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このaozora blogをはじめてから気づいた事といえば、掲示板とblogとの違い。掲示板は誰もが書けるもので、blogは個人が書くものなので、それはもちろんまるっきり違うものだけれど、このaozora blogは複数執筆者という若干変わった形態をとっているために、掲示板にちょっぴり近いと言えば近い。なので、そこにネットでの議論のあり方というのが少し見えてくる。
掲示板だと、例えスレッド形式の掲示板だとしても、ある議論が伯仲して、それがまるでなじりあいの様を呈してしまうと、それがその掲示板の色になってしまう。ここの掲示板に巣くう人々はこんな過激な人々ばかりなんだ、なんて一見さんの目に映ってしまう。
ところがblogの場合、そのblogを主宰している人の意見がまず掲げられ、そのお題目に対してコメントが付けられて行く形になるので、そのblogの色はそのお題目を掲げている人の色そのままだ。辛辣な意見ばかり述べる人のblogはそんな色になるし、穏やか人のblogはなんとなく穏やかなままだ。意見も個々独立しているので、その意見に興味がなければそこのコメントを覗くこともない。たまたま穏やかなblogでなじりあいが行われていたとしても、それが前面にしゃしゃり出てくることはまずない。
livedoor社長日記というblogがある。最近、近鉄球団を買うんじゃないかというニュースが流れたlivedoorの社長の日記だ。そのblogに対して署名で書く記者の「ニュース日記」というblogが2004年6月26日付けで“「社長日記」に異議アリ!”という批判の記事を載せたところ、そこに多数コメントが書き込まれた。賛否両論なんだけど“否”のほうが圧倒的に多い。それも過激な“否”だ。なんでこんなコメントが増えてしまったのだろうと思っていたのだが、どうやら自分の気に入らないコメントは「ニュース日記」側で削除してしまったらしい。いや、それはまずい。この“削除”という行為は、得てして火に油を注ぐ場合がある。“削除”は慎重に慎重を以てしなけりゃならない。それに「鼻持ちならないというやつだ」という意見に対しては、ああいうコメントが付いて行くもんです。それがそこのblogの色なわけだから。どちらかというと批判されているlivedoor社長のblogの方が大人なblogに見えてしまう。
blogはあくまでもWeb上に日記のようなものを書いていくツールなので、ネットで議論をしていくためのツールではまっるきりない。しかし、blogとスレッド形式の掲示板をうまく融合できれば、少なくとも今の掲示板よりは議論に適したツールになるんじゃないかなあ。
まず意見が掲げられる。その意見は誰もが見ることができる。でもその議論はその部屋に入らなければ見ることができない。興味があればその部屋に入っていく。その議論は、その意見を掲げた人がコントロールしていく。このコントロールが難しいとは思うんだけど、良くも悪くもそのコントロールする人の色が出て行くんでしょう。過激に行く場合もあるし、穏やかに行く場合もあるし。まあ、どちらにせよ、Web上で意見をまとめるのは一苦労です。文字だけだと、十分にその発言者の意見をくみ取れない場合も多いから。それに、映画『十二人の怒れる男』のリー・J・コッブのように、もうただ単にダダをこねているだけの男が最後まで残ったりすると、それを文字だけで説得するのは至難の業だろうから。Web上ではヘンリー・フォンダのようにはいかない。しかし、少なくともその陪審員部屋のようなクローズドな環境にすることができれば、幾分か今の掲示板よりはマシだとは思う。
最近の「みずたまり」や他のblogを見ていて、以上のようなことをとりとめもなく考えてます。考えてはいるけど、Web上の文字だけの議論、匿名性のある議論だと、それが泥仕合になってしまうのは避けられないことなんでしょう。なんとかいろんなツールを仕立てて、その泥仕合を最小限にとどめたいとは思っているんですけど。無理かなあ。
去年の夏に書いた「夏の夜」に始まって、「秋の午後」「冬の朝」「春の午後」と四季をベースに短文のエッセイを書いてきました。題材は青空文庫に収録作品より抜粋してきました。季節を一巡して、aozora blogは一周年を迎えたということなのだと今改めて思った次第です。
最初このパスワードを頂いたとき、私はPCにまつわる青空文庫のことなど書く力はないし、どうしようと悩みました。不器用な私は、自分の文章を書くことしか知らないので、逆に他の方が書かないことを書くことにしようと勝手に決めました。
さて今回は「夏の午後」。丁度季節が一巡したので、祖母と私の話に戻ります。
題材は『樹木とその葉』「桃の実」若山牧水作より。
—私は惶てゝ一つの桃に齒をあてた。大口に噛み缺かれた桃の頭は、實に滴る樣な鮮かな紅ゐの色をしてゐた。全く打ち續けてその汁を啜り取る樣に私は口をつけた。—
『樹木とその葉』「桃の実」若山牧水
亡き祖母は、毎年夏になると風呂敷包みを抱えて私の家へ来た。真夏の午後の太陽の下、自宅近くの果物屋へ寄り、バスに乗る。バスを降りてから、身体の弱かった祖母は何度も立ち止まり、他所の家の軒先にしゃがみ込み、休みやすみして私の足で10分の道を何倍もかかって歩いてきた。首からタオルを下げて、垂れる汗を拭きながら。
私の小学校から帰ってくる時間を祖母はじっと居間で待っていた。帰ってきた私を呼び寄せると、祖母は、風呂敷の結び目を解いた。解き放された桃の、水蜜の香りが高い湿度に絡みついた。濃紺の風呂敷に整然と水密が6個並ぶ。水密の整列から私の視線の離れることがないのをみた祖母は弾む声で「食べろ。これ、みんな、お前のものだ。食べろ」と言った。私が迷っていると、祖母は白い紙を剥がし、一番赤く熟したものを一つ手に取った。
両掌で水密を包む。指先に軽く力をいれてみる。指先の痕がつく。それを確かめると桃の頭に爪を立て、皮を一気に剥く。皮は軽やかに実から離れていく。
呼吸器の弱かった私は、呼吸器に細かい毛が付着すると大変なことになるので、若山牧水のような丸齧りはできなかった。できなかったが、温い水密の頭から食べて、その汁を啜り取るように口をつける私を、祖母が顔中皺だらけにして、心から嬉しそうに見ていたのである。
一つひとつ薄い紙に包まれている高級な水蜜。祖母が内職をして蓄えたお金で私だけの為に求められた水蜜。それが祖母の密かな唯一の楽しみ。そんな祖母に答えることを私は知っていた。どんな食べものよりも美味しそうに食べた、そして種だけになっても口の中で遊んでいた。しかし口の中で隅々まで広がる水密の甘さに僅かな人間の悲しみの味がすることも知っていた。浄瑠璃を語ることが好きで、不幸な主人公に自分を重ねることしか知らない祖母の悲しい味がした。
今でも水密の入っている包みを開くと祖母の汗の臭いがする。
「みずたまり」で今は亡きジャイアント馬場さんの名前をみたので、思い出したことを書いてみる。
私は、中学ではなく高校がセーラー服だった。背が低く、痩せている私にはちっとも似合うものではなかったが、仕方なく着ていた。
ある冬、電車通学をしていた私は、弁当を忘れたことに駅の改札を過ぎてから気付いた。気付いた私はホームの売店でパンを買っていくことにした。せり出た店先に並べられたパンはどれも美味しそうにみえて、どれにしようかと迷っていると、それも真剣に迷っているので周りの気配などには全く神経がいかなかった。数ある中でも渦巻き型のデニッシュにチョコレートのコーティングがしてあるパンが一個だけあり、「私を食べて!」とビニール袋の中から呟いていた。確かに私に向って呟いていた。セーラー服の白い三本線の袖口から細い腕をさっとだして取ろうとしたとき、間一発で毛むくじゃらの大きな手が伸び「私を食べて!」と私に向って叫んでいるのに横から掻っ攫って行った。だれだ私のパンを横から取るヤツは!と私は横を見た。ワイシャツの脇であった。その目をずっと上に持っていくと、ジャイアント馬場さんだった。腰がぬけそうなくらい驚いた。馬場さんであることに驚いたことは言うまでもない。しかしそれ以上に驚いたのは、大きな手に乗った小さなパンである。なんとかわいいのだろう。私たちがビスケットを手にのせているようなものではないか。私はパンを横取りされたことより手とパンの対比に感動すらあったので、じっとその手とパンを見て居た。それが馬場さんにはパンに未練があると思ったらしい。あの長い顔に小さな目を細めて、テレビで聞くような荒々しい声ではなく、小鳥が囁くように上から言った。
「このパンおいしいかね?」
「あ・・はい」と答えるのがやっとだった。内心私にパンの権利を譲ってくれるのかと期待したのだが。
「ふうん」とパンをまじまじと馬場さんはみた。そして脇にも届かないような身長の私に言った。「中学生?」
田舎の小さな身体のセーラー服姿は、どうみても中学生だったのだろうが、少しむっとしながら私は「高校生です」と答えた。私がむっとしたのを即座に感じた馬場さんは、短い髪に手をやり頭を掻いた。そして長い顔を崩して情けなそうにえへへと笑った。
なんと可愛い人なのだろうと高校生の私は思った。当時大人の異性を可愛いと思ったのは後にも先にもジャイアント馬場さん一人であった。
馬場さんは、もう一つ他のパンを選ぶと、お金を出し、さっさと行ってしまった。あのパンの権利は私に譲られることなく。私は仕方なく他のパンを選んでお金をだした。
夕方、帰宅途中、家の近くの電柱でポスターを見た。昨日の日付のポスターが風に揺れていた。中央にはガウン姿のジャイアント馬場の勇姿だった。
