音楽・映像配信特許
匿名P2P

2003年07月15日

 「ピアノ」から連想するいくつかの事柄

 高橋悠治『音楽の反方法論序説』は、音楽の周辺で生きてきた者、少し言い方を変えれば音楽を通して人間や社会や世界をつかまえようとしてきた者にとっては青空文庫中最重要のテキストである。しかし、3カ月おきに雑誌に連載されたものの集成であり、全体は21編ながらもその期間は5年にわたっていて、しかも青空文庫発足初期の登録作品であるから、ひょっとすると古びているかもしれないという思いがあった。それで再読してみると、そんなことはない。2003年7月の現時点でも、ここに述べられていることのほとんどは動かない。ただし、これはオマージュではない。

 この論考全体の重要な要素の1つであるコンピュータをとってみても、パソコンに象徴される市場の様相、つまりは処理速度や価格は大いに変化したが、データ処理の流れや操作は基本的にそのまま。「停滞している」というしかない。コンピュータで最重要なのは「インタフェース」だが、ここでも停滞が目立っている。最も危機的なのは、商業レベルでの競争は激しさを増す一方なのに、インタフェースを変革しようという動きが見られないことだ。
 人が何事か「論」をものするのは、自分が生きている時代と社会を変革したいという意志に基づく。「論」が運動に結ばれ、現実の変化によって乗り越えられることこそが、その目標となる。それなのに、『音楽の反方法論序説』をめぐる現実は、微動だにしていないという形容があてはまる。これは作品にとっての不幸だ。この作品が時代と社会の変化によって、さっさと陳腐化し無意味化すること。著者の願いは何よりもそこにあったはずである。

 コンピュータのことを考えると、「ピアノ」に行き着く。ピアノは楽器の歴史におけるコンピュータである。ピアノほどのダイナミックレンジをもつ楽器は、ほかにない。音域の広さもオーケストラに匹敵する。コンピュータは万能に近いシミュレーションマシンだが、ピアノもまた音楽のダイナミクスをほぼ完璧にシミュレートする。コンサートホールをたった1人で支配できるようにし、「音楽の場」にドラスティックな変化をもたらした楽器。それがピアノだ。
 半面、「融通がきかない」面を持つ楽器である点も、コンピュータに似ている。
 『音楽の反方法論序説』にも、著者がピアニストなのだから当然ではあるが、「ピアノ」という章がある。章というよりは、断章というべきか。
 そうして、いわく。
「鍵盤は何と言っても、ヨーロッパの偉大な発明だった。
オルガンがパンパイプとちがうのは、
あるいは、チェンバロがツィンバロンとちがうのは、
口や撥をたくさんの管や弦のあいだに走らせるかわりに、
指がちいさな板の上を左右に往復すればいいということだ」
 ピアノが「偉大な発明」でありえたのは、「叩けば音が出る」という操作の単純さと鍵盤の1つ1つから「正しくチューニングされた正確な音が出る」ということの組み合わせにある。音というのはそもそもが空気の波であって、とらえがたいものだし、定量化が難しくて、曖昧模糊とした存在。それを均質に配置された鍵盤システムへのアナロジーとして完成させたのが、鍵盤楽器のゴールとなったピアノなのだ。
 あいにく、こちらは歴史に不案内である。いや、歴史にもというべきか。ともかく、ベートーヴェンが愛用したというピアノを間近で見て、そのちゃちいことに驚愕したというのが、歴史的ピアノに関する精一杯の知識。しかし、ピアノが徐々に正確さを増していくのを実体験した当時の音楽家たちは、当方とは比べものにならないほど「驚愕」したに相違ない。
 何よりもピアノは「平均律そのもの」である。本質的に曖昧模糊とした音は無数の音程を獲得することができるのだが、ピアノにあっては、それらはキーとキーとのほとんど無に近い隙間におしこめられ、沈黙させられる。これほど堅固なシステムを持つ楽器もまたない。
 しかし、見方を1つ変えると、その「堅固なシステム」は「がみがみおやじのお説教」の部類に等しい不自由さでもある。事実、ピアニストも続けて書いている。
「もちろん不便さもある。
音の高さが固定され、音の途中で変えられないこと。
音の出し方が一種類に限られ、音色が均質であること。」
 コンピュータがインタフェースの貧弱さゆえに膨大な学習コストの蓄積を招いたように、ピアノもまたさまざまな学習システムを生んだ。バイエル1つ見れば、それは明らかだろう。固定されたシステムは、そこにたどり着くための数々の便法をよびこむ。例えば、便法のたらちねとしてのソナチネ。Microsoft社の面倒なインタフェースは20世紀に始まったわけではない。
 しかし、一方でキーとキーとの隙間に押し込まれた音程、ゆらぎそのものである不安定な音程は、ときに悲鳴を上げ、ヘルプ!の声を発するのだ。それが聞こえるのは、非ヨーロッパ音楽あるいは亜ヨーロッパ音楽になじんだ人たちである。
 1つの光景が思い浮かぶ。自分で企画したくせに記憶はすでにおぼろだが、1960年代後半に東京・神田神保町の岩波ホールで開かれた「ジャズ音楽講座」。その最終日、ジャズ・ピアニストの山下洋輔がその少し前までの闘病中にものした「ブルーノート研究」の報告をした。あとにライブが予定されていて、かたわらにはピアノがあった。報告の末尾近くで彼は言った。「典型的なヨーロッパ音楽の楽器であるピアノでは、ブルーノートを含むブルースフレーズを弾くことはできない。だから、歴代のジャズ・ピアニストたちは鍵盤から鍵盤へ指を滑らせるなど、ブルーノートに聞こえる工夫をしてきたのだ」
 最後に、彼は突然にピアノを指さし、決定的な一言を放った。
「このがさつな楽器め!」

★この文章を書いた人→浜野智★こんな時間に→2003年07月15日 22:36




 トラックバック
トラックバック用URL: