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序言
門田:本日は泉鏡花の命日です。追悼の意味を込めて、青空文庫で泉鏡花の作品を一週間連続で公開して欲しいとお願いしたところ世話役の方々から快諾を得ました。(ちょうど校了ファイルがたまっていましたので)。それに合わせて、公開される作品に関して、ここaozorablogに何か、書こうということにしました。自分一人ではなかなかにつらいので、高柳典子さんと対談という形式をとってみました。これから一週間、皆様、おつきあいをよろしくお願いします。第1回は『草迷宮』と取り上げました。
鏡花記念館へのリンク:
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ikkinen/index.html
ちへんせんの鏡花記念館の紹介へのリンク:
http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/CHIHEI/BUNGAKUKAN/IZUMI.html
門田:さて、今回の鏡花特集は、ちょうど校了になっていた作品、命日に合わせて公開したい作品を7日間に渡って少し意図を持って並べてみました。本日、命日に『草迷宮』を選んだのは、ずばり私のもっとも好きな鏡花作品だからです。
少し、『草迷宮』の思出を語っておきます。今から15年ほど前に、初めて読んだ鏡花作品がこの『草迷宮』でした。あまりにも複雑な話の構造故に、今一つ理解できなかった記憶があります。しかし、文章の美しさに魅了された記憶も鮮明です。
高柳:私は、門田さんの作品を校正させて頂いて始めてこの作品に触れたのですが、最初、話の構造の複雑さに数歩退いてしまいました。しかし鏡花の「母への思慕」が芯としてあり、その周りを螺旋状に物語りが進行しているのだと思いました。磁石のコイルを想像して頂ければよろしいかもしれませんね。文体に関しては、既に話をしてもいいのかどうか、先が長いので、(笑)
門田:文体に関しては、適宜いろいろなところで話をしましょう。今回は「物語の構造」について主に話をしましょう。「物語の中のうた」についても話し合えそうですね(手毬唄など)。
この作品の構造のややこしさは、鏡花お得意の「回想」を多様していることに起因しています。実は、物語の実時間では、主人公の小次郎法師が、茶店に寄って、秋谷邸に一晩滞在するだけなので、実質一日のお話なのですよね。それが、回想を多用するために、十数年からつい昨日までのいろいろな時間軸の話が錯綜することになっています。高柳さんがおっしゃるように、芯がしっかりしているから作品として成立しているのでしょうね。
高柳:小説の中で「エピソード」を語るという行為については、最初この『草迷宮』については、構造の複雑さを除けば、何処かで読んだ話に似て居ると思いました。それが何であるのか思い出せなかったのです。何気なく「泉鏡花」でネット検索をして、辿り着いたサイトにあった、富山大学の跡上先生の「『草迷宮』と『吉野葛』をあわせて論ず」を読んだときにはっとしました。谷崎潤一郎の『吉野葛』なのですね。母への思慕を軸に、吉野川を「私」と津村は遡っていくのですから。そのあいだ津村の口から静香御前が愛用したという「鼓」に纏わる話がでてきたりします。以前読んだときは、図書館だったので、今度は、『吉野葛』を買いました。(笑) ただ『吉野葛』は川を素直に遡っているので、時間もゆっくりと戻っていくのですね。ところが『草迷宮』の時間軸の錯綜ということに慣れるのに時間がかかりました。まるでSF小説のようなのですね。鏡花はなぜこの複雑な構造にしなければならなかったのか? それは鏡花の文学への姿勢に近いことでしょうから、後日話をすることにして、一体、その時間軸の中心にいるのはだれなのか?
門田:時間軸の中心にいるは誰なのか、という疑問にはいろいろな答えがあると思います。その疑問へ一つの回答を示す前に、「回想」に関してもう一言付け加えておきます。確かに鏡花作品によく使われる回想という手法は、映画におけるフラッシュバックのようなもので、ありふれたものでしょう。しかし、『草迷宮』における時間軸の錯綜は、回想という過去へのベクトルだけではありません。葉越明の未来さえも語られているのですから。
過去も未来も自由自在に動いてゆく時間軸の中心にいるものは誰なのか。この問題を「錯綜しているように見える時間軸を正しく受け止めているものは誰なのか」と問い変えてみると、その答えは少しはっきりします。私見ですが、錯綜しているように見えるのは人間の目から見ているからなのではないでしょうか。『草迷宮』の時間軸を支配しているのは、まばたきの世界にいる妖しの者たちなのではないか、と思います。
SF小説との対比は面白い着眼点ですね。実は、『草迷宮』に出てくるある設定はSF(荒巻義雄『白き日旅立てば不死』)に使われているのです。「まばたきの間の世界」という設定です。もっとも、そのSF作品では、「映画のフィルムのコマの合間にある世界」と少し現代風にアレンジされていましたが。「まばたきの間の世界」の者たちという設定は、通常の怨念とか幽霊とかとは違って、実に味わいのある妖怪を作り出していると思います。
