![]() |
|
|
|
久しぶり、本当に久しぶりで立花実『ジャズへの愛着』を読む。この前読んだのは青空文庫に登録した頃だから、6年は確実にたっている勘定になる。
ところが、何度読んでも、立ち止まるのは実はいつも同じ箇所だ。
「芸術家は、どんな役割りを引受けねばならないだろうか。『私は媒介具にすぎない』(ジャン・ジュネ)という状態に身を置かねばならない。ジョンもこのジュネの言葉を強く肯定するだろう。ジョンは彼の仲間たち、すなわち、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズの音に注意深く聴き入るだけでなく、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカール、更には名もない、中国の笛吹きや、アフリカのコンゴのドラマーにも聴き耳を立てる」
これが書かれたのは1964年、「ワールド・ミュージック」などという言葉も概念もまだなかった時期のことである。「ジョン」とはジョン・コルトレーンのことだが、立花さんがコルトレーン・ジャズに聴き取ったものの深さと広がりがまさにここにある。
書籍版の『ジャズへの愛着』が世に出たのは1970年である。原稿の選定と整理・集成は年長の友人であったUの協力を得ながら私がした。「無惨だな」という思いがずっとつきまとった。立花さんが故郷仙台の広瀬川への入水自殺という、周囲にいた人間にとっては到底予測しがたい最期を迎えたということのショックが、尾を引いていたからかもしれない。しかし、いくら読んでも、「無惨だな」という思いは消えなかった。
何が、どう「無惨」なのか。私にとって立花さんは「師匠」であり、禅の老師、ヒンドゥーのグールーにも等しい存在だった。週に何度も会って、いろいろなことを教わった。私は精神と感性を全開にして、彼の言葉を聞いた。それは素晴らしい経験だった。いま振り返っても、それはこの世に生まれてきてよかったなと心から感ずることのできる出来事の1つである。
ところが、残された文章をいくら読んでも、そうした実感は得られなかった。立花さんはいまも続く雑誌『スイング・ジャーナル』の編集部にいた人である。しかし、編集部内では冷遇されていた。いや、そう言いきってしまうのは正確ではないかもしれない。が、本人の日頃の言動のはしばしからそう感じられた。
さらにいえば、残された文章のほとんどがおよそ断片的なものばかりだったことに、そのことは端的に現れている。まだ同人誌レベルだった『ジャズ批評』誌をほとんど唯一の例外として、立花さんにとっての発表の場は『スイング・ジャーナル』しかなかった。それなのに、雑誌が提供したのはせいぜいが1ページから数ページ程度の限られたスペース。論を尽くすにはあまりにも不十分であって、「無惨」の印象をぬぐうことはどうしてもできない。
しかし、そうでありつつ、私がいまもなお『ジャズへの愛着』にうたれずにいないのは、半端な形で終わった文章のそこここに「立花さんならではの眼」を感ずるからである。「ジャズ馬鹿」とでもいいたくなるようなマニアックな書き手ばかりが目立った時代に、立花さんには何よりもまず視野の広さがあった。ニューオーリンズ時代からのジャズ史への目配りがきちんとできていると同時に、現代音楽を含めたヨーロッパ音楽や民族音楽への造詣が深く、さらには同時代のフォーク・ソングやロック・ミュージックにも積極的な関心を寄せていた。
「教養の程度」などということを言いたいのではない。私は、ジョーン・バエズのコンサートの素晴らしさを氏の口から直接聞かされた。客足の絶えた夜のジャズ喫茶でボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」の世界に案内されたこともある。軸足はあくまでもジャズに置きつつ、立花さんの探求心は旺盛だった。最初に引いた一節からは、そんな氏の肉声がいまも聞こえてくる。
『ジャズへの愛着』を読んでいると、思いはいつのまにか1960年代へとさかのぼっていく。それも、書籍版に収録された文章の多くが書かれた60年代前半ではない。いまとなっては記憶はとぎれとぎれだが、よみがえってくるのは60年代後半という時代だ。