安倍晴明と清河八郎。歴史的人物2人をならべてみたものの、歴史的に2人のあいだに密接な関係がある、というようなはなしは聞いたことがありません。清河八郎はけっこうあちこち歩き回ってるようだし、日記や手紙をこまめに書いていたようだから、もしかしたらなにか晴明について記述してないとは限りませんが。
6月20日、山形県羽黒町いでは文化記念館にて、大阪市阿部王子神社宮司長谷川靖高さんによる「陰陽道と修験道の関わりについて」という題の講演会があり行ってきました。天童から新庄経由でちょうど100キロ。くるまで2時間くらい。月山をはさんで真裏に位置します。羽黒山といえば出羽三山のひとつとしてかぞえられ、崇峻天皇第三皇子の蜂子が開いたとか、五重塔は平将門が建てたなどともいい伝えられています。平家を滅ぼしたあとの義経・弁慶一行が兄頼朝に追われて、羽黒山を口実に山伏に変装して逃げのびてきたともいいますから、平安の時代末期にはすでに名が知られていたわけです。
関東一円に弘法大師空海にまつわる伝説があったり、平将門ゆかりの伝説があるのとおなじように、ここ山形にも、空海の見つけた井戸だとか将門の末裔が逃げのびた伝説などがあります。ただ、これが安倍晴明となると、残念ながらはなしに聞いたことがありません。関東にならば晴明伝説がちらばってるみたいなのですが。
羽黒山へ行く途中手前に立川町があります。そこでふと、清河八郎のことを思い出したわけです。大河ドラマ『新選組!』では白井晃さんが好演してました。あっけなく殺されてしまいましたが。出羽庄内出身の清河八郎という人物についてぼくが初めて知ったのは、司馬さんの『竜馬がゆく』だったと思います。「明治維新へのとびらはは清河八郎が開いて、坂本竜馬が閉じた」とか、そんなふうに司馬さんは評していたはずです。
なんで清河八郎のような人物がこの地にあらわれたんだろう、と、それ以来考えていました。昭和初期にふたたびこの地・庄内からは、時代を動かす人物たちが少なからず登場することになります。ところが清河の周囲や以前は、と考えを巡らしてみると、なかなか思い当たらないのです。西郷には島津 斉昭 斉彬 や大久保がいたし、竜馬には武市らがいたし勝に出会うまえに教えを請うた師(河田小龍)がいた。桂にも象山や松陰や高杉がいた。しかし、清河八郎には、そういう師や友人が同郷にいたというひろがりが感じられない。江戸で千葉道場で学んだり、山岡鉄舟と交友があったり、私塾をひらいたりしているが、同時代に同郷から生まれた人物が残念ながら見られない。
本名、斎藤正明ともいい、生家はこの地域屈指の商屋だったらしい。この立川町清川という地区は、庄内藩と新庄藩をつなぐいわゆる関所で、最上川を利用した舟運が盛んな時代、そうとう繁盛したといいます。八郎には子どもはいなかったものの、斎藤家のひとは現在でも東京にいらっしゃるそうですし、遠縁の親戚ならば地域に少なくないらしいです。とはいえ、鶴岡の市街までもうすこし距離がありますし、そもそも、目の前に最上川、うしろに月山へつらなる山が迫っている里地です。清河八郎記念館へ行ってこの土地の案内地図を見てみると、近くに小学校があるらしい。「いま、小学校の児童数はどのくらいですか?」と、ついたずねたところ、全児童数で60名ちょっとという答えがかえってきました。一学年10名いたらいいほうで、当然ながら複式学級という。
清河八郎は、諸国をあっちこっちめぐり歩いたらしい。そして、その土地その土地の学識ある人をたずねては一筆書いてもらったりして、「独自に」見聞をひろげていったようです。酒田から船に乗って蝦夷へ行き、克明な北海道地図を書き写したりもしています。遊行。あそびゆく。清河八郎には実家という、遊行をすることが可能なうしろだてがあった。当時、だれもかれもが自由にあちこちを巡り歩くことなどかなわなかった時代。そうして清河八郎はひとり、清河八郎になった。それが清河にとっても限界であり、時代の悲劇だったのかもしれません。
清河八郎は一般に「策士」「策におぼれたために暗殺された」と非難されがちです。事実、彼のやったことをみると、ぼくもそんな感じがします。「では、当時、清河だけが策士だったのだろうか。幕末の時代に生き残りをかけて奔走した志士たちは、懸命に想い、考え、独自の案を練って、時代を動かそうとしたのではないか」と鶴岡出身の作家、藤沢周平が書いているのを今回読みました。なるほど。考えてみれば、策を練ったのは、当時、清河だけではなかった。竜馬も海舟も慶喜も。西郷も桂も近藤も土方も策を練った。ちがいは、後に残されたひとたちが、いかに評価したか、評価しなかったか、ということかもしれません。
竜馬や西郷は、亡くなった後も明治政府に土佐や薩摩出身のひとが少なくなかったので、評価され続けた。佐幕ゆえに逆賊となってしまった新撰組や会津藩の白虎隊。それでも、かろうじて生き残ったひとたちによって、再評価がなされてきた。それが、清河八郎のばあい、孤高であったために郷土のひとびととのつながりも残念ながら薄く、庄内から彼を評価する声が世間へなかなか広がらなかった。そういうふうにも考えられます。
身内びいきにすぎないかもしれません。正しく彼を批判するためには、正しく彼を知りたいと思います。というわけで、メインのはずだった安倍晴明よりも清河八郎にひたってしまいました。6月の台風のおとずれる前日でした。おとなしく降るひさしぶりの雨に、清河八郎記念館の庭にはつつじやすみれがいきいきと咲いていました。あと一週間もすればあじさいが咲き始めるでしょう。羽黒道中の霧のなかには、当地名物の清川ダシとよばれる川風を利用した、白い巨大なスマートな風車が10基ちかく、ゆっくりと回っていました。


あへあへプログラム
竜馬がゆく (3) 文春文庫, 司馬 遼太郎
回天の門 文春文庫, 藤沢 周平
2004.6.22
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。
『斎藤茂吉全集』より
月山 七月二十二日
東より朝あけわたるほのひかりいよいよ山に登りてゆくも
ほほの木の實はじめて見たる少年に暫しは足をとどめて見しむ
※[#木+無]の實のおちゐる道を踏みながらやうやく明けし峡にかかりぬ
山谷にあやしく鳴ける蝉のこゑ
宿いでて二里半あるき立石澤流れに著きぬさ霧の中を
山ふかく人りつつ來り驚くべし谿に生ふる草の秀でたるさま
この谷の空にこもりてにぶきこゑ
水芭蕉山煙草などいふものをわが子の茂太もわれも見てをり
からす川といふ名をもち山そこに寂しき川は流れてゆくも
わが家より持ちて來りし胡瓜漬を
その
小屋見れば兎の足が六十餘りあり冬に來りて狩せるらしも
渓にしぶく夏の雨強み
月山の山の腹より湧きいづる水は豊けし
月山の山腹にして
しづかなる心になりて音ごもる氷の谷を上りゆきつも
眞夏日の光といへど消えがてぬ雪谿のうへに雨降りにけり
谷うづめ消え殘りたる氷には蠑※[#「虫+原」、第3水準1-91-60]が一つ死ぬる寒けさ
月山の谷のこほりに水蜻蛉蝶蜂なども死に居りにけり
雪谿はきびしくもあるかわが體こごゆる程にさ霧はのぼる
雪谿ゆのぼるけむりの渦巻くとあやしきまでに雪解するらし
この山の氷の谿の底にしてとどろく音は雪消ゆるみづ
この山にのぼる旅びと黒百合をいくつか掘りて持ちゆかむとす
雨の降る氷のうへをわたり來て月山のみねに手を暖めぬ
けむりあげて雪の解けゐる月山をひたに急げり日は傾くに
山形に住んでいながら、小・中・高校と、斎藤茂吉のことについて教わった記憶がありません。単に忘れただけかもしれませんが。上山出身のとぼけたおっさんで、最上川をうたったり、母親の死をうたったりしている。上山《かみのやま》という地名もあらためて考えてみれば、いわくありげです。眼のまえには蔵王がひかえている。昨年競馬場が廃止になる。宮本武蔵の師、沢庵和尚が一時期居た。上山高松の手漉き和紙は、うるしの汁を濾すのに使われたという。
あまりに膨大すぎて、茂吉をどこから読んだらいいのか手をつけられずにいたのですが、芳賀徹さんから『接吻』にまつわるエピソードを聞いてから気が楽になりました。短歌というと親しみがわかなかったけれど、エッセイのほうからだと入りやすかったです。さらに、身近な「月山」へ登ったときの短歌があることを知り、読んでみることにしました。茂吉は生涯に何度か月山を訪れています。
ことしも、さくらんぼどろぼうのニュースが流れる季節となりました。さくらんぼ東根駅のブロンズさくらんぼは、いまのところ無事のようです。「どろぼうのおかげでやまがたのさくらんぼの認知度があがってくれてうれしい」などというさくらんぼ農家の声を聞くと、世の中、そんなもんかと。笑っていいやら、なげいていいやら。
2004.6.20
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。
ある時、飲み友達と素面で話をしていた。内容は、「人間の記憶」について。最近なぜか彼女は人間の腦について興味があり、素人向けの本を読んだのだという。特に記憶に就いての項目ではページが進むに連れ、私の顔が浮んできたのだそうだ。記憶を司るといわれる「海馬」。人間の脳の部位名で、大脳に囲まれているらしい。勿論人間の記憶というのは、その海馬だけが働くものではない、脳の各部位が微妙に絡み合って「記憶」という作業をするらしい。海馬が新しい記憶をする際に何かの役目をすることは研究でわかっているのだそうだ。で、俄素人脳神経学者が言うには、「あんたの海馬は他の人と色とかが違うんじゃないの?大きさも人より大きいのかも」と。「本来はどんな色をしているものなのか知らないし、大きさに差異があるのかも知らないわ」と彼女は真面目な顔で続けた。そのもっともらしい話にはもちろん理由がある。
「あんた、どうでもいいことを克明に憶えすぎていて、それが瞬時に脳の中のファイルから引き出されてくるから」
