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序言
門田:昨日より始まりました鏡花特集、本日は『紅玉』『錦染滝白糸』が公開です。戯曲2編ということで、戯曲作家としての鏡花の側面に焦点をあて、対談をすすめたいと思います。ということで、本日のお題は「大戯作者につき」です。では、第2回のはじまりです。
鏡花記念館へのリンク:
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ikkinen/index.html
ちへんせんの鏡花記念館の紹介へのリンク:
http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/CHIHEI/BUNGAKUKAN/IZUMI.html
門田:『紅玉』は1913(大正2)年鏡花41歳の時、『錦染滝白糸』は1916(大正5)年鏡花44歳の時の、作品です。鏡花の戯曲は、青空文庫に『夜叉ヶ池』『湯島の境内』が収録されています。戯曲の数自体はそれほど多くないのですが、場面場面のインパクトの強いものが多いことと、戯曲という形ではなくとも演劇に取り上げられることが多かったためか、鏡花の戯曲は有名です。
高柳:鏡花を「大戯作者」と言ったのは、折口信夫ですね。
『鏡花との一夕』(来年公開予定)を門田さんに読ませて頂いて、この言葉を見たときは、思わず肯いてしまいました。全くそうなんですね。小説として書いている作品でも、戯曲なんですね。『草迷宮』もそうでしたが、主語がない。主語がないから、誰のことなのか掴むのに読み手は苦労するのですね。
鏡花にすれば、小説も戯曲も同じだったのではないか? 小説などは、鏡花の頭の中で映像ができていて、それを文章にするから不都合がおきるのではないかと思うのです。その文章に関する話はゆっくり後日することにして、『紅玉』、これ、ファンタジーですね。
門田:『紅玉』は、現実とそうでない世界(うまい言葉が見つからないです)の境目が不明確なところが、ファンタジーと捉えられる一因でしょう。境目のバランスがうまいので、よく出来た作品ではないかと思います。視点がコロコロ変わる眩惑感が心地よいですね。
一方『錦染滝白糸』は、『義血侠血』の登場人物を使ったアナザーストーリーとでも言うべき作品です。内容が『義血侠血』と全く異なっているので、戸惑う方も多いかと思います。『義血侠血』は、「滝の白糸」の題名で、新派の舞台にかけられて好評であった作品で、現在でも舞台にかけられることは多いです。「滝の白糸」自身は鏡花が脚色した台本はありません。ごく一部のみ、「鏡花全集 第二十六巻」に「かきぬき」として収められた舞台脚本があるのみです。なんで、鏡花が『錦染滝白糸』を書いたのか、私にはわかりません。有名な『湯島の境内』は、『婦系図』の一場面を戯曲化したものですが、こちらは内容の齟齬はありませんが、『湯島の境内』からは『婦系図』の全貌を知ることは不可能である点で、『湯島の境内』も特殊な作品と言えるでしょう。
高柳:なぜいきなり「烏」なのか、と考えたら此話はダメなんですね。鏡花の頭の中に入っていかないと。まずそこがわかるのに、不器用な私は苦労しました。視点がコロコロ変る幻惑感に負けそうです。(笑) 一方仰ると通り鏡花あっての新派か、新派あっての鏡花か。私、幼い頃、うっすら覚えているのですが、記憶違いだったら失礼します。先代の水谷八重子さん、つまり今の水谷八重子さんのお母さんですね。テレビで、その先代が「滝の白糸」の太夫水島友をやっていらして、扇子から水がでているのですね。テレビカメラがその姿に段々近づいていくんですね。その水が描く曲線と先代の八重子さん、そのときもうかなりお年だったと思うのですが、首の皺にアンバランスを感じたのをどうしてか今でも覚えています。その水谷さん演じる太夫も、『婦系図』のお蔦さんも、好きな男に尽くすんですね。それが、鏡花の描く女性像の一つのパターンですね。
門田:『紅玉』のストーリーの展開の早さは、舞台を想像すると少し補えると思います。もともと、戯曲ですから、小説よりもテンポが早くなっていますから。