高柳:『草迷宮』の時間軸を支配しているのは、まばたきの世界にいる妖しの者たちなのではないか、そうですね、私もそう思います。しかし、私は、この話の構造を考えるとき、最初にでてくる茶店の老婆、法師に語る老婆の存在も気になります。時間軸を支配しているのは妖しの者だとして、彼らと老婆との関係はどうなるのでしょう。”語る”という行為、なぜ語ることができるのだろうか? と考えたとき、決して無関係ではないのではないか。迷宮の外の時間を操っているのは、その老婆です。中へ誘うのも老婆だからですね。時間軸が二つあるのだと思います。お互いの時間軸の交叉する箇所は、「母」でしょうね。『草迷宮』の中にでてくる女性は、二人しかいないのですよね。(うめき声だけの新造さんは除く)
門田:確かに老婆は気になる存在ですね。螺旋構造の「迷宮」への案内役のように思います。老婆が「迷宮」の入り口にいるとすると、葉越明の幼なじみであった妖怪は「迷宮」の奥深く、深淵にいることになりますね。老婆と幼なじみだった妖怪の共通点は子を残すことがないことでもありますね。共感しあうことはありそうです。
妖しの者たちの時間については、「時間軸支配」とは違った観点で考えられることがあります。過去、そして未来をも自在に覗いている彼らにとっては時間とは流れていないようなものなのではないでしょうか。そのことの一つの傍証として、妖しの者たちの時間、世界はモノクロのように思います。外の世界では、たとえ回想であっても、手毬の七色の鮮やかさが強調されていますが、妖しの者たちの世界では、色に乏しいように思います。もっとも活躍の舞台が夜だから仕方がないのかもしれませんが。その中でも紅の色だけが妙に強調されているようにも思います。
高柳:老婆と幼馴染だった妖怪は、表裏といったほうがいいかもしれませんね。だから最後まで行き、また出発点に還る。また同じ話が始まるのですよ。旅の僧が茶店に立ち寄り・・と。老婆はまた淡々と話すのでしょう。門田さんは、色のことをおっしゃったので。鏡花といえばやはり色彩の世界。しかしそれは、生者の世界なのではないでしょうか? 『外科室』などは、看護婦の制服、伯爵夫人の着ている物が鮮やかに描写されていたように思いますが、例えば『高野聖』で聖が迷い込んだ世界は、決して色彩豊ではありませんよね。其の中で、紫陽花の紫が強調されているのではなかったでしょうか? 一点のために他を殺すという手法なのでしょうね。
門田:『草迷宮』では、七色の手毬が際立っていますね。また、夜の世界では、どうしても血の紅が目立つ趣向になっているようです。
話し込んでしまって客商売を忘れている老婆は、確かに怪しい存在です。でも、秋谷邸の妖怪ではなく、長年子産石の番をしていたがために、そこに根付く「何か」になってしまったように思います。明さんの幼なじみだった人とは共感しているようには思いますが。
小次郎法師と『高野聖』の法師を比べてみるのは面白いですね。どちらも部外者でありながら、その立場、螺旋構造の中での位置づけは、少し違いがあるように思います。如何でしょうか?
高柳:門田さんがご指摘のように、茶店の老婆ー幼馴染ー将来、明を慕うという令室。すべて既婚者であり、”子”がないですね。なぜなら明という”子”があるからですね。本当に明は大人になるのだろうか、永久に若者のままなのではないのか。「母」という幻想から抜け出ることができないのではないのだろうか。女性たちが抜け出させないのではないか。と思ったりします。でも、なぜ手毬歌がポイントなんでしょうね。ところで小次郎法師は、やがて列車の中で誰かにこの話をするのだろうかどうなのだろうかとおもったことがあります。(笑)小次郎と高野聖は、どちらも異界を経験します。位置付けって、異界の住人(?)との距離感ということですか?
門田:『高野聖』の法師は、異界に迷い込みますが、その異界を壊すことも、その深淵を覗くことも出来ません。一方、『草迷宮』の小次郎法師は、異界の深淵を覗き、その謎解きをただ聞いています。どちらも傍観者ではあるのですけど、少し違うように思います。
『高野聖』に後日談はありませんが、飛騨の異界を語った法師は、再びその異界を訪ねて、壊してしまいたいと思っているのではないか、と思ったことがあります。ですので、むしろ『草迷宮』の葉越明に重なるところが多いのではないか、と思います。葉越明こそ、偶然秋谷邸を見つけて、その崩壊のきっかけになる存在ですから。
手毬唄は、『草迷宮』の螺旋状の異界の案内役を担っていると思います。
高柳:先ほどなぜ「手毬歌」というアイテムを鏡花は使ったのだろうって書きましたが、毬をつくという行為は、地面を“いたぶる”ことだと思うのです。それは、イコール地面の下に棲むものを揺り起こす。そして語りかける。手毬歌の歌詞は美しいが、残酷です。そういう意味でも、キーポイントが手毬歌でなければならかったのかなと思います。
門田:手毬唄自身の意味はともかく、あの言葉の調子が異界へと誘う鍵になっているのではないかと思います。秋谷邸に怪異が現れてから子供たちにはやりだすわらべ歌も同様でしょう。
そして、手毬自身は、螺旋構造の核として「母への思慕」を表すキーアイテムとして機能しているのではないでしょうか。球または円のモチーフが随所に登場するという意味では『歌行燈』の月と同様の意味を持っているのではないでしょうか。
高柳:そうですね。で、螺旋構造の核として「母の思慕」ということで、門田さんとのお話も振り出しになったわけですね。それで、また時間軸の話をして・・・と(笑)
さて、螺旋構造のように話は尽きないのですが、この辺りでひとまず対談はおしまいにしたいと思います。この対談に登場した鏡花の作品は全て青空文庫で読むことが出来ます。お時間のある方は、ちょっとこれらの作品を繙いてみては如何でしょうか。
★この文章を書いた人→門田裕志★こんな時間に→2003年09月07日 13:39