コンピュータと本 ——漢字時代のコンピュータ——
先日、「本とコンピュータ」2003年秋号(第二期9号)が手元に届いた。aozora blogのことも掲載されている。といっても、書いてある内容は、現時点でこのページを読んでいる人には先刻承知のことなので、ここでは省略させていただく。この号で興味深かったのは、コンピュータ寄りの2つの記事だ。1つ目は「日本語入力システムで、書きことばは変わったか?」、2つ目は「CD-ROM版『シェイクスピア大全』を使いこなす」。以下、1つ目の「日本語入力システム——」を読みつつ、つらつら考えたことを、つらつら書いてみる。
よく言われることだが、コンピュータで書いた文章には、漢字が多いという。漢字で書けるものは、とりあえず変換候補の筆頭に漢字が来てしまうので、日頃、普通の書籍や雑誌や新聞では漢字で書かれているのを見かけないような単語まで、律儀に漢字になっていると言われる。論文などでは、実際、その傾向が強いという証言もあるらしい。それに対して、「いや、コンピュータだから漢字が多いわけではない。チャットや携帯(電話のメール)の文章は、圧倒的にひらがなが多い」との反証が出されている。
著者の二木麻里さんは、そこから「インフォーマルな文章とフォーマルな文章とで使い分けられている」という結論に達したらしく、「仮名と真名の区別が、デジタル時代にも生き残っていたとは」と大げさに驚いてみせる。しかし、実態はおそらく、そんな社会学的なことではないだろうと、私は思う。
チャットというものは、基本的に「とっさのひとこと」である。携帯電話でのメールも、たぶん同じだ。漢字変換なんぞをして、ぐずぐずしているヒマはない。必然的に、変換キーなど押さずに送信することも多いだろう。私はチャットもケータイメールも経験がないので何とも言えないが、普通の文章を書いていても、急いでいるときには、変換するのがわずらわしいと感じることがある。ましてや、携帯電話のように、ひらがな1文字出すのに最大5回もキーを打たなければならないような入力デバイスでは、打つキーの数をさらに増やしたいとは思わないのではないか。誤変換を訂正しようとすると、さらに面倒な操作が必要になる。誤変換された文章よりは、変換なんかしないほうが、意味がわかりやすいことだって多い。意識的か無意識的かは定かでないが、たぶん、このあたりが真相なのではないか。
誤変換といえば、「長い文をいちどきに変換するほうが、誤変換が少ない」という話も載っている。日本語入力システムを開発している側のあらまほしき変換方法は、「最後に句読点をつけるところまで入力してから変換してほしいです」とのこと。けれども、たとえ誤変換を誘発するおそれが強かろうと、たいていの人は、単文節変換をしているらしい。それはそうだろうと思う。ひとつの文を丸ごと入力して変換し、得られた結果というのは、すでに自分が書いた文ではなくなって、極端に言えば、日本語入力システムの開発者が書いた文なのではないか。ちなみに「さいごにくとうてんをつけるところまでにゅうりょくしてからへんかんしてほしいです」という文を一気に入力して変換すると、いま私が使っているATOK12によれば「最後に句読点を付けるところまで入力してから変換して欲しいです」となる。たしかに誤変換は全くないが、「つける」と「ほしい」をひらくのが二木さんの文体なのだとすれば、これは二木さんの書いた文ではない。使うツールが筆だろうと鉛筆だろうとパソコンだろうと、誰かの文体というものは、やはり単文節単位で成立するものなのだと思う。それを入力ツール任せにしてしまうと、定型文書は書けても、個性が求められるたぐいの文章は書けない。「確定するまでは再変換できる」という、開発サイドの反論はあるだろうけれど、変換途中の長い文を文節に区切り、文節を移動しながら再変換する作業は、嫌になるほど手間暇かかる。うっかりすると途中で変な具合に確定されてしまい、さらに手間がかかる結果になったりする。これも意識的か無意識かは定かでないが、そういった感覚は、多くの人が、自然と身につけているようだ。
さらにうがった見方をすれば、多くの人が使っている「ローマ字入力」にも一因があるかもしれない。ローマ字入力という入力方法は、「打ったそのままが画面に表示される」わけではない。画面にひらがなが表示される前に、いったんローマ字からひらがなに変換されるのである。入力する人間の誤入力がストレートに最終結果に反映されるのでなく、まずはひらがなに誤変換され、さらに漢字に誤変換される。この「二回の変換」が、長い文を一気に入力することに対して、おっくうさを増幅しているのではないか。開発サイドの感覚は、おそらく、ひらがなになってからの変換を想定していて、そこにズレが生じているのではないかという気がする。もしそうだすれば、「長い文を一気に」は、カナ入力の人に対しては、少しは普及しやすいのかもしれない。
