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序言
門田:鏡花特集の最後を飾るのは『縷紅新草』『遺稿』です。『縷紅新草』は生前最後に発表された作品で、『遺稿』はその後に見つかった原稿です。『縷紅新草』には鏡花の定型とも言える型がたくさん見受けられます。晩年の作ということで、円熟したその「定型」の魅力を中心に対談をすすめたいと思います。また、『遺稿』には、ルビが一切振られておりません(通常は総ルビ)。ルビの有無で作品から受ける印象が変わってくるのか、という点も話に取りあげたいと思います。では、第7回の始まりです。
鏡花記念館へのリンク:
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ikkinen/index.html
ちへんせんの鏡花記念館の紹介へのリンク:
http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/CHIHEI/BUNGAKUKAN/IZUMI.html
門田:『縷紅新草』は典型的な「墓参り」小説と言えるでしょう。青空文庫収録作品では『縁結び』がその一例です。第1回で取りあげている「回想」も多様されています。「回想」という手法は、多視点からの状況の描写であり、多面的に捉えてゆくことで、真実の姿が見えてくるという面白みがあります。また、夏のお堀端で身投げというモチーフも『女客』に見えるものですね。一方、『遺稿』では、妖しい灯籠の存在を取りあげています。第5回で取りあげた「おばけ」の出し方も円熟味が感じられます。ただ『遺稿』はこれで完結しているとは思えないので、評価が難しいでしょう。
高柳:そうですね、『遺稿』に関しては、評価が難しいですね。それをちょっと横においておいて、鏡花がなぜ「墓参り」をよく使うのか、やはり金沢という真宗王国で生れ育ったということと無縁ではありませんよね。「墓参り」って、墓の下の人に会いにいくことなのですが、同時に自分の過去に会いにいくことでもあるのですね。
門田:小説の舞台として考えた場合、「墓参り」というのは鏡花にとって描きやすいシチュエーションだったのではないでしょうか。高柳さんのご指摘の通り、過去の自分へと話をもっていきやすいですから。『縷紅新草』でも『縁結び』でもそうですが、この「墓参り」が自分の両親などではなく、主人公にとって縁の深い他者の墓であるのも、注目しておいてよい点かもしれません。
『縷紅新草』に登場するモチーフは、他に「夏の夜の身投げ」(未遂ですけど)が『女客』、挿入されている唄が印象的な働きをする点が『草迷宮』、「お化け」というか亡くなった人からのメッセージというところは『縁結び』『眉かくしの霊』、最後に驚かせてくれるのは『怨霊借用』『半島一奇抄』『古狢』など、と鏡花お得意のものばかりですね。これを一々話しているときりがありませんが、多彩なモチーフがうまく配置され、互いにけんかしあっていないのは、鏡花晩年の「化粧」の技量なのでしょうね。
一つ、気になるのは「蜻蛉」という存在です。その象徴するものは、作中の初路さんへの謂われな批難でわかりますが、他にも何か隠されたことがありそうに思うことです。この点はどう思われますか?
高柳:「蜻蛉」、それも「赤蜻蛉」ですよね。真っ白なハンカチに刺繍された二羽の赤蜻蛉。血の色を想像させますね。しかし不思議とですね。私は、この作品を読んだとき、他の作品と全く違い、意味を問わなかったのですよ。なんというか、そのまま読むことができた。ゆっくりと流れる風景映画でもみるように読みました。そして初めて、鏡花の世界は美しいのだなと素直に思いました。観念小説にもない、幻想小説にもない、なんというか、自然な美しさですね。芥川龍之介の『歯車』にでてくる余命短い甥が、透明な目で景色をみるような、そんなものがこの作品には、あると思うのです。誰が教えたということもなく、寿命というものを知っている赤蜻蛉が、その最後の力を振り絞って次の生へつなげようとする、それを初路さんは、真っ白なハンカチに一針、一針縫い込んでいくわけですね。その赤蜻蛉がハンカチから飛び立ったように、辻町とお米の前に現れるのですよね。
門田:この作品が鏡花にとっての到達点であったのかどうか、は議論の分かれるところでしょう。昭和期に入って、鏡花は20編ほどの小説を残しています(ちなみに、明治期は170編ほど、大正期は100編ほどの小説を残しており、大体一年に8〜10編ほどの作品を発表していることになります)。14年ほどの間に20編です。その全ては、『縷紅新草』のように、自然に受け止められる作品ではありません。青空文庫には、『半島一奇抄』『木の子説法』『古狢』『貝の穴に河童の居る事』『絵本の春』が収録されています。読んでいただければわかるかと思いますが、いろいろと試みを続けているように思います。その流れからすると、『縷紅新草』はこれまでよく使っていたモチーフを自然に見えるように沢山使ってみよう、という試みから生まれた作品にも思えます。素直に肩の力が抜けたため、と思えないのは、『縷紅新草』の前後に書かれたと思われる『遺稿』では、未完成であっても、また新しい試みが感じられるからです。未完成故に、その新しい試みが何か、を話すのは控えますが、『縷紅新草』と『遺稿』の双方に共通するモチーフは、「蜻蛉」そう「赤蜻蛉」なのです。もう少し鏡花が長生きしていたら、私達は「蜻蛉」をモチーフにした連作というか、新しい鏡花作品を読めたのかもしれません。
高柳:「赤蜻蛉」、共通モチーフですね。糸七も『遺稿』にはでてきます。私は、別々に考えていましたが、連作という方向を考えたら、仰るとおりでしょうね。片方は、北国の空で生から生へつなげようとする、もう一方は、伊豆の空で。『縷紅新草』もこれまで使っていた墓参りというアイテムで入れ子式に話は進む、昨日書きましたが、景色を描いていることに変わりはない。しかし自然なんですね。その自然に「赤蜻蛉」が溶け込んでいるのでしょうか?鏡花がなぜ赤蜻蛉に拘ったのか?郷愁でしょうか?
