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突然だが、私の家は京都新聞を購読している。この新聞にはトマトマガジンというカラーのパンフレットが毎月ついてくるのだけれど、先日届いた11月号には社会学者・鵜飼正樹さんの「古本まつりにそわそわ」というエッセイが掲載されていた。
どうやら、鵜飼さんも私と同じ性分らしい。
というわけで、今回も京都古書研究会の「秋の古本まつり 古本供養と青空古本市(10/30-11/3)」に行ってきた。
この古本市は、以前ふれた夏の古本市とはちょっと違う。なぜなら、ただの古本即売会ではなく、行事の名前にもあるように「古本供養」なるものをするからだ。それもそのはず、この秋の古本まつりは毎年、京都百万遍の知恩寺というお寺の境内で行っているのである。
初日の朝、だいたい9時半ごろから本堂の中でお経が読まれ始める。何のために読むのかというと、もちろん古本のためだ。本として読まれた後、長い間読まれず棚に眠っている本に対して、労をねぎらい感謝して、もう一度本としての役目を果たすために、新しい読者のもとへ送りだしたいという願いを込めた法要であるそうだ。
毎回、古書研究会の人と境内にある幼稚園の園児が参加して法要を行うのだが、一般の人も参加できる。私も去年から参加していて、今日も朝早く起きて、大学も行かずに参詣した。実を言うと、読んでいるお経もちんぷんかんぷんで、まったくわからなのだけれど、やっぱり日本人なのかお経を聞いていると落ち着くし、また古本のありがたみを感じることも出来るし、今日一日古本探索を頑張ろうという気力もわいてくるから不思議だ。
お経が終わると、お坊さんが大きな数珠を出してきて、みんなで円になって数珠回しをする。聞くところによると、百回数珠を回すあの風習は、このお寺から始まったことらしい。それはさておき、この数珠回しも終わるといよいよ古本市の開幕である。(ちなみにこの数珠回しを最後まで参加すると、古本市で使えるクーポン券をくださいます)
古本市が始まってすぐに行くのは、100円均一コーナーである。古くて結構汚れも多く、普通なら処分されてしまうような本たちがここにいる。しかし、ふだん棚には並べられないような本たちが出てくるため、掘り出し物があったりするのだ。なので、まずはこのコーナーへ行って、めぼしいものや自分のほしいものを押さえておく。
今回は何があるかな、と行ってみると、なんとなんと、私の専門の学術誌で希少価値のあるものが全7冊そろいであるじゃないか! ということで、早速保護する。このようなこともあるので、みなさん100円均一コーナーには必ず目を通しておきましょう。
それから午前中は、道に沿って東西のふたつに分かれている古本屋のテントのうち、東側を物色して、語学の講義のために一時大学へ帰還。そして午後、講義が終わってからすぐに古本市へ戻って、西側のテントを探索。
今回は私の専門に関する本がざくざくと出てきて、満足満足。青空文庫用の底本として見つけたのは、ホイットマン/有島武郎訳「草の葉」と、ワイルド/平田禿木訳「ドリアン・グレエの画像」でした。
こうやって、新しい人の手に渡ることが、より多くの人の目に触れさせることが、古本の供養になるのなら、青空文庫も本の供養になっているのかな?
今日は、私のお部屋を公開します。

わたしの隣にいるのが、モーグリとよばれている動物(?)で、わたしの部屋の管理人です。
荷物をあずかってくれたり、植木のめんどうをみたり、掃除したり(かならず何か発見して
くるのが妙)いろいろな事を手伝ってくれるのです。
さてさて、今日は職業についてお話しますね。
わたしは、タルタルという種族です。これはもう変えられませんが、職業は変えられるのです。
この白い洋服は白魔導士の職業服で、AF(アーティファクト)と呼ばれています。AFは、
その職業に応じて効果の高い機能がついている服なのです。
ヴァナディールに降り立つとき、私は白魔導士をえらびました。回復して癒す、PTの
みんなを守って、モンスターに殺されないように、治療もできる職業です。
他にどんな職業があるかというと、戦士、モンク、シーフ、赤魔導士、黒魔導士があります。
LVが高くなると、他にも職業を変えられるのですが、LV30までは、この6職業を極めないと
他の職業にはなれません。LV30になると、選べる職業はというと....。
ナイト、暗黒騎士、吟遊詩人、獣使い、狩人、忍者、侍、竜騎士、召喚士です。
これらの職業になるためには、こなさないといけない試練があって、それをクリアして
転職して、再びLV1から始まるのです。
わたし?わたしは白魔導士まっしぐら....というわけでもなく、サポートジョブ用の
職業をすこし修行した程度です。黒魔導士と吟遊詩人と、召喚士くらいかなぁ。
色々な職業の人と一緒に工夫して、モンスターを協力して倒して、経験値を得て、
LVがあがっていくのです。
サポートジョブって何だろ?と思ってますね?
