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序言
門田:鏡花特集、本日は『伯爵の釵』『怨霊借用』、そして『化鳥』(新字新仮名です。新字旧仮名も公開中です。この後のリンクは新字新仮名へとつなぎます)が公開です。『伯爵の釵』『怨霊借用』は大正期に発表されたちょっと恐い話です。『化鳥』は明治期の作品で、奥の深いところでは、ぞっとさせられる作品であると思います。ということで、鏡花作品に顕著なおばけの話をテーマに対談をすすめたいと思います。第5回の始まりです。
鏡花記念館へのリンク:
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ikkinen/index.html
ちへんせんの鏡花記念館の紹介へのリンク:
http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/CHIHEI/BUNGAKUKAN/IZUMI.html
門田:鏡花の作品には妖怪や妖しの者が沢山出てくる印象がありますが、実はそのような雰囲気は多いのですが、明確に怪談と呼べるものは少ないのではないかと思います。その中でも『伯爵の釵』『怨霊借用』はおばけや妖しの者がはっきりと出てくるので、鏡花の怖がらせ方を解きほぐすにはちょうどよいテキストではないでしょうか。『伯爵の釵』では、妖しの者は神様のようですが、なかなか正体をあらわさないもどかしさは、フラッシュバック、カットバックの手法でテンポ良く進められることで緊張を保ったまま読み進められます。一方『怨霊借用』では、正に怪談的な怖がらせ方の典型が展開しています。
高柳:『怨霊借用』では、鏡花はちゃっかりお桂さんに『山吹』(青空文庫作業中)を読ませているんですね。ところで、これは以前からお尋ねしたいと思っていたのですが、門田さんのご専門であります、細胞学、遺伝学ですか?からみた鏡花の「おばけ」ってどんなものなのでしょうね(笑)
門田:専門は分子遺伝学なのですけど、存在が確定しないものは科学では扱えないのですが。
少し理屈っぽく分類してみると、鏡花作品には言うほど「お化け」は出てきていません。ここでいう「お化け」とは科学で扱えないものです。『草迷宮』の「まばたきの間の世界のもの」や『紅玉』の「烏」などですね。他は『夜叉ヶ池』の「白雪」、『竜潭譚』の「九ツ谺」などですね。これらは、全て地霊であり、土地に付随する異世界のものたちです。『伯爵の釵』に登場するのはこちらの例です。
鏡花作品で恐いのは、むしろ異世界の眷属ではなく、人のこころが生み出した怨念などの方でしょう。こちらも私の専門では扱えないのですけど。存在そのものではなく、典型的な怪談の手法により鏡花の作品では「怖がらせる」ことに成功しています。何回も登場している違和感をうまいこと、恐さにすり替えているのでしょう。『怨霊借用』はその典型です。
高柳:そうですか、門田さんの分野ではなかったですか。では、柳田国男や折口信夫に「おばけって何ですか」尋ねれば、これまた別の角度からそれぞれ異なった面白い答えが返ってきそうですね。(笑)二人と鏡花とのつながりは深いですから。特に柳田は、元々文学を志した人ですから、文学にも造詣が深かった。田山花袋と仲がよかったのですが、花袋が『蒲団』を書いてしっくりいかなくなるのです
ね。なぜか、花袋が、「作り話の面白さ」から離れていき、現実を追求しだしたかららしいです。鏡花の世界は、その柳田の言う「作り話の面白さ」なんですね。門田さんから薦めて頂いた鏡花の英訳本"JAPANESE GOTHIC TALES Izumi Kyoka" (Translated by Charles Shiro Inoue) のIntroduction の冒頭でThe comparison can be misleading—と断った上、アメリカの文学者がエドガー・アラン・ポーを研究するようにして、泉鏡花を日本文学では位置付けると書いています。ただし根底に大きな違いがあると指摘もしています。しかし"Gothic"という接点がある。というのですね。
門田:"Gothic"という点では、怪奇小説と見られるのも仕方がないと。確かに鏡花の日本語の美しさ(これは第6回で話します)を省いたら、怪奇小説、伝奇小説の側面が浮き出てくるのでしょうね。英語に直した故に、見えてくる点ですね(気付かないのは私だけ?)。
怪奇小説という意味では、「お化け」を使った驚かせ方を考えるのに、本日公開の『伯爵の釵』『怨霊借用』は面白い例だと思います。『化鳥』は怪奇小説とも伝奇小説とも言えないのですが、そこはかとなく恐い小説だと思います。
『伯爵の釵』は、その内容があくまで幻想的なイメージを壊さずに進みます。水上滝太郎氏は、この作品を「鏡花そのものの目に映じた幻影」であると言っています。しかし、「お化け」という意味では、その存在が随所に明確に現れております。神様なのかもしれませんが。その一方、『怨霊借用』は現実的な進行の中で、明らかに作り物である鬼などの「お化け」が現れますが、本当に作り物?という不安をあおり、実は、という形式で驚かせています。怪談としては、『怨霊借用』の方が優秀なのでしょうね。描写と幻想の点では、『伯爵の釵』が上でしょうけど。
