗教をあつかっているわけではないけれど『吉里吉里人』『國語元年』そして『薮原検校』、そんなところがあたまをかすめます。
司馬遼太郎『街道をゆく』シリーズのなかに、山形を舞台にした作品として『羽州街道』編があります。米沢・高畠・上山・山形・天童あたりまでだったような。新庄・最上地域や庄内地域はざんねんながら。藤沢さんに気がねしたとか、そういうわけじゃないと思うんだけれど。司馬さんは出羽三山に興味がなかったか、といえば答えはNO。司馬さんはしばしば作品のなかで宗教観についてふれています。前述の『空海──』以外にも幕末ものでも儒教や仏教を取りあげたり、『街道をゆく・愛蘭土紀行』でもカトリック・プロテスタントやケルト文化などに言及しています。で、たしか『空海──』のなかで、出羽三山うんぬんと書いていたような記憶があります。あまり多くを書いてはいませんでしたが、文面からすると興味がないどころか、むしろかなり関心があるのではないかと感じました。出羽三山について書くならば、紙数をさいて独立した作品を書きたいという意志がもしかするとあったのでは、というのが推測です。『街道をゆく』シリーズの総索引辞典をみつけたのでためしに出羽三山で引いてみたところ皆無でしたが。
司馬さんや藤沢さんがなにを書いていようと、興味ない人はやはり興味ないわけですけれども。そういうわけで、出羽三山を舞台にしたものがたりというのはちょっとリスクがありすぎます。導入部として2つ3つ身近な思い出ばなしをしてはみたものの、それで読者が親近感をもってくれたとはまだ考えにくい。そこでおもいつきに振ってみたのが、オリジナリティとかアイデンティティとかパーソナリティとかいわれる話題だったわけです。多かれ少なかれすべての人は、それまでのなんやかやの経歴のうえに現在なんやかやしているわけで。これならば、比較的興味がもてるのではないかと。
それでは、現代人と宗教とはどういうかかわりがあるだろう、とか、現代の日本人と宗教との関係は、とか、現代世界と仏教やキリスト教やイスラム教の関係は、とかいうような、深くて悩ましい問題については直接はふれません。個人的な興味がそのあたりにあるのは事実ですし、ものがたりの核心はそのあたりとシンクロさせるつもりですが。直接あつかうにはリアルすぎてそれでいて抽象的すぎます。9.11やイラク、オウム事件など現代社会と宗教の関係性を言及しているひとは少なくないし、一神教と多神教のちがいなどを指摘するひともいますが。
昨年、紀州の熊野三山や高野山が世界遺産に登録されました。和歌山・三重・奈良近辺ならずとも、読者のみなさんのなかにも関心あるひとたちがいるかもしれません。対抗意識というわけではないと思うのですが、山形では出羽三山を世界遺産に、という機運が高まりつつあります。じゃあ、出羽三山なり熊野三山のなにがそんなに貴重なのか。なにがそんなにほかの地域と異なるのか。古くて歴史があるとそれほど価値があるのか。歴史と自然が残っていると価値があるのか。まるでいいことずくめのようにもてはやされているけれども、ほんとうにそれだけだったのか、というひねくれた見方だってできるはずです。ややもすると、お国自慢、被害者意識、謙譲の美徳、自然と歴史の賛美のようなところでおちついてしまいやすい。ですが直感的には、大いなる両義性だったと思うわけです。いろんなものがここから生まれた。たいへんすぐれたもの、役にたつものも生まれたかもしれない。と同時に、それ以外のものも生んだのではないか。とまあ、こんなかんじです。
2005.2.13
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しだひろし/PoorBook G3'99
米沢は上杉藩ですね。それで思い出すのが、「忠臣蔵」
なぜあれは兵庫県赤穂の話ではないかと。それがですねえ。「忠臣蔵」のもう一方の主役吉良上野介の息子が養子に行ったのが、米沢藩だったはず。大石らにその首を狙われていると知った吉良さんは、米沢藩主である息子のところへ逃げこもうとするのですね。でも息子にはかなり人間のできた家臣がいるのですね。色部刑部でしたっけ?名前を間違えていたら失礼。彼が、父思いの藩主を説得し、米沢藩に沙汰が及ぶことを食い止めるのですね。「忠臣蔵」って大石と米沢藩の心理戦でもあったのですね。
Posted by: ten at 2005年02月13日 09:12賞味……、ちがった、なんておいしそうな。
かぶりつきちゃいたい。個人的にはピーチ味がいいです。
いっただきまーす、めします、罪の果実。
ん、微妙な塩かげん。
村上弘明さんの柳沢吉保と、保奈美ちゃんのそめこがよかった。勘九郎さんの愛人が安達祐実ちゃん。元赤穂藩の家老で大石とたもとをわかったといわれる人物が、じつは大石たちが討ち入りに万一失敗して吉良が米沢へ逃げたばあいにそなえて、米沢口の峠でまちぶせ計画をたてていたとか。吉良さんは赤穂に製塩技術をおそわろうとして断られたことを逆恨みして、浅野内匠頭に反感をもったとも。なんともしおらしい話で。
Posted by: しだ at 2005年02月14日 23:31>村上弘明さんの柳沢吉保と
誰にでも過去はあります。柳沢吉保の過去が「仮面ライダー」というのもまたよろしいかも・・
そういえば、2月の何日だったかわすれましたが、司馬さんの命日だそうで、司馬さんは「菜の花」がおすきだったとかで、「菜の花忌」というのだそうですよ。
Posted by: ten at 2005年02月15日 20:25♪なのはな畑に およよ、よよよ
よよよい、よよよい、よよよい、よい
めでてぇなぁ。
三浦半島あたり、たしかいまごろでしたっけ(?)
Posted by: しだ at 2005年02月18日 00:03