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「詩とは金塊であり、散文とは金箔なんですね。重さは同じです。金塊をコアといいかえてもいいです」
以前私はステージの上から観客に向って生意気にもこう言ったことがある。
「貴女自身の中で、詩と散文はどうなっていますか?」という司会者の質問に対しての答えだった。私が所属する文学サークルのイベントで拙詩をプロの朗読者が朗読し、そのあとで司会者がその作者に質問攻めにするという企画で、まな板の鯉になったのである。
私は詩人ではない。詩集一冊出しているわけではない。サークルが一年に一度発行するアンソロジに詩を書くか、そのアンソロジを見た色々な方からの要請で、自治体の様々な行事のパンフレットに花を添えるために書くかという程度である。後は、サークルに長年いるというだけで地方自治体主催のカルチャー教室において詩の講座の講師で上座に座らせて頂くか。昨年体調を崩して講師も降板して以来、最近はもっぱらagさんの優しさに附け込んで?ここaozora blogで好きな事を書かせていただく事が楽しい。そんな私が書くことであるから、いい加減な話ではある。
日常、何気ないことで心の底に触れることに出会ったら、若しくは心を揺さぶられる風景の中にいることができたら、頭の中で言葉が幾重にも重なり合って浮ぶ。それは文章ではなく、言葉の羅列なのである。その言葉の羅列をずっと持っていることにしている。何年も持っている場合がある。すぐには書かない。私の中でしっかりとした言葉になるまで待つのだ。書き始めようと思ったら、先ずは下書きである。詩の下書きは新聞にはいってくるチラシの裏、コーティングのないスーパーの広告に限る。別にスーパーの広告だから上手く書けるというものではないが、裏表に広告がされていない、コーティングのないものなら何でもよい。その「大根一本百円安いよ!」という裏に思いついた言葉を書き連ねる。それは誰も意味がわからない。私だけに通じる言葉の羅列なのである。単なる「叫び」なのだ。「呟き」なのだ。さてその「叫び」をどうしたら読み手に伝えることができるだろうか。これがテクニックというものである。テクニックというものに翻弄され、中核にある叫びを絶対に逃がすまいと何度も書き直す。洋服のポケットにそのチラシを畳んでいれて生活をする。思いついたときに言葉を直すのだ。言葉を入れ替えたり、どの言葉をどの位置で読み手は的確に私の「核」を捕まえることができるかを考える。詩における言葉は動いてはいけないのである。つまり他の言葉に置き換えることができるような言葉であってはならないのである。その位置にその言葉でなくてはならないのだと思う。
小説など散文となると、同じ叫びや呟きを今度は、「延ばす」ということになる。薄く広く延ばすのである。連続した時間の流れの中へ「核」を放り込む。だからそこに詩とは異質の構成力が必要となるのだろうと思う。「話の筋」という言葉通り、話に筋が通っていなければならないのである。書きたい事が決まり、筋が決まったら、なぜか主人公の名前が浮び、書きたい事に従って主人公や周りの登場人物が私の頭の中で動いてくる。そこから浮かび上がってくるものは何か?それは本当に自分の書きたいことなのだろうかと自問する。筋は話の整合性だけではない、私全体を通り抜けなければならないのだ。足のつま先から頭の天辺は抜けるようなものがなければならないのだ。
金塊でも金箔でも根源はリアリズムである。描写力である。それがないと詩では言葉は動くし、散文では筋だけが一人歩きをしてしまうのだ。
・ ・・・とここで気付く・・何年も書いていないのに、メジャーデビューできなかったのに・・こんなことを書いてはいけないのではないだろうか・・・ううむむ・・やっぱ書きたい。というわけで、まあ普通のおねえさんの中にあるちょっとした思いということで、読み流してください。
★この文章を書いた人→ten★こんな時間に→2004年05月04日 22:17 ★トラックバック