門田:もう想像することしか出来ませんが、もう1作あって連作が完成するのではないでしょうか。鏡花の生まれ育った北国、そして病気のため療養で過ごした逗子の近くである伊豆、の二つの土地を舞台に、「赤蜻蛉」をモチーフに2作品を書いている訳ですよね。おそらく、あともう一つは東京のどこかを舞台にしたのではないでしょうか。『縷紅新草』にたくさんの「定型」が見られるのと同様に『遺稿』にも『縷紅新草』とは違った「定型」がたくさん見られます。到達点ではないにしても、これまでの「定型」モチーフを全て折り込もうとしている姿勢が見られると思います。共通なモチーフである「赤蜻蛉」を、主人公である糸七ではない、他者の回想で浮かび上がらせるという手法は『縷紅新草』『遺稿』のどちらにも見られます。そして、『縷紅新草』では、第4回で扱った「情念」が中心になっていて、第5回で扱った「お化け」は脇役のように思います。『遺稿』では、「お化け」を中心にしているところが、少し『縷紅新草』と違います。私の勝手な妄想の中にある第3作は、東京、おそらく下町の舞台として、鏡花の得意であるモチーフ「旅」または「藝」を扱っているのですよ。「赤蜻蛉」の象徴するモチーフが郷愁ならば、最後は、糸七に「旅」の中で郷愁を思い起こさせることも出来るでしょう。「藝」ならば初心を語ることが、郷愁にもつながるでしょう。
『縷紅新草』『遺稿』ともに、高柳さんのおっしゃるように自然です。鏡花の定型を知った上で、落ち着いて、鏡花の定型を楽しむことが出来るでしょう。そういう意味では、到達点かどうかは別として。晩年の鏡花の筆の冴えというか、円熟の味を楽しむにはちょうどいいですね。
高柳:到達点ではないでしょうね。鏡花の中には、まだまだ構想が練られていたかもしれませんね。金沢。伊豆。東京。『縷紅新草』では、東京でも赤蜻蛉は飛ばしていますね。もし還るということが鏡花の頭にあったのならなぜ赤蜻蛉でなければならないのか。母の言い伝えで大切にしていた”兎”ではないのか。兎をモチーフにしてもよかったのではないのか?金沢の街には二つの川が流れています。浅野川と犀川。鏡花は、浅野川に近いところで生まれ育ちました。その浅野川では、友禅流しの風景が普段のものだったと思うのです。色鮮やかな布が、長方形の布が、ゆっくりとながれる。それを鏡太郎少年は、飽きずにみていたのでしょう。少年がふと目を上げたとき、赤蜻蛉、その向こうに市内を囲む山々。その風景に鏡花は還ろうとしたのではないのでしょうか?