あ、でも、友だちと釣りにいく約束をしているの、ごめんなさい。また改めて書きます。
今日は、ラバオという砂漠の中にある町に釣りをしにでかけるのです。いってきまぁす。
アガサ・クリスティ(1890-1976)。誰もが知るミステリの女王である。私もクリスティが好きで、彼女の本を読むために翻訳書を買いあさった。そのせいか、クリスティの名翻訳者は? と聞かれたら、何人かの名前をすぐに挙げることができる。加島祥造、蕗沢忠枝、中村妙子、中村能三……
なぜ私が彼女の作品が好きなのかというと、彼女の作品の中にはいつも「人間」がいるからだ。ミステリ好きの人には、彼女が様々な新しいトリックを考案したことを評価する人も多い。私も確かにミステリは好きだけれど、トリックがあるだけで、あとの登場人物はただの役者・人形・傀儡・道化みたいなパズラー小説は好きじゃない。彼女の作品の登場人物はみんな生き生きしてるし、自立した女性が多いのも特徴的だ。「パディントン発4時50分」のアイレスバロウ(アイルズバロウ)しかり、「茶色の服を着た男」のベディングフェルドしかり。目の前の出来事に毅然と立ち向かっていく彼女たちに、私は共感を覚える。
さて、そんなアガサ・クリスティだけれど、今回、早川書房から《クリスティー文庫》として彼女の全作品が新装版で再発売されることになった。新訳のものもあるという。
けれど、私はそのとき、あることが心に浮かんだのだ。
田村隆一の訳書が消えるのではないか?
私はすぐさまそう思った。田村隆一(1923-1998)といえば、いわゆる荒地派の詩人で、早川書房で編集長をやってた人だ。そして、まったくどういっていいかわからないけど、とにかくものすごく心にがつんと来る詩を書く人だ。私は現代詩には疎いので、難しいことはわからないけど、詩を読んだだけで、この人すごい、と思った。ちょっと引用してみる。
「きみが眼ざめたとき
きみのなかではじめて眠りにつくものが
夢に見るだけ
ぼくにはうまく云えないけれど
人生のある一瞬には
地平線も水平線も見えない
夢だってあるのだ」(「飛ぶ」より)
そんな田村隆一の翻訳が、新訳をするならもっとも先に切られるだろう、と私は思った。それには二つ理由がある。
1980年代初め、誤訳摘発が盛んだった時期があった。日本翻訳史の中で、誤訳摘発が乱れ飛ぶ時期は何度かあるのだけれど、だいたいどれも似たような感じだ。このときは、結果として似たような感じになった、ということなのだけれど。
1978年、別宮貞徳が「翻訳の世界」誌上で「欠陥翻訳時評」というのを始めた。それは戦後、無批判に製造され続けた欠陥翻訳に業を煮やして、翻訳者の側から立ち上がった業界改革だった。それによって出版社、翻訳者の意識が変わって、翻訳の質が向上していった(もちろん、翻訳者の養成学校などがうまく機能し始めたということもあるし、理由はそれだけではないのだけれど)。別宮は読めたものではない欠陥商品を泣く泣く買わされる消費者のために戦ったのだけれど、この「欠陥翻訳時評」が話題になったことによって、調子に乗った色んな人が誤訳摘発の本を出し始めた。そういった本のほとんどが語学的なあら探しに終始し、それを見つければ鬼の首を取ったように翻訳者を罵倒する、といった悪趣味なものだった。
そういった本の槍玉に挙げられたもののひとつが、田村隆一のクリスティー翻訳だった。彼の翻訳は決してひどいものじゃなかったのだけれど、けちょんけちょんにやられてしまって、その影響か、一連の翻訳書の評価がぐんと下がった。
誤訳というのは単に技術的なミスで、中野好夫の言葉を借りると「畳の埃」である。たたけば絶対に出てくるもの。でも別宮はその畳が埃まみれでどうしようもないものがあったから戦ったのだけれど、その後続の人たちは普通の畳や良質の畳をたたいて埃が出るのを楽しんだ、というような感じだ。それで畳に文句を言うのだから、穏やかじゃない。