ちなみに私自身は、長年もっぱらカナ入力+単文節変換(たまに連文節変換)で文章を書いている。「ひらがな→ローマ字→ひらがな」の二度手間がめんどくさく、しかも「ひらがな→ローマ字」の部分は人間が変換しなければならないのが理不尽に思えるのと、画面を見ながらモノを書くことがほとんどの人間にとっては、ローマ字入力で変換途中の文字列が気持ち悪くて見るに耐えないのが、カナ入力を採用している理由である。単文節変換を採用しているのは、上に書いたとおり、「単文節単位で漢字/ひらがな/カタカナを選びたいから」というのが最大の理由だと思う。開発サイドが変換精度を上げるために日々努力しているのはよく分かるのだけれど、実際に使う側にとってみれば、Windows95登場の頃のATOK9も、最新のATOK16も、実は使い勝手に大差ないのではないかという気もしてくる。
以上に述べたような事情は、とりあえず、現時点での話だ。思うに、これから先「コンピュータと日本語」は、おそらくもういちど、目立たないかもしれないけれど、けっこう大きな変化をとげる可能性をはらんでいるのではないか。
いまパソコンを使っている利用者の多くは、ダイヤルアップでインターネットにつながった経験を持つ人々である。3年くらい前までは、ごく一部を除いて、通信環境の基準はダイヤルアップというのが常識だった。メールを例にとれば、圧倒的多数の人々が、電話代を気にしながら接続し、メールをダウンロードして切断し、ローカルで新規メールや返信を書き、ふたたび接続して、まとめて送信する。テレホーダイ愛用者は夜中の11時になってからの限られた時間帯でメールの送受信をする。要するに、「メールを書くこと」と「メールを送信する」ことの間にはタイムラグがあるのが、大多数のネットユーザに共通のリテラシーだった。
言い方を変えれば、ダイヤルアップの時代、多くの人にとって、書いたメールは、いったん送信箱に入れるものであり、再接続して送信するまでは、取り出して書き直すことができるものだったのである。その後、常時接続に変わって、書いた端から送信ボタンを押すようになっても、メールはローカルで書くもの、という経験自体は消えないだろう。しかし、ここ2年くらいの間に初めてパソコンというものを買い、初めての接続環境がADSLや光ファイバーという初心者が、確実に増えてきているだろうと思われる。そういう人々にとって、メールは書いた端から送るものだろうし、「あとで送信」メニューなんて、何に使うのかわからないかもしれない。これは、とりもなおさず、「送信箱」に入れたあと、気が変わって送信をキャンセルしたり、読み返して推敲したり、という行為そのものを知らないネット利用者が、じわじわ増殖しつつあるということだ。
紙の手紙は、本体を書いた後で、封筒に入れ、宛名を書き、切手を貼り、ポストまで持っていって投函するという手順が必要である。封筒に入れる前に、念を入れて読み返す。封筒に入れて切手を貼り、ひとまず確定する。それでもポストに入れるまでは取り消し可能だ。ダイヤルアップ時代のメールも、それに似た手順を踏んでいた。ここまでは、電子メールも、その名のとおり「メール」すなわち「手紙」の名残が濃いように思う。しかし、常時接続時代のメールには、送信に至るまでの物理的制約がなく、感覚的にはチャットに近い。携帯電話のメールは、電話本来の姿にたちもどったのか、相手に即答を求める「電話での会話」の代替品になってきた。私が電子メールというものに出会ったときに感じた、手紙のタイムラグもなく、電話の「共時性の強制」もなく、好きなときに書いて、相手も好きなときに読み、好きなときに返信する、という、ちょうどいい心地よさが、次第に失われてきた。それにつれて、電子メールの持つ、ある意味での「ゆとり」や「あそび」も、失われつつあるような気がしてならない。
そういった変化がじわじわと進行している常時接続と携帯電話の時代、コンピュータの、というよりはデジタル世界の日本語は、多くの人が読み書きする電子メールを通じて、かつて経験したことのない、予測のつかない事態に直面するのではないか。そして、それ以前の「デジタル世界の日本語」との間で大きな断絶が生じ、ひょっとするとディスコミュニケーションに陥る可能性すらあるのではないか。「本とコンピュータ」という範疇で言えば、書くことに端を発したそういった変化は、読むものとしての「本」にも、影響を与えずにはおかないだろう。
英小文字の代わりにアスキーコードのすきまに埋め込まれた半角カタカナが、コンピュータの扱う唯一の日本語だった時代から、約20年が過ぎ、デジタルの世界でも「日本語が当たり前」になってきた。日本語が、コンピュータを強力なツールとして使いこなすか、見切りをつけて決別するか、道具に振り回されて迷走するか、正念場はこれからだと思うのである。
★この文章を書いた人→LUNA CAT★こんな時間に→2003年09月14日 19:47
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