高柳:『伯爵の釵』は、「お化け」−「人間の形」、実体は「・・・・」というパターンですよね。イメージ的に折口が飛びつきそうな話でしょうか? 『怨霊借用』は、「お化け」−「異様な形」、実体は、「・・・・」というパターンですよね。イメージ的に柳田が飛びついてくれそうな話でしょうか?(笑)両方とも『草迷宮』、『高野聖』にでてくる異界の住人とは違いますよね。『眉かくしの霊』とも違う。道理のあるものとないものと区別でき、その下に細分化していくとツリー状の図式ができるのかもしれませんね。
門田:長編ではともかく単発の短編では、理《ことわり》とでもいうべき異界の住人の存在を描く間がないのでしょうね。実は、恐さの原因、理《ことわり》だけを描いているのが『化鳥』なのではないでしょうか。判断は読者にまかせる、と。それをうまく覆い隠しているのが、口語体の文章であり、少年の一人称なのではないでしょうか。
道理のありなしという点では、『伯爵の釵』『草迷宮』は道理なし、『怨霊借用』『高野聖』は道理あり、だと思っています。道理ありの方は、どうしても日本の風土故か、因縁話になってしまうのですよね。『眉かくしの霊』は道理がありそうなのですけど、よくよく考えてみると、不条理なのですよね、あそこで登場するのは。
あとは好みの問題かもしれませんが、私は道理なしの怪奇譚の方が好きです。道理=因縁で、しがらみのない恐い話の方が、美しく感じるのです。
高柳:『化鳥』は、「母への思慕」を軸に、「人間とは何か」という根本的問い、その彼らだけの秘密の答えだけが、アニマへ通じるのですね。そのためには、少年は、死と再生を潜り抜けなければならないのですね。その怖さですよね。
門田:『化鳥』は、鏡花初の口語体小説なのですが、明日公開の雑記の中で鏡花自身が言っているように、油絵のようなぼんやりした情景が描かれています。その実、形式は従来の観念小説の形をとっているのです。小学校の先生などの普通の大人とのやりとりを見ればわかるでしょう。そして、死と再生をくぐり抜けてしまったお母さんの恐さは、その独白によく現れています。実は、入力していてちょっと恐くなったところなのです。
口語体にした利点は、観念小説独特の書き割りのような舞台(よい意味ではっきりしている)が、油絵のようなぼんやりしたものになって、「母への思慕」という鏡花特有のモチーフが浮かび上がってくるところです。「翼の生えた美しい姉さん」というイメージは、文語体では描写が難しいでしょう。それにしても、鏡花は謎を謎のままにしておくことが好きですね。何度読んでも「翼の生えた美しい姉さん」がなんだったのか、私にはわかりません。幾つか想像することは出来ますが。
高柳:そうですね。くぐりぬけようとするものと潜り抜けてしまったものと。少年が流されていくときに、ちらっと母の姿が見えるでしょう。あの瞬間が、この話で一番怖いと思うのです。ひょっとしたら傘が川へ流れていくことが、何かの合図で、母は、猿が少年を川へ落とす羽目になるということを知っていたのではないのか。流されていく少年を、その五感で知っていたのではないのか。そうやって一端死ぬのだと。ただ、そこでひょっとしたら還ってこれないかもしれないのですよね、再生できるという保障はない。そこで母も試され、子も試される。何に?
「翼の生えた美しい姉さん」は、少年は、羽根がないからと否定します。しかし母の化身かとも思えるのですが・・・それが母の試練なのではと思いました。それとも母の再生も助けた永久の物でしょうか?そうすると 連日マンガに話が行ってしまうのですが、今度は、手塚治虫の世界になっていきますね。(笑)真面目な話、これを読んでいて、『火の鳥』がちらっと頭を掠めました。
門田:どうも私には「死と再生」のイメージをあてはめなくても解釈できるように思います。またもやマンガの話で恐縮ですが『ボーダー』(狩撫麻礼原作、たなか亜希夫画)というマンガに出てくる主人公のいつものセリフに「あっちの世界」と「こっちの世界」という、意味としては「世間に迎合して生きるかそうでないか」という意味合いの言葉があるのです。母は、「死ぬ思い」をして世間の欺瞞を許すことのない世界に身を置いています。そして、子供をその世界観である、悪い意味で世界をまっすぐに見ることを教えています。川で溺れることなくとも、少年はその世界に身を置いているのです。少年の一般の大人に対する態度は、『ボーダー』の主人公の語る「あっちの世界」の描写に似ていると思います。
とすると、川で溺れることは何を意味するのか。私には、それは「死と再生」ではなく、「翼の生えた美しい姉さん」という「こっちの世界」での救いというか、極限への扉を開ける役割を果たしていると思うのです。「死と再生」のモチーフで解釈するのならば、少年は川から助かったところでそのイニシエーションをくぐり抜け悟ってしまってもよいのですが、少年は「翼の生えた美しい姉さん」の幻影を求め続けます。そういう意味では「翼の生えた美しい姉さん」が「死と再生」のモチーフであり、川で溺れることはその一段階に過ぎないように思えるのです。
少年は母のような恨みに縛られた世界から、さらに向こうにいってしまっているように思えるのです。
高柳:「世間に迎合して生きるかそうでないか。」そうですね、それを母は子に説きます。そのズレに子どもは気づき、母の方を信じるわけです。「子供をその世界観である、悪い意味で世界をまっすぐに見ることを教えています。」の「悪い意味」とは?