そして、田村隆一のクリスティー翻訳、特にポワロ(ポアロ)翻訳にとどめを刺したのが、NHKで放送されたデビッド・スーシェ主演の「名探偵ポワロ」シリーズだった。熊倉一雄の猫なで声で語られる慇懃な言葉遣いと、田村の訳書のアルバート・フィニーを彷彿とさせるポワロとは、ちょっとイメージが離れていた。テレビを見てから訳書を買った読者は、「こんなのポワロじゃない!」と苦情を言う……のかなぁ。書いててだんだん自信がなくなってきたけれども。
それはともかくそんな感じに考えていた中、今月、《クリスティー文庫》で新装版が出た。予想通り、田村隆一が訳したポワロ作品「スタイルズ荘の怪事件」「三幕の殺人」は新訳にさしかわっていた。おそらく、これから「ABC殺人事件」や「アクロイド殺し」「ビッグ4」「マギンティ夫人は死んだ」「死者のあやまち」「青列車の秘密」「ゴルフ場殺人事件」などは新訳になる可能性が高いだろう。同じ意味で高橋豊「ヘラクレスの冒険」あたりも新訳になるかもしれない。
私は書店で新訳の矢沢聖子「スタイルズ荘の怪事件」を手に取ってみた。なるほど、ポワロはテレビで見た通りのポワロだし、訳文も非常にうまい。けれど、田村おじさんのポワロがいなくなってしまったことに、私は少しさみしさを覚えた。
彼の翻訳者としてエピソードは、宮田昇「戦後「翻訳」風雲録」(本の雑誌社)に詳しいけれども、確かにその訳業には不注意な点があるし、原書を読み込めていない、といえばそうかもしれない。でも、翻訳者としての田村隆一には、こんな作品があったということも忘れてほしくはない。
ライマン・フランク・ボーム「サンタクロースの冒険」(扶桑社エンターテイメント)。オズの魔法使いの作者であるボームが書いた、サンタクロースが主人公のフェアリーテイル。彼の生い立ちから晩年までを描いた秀作だ。田村隆一はこの作品を丁寧に訳しているし、巻頭には自作の詩まで載せている。
詩人が自分の翻訳に詩をつける、ということはどういうことか考えてほしい。戦後ある時期まで、翻訳は詩人の食べるための手段だった。あくまでも食べるための仕事だと割り切っている人もいたくらいだ。
田村隆一が自分の翻訳に詩をつけた。私は、彼の翻訳の中でも、これだけは消えてほしくないな、と思う。
FF11というオンラインゲームをやっております。って、1年くらい前からやっていたのですが...。
オンラインゲームというのは、ひとつのサーバーにたくさんの人が同時に接続して遊ぶゲームです。
チームを組んでモンスターを倒したり、釣りをしたり、合成といって色々なものをつくり出したり、
その素材を集めたり、一言でいうと、暮らすようなものなのです。
一緒に遊ぶのは心がある人間です。従来のゲームの用にプログラムではないのです。
鳥取の人だったり、新潟の人だったり、静岡の人だったりしますが、本当はどこからか知りません。
もちろんそんな自分がどこからなんて事も、いいませんが、ゲームの世界の仲間なのです。
もうすぐ、アメリカから人がくるようになるそうです。実は、今でも香港や台湾やなんと
オーストラリアからもきている人がいます。
そして、SF用語でいうところのパラレルワールドっぽく、全部で20以上サーバはあり、その世界で、
たくさんの人がたわいもなくおしゃべりしたり、料理したり、武器をつくったり売ったり買ったり
くらしています。
これからのんびりと綴っていくこの日記の主人公。わたしは、タルタルという種族の女の子として
暮らしています。ゲームの世界での名前を書くと他サーバーの同じ名前の方に迷惑がかかるやも
しれませんから。
この日記は、あたし。という一人称ですすめたいと思います。
.......
オンラインゲームをやってる人には、わかる話しも、わかんない人には、なんじゃこりゃ?