「どうでもいいこととはどんなことか」と私の中ではどうでもいいことがありすぎて、どのどうでもいいことなのか思いつかなかった。
「いつどんなときにどこで、誰らと飲みに行き、20人ほどの人でもどんな順序に座っていて、どんな順序で何を食べ、だれがどんな話をしたかを克明に覚えているでしょう。まるでビデオテープを再生するように。あれも一つの才能よね」と今度は褒めことばが入っていた。しかし褒め言葉の余韻に浸っていることはできなかった。「もっと学問的なことだったらよかったのにねえ。飲み会の情景を克明に覚えていても世の中の役にはたたないわねえ」と。
さて、以下は世の中の役にたつ方の話である。
某総合病院脳神経外科のH医師を県外県内問わず、今日も患者が頼ってくる。診察室から患者を叱る大きな声が聞こえてきたかと思うと、静かに諭す声が聞こえてくる。それが一段落した頃、名前を呼ばれ私は中に入る。五十がらみのがっしりした体躯で、白衣のズボンのポケットに手をいれ、太い眉を寄せて、上体を反らせて腦の輪切りCT写真を全体的に観る。次に眼鏡の奧の瞳を細かく動かし、細い血管が間違いなく走っているかどうかを確かめる。白黒の、左右反転した写真を、医師の腦の中で色が付き、位置が戻る。H医師だけが腦をみる権利があるのだと腦を曝け出し、無防備になった私は気付かされる。自分の中枢は、握りこぶし二つを合わせただけの、これだけのものだと左右反転写真をみて思い知らさされる。医師は椅子に座り、症状のないことを、心配する必要のないことをゆっくりと話始める。目を見ながら、そしてH医師の中で言葉のリズムをとるということなのか、指と指の間を開いて、左右5本の指を彼の胸元で合わせる。決して細く美しい指ではない。むしろ太く丸みを帯びた長い指である。その指は、彼が指先に力を入れると甲が柔らかく撓るのだ。なんとしなやかな動作なのだろう。手術のとき、このしなやかな指は、腦の中を這うのだ。しなやかだからこそ這うことができるのだ。這う事ができるからこそ「人」を救うことができるのだ。
ピアニストの指を見た事がある。細く美しい指を想像していた私は見事に破られた。1本の指がそれぞれ別々の生き物として、10本集ったような不調和で、それでいて長くしなやかであることだけが必須条件のように筋肉が発達しているという不思議な指であった。それにH医師の指は似ていた。
指のしなやかさを守るように、H医師の言動は妥協のない近づき難さがある。最初の頃、4年前くらいだろうか、他の人から耳にしていた通り、彼の妥協のない言動に、当時母の件ではあったが上手く私は話ができなかった。それができるようになった。それも何気ないひとことから始まったのだ。H医師の髪型は、七三に分けて整髪されているはずなのだが、いつもそれが決まっていなかった。髪が乱れ、ボツボツと髪が立っていたりした。それはまだいいとして、ある時、H医師の旋毛あたりの髪が4本ほど立っていた。「どらエモン」ののび太君といえばいいのだろうか。私はそれが医師との話の間中、気になって気になってしようがなかった。乱れた髪形ならそれはそれでなんとも思わないのだ。しかしこの4本だけたっているという中途半端はいけない。医師の話が終わった途端、
「先生、今朝、髪梳きました?」と私は訊いた。「え?あ、え?」と返答に困ると、医師の色白の顔は赤らんだ。そして少年のようなはにかんだ笑みを浮かべて、その笑みを見つかったことを恥じるようにカルテに目を落とした。
年上のH医師が幼く見え、大きな身体が小さく見えた。私はその様子に声を出して笑った。H医師も笑った。あれから4年、友達に「全幅の信頼できるお医者さんがいて幸せね」と言われるようになった。
胸を張って院内を歩いている医師が、しなやなか指を書類の中に畳み込み、下を向いて歩いているのを見た事がある。病院のエレベーターのボタンをしなやかな指で押した後、深いため息をついているのを聞いたことがある。それでもH医師は「人」に何をしてあげられるのか、何をしてあげれば「人」は助かるのかを考え続けている。
ところで友人の話以来、CT写真で海馬の何か僅かなことでもわかるものなら知りたいものだということを尋ねようと思っているのだが、いつも忘れてしまうのである。
Fides, ut anima, unde abiit, eo numquam rediit.
「信頼は、魂と同様に、立ち去った場所に二度と戻らない。」
6月11日(金) 18:00開場 18:30開演
大学生当日900円、一般当日1200円
場所 京都大学人間環境学研究科B23教室
主催 とっても便利出版部
講演者:郡山総一郎/こおりやま・そういちろう
(フリージャーナリスト。先頃イラクにて今井紀明、高遠菜穂子の両名とともに拘束され、日本では「人質」として有名になる。)
聞き手;岡真理/おか・まり
(現代アラブ文学専攻。京都大学人間環境学研究科助教授。もと在モロッコ日本国大使館専門調査員。)
※注 この記録は、私(大久保ゆう)が講演会中に筆記したメモをもとに、再構成したものです。発言内容の細部において、正確を期するものではありません(むしろ正確でない部分の方が多いと思います)。すでに一次的な解釈が入っているということを念頭に置いた上で、お読み下さい。もちろん、文責は私にあります。
その日、京都は雨が降っていた。折しも台風が近づき、講演の一時間前にもなると、強風で雨粒があちらこちらに舞い散っていた。それでも、会場には250人もの人々が集まった。そのほとんどは学生である。当初、主催者側はおよそ150ほどの席を用意していたようだが、それでは足りなくなり、新たにパイプ椅子を増設しなければならないほどの盛況ぶりだった。決して無料ではないこの講演に、これだけの人が集まったということは、誰しもこのイラク問題について関心があるということなのかもしれない。(もちろん、「人質」をその眼で見てみたいという野次馬根性から、ということもあるだろう。)
人々は、郡山総一郎という人物に対して、どういう印象を抱いているだろうか。一般的に考えて、人々が持っているデータは、TVから流れる映像資料と、あるいは報道される文字データ、そしてそれに対する他者の発言、といったものではなかろうか。郡山総一郎、という名前を聞いて、人々の頭に想起する顔は、アルジャジーラに送られたビデオの中に出てくる不安な顔(1)だろうか、もしくは事件のさなか日本で流された雄弁だが音声の切り取られた資料映像に出てくる顔(2)だろうか、それとも解放時の神経の張りつめてしまったような顔(3)だろうか、あるいは帰国記者会見の際に見せた険しい顔(4)だろうか。(写真は、1はアルジャジーラ、2,3は共同通信社、4は四国新聞社。いずれも引用。)
しかし、聴衆の前に現れた顔はそのいずれでもなかった。大きな荷物を背負って、ひょうひょうと壇上に上がったのは、気さくで明るく、どこにでもいそうな人物だった。無造作なシャツ姿の彼が、まず最初に「イラクでつかまった5人のうちの郡山です。」と自らをちゃかすような様子で自己紹介をした。
現在、国内では様々な意見が飛び交っている。その中の一つに「自己責任問題」があるが、講演の冒頭でそのことについて触れ、自分がイラクに行った目的は「自衛隊が派兵されてからあと、イラクの人々にどういう変化が起こったのかを確かめたかった」とした上で、彼はこう言った。
郡山「今、日本では僕に対する自己責任問題だとか、どうして謝罪しないのかというような意見がありますが、僕は今、こうして皆さんに話すことによって、自己責任を果たしているのだと思います。」(以下、引用部分敬称略)
そして、自身については、講演中このように語っている。
郡山「僕はフリーのフォトジャーナリスト、と報道されていますが、本当はパートタイマーフォトジャーナリストです。いつもは肉体労働しています。そうやって旅費をためて、自分のお金で現地へ行きます。ここにいるマスコミの方はわかると思いますが、フリーのジャーナリストの報酬は本当に安くて、ほとんど赤字なんです。一回の取材に3,40万かかるんですが、その半分でも帰ってくればいいかな、という感じです。だから、仕事と言うよりは趣味で行ってます。(中略)もちろん、(イラクの)現状を伝えたいというのもありますが、それよりも『自分で見たい、いったい何が本当に起こっているのか、それが知りたい』という好奇心で、イラクに行きました。その好奇心だけが支えで……本当にみなさんには申し訳ないですが……。」
飾らず、カッコつけず、ありのままの郡山さんがこの講演で話したことは、次にまとめるとおりである。
1.サラヤ・ムジャヒディンおよびイラクの人々について
郡山「僕は、スパイ容疑をかけられてイラクで拘束されたわけですが、その、みなさんには悪いんですが、僕としては、人質になったという感覚はないんです。人質ではなく、ホームステイしたという感じなんです。そのときに、今まで取材してきたよりも、もっともっと深いところで、生のイラク人の生活に触れました。サラヤ・ムジャヒディン(注:武装旅団、三人を拘束した集団の名称)の人たちとも、たくさんディスカッションしました。」
郡山さんは一貫して、サラヤ・ムジャヒディンのことをテロリストとは呼ばなかった。その理由は、彼自身、彼等と深く接し、見たこと、知ったことに関係している。そして、それを語るために来ている。
郡山「彼等がなぜ武器を持っていたのかというと、日本では彼等のことをテロリストと呼んでいますが、実際は自警団です。ああいう状況にあって、自分達のことを護るために、武器を持つのは当然のことだと思います。それに、ムジャヒディンのように武器を持っている人たちは、誰かしら家族が殺されています。妻だったり、子供だったり。」
彼等と一緒にいる間、いつも朝起きて最初にする話題は、イラク人が何人殺された、という話だったという。誰々が殺された、どこそこの病院が破壊された、学校が爆撃された、云々。