門田:「世間一般の常識」にまっすぐな視線でその欺瞞を暴いてしまう少年の指摘は、『裸の王様』のようなものでしょう。しかし、その根底にある世界観は、母の語るものです。すべてを平等に、まっすぐに見ているような少年の視線の奥底にあるものは、孤独です。母が選んだ、「世間に迎合しない生き方」とは一人の殼に閉じこもることです。「悪い意味」と言ったのは、「世間に迎合して生きるかどうか」とは別に、他者の存在を受けいれることを拒絶したからこそ、得られる「まっすぐな視線」ではないかと思うからです。そうでなければ、少年は苦悩しないでしょう。世間とのズレは母の存在が打ち消してくれます。それでも少年は満ち足りないのであり、「翼の生えた美しい姉さん」を求めるのでしょう。まあ、最後は「母」の存在に満足し、悟ってしまっているのかもしれませんが。
高柳:『化鳥』の話をすると一晩でも語り明かせそうなのです。(笑)
他者の存在を受けいれることを拒絶したからこそ、得られる「まっすぐな視線」それは、あくまで母の視線です。それを少年は良く知っています。だから「お母様は、嘘をおっしゃらない」と何度もいいます。あたかも自分に言い聞かせるように。そういわないと獲得できないものがあります。それが孤独というふうに言い換えることができるのもかもしれませんね。そこまでは、門田さんと同じ読み方です。
—「翼の生えた美しい姉さん」という「こっちの世界」での救いというか、極限への扉を開ける役割を果たしていると思うのです。—
極限への扉というのは、何に向って開かれるのでしょうか?
門田:母のいる世界が閉塞したものであることは、少年も薄々気付いているのではないでしょうか。だからこそ、この世界の理というか正しさの証のようなものを求めているように私には受け取れます。この例えが正しいかどうかわかりませんが、「こっちの世界」での救い、そして極限への扉とは、仏教でいう「悟り」のようなものだと思います。そうすると、『化鳥』の少年は、母の怨念(怨念ですよね)を、あたかも宗教によって救っていることになります。母の存在を「救い」と重ね合わせることによって少年は救われ、そして、少年の存在によって母もまた救われると。
ただ、この小さい世界の幸せは、幸せなのでしょうけれど、欺瞞ではない世間一般の常識から考えても、儚いものですよね。実は、この世界の幸せを認めるかどうか、がこの作品でも最も根源的に問いかけられているのではないでしょうか。そして、それは鏡花の「母への思慕」というモチーフを肯定するかどうか、にも関わってくると思います。
高柳:孤独になっていくということは、一つの証明をしていくことでもありますよね。生き物は平等であるということを教えた母親の言葉を証明するために、「お母様は嘘をおっしゃらない」という信念で、ひとつひとつ母の正しさを証明していきます。
しかし川から助けてくれた人を尋ねられて、母は困惑します。そこで少年は、困惑した母に疑問をもちながらも、正体を知ってはいけないのだと悟ります。自分には母がいるのだからと。母以上の人だと悟ったのでしょう。自分の中で母、以上の人を作ってはいけないのだと。
まずなぜ少年が、川で流されなければならないのでしょうか? 母は、息子に助けた人を尋ねられて、なぜ困惑しなければならないのでしょうか? もし宗教だとしたら、「仏様が」とか「阿弥陀様が」で片付けるをすると思うのです。またそれが当時において自然な言葉だとも思います。この作品に宗教の匂いを私は感じ取ることができません。もっと原始的なもののような気がします。
いつのまにか・・「おばけ」がどこかへ消えてしまいましたね。(笑)
門田:ああ、本当だ。まあ、こういうのもアリの対談ですからよろしいのではないでしょうか。
最後に一つだけ。宗教の原型である信仰というものを当てはめるのも難しいでしょうか。むしろ、母は宗教さえ否定しているということに起因しているように思います。
さて、話は尽きませんが、対談はひとまずこの辺でおしまいにしたいと思います。この対談に登場した鏡花の作品の多くは青空文庫で読むことが出来ます。『化鳥』は、新字旧仮名、新字新仮名の二つの文字遣いが公開されていますので、その違いもお楽しみ頂けると思います。お時間のある方は、ちょっとこれらの作品を繙いてみては如何でしょうか。
★この文章を書いた人→門田裕志★こんな時間に→2003年09月11日 12:18