と、思うかもしれませんが、おとぎ話し程度におつき合いくださいませ。
そのあたしの暮らしている世界の名前は、ヴァナディールといいます。

これは、町の住人から頼まれて(クエストと呼ばれています)、北国のはての池にラブレターを
捨てにいく途中氷エレメンタルというモンスターとあたしの記念写真です。
ひとまず、はじまりはじまり。
仏文学に疎い私が、象徴派デカダンスの聖書と呼ばれている「さかしま」を読んだ。ジョリ・カルル・ユイスマン(1848−1907)作、澁澤龍彦(1928−87)譯。
19世紀末を背景に、非生産的な、世に背を向けた、神経症的な若い貴族の夢幻の世界への彷徨を、読者は辿っていく。
一切の日常生活を否定した主人公デ・ゼッサントは、中世をそのまま自分の中で体現しようとする。そのために感性を高めることに没頭し、詩人ボオドレエル、マラルメを愛し、中世の宗教絵画(?)を愛し、奇抜な色で塗りたくった書斎で夢想を繰り返すのである。人間の根源を問うてみたり、中世カトリックの僧における堕落に思いを馳せたりする。積み重なった書物の分、偏狭なりにも自由に空想の世界を行き来する。しかし所詮生身の人間、夢想だけでは生きていけない。船室をモデルにした食堂で足音を忍ばせて歩くように命じられた召使から給仕をうける。数時間前に欲求した食べものが現前すると、嘔吐さえ感じるといういたってわがままな、貴族である。わがままなだけでは話が進まない。デ・ゼッサントは考える。世に堕胎は如何な罪であるかと。この世は生まれる価値があるのであろうか?そして世に生まれるということは、罪悪を背負うことではないのか。それなら、生を受けない方が幸せなのではないか・・と。
またデ・ゼッサントは、行動を起こす。街で貧乏な童貞の若者を捕まえて、娼婦館で女という“密”を与える。それも向う半年分、彼は前払いにし、若者がいつ来てもよいようにする。半年後お金は切れる。密を吸えなくなったその若者は、どうするか。自分に縋るだろう、しかし自分は若者を鼻であしらう。鼻であしらわれた、密に溺れきっている、抜け出したくても抜けだせなくなった若者はどうするか?密を吸いにいくために、どうするか?彼に言わせると、必ず強盗を働き、あわよくば人を殺してまでもその密を吸いにいくという。そういう貧しい若者を彼はみたいのである。ところが、若者は半年もしないうちに飽きてしまう。デ・ゼッサントも飽きてしまう。
自己愛が強く、どこか気紛れで、神経だけで生きているような男、そういうデ・ゼッサントから誰かを想像しないだろうか?もちろん澁澤は指摘することを忘れてはいない。
ドリアン・グレイである。デ・ゼッサントからドリアン・グレイへ、「文学的典型人物の系譜と考えることもできるであろう」と。
この話に「なぜ」を問い掛けては面白くないだろう。そういった概念の裏側にデ・ゼッサントはいるのだから。読み手は、あくまでデ・ゼッサントの夢想に付き合う覚悟が必要なのだ。
フランス文学は数を読んではいないが、どれもがどこか面映い感じがする。そういえばフランス映画もどこか面映い。なぜだろう?
余談:「さかしま」第一章の冒頭に主人公が凝る家具の一つとして、「蒼白い日本産の樟樹の、彫刻のある小さな家具」という言葉がでてくる。外国文学の中の日本を、また一つみつけた。♥
せがわまさき『バジリスク(2)』アッパーズKC、講談社
ビートたけしの座頭市、というよりは殺し屋イチって感じでしたが、まあ設定からすると無理はないところ。刀を力強く返して切りまくるところがいいよなあ♥ しかし逃げるところでほんとにギャグを入れんでくれ。笑いが止まらん。ひゃひゃひゃ。じゃあ次はQT"KillBill"か♥
しかし、みなごろしならバジリスクではどうか。山田風太郎『甲賀忍法帖』をマンガ化して連載中で2巻が出たところ。たぶん全4巻ぐらい。かなり原作そのままなマンガになってはいるが、お局さまが出てきてないので短くなるのかもしれぬ。話は「ウエスト・サイド物語」(1957初演)を元にしたんだろうな(原作1959発表)、つまりロミオとジュリエットなのですが、それを甲賀対伊賀の忍法勝負に……いやしかし、これと「魔界転生」で今どきの「つおい?」[#(C)則巻アラレ]マンガのエッセンスがすでに全部入っているといってもいいぐらいだな。忍法もの、超能力もの、スポーツものであれ、どれも忍法帖だと感じてしまうぞ。さらには明治ものも「『坊っちゃん』の時代」になってるしなあ。。。(違)
おっと、バジリスク、バジリコック、コカトリスは睨まれると石になる怪物ですか。殺しは盲目、恋は猛毒な話だからそういうタイトルになったのでしょうか。なるほど。いやでも細かいシーンまでうまいなあ。原作と違っている部分はマンガ用変更というよりバグの修正みたいな感じだし。流石に原作の生理学的忍法解説(?)はないですが、見ればわかるし、いや、見てはいけない(^^; 20人はっきりキャラが出来てるしなあ。こうやって絵になると、顔が見えるってゆうか、殺しあって消えていくのがとても残念ですなあ。というか死ぬなよ! 最近はゲーム的に殺しあいってないんですかねえ、主要キャラがどんどん死んでいくマンガってあったっけ?
原作はほとんどマンガだし、それをマンガにするとリアルになるか。絵がうまいせいですかねえ。背景の処理で映画のようだし。(私がマンガになじんでるだけか?)
