2004年05月31日

 うたたねしなかった不条理演劇

St.Scrap Shelley「ダム・ウェイトレス」
@ジァンジァン
原作:ハロルド・ピンター 構成・演出:出演の二人
1993年8月
ス−(柳岡香里)とラン(渡辺育子)。

2004年6月  シスカンパニー&世田谷トラムシアター
A:いい男バージョン 堤真一 村上淳 演出 自転車キンクリートの鈴木さん
B:おじさんバージョン 浅野和之 高橋克見 演出:ざずうの鈴木さん

ひさびさの演劇ブログです。

1993年はいまは亡き渋谷のジァンジァンでみました。この時不条理演劇のひとつ
に触れたわけですが【ちなみにもうひとつは有名なんてすが、ゴドーを待ちながらです。】
固い階段の椅子でさえ、時々うとうととするくらい意味不明、不条理、果たしてうとうと
しない不条理演劇はあるのか?と聞かれればそれは情熱によるのかもしれません。

ちがうな、と思ったのは今回のBバージョンをみてからです。
うとうとしない不条理演劇、はじめて!

ま、ほめことばはおいておいて、今回はBバージョンおじさんバージョンを
みたのです、はっきりいってチケット代もばかにならない今日この頃、両方みるなんざぁ
正気じゃありません。といいつつ、Bバージョンをみてしまった今、Aバージョンも見たくなる
というのが性、うううう、グリーンジャンボがあたれば....と今日程おもった事はありません。

チケットを購入するとき、大ばけして面白いのは絶対Bだと相場を読むように、買ったわけです。
それがおおあたり、こんな嬉しいことはありません。
いや、もちろんイケメンバージョンをみれなかったくやしまぎれではありません。
しかし、しかしです。Aバージョンはなんかどっちがどっちでも、そこそこだなと
思うのです。【みてないのにごめんなさい、なんせ宝くじあたらないしって買ってないし!】

テレビでみるよりも哀愁ただよう高橋克実氏、遊民社育ちの浅野和之氏というおじさん
コンビ、これは何より、原作【1930年うまれのハロルド・ピンター氏・存命中です】を
見事に日本になじませたよくできた作品になっていると思うのです。

いや、だからAバージョンはしりません。どなかたそっちの方をコメントしてくださいよ。
というわけで。ひとまず。

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2004年05月30日

 五月雨や 宵霧山影 寒河江川

五月雨や 五月雨、といえば最上川ですが、その支流に寒河江川という川があります。寒河江と書いてさがえと読みます。山形県人ならばだれでも知ってる名称ですが、はじめてのひとにはちょっと難しい地名です。それでも、鎌倉期(あるいは 平安期 だったか)には名馬の産地として寒河江荘の記述が文献にあらわれます。

【訂正】寒河江の初見は「殿暦」天仁2年(1109)9月26日条で、関白藤原忠実が競馬に「寒河江栗毛」を出走させた記事。同3年3月27日には、出羽国司源光国が寒河江庄に乱入した記事がある。『山形県の地名』平凡社1990.より。つまり「鎌倉期」ではなくて「平安期」が正解。

山形県のほぼ中央に月山があり、そのすぐ南に朝日連峰があって新潟県とのさかいにもなっています。有数の豪雪地帯で、少ないところでも3、4mの積雪が毎年あります。月山といえば、8月まで残る雪を利用した夏スキーでも有名ですが、その月山・朝日の大量の雪解け水が寒河江川となり最上川となり、山形県内陸地方や庄内地方のたんぼやはたけをうるおしています。

はたして月山のネームバリューはどれくらいなものでしょうか。文学好きの人なら森敦の同名の小説や芭蕉の『奥の細道』で。スキー好きの人なら夏スキーで。近年、ようやく山形市方面から庄内方面への高速道路が開通したので、インターチェンジ名にもなりましたが。月山自然水をご存じのかたもいるかもしれません。あとは、民俗学・歴史学のほうならば出羽三山や山岳宗教としてといったところ。先日まで、国道112号が全面通行止めになった斜面滑落の現場は目と鼻の先です。

ここまで書くと、けっこうな山間地なんだなあということがぼんやりとでも想像していただけるのではないかと思います。事実、月山は「死出での山」とも呼ばれることがあります。標高2000mに満たないながらも、その容貌や残雪や絶えることのない雪解け水や、原生のブナ樹林。おだやかで恵み深い一面があるとおもえば、裏を返したように人を寄せつけず拒み、容赦がない。古くから冥界・聖域として畏怖されてきたゆえんです。

田畑には毎年5月まで雪が残りますし日照も少なく水も冷たいので、米作には悪条件が重なります。また、多量の積雪は果樹の枝を痛めるので、くだものの栽培にも適しません。そのためにこのあたりでは、従来もこんにちもまた、いわゆる山菜によって生計の多くを頼ることになります。たけのこ・こごみ・たらのめ・こしあぶら・みず・ぜんまい・うど・うるい・しおで・しいたけ・なめこ・わかえ・まいたけ・ぎょうじゃにんにく。

ということでもうしばらく、ゆっくりネットというわけにもまいりません。
以上一面、やまがたからの広告記事でした、みたいな。



2004.5.30
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。やれるものならやってみろ、みたいな(はーと)。

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2004年05月21日

 キャシャーン

みてまいりました。

私はなみだもろい方なので、涙したのですが。原作を知っている方は
すごく原作を大切にして作った作品だといっておられました。

ちょっと疲れます。長いだけでなくストーリとして、脳をやすませる
おだやかな部分が間に、もうすこし、はいればもっとよい映画だったと
おもうのです。CG処理もできるという事とCGでめいっぱい
表現しまくる事とは違うような気がするのです。

みていないかたもいらっしゃるので、細かい点がかけません。

時折でてくる回想シーンでブレイク)を、いれつつ特種効果などの
テンションのあるシーンと織りまぜたらとってもよいものになると思います。

そしてこれは間違いなく  アメリカで思春期を過ごした監督だからこそ
作れた、秀逸な反戦映画なのではと思うのです。

役者さん、それぞれがすごく生きている映画です。
細かい点なども楽しめるし、三橋達也氏の遺作ともなってしまいましたね。

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 こ。この姿は?

hume.jpg

ただいま、FF11の世界では、LV75というのが最高LVなのですが。
その最高LVのお友達が普段着にと愛用して着用している洋服です。

って、これ実はウエディングドレスなのです。一式なのです。
うっとりなのですが、これをタルッコの私が着ると・・・
お借りしてきせていただいたのですが、一応写真もとったのですが。
.......。

みたいです?みない方がいいですよ?
なんじゃこりゃぁぁぁぁ【松田優作風】なのです。というわけで、公開しません。

どうしてもみたいという、タルタルマニアな方がいたら、【コメントが付いたら】
公開しようかしらん?でもはずかしいからやぁめた。

ひさびさの日記はこんな話しですみません。

アメリカでもFF11のサービスがはじまり、もともと香港などから
接続している外国の人もいたのですが、英語がとびかっています。
タブキーを利用することで、英語に変換してくれるらしいのですが、
【五月】i 【検査する】【あなた】?といわれてびびりまくったのです。
なんてことはない、装備がみたかったのですね。

こんな風に会話してくる外国の人もいれば、いきなりじっとみつめるを
くりかえして、それはどこでとれるの?と戦闘中なのに、聞いてくる人やら
もう様々。なんだかすごく妙な状況のヴァナの世界です。

ごぶさたしてましたが、またぽちぽち書いていきます。

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2004年05月17日

 azur の JIS X 0213 対応状況

シフト JIS で保存したファイルに含まれる JIS X 0213 の文字を、azur がどこまで表示できるかは、以下の通りです。

【Windows XP】

2004 年の改訂に対応したフォントを用いれば、面区点番号 1-11-69、1-11-70 の合成文字をのぞいて、改訂で追加された 10 文字を含む、JIS X 0213:2004 の文字を表示できます。

最新版(2004-0509)の XANO 明朝 U32 は、改訂に対応しています。

自前で用意された文字コード変換モジュールでは、面区点番号 2-93-27 に対応する Unicode は、改訂に合わせて、9B1D から 9B1C に変更されています。

【Windows 2000】

一部の文字が表示されません。

【Windows98、Me】

2004 年の改訂に対応したフォントを用いれば、追加された 10 文字を含む、JIS X 0213:2004 のすべての文字を表示できます。

最新版(2004-0509)の XANO 明朝 L は、改訂に対応しています。

【Macintosh OS X】

ヒラギノで、JIS X 0213:2000 のすべての文字を表示できます。

文字コード変換機能は、OS に依存しています。
最新の Macintosh OS X 10.3.3 は、JIS X 0213:2004 に対応しておらず、改訂に対応したフォントを用いても、追加された 10 文字は表示されません。

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2004年05月16日

 azurバージョンアップ

azurの新機能

5月15日付で、azurの新しいバージョンが公開されました。
最大の話題は「Windows XPでのJIS X 0213対応」ですが、もちろん、それ以外にも便利な機能がいろいろ追加されています。少しご紹介してみましょう。

(1) くの字点の置き換え

こんなふうに見えていた「くの字点」が、

kunoji_1.png


こんなふうに見えるようになります。

kunoji_2.png

Macintoshの場合はOption+K、Windowsの場合はCtrl+Shift+Kで切り替えできます。
切り替えるときには、「表示」メニューの「書体」で、JIS X 0213対応フォントを指定しておきましょう。

(2) 栞機能強化

インターネット上のファイルとハードディスク上のファイルが、ひと目でわかるようになりました。

azur_shiori.png


地球のアイコンがインターネット上、書類のアイコンがハードディスク上のファイルに付けた栞です。
最後に参照した栞が太字で、最後に追加した栞のアイコンが青で表示されます。
栞をつけたページや文字列を、背景色をつけて表示できます。背景色あり/なしを「表示」メニューの「栞マーカー」で切り替えられます。

(3) 自動ワイドマージン

blogなどで、マージンが0に設定されているページをひらくと、テキスト表示領域の周りに、自動的に余白が表示されます。
blogを読むときにも、画面いっぱいに文字が標示されたり、文字がはみ出したりすることがなく、読みやすくなりました。
マージン0でないページも、MacintoshはOption+M、WindowsはCtrl+Shift+Mで、手動でワイドマージンのオン/オフを切り替えることができます。


(4) リンクのドラッグ&ドロップ

ウェブブラウザのリンク文字列をazurにドラッグ&ドロップすると、リンク先のページがazurで開きます。
google検索した結果をazurで見たいときなどに、リンク文字列をドラッグ&ドロップするだけで開くことができます。フレーム構造のページも、フレームのリンク文字列をazurにドロップすればOK。

(5) 文字化けの解消

blogをazurで開くと、年月日が文字化けしていることがありました。
これはblogの年月日表示が「文字参照」を使っているからですが、新しいバージョンでは、文字化けせずに表示できるようになりました。
Macintosh版ではUnicodeで定義されている全ての文字参照に、Windows版ではJIS X 0208の範囲内での文字参照に対応しています。JIS X 0208の範囲内のみでも、blogを読むには特に不便はなさそうです。


このほかにも、細かいところで機能追加や改善がおこなわれています。
まずは新バージョンのazurをダウンロードして、使ってみてください。

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2004年05月13日

 内澤旬子・展覧会のお知らせ

ひょんなことから知り合いになったイラストレーター、内澤旬子さんが展覧会を開きます。
じつを言うと、内澤さんが手づくり本を作っていると聞いて、青空文庫のテキストを使った手づくり本を創ってみたいなあ、と思い描いていたんです。そしていつかその製作方法をこのblogで発表しようと目論んでいるんですが、まだまだ実現にいたっていません。

電子本も良し、手づくり本も良し、です。

もしお近くの方がいらっしゃたら覗いてみてください。


▼CRAFT碧鱗堂BOOKS第一回展示会

内澤旬子・展覧会
「本の世界のはじっこから」

イラストルポライターとしてさまざまな雑誌で活動する一方、ユニークな手づくり本作品を発表してきた内澤旬子の新作、旧作を展示します。個展というよりは、コーヒーを飲みながら気軽に観ていただける展示です。ぜひいらしてください。

【出品物の一部】
豆本「昼寝犬」
「モクローくん絵ハガキ帖」
「シラカバ絵巻」
「おやじがき」
その他、イラストルポ掲載の雑誌など。

【日時】 
5月13日(木)〜6月1日(火) 
14:00〜24:00
■定休日 18日(火)、19日(水)、26日(水)

【会場】
cafe NOMAD 文京区根津2-19-5 電話03-3822-2341
(千代田線根津駅1番出口より徒歩1分)
*カフェですので、ワンオーダーお願いします

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2004年05月12日

 電子書籍2

> 「好きなこと」には、本を読んだり映画を観たり、という受動的な楽しみと、
> 電子本を作ったりビデオを撮影したり、という能動的な楽しみの両方があって、
> 両方をバランス良く楽しんでいると、さらに楽しみが拡がるのではないかと思
> います。

LUNA CAT さんからこのようなコメントをもらって、ちょっとそのことを考えていました。受動的とか能動的とか、あまり考えたことがなかったからです。なるほどなあと思ってるのと同時に、ん〜?とも。正直なところ考えすぎて、わけがわからなくなってしまいました。で、考えこんでいたら、能動的でないパブリッシュもありだなあ、などと逆説めいたことを考えはじめています。正確にいえば、能動的であることを考えなくてもできるパブリッシュ、というかんじです。へんに力まなくてもできてしまう出版行為。じつは、この blog がその最たるものかもしれないですけれども。

パソコン通信が普及して以来、電子掲示板あり、MLあり、blog あり……それらはすべてパブリッシュにほかならなかった。これら電子メディアによるパブリッシュの大きな特徴は、「パブリッシュを意識することなくできてしまうパブリッシュだった」という点です。ウェブサイトの運営やメルマガの発行、グループウェアの設置、それと携帯メールはおそらく能動的行為でしょう。けれども、BBS・ML・blog への投稿はというと、「能動的ではあるけれども、能動的であることを意識しなくてもできる」パブリッシュであったのではないかと。

ならばこんなことも考えられるんじゃないでしょうか。「人間が電子世界で自在に本をパブリッシュできる時代になってほしい!」とゆうくんがコメントで書いてました*。cgi や blog のかんたんな窓口でテキストや写真をアップすると、ネットの向こう側で自動的に T-Time 製本されて、それが自分のところへポン! と帰ってくる、みたいな。自分でつくれないとか、人に頼むのもちょっとというばあい、あらかじめいくつかの定型が用意されていて、それを選んで材料を送るだけ。

