![]() |
「ダンス音楽の時間ですが、インター・コンチネンタル・ラジオニュースから臨時ニュースが入りましたのでお知らせします。中部標準時間8時20分前、イリノイ州シカゴにあるジェニングス山天文台のファレル教授の報告によると、火星上で一定の間隔をおいて、複数のガス爆発の閃光が観測されたということです。分光器による分析では、爆発したガスは水素ということで、ひじょうな速さで地球へ向かい移動しているもようです」
1938年10月30日、夜8時に始まったラジオドラマ「宇宙戦争」は、音楽番組に臨時ニュースが次々とさしこまれていくような構成から、多くの聴取者の誤解をまねき、全米を火星人襲来のパニックにおとしいれた。
原作はH・G・ウェルズ。ラジオドラマはそれをオーソン・ウェルズがニュース報道ふうに脚色したものだ。のちにこの一件は映画会社の目にもとまり、彼は映画史に残る作品「市民ケーン」(1941)を世に送りだすことになる。
火星人の襲来など、現代の私たちから見れば幼稚でばからしい話のように思うかもしれないが、実は、火星に運河がないこと、火星の模様が植物でないことがはっきりと判明したのは、'60年代後半、米国の惑星探査機マリナーによって一連の火星の調査が行なわれるようになってからだった。
私が中学生のころ図書館で借りて読んだ、佐伯恒夫「火星とその観測」(恒星社厚生閣)は、著者の火星スケッチが数多く収録されているまじめな天体観測の本だったが、その中には、火星の表面にあらわれた巨大な十字や星印の模様、短時間見られた閃光の観測など、数々の不可解な現象がいくつも報告されていた。この本が出版されたころ(1971年)でさえ、火星はまだ神秘のベールに包まれた謎の多い惑星としてあつかわれていたところがあった。
著者の佐伯氏は、月面のクレーターに”Saheki”と名前が刻まれている、世界的にも有名な火星観測家だ。
現在、火星の地図には大きく分けて2つの種類がある。
ひとつは、惑星探査機の写真をもとにした地形図。もうひとつは、天体望遠鏡での眼視観測(スケッチ)をもとに作成した火星図だ。
火星の暗い模様には、天体望遠鏡での眼視観測をもとに、ラテン語で海(Mare),湾(Sinus),湖(Lacus)など、それぞれ地名とともに水にちなんだ地形がつけられている。
たとえば、アキダリウム海(Mare Acidallium),サバ人の湾(Sinus Sabaeus),太陽の湖(Solis Lacus)といったぐあいだ。
地球のグリニッジ天文台に相当する火星経度の原点は、子午線の湾(Sinus Meridiani)という特徴のある2本の尖った模様のあいだを利用して決められた。この模様は小望遠鏡でも見られることから、天文愛好家のあいだでは「アリュンの爪」という名前でも親しまれている。
これら現在の火星図にも見られる模様のおもなものは、イタリアの火星観測家スキャパレリが、1877年の観測をもとに命名したものだった。
彼はほかにも、細い模様に水路(Canali)という地形の名称を与えたが、これがのちに米国のアマチュア天文家ローウェルの主張によって、運河(canal)と解釈されるようになり、やがては火星人存在説にまで発展することになる。
ここでローウェルという興味深い人物について、少し説明しておくことにしよう。
パーシヴァル・ローウェルは、1855年ボストンの有名な資産家の家庭に生まれた。一族は事業家や詩人など著名な人物を輩出している名門の家系でもある。