ところで顔ですが・・・
「……認識は対象を所有する。(中略)顔は不可侵である。その眼はまったく無防備であり、人間の身体のうちで最も裸に剥かれた器官でありながら、所有に対する絶対的抵抗を示している。そして、その絶対的抵抗のうちに殺害への誘惑、絶対的否認への誘惑もまた刻み込まれているのである。他者は人が殺害の誘惑を覚える唯一の存在である。……(エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』内田樹訳、国文社、1985年、17頁)」
——「戦争論の構造」(内田樹『ためらいの倫理学』角川文庫)より。
孫引きですが、ちょうどこの本(ためらい…)読んでいて、これバジリスクそのままだなと思ったので(^^; 風太郎作品には無意味な死がたくさん出てくるのですが、それでもなんだか奇妙に倫理的な感じがするのは顔があるからだろうか。この本(ためらい…)についてはまたそのうちに書くかも。(その通り! と思うところが多いので)
研究課題
1) ウエスト・サイド物語を見たりしたのか、それとも話を聞いただけか、調べてみる。
2) 忍法帖に影響を与えた以前の話を調べてみる。
3) 戦争論と無意味な死について考察する。
すぐに買え(るようにおせっかいな)リンク:
バジリスク-甲賀忍法帖 1 (1)アッパーズKC
バジリスク-甲賀忍法帖 2 (2)アッパーズKC
甲賀忍法帖—山田風太郎忍法...講談社文庫
ためらいの倫理学—戦争・性...角川文庫
栗本薫『復活の朝』グイン・サーガ92、ハヤカワ文庫
いつもながら泣ける話だ。でも「あと8」というところまで来て、主役が消えてしまうとは。。。そりゃねーよ。しかし、まあ外伝が出そうなのでいいか。(全然良くないが)
それはどうでも良いとして、死ぬまでに読みたい百冊にグインサーガを選んでしまった私としては(笑、ずぼらなだけか^^;)、
……「やっぱし百巻で完結します」とか云ってみたくなったりするんですが、でももう、話のほうで、どうあってもあと八で終わってくれるわけはないので……あうあう。(中略)ううむ。やっぱり二百巻なのかなあ。
(「あとがき」より)
とホントに200巻になりそうなところがショックです。「これでよかったのだ」といわれてもなあ(爆)。100巻までは死なないように細心の注意をはらってきたがあ、にば〜いになるとどうなるやら。
いや作者の方は生きてんのかな、もし専念すれば月刊になるだろうけど、それでも8年はかかるわけだしな、魔界はどうなるんだ〜、はっ、「ネオ・グランドカイサール総合人工知能No.0336-78950α型」ってそれか? そもそも1人で三国志と水滸伝を書いてしまうのが無謀というか野望というか、長生きしてください>作者
すぐに買え(るように親切な)リンク:
復活の朝—グイン・サーガ 92...ハヤカワ文庫
柿を食べながら、寺田寅彦の『柿の種』を読んだ。
柿の種
ー俳句雑誌「渋柿」の巻頭第一ページに、「無題」という題で、時々に短い即興的漫筆を載せて来たー
その冒頭を読む私は、口の中で果肉と種を分けようとしている。何度か口を動かした後、やっと剥がれてつるっとした種の表皮に舌は満足し手にとる。この柿の種の一粒が、ひとつの話ということになるのだろう。
—日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
このガラスは、初めから曇っていることもある。
生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
穴を見つけても通れない人もある。
それは、あまりからだが肥《ふと》り過ぎているために……。
しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。—
以前私は大きめの真紅の薔薇の花が一輪挿しに挿してあるのが好きだったが、最近はピンクの小薔薇の束を好むようになった。だから知人、友人のイベント会場の階段を、大き目の真紅の薔薇一輪を片手で持って上がっていたが、最近はピンクの小薔薇とカスミソウを抱えて上がっていく。一本でも耐えることができる凛とした美しさより、可憐な喧騒ともいうべきピンクの小薔薇の束とカスミソウが美しいと思うようになった。なぜ変化したのか、年齢や経験を重ねたからか。今の話に私の好みも年齢も経験も関係がない。ならば何がいいたいか、美しい、好きという主観があり、それに対になる醜い、嫌いという主観もあり、両方具え、尚且、それらを超えなければ寺田の言う通路の向こう側へはいけないということである。ではどうやったら具えられ、超えられるか。観察するに限るのだろうと思う。対象物を観察し、観察する自分を観察する。自分を客観的に見つめる。そして客観視した自分というフィルターを通して写実する。描写する。それに向ってひたすら努力していたはずだった。いつのまにかその努力をしなくなった。努力をしなくなった、言葉による創造をしなくなった私に、もはや通路はない。