郡山「解放される前、彼等と一緒にアブダビテレビ(注:中東の放送局のひとつ)を見ていたんです。そこで、皮肉っぽく、こう言われました。『日本人はたった五人じゃないか、なのにどうしてこんなに大騒ぎしているんだ? イラク人はいったい何人殺されているというんだ……』彼等にとっては、日本人の命は高い、そしてイラク人の命は安い、という感覚があるんだと思います。たとえば、アメリカ兵にしてもそうで、彼等は何人死んだか、というのはカウントされて、テレビでも流される。でも、イラク人がいったい何殷人死んだなんて、報道されません。」
命の軽さ、そして、人が次々と殺されていく現状で、その現実をどうすれば、イラクの人々は世界に伝えることができただろうか。郡山さんは、こうして自分のような人を拘束して、声明文を出すようなことでしか、世界に対してのアピールができなかったのではないか、という。
また、彼の触れたイラク人の内側の世界について、聞かれると、
郡山「僕はこのあいだ捕まったときも含めて、2回イラクに行っているわけですが、イラクの人に対する第一印象としては、こんなに親日家なんだ、という驚きですね。すぐにサディーク、これはイラクの言葉で友達(注:'sadiiq)ということなんですが、そういわれてお茶に呼ばれ、仕事ができないくらいでした。でも、自衛隊が派兵された後は、ほとんどアメリカ人に対する気持ちと一緒なんじゃないかと思いました。」
けれども、まったく同じではないということを、ムジャヒディンたちと生活する中で知った。
郡山「彼等が言うには、『日本人は友達だと思っていたのに、どうして軍隊を送ってきたんだ?』ということなんです。」
郡山「この事件では、僕らが被害者ということになっていますが、もとを正せば彼等の方が被害者なんですよね。」
そして、拘束生活の中においても、自分たちが歓待されていることを強く感じたという。
郡山「結局、拘束されているときには8ヶ所くらい移動したわけなんですが、2日目に行ったところで、なぜか突然、普通のおじさんが僕らのいるところへ入ってくるんです。そして握手をして帰っていく。そういうのが30人続きました。もちろん日本人が来た、という興味もあるんでしょうが、それでもみんな、とてもアットホームに接してくる、いい人ばかりでした。」
郡山「僕らはまったくひどい扱いというのは受けていなくて、ゲスト扱いでした。それはメシのときにわかります! というのも、僕らは一日二食で、鶏肉が出るんですよ。鶏肉っていうのは、向こうではたいへん高価なものなんです。しかも、毎日僕らに『今日は何が欲しい』というふうに聞いてくれて、僕はヘビースモーカーなのでタバコが欲しいというと、銘柄まで聞いてくれて買ってきてくれました。それに誰かが寝込んだりしたときも、見張りの兵士が僕らに対して祈ってくれたんです。そろって三人の調子が悪くなったときにも、今日のご飯は外で食べようと行ってくれて、満天の星空の下でご飯を食べました。」
こうした生活で、やせるどころか、ちょっと太ったかもしれない、と郡山さんは言う。それはその通りで、アラブの人たちは基本的に「もてなす」ということを非常に大事にする人たちだ。岡助教授も、自分が難民キャンプに行ったとき、はるかに自分の方が豊かで、キャンプには何にもないような状況なのに、それでもなけなしのものを使ってもてなしてくれたことを話していた。
岡「そういう、イラクの人たちが一般に抱いている、あるいは抱いていた、日本に関する親しみの気持ちというものの理由は、郡山さんはどうお考えになりますか?」
郡山「それは、彼等の口からヒロシマ、ナガサキという単語がよく出てくることから、日本が唯一の被爆国であることがひとつ挙げられると思います。それと、アメリカに占領されたことがある、そういう点に、同じ気持ちを感じているのかもしれません。けれども、いちばん大きな理由と僕が考えるのは、80年代に日本の企業がイラクに入って、あるいはボランティアやNGOが、彼等にどう接してきたか、そこにあると思います。」
岡「イラクにおける親日感情は、一人一人が積み重ねてきた資産というわけですね。」
そして、これからその感情はどうなっていくのだろうか、という会場からの質問に対しては、こんな答えが返されている。
郡山「アブグレイブ収容所の一件の後、火がついちゃったんだと思います。日本人もアメリカ人もいっしょ。本当のところはどう思っているのかはわからないけれど、たぶん、殺される瞬間になってはじめて理解するんでしょうね。でも、僕の経験からでは、複数の立場の人がいると思います。友人だと思っていたのに裏切られたと思っている人、まだ親日家でありつづける人、そして外国人なんて出て行けという排斥主義の過激派。なんでそう思うかというと、僕としては初めて心が通じた瞬間なんだと思っているんですが、解放された日に、紀明と高遠さんはボランティアだから解放でいいんだけど、実は、僕は残るって言ったんです。僕はカメラマンだから、ここに残って、あなたたちが戦う姿を撮りたい、ってそう言ったんです。そうすると、ムジャヒディンはこう言うんです。『ごめんなさい。私はあなたを友人とは認めたけれど、我々の他には過激な人たちがいる。だから、君を危険な目に会わすわけにはいかない。』と。」
イラク人からの日本人は、おおむね好意的であった。しかし、日本人から見たイラク人はどうであろうか。実のところ、まったく知らないというのがほとんどのところではないだろうか。
郡山「ある新聞に、人質事件は自作自演だ、という説が書かれたときの理由に、イラク人は『ヒロシマ、ナガサキ』を知っているはずがないので、日本人が関与しているのではないか、というのがありました。僕は、それはイラク人をバカにしているんじゃないかと思いましたよ。アラブの現実を知らなすぎます。」
岡「まったくその通りだと思います。ちゃんと教育を受けた人であれば、どんな人でもあの原爆という事件は戦争における『ホロコースト』として認識しています。それをイラク人だから知らないというのは、アラブの人々に対するレイシズム(注:人種差別主義)すら感じます。」
そういうアラブ、もしくはイラクに関する現場感覚のなさ、が今回の一連の事件に関する報道では露呈された。今回、様々な中東専門家なる人が公共の電波に現れ、様々な発言をしたが、そのほとんどが現場性のない意見で、「毒にも薬にもならない、ひょっとすると毒にしかならない」(岡)意見だったという。
2.マスメディアについて
岡真理助教授は、この一連の事件の際、「語らなかった」専門家の一人だ。彼女はアラブ文学専攻であるが、パレスチナ問題の専門家でもある。しかし、メディアは彼女が「アラブを知っている」という漠然とした情報、ただこれだけで、今回の事件についても意見を求めてきた。もちろん、アラブ世界と一口に言っても広い。彼女はイラクには行ったことがないし、事情についても専門家として語れるほど詳しくはないので、語らなかった。それは当然のことのように思えるが、実際問題としてはそうではない。れっきとしたイラク専門家と言えるのは酒井啓子さんくらいで、あとの人たちは肩書きは専門家だが、イラクに関して言えば、畑違いの人たちばかり。肩書きはあるが現場を知らない人と、肩書きはないが現場を知っている人のどちらがリアリティのある発言をするかというと、もちろん、
岡「豊田直巳さん(注:フォトジャーナリスト)などの話を聞くと、もうリアリティが断然違いますね。それに比べて、中東専門家なる人たちは、(といっても、私の知人だったりするんですが、あえて批判すると)とてもたくさんのことを話すんですが、本当にくだらないことを公共の電波にしゃべって、私達はそれを聞いている。なんというか、お前等には研究者としての良心はないのか! なんて思ってしまいます。」
しかし、岡助教授はそのくだらない意見が流される理由として、マスコミから要求されるコメントのレベルが低い、ということも指摘する。単に「どう思いますか?」という単純なものから始まり、イラン問題のときに畑違いのアラブ専門家に尋ねてみたり(イランはペルシャ語地域)、ムジャヒディンがスニーカーを履いてるから云々、そういったアラブ世界に対する無知からくるミスも多発している。二人の危惧しているのは、そういった無知から来た誤った報道を、あまりにも人々が素直に受け止め、それが真実であるかのようにふるまい、その通りに発言していることだ。
郡山「僕はバッシングをたくさんされて、律儀にそういうのを全部読んでいる訳なんですが、それを読んでいて思うのは、面白いくらいにテレビと同じ意見だということなんです。」
岡「情報を分析する、それこそメディアリテラシーの能力がないわけですね。新聞は批判されるために読む物なんだと思います。」
一般に、新聞あるいはメディアで流されることは圧倒的に正しいことである、というふうに受け取られている。しかし、新聞やメディアの現場にも、そこに集まってくるデータを見て、まとめる人がいるわけで、そこの段階で誤ってしまう可能性は十分にある。そこにいる人たちは、確かにデータを扱うという観点から行くと、一般の人々よりも慣れているかもしれないが、今回の場合のように、「ほとんど誰も詳しい知識を持っていない」というような題材になってくると、いちばん正確な情報を持っているのは最前線にいる人で、そこから送られてくる未知の情報をどう解釈するか、その経験値は、メディアと一般の人々に、それほど大差があるわけではない。
郡山「こういうときにこそ、受け取る側の能力が試されているんだと思います。」