自動販売機で缶コーヒーを買うとき、飲みたいから飲むんであって、能動的とか受動的とか考えないと思うんです。コインを入れて選択ボタンを押す。なかでどうなっているのかわからないけれど、そくざにポン! と出てくる。インスタント・パブリッシュ。プリクラちっくなパブリッシュ……。青空文庫では T-Time をつくらないことにしたんだし、アジュールもできたんだからそんなもんいらねーよ、なんてことは言いっこなしで、よろしく(はーと)。



5月11日は土方歳三の命日でしたか……
2004.5.12
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。

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2004年05月10日

 完全収録 ブックフェア富田講演(2)

続きです。一つのポストに文字数の制限があるのを初めて知りました。

 ★ ★ ★

46:52
それから最後にもう一点。著作権というものが、インターネット、ファイル、共有だとか電子本だとか音楽ソフト、プログラムの権利を守るということでしばしば言われている。けれど、著作権の目的というのは著作権法の冒頭にはっきりと掲げてあります。著作権法の目的は、冒頭でこう書いてあります。
ひとつは著作者の権利を守ることを徹底してやる。権利を守るんだ、新しいものを産みだした、表現を産みだした人の権利を守る、そうしてその人の生活を支える。私は宮部みゆきさんの作品が大好きだ。宮部さんには生活に余裕を持って創作に専念して欲しい。だから宮部さんの権利を守って、そういう道で宮部さんの創作性を支持していく。支えていく。そういう方法をひとつ取る。もう一方で、但し著作物というものは、例えば芥川であり宮部みゆきであり、芥川は夏目漱石なしで芥川足り得たか。それから、日本の中世の古典的な文芸の蓄積なしで芥川は芥川足り得たかと言ったら決してそんなことはない。我々は大きな国語、日本語表現の流れの中にいる。それはさらに世界的な中国語による流れの表現の中にいる。その向こうにはさらに世界の文芸表現の流れがある。その中の、その中のひとつの泡としてうまれたからこそ、芥川も芥川としてああいう作品を生みだした。だから、芥川の権利は、芥川が生きて懸命に創作している間は守る、宮部さんの権利は守る、それで支えて行くけれども、もし芥川が死んで50年経ったら、その共通の文化の大河の中に生まれたからこそ現れた芥川の作品を、もう一回文化の大河に戻そうと。だから著作権法のもうひとつのアプローチとして、権利を守ることに加えて、権利を死後50年経ったら切ります、と言っています。切ることによって、公正な利用の促進を図る。みんなで、我々の貴重な宝である芥川の作品を、より簡単に利用できるようなしくみをできれば作っていこう。そういうことがあってはじめて、そういう物事の両輪があって、一方で権利を徹底して守る、けれどももう一方で公正な利用の促進を図る、みんなが共有出来る体制ができてはじめての著作権の考え方、これがこの2つの道筋を通じて、私たちの文化をより高いモノにしていこうということが、著作権法の冒頭に謳われている。

49:50
これは決して新しい精神でも何でもない。それから、岩波茂雄も語っていたし、著作権法に盛り込まれるに当たってはそういう気持が、精神が我々の先人たちによって育まれたからこそ、法の中に明記されている。但し、そういう素晴らし目的を掲げていながら、紙の本というのは本当によくできていて、皆さんもそのバッグの中には(たくさん売っているから)これは言わずもがななんですが、紙の本の素晴らしさというのは本とによーく知っている。それからモノとしての愛着もある。本も大好きでしょう、ここに来ていらっしゃる方は。私もその一人です。

50:30
けれど、それほど立派な紙の本は、残念ながら作るのにコストがかかる。だから、権利切れが起こった途端、芥川の権利が切れた、太宰の権利が3年くらい前に切れましたけれども、太宰の権利が切れた途端に、文庫本が半額になるということは期待できない。せいぜい起こるのはですね、太宰治全集が高い値段で刊行されることぐらいでですね、却って高くなるくらいのことが現実に起こるくらいのことではないでしょうか。

51:02
だから目標として、古くから著作権法が掲げてきた、著作権が切れたらよりみんなで共有できるような体制にしようよと、その為にはもう権利保護を外して、誰かにお金を払わないと著作物の複製ができないような縛りは外します、といっていた。けれども、紙の本と言う素晴らしいものを作るにはお金が掛かりすぎた。それに対して、インターネット電子書籍という枠組みが生まれて初めて、かつて著作権法が生まれたときの願いが初めて実現できるようになった。これが、青空文庫の達成していることのひとつのような気がいたします。

51:47
もし、世に言われている電子書籍、あの、ボイジャーが推進しているようなものが、たかだか紙の本が電子ファイルになってスクリーンで読めるだとか、1冊のこういうものに10冊入るとか100冊入るだとか、それだけのことだったら電子出版なんてものになんの意味がありますか? こんなわざわざ高い機械を使って、パソコンを使わないと読めない。さらに素晴らしい解像度かもしれないけれど、追加の5万円くらいする機器を買ったりですね、そんなものを買ってやるよりも、紙の本で十分なような気がします。

52:24
けれど、紙の本を支える出版社、書き手がいて出版社がいて印刷所があって書店があって図書館があって、そういう枠組みでは支えられない、本当にタダで公開できる、様々にファイルを利用できる、そういう枠組みを作る、その突破口が電子書籍、電子出版によって開けるのだったら、はじめて電子書籍にはわずかな存在理由がある。
こういうことがやれるのであれば、紙の本でできなかったこういうことに手掛かりを与えてくれるのであれば、それだったら電子書籍と言うモノにはひょっとしたら可能性があるかもしれない。そう思います。

53:10
青空文庫は単純な夢、1997年に見た「空を仰げばばそこに本が開かれる」こういう世界を実現したいとではじめた。そこから、このファイルを5年10年50年、それから幅広い人たちに分かち合うためにはどうすればいいかということを中心に自分たちのあり方を変えてきた。それでここまで到達してきた。その時に捨てざるを得なかった読みやすさという要素を、ボイジャーにお願いして、世界的な枠組みに沿ったそのルールのところでもあなた方が持っている素晴らしい表示の、表現の力を是非ふるってくれということで、こういう形でazurが生まれた。ま、なかなか波瀾万丈の7年、8年、それから何も見えなかったことが少しづつ、600人の協力者の皆と共に考え、それから、利用してくれる人はもう延べ何人いるのでしょうか。数えることもできないし、そういう人たちの不満やこうして欲しいといいった声やそういったものを感じながら到達してきました。

54:30
それで、単に、紙の本をオンスクリーンに移し替えるだけではなくて、言葉による表現をどう残し、どう伝えるかという枠組みの、新しい作り替えが開ける可能性が見えてきた。それの、ひとつひとつの過程を踏みながらその可能性を見つけていったのが、青空文庫と、そしてまあ、ボイジャーの、別れたりくっついたりのこの8年の経過です。
それで、つい先日、このazurが完成するまでにボイジャーと青空文庫の仲間は懸命に努力しました。皆さん本当にお疲れさまでした。素晴らしいソフトウエアができてきたと思います。

55:13
この達成点はただ単にazurが素晴らしいソフトとしてできてきただけではない。私たちがやってきたことは、公共の枠組みの中で、日本語の組版の技術を、せいぜい盛り込んで再構築するという、考えてみれば結構大きなことをやった。えーーーできたので、あとは、黙々とまた校正にファイル作成の日々に戻って、みんなが共有できるファイルを作って参りましょう。大変皆さん長い間ありがとうございました。

55:50
(萩野)
ありがとうございました。もうかなり、あの、充分にいろんな話をしていただいたと思います。えー、長い間そんな狭いところで立ってお聞きいただいて本当に大変だったと思いますが、ま、十分に聞く価値のあるお話だったと思いますし、えー私たちと青空文庫、ボイジャーと青空文庫、青空文庫とボイジャー、どういう形でこういうものを作ってきたか、なかなかいろいろ複雑な話があるということをお聞き取りいただいたと思います。もう一度、富田さんに拍手を送って下さい。

あの、別に宣伝しなくても、私がありましょう。あのー、これはこの、後ろの売店で500円で販売してます。3月31日現在・・・先ほどホームページ見せて頂いたら、3800いくつになっていましたね。もうすでに100位増えているわけなんですが、3月31日付で3723作品入ったモノです。500円ですので是非お求め頂きたいと思います。

どうも皆さんありがとうございました。

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 完全収録 ブックフェア富田講演(1)

もうすでにだいぶ語り尽くされていて、しだ(PoorBook G3'99)さんも部分的に書き起こしてくれたのですが、ここで改めて、富田さんの講演をすべて書き起こしました。記録を残しておくということで。

ただ、これをWebブラウザで読むのはとても辛いと思うので、azurをお持ちの方、または試されている方は、

http://www.siesta.co.jp/aozora/archives/001125.html

のアドレスをazurで開いてみて下さい。とても読みやすいと思います。

 ★ ★ ★

2004東京国際ブックフェア(デジタルパブリッシングフェア)
新潮社・講談社・筑摩書房・NTTソルマーレ・東芝・ボイジャーブース
2004/4/25(日)13:30〜14:30 富田倫生プレゼンテーション

(富田)
00:30
こんにちは。青空文庫というインターネットの上の電子図書館の活動をやっている富田ともうします。インターネットの上の電子図書館とは一体どういうものなのか、皆さんにお話ししたくてやってまいりました。それで、そのインターネットの上の青空文庫という電子図書館を快適に利用する、より読みやすい物にするためにむこうにいらっしゃる萩野さんという方が率いる会社と、ボイジャーと組んで、ひとつ、面白いソフトウエアをつくりました。その話もしたいと思います。

01:12
まず、一番最初に正誤訂正を最初にやりますが、青空文庫には、青空文庫というのは、電子メールを主に、電子メールとネットワークだけで協力関係で進めている活動で、ちゃんとした組織、いわゆる普通の意味のそしきではありません。そこにははっきりした会員制度だとか、誰がメンバーだとかいうこともございません。それで、当然主宰者のようなものもおりません。みんなの世話役をする物が何名かいるだけで、青空文庫主宰っていうのはですね、あちらにいる萩野さんが私を励まそうと精一杯いってくださったものだと思うんですが、事実は違います。

02:02
それではまず、青空文庫の説明に移っていきたいと思います。
えー、ここに画面が出ました。これは普通のインターネットエクスプローラーだとかああいうやつで開いた、あるホームページの最初の画面です。ここに青空文庫という名前が出ています。ここが青空文庫という、私たちがやっている青空文庫というインターネット電子図書館です。

02:30
図書館というんだから、えー、まあ本が、読めると。じゃあどんな本があるのか、どんな形で読めるのか、まずそっからご紹介したいと思います。
ここをずりずりずりとやりますと、まず「公開中」「作家別」「あかさたな、は」と並んでいます。これ作家名のリストです。じゃあま「あ」から始めてみましょう。皆さんご存知のところで目に飛び込んでくるのは芥川龍之介って名前が飛びこんできます。「芥川龍之介 公開中228」とあります。これは、これは、このサイトで、この電子図書館で芥川龍之介の作品が228現在公開されている、というマークです。

03:17
じゃ、これ一体どういうのが並んでいるのか。ずりずりずり、とやてみると、「芥川龍之介作品『秋』『芥川竜之介歌集』『アグニの神』、・・・こういう風に並んでおります。じゃどんな形で見れるのか、というと、あ「ら」抜き言葉になりましたね。見られるのかやってみましょう。『河童』にしましょうか。え、この作品から、一歩作品に踏み込んでいくと図書カードというものが開きます。この作品はそもそもいつ、どこで最初に書かれたのか、『改造』1927年、昭和2年3月号に出た作品である。じゃあこれをまず一番手っ取り早く見られる形で開いてみましょう。

4:14
「『河童』 どうかカッパと発音して下さい。・・」あれ、これはちょっとタグが見えちゃってますね。直しておかないといけません・・・こういう形で作品が公開されているんです。えー、これは別に途中で作品が切れるわけではなくて、最後まで作品を読むことが出来ます。えーこのこのインターネット電子図書館は別に会員制というわけではなくて、利用するに当たってお金を求めているわけではありませねん。誰でも、「青空文庫」という名前を覚えて下さい。それをご自分のウエブブラウザのインターネットエクスプロ−ラかなんかで、グーグルなんていう検索サイトを皆さんよく使われるんじゃないかと思います。そこに「青空文庫」と渡してください。そうするとURLが帰ってきますから、そこをクリック、それで、このトップページにもどります。ここに入りますので、ここで別に何とか・・暗証番号だとかですね、料金表のようなものが出てくるわけではないので、どなたもご利用いただけると。

05:30
それで、こういう活動が一体どういう仕組みで支えられているのか、それをお話ししたいと思います。これは、こういう、例えば芥川龍之介の著作権が切れた作品は、私たちは著作権法でこういう電子ファイルを作って公開するということが認められています。その法律が許した枠組み自体があった。では、その法律の枠組みに沿って青空文庫のファイルを実際に作ってここに置いてみれば、インターネットの上で電子図書館という物がたった今動き始めるんじゃないか。そう思った何人かが始めたことです。始めるにあたって、始めたのは1997年の8月でした。ですから、6年が過ぎて今7年目に掛かろうとしています。そういう活動をやろうとした。それで、始める時に、このトップぺージの上の方に、私たちはこういうことで、始めた当時の仲間っていうのは約5人ほどでした。5人で始めてどれほどのことができるわけではないのだけれど、もしよろしければ、あなたも一緒に力を合わせて、この活動をやってみませんか、と書いておきました。そしたらおよそ3ヶ月、4ヶ月ぐらい経って、ひとち、またひとり、「私も作業に協力したい。一体どういうふうにすれば力を合わせて進められるだろうか」という声が上がり始めました。それの積み重ねで、現在までにこの青空文庫の電子化の作業に関わった人はおよそ600人います。

7:15
600人の中には、それ、もちろん作業をたくさんやった人、あんまりやっていない人、一時期ものすごく頑張ったんだけれどもしばらく休んでいる人、最近になって突然現れて、とんでもない勢いで始めた人、いろいろあります。それから人生の波によって、例えばその時は就職前だったけれども今度は就職した。その時は高校生で大学入試の受験で結構大変だったんだけれど、大学にうまく紛れ込んだもんだから時間ができて、電子化にたっぷり時間が注げると。そうやって集中してやっている人もいる。そういう形でいろいろな人たちがいろいろな波を持って関わっています。自分の、リタイアした、特に、私、深くお付き合いしている方は、印刷の現場でずーっと働いてらして、その方は決してコンピュータはあの、リタイアしてからさわられたくらいの事ですが、その方が校正に大変力をふるってくださっています。