そこまで考えて、柿を食べるのを止めた。口の中をゆっくりと甘味が広がる。それを侵食するべく柿本来の渋味が広がった。その渋味をため息と一緒に、紗がかかったような秋晴れに放つ。
私は、寺田の文章に目を戻した。
—まれに、きわめてまれに、天の焔《ほのお》を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔《と》かしてしまう人がある。(大正九年五月、渋柿)—
この一文でこの人が思い浮かんだ。種田山頭火である。山頭火は、川の水の流れをも自分というフィルターを通す人だった。私には、なんと遠い人だろう。その遠い人が柿の葉がうつくしいという。
種田山頭火の『草木搭』柿の葉より。
—柿の葉はうつくしい、若葉も青葉も——ことに落葉はうつくしい。濡れてかがやく柿の落葉に見入るとき、私は造化の妙にうたれるのである。—
ふとテーブルの上をみた。ぽつんと残された柿には葉が二枚ついていた。
小説でもドラマでも、最近のものはどうも人が死に過ぎる。
病気でも事故でも、とにかく誰かが死ぬことで話をもりあげるというストーリーは、もうウンザリ。
はっきり言って疲れました。
そういった方におすすめなのが、この映画「がんばっていきまっしょい」です。
四国の松山の進学校に入学した女の子が、勉強はあまり得意ではないけれど、女子ボート部を作り友だち四人を集めて練習開始、みんなでがんばっていきまっしょいという話。
ちなみにこの五人が乗るボートは、漕手が四人に舵手(コックス)がひとりのナックル・フォアと呼ばれるもの。
英国あたりでは、名門校の競漕ボート部出身OBは短命と噂されるほど、本来は苛酷な競技ですが、この映画の松山は、海がきれいですし、男子ボート部の先輩もけっこうやさしいし、まあ、ボートの漕ぎ方から練習を始めるわけですから、パシャパシャがスイスイ漕げるところまで進歩するだけでも拍手もの、競技会に出てビリけつというのもしかたのないところですが、それでも、五人はいつも仲間だし目標もいっしょだし、くじけないでがんばっていきまっしょいという姿勢が、素直でのびのびしていて、若いっていうのはやはりいいものだなぁと爽やかな感動をさそいます。
良い映画の条件のひとつといえば、やはり、画面の絵がきれいということだと思うわけですが、この映画の画面の美しさは、岩井俊二監督の「Love Letter」以来のできばえ。画面のどのシーンを切り取っても、その一枚の写真からさらにさまざまな想像が膨らんでいくような魅力にあふれています。
ところで、今回のお話は、この映画「がんばっていきまっしょい」のDVDについてきたボーナス映像「がんばっていきまっしょい/撮影日誌」について。
ふつうメーキングビデオといえば、本編の映画に関係したさまざまなスタッフや俳優が登場し、自分たちの仲間や仕事を自画自賛するというのが大抵のお決まりパターンですが、この映画についてきたおまけは少し違っていて、撮影日誌とあるとおり、撮影現場のようすをひたすら生撮りした記録が26分の作品にまとめられています。
「なぁーんだ」と思われる方もいるかも知れませんが、ところが、これがなかなかいいんです。
映画の中ではボート競技に打ち込む女子高生の姿が描かれていますが、撮影日誌の方では、映画とは別に、今度は映画撮影に打ち込む女子高生の姿が同じ顔ぶれで映しだされていて、思わず「がんばっていきまっしょい」本編と「撮影日誌」がオーバーラップしてしまうというか、シンクロするというか、なにか不思議な感覚にとらわれることになるのです。
本編「がんばっていきまっしょい」の世界は、実は、今をさかのぼること20年あまり、1976年当時の高校時代を回想するような構成になっています。これは登場人物のひとりが回想するというわけではなくて、ボート部の古い朽ちかけた部室の壁に貼られた、一枚の色あせた写真が語りかけてくる過去のできごと、という設定になっています。
ですから映画の中では、街なみのようすや高校生の服装などに加え、登場人物たちの感覚も、現代から見ると少し違った雰囲気が盛り込まれています。
(この映画は1998年の作品なので、この映画の今は1998年当時ということになります)
「撮影日誌」冒頭、蝉しぐれの撮影現場に思い思いの服装をした四人の女の子たちがやってくると、そこにいるのは、映画の中とは違う現代の女の子たちでした。