「日本大百科全書」(小学館)でローウェルという名前をひくと、4人の人物が出てくるが、解説を読むといずれも親戚同士ということがわかる。
彼はハーバード大学で文章術(コンポジション)と数学を優秀な成績で修めると、社会見学のため1年間のヨーロッパ旅行にでかける。そして帰国すると数年のあいだ祖父の繊維事業を手伝うが、1883年、今度は外交官の資格で東アジアへむけ出発することになる。これは、米国の動物学者E・S・モースの、日本文化についての講演に影響を受けたものらしい。モースといえば、日本では東大講師のとき大森貝塚の発掘をおこなったことでも有名な学者だ。
東アジアでの生活はローウェルの性にあったらしく、朝鮮と日本での滞在はそのあと通算10年にもおよんだ。その間、彼は朝鮮や日本についての案内書や紀行文を4冊出版している。ローウェルが日本について書いた「極東の魂」は、ラフカディオ・ハーンに強い影響を与えたといわれている。
東京滞在中、少年時代からの趣味のひとつでもあった天体観測熱にふたたび火がつくと、彼は1893年に帰国。翌年アリゾナに私設天文台(ローウェル天文台)を建設し、その年の火星接近を機に火星観測へのめり込んでいく。
2年後に完成した口径61cmの屈折望遠鏡は、当時、火星観測用としては屈指の機材だったが、スキャパレリの火星観測に強い影響を受けたローウェルは、その後この望遠鏡で実在しない火星の運河を熱心に観測することになる。
1895年に出版した科学啓蒙書の「火星」で、ローウェルは火星の運河についての詳しい観測結果を報告するとともに、運河は火星の知的生物の存在を示すものではないかという仮説を提示し、天文学者のあいだで多くの議論を巻き起こすことになる。
ローウェルによれば、火星は惑星全体が運河とよばれる細いすじにおおわれており、それはオアシスと思われる黒点と交叉するなど、きわめて規則正しい模様として観察することができる。こうしたことは、なんらかの知的生物が、水のとぼしい火星で大規模なかんがいを行っていると考えれば、すべてをうまく説明することができる。
2年後、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」が早くも登場していることからも、当時、ローウェルの仮説がいかに大きな話題性を持っていたかが想像できる。
ローウェルは火星の観測をつづけながら、自身の火星研究の成果を、著作や講演などをつうじ精力的に発表することで、多くの人々の心をとらえていく。ローウェルという人物には、なにかそういった人を魅了するような才能がそなわっていたようだ。
晩年になると、彼は海王星の外側にある惑星の探索に情熱をそそぐようになる。しかし、残念ながら人生の持ち時間はそこまでだった。
1916年、ローウェルは新しい惑星を発見できないまま、そのユニークな生涯をとじた。
1930年、ローウェル天文台の若き観測家トンボーは、ふたご座に15等の動く星を発見した。それは長年ローウェルが捜し求めていた新しい惑星だった。
翌月のローウェルの誕生日、この惑星には Pluto(冥王星)という名がつけられた。新惑星のはじめの2文字は Percival Lowell の頭文字とおなじものだ。
さて、火星の運河に話を戻そう。
現在、火星には運河が存在しないことがわかっている。それならば、スキャパレリやローウェルには、いったいなぜそんなものが見えたのだろう?