あくまでも、新聞やテレビ、メディアから流れてくる情報はセカンドハンドなものである。現地からそのまま届くのではなくて、メディアで一次的に解釈されてから、その解釈されたものが人々に送られる。そこにはすでに人の価値判断や解釈が入っているのだから、すでに手あかのついた情報である。もしリテラシー能力があるならば、その手あかのついた情報から、手あかを洗い落として情報を手に入れることができるかもしれない。しかし確実に、現地と人々の間で抜け落ちた情報は、ただ受け取るという立場だけでは、手に入れることができない。
岡「市民の手で、マスメディアには注目されない、現場の声を届けてくれる人から、情報を得ようとする努力が必要なのではないでしょうか。」
昔、通信手段が限られていた時代なら、なかなかそういうことはできないかもしれない。しかし、今は違う。インターネットというものがあり、そこには現地で取材をしている人が報告を続けているホームページがある。そして現地に住んでいる人もホームページを持っているし、そこに書かれたものが英語であっても、それを精力的に翻訳して紹介する人もいる。そしてもちろん、この講演における郡山さんのように、現地から帰ってきて、人々の前に立って、情報を伝えてくれる人もいる。
郡山さんは、今の学生たちに期待することは?と聞かれ、このように答えている。
郡山「大事なのは、色んなところにちゃんとアンテナを張って、そして自分の中で善し悪しを決めて、情報に流されず、自分で判断して欲しいということです。」
このイラク問題においては、一般の人だけでなく、メディアでさえきちんとした情報収集と、情報分析ができない。この両者においてリテラシー能力が欠けていたがゆえに起こった問題が、「自己責任問題」と「自作自演問題」のふたつではないだろうか。
3.自作自演問題
郡山「たとえば、あの記者会見のときに、自作自演のことについて聞かれました。確かに、彼等からおびえて泣けと言う指示はありました。でも、ああいう状態で、銃を突きつけられたら、普通そうするでしょう?」
自作自演というのは、自らの意志でそうしなければ、本当にその通りだとは言えない。けれども、銃を突きつけられて、生命の危険があるからやった、というのは、果たして自発的な意志といえるだろうか。
郡山「だから、そういうふうに言ったんですが、翌日の産経新聞を見ると、『演出認める』というふうに書いてある。もう本当に、耳悪いんとちゃうか、って思いましたよ。」
また、自作自演について、このようにもしゃべっている。
郡山「自衛隊を撤退させるためだとか、政府を批判するための自作自演なんて言いますけれど、僕は頭悪いから、そんなことできませんよ。それに、もし本気でやろうと思ったら、(こんな発言するとまた公安に目をつけられるかもしれないんだけど、言っていいのかな)実は僕、あのとき、『No Koizumi』Tシャツ持ってたんですよ。でも、そんなのがあることも忘れてるくらい、あのときは必死でした。しかも、彼等(注:サラヤ・ムジャヒディン)は日本の首相の名前も知らなかったくらいで。まず最初に日本の"President"は誰だ? って聞くんです。日本にはそういうのがいないから、"Prime Minister"だっていう説明をしなくちゃなりませんでした。そうしたら、じゃあそいつは誰だ、っていうんで、"Koizumi"だ、って言いました。あとひどいのが、あの送りつけられたビデオの中で日本語で「言って言って」というように聞こえる部分があるんですよね。だから日本人関与か、って、あれもアラブのこと知らないからそんなこと言えるんですよ。あの「イッテ」というのは、向こうの言葉で「お前」という意味の言葉なんです(注:正しくは'antaという。「'a」は咽頭摩擦音で「イ」みたいにも聞こえるし、最後の「a」はほとんど「e」と大差ない音である)。そういうことも分析をしないで、適当にテレビでコメントする……もうちょっと調べてから発言してほしいです。」
4.自己責任問題
郡山「あの「自己責任」という言葉は、最初、飯島秘書官(注:総理大臣秘書官)から出たんですが、なぜその言葉が広がってさかんに言われたのかと考えてみると、僕は人質になっておどされたときの映像、あれが全部放映されていないところにあると思うんです。」
岡「メディアによって映像が隠蔽されたわけですね。」
郡山「そうなんです。あれには紀明(注:今井紀明のこと)の髪が引っ張られたりとか、首筋にナイフが突きつけられたりとかいうのがあったんですが、そういうものが放映されていない。そういう残酷な場面は削られていたわけですが、そういう隠蔽がされていたから、「自己責任」ということができたんじゃないだろうか、と。知り合いのインターネット放送局の人が、あの映像をまるまる、街角の人に見せてみたそうなんですが、みんな最初は僕らのことを「自己責任」といって非難しているんですが、あの映像を全部見ると、意見が変わって、「これはひどい」というんですね。」
これらの情報が隠蔽されたのは、どういう理由からだろうか。実はまったく隠蔽されたのではなく、地方メディアなどでは流れたところもあったようだが、大手メディアはほとんど流さなかった。単に「残酷」だからという理由だろうか。「面白くない」という理由からだろうか。どちらにせよ、マイナスのイメージから、視聴率が取れないという理由で削られたのだとしたら。
岡「パレスチナ問題はかれこれ37年の間、ずっと続いているわけですが、これまでほとんど報道されませんでした。それというのも、パレスチナ問題は視聴率が取れないからというんです。ニュースをやっていて、パレスチナの話になると、がくんと視聴率が下がる。視聴率が下がるということは、視聴者が見たくないということだ。見たくないんだったら、この情報は見せません。そんなメディアなんです、今あるメディアは。あなたたちはこんなもの見たくないんだから、見せません、と。なめられているんですよ、視聴者は。」
こういう、面白いものを見せろ、という要求をして、あるいはしなくても、そういうふうになるがまま、メディアを育てていったのは、こういうメディアを選んでいったのは、他ならぬ視聴者である。情報を集めて、判断出来るだけの材料すら提供しないようなメディアを認めているのは、視聴者である、というふうに岡助教授は言う。そして必要な情報が与えられなかったゆえに、根拠のない推論、憶測だけで「自己責任問題」と「自作自演問題」は人々の考えるがままに突っ走っていく。
郡山さん自身、この「問題」だけが一人歩きして、本当に伝えたい「イラクのこと」がしゃべれなくて困惑しているらしい。彼の感覚としては、サラヤ・ムジャヒディンにビデオを撮られたとき、あまりにもまとまってなかったため、本当にこのビデオ映像が活用されるとは思ってなかったそうだ。声明文が送られたことも、それによって日本が大騒ぎになっていたことも知らなかった。解放されて、迎えに来た政府の人々にまず言われた言葉が「日本は大変なことになってたんだ」とか、あるいは「けじめをつけなさい」だとかいうようなことで、それから繰り返し繰り返し「色んな人に迷惑がかかった」と言われる。しかし、実際のところ、もし謝るにしても、いったい誰に謝ればいいのか、まったくわからないという。
こういった場合、「謝れ」と発言する側にしても、いったい「誰に謝るのか」ということを明確にしなければいけない。対象は「人質解放のために働いた政府」なのか、それとも「報道を見ていて心配させられた視聴者」なのか、それともぼんやしとして実態のつかめない「世間」なのか。だが基本的に、人が「謝れ」というときには、ほとんどにおいて「自分に謝れ」というニュアンスを含んでいる。「世間に謝れ」というのが良い例で、ここでいう「世間」はあくまでも「社会」ではない。翻訳語についての考察で柳父章は「世間には自分が含まれていて、社会には自分が含まれていない」と分析する。そしてそれに従って「私を含んだ世間を騒がしたのだから、私に対して罪がある。だから謝れ。」という論理になるとしても、そう言われた側にとってしてみれば、直接的にその発言者に対してどういう迷惑をかけたのかわからないし、直接利害関係のない人にたいしてどう謝っていいのかもわからない。
そして何よりも奇妙なのは、この「自己責任」発言の端緒は、政府から来ているということだ。そして同じく、バッシングも奇妙なことに、政府という文脈がちらついている。
6.バッシングと政府との関連性
郡山「そういえば、うちの家族が自衛隊を撤退させてくれ、って言ったじゃないですか。僕は、あれを政治的発言だというふうには取って欲しくないです。それに、その発言をした瞬間にバッシングされる……。そんなの、一家族としては当然じゃないんですか? もし解放の条件が出されたら、それが実行されるように懇願するのが家族じゃないですか。」
同じバッシングの例として、岡助教授は北朝鮮拉致被害者の例を出す。
岡「そういえば、先日、北朝鮮拉致被害者家族の方がバッシングを受けましたよね。首相の再訪朝のあと、成果がなかったから政府を非難すると、たちまちバッシングを受けた。「自己責任」と言って、これは自分の意志で言ったのだから、自分に責任がある、ということなのですが、拉致の問題も考え合わせてみると、じゃあ「自分の意志で行っていない人」つまり拉致被害者のような人たちにとって、誠実な態度を取っているのだろうか? と考えると、どうもそうじゃなさそうですね。」
しかし、こちらは「自己責任」ということもまったく関係のないところで生じている問題である。
岡「これは政府に異議申し立てをすると、バッシングされると言うことでしょうか?」
イラク人質の家族も、北朝鮮拉致被害者家族のどちらも、その発言をするまではまったく同情的に見られていたといってもよい。けれども、どちら政府の非難と受け取ることの出来る(あくまでも受け取れるだけで、本心からいったかどうか、あるいはそれが妥当かどうかの問題はまったく含まず)発言をすると、すぐさまバッシングの対象となる。これはいったいどういうことなのだろうか?