彼女たちは、映画スタッフのおじさんたちの前で、少し緊張したおももちで自己紹介をすませると、さっそくボート漕ぎの説明と指導を受けることになります。
当然、だれも競技用ボートなど漕いだことがない子たちばかり。
クランクインに向け、ボート部の部室となる木造のクラブハウスが浜辺に建てられ、女の子たちは20年前のヘアースタイルにするため髪をショートに切ります。
当時マッシュルームカットが流行っていたのは、覚えている人も多いはず。
いよいよ撮影に入り、湖水で競技用ボートを漕ぐことに。クルーが上手にオールを扱えないさまは、映画の中のボート部員さながら。どうにもボートは思った方向へ進んではくれません。「ほとんど映画どおり……」という字幕。
「うーん、やがてこの子たちがあの映画の中のように、この競技用ボートを上手に漕げるようになるのか」本編を見たあとにこういった映像を見ると、そんな感慨を覚えます。
本編のおまけとしてついている映像ですが、この「撮影日誌」は、もう一本の映画を見るような楽しさが味わえるものでした。
さて、この映画のスタッフが、ふだんどんな仕事をしていのるかは、リンク先のそれぞれの名前をクリックすると分かります。
どうやら、みなさんこういった映画ばかりを作れるわけではなくて、それぞれに苦労しながら映画の仕事をされているようです。
Amazonアソシエイトプログラムというのがあるんです。Amazonで扱っている商品を、自分のホームページでうまいこと紹介して、そのページに訪れた人がリンクをたどってAmazonでうまいことショッピングしてくれたら、Amazonがそのホームページ管理者に紹介料を払う、というものなんです。
そのしくみは前から知っていたんですが、MovableTypeのblogでそれをやっていいのかわからなかったので躊躇していたんです。でも、もりみつさんが、
というやりとりがあるよ、って教えてくれたんで、まあ、紹介料をもらうといってもそんなに儲かるものでもないのでやってみようかと。
で、さっそく、PoorBook G3'99こと、しださんが、富田さんの著作「本の未来」にリンクをはってくれました。興味があるようでしたら、そのリンクをたどってショッピングしてみてください。入ってきた紹介料は、このページや青空文庫本体の運営資金にしたいと思ってます。
それから、このaozora blogに寄せられるコメントのことなんですが、どうしても埋もれた感じになってしまうので、左サイドに「最近のコメント」というコーナーを設けました。
国民文化祭がらみの話題をひとつ。
おととい、山形市立図書館で「懐かしきガリ版とその魅力」というテーマの市民講座がありました。受講者は図書館関係者ふくめ10名ほど。わたしはガリ版経験のない世代でしたので、たいへん新鮮で魅力的に感じました。かろうじて小学生のころ、学校の先生がガリ版をやってるのをちょっとだけ見た記憶があります。その当時すでに各学校へ複写機が導入されていたはずですから……。きっと意図してのことだったのだろうと思います。
講師の後藤さんによれば、ガリ版の特徴は、持ち運びしやすい・作業が自己完結的・シンプルな材料、そして、電気がいらないこと。
ノスタルジー、じゃないですね。
わたしにとってガリ版は懐かしがるものじゃあないです。
後藤さんの把握するところ、現在、ガリ版の利用者は全国で五〇〇名ほど。身近なところでは「サザエさん」などのTVシナリオとしていまなお現役とのことです。ただし日本では材料の製造が途絶えています。そのいっぽうで海外ではラオスやタンザニアで着目されているそうです。
講座の終了後、じつは国文祭会場のひとつで e-インクの展示をたまたま見ることができました。新旧相対立するメディア。ところがこれがガリ版と好対照な印象をうけたのです。そこで今回のレポートの筋立てとして、ガリ版と e-インクを対比しようとしたのですが……。実際に書いてはみたのですが、どうも e-インクのほうが歩が悪い内容にしかならなかったので、バッサリ削除してしまいました。
ガリ版についてはこちらもどうぞ:本の未来 富田倫生
野口さん、ようやく地域情報書けました。
それと、Amazonアソシエイト・プログラムやってみました。
(これより興奮のライブモード)
織田哲郎、やっぱ、あんたはいつでも完璧だぁ。
感動したよ。織田哲郎・斎藤さん・竹善さん・古村さん・橋本さん、そして松本英子ちゃん、みんな、ホンモノだよ。わたしたちも楽しませてもらったのはもちろんだけれど、山形のライブを楽しんでくれてるのがわかって、すごくうれしかった。
伝説の山形10.5! どうもありがとう!