実は、火星に運河など存在しないという批判は、ローウェルと同時代の天文学者らのあいだにも当時すでにあった。実際、マウンダーは、不規則な点のつらなりを遠くからながめると、運河のような直線に見えるという説をすでに発表していた。
これは小熊秀雄の「火星探検」(漫画台本)の中でも説明されているものだ。
また1909年には、フランスの優秀な観測家アントニアディが、実際に口径83cmの望遠鏡で火星の運河があるとされる場所を観測し、不規則な点のならびしか確認できなかったという報告をおこなっている。
そこまでわかっているのなら、運河が実在するかどうかなど、とうの昔に決着がついていてよい問題ではないか、そう考える人もいるかも知れない。
しかし、高い倍率で実際に惑星をのぞいてみたことのある方ならわかると思うが、望遠鏡で見る実物の惑星像というのは、陽炎をとおしてながめているように不安定にゆらゆらとゆれて見えるのがふつうだ。
この現象は、上空の大気が歪んだレンズの役割をはたし、望遠鏡で拡大した像をぼやけた状態にしてしまうためにおこる。冬の寒い夜、星がはげしくまたたくのもこれとおなじ現象だ。大気の歪んだレンズによって、星の光がたえず不規則に拡散されるために、星はまたたいて見える。
望遠鏡は高い倍率をかけた分、天体の像だけでなく、大気のゆらぎまで拡大して見せてしまう。このことは、いくら高性能な望遠鏡に高い倍率をかけて火星をながめたとしても、上空の大気の状態が安定していないかぎり、望遠鏡はその性能を発揮できないことを示している。
当時の火星観測家は、実はそんな状態でいつも観測を行っていた。
上空の大気がおだやかな日は良いが、大気が不安定なときは、望遠鏡をのぞきながら大気の状態がおちつく瞬間を待ち、手早く火星像のスケッチをおこなう。
火星の眼視観測というのはそんな微妙で根気のいる作業で、優れた火星観測家のスケッチは、ほとんど職人芸といって良いほどの精緻を極めていた。
そういったわけで、いくら大きな望遠鏡を地上で駆使したところで、大気の状態に邪魔をされるため、火星の精密な観測をおこなうことには一定の限界というものがあった。
大型の天体望遠鏡がそういった限界を超えることができるようになったのは、実はここ20年あまりのことに過ぎない。
ひとつは、ハッブル宇宙望遠鏡のように、望遠鏡本体を大気の影響を受けない宇宙に持っていってしまう方法。もうひとつは、大気のゆらぎにあわせレンズや鏡をたえずゆがめることで、大気のゆらぎの影響を補正してしまうという方法だ。これは波面補償光学装置とよばれ、日本のすばる望遠鏡にもすでに使用されている技術だ。
こうした技術の助けを借りて、天文台の新しい望遠鏡はようやく大気の影響を受けずに本来の持てる力を発揮できるようになった。
1960年代、マリナー4号(1965),6号(1969),7号(1969)が次々と火星に到達し、地球にむけ近接写真を送ってくると、火星の地表のようすは次第にあきらかにされていった。
スキャパレリやローウェルが見ていた運河は、実は、クレーターのつらなりや渓谷の姿であったらしいことがわかった。それは、まさにマウンダーの説やアントニアディの観測をうらづけるものだった。
現在、火星図からは運河という名称は消えた。しかしスキャパレリが命名した地名は、今なおその多くが残されている。おそらく、それは彼のつけた名前が美しかったために残されたのではないか、私はそんなふうに想像している。
一方、ローウェルが後半生をかけて観測した火星の姿は、現在、火星観測史の歴史的遺物としてしか存在していない。彼の火星観測は、いわばまったくの徒労だったことになる。
しかし、彼の空想からは、その後さまざまなSF小説の名作が誕生した。ウェルズの「宇宙戦争」を筆頭に、E・R・バローズ「火星のプリンセス」、R・ブラッドベリ「火星年代記」、F・ブラウン「火星人ゴーホーム」、光瀬龍「喪われた都市の記録」などなど。(吉田戦車「火星田マチ子」も加えておこう)
科学の歴史の中では、大きな誤りとして批判される火星の運河説だが、ふたりのロマンチストが描いた空想の火星図は、現代の私たちの胸の奥に今もひっそりと息づいているような気がする。
<関連リンク>