8:20
そういう約600人の方々の働きによって、収録作品数、これは今日の収録作品数が出ています。
3821作品公開するに至りました。
芥川龍之介、夏目漱石あたりはもうかなりカバーしたと思います。森鴎外だとか、太宰治であるとか、そういう作品も並んできます。それから、あまり今では読まれることのなくなった作品、その一つの典型はプロレタリア文学の作品だと思いますが、それからこれまで一度も注目を集めなかっただろう、それは女流作家の、名前を申し上げてもほとんど皆さんご存知ないような女流作家の作品は、一度も脚光を浴びていないようなものを、それを初出、一番始めに刊行された雑誌から掘り起こして電子化されている人たちがいます。
だから、本当に基本的な、我々の共通財産のような芥川のような作品、夏目のような作品をやろうと思われた方、プロレタリア文学をやろうと思った方、女流作家を、私は掘り起こしたいんだ、と思う方。それからまた別に、たくさん青空文庫では作業待ちの作品が並んでいます。あと一歩校正してしまえば公開できるんだけれど、その最後のステップが踏めない。そうやって溜まっている作品があるから、私は特にこの方向を攻めたいと言うことはないのだけれど、何とかこの動きをプッシュ、プッシュして、力づけていきたい。だから長い間校正を待っている作品を私は校正しようと。そういう形で関わって下さっている方もいる。いろいろな気持が重なり合って、600人の気持が重なり合って、今日の3821という収録作品数を蓄えるに至ったわけです。

10:20
それで、この青空文庫というところの作品は、私たちは今、ここにいらっしゃる方はみんな晴眼者の方というかしっかり目が見える方です、ね、多分。私たちはこうやって、ひとつひとつの作品をさっきのように、電子ファイルをこうやって開いていって、こうやって目で確認することが出来ます。ここで読むことができます。で、私たちも始めた当初はこういう形の利用しか全く想定していませんでした。

11:02
このサイトを始めた途端、ある視覚障害者のグループの方からご連絡を受けました。視覚障害者にとっては、インターネット、パソコンというのは非常に強力な情報ツールなんだと。例えば、全盲の方はこのHTML、だからホームページを作るためのファイルを、音声で読ませて聞いているんだと。その方々にとって、芥川龍之介の作品が全部ここにあるっていうことは、音声変換してそれを聞くことが出いるんだと。それ以来ですね、私はその話を聞いてしめしめと思ってですね、こういうお話をする場があると、青空文庫というのは晴眼者のためだけじゃないですよ、と。視覚障害者のためですよ、と、さも自分がわかってたように言うんですが、全く予想しなかったことが、始めてみるとといっぺんで教えられた。

11:52
視覚障害だけではありません。青空文庫の、我々はここのこういう形で利用できるのだけれども、このファイルを視覚障害者はさっき申し上げたように音声ファイルとして読む。それから、点字の基礎データとして利用する。それから、今、我々はパソコン、インターネットでやっていますが、これを携帯電話で読むようにするためにファイルを変換していらっしゃる方がいます。私は残念ながら携帯電話を持っていないので、あの、あまりしっかり楽しんだことはないのですが、さらにいわゆる電子手帳のような機械が今、たくさん出ています。あの、なんかいろいろ名前があるようです。そうしたものでファイルの変換をしてそして読むための、青空文庫を持っていって孫サイト、子サイトのようなものができている。そこでは、Palm OS用にクリエで読める、私はできればあそこに素晴らしい表示装置があるので、是非ソニーのリブリエという機械で青空文庫がファイルが読めるようになる日が来ることもう切望していますが、残念ながら今はできないようです。とても不思議で残念なことですが、是非そういう時期が来て欲しい。

13:09
だから、青空文庫はここにファイルを溜めて、自由に、最初はタダで読めると、皆さんすぐに思われる。タダで読めるっていうのは青空文庫の本当の特徴です。けれども、そのファイルはタダって言う概念は、そんなに狭い物じゃない。このファイルをどこかへ持っていって加工して、それから今持っている、私たちが今テキストとして読む形でなくてもいい、音声に変換してもいいんだ。さらに驚かされたことがあります。それは青空文庫のファイルが私たちの予想を超えた利用のされかたを始めた。えーと、税込みの表示価格になって100円ショップというのはいろいろ困って、100円に切り下げるんだどうだという話があるようですけど、100円ショップにダイソーという会社があるんだそうです。あの中国地方の広島がなんか拠点らしいんですが。その会社で、青空文庫のファイルを利用しているという話を聞きました。「えっ? どういう形で利用しているの?」って聞いたら、100円の文庫になっているっていうんですね。青空文庫のファイルを持っていってそれを加工すれば、これを普通本造りの最初のステップである、文字を1字、1字づつ入力していくステップを省くことができる。その上で後の編集の工程を重ねていけば、コストダウンに繋がる。100円ショップがこのファイルを100円文庫として展開している。それがなんか知らないんですが30冊くらいあってですね、30冊買っても300円かと(笑)。そういう形の利用も図られているようです。

14:52
青空文庫のファイルっていうのは当初、私たちは普通の人たちが読む、普通の人がこうやって読むための電子図書館のものとして作りましたが、それが枝葉を延ばしていろいろな形で利用されはじめている。そういう現象が起きています。えー、それでですね、但し、大本の私たちが最初に想定した、普通の晴眼者、目の見える方が(私もその一人ですが)、そういう人間がインターネットの上で容易くファイルを開けるようにしたい、すぐ読めるようにしたい。けれども、このファイルが読めますか?皆さん。確かにまあ、読めなくはないわけですが、読む気になりますか、ということですね。

15:45
私たちはすでに、「紙の本」という素晴らしい、文章を運んで人に伝えるためのツールを持っている。紙の本をあらためて開くと本当にハンディで、電源不要、解像度抜群、書き込みも出来て、しおりも挟めて、そういう素晴らしい装置を既に持っている。さらにその本で、次々に新しい内容、それに古典的な内容を本にして出してくれる出版社という大きなブロックを抱えている。さらにそれを販売してくれる書店というネットワークを持っている。図書館という、一歩前の人たちが公共図書館という仕組みを作ってくれていて、そこで本を借りることもできる。紙の本を使ってはそういう素晴らしい体系ができている。私たちも無料でここで公開していると言っていますが、無料公開っていうのはまあいいでしょう。24時間ファイルダウンロードできますから。それも結構でしょう。世界中のどっからでもアクセスできますから、それもまあまあいいでしょう。けれど、このファイルの状態で、本当に長い読書に耐えられるだろうかと。

17:03
例えば、青空文庫では今、中里介山の『大菩薩峠』が進行しています。およそ8割か9割方公開しました。『大菩薩峠』って文庫本で、えー30冊あります。これを、これで読むのかと。若い人だったら読めるかもしれない。あ、これがこれが賑やかなアドビの・・・(笑)私も集中してやりますので、是非皆さんもこの音響に負けないように聞いて下さい(笑)。
このファイルを、短い物だったらまだいいかも知れない。けど、これを本当に最後まで読み切ることができるだろうか。これが、ひとつの、ここ数年の青空文庫の悩みでした。
先ほど、今日はここで私が呼んでもらっている、呼んでもらっているのは、あの人に目論見があるからです。あの人はこのボイジャーという会社の社長さんですが、私たちはボイジャーの力を借りて青空文庫を快適に読めるような仕組みを何とか作りたい、ということで、azurっていうソフトウエアを作りました。

18:15
azurっていうのはフランス語で青とか青空、あの、早稲田大学の「紺碧の空」の紺碧ですね。あその、それを表すのがazurだそうです。このazurで、先ほどの青空文庫を開いてみました。もう一度やってみますよ。「あ」のところです。芥川龍之介を開きましょう。先ほど開いた『秋』という作品です。全く同じファイルを今ここでこうやって開きます。ちょっとこれは今表示装置の関係で下が切れていますけれども、先ほどと全く同じファイルが、こういう縦組みで見えています。それから、ルビはルビとして表示されています。これでも文字が・・・あ、それから、先ほどあのウエブブラウザというやつでズリズリズリとスクロールという奴で読みましたけれども、これの場合は、あ、まだ操作に慣れていませんね、新しいソフトの・・・

19:30
こうやって、ページをめくるように読んでいけます。文字サイズを大きくしたいんだったら、まあこれだったら老眼の進んでいる私だってへっちゃらです。ひょっとしたら、ひょっとしたら、画面で、かなり眼はやっぱりこれでも痛くなるかもしれないけれど、中里介山の『大菩薩峠』を今度は画面の上で読んでやろうと言うような気になるかもしれない。そういうソフトウエアです。これを、横組みに、まあ、物好きな人で、このソフトを作った人はなぜか縦組みのソフトウエアを作っているんですが横組みが大好きで、横組みを使用しているようですが、そういう人もいるかもしれない。その場合は横組みでも読めます。縦組みに一瞬に変更もできます。小さくしたいんだったらこういう形で小さくしていくこともできる。こういうソフトウエアを作りました。

20:28
これは、単独のソフトウエアとして使えます。起動すると、青空文庫が栞に入っていますから、それを選ぶ。プログラムを起動し、栞を選ぶという二つのステップで、青空文庫のトップページが開けます。あとはさっきのようにボタンを押して作家を選び、作品を選ぶ。さんざん中里介山の話をしましたから、中里介山を見てみましょう。こうやってみると『大菩薩峠』が01、08、20巻から今どこまで行っているんですか・・・32巻までいっている。これを開くと大変大きいので時間が掛かるかな・・・あ、これは早いな、これは。早いインターネットというものですね。

21:25
この、長大な中里介山の『大菩薩峠』がこうやって開きます。これだったら読んでいけるかもしれない。こういう仕組みがなければ、私たちはみんなの力を集めて、えー、視覚障害者にも、いろんなソフトウエアに流れていく。ダイソーの100円文庫の元にもなるようなファイルを作った。けれど、それを、たくさんいらっしゃるやっぱり晴眼者の方はたくさんいる。その人たちのために、本当に快適に読んでもらう仕組みが出来ているだろうかということを反省したときに、そういう形ではちょっとできていないんじゃないだろうか。そこから生まれたのがこのazurというソフトウエアです。

22:10
これの謳い文句は「空を仰ぐように簡単に」えー青空文庫という名前はこういうイメージから名付けました。青空を仰ぐことは資格を問われずに、お金を持っているかもっていないか、学歴を問われずに、国籍を問われずに、その人の身分や職業や支持政党やですね、何も問われることなく、空を仰げば青空の恵みは誰だって晴れている日には恩恵に浴することができる。そのように、空を仰げばそこに、私たちの貴重な共通財産である、大事な作品、芥川の作品、夏目の作品が開かれるような環境を是非用意したいと願った。そういう形でここまでファイルを作り溜めてきた。けれど、それが本当に、この青空のように美しく享受できているかというとこれでは少し足りないところがあった。では、そういうものを作ろうと思って作ったのがこのazurです。えーーと、これは、裏側に回るとあ、ここでは売ってないんだ。ネットワークの上でazurというものを検索してもらえば、きっとボイジャーという会社のページに辿り着きます。そこで、税込み2100円かな? で、オンライン販売しています。

23:31
けれども、ボイジャーも決して油断はできない。
世の中には沢山のタダのソフトウエアを書く人たちがいる。私たちはタダでファイルを書くが、タダでソフトウエアを作っている人たちもいます。この後3年後、5年後にはきとこのazurっていうのはみんなが目標にするソフトになります。だからこれを全部絶対タダで書いてやろうと。そのために公開しようとする人たちが出てくる。だからボイジャーはもっと先に行かないと・・・あ、さすがに抜け目がない。こういうサイトでボイジャーの宣伝が出ましたが・・・次のステップでは、青空文庫を快適に読むためのソフトウエアもまた、5年後にはタダのものが出てくるでしょう。
ただ、ボイジャーはきっとさらにその先を行くようにもっと素晴らしいソフトウエアを開発する。そういう形で進んでいくんではないかと思います。
そういうソフトウエアが実現できた、それが皆さんにまずご紹介したいことの第一点です。

24:35
けれど、ここは青空文庫の仲間も今日たくさん来ているので、私が今日しゃべっていることには半分大きな嘘が入っていると言うことに気付くと思います。
それは何か。その嘘の中味をご紹介するのが第2ステップにしましょう。

25:00
これがいつも皆さんがご覧になる青空文庫の形です。さきほどこうやって「あ」から芥川龍之介というページを開いていって、「秋」というページを開いていって、このファイルが読みにくいと言うことを喧伝しました。けど、それは半分本当で半分うそっぱちです。というのは、ここにエキスパンドブックファイルというものがある。これは一体どんなものかご紹介しましょう。

25:45
これがエキスパンドブックファイルです。これは、どんな形で読めるか。
先ほどのアジュールと違いますか? ほとんど違わない。ボイジャーという会社が1995年頃に作ったソフトウエアです。ですからおよそ10年前の枠組みです。縦組みで、ページをめくるように表示できている。そういうツールはすでに10年前にありました。
本当のことを言えば青空文庫を始めて、始められるタイミングだと。1997年に始めましたが、始められるタイミングだと確信したのは、このエキスパンドブックがあったからなんです。このエキスパンドブックを、青空文庫では実は引き落とすことができるんです。こうやって、「秋」の下の方にはエキスパンドブックファイルというモノが用意されてます。このファイルを読むのだったら、皆さんは先ほど紹介したazurを買う必要はない。これを満喫して充分、これはただで引き落とせるファイルだし、これを開くためのソフトウエアもタダで公開されている。これを使えば、azurなんてものは全く必要なくて、こういう形で読んでいけるんです。

27:27
けれど、それでも、私は今日ここにazurの話をしに来たいと思いました。実は、1997年に始めるときはこのエキスパンドブックがあればこそ、こういう電子図書館を今作って、みんなに読んでもらえるモノが作れると思った。それで始めた。けれど私たちは、エキスパンドブックというのを作ることをおよそ3年前だか4年前だかにやめてしまったんです。あそこにいるボイジャーの萩野さんとは私は古い友人ですが、一旦その時は別れてしまいました。まあ、別れても好きな人だったんですが(笑)、はっきりとボイジャーとは一旦手を切りました。切った縁をもう一度復活しようとしている。なぜ縁を切らなければならなかったか。その話を後段でしたいと思います。