私は一年前から、ある電子本サイトに参加しています。
(ちょっと今回は丁寧な言葉遣いです)
"Aufliteratur von Zeze"というサイトで、1月・4月・7月・10月の季刊で雑誌みたくいくつかの作品をまとめて電子本に仕立てて、ネット上で公開しているというもの。
今回も10月1日に vol.06 を発行したばかりです。
今までこのサイトでは、各作家のオリジナル作品ばかり電子本にしてきたのですが、今回は青空ルリユールに手を出してみました。
寺田寅彦の随筆を4本選んでルリユールしたり、芥川龍之介の小説もやったりしましたが、特に自信を持ってお届けできるのが、太宰治「女生徒」の電子本。
この作品は、ある少女の日常を少女自身の言葉を通して描くというもので、昔から評判の高い作品ですが、これは今こそ読める、という作品でもあるような気がします。今の若い人には、かえって抵抗がないのかもしれません。
表紙絵も力が入っておりますので、ぜひ「女生徒」をご覧下さい。
また、今回は他にもフランツ・カフカの短編「処刑の話」も収録しています。これはある旅人がある流刑地を訪れ、そこである囚人の処刑に立ち会うことになるという話です。今人気のライトノベル「キノの旅 the Bautiful World」に通じるもののある内容で、ライトノベル好きの方にも、また文学好きの方にも楽しんでいただける作品ではないかと思います。
他にも、SFやファンタジー、純文学、詩など様々な作品を用意しております。
まだまだ模索の日々が続いていますが、電子本文化の発展・向上のために、これからも頑張っていきたいと思います。
おとずれた沖永良部の九月は東京のつめたかった八月をとりもどすのにじゅうぶんすぎるほどの暑さ。内部に水路を抱く隆起珊瑚礁の島には真昼の強い太陽があり、海があり、黒糖焼酎があり、踊りと三線があり、自生する可憐な花があり、ちいさなグァバの実がそこここで風に揺れているのでした。おまけに台風も来てくれて。古い墓石は島の珊瑚でできていて、古いほど美しく風化しています。死んだひとにお墓にちゃんと入ってもらうためには骨を洗います。奄美大島から来ていたひとはつい最近父親の17回忌に洗骨をしたといいます。土からとりだした頭蓋骨をきれいに洗うと、目の上のあたりには生きていたころのおもかげがあるのだそうです。洗骨をするためにはまず土葬するのですが、最近は死んで土葬にされるのも、死んだひとを土葬にするのも、あまり望まれていないらしい。敬老会ではムラの70歳以上のひとたちが公民館に招待され、ごちそうを食べながら、若者の歌や踊りでたっぷりと祝福されていました。この日のために遠くから島に帰ってきたひともたくさんいたのです。
さて、今月の水牛です。
まずはトップページのイラストがすばらしいので、blogのみなさん、ぜひ見てくださいね。
「水牛のように」を2003年9月号に更新しました。
こうして並んでいる原稿を見ると、みんな移動しているひとたちなのだとあらためて思います。
初登場の地田尚さんは青空文庫の工作員のひとりです。掲示板というしくみにいまだに慣れることができない私は、毎日のように端正な文体で書き込んでいる地田さんにとても興味を持ちました。すぐに過去ログとなって埋もれてしまうのがもったいないとも思いました。ご本人にはやはりちゃんと下心があったのですね。
「水牛通信電子化計画」は1984年1月号を公開しました。
水牛楽団愛唱歌詩集といったおもむきの一号です。雑誌をひらくと、右のページに詩があり、左のページは柳生弦一郎さんのイラストがある、という編集になっています。イラストは顔一面にホネの模様があるひとや、全身がホネ模様におおわれたねこや、何ともいえないヘンなどうぶつのようなものや。これらもやがてはお見せしたいものです。詩は水牛楽団がレパートリーにしていたもののごく一部なので、つい歌いながら校正しました。長谷川四郎さん訳のロルカの詩に林光さんが作曲した「新しい歌」、パラオのアルフォンソ・ケベコールさんが日本語で書いた「戦さのはげしかったころ」、ハワイの「フジムラストア」、そして「パレスチナの子どもの神さまへのてがみ」など、なつかしく初演のころを思い出します。
「水牛の本棚」は今月も更新なし、です。
そのかわり、というわけでもないのですが、お知らせをふたつ。
●「水牛のように」でおなじみの冨岡三智さんがジャワで作ったソロ作品「妙寂」を踊ります。11月19日、大阪市浪速区のArt Theater dBで。ちらしによると18時と20時の2回公演のようです。問い合わせはDANCE BOX 06-6646-1120、dancebox@rock.sannet.ne.jp。
●電子出版のイデオローグにしてボイジャーの社長萩野正昭さんのサイト「股旅ノート」がオープンします。今までなかったのが不思議なほどですが、萩野さんのこの10年間の軌跡と思想がぞんぶんに展開されていく予感。インターネットや本、それから映画に関心があるひとは必読です。公開まで少し時間差があるかもしれませんが、読みにいってください。
それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)