・MARS by Percival Lowell
・The Planet Mars: A History of Observation and Discovery By William Sheehan
・The Mariner Mars Missions
・補償光学でシャープな星像を[PDF]
・オーソン・ウェルズ「宇宙戦争」ラジオ放送サウンド
・火星シミュレーションソフト Mars.exe (Windows版)
<ローウェルの日本に関する著作>
「極東の魂」 The Soul of the Far East (1888)
「能登」 Noto (1891)
「未訳?」 Occult Japan (1895)
<人名>
佐伯恒夫 (1916-1996)
スキャパレリ Giovanni Virginio Schiaparelli (1835-1910)
パーシヴァル・ローウェル Percival Lowell (1855-1916)
E・S・モース Edward Sylvester Morse (1838-1925)
トンボー Clyde William Tombaugh (1906-1997)
マウンダー Edward Walter Maunder (1851-1928)
アントニアディ Eugène Michael Antoniadi (1870-1944)
答え:文学作品などの著作物は、著作権法でさまざまに保護されています。つまり、他人が創りだした作品を第三者が勝手にコピーして配布することなどは許されないのです。
しかし著作権法では、その保護期間に制限を設けています。日本では、著者が亡くなってから50年です。この保護期間が過ぎれば、誰もが自由にコピーが出来るようになります。青空文庫には、この保護期間の過ぎた作品が登録されています。
……………………………………………………………………………
著作権の保護期間が切れる年月日の計算方法(日本の場合):
著者が1950年1月1日に亡くなっても、1950年12月31日に亡くなっても、著作権が切れるのは2001年1月1日です。つまり、(亡くなった年)に51を足した年の1月1日に保護期間が切れます。
……………………………………………………………………………
その他、著作権については、社団法人著作権情報センターが詳しい情報をホームページに公開しています。→http://www.cric.or.jp/index.html
そのページの中のQ&Aコーナー→はじめての著作権講座「著作権って何?」
掲示板「みずたまり」では、青空文庫に初めて訪れた人びとの純粋な質問が毎回寄せられる。しかし、そんな質問に懇切丁寧に答えても、記事は流れ、時は流れ、また同じ質問がやって来る。これじゃ、やってもやってもキリがないので、このaozora blog内に「青空文庫Q&A」ページを作ろうと思う。
Q&Aの内容については、通常のaozora blog内にジャンル「aozora_Q&A」で記載して行きます。でもそれじゃ、他の記事の中にQ&Aが埋もれてしまうので、あとからその「aozora_Q&A」の記事だけをピックアップして新たな「青空文庫Q&A」ページを作る予定です。このように、MovableTypeのblogでは、たまっている記事をいろんな形に料理することが可能なんです。
まずは本当に単純な質問をこの上(↑)の記事で。
こんな記事をためて、それを見やすいレイアウトにまとめたら、そのページのURLを公表しようと思う。それを青空文庫本体のトップページよりリンクをしてもらえれば……。
「物語」は変わるものである。この際、著作権、著作人格権などの権利については、目をつぶってもらおう。なぜなら、「物語」の本質は「ものがたり」であり、語られるものだからである。以下は、青空文庫の活動を始めて明確に意識したことをつれづれに綴った未来の「ものがたり」の変遷への想いである。