29:19
えーと・・・・このエキスパンドブックというのは今から見ても良くできているところがあって・・・よいしょ・・・えーとここを見てください。「ショクはメイケイにシタガイ、ソをクダリ、ユイてクウリンをフめばラクヨウコエあり」なんて、漢文に返り点が打ってあってそこにルビが振ってある。これはだから普通の文章を表示するだけではなくて、漢文返り点を左側に小さく組んである。ルビも振ることができてる。私たちがazurで達成しようとしたことはみんなここにできているんです。そしてさらに、ショックなことはと言うか嫌なことはですね、というか、ここはですね、『戯作三昧』という滝沢馬琴のことを描いた、物を書く人間の恍惚と不安を描いた作品とでもいうんでしょうか。これはまあ、大変な名作だと思いますが。そこには、皆さんが普通パソコンで使える漢字では表示できない文字が使われていました。芥川はこんな字を使っているんですね。で、この字を1995年には彼らが、ボイジャーが作った技術の枠組みでは外字画像にしてきっちり埋め込んでおくことが出来たんです、すでに。

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注)食随二鳴磬一巣烏下(しよくはめいけいにしたがひさううくだり)、行踏二空林一落葉声(ゆいてくうりんをふめばらくえふこゑあり)
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30:08
そうするとここに、全然・・「ボウハク」の「ハク」という字が・・・これです。この字です。さっぱり見分けがつかない形で、コンピュータで使用出来ない字は外字画像、画像にして本文中に埋め込むような枠組みを作っていた。だから漢文返り点も処理できる、ルビも処理できる、縦組みも処理できる、外字画像も表示できる、それだけのものを95年には用意した。だから、青空文庫を始める、みんなが実際に読めるものができると思って、始めた。

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注)しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作(げさく)の価値を否定して「勧懲(くわんちよう)の具」と称しながら、常に彼の中に磅■(ばうはく)する芸術的感興に遭遇すると、忽ち不安を感じ出した。——水滸伝の一節が、偶(たまたま)彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があつたのである。
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30:46
けれど、2000年に彼らとは縁を切りました。それはなぜか。それは、青空文庫を始めてみて、しばらく運用してみると、本当にこれがみんなのものとして使われる局面が見えてきた。視覚障害者はそうやって読んで使うんだ、いろんな人たちが、ファイルを、さまざまな分野に持っていって利用するんだ、その姿が見えてきた時に、私たちはほんの気まぐれで、と言うかこういうことができると面白いんじゃないかということではじめたけれど、このテキストは現実に多様に使われはじめた。

31:22
さらにひょっとすると(当初は思ってもみなかったけれど)、このファイルは10年か20年か、ひょっとすると30年40年残ってしまうものなのかもしれない。そうすると、私たちは自分たちの知恵の範囲だけで・・ボイジャーのこういうツールがあるとこんなにきれいにできるからやっちゃおうっていうことで始めた。けれどもそのファイルが50年、ひょっとしてもって社会の様々な局面で使われるとするならば、そう無責任なことは言っていられない。本当にみんなで共有できるファイルの形式として、その形で、だから公共の公の約束事として決まっている物事を使って、自分たちの持っているファイルを整理し直さ直さなくちゃいけないんっじゃないかと考え始めました。その時に別れが始まったんです。ボイジャーとの。

32:18
これは、ボイジャーの技術の体系を使っています。だからボイジャーのルールで従って全てを書いている。ボイジャーが、例えばあそこにあるアドビのように強力なソフトウエア会社になって世界中を制覇してくれればそれはこれでやり続けてもいいのかもしれない。アドビはアドビの個別のルールで
やるけれども、アドビは世界企業だからそれで構わない。けれどもボイジャーのルールにしたがってやると、ボイジャーが弱小企業であるということに私たちは常に向き合わざるを得ない。
けれども、マイクロソフトだってアップルだってみんなそうですよ。固有の企業のルールだけに縛られていれば、メーカーの方針変換、メーカーの消長、かつては世界を制覇した企業がダウンしてしまうかも知れない。そういう形でファイルを持っていることは決して賢明ではないと考え直しました。そこで、青空文庫はそのボイジャーの形式でファイルを作ることを止めました。
止めた結果、どうしたかというと、先ほどのエキスパンドブックでのファイル提供は止めてしまい、今、最新の状況ではどうなっているかというと、よいしょ、よいしょ、え〜 本日公開されているのは中島敦の『カメレオン日記』という作品です。これを開いてみて、最後ファイルのダウンロードのコーナーへ行くと、ここに残念ながらエキスパンドブックファイルというものはない、エキスパンドブックと縁を切った段階で、萩野さんはきっと私たちのことを怒ったかも知れませんが、エキスパンドブックを止めちゃったんで。このごく一般的なテキストファイル、皆さんがエディターやワープロで作るときにすごーくなじみのある、何の飾りもない基本的なファイルです。これは決して滅びないでしょう。コンピュータのある限り。それからXHTMLファイルと書いてありますが、html、この要するにウェッブを書くときの標準技術として、世界中でこれを受け入れることに、公的な独立な機関が約束事を決めていて、すべての人たちがそれに従って書こうとしている。その2種類のファイルだけにしました。その結果、私たちが引き受けざるを得なかったのが、最初に皆さんにお伝えした、これを読む気になりますか、という問題です。

35:03
この、共通の世界の基本ルールでやった。それに変更をしてしまったがために、日本の組版の特殊性である縦組みに表示する技術の枠組みがありません。幸いにもマイクロソフトの一部の人が頑張ってくれて、ルビという枠組みはここの中に入っているので、ルビに関しては・・・あ、これはアップルの表示ソフトなのでルビに対応してくれていませんが、マイクロソフトのインターネットエクスプローラーはルビで表示してくれますが、これはアップルですからソッポ向いてますね。で、だから縦組みの表示だとか、ましてや漢文返り点だとか、そういったものは一切ケアしてない。
それを、公共の、世界の約束事に沿うと言うことで、私たちはそのディスアドバンテージというかマイナス面を引き受けざるを得なかった。

35:50
けれども、それにしたって、この日本の印刷文化の中で、それから出版社、作家、印刷所、それがはぐくんできた印刷の組版の技術は沢山の蓄積がある。それを書き残しておこうということで、えー、実はその、ファイルの中にですね・・・こうやっていくと、結構いろいろ細かな情報が書かれていて、これは新しく規格化された第4水準の漢字だとか、なんか表面上にはでてこない細かな情報がいっぱい書き込まれています。これは、書き込んだ当時はある私たちの未練でした。えー、標準の技術によるんだけれど、そこに依っては盛り込めない情報があるんだけれど、その情報を捨ててしまうのかどうかというときに、コメント欄に書き込んでおこうというような活動を考えた。
だから、すぐには生かせないんだけれども、それを書き込んでおこうということを考えました。それを・・ちょっと理屈が勝ちましたが、それを生かしたのが先ほどのazurというソフトウエアです。

37:21
例えば、芥川龍之介の先ほどの『戯作三昧』、先ほどエキスパンドブックでお見せしたものです。これを、先ほどのおんなじ一節ですね。「食は鳴磬にしたがい・・漢文返り点が、左側に表示されていて、ルビがついていると。これをすでに私たちは1995年んの段階でやれたんですが、それをボイジャーの
技術は一旦捨ててしまって標準技術に立ち戻ったと。しかしその標準技術の上でこういう日本語組版の枠組みを再現しようと。そのために、私たちは一旦別れてしまったボイジャーという昔の恋人に何とかよりを戻そうと声をかけました。青空文庫ではこういう形でファイルを変更して、一旦あなたを捨ててしまったのは悪かったと。しかしもう一度、このファイルを、世界標準に沿った青空文庫のファイルを、ボイジャーの持っている表示の技術の美しさを、ボイジャーの固有のメーカー独自の技術体系ではなくて、世界標準の技術の枠組みにそって、そこでボイジャーの技術を発揮できるように変更してくれないかという形でお願いいたしました。そうやって誕生したのがazurというこのソフトウエアです。

39:00
だから、今後ボイジャーは2つの大きな柱を持ってやっていくんだ思います。やっぱり、ね、自分たちの企業を強く守って、それからいろいろな権利を保護してやっていくには、自分の固有のルールでやっていく、自分の独自の技術でやっていく。しかしボイジャーが獲得した「日本語を美しく表示する」というこの技術を、固有のケチくさい、ケチくさくはないか・・・まあ大事でしょう、自分の技術も大事でしょう。自分の著作権も大事でしょう。工業所有権も大事でしょう。自分の特許権も大事でしょう。そこでもどうぞ伸ばして下さい。それから、権利を守ることが重要な出版社の印刷物を作る時には、是非その技術を、固有の保護された技術としてやっていって欲しい。しかしボイジャーの持っている技術をそこにしか生かさないのは、あまりにも宝の持ち腐れ。日本の民衆にとっての不幸じゃないかと。

40:00
ならば、その技術を是非、世界の共通技術の枠組みに沿っても生かして欲しい。そうやって生まれたのがazurです。これは今日は青空文庫のファイルを快適に読むということでお話ししました。先ほど見たように、青空文庫の全体を、ボイジャーがこのイベントに向けてCD-ROMにしてくれました。ここに、500円で青空文庫のファイルが、3500くらいのファイルが全部入っています。それが、なんか500円で売っているそうです。買ってくれると萩野さんは喜ぶでしょう。私も作ればきっと売れるから作ってくれと言った手前もあって嬉しいです。そういうものとして、青空文庫を読むためのものとしてご紹介しましたけれど、もうひとつ最後に、あ、これが青空文庫のCD-ROMです。この中に青空文庫が入っていて、azurのお試し版というのが入っています。おためし版というのは30日間無料で使えるバージョンです。但し、ひとつ申し訳ないのだけれど、azurのお試し版はボイジャーという会社の、この500円を買うとですね、そんなことは買わなくてもわかるんですが、ボイジャーのホームページにタダでダウンロードできるようになっていますから、そっちの方がソフトウエアの問題をあらかた片づけた、きれいに、より整った形になっていますので、それを使って欲しいんですが(笑)。まあいろいろ言いましたが、それで是非30日間試してください。そいうものとしてやってきました。これを買ってもらえるとありがたい、ということですが、

41:43
ここで実現できたものは、青空文庫が快適に読める、ボイジャーのものを買ってくれるとちょっとボイジャーが儲かる、それだけのことではない。青空文庫のファイルを作るための、青空文庫の入力、600名の方が協力していると言いましたが、その人たちに協力するために、例えばルビはどういう形で入力しよう、というルールを決めています。そのルールは青空文庫マニュアルというものがあって、そこに従ってやっていけば、青空文庫のファイルが出来る。それを、先ほど紹介したXHTMLという形式のファイルにプログラムが自動変換します。そのプログラムを書いた人も今日そのへんに来ていらっしゃる、大野さんという方が書いてくれました。そのプログラムも公開されています。だから、青空文庫のマニュアルに従って、あなたが、自分の作品を、ファイルにすると。これを、公開されているプログラムを掛けてXHTMLという世界標準の規格に沿ったファイルに出来る。それをazurを使って読めば、縦組み、こういう表示で、ルビもついて、もしあなたが漢文に素養があって返り点も打っているんだったら、そういう形も表示できて、そういう公開ベースの電子出版体系として、ひとつの大きな枠組みが完結した、ということだと思います。

43:14
それもこれも青空文庫を始めてみて、自分たちのこの試みが予想を超えてみんなの宝のようなもの、みんなの宝をインターネットの上に残す、というような試みになっている。その宝は5年10年50年使うかもしれない。だからこそ、途中、残念な思いや別れのようなこともあったけれども、一旦ボイジャーとの縁を切って、それから私たちが蓄積すべきモノを溜め、ボイジャーの技術をもういっぺんこの公共の場でいかしてくれないかということをお願いしてやってみた。それが青空文庫とazurのここまでの物語です。

43:55
きっと私は時間をよく見ていないので、また、長く話しすぎているのかもしれませんが、ここら辺を最後にしようと思いますが、(切れているから・・・・さすがボイジャーの人は私よりもよく知っている・・)えー、そういう私たちの活動は一体何をやっているのか、じゃあ、私たちは本当にインターネットの上に新しい可能性を見つけて、そこを頑張って攻めている進取の気に富んだ、なかなか賢い連中なのかというと、そういうことでは決していない。私たちが今やっていることは、この本の世界でも、本の世界を超えて、人の世の中で繰り返し表現されてきた気持だと思います。

45:00
これは、「読書子に寄す」という、岩波文庫の最後のページに載っています。岩波茂雄名で出ていますが、冒頭部分は哲学者の三木清が書いたんだそうです。まあ、ものの本にそう書いてあるので本当かどうかは知りませんが、そういうことのようです。この文句を読んでみる。これは岩波文庫創刊の辞です。岩波文庫というものが始まるときの精神を語っている。

45:10
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう・・・」

これは、青空文庫を始めた、そして今関わっている人たちの気持ちを本当によく表している。もし岩波茂雄が商売のうたい文句としてではなしに、こういうことを本当に望んで、1995年のインターネットが普及した環境にいたならば、彼は岩波文庫を始めてはいなかったろうと思う。青空文庫を始めていた、名前はきっと違っていると思いますが、そういういうものを始めていたんじゃないかと思います。

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2004年05月09日

 五月の闇夜

今日は母の日。ということで、母に纏わる思い出を書いてみる。家の風呂よりもたまには銭湯へと、その帰り道に立ち止まった風景から思い出した母との思い出である。

 昼間、青い空に流れる雲を映していた田の水は、夜には、赤銅色の満月を映す。その満月の傍で、虫たちが息を潜めて蛙が鳴くのを聞いている。蛙たちに答えるように、久しぶりに銭湯へ行った帰りの私は洗面器の中で石鹸箱をカタカタと鳴らした。石鹸箱の音は、私を小学4年生に引き戻す。

