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安倍晴明と清河八郎。歴史的人物2人をならべてみたものの、歴史的に2人のあいだに密接な関係がある、というようなはなしは聞いたことがありません。清河八郎はけっこうあちこち歩き回ってるようだし、日記や手紙をこまめに書いていたようだから、もしかしたらなにか晴明について記述してないとは限りませんが。
6月20日、山形県羽黒町いでは文化記念館にて、大阪市阿部王子神社宮司長谷川靖高さんによる「陰陽道と修験道の関わりについて」という題の講演会があり行ってきました。天童から新庄経由でちょうど100キロ。くるまで2時間くらい。月山をはさんで真裏に位置します。羽黒山といえば出羽三山のひとつとしてかぞえられ、崇峻天皇第三皇子の蜂子が開いたとか、五重塔は平将門が建てたなどともいい伝えられています。平家を滅ぼしたあとの義経・弁慶一行が兄頼朝に追われて、羽黒山を口実に山伏に変装して逃げのびてきたともいいますから、平安の時代末期にはすでに名が知られていたわけです。
関東一円に弘法大師空海にまつわる伝説があったり、平将門ゆかりの伝説があるのとおなじように、ここ山形にも、空海の見つけた井戸だとか将門の末裔が逃げのびた伝説などがあります。ただ、これが安倍晴明となると、残念ながらはなしに聞いたことがありません。関東にならば晴明伝説がちらばってるみたいなのですが。
羽黒山へ行く途中手前に立川町があります。そこでふと、清河八郎のことを思い出したわけです。大河ドラマ『新選組!』では白井晃さんが好演してました。あっけなく殺されてしまいましたが。出羽庄内出身の清河八郎という人物についてぼくが初めて知ったのは、司馬さんの『竜馬がゆく』だったと思います。「明治維新へのとびらはは清河八郎が開いて、坂本竜馬が閉じた」とか、そんなふうに司馬さんは評していたはずです。
なんで清河八郎のような人物がこの地にあらわれたんだろう、と、それ以来考えていました。昭和初期にふたたびこの地・庄内からは、時代を動かす人物たちが少なからず登場することになります。ところが清河の周囲や以前は、と考えを巡らしてみると、なかなか思い当たらないのです。西郷には島津 斉昭 斉彬 や大久保がいたし、竜馬には武市らがいたし勝に出会うまえに教えを請うた師(河田小龍)がいた。桂にも象山や松陰や高杉がいた。しかし、清河八郎には、そういう師や友人が同郷にいたというひろがりが感じられない。江戸で千葉道場で学んだり、山岡鉄舟と交友があったり、私塾をひらいたりしているが、同時代に同郷から生まれた人物が残念ながら見られない。
本名、斎藤正明ともいい、生家はこの地域屈指の商屋だったらしい。この立川町清川という地区は、庄内藩と新庄藩をつなぐいわゆる関所で、最上川を利用した舟運が盛んな時代、そうとう繁盛したといいます。八郎には子どもはいなかったものの、斎藤家のひとは現在でも東京にいらっしゃるそうですし、遠縁の親戚ならば地域に少なくないらしいです。とはいえ、鶴岡の市街までもうすこし距離がありますし、そもそも、目の前に最上川、うしろに月山へつらなる山が迫っている里地です。清河八郎記念館へ行ってこの土地の案内地図を見てみると、近くに小学校があるらしい。「いま、小学校の児童数はどのくらいですか?」と、ついたずねたところ、全児童数で60名ちょっとという答えがかえってきました。一学年10名いたらいいほうで、当然ながら複式学級という。
清河八郎は、諸国をあっちこっちめぐり歩いたらしい。そして、その土地その土地の学識ある人をたずねては一筆書いてもらったりして、「独自に」見聞をひろげていったようです。酒田から船に乗って蝦夷へ行き、克明な北海道地図を書き写したりもしています。遊行。あそびゆく。清河八郎には実家という、遊行をすることが可能なうしろだてがあった。当時、だれもかれもが自由にあちこちを巡り歩くことなどかなわなかった時代。そうして清河八郎はひとり、清河八郎になった。それが清河にとっても限界であり、時代の悲劇だったのかもしれません。
清河八郎は一般に「策士」「策におぼれたために暗殺された」と非難されがちです。事実、彼のやったことをみると、ぼくもそんな感じがします。「では、当時、清河だけが策士だったのだろうか。幕末の時代に生き残りをかけて奔走した志士たちは、懸命に想い、考え、独自の案を練って、時代を動かそうとしたのではないか」と鶴岡出身の作家、藤沢周平が書いているのを今回読みました。なるほど。考えてみれば、策を練ったのは、当時、清河だけではなかった。竜馬も海舟も慶喜も。西郷も桂も近藤も土方も策を練った。ちがいは、後に残されたひとたちが、いかに評価したか、評価しなかったか、ということかもしれません。
竜馬や西郷は、亡くなった後も明治政府に土佐や薩摩出身のひとが少なくなかったので、評価され続けた。佐幕ゆえに逆賊となってしまった新撰組や会津藩の白虎隊。それでも、かろうじて生き残ったひとたちによって、再評価がなされてきた。それが、清河八郎のばあい、孤高であったために郷土のひとびととのつながりも残念ながら薄く、庄内から彼を評価する声が世間へなかなか広がらなかった。そういうふうにも考えられます。
身内びいきにすぎないかもしれません。正しく彼を批判するためには、正しく彼を知りたいと思います。というわけで、メインのはずだった安倍晴明よりも清河八郎にひたってしまいました。6月の台風のおとずれる前日でした。おとなしく降るひさしぶりの雨に、清河八郎記念館の庭にはつつじやすみれがいきいきと咲いていました。あと一週間もすればあじさいが咲き始めるでしょう。羽黒道中の霧のなかには、当地名物の清川ダシとよばれる川風を利用した、白い巨大なスマートな風車が10基ちかく、ゆっくりと回っていました。


あへあへプログラム
竜馬がゆく (3) 文春文庫, 司馬 遼太郎
回天の門 文春文庫, 藤沢 周平
2004.6.22
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。
折口信夫の「信太妻の話」に安倍晴明のことが書かれています。 http://www.aozora.gr.jp/...
Posted by: ten at 2004年06月22日 22:31信太妻、白瓜、……じゃなくて、白狐!
Posted by: PB'99しだ at 2004年06月22日 22:36