青空文庫に収録されている作品は、入力校正の際にどうしても間違いが生じる。むしとりあみで指摘されている多くは、こういった単純なミスである。ちなみに、私が校正を担当した作品にもたくさん見逃しがあったりする。こういったミスの中にいくつか、底本の違いによって生じる違いというものがある。現在の方針では、「底本を尊重する」という原則に基づいて、修正するかしないかを決定している。また、入力、校正をしている時に、別底本を参照すると、明らかに違う表記をしていることによく出会う。このいう時も、「底本を尊重する」(原則としては)方針のもと、作業を進めている。
おそらく、流れとしては、「著者の原稿」→「出版された本」→「著者による校訂」→「編集者による校訂」という過程を経て、著者による異なる校訂のバージョン、編集者の編集方針により異なる校訂のバージョンが出現しているのではないだろうか。青空文庫の作業を始めるまでは、ここまで入念に本を読むことがなかったので、見逃していたことなのである(不注意と笑われても)。
とここで、ふと考えたことがある。物語は「ものがたり」であり、元々「かたら」れるはずのものである。文字がなかった時、印刷技術が発達していなかった時、「かたら」れた物語は、しばしば変化を続けていたはずだ。文字に固定される前の「ものがたり」の変遷は、現在ではうわさ話、都市伝説の変遷に見受けられる。さて、文字があり、印刷技術が発達すれば、人々は同じテキストを享受出来るものと考えていた、上に書いたように底本による違いが結構見られるということに気付くまでは。
紙の上に固定された本は、「かたら」れるものがたりよりは、長い寿命を保つことになったのである。しかし、それは完全ではなかった。旧仮名から新仮名への移行、ルビの取捨、などの編集作業により、同じ底本からもことなる底本が生まれてきているのである。
そこで、青空文庫の提供している電子テキストは、この「物語」の変化にどういった変化を与えるのか、考えてみたい。コピーの完全さにおいては、紙の本を上わまる電子テキストは、より長い期間、「物語」を変化させないことになるだろうか。逆に、その検索、比較が容易であることから、「物語」の変化を気付かせるきっかけにもなるだろう。現在は、紙の本をアーカイブとして収集している段階である。このデータベースが巨大化してゆくことで、どんな可能性が生まれてくるのは、それはまだわからない。未来の物語がどう変わってゆくのか、それを見ることが出来るのはもっと先の世代なのかもしれない。もしかしたら、その一端でもかいま見ることが出来れば幸せなことではないか。
「犬の威嚴」水野仙子作より
『あなたは、あなたの旦那樣の御容子をすつかりお氣に召してゐらつしやる?』と、いきなりよしのさんの言葉が私に向いて來た。
男の仲間でいふ謂はゆる好男子と、女の眼から見た好男子とは形が違ふなんてことも大分言はれてゐた。
柄もあのとほり大きいし、さういつちやなんだけれど、風采だつてさう見すぼらしいことはないと思つてゐるのよ。
それだのにたつた一つ私に滿足されないあるものがあるやうなの。それはあの人の性質でもなければ、顏でもなく、姿でもなく……さうね、それでゝやつぱり風采に關してゐることのやうなんだけれども、さうでもないやうなんだわ。なんていつたらいいでせうね、威嚴が缺けてる——いやいやさうぢやない、十分あの人には威嚴だつて備つてゐると私思つてるんだから。
まあ聞いて頂戴! それは犬なんですよ。犬の威嚴だつたのよ!
あゝ、解つてみりあばかばかしい、ほんとにばかばかしいつたらありやしない!
オレの威厳ねえ・・・

「モンテ・クリスト伯」から始まり「神曲」「白痴」「転身物語」「大地」など多くの名作をメール連載でお送りしてきたグーテンベルク21から、新たな配信の予約募集のお知らせです。
◆作品:「アンナ・カレーニナ」/トルストイ作
◆あらすじ:モスクワのオブロンスキー公爵家では、夫のステパンが女家庭教師と関係のあることを知って、妻のドリーがもういっしょに暮らせないと言い出す。ステパンはペテルプルグにいる妹のアンナに助けを求める。同じころ、ステパンの親友で田舎暮らしのレーヴィンが、ドリーの妹キティーに求婚しようとモスクワにやってくる。しかし、すげなくことわられ、レーヴィンは早々にモスクワを立ち去った。キティーには意中の人、ウロンスキー伯という美貌の青年士官があったのである。そのウロンスキーは母を迎えに出た駅で、ペテルブルグからやってきたアンナ夫人と出会う。そのとき、踏切番が列車にひき殺されるという事故が起こる。駅を出てからもアンナはその変死が忘れられず「不吉な前兆」を感じる。