 母と手を繋いで、小学校4年生の私は、赤い満月が田の中で揺れるのを見ていた。銭湯帰りの母は洗面器を入れた風呂敷包みを抱えて、蛙の単調な鳴き声の中でぽつんと言った。
「来月引越しするよ」
 私は母を見上げた。鬼のように釣りあがった目、口元に力をいれた母の顔は恐ろしかった。目を背けたいのだが、じっと私は母を見詰めた。母は風呂敷包みを持ち替えた、石鹸箱がカタカタといった。母と私との間にあった緊張を僅かに緩ませる音だった。
「どうして」と私は呟いた。頭の中では、父が家に帰ってこなくなったことだと解っていた。
「どうしてでもだよ。またかあさんと二人の生活になるよ」とだけ母は言った。
 私の生まれたときからいつ離婚届を出しても全く変ではないのに戸籍上の夫婦を父母は続けていた。それがどんな話し合いになったのか、小学校の3年生のとき、別居が同居になり、私に「父」なる人が近寄ってきた。初めてみた父親に、私は無関心だった。父の方もどう扱ってよいのかわからないようだった。父と話をした憶えは全く無い。ただ三人でいると居心地が悪かった。母の顔色ばかりみていた。母が楽しそうだったら、私はそれでよかったという顔をしていた。その母の楽しそうな顔は、それまで私がみたこともないような顔だったので気に食わなかった。しかし父母の同居は続かなかったのだ。結局またもとの状態に戻る事になった。母と二人の生活になると知って私は安心した。父と別れることができると知って、私は心から嬉しかった。親子三人でいる窮屈さから解放されるのだ。また母が仕事に行き、私が、家で一人で母を待つという生活が始まるのだ。
「おとうさん、いらないね?」と母は赤い月から目を放して言った。私は何も答えなかった。
「いらないよね」と母は念を押した。しかし私はまたもや何も答えなかった。答えない自分が罪深い人間のような気がした。その罪は二度目だった。
 一度目は、その一ヶ月前、母は私を連れてバスに乗って一軒の家へ行った。その町内は春祭りだった。祭りの提灯をかざったその家の玄關を躊躇った母は開けた。最初母より若い女の人がでてきて、母をみて狼狽し、次に私を穴のあくほど見つめた。父と私は顔が似ていたのである。そのあとから父は面倒くささそうに出て来た。母は、父に「うちに帰ろう」と言ったが、父は「帰らない」と答えた。その問答を何度か繰り返したのち、母は諦めた。帰り道母は、私の頭を小突いた。私はよろめいた。よろめいた私に母は、言葉を吐き棄てた「お前が、『父さん一緒に帰って』と言えば、それさえ言えばよかったんだよ」吐き棄てた母は、人にぶつかりながら自分だけさっさと先に行き、後ろから「おかあさん」と言っても口をきいてくれなかった。母の後姿は固かった。母を追うことを止めた私は金魚売の前で立ち止まった。無数の金魚が泳ぐ水槽に裸電球が映っていた。その裸電球の中を泳ぐ金魚を掬おうとする家族連れの後ろで私は立っていた。涙が出た。私は奧歯を食いしばった。嗚咽がもれないように歯を食いしばった。
赤い月が揺れるのをみて、その水槽の電球を思い出した私は、こんどこそ母を救わねばならないのだろうか。父が必要だと私が言うべきなのだろうか。嘘をつくべきなのだろうか、いやつかなくてはならないのだろうか、つかなくては母が不幸になるのだろうか、私は言いたくなかった。言いたくない自分を私は守ることにした。私が何も言わないことを母は責めなかった。
「さて、帰ろうかね。田に水が入る頃になると寒い日があるから、風呂帰りだから風邪を引いたら大変だ。それにしても大きなお月さんだね、お月さん、どっしりしたものだね動かないねえ、」と風呂敷の中で石鹸箱の音をさせて歩き出した。
 私は、母の後ろを歩いた。何か忘れ物をしてきたような気がして、振り返った私は、赤い月の光が当っていた苗の列がずれている事に気付いた。
「お母さん、月は動いているよ」と言ったが、母は何も答えず歩を早めた。
月の光の届かない部分は深い闇だった。そのとき小学4年生の私は。直感したのだ。自分の意思とは無関係に、自分はあの深い闇の中を覗いてしまったのだと。

 それからというもの、母は、あのときのように私を小突く事も、恐ろしい顔で一点を見詰めることもなかった。その変わり、私は、父と会うこともなかった。十数年後父は病に倒れ、この世を去った。母だけが悲しんでいた。私はちっとも悲しくなかった。それが私は悲しかった。思い出した悲しみほどつまらない物はない。思い出した悲しみなど吹っ切るように洗面器を振った。五月の闇の中、石鹸箱の音がした。

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 電子書籍

富田 もし世に言われている電子書籍、あのボイジャーが推進しているようなものがですね、たかだか紙の本が電子ファイルになって、スクリーンで読めるだとか、1冊のこういうのに10冊入るだとか100冊入るだとか、それだけのことだったら、電子出版なんてものに何の意味がある? ありますか? こんなわざわざ高い機械をつかってパソコン使わないと読めない、さらに、すばらしい解像度かもしれないけど追加の5万円ぐらいする機器を買ったり、そんなものを買ってやるよりも紙の本で十分のような気がします。

富田 けれど、紙の本をささえる出版社、書き手がいて出版者がいて、印刷所がいて書販があって図書館があって、そういう枠組みではささえられない、ほんとにタダで公開できる、さまざまにファイルを利用できる、そういう枠組みをつくる、その突破口が電子書籍・電子出版によってひらけるのだったら、はじめて電子書籍にはわずかな存在理由がある。そういうものがやれるのであれば、紙の本でできなかったこういうことが手がかりをあたえてくれるのであれば、それだったら、電子書籍というものにはひょっとしたら可能性があるかもしれない。そう思います。



以上は、ブックフェアの富田さんの講演からの一部引用です。講演のいちばんおしまいの部分です。たももさんの公開録音を打ち起こしました。

・メジャー/マイナーをこえること
・既存の流通形態をこえられること
・無償公開
・再利用・再生産

電子書籍からちょっとはなれます。
デジカメはいまやまったくあたりまえのものになりましたが、その特徴の一つが、失敗をおそれずに何枚でも撮影ができること。気に入らなければモニタで確認して撮りなおせる。そうやって撮影してたまったデータは、CDへ焼き込むなり、好きなものだけを選んでプリントすることができます。

その結果、ぼくのばあいどういうようなことがおこったかというと、いますぐプリントするまでもない写真データがたまりにたまった。捨てるにはもったいない。けれどもわざわざプリントするのはめんどい。ウェブや電子本に加工するのもちょっと手間。必要ならば画像のカタログソフトで確認できるのだから。ノートパソコンなら茶の間にでも友達の家にでも持っていって見せられる。だからプリントするのは、せいぜいひとにプレゼントするものくらいでかまわない。そのほうがプリントのコストや手間もかからない。

そうはいっても不満が残った。パソコンのモニタはけして小さくはないのだけれど、大勢で見るには不服だからです。正面で操作しなければならないし、裏からは見れない。そこで、ちょっと試してみて予想以上にうまくいったのがテレビへの画像出力です。2000年前後から発売されたノートPCには、プレゼンなどのためにSビデオ出力端子があります。それを家庭用テレビへつなぐ。そして、写真のスライドショーをスタートさせた、というわけです。

パソコンのモニタにくらべたらさすがテレビ。数メートルはなれたところから見るくらいでちょうどいい。しかも、みんな席を移動することもない。けれどすぐに気がつくのが、音声がなくてさびしいということ。4才の甥っ子は「どうしてテレビから声が出ないの?」とたいへん不思議がります。写真のスライドなのだから無音なのはいうまでもなくあたりまえのことなのですが、この「どうして?」という問いかけは大きな意味のある問いかけです。

ここで、2つのことをさらに試してみました。パソコンの音声出力端子からテレビの音声入力端子へラインをつないで、スライドと同時に好きな音楽CDを再生させること。そしてもうひとつが、スライド画像と音声をテレビのほうでビデオ録画することです。

どうして長々とこんなことを説明したのかというと、このスライドビデオ作成の一件と、富田さんの電子書籍に関するメッセージ、まったくの直感なのですが期せずして共通するところがある、と思えたからです。本格的な動画の取り込みや編集はとうてい不可能なパソコンでも、ひょうたんから駒で、デジカメのスライドビデオをつくることができました。電子書籍とデジカメのスライドビデオ……。

青空文庫のみなさん、ほんとうに「本が好き」なだけなのでしょうか?(^^) 富田さんもたしか、ギターやってらしたそうですよね? たしか『パソコン創世記』では自分でビデオ撮影もなさったとか?



2004.5.9
しだ/PoorBook G3'99
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2004年05月06日

 ヒラ工作員の日常〜入力編〜

 青空文庫の工作員を始めて3年が過ぎようとしている。入力にも校正にも、少しだけど関わってきた。最近では、公開前のファイルの点検をすることもある。現在もド素人のようなものだが、始めた頃に比べれば、作業のスタイルが変わってきている。3年前からの作業スタイルの変化を記すことで、青空文庫のために開発された便利なツールの使い方、そして工作員のみなさんの作業のヒントになるかもしれないと思い、少し過去を振り返ってみた。
 「青空文庫のマニュアルが精密である」といった意見がよく聞かれる。始めた頃は確かに現在のような精密さは要求されていなかった。その頃から、一応現在の標準スタイルでのファイルの点検が出来るレベルまでは成長(?)した過程であるかもしれない。

 さて、始めよう。まず、私のコンピューターはマッキントシュである。ここでかなりの数の方が関係なくなってしまったかもしれない。私が手掛けた青空文庫入力の最初の作品は泉鏡花「夜叉ヶ池」であった。底本はちくま文庫の「泉鏡花集成7」。マニュアルは一通り目を通し、傍らにはおススメの『新版漢語林』(大修館書店)を置き、PowerBook G3でMicrosoft Word 2000を使い、ことえりという日本語入力システムを使って入力を開始した。もちろん、手入力である。1か月くらいかかったと思ったが、記録を調べてみると2週間だった(2001年6月5日に工作員申請、6月23日には入力ファイルを送っている)。実際の作業は、以下のようにすすめた。鏡花の作品は、新字新仮名であってもかなりルビが多い。だから、まず見開き2ページを手入力し、ルビがある所には《》を入れておき、見開きの入力が終わったらもう一度最初にもどってルビだけを入力していった。最後までたどり着いたら、プリンターで印刷し、底本とつきあわせて読む入力者校正を行った(入力の時に2〜3行を飛ばしてしまうことが多かった)。最後に素読みをして、StuffItを使ってsit形式で圧縮し、青空文庫宛にメールで送った。最初に送ったファイルに対して、LUNA CATさんから返事が返ってきた時の感動は今でも忘れられない。

 これからしばらくは、このスタイルで作業を進めた。※[#「※」は「のぎへん+尚」、第3水準1-84-33、145-1]などという外字は、新版漢語林を調べて面区点番号を調べていた。泉鏡花「七宝の柱」に出てくる「※[#「瑤のつくり+系」、第3水準1-90-20]糸《ゆるぎいと》」などは、調べてもわからずに、※[#「※」は「瑤のつくり+系」、読み方、「よう」(漢語林、870ページ)、145-7]などとしていた。鏡花の作品をしばらく入力していたが、ワープロでは出て来ない外字が多く新版漢語林を調べていてもわからないことが多かった。そこで、2001年5月9日に公開になっている「新JIS漢字総合索引」(面区点番号付き)を導入した。これでかなり楽になった。現在では、マッキントシュのOSXはUnicode対応なので、第3、第4水準の漢字であるかどうかまで文字パレットでわかるが、当時はそんな文字は出て来なかった。そして、「新JIS漢字総合索引」が便利な点として、正確な部首でない場合にも文字を示してくれることだった。例えば、「鴪」という文字は、正確には鳥の5画に分類されるので、文字パレットや漢字字典では鳥のところにしかない。しかし、「新JIS漢字総合索引」では、穴の11画にグレーでも示してくれている。正確な部首を見つけられず、外字としてしまう可能性が減り、使い勝手もよかった。「新JIS漢字総合索引」を使いはじめた頃から、外字は、「※[#「」、]」を「がいじ」で登録しておき、面区点番号と説明を入力していった。

 横道にそれるが、日本語入力システムにいろいろと登録する便利ではあるのだけれど、どんな読みで入れたか忘れてしまう人なので、実はあまり登録していない。るび=《》、ぼうてん=[#「」に傍点]、ぼうせん=[#「」に傍線]、いちじ=[#ここから1字下げ]、にじ=[#ここから2字下げ]、おわり=[#ここで字下げ終わり]、がいじ=※[#「」、]、くらいである。よく出てくる外字は、よみとともに登録しておけばいいのだろうけど、今でも、よく使う外字だけを集めたテキストファイルを作っておいて、そこからコピー&ペーストで入力している。主に鏡花、旧字作品によく出てくる外字である。(以下、参照)
 ※[#二の字点、1-2-22]
 ※[#「さんずい+散」、]
 ※[#いおり(庵)点、1-3-28]
 ※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]
 ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
 ※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
 ※[#「目+句」、第4水準2-81-9]
 ※[#「彳+尚」、第3水準1-84-33]※[#「彳+羊」、第3水準1-84-32]
 ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
 包摂に関しては校正編で記すつもりであるが、この「新JIS漢字総合索引」には現在では包摂基準についての記載もあるので、この点からも便利である。

 2001年の10月の終わりまでは、新字の作品の入力ばかりであった。それでも漢字探しに苦労はしていたのだけれど、それも「新JIS漢字総合索引」の威力によってかなり楽になっていた。10月の終わり頃から、旧字の作品の入力を始めた。いつも通りに、手入力をし、漢字を「新JIS漢字総合索引」で探し、入力者校正を終えて、ファイルを送った。実は、校閲くんという旧字の中から新字を見つけるツールがあることに気が付いていた。そして、私は自分を過信していたが為に校閲くんにかけることなく、ファイルを送ってしまった。その後で、校閲くんで調べてみると、短い作品にも関わらず、旧字がある新字が出てくる事、出てくる事、正直、驚いた。ひとつひとつ、新字を検索で見つけては、校閲くんが示してくれた旧字に置き換えていった。ワープロソフトの不便な点の一つとして、一括検索の結果を表示してくれない(MS-Wordだけかもしれないが)点がある。現在では、テキストエディタを使っているので、一括検索、一括変換で処理してしまっている(ワープロで一括変換が出来ない訳ではないが、一覧表示で確認しないと変換するのが恐いのである)。ともかく、旧字作品を扱う際には(入力でも、校正でも、点検でも)、一度は校閲くんにかけるようにしている。校閲くんの示す旧字をかならず使っている訳ではないので、底本をきちんとチェックすることも大事である。そして、校閲くんには引っかからないけれど、旧字の作品にはよく出てくる文字が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]である。