偉そうな事を言っておりますが、私は「滝の白糸」の舞台を見た事はないのです。初代 水谷八重子さん主演で映画にもなっているようですね(1946年)。『義血侠血』「滝の白糸」の水島友も、『湯島の境内』『婦系図』のお蔦さんも鏡花の作品の典型的な女性像であるのは確かですが、原作である『義血侠血』『婦系図』のメインストーリーやテーマとは少し捉え方がずれています。このへんのずれも面白いところで、特に『義血侠血』には尾崎紅葉の影響が強いですから、鏡花が本当に描きたかったことは何か、というのは面白い問いになるでしょう。「滝の白糸」は鏡花の許可を得る事なく、新派が舞台化したという話も聞きますから、新派の取りあげ方が鏡花へ及ぼした影響は大きいでしょう。だからこそ、『湯島の境内』などという長編の一場面のみを脚色した作品があるのでしょう。そう考えても、『錦染滝白糸』はどう捉えていいのか、悩む作品です。「かきぬき」には原作に忠実な脚本の一部が残っているのですから。
高柳:『湯島の境内』のように一場面のみ脚色するというのは、よほどあの場面が気に入っていたのでしょうね、一方『義血侠血』には、尾崎の影があり、「滝の白糸」は勝手に?新派が取り上げた。それへの反発が『錦染滝白糸』なのでしょうか?だから一場面とりあげるのではなく、結末を書いた、ということでしょうか?『義血侠血』「滝の白糸」は自分の中では結末ではないのだと。
門田:まず『湯島の境内』についてですが、あの場面が芝居で有名になったので、戯曲を書いたのではないでしょうか。本人が好んでいたのかどうか、私にはわかりません。しかし、『金色夜叉』の熱海の海岸の一場面とともにとても有名な場面になってしまいましたよね。
一方、『錦染滝白糸』は、尾崎の手の入っていない鏡花オリジナルの『義血侠血』とも結末が違っているようです。ただ、オリジナルの執筆時期からかなり経過して、『錦染滝白糸』も『湯島の境内』も執筆されていますから、その間に鏡花自身の捉え方が変わったのかもしれません。そういう意味で面白いのは、『日本橋』です。鏡花オリジナルの小説があり、鏡花の手になる完全版脚本があるのは『日本橋』のみなのです(小説、戯曲ともに青空文庫作業中)。
もともと鏡花の文章は戯曲の色合いが濃いのですから、「戯曲」にするという観点から鏡花の作品を考えてみるのは面白い視点かもしれませんね。
高柳:『日本橋』だけなのですか。もっと沢山ありそうな気がしていましたが。鏡花は戯曲に関しては、3パターンもっていたということですか?『紅玉』のようなファンタジーと言えるようなもの、『滝の白糸』のような新派の舞台向きなもの、そして『夜叉ヶ池』『天守物語』のような異界もの。幅が広いですね。ファンタジーを除けば、共通項目は「女性が心底男に尽くす」ということですね。いいかえれば、男は尽くして欲しいわけですから、鏡花の芯である「母への思慕」でしょうか? あえて個人的な好みを言わせてもらえば、『夜叉ヶ池』『天守物語』がいいですね。異界との交信ものこそ映像としての醍醐味がありますから。映画を見ました。それから読みました。(笑)
門田;鏡花の戯曲作品はそれほど多くありません。また、記憶が不確かですが『天守物語』は鏡花の生前には舞台にかけられなかったと思います。『日本橋』に関しては『原作者のみた日本橋』なんて短文が残っていますから、読んでみると面白いかもしれません。
共通項目である「女性が心底男に尽くす」というのは、鏡花が母に甘えたかったのでしょうね。
『夜叉ヶ池』に関しては、もとネタが『沈鐘』であるという話ですが、実は鏡花はこの『沈鐘』の翻訳もしています。長いので読むのは大変かもしれませんが。
高柳:最初、私は、鏡花にしたら、小説も戯曲も同じだったのではないか。と書きました。映像的に浮んででくると。小説は、文章に拘ってきますから、後日話すことにして、こうやって戯曲について話してみると、鏡花は、場面が、情景がパッと浮んで繰る作家だったのでしょうね。そこに文字を、言葉をのせていっていたのですね。巧く表現できませんが。場面があって、台詞をつけるとでも言ったほうがいいのでしょうか。
そういったこととは別に、役者さんが脚本を手にしたとき必ずするように、台詞、ト書きを読み込み、登場人物の心理を細かく読み解くという作業をしてみたいと思うのは、新派の舞台作品より、異界交信物ですね。ただ、これを言ってはおしまいなのでしょうが、やっぱり戯曲というのは、紙の上で読むより、観るものだと思います。脚本、演出、役者、装置との微妙なバランスの総合芸術ですね。でもなかなかこの大戯作者の作品を観る機会がないのが残念です。
門田:私も鏡花の舞台を見る機会には恵まれそうもありません。ですが、舞台になってしまうと他の人の解釈が入ってしまうので、「これは違う」とか言いそうなので、見ないでいるのもよいかな、とも思います。
さて、話は尽きませんが、対談はひとまずこの辺でおしまいにしたいと思います。この対談に登場した鏡花の作品の多くは青空文庫で読むことが出来ます。お時間のある方は、ちょっとこれらの作品を繙いてみては如何でしょうか。
★この文章を書いた人→門田裕志★こんな時間に→2003年09月08日 08:55