岡「自己責任というのは、政府に手間をかけさせるな、ということかもしれません。政府にとって利用価値のないことをさせるな、という。今、年間3万人もの人が自殺しているわけですよね。日に換算すると、毎日80人も自殺しているわけです。でもそういう人は助けずに、自己責任で死んで下さいという。けれども、大企業がつぶれそうになると、多額の税金を投入して助ける。それが日本政府なんです。そしてそれを選んだ自己責任が、国民にあるんじゃないでしょうか。政府に異議申し立てしない人は守るが、そうじゃない人は守らない、というんじゃあ、これからの日本はどうなっていくかわかりません。」
また、今回の事件で助かった理由について、郡山さんはこうも述べている。
郡山「帰ってこられた理由のひとつとして、外務省がイラクにパイプを持っていなかったのがよかったというふうに考えています。もしパイプがあって情報が手に入って、僕らのいる場所がわかったら、政府はアメリカに頼ると思います。そしてアメリカが救出作戦という名のもとに、僕らも殺されるんだろう……と思っていました。拘束されているときに何がこわいって、(こんなこというとまたバッシングされそうだれど)アメリカ軍がいちばん怖かったです。」
7.武器と自衛隊について
郡山「情報収集っていうのは、信頼関係があってこそなんだと思うんです。僕の場合、取材をするときにも、場所によってはカメラなしで一週間滞在して、信頼を得てから初めてカメラを……ということがあります。人道支援も信頼関係だと思うんですよ。高遠さんは『人道支援は丸腰でないといけない』というふうに言っています。僕は武器を持った時点で人道支援とは言えないと思います。武器を持って、その武器はいったい誰に向けるのか? といったら、イラクの人たちに向けるわけですよね。岡さんはどのように思いますか?」
岡「私に訊かれても、どう答えればいいかわかりませんが、この間、安田さん(注:安田純平、イラクで拘束されたフリージャーナリスト)とお話をしたんです。彼が言ったのは、『ガードなしで行った、と批判されるんですが、もし武器をそのときに持っていたら、殺されていた』ということです。」
郡山「ガードなんてつけていたら、殺してくれといってるようなものですよ。武器が在ると、殺す可能性があるし、殺される可能性もある。僕が拘束されたときにも、彼等から聞かれた質問の中に、『武器は持っているか?』というものがありました。持ってたら、あのとき殺されていたと思います。」
ここで人道支援と武器の関係が出ているが、「武器を持つ」ためにどれだけの無駄が行われているかというと、
岡「武器を携帯した人道支援を自衛隊はやっているわけですが、その装甲車などにかかる費用に、37億円もかけているわけなんですよね。NGOなら、1億円で水を綺麗に出来ていますよ。それは無駄使いではないんでしょうか?」
郡山「そうなんですよ、自衛隊は、一日200万円分の水をサマワで支給するために、1億円の費用を使っているんです。でも、実はサマワには水はたっぷりあるんですよ。確かに井戸はだめで、汚染されて使えないんですが、人が飲んだり生活するだけの水はちゃんとたっぷり売っているんです。でもお金がないからその水が買えないというわけで、じゃあ、現金渡せよ、というふうに思うんです。その200万円で水を買ってあげたら? これも言っちゃあだめなのかもしれないけれど、『ポーズだけの人道支援なんていりません』。それに、実は……サマワの人も水なんていらないって言ってるんですよ。」
岡「こういう無駄使いが行われているとき、どうして私達のお金が、税金が使われているのに文句を言わないんでしょうね。普段、学生はお金がないお金がないといって、教科書が高いとかみみっちく言っているのに、税金に対しては怒らないんです。タバコ買ったりとか、お酒買ったりとかするときに税金は取られているんですよ、みんな、もっと怒れ!」
また、郡山さん三人が解放されて、大使館にいるとき、こんなやりとりがあったという。
郡山「僕らが大使館で、『迷惑をかけたんだから』とか色々罪の意識を受け付けられているとき、ふと高遠さんが、大使に向かって『自衛隊を引き返させたらどう?』っていうふうに言ったんですね。そうすると大使は『行かせちゃったんだから仕方ない。』って言ったんです。すると、高遠さんは怒りっぽい人なもんだから、その、キレちゃいまして、喧嘩腰に色々叫び散らしたんです。実際に暴れて物を壊したとか、そういうことではないんですが、まあ大変なことになってですね、気が付いたら大使は逃げちゃってました。こういうとき、僕と紀明には高遠さん扱いマニュアル、みたいなのがありまして、しばらくはやらせるままに放っておいて、落ち着いてきたら引き留める、という感じなんです(笑)。」
8.郡山さん自身のこと
郡山さんは元自衛官である。もし自分が今でも自衛官だったら、という質問がされると、一度命令が出た後は容易に撤回出来ないし、抵抗もできないんだけど、という前置きをした上で、「僕は絶対に行きません」といった。
郡山さんは自分が見聞きして知ったことしかしゃべらない、という。
郡山「イラクの現状は、僕も今まで二度しか言っていなくて、そのうち1回はみなさんのご存じのように拘束されてほとんど取材もできなかったわけなんですが、はっきりしたことは、イラクで犠牲になるほとんどの人が女の人、子どもだということ、一般の人であるということです。それは、僕がこの目で見てわかったことです。ファルージャで行われていたことは、あれはジェノサイド(注:虐殺)といっても過言ではありません。パレスチナに詳しい岡さんは、これはご存じかもしれませんが、兵士というのは、ああいうところでは家宅捜索をやるんです。本来、家宅捜索をするのなら、まずドアをノックして、誰かに出て来てもらって、家宅捜索しますよいいですか、と了承してから踏み込みますよね。でも、アメリカ兵はそういうことをやらないんです。面倒だから、まず民家のドアを銃でぶっこわすんです。そこで犠牲者が出る。物音がするなら、何だろうな、ってドアの近くまで出て来た民間人が、そこで殺されてしまうわけです。これは、僕が知識として持っているものですが、今度は、こういうことをちゃんと写真にとって報告したいと思います。」
写真にとって、というのは、郡山さん自身も、自分がしゃべっていることは、伝聞資料に過ぎないということを自覚しているからだろう。実際に見聞きしたことを重要視し、現場性を大事にする。そして、こうして日本に帰ってきて講演をする中で、それまで軽視していた「語ること」への意識が高まったという。多くの人に語って、多くの人とともに考えること、が重要であるというふうに思えるようになった、と。
そして、真剣な中にも、茶目っ気を忘れない人だ。こんな事件に巻き込まれても、PTSDにもならない強さの原因を自ら「ノー天気だから!」と答える郡山さんは、もうこんな大騒ぎはならないようにと、誰も勝手に助けに来ないように、というほのめかしも含めて、こんなことを言う。
郡山「今度行くときには、ビデオレターでも残していこうと思います(笑)。」
戦争のことについて聞かれたときには、
郡山「戦争……正直言って、難しいことはわかりません。僕は戦争は嫌いで、なくなってほしいと思っています。そうやって長い歴史の中で、色んな人たちがなくそうとつとめてきたけれど、それでもなくならないっていうのは、人間の業なのかもしれないけれど。でも、人が殺されることは嫌いです。誰にも死んで欲しくないから、死んで欲しくないから……」
彼の言葉は、彼の行動は、すべてが直感的である。細かい理屈によって動いているのではないし、そういうある種の理論的な武装というものもしていなければ、常に生身のままで、ありのままで生きている。そして、そんな郡山さんが講演の最後に語ったのは、次のような言葉だった。
郡山「また行くと言ったら、そんな怖い思いしてまで、なんで行くんだと言われるんでしょうね。それは、僕が懲りないだけだと思います。確かに、死ぬかもしれないんだけれど、僕は、死ぬよりも知らないことの方が怖いです。僕は見たい。自分の目で見て、確かめたい。だから、これからも見続けていきたいと思います。」
知らないことが怖いから行く。
私はこの言葉を聞いたとき、ふとカール・ヒルティの言葉を思い出した。
「恐怖はつねに人間の中に何か正しくないことが生じた徴候である。恐怖は、苦痛が肉体に対して果たすのと同様に、精神に対しても貴重な警告者の役目を果たす。」
『斎藤茂吉全集』より
昭和五年七月二十日、長男茂太十五歳になりたるゆゑ、出羽
三山に初詣せしめむとて出發す。上山にて高橋四郎兵衛加は
り、岩根澤口にむかふ
追分より岩根澤途上 七月二十一日
くもり日の川にそひつつ歩み居り岩根澤口に近づくらしも
むらがれるものの寂しさとおもはむか一谷に鳴くひぐらしのこゑ
寒河江川の水上とほく來にけむと折々おもふ旅にしあれば
尾長鳥道のべの木に飛び交へりあはれ美しと吾はおもへる
淡々しきものとおもへど山中にこもらふ如く夏蕎麦の畑
ほどちかき森の中より聞こえくる鶫のこゑをわが子に教ふ
一山のたをりめぐれば源を異にせる澤の音は聞こえぬ
まなしたの木立をくらみたぎちゐる川の白浪たまたまに見ゆ
岩根澤十善坊
二十一日、午前十一時過ぎ岩根澤十善坊に著く。直ちに月山
に向はむとせりしが、案内の者家に居ず、加ふるに雷鳴しき
りなるを以てつひに此處に泊ることとし、草鞋をぬぎぬ
午飯を此處に濟ますと唐辛子の咽ひびくまで辛きを食ひぬ