 さて、2002年の2月になると青空文庫では、むしとりあみという誤植訂正掲示板を始めた。その「むしとりあみ」に対する質問を世話役の方に送ったことをきっかけに青空文庫のメーリングリストに加わることにした。半年以上は、メーリングリストも見ないで、コツコツと作業をしていたのである。このメーリングリストに加わった事によって、むしとりあみの行司を引き受けたり、後に点検部屋と呼ばれる点検のための作業グループに加わることになった。
 点検部屋に加わることによって、二つの大きな変化が訪れた。一つは、ファイル形式の整備について、そしてもう一つは、ファイルの改行コード、圧縮形式の変化に対応するためのソフトウェア面の変化である。

 他人のふり見て我がふり直せ、ではないが、校正前のファイルを点検作業を始めて、ファイル形式の整備の重要性がわかった。もちろん、マニュアルには書いてあるのだけれど見事に見落としていた。具体的には、ファイル冒頭の【テキスト中に現れる記号について】、そしてファイル末尾の形式をきちんと書き込んでいなかったのだ。校正をした時には、これらの形式はきちんとしていたので、「誰かが直すだろう」と甘えていたのであった。マニュアルに従えば、このあたりもきちんと入力しないといけないのである。ということで、現在では、青空文庫マニュアルにあるテキスト中に現れる記号記載事項のテンプレートを使い、入力終了後に、「《」「|」「#」「/」で検索し、必要な例のみをコピー&ペーストして【テキスト中に現れる記号について】に貼付けている。私が使用しているテンプレートを最後に貼付けておく。余談ながら、【テキスト中に現れる記号について】の前後にある破線の数も正確でないとxhtmlへの自動生成が出来ないので、ここも注意している。ちなみに、点検部屋に加わったのが、2002年5月なので、約一年間、かなりいい加減なファイルを入力ファイルとして送っていたことになる。

 もう一つは、マック使い故の問題なのであるが、テキストファイルの改行コードをPC用の「CR+LF」に変えないといけなかった。またマッキントッシュのファイルには、Mac Binaryとして余計な情報が盛込まれているため、これを外す必要もあった。さらに、点検部屋の連絡に使っている場所が、sit形式の圧縮ファイルを認識しないため、圧縮形式も変える必要があった。以上の要求を満たすために、入力に用いるソフトをテキストエディタであるJedit4(シェアウェア2500円)に変えた。圧縮ソフトは、MacLHA 2.24(フリーウェア)にした。このあたりまでは、マッキントシュのOS 9.01を使っていたので、このような選択となった。この後、OSをOS X (10.2.7)まで上げることになるが、入力は変わらずにJedit4を用いている。このエディタは、実に使いやすいのだ。入力、校正だけではなく、点検をする際にも役立っているので、その特徴をざっと記しておく。1)全体の行数が表示され、現在どのあたりかがわかること、2)検索の結果、一括検索の場合には、該当箇所の少し後までを一括で表示してくれること、3)正規表現が使えること、などである。2)について、もう少し記しておくと、例えば、「#」で検索すると、「#」を含む箇所がMark Listとして別ウィンドウに表示される。ここを調べれば、テキスト中の入力者注がざっと調べられるのである。OCRで間違えやすい、「ヘ」と「へ」も、片仮名「ヘ」を一括検索し、平仮名であるべきところだけを直していけば、楽である。この一覧表示があれば、一括変換で一気に直してよいかどうかが、わかるというメリットもある。Jedit4の場合には、複数ファイルの一括検索も可能なので、点検の際にはかなり楽をさせてもらっている。Jedit4は、OSXにも対応してくれたが、MacLHAは対応してくれなかったので、現在では、DropZIPというソフトウェアで、zip形式に圧縮することにしている。

 こういった細かい事は、実はマニュアルに書いてはあるのだけれど、実際に扱ってみないとわからないことが多い。実際に、1〜2年の間、私はかなりいい加減なファイルを送っていたと思う。点検部屋に加わって、こういう細かい所を修正出来たのはいいのだが、実は本業が忙しくて、しばらく入力作業が進まなかった。申請した入力希望作品の量から考えて手入力では追い付かない、と思い、その状況を変えるべく、スキャナーとOCRソフトを導入した。2002年12月からは、OCRを使って入力ファイルを作成しだした。スキャナーは、CanoScan LiDE30、OCRソフトは、e.Typist7.0である。

 OCRでの入力は、OCRなりの問題があることに気付いてはいても実感しないと直さないのはいつものことで、OCR特有の見落としをかなりしていたと思う。そのあたりも点検部屋で小林さんにいろいろと教えていただいた。テキストエディタは、OCR入力のような単純ミス(それも繰り返し)の場合に大変威力を発揮する。そして、正規表現というコンピュータの文法(?)を勉強するとその威力はさらに増大するのだ。例えば、というか、それくらいしか使っていないが、検索画面で「正規表現」をチェックして、「[ァ-ヶー・]+」を検索することで、カタカナ一覧が検索できる。もっと勉強すればいいのだけれど、まだまだ使いこなすには至っていないのが現状である。

 ここまで長々と書いてきたが、現在使っている機材と入力の方法を最後に記載しておく。
機材
OS:Mac OSX (10.2.7)
テキストエディタ:Jedit4
スキャナー:CanoScan LiDE30(名前は“山嵐”)
OCRソフト:e.Typist7.0
圧縮ソフト:DropZIP
実際の方法
1)スキャンする作品の底本、またはコピーを用意する。底本が茶色に変色している、水気を吸ってデコボコしている、などの際にはコピーをとるとスキャナーがうまく認識してくれることがある。
2)スキャンする。ここは時間がかかる上に、スキャン中は、本を押さえているか、ページをめくる以外にやることがない。もう一方の手で本を読むのもつらいので、映画でも見ながらのんびりとスキャンしている。一枚一枚以下の処理をするのは面倒なので、一気にたくさんスキャンしている。
3)スキャンした画像を呼び出し、傾きの処理(見開き傾き調整など)をして、OCRソフトで認識させる。出てきたテキストを、テキストエディタの別のファイルにコピーする。底本の一行ごとに改行する設定ではなく、改行を入れない設定で認識させているので、底本片手に改行をいれてゆく。一作品の最後までOCRでの認識、改行位置のみの手直しを行う。これで素(粗?)入力ファイルの出来上がり。
4)素入力ファイルを、底本片手に手直しする。ここで一括変換で直すことが多い。旧字作品は、この手直しの段階では新字で入力しておく。コンピューターで出て来ない漢字は、ことえりの文字パレットで調べ、「新JIS漢字総合索引」で調べ、見つかったら、しださんと小林さんの作成された「青空文庫・漢字外字注記コレクション」をコピー&ペーストして入力している。
5)旧字作品のみ、手直し終了後、「校閲くん」を使って、新字を旧字に直してゆく。全ての旧字が使われている訳ではないので、やはり底本片手である。
6)手直しが終わったら、印刷して、底本片手に突き合わせ読みをする。底本の状態にもよるが、まだまだ間違いが多い。ここで、片仮名「ヘ」などのOCR特有の間違いを直す。
7)最後に素読みをして、おしまい。
8)圧縮して、receptionアドレスへ送る。

ついでに、私の使っているテンプレートを以下に貼っておく。

入力テンプレート

作品の表題
原作の表題(翻訳作品の場合)
副題(副題がある場合)
原作の副題(副題がある翻訳作品の場合)
著者名
翻訳者名(翻訳の場合)

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
-------------------------------------------------------


底本:「書名」出版社名
   YYYY(GGYY)年MM月DD日第1刷発行
   YYYY(GGYY)年MM月DD日第NN刷発行
底本の親本:「書名」出版社名
   YYYY(GGYY)年MM月DD日初版発行
初出:「雑誌名、新聞紙名」発行所名
   YYYY(GGYY)年MM月DD日号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「作品名」(入力:入力者名、校正:校正者名)
入力:
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

ここまで(最後の改行を忘れずに)。

入力編は、これでおしまいです。次は「校正編」です。

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 未来に本を!

この機会を逃すと感想が書けなくなりそうなので、青空文庫メーリングリストオフ会と富田さんの講演の感想を書いておきます。

今回始めて青空文庫メーリングリストのオフ会に出席し、富田さんそして世話役の方々に初めてお会いし、ブックフェアでの富田さんの講演を聞く事が出来た。感想は一言に尽きる。「皆、書籍が好きなのだなあ」である。

オフ会(午後の部)は、azurの展示会になってしまったようだが、特に議題がある訳でもないのに、皆いろいろのことを話していた。その話題は、決して「文学」でもなく「出版」というものでもなかった。青空文庫の工作員、耕作員の全てが、いわゆる「文学」「出版」に通じている訳でもなく、「文章を書く」ことを目指している訳でもない(と思う)。では、何が工作員、耕作員の共通項なのだろう、と思っていたが、実際にたくさんの方とお会いして、その疑問は氷解した。皆、「本」「書籍」が好きであることが共通項なのだと思った。「本」「書籍」が好きであることと、「文学」が好き、または詳しいことは重ならない。もちろん、「本」「書籍」が好きなことと、「出版」のプロ、または通じていることも重なりはしない。私が勝手に見いだした共通項は、次の日の富田さんの講演を通しても感じられた。

ブックフェアで富田さんの講演を聞いた。印象的だったことは、
1)富田さんが「運営役」と紹介されたことに対して「多くの人の力を束ねる世話役である」と反論されたこと
2)著作権保護の二つの側面を紹介されたこと(文化の大きな流れに著作をゆだねること、多くの著作権関連の書物、文献ではあまり紹介されていない)
3)エキスパンドブックがあってこそ、青空文庫を始めたこと
である。

1)に関しては、最近とみに誤解される人が多い点である。青空文庫は、多くの工作員の力の結実である。運営する人がいる訳ではない。多くの人が出来ることを出来るだけ行ってファイルを作成、公開しているのだ。世話役の方の苦労は確かにあると思うが、その主な役割は、力をある方向に向けることであるのだ。

2)に関しては、改めて富田さんの講演を聞いて、文字の形で残された文化遺産を広く利用出来るようにすることの意義を痛感させられた。

3)の点で、前日のオフ会で見つけた共通項を見いだした気がしたのだ。青空文庫がテキストアーカイブの側面を強めているのが確かなのだが、その中でも今回azurの開発へも協力し、コンピュータ上で読書の未来を考えていることも確かであろう。そして、その原点がエキスパンドブックである。私自身、エキスパンドブックの美しさに惹かれて青空文庫の活動を始めたのである。富田さんは、また紙の本の大変便利な点を強調しておられた。このあたりのお話を聞いていて、「富田さんも本、書籍が好きなのだなあ」と思ったのだ。

繰り返しになるが、青空文庫の工作員のほとんどは、「文学」「印刷」に素人であり、「自分の文章」を発表したい、と思ってもいないだろう(誤解ならすみません)。では、何故、工作員をしているのか。私自身は「未来に本を」と思い、孫や子がいろいろな文章を手軽に読めるようにしてあげたい、と考えて工作員をしている。でも、確かに「本」「書籍」が理屈抜きに好きなのも確かなのだ。本の売り上げや出版点数の統計には詳しくないが、出版された本があっという間に絶版になってしまうことは、実感される。10年前の本も容易には手に入らないのである。こういう状況にあって、「紙の本」が大好きな人たちが、「電子テキスト」に未来を見いだした結果が、青空文庫なのではないかと思う。「紙の本」が大好きでありなあがら、電子テキストを作成するしかないのは矛盾かもしれない。しかし、azurの登場は、そんな人たちにも明るい未来を予感させたのではないか。オフ会では、azurは大人気であった。やはり、皆さん「紙の本」が大好きなのではないだろうか。

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2004年05月04日

 私の「書く」ということ

「詩とは金塊であり、散文とは金箔なんですね。重さは同じです。金塊をコアといいかえてもいいです」
 以前私はステージの上から観客に向って生意気にもこう言ったことがある。
「貴女自身の中で、詩と散文はどうなっていますか?」という司会者の質問に対しての答えだった。私が所属する文学サークルのイベントで拙詩をプロの朗読者が朗読し、そのあとで司会者がその作者に質問攻めにするという企画で、まな板の鯉になったのである。
  私は詩人ではない。詩集一冊出しているわけではない。サークルが一年に一度発行するアンソロジに詩を書くか、そのアンソロジを見た色々な方からの要請で、自治体の様々な行事のパンフレットに花を添えるために書くかという程度である。後は、サークルに長年いるというだけで地方自治体主催のカルチャー教室において詩の講座の講師で上座に座らせて頂くか。昨年体調を崩して講師も降板して以来、最近はもっぱらagさんの優しさに附け込んで?ここaozora blogで好きな事を書かせていただく事が楽しい。そんな私が書くことであるから、いい加減な話ではある。

 日常、何気ないことで心の底に触れることに出会ったら、若しくは心を揺さぶられる風景の中にいることができたら、頭の中で言葉が幾重にも重なり合って浮ぶ。それは文章ではなく、言葉の羅列なのである。その言葉の羅列をずっと持っていることにしている。何年も持っている場合がある。すぐには書かない。私の中でしっかりとした言葉になるまで待つのだ。書き始めようと思ったら、先ずは下書きである。詩の下書きは新聞にはいってくるチラシの裏、コーティングのないスーパーの広告に限る。別にスーパーの広告だから上手く書けるというものではないが、裏表に広告がされていない、コーティングのないものなら何でもよい。その「大根一本百円安いよ!」という裏に思いついた言葉を書き連ねる。それは誰も意味がわからない。私だけに通じる言葉の羅列なのである。単なる「叫び」なのだ。「呟き」なのだ。さてその「叫び」をどうしたら読み手に伝えることができるだろうか。これがテクニックというものである。テクニックというものに翻弄され、中核にある叫びを絶対に逃がすまいと何度も書き直す。洋服のポケットにそのチラシを畳んでいれて生活をする。思いついたときに言葉を直すのだ。言葉を入れ替えたり、どの言葉をどの位置で読み手は的確に私の「核」を捕まえることができるかを考える。詩における言葉は動いてはいけないのである。つまり他の言葉に置き換えることができるような言葉であってはならないのである。その位置にその言葉でなくてはならないのだと思う。
 小説など散文となると、同じ叫びや呟きを今度は、「延ばす」ということになる。薄く広く延ばすのである。連続した時間の流れの中へ「核」を放り込む。だからそこに詩とは異質の構成力が必要となるのだろうと思う。「話の筋」という言葉通り、話に筋が通っていなければならないのである。書きたい事が決まり、筋が決まったら、なぜか主人公の名前が浮び、書きたい事に従って主人公や周りの登場人物が私の頭の中で動いてくる。そこから浮かび上がってくるものは何か?それは本当に自分の書きたいことなのだろうかと自問する。筋は話の整合性だけではない、私全体を通り抜けなければならないのだ。足のつま先から頭の天辺は抜けるようなものがなければならないのだ。
  金塊でも金箔でも根源はリアリズムである。描写力である。それがないと詩では言葉は動くし、散文では筋だけが一人歩きをしてしまうのだ。

・ ・・・とここで気付く・・何年も書いていないのに、メジャーデビューできなかったのに・・こんなことを書いてはいけないのではないだろうか・・・ううむむ・・やっぱ書きたい。というわけで、まあ普通のおねえさんの中にあるちょっとした思いということで、読み流してください。

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 電詩・くじらのうたは電子本?