アンナの到来で、オブロンスキー夫妻の仲はまるくおさまる。ペテルブルグに帰る前日の舞踏会でアンナはふたたびウロンスキーに会い、二人は楽しげに踊る。キティーはそれを悲しく見守っていた。翌日の夜汽車で、アンナはまたもやウロンスキーに出会う。彼はアンナに「ただあなたのおそばにいたいばかりに、ついて参ったのです」とささやく。アンナは激しくその言葉をさえぎるのだったが……やがてペテルブルグにもどったウロンスキーはあらゆる機会を利用してアンナに愛を訴える。アンナもいつしかウロンスキーを愛している自分に気づく。そして……二人の関係は、ペテルブルグの社交界でも噂の種となり、アンナの夫カリーニンの耳にも伝わる。だが、アンナにとっては夫の注意も耳にはいらず、家事にも集中できなかった。いっぽうでは「道ならぬ恋」という罪の意識と恐怖におののきながらも「どうなってもかまわない、私にあるのはウロンスキーだけだ」と、情熱的な逢う瀬を深めていくのだった……
◆アンナとウロンスキー、キティーとレーヴィン、この二つの愛を軸に、ロシアの貴族社会と農村の暮らし、都市と自然の双方を巧みな筆で描ききった世界文学の文句なしの代表作。「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」……この書き出しは心憎い。
◆配信スタート:9月15日。「アンナ・カレーニナ」全8章を15回に分け、毎週月曜日、定期的に予約購読者にメール添付で送ります。4ヶ月の連載です。さらに詳しくは以下で。
今年も、京都古書研究会主催の「下鴨納涼古本まつり(8/11-16)」に行ってきた。これは毎年お盆前に、下鴨神社境内の糺《ただす》の森でやっている古本市だ。京都を始め、関西の古書店が集まり、遠くは岡山や徳島から古本屋が出張してくる。遠くまで行く金のない私のような学生にとっては、ありがたいばかりの行事である。
だいたい私が古本市へ行くときはいくつか理由があって、そのひとつが青空文庫工作用の底本探しだ。みずたまりをご覧の方はご存じかもしれないが、私は翻訳文学にたいへん興味があって、数年前からそういった本を調べたり探したり買ったりしている。それゆえに、青空文庫で入力作業をするときも、選ぶのは訳者の著作権が切れた翻訳文学ばかりだ。
しかし、翻訳文学の場合、入力に至るまで色々な困難が伴う。それは底本がなかなか見つからないということだ。有名な文士の場合、新字新かなに直されたりして、たいてい今でも書店に行けば購入できたり、図書館に行けば開架に全集が置いてあったりする。だが翻訳文学の場合はそうもいかない。次々と新訳が市場に出ていくため、旧訳は時代とともに忘れ去られ、どこかに埋もれていく。だから著作権切れの翻訳なんて、普通にしていたらなかなか手に入らない。
というわけで、埋もれたものを掘り起こす作業が必要になってくる。そして一つの手段として、古本市へ行くわけだ。(ちなみに手段は他にもある。)
だが、ただ行くわけではいけない。あらかじめ求める本を知っておかなければ、市へ行っても見逃してしまう。だから私は事前に調べものをすることにしている。たとえば、このページに書かれているようなものを作る。今回は、これに加えてこんなものを用意した。やっぱり図書館というからには、こういった哲学関係の書物が欲しい。
と、前日に一人で盛り上がってこういったものを作ってから、翌日張り切って会場へ向かう。糺の森には南北に長い広場があって、そこに古書店のテントが並ぶ。ちなみに糺の森は世界文化遺産で、野鳥や昆虫、めずらしい植物の宝庫である。そんな中で古本市をやっちゃうところが、何だか京都人っぽい。閑話休題。
私が行った月曜日はそれほど天気が良いわけではなかったが、きびしい夏の暑さが私を襲う。40店ほどある店を、午前10時からおそよ6時間かけて物色した。終わる頃には疲労困憊、当然本を買って荷物も増えているので、どうしようもない。あとは、ひいひい言いながら市営のバスに乗って帰るだけだ。