窓そとを見つつし居れば田の中に浮く青き藻に雨ふりやまず
今日ひと日岩根澤口に過ごしたり山杜鵑まぢかく飛びて
午過ぎにはやも宿かり親しみて油揚げ餅食ひつつ居たり
月山の登山ぐちに草鞋ぬぎ雨一日降り夕ぐれにけり
夏ふけし山のやどりは電燈に螢飛びくるも心しづけく
いにしへは諸国千人のこの宿に溢れしことを物語りけり
家のまへの田のなかに降る雨見つつ雷くだり行く音を聞き居り
夜も啼く山ほととぎす我が子にも教へなどして眠りに入りつ
富田さんの講演の模様はいろいろな方がおかきになりました。
ポシブル堂の田辺さんの講演の情報を貰いましたので、
早速私が独断と偏見?でお知らせします。
またまた訳のわからないアルファベットの羅列。そういう言葉がネット関連のニュースに突然出て来て、まるで周知の事実のようにどっかり居座って、その言葉の説明が何もなされていない。
何だ? SEOって、SEMって。
早速googleで検索。なるほど、Search Engine Optimization(検索エンジン最適化)とSearch Engine Marketing(検索エンジン・マーケティング)の略か。つまりgoogleなどの検索で、いかに自分のサイトを上位に表示させるか、その対策のことらしい。
なぜこんな事が気になりだしたかというと、このaozora blogのリファラー(どこからaozora blogに来ているか、その元のサイト名)を見たときに、なんとgoogleで単に「blog」と検索した結果だけで来ている人がいたからだ。え? 「blog」のキーワードだけでaozora blogが上位に引っ掛かるの? と思って早速google検索してみる。「blog」で日本語のページだけを検索。う〜ん、117位。上位というわけではないようだ。この検索の結果だけでaozora blogへ来た人は、一生懸命「次へ」をクリックしたのでしょう。
でも、よ〜く考えたらこの順位、いったいどうやって決めているの? 何かしら対策を施したら上位にランクされるんでしょうか? と思ってあちこち見て回ったらSEOまたはSEMという言葉に行き当たったのだ。それじゃあ「blog」のキーワードだけでgoogleの検索上位に表示させる方法は? ということで以下のサイトを見てみる。
まあ、いろいろとやらなくちゃいけないようだ。そりゃあ努力なしに結果はともなわない。特にgoogleの上位にランクさせるには、アンカーテキスト対策やキーワード注目度、キーワード頻度・密度が有効なようだ。
アンカーテキスト対策とは、いろんなサイトが<A HREF=http://www.siesta.co.jp/aozora/>blog</A>というようなリンクを数多くはってくれれば、「blog」で検索したときのaozora blogが上位にアップするらしい。おそらく、<A HREF=http://www.siesta.co.jp/aozora/>aozora blog</A>ででも「blog」キーワード検索の上位上げに貢献するでしょう。
キーワード注目度とは、重要なキーワードはそのホームページの上部に出しておけ、ということらしい。つまり「blog」というキーワードが重要だとしたら、そのキーワードをaozora blogのページ上部に表示させておかなければならない。
キーワード頻度・密度とは、当該キーワードがそのホームページにどれだけ出て来るか、ということをカウントしている上に、そのキーワードの密度は適正か? ということを見ているらしい。つまりいくら「blog」というキーワードが重要で、その出現頻度が数多くても、ただ単に「blogblogblog」という羅列じゃ反則だよ、ということらしい。
おそらくネット上にショップをかまえている人は、上記のようなSEMをやっておいたほうが売り上げアップに繋がるのでしょう。じゃあ、青空文庫は? 別に商売をやっているわけではないのでそんなに気にしなくてもいいんでしょうが、「日本文学」の検索で青空文庫が上位に引っ掛かれば、青空文庫を知らない人に青空文庫を知らしめる一つの手だてにはなるでしょうし、その検索をした人にとっても青空文庫が見つかればそれはそれでハッピーでしょう。遅ればせながら、青空文庫もSEM?
某時計メーカーが調査したところによると恋人を待つ時間は30分が限度らしい。では30分を越えるとどうなるのか、諦めて帰ってしまうのだろう。その前に携帯電話があるから、都合で行く事ができなくなったという連絡は容易い。容易さと引き換えになくしたものがあるのではないだろうか。
携帯電話に手が届かなかった頃の恋人同士はどうしていただろうか。野口五郎の歌詞ではないが、私は、改札口でずっと待っていた。改札口を心弾んで降り、私を見つけてくれる人を1時間でも、2時間でも信じて待っていた。だから会ったときの喜びは大きかったのだ。
先日渋谷の街を歩いていて、耳に入ったのは、「昨日彼氏とクラブへ行ったん」。イントネーションはご存知の通り、単語の語尾が上る。彼女たちは「人を待つ」ということを知っているのだろうか。知らないだろう。彼からのメールを待つということを知っているかもしれないが。私が知っている「待つ」という喜びではなく、路上で、携帯電話からメールを打つ彼女たちには、メールの、それもキレのある言葉を獲得するという喜びなのだろう。待つ間他のことができるから合理的ではあるが、待つ相手の「遅れる」ということを知ってしまうということは、喜びを減らしているような気がしてならない。
ある友人のカップルが私の話を聞き、試してみようということになった。お互い携帯電話を家におき、何時何分に某デパート前という約束をした。女性も男性も不安で不安でしょうがなかったそうだ。会えるのだろうか・・と。結局男性の20分の遅刻で会えた。通常電話でバス停から「バスを乗り遅れたから、20分ほど遅れる」と言えばよかった男性は、秋風の吹く中、百キロの巨体から汗を吹き出しバス停からデパート前まで走った。定刻から待っていた女性は、デパートの曲がり角からその巨体が見えたときには、心の底からなんともいえない、今までに思ったことのない愛しい感情が湧きあがってきたそうだ。
さて・・たまには携帯電話を家におき、素敵な人に会いに行ってみませんか?
人間らしさって何ですか?
以前、某所でこんな話題が上がりました。それから2年。ときどき、ふとしたことであのときのやりとりを読み返したりします。ため息……。なんとなくブックオフをブラブラしてたら、デビルマンの続編の『AMON』という作品が目に入り。
そうなんだよなあ。だれでも、理性ばっかりではいられないんだよなあ。自分の中の狂気とか、他人の中の狂気ともつきあって、もがきながらのりこえ、また苦しめられ後悔して。その連続。生き続けるかぎり、苦しみ続ける。それも人間らしさ。手塚治虫の『ブッダ』や『火の鳥』も、たしかそんなテーマだったような。作品の中では、それを「輪廻」と呼んでいたような記憶が。
ぼくが中学生のころは、さいわいにも宮崎駿のマンガ『ナウシカ』があったので救われました。つねに冷静沈着にみえるナウシカですら、我を失って怒りにかられて復讐に荒れ狂うことがありえる。激情する心をなだめ押し殺すのも人間らしさ。激情のままに暴れ狂うことも人間らしさ。「つねに、理性的に、暴力ではなく言葉による対話を」とはよくいわれることだが、残念ながらそう都合よくばかりもいかない。理性や言葉は、狂気や暴力をコントロールするどころか、火に油を注いだり、一方的な正義を装って押しつけ、弾圧し、さげすみ軽蔑し、自分の優位と相手の劣性を認めさせようと強いる。
ため息。
カケガエナイ。被害者もカケガエナイ。加害者もカケガエナイ。それぞれの家族もカケガエナイ。先生もカケガエナイ。同級生もカケガエナイ。長崎県佐世保の市民すべてもカケガエナイ。「人を殺すこと」が罪なのは、一度止まってしまった生命は、二度と息を吹き返すことが不可能だから、と、たしか養老さんが端的にいってました。素手でとっくみあうことを知っていれば、鼻血を出したり腕を折るくらいですむ。それを飛び越していきなりナイフやカッターという最終手段を持ち出すのは……。
生まれながらに善だとか、生まれながらに悪だとか、そんなことを言ってもなにも解決はしない。こどもが罪を犯すのは、こどものせいじゃない。こどもだろうと大人だろうと、すべてのひとが罪を犯しうる。罪を犯さなくても生きていける社会をつくれるのは、自分の中にも狂気があることを自覚しながらもそれをのりこえようと苦しみながら生き続ける、わたしたち悪魔人間《デビルマン》すべてだ。
2004.6.3
羊歯ひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。
この間の東京国際ブックフェア2004で、新潮社・講談社・筑摩書房・NTTソルマーレ・東芝・ボイジャー共同ブースにおいて講演された富田さんと、岡田一男さん(東京シネマ新社代表)、浜野保樹さん(東京大学教授)、ボブ・スタインさん(Night Kitchen代表)の記録がボイジャーのホームページにアップされました。富田さんについては、これがオフィシャル、ということかもしれません。映像もノイズが無く、綺麗に撮れているので是非見てみてください。その他の7人についても近日アップされるようです。
大正11年7月9日に森鴎外は、60歳でこの世を去った。腎臓の病だったと何かで読んだことがあった。その日も今日のように暑かったのだろうか?