音楽CDのことを電子本と呼ぶ人もいないし、
映画DVDのことを電子本と呼ぶ人もいない。

テキスト・文章がないから?
写真だけのCDは、電子本? 写真集CD?
MIDI や mp3 だけのCDは、電子本? 音楽CD?
朗読をカセットテープに録音したら、電子本って言ってはいけない?
コピー機は電子本印刷機って言ってはいけない?
プリントをたばねてホッチキスでとめたら、電子本って言ってはいけない?
インターネットは、テキストも音楽も動画もあるけど、電子本って言っていい? 「広義の」電子本って、言わなくちゃいけない?
1サイトは1件? 1冊はだめ? 1集はだめ? 1編はだめ?

PDAは電子本? ノートパソコンは電子本? ゲームウオッチは電子本? ボタンを押すと音の出る紙の絵本は電子本? ラジオの聴ける本は電子本? テレビの見れる本は電子本? テレビで本のページを放送したら電子本? チラシが動いたりしゃべったら電子チラシ? スマートメディアは電子本? デジタルアニメは電子アニメ? デジタル映画は電子映画? エレクトリックギターは電子音楽? エレアコは電子音楽? シンセサイザーは電子本? メールマガジンは電子本? メーリングリストは電子本? 掲示板は電子本? 漏洩した個人情報は電子本? ロボットが本を読んでくれたら電子本? 車が本を読んでくれたら電子地図? 本を読んでくれるテレビは電子本? 天気予報は電子本? ウィキペディアは電子落書き? 2ちゃんねるは電子辞書? 電子本は人生相談してくれるの? 未来を占ってくれるの? ボノボがつくった本は電子本? カラスがとった写真は電子本? くじらのうたは電子本?

いつになったら、電子本は普及するの?
いつになったら、電子本は普及したって言っていいの?
いつになったら、電子本を普及しようっていわなくてもいいようになるの?
いつになったら、電子本は病院でつかえるようになるの?
いつになったら、あなたはわたしの存在を認めてくれるの?
いつになったら、わたしはあなたの存在を認められるの?
いつになったら、あなたはエンターテーナーになれるの?
いつになったら、わたしはエンターテーナーになれるの?
いつになったら、電子本はデントウテキになれるの?

わたし泣いたりするのはちがうと感じてた……
きっと泣いたりするのは電子本じゃないと感じてた……
飾りじゃないのよテキストは、あっ、は〜ん(はーと)

いま、電子本に Good bye.
ただ、井上陽水に Good night...



2004.5.4
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。たぶん。

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 東京国際ブックフェア2004レポート3「手段としての電子本」

まだ続くのか、と訊かれたら、まだ続きました、と答えるしかなくて、でも今回で終わるのでご勘弁下さい、と言葉を続ける。今回は前2回の総括にしたいと思います。


「手段としての電子本」

 今、色んな人たちが「デンシボン・ザ・ガジェット」なるものに踊らされているところを見ると、富田さんはやはりすごいと思わずにはいられない。富田さんはその著書「本の未来」にあるように、電子本をずっと「手段」(言い換えるなら「ツール」)として見つめ続けてきている。

 電子本があれば、何が出来るのか。こいつには、どんな可能性があるのか。この生まれたてのかわいい電子本ちゃんは、いったいどんな子なのだろう。

 たぶん、そういうことを全部わかった上で、青空文庫を始めた。あらためて言う必要なんてないのかもしれないけれど、この富田倫生という人はすごい人だ。(こういうふうに、富田ファンはいたるところにいる。先にレポートを書いてくれたJukiさんもそうだし、それにトラックバックした多村栄輝さんもそうだ。私もそう。)

 かく言う私も、数年前、電子本というガジェットに踊らされていた。けれどもあるとき、ふと自分がダンスしていることに気が付いて、電子本くんに対してまったく失礼な態度をとっていたんだな、というふうに思った。自分のことを書くのはなんだかあれだけれど、そういうことに気づいて、電子本を手段として取り戻す過程を、二年くらい前に「緑茶の頃合−T-Timeといっしょに−」という短い文章にして書いた。これはポシブル堂に行くと今でも読める。

 そのポシブル堂の田辺浩昭さんと、24日の夜、青空文庫のオフ会でお会いした。田辺さんは予想通りの熱い魂を持っている方で、二人ともお酒が入っていたのだけれど、とても熱い話をした。その中に、こんな言葉があった。

「世の中には、もったいない本がたくさんあるんですよ。」

 もったいない? それはいったいどういう本であろうか。ということを田辺さんに訊いてみると、こういうことらしい。

 もったいない本というのは、いわゆる地方で自費出版されるようなもののことで、読む人が読んだらとても面白い本であったり、あるいは市場には乗せられないけれど、とても貴重なことを書き記しているようなもののことを差すらしい。たとえば郷土資料であったり、廃線になった鉄道路線の記録だったり、自分史であったり、どこかの研究同人誌であったり。そういったものは自費出版されても、百冊とか二百冊くらい刷って、あとは知り合いに配ったり、図書館に寄贈したり、新聞に告知して連絡があった人に贈呈したり、そんな感じで終わる。

 そんな小さな範囲で終わる本は、とてももったいない、と田辺さんは言う。

「どうしてお金を出してまでして、自分の書いたものをそんな小さな範囲で終わらせるんでしょう。みんなに読んでもらいたいのなら、電子本で出せば、もっと多くの人に読んでもらえるのに。」

 そう言う田辺さんの眼はとてもせつなそうで、心底、電子本が世の中に広まってほしいと思っておられることが、ひしひしと伝った。この話を聞いて、私はもっともだと思った。

 電子本は、もっと手段として欲されるべきだ。

 けれども、みんな「電子本という手段」を知らないのである。知らないから、思いつくこともなくて、あるいは電子本というガジェットは知っていても、そういう手段があるということは知らない。だから、電子本では自分の本を出さない。

 なんてもったいないことだろう。

 私が友人と電子本サイトを始めたのも、ひとつには電子本という手段があるということを知ってほしかったからだ。富田さんの言葉を借りるのなら、「電子ガリ版」という手段が、T-Timeというものによって用意されているのだということを。

 それでも人はまだ電子本のことを知らなくて、本は小さく終わる。そして地下へゆく。

 悲しすぎる!

 となったところで、もうそろそろ今回の一連のレポートのまとめをしてみたい。私が今回の上京でわかったことは、以下の通りだ。(といっても、再確認できた、ということかもしれない。色んな人がすでに気づいていることで、私が偉そうに言えることでもない。)

「多くの人々にとって、電子本はいまだガジェットとして認識されている。電子本は、その幻影を脱ぎ去らなければならない。あるいは、これまで以上に多くの人の手によりながら、その呪縛を解き放ってゆかなければならない。もっと、その可能性を、その姿を伝えなければならない。」

 私は少しでもそのお手伝いをしようと、前に書いた「緑茶の頃合」を書き足している。もともとこれはT-Timeを知っている人に向けて書いたものだから、電子本というガジェットとしての出会いの部分は欠けているし、またその後の展開も書かれていない。私の書くものだから、基本的には面白くないものができるかもしれないけれど、ないよりはましだと思って書いている。

 なんか本末転倒だけれど、本屋の出版関連のコーナーとか、あるいはパソコン関連書籍の並んでいるところに、「あなたにもできる! 電子出版」とか「1万円からはじめる電子出版」とか「電子本があなたの想いを届ける」というようなハウツーものおよび啓蒙書が置かれてくると、電子本という手段を知る人はもっと多くなるのだろうなぁ。

 富田倫生「本の未来」(アスキー出版)が出てからもう7年。この本も、もう手に入らないのだろうか? もうそろそろ、「こんにちは! ぼく電子本です! みんなよろしく!」みたいな本がもう一度出たりはしないのだろうか。手段としての電子本を見つめた本が。

 アマゾンを検索してみると、色々と出てくるけれど、みんなビジネスがらみだし。(もしかすると私が知らないだけで、もうそんな本が出ているのかもしれない。だったら何も問題はなくて、私はただその本をおすすめすればいいわけで。)

 知と美を、もう一度自由にすることの出来る電子本。そして潤沢な知と美に触れた人は、またさらに新しい知と美を生産することが出来るのだろう。

 知と美を自由にする土台は、ネットワーク。ツールは、広義の電子本(T-Timeやblogなど)やその他もろもろのメディア。そして思想は、クリエイティヴ・コモンズ(およびパブリック・ドメイン)。よくよく考えてみると、もうみんな、すごい人達によって用意されているわけだ。あとは人が動くだけ。そうすれば、知と美が世界中を駆けめぐる時代がやってくるんだ。

 ああ、早くそんな時代が来ないかなぁ。

 考えるだけで、わくわくする。

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2004年05月03日

 東京国際ブックフェア2004レポート2「電子書籍ビジネス」

ごめんなさい、また長文になりました。レポートに続きがあるなんて考えた人は少なかったかもしれませんが、そうなんです、まだあるんです。ひょっとしたら、もうひとつあるかもしれません。書けば書くほど止まらない、もうどうしようもありません。でも、このレポートと前のレポートは別物ですので、安心して(?)御覧下さい。


「電子書籍ビジネス」

 4月25日午前、東京国際ブックフェアのあるブースに私はいた。どうやらどこかが電子書籍を売るサイトを作ったそうで、そのPRをしている。私は面白そうだと思ったので、そのブースに行って、そこにいたお姉さんの説明を聞いてみた。

 「電子書籍が……絶版本が……新刊書が……オンデマンドで……PDFで……書評が……が……ぐわ……ぐゎ……」

 ああ。空虚に聞こえる。お姉さんの言葉がみんなみんなうつろに聞こえる。何だろう、この気持ち。全然魅力的じゃないや。電子書籍ってこんなものだったかなぁ。からんころん。ぐわんがらん。

 要するに、お姉さんの説明したかったことはどんなことかっていうと、「電子書籍・オンデマンド本出版という新しいビジネスのかたちをもって、当サイトでは手に入りにくい小さな出版社の書籍や、絶版書籍などを、オンデマンド本やPDF電子書籍でお客様にお届けして、そして各本の購入ページからはその本の書評コーナーに直結していて、その本が読者にとってどう読まれているかがまるわかりで、作家のページもあるから、読者と作家が密着してる」んですって!

 で、そこで売られる本がどんなものかっていうと、3000円くらいのオンデマンド本と、1000円くらいのPDFの本(印刷禁止)。そして売られるのはそんなに有名じゃない出版社のそんなに有名じゃない作家の本か、もしくはたぶん需要が少なくて絶版になった本。

 それって、ユーザにとって本当に魅力的? ビジネスとして成り立ちますか?

 みなさんは、読みにくいPDFの本(印刷禁止)で、よくわからない作家の本を読みたいと思いますか? それに、いくら絶版の本であっても、欲しい人は欲しいから買うんだけれど、もともと絶版の本なのだから、みんながみんな買うんじゃないでしょう?

 なんだか、ただ電子書籍を出す、オンデマンド本を出す、ということが目的みたいで、それ以外のところが何にも見えていないような気がした。けれど、私は目の前にいるお姉さんに、そのことを直接言ったものかどうか、とても迷った。迷ったあげく、アンケート用紙に「たぶん私は買わないと思います」と記すだけにとどめた。ごめんなさい、お姉さん。

 で、ブックフェアが終わってから、そのサイトのパンフレットを読んでみたのだけれど、そのときの懸念はどうやら当たっていたみたいで。

「●○は単なるオンライン書店ではありません。出版社様、作家様に対して、新時代の電子出版ビジネスに参加するためのソリューションを提供するというまったく新しい思想に基づくものです。」

 と、書いてある。

 電子書籍・オンデマンド本ビジネスをする、ということが目的であって、別に何のために電子書籍ビジネスをするのか、あるいはどういう関係性を出版社・作家・読者に構築して、どういうふうにものを売っていくのか、あるいはどうすればこの関係性がうまく成り立つのか、そういうことがちゃんと練られていないわけだ。

 確かに、そういう場を提供するというのは新しい思想かもしれないけれど、その場がものすごく投げやりな感じがする。最初からそういう場が提供できればいいわけで、それから何かをこしらえようとしているから、場さえあれば中身なんてどうでもいいんだ、みたいな感じがある。

 電子書籍も、オンデマンド本も、単なる目的になってしまっては、どうしようもないんじゃないだろうか。うまく言語化できなくてもどかしいのだけれど、このサイトがやろうとしているビジネスに対する違和感は、次のようにも書き換えられる。

 電子書籍様! オンデマンド本様! 作家よ、出版社よ、読者よ、皆々、ひれ伏すのじゃ! このサイトさえあらば、君たちは電子書籍様が買えるのじゃ、出版できるのじゃ! オンデマンド本もそうなのじゃ!