鏡花の母は、12月に亡くなっています。『縷紅新草』も北国の冬の小春日和。最後にお米がいいます。「私、こひしい。おっかさん」と。こんなに明確に母を恋しいと言わせたことはなかったのではないでしょうか?未読の作品の数の方が多いので、これを言っていいのかわかりませんが。しかし私は、この一言に感動しました。長い間鏡花の中にあったものをぽろっと、それも女性の口から言わせる。そのものを言わせるということは、衣装がいらないのですね。だからもう彼には兎が必要でないのでしょうね。彼に必要なのは、母がいた風景なんですね。今までの作品は母への思慕が軸にありました。しかしそれが、軸から風景そのものに、母もその風景の中のパーツのひとつになっていったのではないかと思います。
門田:そうです。晩年だからなのかわかりませんが、鏡花はこれまでの人生でみた風景を振り返っているのでしょう。糸七が鏡花の分身であるとすると、長年暮らしてきた東京の物語があってしかるべきでしょう。あるかどうかわからないものですが、読んでみたかった、と切に思います。
鏡花は、金沢を出て東京に行き、金沢に戻ることはなかったのですよね。物語に登場する北陸は、鏡花の中の思出の姿なのですよね。『縷紅新草』の風景が美しいのは、鏡花の思出の中の風景だからではないでしょうか。観念小説の衣をかぶせて始めた鏡花の小説は、どうしても「母への思慕」というモチーフがにじみ出て来ずにはいられませんでした。その「母への思慕」の先にあるものとは、実は帰ることのなかった故郷への想いなのではないでしょうか。高柳さんのおっしゃるように、「母のいる風景」へと帰っていきたかったのでしょう。「赤蜻蛉」のモチーフは「郷愁」なのでしょうね。
話題を変えますが、『遺稿』はその成立故、ルビが振られておりません。編集者が振ったルビをチェックする鏡花がいないからでしょう。鏡花を読み慣れていると、こう読ませたいのだろう、ということは想像がつくのですが、いきなり『遺稿』を読んだ人は、どう読んでいいかわからない単語が多いのでしょうね。鏡花作品は、「鏡花全集」が旧字旧仮名総ルビで、岩波文庫、ちくま文庫などの文庫本に収録される際には、新字旧仮名または新字新仮名に変わり、そしてルビは一部省かれています。にして、ルビは相当多いのですから、鏡花特有の読ませ方が多いことがわかります。『遺稿』が未完成に感じられる一因は、ルビの欠如ではないかと思います。やはり鏡花作品では、ルビの作品の一部であり、特に音律に重要な役割を果たしているように思うのです。
高柳:小林秀雄が『鏡花の死其他』の中で、面白いことを言っています。
「鏡花の世界は、音を省いた詩の世界であつて、言つてみれば、現實の素材といふ樣なものがない」
鏡花の世界には音が省いてあり、現實の素材というものがないからと。しかし詩の世界なんですね。言葉の音律の世界なんですね。ルビの効用でしょうね。
門田:そうですね。第6回で高柳さんが紹介してくださった『文章の音律』にもあるように、耳で聞いた時のことを想定していたということですね。耳で聞くことを意識していることは、芝居向きであることとも関係があるのでしょう。詩の世界でありながら、聞いてわかる語り口、どうやらその辺に鏡花作品の魅力があるのですね。確かに私が鏡花の作品を好きなのもこの音律が気にいっているからですから。
さて、話は尽きませんが、対談はひとまずこの辺でおしまいにしたいと思います。1週間渡って続けて来ました対談ですが、これで最終回となります。最後に、鏡花および鏡花作品について、一言ずつコメントを残しておしまいとしましょう。
高柳:この1週間ありがとうございました。今でも門田さんの対談相手として、私でよかったのかな?と思います。もっと多くの作品を読んでいらっしゃる方の方がよかったのでは?とも思います。黒子に徹していたほうが性にあっていたかもしれませんね。で、鏡花作品については、今度『縷紅新草』から年代を遡って読んでみたいですね。そしたらまた違った鏡花が見えてくるような気がします。
鏡花という人は、恐らく不世出でしょうね。
門田:著作権が切れた作家はたくさんいます。その中で今でも読み継がれている作家はそれほど多くはないでしょう。鏡花はその一人だと思います。教科書の文学史にも名前も代表作ものっているのだから当たり前かもしれなけれど、名前は聞いたことがある人が多いはずです。でも、300編を越える小説・戯曲のうち、手軽に読める作品はそれほど多くはないのが実情です。鏡花の作品を出来るだけ多く、未来の孫子の代に手軽に読めるようにしておきたいと思って、青空文庫で作業をしています。中島敦が『鏡花氏の文章』で言うように「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなもの」なのですから。
鏡花の作品を読み、青空文庫の作業で入力、校正をしているうちに、思うことはたくさんありました。でも、それを言葉にするのはなかなかに難しいことでした。高柳さんの視点からのお話、そして質問がなければ、うまく言葉にすることは出来なかったでしょう。いろいろなお話が出来て楽しかったです。ありがとうございました、高柳さん。
最後になりましたが、一週間に渡り対談を発表する場を提供してくださいました野口さん、そして、校正してくださった今井忠夫さん、鈴木厚司さん、カエさん、多羅尾伴内さんに最大級の感謝を。皆様の御協力なしには、この特集も対談も成り立たなかったことでしょう。ありがとうございました。
★この文章を書いた人→門田裕志★こんな時間に→2003年09月13日 11:07