今日は5月の末である。しかし団子坂を歩く私たちの上には夏至のような太陽があった。その容赦のない太陽に私たちのエネルギーは吸い上げられる。案内役をお願いしたNさんの額に半球の汗が群がり、幾度となくふき取られ、ふき取られた汗はまた戻ってくる。千駄木の駅から何度それを彼は繰り返しただろうか。私は日傘を彼に傾けたが、役にはたたなかった。百年ほど前、鴎外の二番目の妻しげも当時珍しかった洋装で日傘をさしてここを歩いたのだろう。鴎外の待つ「観潮楼」へと歩を早めたのだろう。また、鴎外の後ろを三歩下がって、影を踏まず、日傘をさしたしげはこの団子坂を歩いたに違いない。そう思うと、こうやって日傘をさし、ここを歩くのも決して悪くはなかった。自分がしげであるということの役者不足を感じながら、「観潮楼」跡の文京区立鴎外記念本郷図書館までの団子坂を歩いた。
「観潮楼」というのは、当時ここから上野、その向うの品川沖まで眺める事ができたので、そう名づけた。資料によると明治40年から観潮楼歌会を催し、斎藤茂吉、石川啄木らの多くの文学者が集ったのだという。それは鴎外が陸軍軍医総監に就任し多忙になったため明治43年4月を最後に歌会は消滅したのだということが書いてある。
今、文京区の図書館になっている。書庫の前で本を手にとる人たちをかき分けて奧へ行くと、鴎外記念室はある。一際目を惹いたのは鴎外のデスマスクだった。ガラスの中で鴎外は静に眠っていた。東西の両文化の中に身をおき、人間の権力から市井の姿まで、また職業柄人間の内臓まで鴎外は見尽くした。彼はデスマスクとなり、もう何もみないことにしたのだ。目を瞑っている。俗に「おでこさん」といわれる張りのある広い額、目じりがすっと切れている瞼、その瞼と瞼の間に日本人離れした高い鼻がある。唇は何か固い決心をしたときのように頑丈に閉じている。ブロンズに触れたときの冷たさを思い出しながらも、デスマスクに触れたとしたら温かいのではないかと思った。
生まれて初めて私はデスマスクというものを見たのだった。苦しみの表情でなくてよかったというのが率直な感想だった。高瀬舟の一節が私の脳裏をよぎったからだ。
ー庄兵衞は其場の樣子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、其疑を解くことが出來なかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、拔いてくれと云つた。それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。(森林太郎)ー
その「高瀬舟」から7年ほど遡った明治43年、鴎外が陸軍軍医総監に就任した前後かと思われる頃に「森林太郎」としてアルチバシェッフ の「死」を訳している。
ーゴロロボフは相手の詞を遮つた。「若しわたくしの体がわたくし自己であつたら、わたくしは生きてゐることになるでせう。なぜといふに、体といふものは永遠です。死んだ跡にも残つてゐます。さうして見れば死は処刑の宣告にはならないのです。」
ソロドフニコフは余儀なくせられたやうに微笑んだ。「これまで聞いたことのない、最も奇抜な矛盾ですね。」
「いゝえ。奇抜でもなければ、矛盾でもないです。体が永遠だと云ふ事は事実です。わたくしが死んだら、わたくしの体は分壊して原子になつてしまふのでせう。その原子は別な形体になつて、原子そのものは変化しません。又一つも消滅はしません。わたくしの体の存在してゐる間有つた丈の原子は死んだ跡でも依然として宇宙間に存在してゐます。事に依つたら、一歩を進めて、その原子が又た同じ組立を繰り返して、同じ体を拵へるといふことも考へられませう。そんな事はどうでも好いのです。霊は死にます。」ー
さて、鴎外にとっての死とは・・そんなこと私の中で結論の出ることではない。科学者らしい怜悧で明解な文章を書いた鴎外のデスマスクが「無駄なことは考えなさんな」と語り掛ける。「人間、一番知りたいことではないか」と私は反発する。デスマスクとの決着のない語らいから私を救い出すように、Nさんが庭を見にいきましょうと耳元で囁いた。
十二畳ほどの広さの庭に下りることはできない。鴎外が座って、露伴や斎藤緑雨らと写真を撮ったという石に水がたまっていても蒸発するのにさして時間が掛からないだろうと私は思って、太陽を見上げた。太陽を見上げる私の後ろには、永井荷風の書による詩碑が壁に埋め込まれてあった。
沙羅の木
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりし沙羅の花
「はたと落ちたり」という箇所にこの詩の説得力があるのだと勝手に俄講師を務める私に、頷いてくれるNさんだった。その真面目な様子がおかしくて噴き出してしまった。
沙羅の花は夏椿とも言われ、「はたと落ちたり」という表現がぴったりに樹との別れ方をする。鴎外もこの世とこの花のような別れ方をしたかったのではないのか。こういった潔さを鴎外は求めたのではないのか。鴎外の生き方が、植物的であったかどうかと考えると、動物的であったような気がする。私の好きな「かのように」は、ドストエフスキーの「悪霊」を思い起こさせる。立場上山形有明などという政治家との結びつきも鴎外にはあった。そう考えると植物的とは無縁の人間くさい鴎外が私の中にはある。そういう鴎外だからこの世と別れるとき、沙羅の花のように散りたいと思ったのだろうと推察する。その突飛な推察を、笑われそうで、私は口には出さなかった。額の汗を拭きふき、時計をみて踵を返したNさんの後ろを歩き出口に向った。
ちょっと気になったので、確認してみました。
案の定……
近藤勇
慶応4年4月3日、下総流山にて降伏し、25日に板橋にて処刑。『新撰組全隊士録』古賀・鈴木(編)講談社2003.11.より。「流山で処刑」は間違い。
→赤い斎藤茂吉
寒河江の初見は「殿暦」天仁2年(1109)9月26日条で、関白藤原忠実が競馬に「寒河江栗毛」を出走させた記事。同3年3月27日には、出羽国司源光国が寒河江庄に乱入した記事がある。『山形県の地名』平凡社1990.より。つまり「鎌倉期」ではなくて「平安期」が正解。
五月雨や、といえば最上川ですが、その支流に寒河江川という川があります。
五月雨や → 五月雨を
→五月雨や 宵霧山影 寒河江川
キャイーンがやらねば俺がやる。
2004.6.2
羊歯ひろし/PoorBook G3'99
引用転載です。
CRAFT碧鱗堂BOOKS第一回展示会「本の世界のはじっこから」にでかけ、内澤旬子さん手づくりの豆本や絵巻物、絵はがき帖などを見てきました。ウェブにあるテキストが縦書きの和綴じの本に変身しているものもあって、綴じてみると別の魅力が加わることをあらためて感じました。
先日おとずれたニュージーランドの町には大きな本屋がいくつかあるのでした。英語の本はアメリカのものもイギリスのものもたくさん置いてあり、ニュージーランドで出版されているのはその中の1割あるかないか。でも、コンピュータと人の手とが助け合って出来たようなちいさなエッセイのシリーズや、かんたんな糸かがりの詩集なども堂々と並んでいるのです。ひとつの世界を綴じて手わたすことに優劣はないということでしょう。御喜美江さんのエッセイを「たんぽぽ畑」という冊子にまとめたことがきっかけで、綴じる方法をいろいろとかんがえました。本格的な製本機も持たない身にはなかなか難題だったのですが、最近は四釜裕子さん考案の糸だけ製本をしっかりマスターし、さて、そろそろ水牛文庫(仮称)でもはじめようかという気分です。
「水牛のように」を2004年6月号に更新しました。
佐藤真紀さんは先月の続きで、高遠菜穂子さんやイラクのことなど。こうした現場からの報告を読み、同時に最近出版された「影の外に出る 日本、アメリカ、戦後の分岐点」(片岡義男)などを読むと、いまの世界の複雑なありようがよくわかってきます。
先月も紹介したように、武石藍さんは本棚の「女たちの同時代——北米黒人女性作家選」を途中から入力してくれました。水牛の中で本棚がいちばんおもしろいと言ってくれたのも彼女。そういう出会いがおきたことを知るのは望外のよろこびです。
フィリピンの作曲家ホセ・マセダが5月に亡くなりました。その通知はメールで届いたもの、日本の新聞にはひとことも載ることはなかったのでした。高橋悠治さんはマセダとの思い出を。
「水牛の本棚」は「女たちの同時代——北米黒人女性作家選」全7巻についての藤本和子の解説をいましばらく楽しんでください。
「水牛通信電子化計画」は1980年10月号を公開しました。「軽印刷のすすめ」という一冊まるごとの特集です。水牛通信は、出版という技術をできるだけ自分たちの手でとかんがえました。その方法をオープンにしたマニュアルのこころみの号です。「流言蜚語なしでは真実を手にいれることはできない。……わたしたちの側にも流言蜚語生産のための技術がいる」「わたしたちの運動は、歩いてどこへいくのかということと同時に、それ以前に、まず、わたしたちが歩くという現実からなりたっている。「正しい道という概念は、正しい歩行という概念よりも劣っている」(ブレヒト)。印刷もふくめての文化の運動は、この「正しい歩行」の技術に直接にかかわる。」この号に書かれている技術のいくつかはすでに過去のものといっていいと思いますが、技術をとりもどそうという想像力はいまもいきいきとしています。
今月の催しのお知らせを以下に。
●「終わらない戦争、イラクの子ども絵画展」
6月18日〜7月1日(11:00〜19:00 最終日は17:00まで)
ストリートチルドレンの描いた絵や、白血病の子どもの描いた絵を展示します。
また会場では、本や絵葉書、CDなど販売しますのでお楽しみに。
東京のギャラリー日比谷で。
詳しくはJVC tel:03-3834-2388 まで。
●「文字の文字 平野甲賀と字游工房展」
2004年5月21日〜6月18日(日・月・祝 休館)11:00〜18:00
ユニークな文字をつくりつづけている平野甲賀。
スタンダードなデジタルフォントの開発をめざしてきた字游工房。
文字にこだわるデザイナーの仕事の手の内を明かにし、タイポグラフィーの可能性を展望します。
Gallery5610
港区南青山5-6-10 tel:3409-9496
●「volcano girl 平野さくら絵画展」
2004年6月4日(金)〜15日(火)12:00〜18:00
ことしの春大学を卒業した平野さくら初の個展、大注目です。
タイトルがすてき。女の子は噴火しているのです。
NO.12 GALLERY
渋谷区上原2-29-13 tel:03-3468-2445
小田急線東北沢駅、京王井の頭線駒場東大前駅から徒歩8分
●江村夏樹作品コンサート『夢』
7月23日(金)18:30会場 19:00開演
江東区・門仲天井ホール tel 03-3641-8275
前売3000円 当日3500円
平川和宏(男声)/三橋美香子(女声)/山田百子、甲斐史子(ヴァイオリン)/西陽子(筝)/松本健一(テナーサックス)/江村夏樹(ピアノ)/声の出演 寺本実里、江村夏樹/須藤力(音響技術)/場内日本画展示 青柳恵子、萩原まい子
太鼓堂で前売予約を受け付けています。
それではまた!