 そんな感じ。電子書籍様、オンデマンド本様のための場を構築するのが目的なわけで、それが作家・出版社・読者に必要とされるかどうかなんてどうでもいいように見えるんです、お姉さん。なんだかビジネスとしてのヴィジョンがないように見えるんです、お姉さん。

 こうやって、珍奇なるガジェットが現れると、私達はそれに踊らされるようになっている。同じ25日午前、例のボイジャーブースで野々村文宏さんが言っていたけれど、「電子本ってガジェット」なのである。それはある意味、間違ってないと思う。パソコンで本が読める、ネットワークで本が売れる、なんだかすごいぞ! と、それだけが先行して、その必要性とは乖離したところで、もてはやされ、みんな踊らされる。

 そして、もし電子書籍ビジネスが成功するとしたら、色々あるこの電子の本というやつの特性を、目的として掲げるのではなく、どうやって手段としてうまくつかみ取るか、というところにあると思う。

 電子書籍というガジェットに踊らされて、それを目的としてビジネスをしようとしているうちは、何にせよ、それは失敗すると思う。なので、ビジネスやっている人たちは電子書籍とは関係ないところで、これから色々ビジネスやってください。それで、あなたがビジネスを何かやっていて、あるいは何かしたいことがあって、そのときにもし、電子書籍があなたのビジネスに必要なのだと思ったら、そのときにこの電子書籍くんを使ってあげてください、お姉さん。よろしくお願いします。

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2004年05月02日

 電詩「電子本創世記」

電子本創世記

国産はじめて物語』レトロ商品研究所(編)によれば、任天堂が液晶型携帯ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」を発売したのは1980年。シャープとの連携で開発にあたったのが横井軍平。「どこでも手軽に操作できるゲーム機」の誕生。価格は5800円だった。

わたしたちのリアルな夢は、どうやら、そのときに描かれたらしい。きっと。そして20数年たったいま、まだわたしたちはその夢を満たされなくて、ふて寝をしている。あまりにリアルな夢。スペースシャトルが宇宙へ行って、リニアモーターカーが宙を浮いて走って、ロボットが二足歩行して……だから、あのリアルな夢もまもなく本当にかなうものと信じて疑わなかった。

あのリアルな夢を見たのは、ぼくひとりじゃない。断言できる。
だって・・・


2004.5.2
しだひろし/PoorBook G3'99
転載・引用・リンクは自由です。

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 東京国際ブックフェア2004レポート「青空文庫——可能性の再生産」

東京国際ブックフェアは、私にとって年一回の上京する機会です。今年も一般公開日に合わせ、24・25の二日間、東京にいました。24は青空文庫のオフ会に参加し、25はブックフェアの会場で、色々と見たり買ったりしました。もうあれから一週間も経ちますが、その二日間で人としゃべったこと、あるいは聞いたこと、見たこと、さわったこと、感じたことをもとに、簡単な考察をしてみたいと思います。どうぞお付き合い下さい。


「青空文庫——可能性の再生産」

 4月25日、東京国際ブックフェアのデジタルパブリッシングフェア、ボイジャー・新潮社・筑摩書房・NTTソルマーレ・講談社・東芝の共同ブースで、午後1時30分からおよそ一時間、青空文庫の富田倫生さんの講演があった。

 私はブース内にある椅子に腰掛けて、その講演を聴いていた。

 青空文庫と言えば、富田倫生である。そしてこの文章である。


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 電子出版という新しい手立てを友として、私たちは〈青空の本〉を作ろうと思います。
 青空の本を集めた、〈青空文庫〉を育てようと考えています。

 青空の本は、読む人にお金や資格を求めません。
 いつも空にいて、そこであなたの視線を待っています。
 誰も拒まない、穏やかでそれでいて豊かな本の数々を、私たちは青空文庫に集めたいと思うのです。

 先人たちが積み上げてきたたくさんの作品のうち、著作権の保護期間を過ぎたものは、自由に複製を作れます。
 私たち自身が本にして、断りなく配れます。
 一定の年限を過ぎた作品は、心の糧として分かち合えるのです。

 私たちはすでに、自分のコンピューターを持っています。電子本作りのソフトウエアも用意されました。自分の手を動かせば、目の前のマシンで電子本が作れます。できた本はどんどんコピーできる。ネットワークにのせれば、一瞬にどこにでも届きます。
 願いを現実に変える用意は、すでに整いました。
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 青空文庫がどのようなものかと訊かれたら、この文章をそのまま出せばいい。それで説明は事足りる。の、はずである。けれども、私はまだ青空文庫は誤解されているような気がしてならない。

 「青空の本」という言い方がある。人はその意味を「フリーな本」というふうに解釈する。しかし「フリー」とは何であるか。もし一般的な解釈を考えるならば、あるいはインターネットのあちらこちらで見られる、青空文庫に対しての言説を考えるとすると、こんなふうには考えられないか。

「青空文庫では本が無料《ただ》で読める。書店に金を払わなくても良い。」

「青空文庫では本が無料で配られている。書店に対しては脅威である。」

 要するに「無料」、「お金を払わなくてもよい」という意味である。

 私はこういった文章を見るたび、「はあそうですか」と言わざるを得ない(実際には声に出していない)。どうもぴんと来ないのである。これでは音楽における、ファイル共有ソフトと違法コピーに対する印象とあんまり変わりがないではないか。そちらの問題と青空文庫では、まず法律的に妥当でないか妥当であるか、という違いがあるけれども、それをひとまず横に置いておくとして、そもそもファイルを共有すること、フリーであることというのは、お金を払う払わない、なんてそんなちゃちな問題なのだろうか。

 その感覚は、きっと富田さんにもあるような気がする。だからか、この講演の中、富田さんは「青空の本」について、どういうものであるか何度も説明した。そのとき、私達は自己中心的な関係性だけを見て、ものは考えるものではない、ということを知る。ただ単に私と誰か・何かという関係だけで見るのならば、フリーである、自由である「青空の本」に対しては、お金を払う払わない、そういう問題だけしか見えないかもしれない。つまり、私達が本に対して自由であるというのならば、それは私達が本を自由に扱えるということであるから、ある側面から見れば、お金に対して自由でもあるということにもなる。もし自分という視点だけから考えるのであれば、共有なんてものはその程度のもので、実にくだらないものである。

 けれども、ここで言われているのは、「本が自由である」ということだ。本が世の中に対して開かれているということだ。本に対して自由なのではなくて、本そのものが自由なのである。それが「青空の本」の「青空」たる所以だ。

 本が青空の下に、自由に解放されている。そして、時間・場所の制約なく、誰かが来るのを待っている。

 それが、本が自由であるということだ。富田さんは「フリーというのはただというだけではなく、ただ以上のものがある」と言った。その意味をはっきりと言うことはなかったけれど、その答えは富田さんが講演中に引用した岩波茂雄の「読書子に寄す」の、引用されなかった後半部分に書かれている。

「……読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。……」

 もし本自身が自由であるならば、私達は望んだときに、いつでも読むことができる。本はいつでもどこであろうと、人が来るのを待っているので、私達は自由に読むことができる。岩波茂雄は岩波文庫を作ることによって、本を自由にしようとした。あるいは知識と美を自由にしようとした。青空文庫もまた、電子本というメディアを得ることによって、それを活用し、本を自由にしようとしている。このふたつは、まったく同じ考えをもとにして、動き始めた。だから、富田さんの「もし岩波茂雄が現代にいたら、青空文庫を初めていた」だろうという言葉にもつながる。

 しかし、ここで疑問が生じる。本を自由にする、ということは、これまで本は自由でなかった、ということでもある。岩波文庫が出来た当時は、全集の予約出版というものがあって、いわゆる抱き合わせ的に販売されていたため、本が自由ではなかった。では、青空文庫が立ち向かわなければならなかった不自由、つまり本に対しての拘束というものは、いったい何だったのであろうか?

 出版という広く人々に知・美を届けるシステムが出来てからというもの、たくさんの本が世に出され、人に届けられた。しかし本が形ある物質であること、そして出版というシステムにおいては本は売り物であるということは、またひとつの拘束でもあった。本が物質である限り、増えれば増えるほど体積が大きくなる。しかし私達が一度に見ることのできる量は限られていて、また書店および図書館においてもその広さは限られているので、常時「自由になれる」本というのは、おのずから限られてくる。だから「自由に出来る量」からはみ出た本は、「自由でない所」にゆかなければならない。図書館で言えば書庫であるし、出版社から見れば絶版である。もしその本が売れるのであれば、何度も「自由な場所」に帰ってくることが出来るが、すべてがすべて、そうなるものでもない。また古書店という「再び自由になれる所」というものもあり、一時はそこで本はなんとか生き延びていたけれども、そこでさえ「自由量」は限られているので、そこからもあふれる本が出てくる。

 そして、本は青空から地下へゆく。

 地下へゆくと、人々がその本に触れるのはむずかしくなる。図書館の書庫で、古本屋で探そうとしなければ、見つからない。もしくは、探しても見つからないことがある。手に入れようとしても手に入らないことがある。読みたくても読めないこともある。

 これが、出版というシステムにおける、「面白うてやがて悲しき本の世界」である。そして富田さん自身の本も、こうやって地下にいった。

 今もたくさんの本が地下に向かっている。そして本は読めなくなる(読むことが困難になる)。富田さんも最初は、「これでしょうがないじゃないか」と思っていた。でも、「本当にこれしか道がないのだろうか」と考えた。そんなとき、富田さんは「電子本」という容積もなく、ネットワークに乗りさえすれば、いつでも人に届けることのできる本と出会った。そこに本の拘束を解いて、本が自由にできるという可能性を感じた。

 著作権法によると、著者の死後50年経てば、著作物は公共財産になるという。ならば、今地下にもぐっている本でも、再び自由にできるのではないだろうか。もう一度、誰もが読もうと思えば、誰でも読むことが出来る、そういう場所に、本を戻せるのではないだろうか。

 そういう場所のひとつが、青空文庫なのだろう、と私は思う。

 「いつも青空」という言葉も、青空文庫にかかわっているとよく聞く。図書館で言うと、「いつも開架である」ということだろうか。青空文庫の本はいつも開架で、みんなが来るのを待っている。

 青空文庫は、富田さんの言うように、色んな人がいる。そしてそれぞれの波で、それぞれの関わり方をしている。けれども、もし何かひとつ、この人々に共通性を見いだそうとするのであれば、こういうことが言えると思う。

 可能性の再生産をしているということ。

 本は生まれ、出版されることによって第一の可能性を手に入れる。人々が読もうと思えば、買って読むことの出来る場所へゆく。しかしやがて、市場という場所、あるいは図書館開架という場所を通り過ぎて、地下へいってしまう。けれども、青空文庫はそういった地下にねむった本を、もう一度呼び起こして、青空に返すということをしている。一度、かげってしまった可能性をいうものを、再びともす作業をしている。

 自由であること。望めば、いつでもそれにアクセスできるということ。「可能」である、ということ。

 それはとても重要なことだと思う。それを私は富田さんに、青空文庫に教えてもらった。講演を聴きながら、それを再確認した。

 けれども。

 けれども、ちょっとした心配事が現れてくる。今、青空文庫は収録数3000を越えて、もうすぐ4000になろうかという勢いである。このままゆけば、10000を越えるのも時間の問題だろう。

 そうすると、作品ひとつひとつに触れる可能性というものは、低くなりはしないだろうか。数が多ければ多いほど、その作品に触れる可能性というのは、少なくなりはしないだろうか。青空文庫そのものが、地下になったりはしないだろうか。

 でも。

 でも、私はそんなに心配していない。いつでも、可能性が硬直したときには、それを打ち砕く人が現れた。もし青空文庫そのものが硬直したならば、また新たな人が可能性をお広げるのだと思う。たとえば、青空文庫の開架が成長しすぎて、書庫と同じような状態になったのならば、ネット上で個人の開架を作ればいい。blogでも何でもいいけれど、そういった場所に自分の開架を作っておいて、青空文庫にリンクしておく。そうすれば、そのblogを訪れた人が、本に出会うことが出来る。可能性がまた増える。ひとつの方法としては、そんなものがあるけれど、きっと、私には思いもつかないような、色んな方法がもっともっとあるのだろう。

 何も怖くなんかない。

 自由な青空は、作ろうと思えば、誰にでも作れるのだから。

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2004年05月01日

 水牛だより5月1日

青空文庫のオフ会では、いつも文字のことが話題になります。じぶんの好きな本をだれもが読めるようにしたいという動機ではじめる人のおおい入力や校正ですが、じっさいには、そうかんたんではありません。好きな作品を何もかんがえずにそのままデジタルテキスト化できたとしたら、それは幸運な例外なのです。

コンピュータで使える文字は、まだ限られていて、青空文庫では不自由だと感じることのほうが多いのです。そのために、コンピュータに搭載されていない文字をどうするか、あれこれみんなでかんがえるのがおおきな柱のひとつとなっています。青空文庫は不自由が育ててくれたといってもいいくらいです。作業のために底本をじっくり見るので、もちろん誤植も見つけるし、やがて底本の善し悪しまでわかるようになってきます。権威のある出版社のものでも、ひどいものはひどい、だめなものはだめ。編集者でもないのに、いつの間にか、編集にふかくコミットしているへんな集団だなと、オフ会に出てくれたひとたちの顔をみながら、あらためてそう思うのでありました。

「水牛のように」を2004年5月号に更新しました。
イラクで人質となった高遠菜穂子さんはこどもたちを助けていたと知って、すぐに佐藤真紀さんを思いうかべてたのは、きっとわたしだけではないと思います。やっぱりいっしょに活動をすることがあったのですね。
青空文庫のLUNA CATさんが「青空文庫的生活ツール」azurについて書いています。このソフトは青空文庫の集団的編集能力(!)のひとつのみのりです。ウェブブラウザとして使えます。ぜひためしてみてください。

「水牛の本棚」は藤本和子「反悲劇」です。
「女たちの同時代——北米黒人女性作家選」第7巻「語りつぐ」(ゾラ・ニール・ハーストン、ルシール・クリフトン)について。ゾラ・ニール・ハーストンの「騾馬とひと」、ゾラ・ニール・ハーストンについてのメアリ・ヘレン・ワシントンとアリス・ウォーカーの論考、そしてルシール・クリフトンの回想「末裔たち」がおさめられています。この本は絶版ですが、収録されている「騾馬とひと」は平凡社ライブラリーの1冊となって、いまも生き延びています。ハーストンの作品集は新宿書房からも出ています。「彼らの目は神を見ていた」「路上の砂塵」「ヴードゥーの神々——ジャマイカ、ハイチ紀行」英語版はたくさんあります。検索してみてください。
「女たちの同時代——北米黒人女性作家選」はこれでおわりです。途中から入力を引き受けてくださったのは武石藍さん。ありがとう、ごくろうさまでした!

「水牛通信電子化計画」は今月はおやすみです。たのしみに待っていてくださるかた、ごめんなさい。来月はきっと。

ブックフェアで本を物色しているとき、エリック・ホッファー「波止場日記」に呼ばれました。本のほうから読者として呼ばれるというひさしぶりのこと。ホッファーは放浪ののちにサンフランシスコで港湾労働者としてはたらきながら、ひとり図書館で読書と思索をつづけたひとです。こうした知性のありかたにはほれぼれします。

それではまた! (八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)

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