今回の収穫は、下村湖人の「現代語訳論語」(完訳)と角川文庫の「論語物語」。宮原晃一郎訳、キルケゴールの「憂愁の哲理」(「あれかこれか」の抄訳)。直木三十五訳、シェンキェヴィッチ「クォ・ワ゛ディス」(これも前半だけ抄)。それ以外は自分の専攻に関する絶版文献で、意外とふるわなかった。春秋社の世界大思想全集に関しては、求めるものと違う巻ばかりが見つかるばかり。運がなかった。
しかし、今回手に入れたこれらの本は、いつか青空文庫にお目見えする日が来るかもしれない。皆様その日までお楽しみに。
こうやって、私の部屋は21歳の若者に似つかわしくなく、昭和一桁代発行の本がごろごろと転がっているのだった。
ノスタルジーに浸るんじゃなくて、初心に立ち返るということで、1997年12月17日ごろの青空文庫を。工作員マニュアルもまだ出来たばかりで、とっても初々しい。細かいところは何も規定されていないけど、その方が何となく温かみがあったりして。
今月から「水牛だより」が水牛とaozora blogのふたつのサイトで読めるようになります。水牛も3年目になり、バックナンバーがふえてきました。同時におこなっている「水牛通信」の電子化もあります。たくさんのファイルの中から読みたいものをすぐに探すことができて、さらには水牛のワクをこえていけるよう、ブログという仕組みを研究し、取り入れてみたいと思うこのごろ。その手始めのこころみです。水牛でこれを読んでいるかたはaozora blogを、aozora blogで読んでいるかたは水牛を、ぜひ訪ねてみてください。
ではいつものように今月の水牛について。
「水牛のように」を2003年8月号に更新しました。
7月31日朝に帰国した佐藤真紀さんのイラクだよりからはイラクのいまの暑さが伝わってきます。佐藤さんの視線は何にもとらわれることなく、自然なユーモアにあふれています。数え切れないほどのイラク情報ありといえども、こんなにおもしろいものは他にはないと思います。
スラチャイ・ジャンティマトンはタイのバンド、カラワンのリーダーですが、音楽だけでなく、詩や絵もかきます。芸術家というのがぴったりの彼の文章は、ふつうのタイ語とはちがって、彼独自の表現ばかりだと、翻訳者の荘司和子さんは言います。スラチャイの感じていること、イメージしたこと、思っていることを時間をかけて想像して思い描き、そしてそれに合った日本語のトーンや表現をさがす。楽しく、けっこうしあわせな作業だ、と。「こころの中の種々の煩わしさが樹の葉が落ちるようにとれたとき、人はまた新しくなる。」
「水牛の本棚」には数住岸子「音楽と旅と出会いと」を。
タイトルは新聞に連載されたときのもので、ありきたりな感じですが、なかみはありきたりではありません。1997年に45歳で亡くなったバイオリニスト数住岸子さんが録音や印刷という保存方法で残したものはとても少なく、この先一冊の本にまとめられることもなさそうなので、それならだれでも読めるようにしておこうと思ったのです。生前の彼女には実際の年齢とは関係なく、だれよりも年上という感じがありました。まるで明治か大正のころのひとのようだと思ったこともあります。いまという時に順応できずにいる感じは、不自由そうなものとしてわたしの目にうつったのですが、たぶんそれゆえの自由も持っていたにちがいないといまは思います。そんな振幅のおおきさが伝わってくる文章です。
「水牛通信電子化計画」は1986年5月号を公開しました。
当時40代、50代をむかえ、あるいはむかえつつあった編集部ではみんなでひとつのところに住まい働く、という計画が浮上していました。それが水牛倶楽部計画です。全員ふらふらとしていて、企業や組織に属しているひとがいなかったので、年金というようなものに頼ることもできず、もちろんゆたかな貯蓄を持っているひともなく、年をとったら自力相互扶助でいくしかないとでも考えたのでしょう。アイデアだけで実現しなかったのは、だれも真剣ではなかったからか、場所を探すのが困難だったからか、ま、両方ですね。
坂本龍一「教授」の初のコンサート・ツアーの報告もあります。なにやら初々しい。
それではまた!
(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)