ジョン・コルトレーンの急逝が、前年の来日公演の衝撃がまだ生々しかった67年。それにもましてジャズ喫茶でつながれたわれわれには大きなショックとなった立花さんの自死が68年。振り返ってみれば、私はそのときから「糸の切れた凧」になった気がする。
60年代後半を一言でくくるとすれば、最もふさわしいのは「混沌」だろう。政治も文学も音楽も美術もいろいろな流れが錯綜し、ぶつかり合い、飛び散った。そこで生きる一人一人もまたそうだった。
死後平岡正明によって「音の形而上学」と揶揄されることになる、いささか神秘的に過ぎたかもしれない立花語のくびきから離れると、私はにわか観念左翼少年(成人式は過ぎていたが、成熟の度合いは少年のそれだった)になり、あちこちの小さな労組の闘争の支援やら大学の一室で秘密裏に開かれる集会やらに足繁く出かけた。機動隊に追われて間一髪で逃れたり、下駄履きでアジるよど号前の田宮高麿に遭遇したのはその頃である。
とりわけ記憶に鮮やかなのが、69年10月21日の国際反戦デー。その夜、私は新宿にいた。新宿は文字通りの騒乱状態だった。学生と労働者をたたきのめしにかかった機動隊に向け、多くの野次馬が路上から石つぶてを投げた。気づくと、自分もまたその一人になっていた。
興奮に目を血走らせて路上から路上へと走り回ったにわか観念左翼少年はその虚弱さがゆえに疲れ果て、やがてピットインにしけこんでジャズのライブとともに深まる夜をやり過ごすことになるのだが、そのピットインに夜遅く逃げ込んできた左翼学生たちが店のスタッフに追い返されたと聞いたのは、その翌日である。ジャズの時代は終わった。何の脈絡もなく、私は不意にそう思った。
それから34年。いまや高級趣味人たちの玩具と化したジャズの現状を見たとしたら、立花さんはどんな顔をするだろうか。いつも子供のような好奇心で輝いていたあの眼に暗い影がさすだろうか。それとも、「名詞としての」ジャズにはこだわらず、「動詞としての」ジャズを追った氏のことだ、音楽が輝く時をあくことなくさらにまた別の分野に探求しようとするだろうか。
私にはわからない。わからないけれど、かつて立花さんがコルトレーン・コンボに見た「各人が主従の関係ではなく全く平等な立場で、能力を充分出しきる」理想の関係への思いがゆらぐことはなかっただろうと思う。そうして、ときに「音楽雑感」にある次の一節を独語しながら、あくまでも未来を志向し、飄々と生きていくのではないかと思う。
「なにごとも、要するに自分の利益を先行することなしにやってゆきたいものだ。それ以外に道はない。動機がエゴイズムに発した(あらゆる)行為は、いずれにせよ害毒をしかもたらさないからだ。時間がそれを教えてくれる。誰もが誰にも依存せず誰もが誰とも共感し誰かが誰かと結びつき誰もが誰という相手こそ主体なのだと知りうるように。ボブ・ディランいわく。It's just one big world of songs.」
立花さん及びジャズへの愛着は初めて聞きました。青空文庫を読みましたが、全文を読みたくインターネットで古本を発注しました。新本は既に売られていないようです。
スイングジャーナルに気骨のあるかたがいらっしゃったとは知りませんでした。1968年では私は未だ高校生でした。盛んにスイングジャーナルを読んでいた時期でもあります。渡辺貞夫さんがアメリカから帰ってきて、ジャズを日本で流行らそうとしていた時期です。
ジャズ批評から出版されているのですね。ジャズ批評に頼むと未だ新本として在庫があるのですかね。
Posted by: 相田誠 at 2004年02月20日 13:26初めまして。私は立花実の姪にあたる者です。彼のことはつい2年ほど前に母から聞かされました。それまで彼の存在すら知りませんでした。私は現在アメリカ、ニュージャージーで金融関係の仕事をしています。祖父があの時代にコロンビア大学に留学をしており、私の叔母もアメリカで大学教授をしているのですから、家系なのですね。母からは、私の祖父がとても実氏のジャズに対しての熱意を理解していたと聞いています。彼がどのような人間でどのような生き方をしたのかはとても予想がつきませんが、親戚から聞く話からはとてもうちの母や叔母に繊細なところがとても似ていたとのことです。
Posted by: 清野 冬 at 2006年02月24日 06:26